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孤立する自由 みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない

『15分間哲学教室』より 孤立する自由

 高潔に生きるための二つのアプローチ

  いつの時代にも、高潔な生活を送るうと努力する人たちがいる。そのためのアプローチは、大ざっぱに分けて二つある。
  一つは、他者に奉仕することに自分の人生を捧げること。または他者と正直に向きあって生きること。
  もう一つは、日々の暮らしに流されることなく、瞑想や祈りを通して悟りや心の平安を求めることである。
  四軒の家とヨットを所有して、高潔に生きた哲学者などいない。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(「マタイによる福音書」一九章二三節)わけだから。

 無私無欲という身勝手

  古代ギリシアのディオゲネスは、浮世離れした暮らしを極限レベルで実行した哲学者だ。彼は究極の苦行者だった。
  市場の大きな甕のなかに家をつくり、生活に必要な最低限のものだけを所有した。敷物を一枚か二枚、飲み物を入れる器を一つ。一説によると、最初は器を一つもっていたが、あるとき両手で水をすくって飲んでいる少年を見かけ、器も贅沢品だと気づき、地面にたたきつけて割ってしまったらしい。
  彼はまったくお金を稼がなかった。それは、彼が軽蔑する物質主義を受け入れることになるからだ。食べ物については、人からもらうか、自分で見つけたものですましていた。
  ディオゲネスは、幸福への道は「自然に従うこと」だと教えた。衣食住すべてにおいて必要最低限で暮らし、何も所有せず、何にも愛着をもたず、人とのつながりも避ける、ということだ。彼は自分の信奉者たちに、あえて人から軽蔑されたり、あざけられたりするような行為をさせた。孤独に耐える練習だ。
  修行僧や隠者の場合と同じく、ディオゲネスがそうして生きていけたのは、他人の寛大さのおかげである。しかし修行僧とは違って、彼の禁欲生活は共同体を利するような、広く認められた精神修行ではない。彼はたんに自分が至高の境地に至りたかっただけだ。
  ディオゲネス本人はそれでよかったとしても、ちょっと不公平ではないだろうか。彼が俗世を超越して真理を手にできるのは、必要に応じて彼に食べ物などを提供する人がいるおかげだった。
  もし誰もが働くのをやめ、自分の財産を投げ捨て、自分が暮らすための甕を探しはじめたとしたらどうだろう。社会の発展は止まり、食べ物も甕もなくなってしまうだろう。

 苦行者を許さないカント

  カントは、ディオゲネスのような生活を決して認めない。カントの定言命法は、私たちが従ういかなるルールも、すべての人に適用できるものでなければならないと述べている。
  もしすべての人が打ち捨てられた甕のなかで生きることを選び、社会に背を向け、生産的な労働をまったくしなければ、社会はたちまち崩壊してしまう。それは肯定できる生き方ではない、ということだ。
  とはいえ、そういう問題が現在進行形で起こっているわけではない。市場で生活場所にするための甕を探しまわっている人を目にすることはない。全財産を慈善団体に寄付し、あらゆる社会的なきずなを断ち切る人もいない。結局、ほとんどの人はディオゲネスのような生活を送りたいとは思わないのだ。いまや物乞いをして生きる苦行者のための居場所はないということだろうか。
  おそらく、それは時代状況による。中世ヨーロッパでは、托鉢をする修道士が大勢いたし、修道士はほどこしを受けるかわりに、それを提供してくれた世俗の人たちのために祈りを捧げた。彼らが食べ物やその他の必需品と交換した祈りは、当時の人々にとってありかたいものだった。
  世俗の人々は、自発的に托鉢に応じていた。自分の慈善行為は気高く、その行為と引き換えにいくらかの赦しが得られることを期待していたのもたしかだ。
  ある意味で、苦行者は社会に奉仕していたとも考えられる。善行をほどこす機会を人々に提供し、寄付する人たちに精神的な満足を与えていたのだ。
  ディオゲネスのような哲学者でさえ、自分が軽蔑している社会と一種の取引をしていたと考えられる。食べ物などと引き換えに、自分の知見を披露していたのだから。
  こうしたシステムがうまく機能するためには、苦行者たちが提供する精神的・知的な恩恵を求める人が一定の数いて、「甕のなかで暮らしたいと望む人」が多すぎないことが条件になる。

 みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない

  カントの定言命法は、一般的にはディオゲネス的なものとは別種の「利己的ライフスタイル」を批判する際にもちだされることが多い。
  つまり、もしすべての人が億万長者のように生活すれば、社会はうまくいかなくなるということだ。実際につい最近、私たちはその実例を目にした。二〇〇八年の金融危機で明らかになったのは、あまりに多くの人が「億万長者のように」暮らしていたということだ。つまり、自分の収入や現在の生産性ではとてもまかなえないような生活である。
  私たちの社会制度は、多数の人が「正しいこと」をする前提で成り立っている。社会保障の給付は多数の人が掛け金を払い、本当に必要とする人だけが給付を受けとるかぎりにおいてきちんと機能する。国のワクチン接種プログラムは、集団免疫をつくりだすことで危険な病気が蔓延するのを制御する。
  社会には少数の人が「公共善」に背を向けるだけの余地はある。その数が少ないかぎりは、社会は健全に保たれる。しかし、社会に背を向けて生きる権利が万人に与えられるわけはない。
  登塔者シメオンやディオゲネスは国の配給に頼って生きていたわけではない。

 人々が自発的に彼らにほどこしを与えたのだ。

  カントの考えは部分的には正しいが、おそらく彼は多くを求めすぎている。誰もが消防士になることを望んでも、社会はうまく機能しないのだ。
  社会が機能するのは、人々が欲するものが多様だからだ。他人に依存して生きるという選択もあれば、彼らを支える側にまわるという選択もある。大切なのはバランスをとることだ。極端に寄りすぎれば災難を招く。
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21世紀の企業像

『企業論』より 「社会的器官」としての企業 ・21世紀の企業像を求めて

 企業市民 企業と地域社会

  企業市民という考え方の登場

   1980年代あたりからであろうか、アメリカにおいて「企業市民」(corporate citizenship)という考え方が急速にクローズアップされ、企業にも個人と同様に、市民としての意識・活動が要求されるようになってきており、日本でもよく聞く言葉となってきている。そこには次のような背景がある。
   (1)企業活動の規模が大きくなり、企業の社会に与える影響が大きくなった。
   (2)教育・福祉・文化などのさまざまな領域で、政府の活動だけでは不十分になっている。
   (3)伝統的に市民・住民の手により、コミュニティ・地域社会をっくりだし、守ってきた。
   これまでは「よい質の製品・サービスを安く消費者に提供し、労働者によい職場を提供し、政府に税金を納める」企業がよい企業だったが、それ以外に、そして、それ以上に広範囲のさまざまな社会的貢献も要求されるようになってきた。それが、「企業もよき市民でなければならない」という企業市民の考え方である。

  企業の社会的貢献活動

   現在、アメリカの多くのコミュニティは、犯罪の増加、麻薬・アルコールの乱用、教育の荒廃、失業、貧困など実に多くの問題を抱えている。
   これらの社会的問題の解決や、上述した芸術・文化などへの積極的な社会的貢献を行うことは、単なる慈善にとどまるのではない。企業が行うのには十分な理由が存在している。
   企業が社会的貢献活動を行う理由は、企業規模の巨大化による社会的影響力の増大による「株主(shaxeholder)から利害関係者(ステークホルダー:stakeholder)へ」という流れや、企業市民という思想、すなわち、義務的・規範的理由によることは確かであろう。だが、それ以外にも以下のような「啓発された(もしくは見識ある)自己利益」(enlightened self-interest)という経済的・功利的な考え方も存在するのである。
   (1)寄付などの社会的貢献活動は、それ自体としては直接的には企業に利益をもたらさないだろう。しかし、労働者の意識・誇り等の上昇・低下防止などが企業にとって大きなメリットになる。このことに代表されるように、社会的貢献活動は、長期的に社会をよくすることにより、最終的には企業のメリットとなるだろう。
   (2)環境問題に配慮し、取り組んでいる企業や、社会的貢献活動を行っている企業は、雑誌・レポートなどのメディアにより、消費者にその社名と評価が知らされる。その評価により購買活動をする消費者も多い。
   (3)「よい会社」であるという評価・評判は、従業員のモラールアップをもたらしたり、優れた人材を招き寄せたりする。
   (4)環境保護団体などで組織された環境保全グループが、環境保全のための行動原則=セリーズ原則を打ち出しているように社会的貢献活動を積極的に行っている企業は、社会性を重視する投資家・投資顧問会社に投資先として好感をもたれる。

 個人・社会・自然と調和した企業 21世紀の企業像

  組織=大企業の時代

   企業が大規模化し、個人的存在であったものから組織となった20世紀、企業の盛衰が社会の運命を決めるに至った。 20世紀前半に起こった2つの世界大戦において、その国の生産力・工業力と軍隊システムの優劣により勝敗が決定したのは、そのよき証左である。かっては、気候・災害・疫病など、自然が人々の生活に決定的影響を与えていた。人間の生きる環境は自然であったが、企業は市場という環境に適応することにより生存するものである。そして、人間はこの企業を通じて自然環境の影響から逃れ、また、自分の都合に合わせて自然を改変するようになった。
   企業が小規模で個人の所有物であったときは、市場の動向か直ちに企業に影響し、その行動・存続を左右した。企業の大規模化は、この市場の影響を可能なかぎり吸収し、市場の盛衰が企業の盛衰とはならないようにする環境適応の過程であった。そしてついには、企業は市場の変化を先取りするどころか、市場自体をつくりだす力をもつに至ったのである。顧客の創造とはまさにこのことを意味している。人間は市場に生きる企業によって自然環境からの脱却をはかり、そして、企業はその市場という環境を自らつくりだすことにより、いかなる環境にも左右されず永遠の命を獲得することをめざした。日本企業はその「家」という性格により、目的を企業の維持・発展におき、その観点からあらゆるシステムを構築し、他の国の企業との競争に次々と打ち勝ってきた。

  現代企業の構造的問題

   だが、21世紀を迎えた今日、企業の環境適応から生まれた顧客の創造=環境創造は、その成功のゆえに予想もしなかった事態を引き起こすに至った。企業は市場の外から資源・エネルギーを取り込み、生産過程から生じた廃熱・廃水・排ガスや廃棄物を市場の外に排出する。その量はエネルギー資源をわずか数百年で食いつぶし、また、二酸化炭素、フロンガス、ダイオキシン、そして、産業廃棄物により自然環境を破壊するほどになった。このような事態を引き起こしたのは、次のような構造にほかならない。
   (1)企業は環境に適応しようとするが、その最も合理的な方法は、自らに都合のよい環境を創造することである。その環境とは市場である。
   (2)企業が生き残るためには、市場における競争に勝ち残らなければならない。そのためには、次々に消費者に商品を買わせていくことが必要である。ここにマーケティングとイノペーションによる無限の市場創造が要請される。消費者(人間)が必要なものだけを購入するなら、そのうちに市場は飽和化し、企業は存続できなくなる。次々に欲しいと思わせるものをつくりだしてこそ、企業の存続・発展が可能となる。
   (3)市場で交換されるのは商品であり、欲しい人がいるから価値があるとされ,“goods”(商品)と呼ばれる。誰も欲しくないもの、すなわち、価値のないものは市場の外に捨てられる。廃水・廃熱・排ガスなどの廃棄物がそうである。また、価値があったとしても、企業にとって利益をもたらさないのであれば廃棄される。新商品が出たときの旧モデルのスクラップ化などがこれに該当する。
   市場と組織は優れたシステムである。「豊かさ=財・サービスの提供」という観点からは、実に合理的システムといわざるをえない。だが、優れていればいるほど、合理的であればあるほど、引き起こす随伴的結果もまた実に大きなものとなってしまう。

  転倒する企業と社会

   環境破壊の問題はすでに述べたので繰り返さないが、地域社会の問題もまた無視しえない重大な問題である。ドラッカー(p.F. Drucker)のいうとおり、現代企業は人々に地位・収入・機能を与える。日本企業ではとくにその傾向が強い。しかし、収入は別として、人々が企業によってのみ地位と機能を得られるとしたら、企業以外に生きる多くの人々はどうなるのだろうか。たとえば、会社を辞め、家庭で育児・家事に専念するようになった女性や、定年退職したサラリーマンの毎日はどんな意味をもつのだろうか。あるいは、勤めているところが大企業か中小企業かで、さらに会社のポストだけで人々の社会的地位が決定する社会ははたして健全といえるだろうか。
   また、マーケティングとイノベーションが企業の維持・発展のための主要手段であってよいのだろうか。いかなる社会をっくっていくのかというビジョンがまずあって、それに必要なものが生み出されるのではなく、企業の維持・発展のために携帯電話などの情報機器や食品添加物などが生み出され、われわれの生活を変えていく。その商品をっくりだす人々は、本当にその商品が欲しくてつくりだしたわけではあるまい。新しい技術が可能となったから、それを使って商品を生み出せないかと知恵を絞り、っくりだした商品を欲しいと思わせるようにマーケティング技法を駆使する。ここでは企業と社会、企業と人間が転倒しているといわざるをえない。

  21世紀の企業像

   企業は市場で生まれた。その市場は、個々の人間が利己的に振る舞っても神の「みえざる手」で調和が保たれるものとされてきた。地域社会や自然環境を考慮に入れないかぎり、その考えは正しかったかもしれない。
   20世紀になると、企業は資本や技術を次々に取り込み、大企業へと成長した。個人のものであった時代の企業は、つぶれやすかったかもしれないが、その影響もまた、たかが知れていた。だが、大企業となり、個人の限界・制約を克服することにより、その性格を財産から組織へと変えた企業は、未曾有の繁栄をわれわれにもたらした。それゆえに社会主義体制の限界・欠陥をも明らかにし、崩壊させることになった。祖父母の代では夢にも考えられなかった生活をわれわれに提供してくれるこの現代大企業は、意図しなかったにせよ、同時に、われわれの生活・生命をも脅かす結果をもたらしたのも事実である。
   では、21世紀の企業像はどうなるだろうか、あるいは、どうあるべきであろうか。ここまで本書で検討してきたことからまとめてみると、以下のようにいえるだろう。
   (1)個人のレペルを大きく超えない。大人数、大規模は必ずしも望ましいものではない。
   (2)地域を手段とするのではなく、地域・社会の一員として活動する。
   (3)自然環境と共存する。
   すなわち、21世紀の企業は、市場と地域社会の両者の上に立つことにより、機能性を残しつつ、社会から要請される役割を果たし、かつ、自然環境と共存を可能にすることが求められているのである。
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問題の根本は、インターネットの構造にある

『子どもがネットに壊される』より サイバーフロンティアで待つものは

 問題の根本は、インターネットの構造にある

  問題の根本は、インターネットの構造にあると私は考えている。インターネットはウイルスのように広がり、現在のような姿になったのは意図されたことではない。EUはそれを、鉄道や高速道路と同じインフラと見なしている。ただ、インターネットは多くの側面を持つものの、単なるインフラではない。
  このことを説明するのに私がよく使う2つのたとえがある。1つは、「インターネットは牛道(家畜か歩いた道)が広がって、馬車が走る村道になり、やがてクルマが走る車道になって、さらに拡張されて高速道路になったようなもの」だ。最初は小さかったものが、次第に大きくなったというわけである。そうしたもののご多分に漏れず、私たちが無理に拡張したインターネットは複雑なアーキテクチャになってしまい、現在の目的に最適なものとはなっていない。
  ジョン・スラーはこう言っている。「インターネットはこれまでも、そしておそらくこれからも、多くの人にとって無法の地であり続けるだろう。つまり保安官のバッジが、射撃の練習の的になるような場所というわけだ。このことは、インターネットの本質的な設計に関係していると私は考えている」
  また、サイバーリバタリアン主義者のジョン・ペリー・バーロウは、こんなふうに表現している。「インターネットは検閲を異常なものとして扱い、それを迂回している」
  私はインターネットの自由に賛成しているが、いかなる犠牲を払ってでもそれを守るべきだとは考えていない。私たちは、自分をより良い親、より良い教師、より良い思想家にしてくれる機械を要求しているわけではないのだ。
  19世紀の医師で社会運動家だったハヴロックーエリスは、こんなことを言っている。「現代文明に突きつけられた最大の課題は、機械を人間の主人にするのではなく、それがあるべき姿、つまり人間の奴隷にすることである」
  もし、より多くの女性がその設計に関わり、シェリー・タークルの研究成果を考慮していたら、どれほどインターネットが今日とは違った姿になっていただろうか、と考えずにはいられない。20世紀初頭、多くの婦人参政権論者が闘いを繰り広げ、女性の権利を勝ち取った。それからおよそ100年後、アイコンタクトを取るのが苦手な男性たちによって設計され、占拠されている空間に、人々は移住しようとしているのである。
  私たちの人間性は最も貴重で、最も壊れやすい資産だ。テクノロジーの変化によってそれがどのような影響を受けるのかについて、私たちは+分注意しなければならない。自分たちが使う機器や、そのメーカーや開発者に対して、十分な要求を出しているだろうか?
  人間であるとは、どういうことか。それを私たちが理解すればするほど、何を要求すべきなのかが明らかになる。赤ちゃんに対する注意を奪うことのないスマートフォンや、数千人ものアジアの若者たちの人生を壊すほどの中毒性を持だないゲーム、そして性犯罪者たちが優位に立つようなことのないサイバー空間を要求できるようになるだろう。
  私たちは社会的なコントロールの一部を取り戻し、サイバー組織犯罪者たちが私たちを「被害の偏在」状態に置くことを困難にできるだろう(実はたったいま、私はこの文章を書きながら、自分自身のサイバー詐欺事件に対処している。私のクレジットカード番号が、カリフォルニアの家電小売店ベストバィで、昨夜の午前3時に使用されていたのである。
  私たちを脆弱な状態にし、リスクに直面させるようなサイバー空間を許しておく理由はない。
  私たちが何の声も上げなければ、テクノロジー・コミュニティの判断にすべてを委ねることになるだろう。そこにいるデザイナーや開発者、プログラマー、起業家は、優秀で驚くほどの才能があり、請求書の払い方、ゲームの遊び方、ディナー・の予約の仕方、友人のつくり方、調査の仕方、デートの仕方などについて、新しい方法を生み出している。彼らがこれまで成し遂げた業績は、素晴らしいものだ。しかし私たちは、より多くを求めることができる。
  単なる利便性や、娯楽性を実現するだけでは十分ではない。
  インターネットや端末の設計者たちが作る製品はたしかに魅力的だが、人間の最善の部分を常に引き出すことができる製品を作るのに十分なほど、彼らは人間心理を理解しているわけではない。
  私はこれを、「テクノ行動効果」と呼んでいる。開発者と彼らが開発する製品は、私たちの脆弱性と衝動に関係する。彼らは私たちの強さではなく、弱さのほうに目を向ける。彼らは私たちに無敵になったような感覚を与えつつ、実際には私たちの力を弱めることができる。そして人生において重要なものや、幸福感の根幹となるもの、生きていくために不可欠なものから、私たちの注意をそらしてしまうことができる。では、社会についてはどうだろうか? 私たちは立ち止まって、社会的な影響(私はそれを「テクノ社会効果」と呼んでる)をきちんと考えてきただろうか?

 規制なく、テクノロジーで問題を解決できるか?

  インターネットの構造を示すために私が使っている2つ目のたとえは、「渓流」である。水は低いほうへ低いほうへと、少しずつ流れていく。そして長い時間をかけて、その流れは曲がりくねった水路や渓谷を生み出す。小さな流れだったものが、次第に大きくなり、うねるような流れになるのだ。
  私がこのたとえをあるカンファレンスで披露したら、国際的なサイバーセキュリティ専門家のブライアン・ホーナンから、「流れというたとえは美しすぎだ! インターネットは沼というほうが近い!」と言われてしまった。
  インターネットの構造が根本的な問題であるのなら、私たちは幅広い人々を集めた大きなチームを作り、それをどう再設計するのが最も望ましいかについて議論すべきだ。インターネットを「ユーザーに優しい」というより、「人間に優しい」ものにしてはどうだろうか。それによって、いま抱えている多くの問題に取り組むことができるだろう。
  規制すべきか、すべきでないか、それが問題だ。おそらく現実の世界は、規制によって安全な状態が保たれているのだろう。英国ではそれを、「過保護国家」などと呼んで揶揄している。私たちは過度に保護され、どんな場所でも安全を感じているというわけだ。歩道の縁石からパズルのピースの大きさ、あらゆる道の制限速度、水の容器に使われるプラスチックの厚さに至るまで、あらゆるものが規制されている。
  そしておそらく、サイバー空間が手に触れられる危険の伴う物理的な空間ではないという事実が、さらなる安全の幻想を生んでいるのだろう。私たちは快適な自宅やオフィスから、クルマや通勤中の電車の中から、つまり慎重に規制された場所からサイバー空間にアクセスする。しかしサイバー空間には数えきれないほどのリスクが潜んでいる。政府がギャンブルやドラッダ、ポルノ、さらには豊胸手術に対して課しているような基本的な規制ですら、そこには存在しない。
  本書ではいくつもの安全に対する懸念やリスクについて解説してきたが、私が特に注力しているのが、若者たちを守ることだ。彼らは私たちの未来であり、人間とは何かを示す存在になる。プールですら、子ども用の浅い部分が用意してある。インターネットでそれに当たる部分は、どこにあるのだろうか?
  近い将来、たとえば次の10年を考えた場合、私たちの前には多くのチャンスが待っている。人間の本質や行動について学べる、素晴らしい啓蒙の時代になるかもしれない。最も洗練された形で人間と共生するだけでなく、人々がより良い世界を生み出すのを助けてくれるようなテクノロジーをデザインするための、最良の方法がどのようなものかを見出せる可能性もあるだろう。もしそうしたバランスを実現できれば、サイバー空間はユートピアをもたらしてくれるはずだ。
  希望は、テクノロジーが大きく進化している部分にある。特に期待が持てるのは、テクノロジーが悪化させてしまっている問題に対して、テクノロジー自体がスマートな解決策を実現している点だ。この10年間で、資金調達の分野で多くの革新的な方法が生まれたが、なかでも目を見張るのがクラウドファンディングである。デジタル利他主義は素晴らしいものであり、私が期待しているもののサンプルとも言える存在だ。
  「クラウドファンディング・インダストリー・レポート」によれば、全世界で100万件を超える資金調達がクラウドファンディングを通じて行われ、合計で数十億ドルが集まったそうである。オンラインの匿名性は多くのサイバー効果を生み出す原動力となっているが、その中にはオンライン上での寄付といった良い効果も含まれている。私たちはまだ、その一端を垣間見ているにすぎない。
  私たちを社会から切り離したり、中毒にさせたりするようなゲームではなく、バーチャルリアリティ(VR)の将来を考えると、それを何らかの問題を抱えた子どもたちを支援したり、法執行機関や軍隊の最前線で活動する人々をトレーニンダしたり、あるいは彼らのPTSDを治療したりするために使うことも可能だろう。
  私の同僚で、アーティストでありVRに関する新しいアイデアを考案しているジャッキー・フオード・モリーは、NASAのために研究プロジェクトを実施しているのだが、その中で宇宙旅行の単調さや孤立感に対抗するための環境の構築を手掛けている。これは、NASAが2030年代の実現を目指している、火星への有人飛行計画のために行われているもので、宇宙空間での旅は6~18ヵ月にも及ぶと考えられている。
  一見すると関係のないような分野における進歩が、問題の解決策をもたらす可能性に、私は魅了されてきた。たとえば、NASAに蓄積されている過去50年間の宇宙探査の経験が、サイバー空間の文脈でも役に立つのではないだろうか? 人間の宇宙空間における行動と、サイバー空間における行動の類似点は何だろうか? これは非常に理論的な話に聞こえるかもしれないが、2015年に私は、NASAの12代目長官であるチャールズ・フランク・ボールデン・ジュニアに対してプレゼンテーションを行い、このアイデアを彼と共有した。
  テクノロジーが持つ可能性は無限大だ。私たちがすべきことは、適切な場所で、適切なソリューションを探すことだけなのである。
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みんなは一人のために。でも、一人はみんなのためではない

「みんなは一人のために。でも、一人はみんなのためではない」

 これは数学者を目指した時の私の感覚。これが正しいあり方。

 多様であることが重要。平等を求めた。マルクスに欠けていたのはこの部分。

『子どもがネットに壊される』

 インターネットの構造はトポロジーそのもの。ハイアラキーの元では不可能な構造をしている。トポロジーから作られたモノです。次元の呪いを超えることができた。

 インターネットの次のためには、トポロジーを超える新しい数学が必要となる。リーマン幾何学から量子力学が生まれたように、数学は世界に先行する。

『企業論』

 売ることから使うことに市場が変化することで、企業が主役でなくなるのは確実です。企業の目的は支援になる。インフラに只乗りすることで社会のエンジンであり続ける。

 企業の変革は、インフラそのものを変える時に訪れる。インフラそのものを支えるものになる。

『15分間哲学教室』

 孤立する自由で「みんなは一人のために、でも一人はみんなのためではない」が出てきた。みんなとか全体はあるものではなく、一人から合意で作られるモノ。

 政治形態は合意形成から作られていく。全てがあって、多数決は否定される。多層な中間の存在が社会を決めていく。
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強敵サン・マイクロシステムズ

『スティーブ・ジョブズⅣ』より 強敵サン・マイクロシステムズ

 スコット・マクニーリ

  スコット・マクニーリは、一九五四年一一月一三日、インディアナ州コロンバスに生まれた。姓のマクニーリ(McNcaly)からすぐ分かるように、血気盛んなアイルランド系の人である。
  父親のウィリアム・W・マクニーリ・ジュニアは、一九二七年シカゴに生まれた。マサチューセッツ州グロットンのグロットン校を卒業後、ハーバード大学に入学した。卒業後、ハーバード・ビジネス・スクールで経営学修士(MBA)を取得した。スコット・マクニーリが生まれた頃は、アメリカン・モーターズ社の経営幹部で、やがて副社長となった。その後、父親は会社の内紛で追い出された後、アメリカン・マシン・アンド・フォンドリー社の最高執行責任者COOになった。二〇一四年五月一九日に亡くなっている。ゴルフ好きだった。
  スコット・マクニーリの母親は、ウィスコンシン州生まれのマーマリー・ノフケである。人口統計の記載から見て一九二八年生まれと思われる。夫がアメリカン・モーターズ社辞職後4年で離婚している。
  スコット・マクニーリは、この母親が好きで、ポルトラ・バレー市ブルーオークス・コート6番地の家に引き取って、よく面倒を見た。スタンフォード大学の裏の閑静な住宅地である。スコット・マクニーリは、母親ときわめて仲が良く、そのためかどうか結婚は遅く、一九九四年になってからである。
  スコット・マクニーリの一家は、父親の仕事の関係からミシガン州ブルームフィールド・ヒルズに落ち着くまで、しばしば引っ越しをした。その関係でスコット・マクニーリには長続きする友人は、あまりできなかったようだ。尊敬する人や恩師というような存在もあまりできなかった。どちらかと言えば、あまり目立たず、人付き合いの良くない孤独な性格であったと言われている。スポーツでは、アイス・ホッケー、ゴルフ、テニスが好きだったようだが、面白い事に野球は嫌いだった。
  スコット・マクニーリは、グラマー・スクールからカントリー・デイースクールに進んだ。後にマイクロソフトに入るスティーブ・バルマーも同じカントリー・デイースクールの3年下にいた。スコット・マクニーリは、大学進学のため名門のクランブルック・アカデミーに入学した。
  スコット・マクニーリは、勉強はあまり熱心ではなかったようだが、大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点をとって周囲を驚かせた。これもスティーブ・バルマーと同じで面白い一致だ。
  スティーブ・バルマーが、おんぼろのビュイックに乗っていたのに対し、スコット・マクニーリは、父から与えられた高価な装備が施されたスポーツタイプのグレムリンXの新車に乗っていた。ただし以後も輸入車には乗らず、米国車に乗っていた。
  スコット・マクニーリは、フォード社の社長リー・アイアコッカやGMの会長ロジャー・スミスとビジネス戦略について話をしたというが、これは少し信じがたい話の様な気がする。むしろ父親と共にリー・アイアコッカとゴルフをしたというのが本当だろう。
  スコット・マクニーリは、眼科医を志してハーバード大学医学部に入学するが、ウィリアム・ラダチェル教授の影響を受けて経済学部に移り、一九七六年に経済学士号を取得する。学位論文は『米国のトランジットバス製造業における競争とパフォーマンス』であった。
  スコット・マクニーリは、ハーバード大学卒業後、ロックウェル・インターナショナルに入社し、イリノイ州、オハイオ州、ミシガン州などの自動車工場の現場主任として2年間勤務した。自動車の道を選んだのは父親の影響もあったかもしれない。UAW(全米自動車労働組合)の影響力の強い工場で、組合と対決したりした。
  その後一九七八年にスタンフォード大学経営大学院に入学する。2度落ちた様だが、フォード社長のドナルド・ピーターソンの推薦をもらって入学したという。大学時代は遊び好きで学業にあまり打ち込まず、成績があまりかんばしくなかったからだろう。スコット・マクニーリは、一九八〇年に経営学修士(MBA)を取得する。
  スコット・マクニーリは、恋人を追ってフード・マシナリー・アンド・ケミカル・コーポレーション(FMC)社に入社した。FMCは食品、化学、機械の各分野に渡る多角的総合企業である。FMCは、装甲兵員輸送車M113や装甲歩兵戦闘車M2ブラッドリーも作っており、スコット・マクニーリは、FMCのサンタクララの工場で、それらの製造指揮に携わった。
  続いてスコット・マクニーリは、一九八一年にはサンノゼのUNIXを搭載した小型コンピュータ製造会社のオニックス・システムズ社で製造管理者の職を得る。ウィリアム・ラダチェル教授の引きであったという。こうしてスコット・マクニーリは製造管理の経験を豊富に積んだ。ただ意外な事に本人の語るところによれば、この頃のスコット・マクニーリは、コンピュータのハードウェアやOSについての知識は皆無であったと言う。
  吝嗇で有名なビノッド・コースラは、スコット・マクニーリに会い、近くのマクドナルドに連れて行った。人材のスカウトにマクドナルドを使うとは、いかにも吝嗇だが、これがビノッド・コースラの長所でもあり、短所でもあった。幸いスコット・マクニーリはハンバーグ好きで、新会社に参加することになった。
  3人はサン・マイクロシステムズを設立した。当初の社名はサン・ワークステーションだったという。
  3人は3か月でワークステーションSUN-1を開発したが、OSとしてのUNIXには完全に満足していなかった。そこで3人はカリフォルニア州立大学バークレー校(UCバークレー)に行き、ビル・ジョイを口説いた。ビル・ジョイはすぐに参加した。

 ビル・ジョイ

  ウィリアム・ネルソン・ジョイ(以下ビル・ジョイ)は、一九五四年一一月八日にデトロイトに生まれた。
  ビル・ジョイの両親は、デトロイトにあるウェイン州立大学で出会い、2人ともデトロイトで教師となった。
  ビル・ジョイは早熟な子供で、3歳の時から本を読み始めたので、父親は小学校に連れて行った。人より早く学校に入り、飛び級をした。いつも本を読み、たくさんの質問をする子供だった。
  デトロイトの環境が悪化すると、一家はデトロイト郊外のファーミントン・ヒルズに移った。
  両親が教師であったので、家庭は知的な環境で、TVの視聴は厳しく制限されていた。ビル・ジョイが初めてTVを見だのは、一九六三年一一月にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された時であるから、9歳になるまではTVを視聴していなかったようだ。毎週木曜の夜は両親がボーリングに行くので、子供達は留守番となり、TVでジーン・ロッデンベリーの『スター・トレック』を夢中になって見た。読書ではSF(サイエンティフィック・フィクション)に傾倒し、ロバート・ハインラインやアイザック・アシモフに魅了された。よく母親がSFに文句をつけなかったものだ。もっともビル・ジョイは、SFに刺激されて望遠鏡で宇宙の星を見たいと思ったが、買うお金も作るお金もなく、図書館で望遠鏡の製作法を調べただけで終わった。だから母親もSFまで読むなとは言えなかったのだろう。
  またビル・ジョイは、少年時代、アマチュア無線をやりたいと思ったらしい。ただアマチュア無線の機器を買うお金も自作するお金もなかった。それに当時のアマチュア無線は現在のインターネットのようなものだったから引きこもりになりやすいし、それでなくとも非社交的なのだからと母親に反対されて潰されてしまった。スポーツはと言えば、アイス・ホッケーや野球に夢中になっていた。
  ビル・ジョイは、高校時代は数学が得意であり、文学や歴史書もよく読んだ。大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点を取った。
  ビル・ジョイは、一九七一年に17歳でミシガン州立大学電気工学科に入学し、一九七五年に卒業した。数学の科目をたくさん取っていたようだ。インド人の有名な天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンやポール・エルディッシュの講義も取ったようだ。
  ミシガン州立大学では最初DECのVAXに触った。文化人類学科のためにデータベースを作るアルバイトもしたようだ。またクレイ1やCDCスターのようなスーパー・コンピュータにも触った。教授の手伝いをして有限要素法で機械システムのシミュレーションもおこなったという。
  一九七五年、ビル・ジョイはミシガンを離れて西海岸のUCバークレーの電気工学およびコンピュータ・サイエンス学科の修士課程に入学し、一九七五年に修士課程を修了した。

 サン・マイクロシステムズの躍進

  こうして一九八二年に設立され、UNIXのBSD版の主開発者であるビル・ジョイを副社長に抱えたサン・マイクロシステムズは、UNIX用ワークステーションの市場でシェアを伸ばし続け、一九八〇年代中期には最大のシェアを獲得するに至る。
  ビル・ジョイは、UCバークレー時代の友人でケーブル会社の営業担当として経験豊富なジョン・ゲイジを雇った。若い時は反戦反体制にかぶれたヒッピーだったようだ。ビノッド・コースラとスコット・マクニーリは共に吝嗇ではあったが、マーケッティングとセールスについては無知だったようだ。
  この創業者達は、マイクロソフトのスティーブ・バルマーと面白い因縁がある。ビノッド・コースラは、スティーブ・バルマーのスタンフォード大学大学院の同級生であり、ビル・ジョイは、スティーブ・バルマーとミシガン州ファーミントン・ヒルズの同郷であり、スコット・マクニーリは、クランブルック・アカデミー、ハーバード大学、スタンフォード大学大学院でのライバルであった。
  サン・マイクロシステムズの最初のワークステーションSUN-1は、一九八二年五月に発売された。コスト節減のために既製品を多用する事になり、CPUには高性能だが人気がなく、安価だったMC68010を採用していた。サン・マイクロシステムズは、以後3世代に渡って68000系列のCPUを使用した。SUN-1は100台売れたとも200台以下だったともいう。こういう台数は概数で桁だけ抑えておけば良いと思う。
  一九八二年後半にサン・マイクロシステムズは本格的なワークステーション製品SUN-2を発売した。SUN-2は、ビル・ジョイのBSD版UNIX、TCP/IP、イーサネットを3本の柱としていた。
  当時これだけ優れた見通しを持っていたら、負けるわけがない。ただ外部から調達した19インチのCRT表示装置は強い静電気を発生し、この問題にはバーニー・ラクルートとHP出身の技術者2人が当たり、解決には1年を要したようだ。
  SUN-2は、数千台売れた。SUN-2はコンピュータ・ビジョン社に売り込み、アポロと激しく競った。結局サン・マイクロシステムズは、コンピュータ・ビジョンと4000万ドルの3年契約を結ぶことができた。契約にはコンピュータ・ビジョンが製造と再販をおこなうことも含まれていた。
  ビノッド・コースラは、人間をうまく使えなかった。無愛想で干渉がましく嫌われた。
  一九八三年三月新社長としてオーウェン・ブラウンが採用されたが、ビノッド・コースラと対立し、一九八四年二月に退職を余儀なくされた。そこでスコット・マクニーリが社長を引き継ぎ、一九八四年一二月、ビノッド・コースラは退任させられ、スコット・マクニーリが暫定最高経営責任者CEOとなった。
  一九八四年に発表された創立2年目の一九八三年のサン・マイクロシステムズの決算では、売上げ高は3900万ドルとなった。一九八七年には5億3700万ドルになった。一九九〇年には25億ドルであった。
  一九九〇年のネクストの売上げ高は、2800万ドルで、100分の1以下だった。
  サン・マイクロシステムズは、一九八四年一一月分散ファイル・システムであるネットワーク・ファイル・システム(NFS)を発表した。
  サン・マイクロシステムズの5番目の社員ジョン・ゲイジは「ネットワークこそコンピュータだ」というスローガンを思いついたという。しかし、これには多くの異論もあり、誰が思いついたかは正確には分からない。
  一九八七年にはサン・マイクロシステムズはRISC(縮小命令セット・コンピュータ)アーキテクチャのスパーク(SPARC)を製品化して注目を浴びる。インテル系のCISCに対してサン・マイクロシステムズのSPARCワークステーションが優勢を誇った。
  ともかく客観的には、サン・マイクロシステムズが最初の製品SUN-1を一九八二年五月に発売しているのに、ネクストのコンピュータの発表は一九八八年一〇月であり、発売は一九八九年半ばであった。
  サン・マイクロシステムズに7年も大きくリードされたネクストには、もはや勝ち目はなかった。マラソンでもそうだが、先頭集団に遅れると、なかなか追いつけない。
  しかし、どこかネクストとスティーブ・ジョブズには楽観的なムードがあった。無敵スティーブ・ジョブズの神話が生きていた。スティーブ・ジョブズは、コンピュータとは別な意外なサイドビジネスに乗り出そうとしていた。
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文春砲を支える硬派な哲学

『本屋という「物語」を終わらせるわけにはいかない』より 「週刊文春」から学ぶこと

 文春砲を支える硬派な哲学

  二〇一五年の一〇月から一二月の三ヵ月間、新谷氏は会社から謹慎を命ぜられる。発表を鵜呑みにするなら「春画」を「週刊文春」に載せたことについて、編集上の配慮を欠いたことが理由だという。美術作品である春画を載せることを、老舗である文藝春秋社の上層部の美意識がよしとしなかったのだろうか。しかし、どうやら事はそう単純ではない。
  二〇一五年一〇月八日号の電車の中吊り広告に対し、鉄道会社からクレームが入ったのだという。新谷氏のブログによれば「中吊りの該当部分は黒く塗りつぶされて掲示された」。
  まるで終戦直後の教科書のようではないか。その黒塗りされる前の広告が見られるのではと「zassi.net」というサイトを開いてみた。「週刊文春」の中吊り一覧から、件の中吊りを遡って探すこと一〇分ほど、該当の広告はさほど苦労することなく見つかった。そして結論からいうと、クレームが入ったというその中吊り広告は、拍子抜けとも言えるものだった。
  中央右下の目立たない箇所に掲載された春画の広告は、全体の面積の割合で言うと五パーセント程度のもので、好事家でもない限り電車内で目にしても、ほとんど印象に残ることはないだろう。これのどこに問題があるのか。釈然としないものが残る。
  とはいえ、広告主あっての雑誌である。新谷氏は甘んじて罰を受け入れたが、心に期すものがあったのだろう。復帰後の二〇一六年一月から、荒波に自船ごと突っ込むような怒濤の攻勢をかける。
  「センテンススプリンダ」という異名を生み出したベッキーの不倫騒動にはじまり、ショーンK氏の経歴詐称、甘利明経済再生担当大臣(当時)の現金授受疑惑、巨人軍の現役選手の野球賭博、鳥越俊太郎氏の女性問題と、出るわ出るわ。二〇一六年はスクープの砲弾が降り注ぎ続けた。
  しかし、すべてが特ダネ級ともいえるスクープのなかで、甘利大臣の疑惑をすっぱ抜いた「取材方法」は唯一、毛色が異なるように思える。ネタ元である一色武氏と協力して取材をすすめ、現金の授受の一部始終を撮影、録音して記事にするという「おとり捜査」のような手順を踏んだスクープ。週刊誌側から積極的にスクープに仕立て上げる手法は、露骨に罠に嵌めてやろうという意図が透けて見える。
  なぜか。その謎を解くカギは、甘利氏が金銭を授受し、口利きをしたと報じられた組織「UR(都市再生機構)」にあるのではないか。URは政府系組織という圧倒的な立場を利用して、いわゆる開発業務を行っており、幹部の多くは国土交通省なとからの天下りで占められている。これは「週刊文春」用語でいうファクト(事実)だ。そして次からは僕の推測。
  先の新谷氏の謹慎が、一部鉄道会社から電車内の中吊り広告に対してクレームが入ったことに端を発したことを併せて考えると、水面下において、管轄官庁と「週刊文春」のバトルがあったのではないか。国土交通省は鉄道会社の監督省庁であるから、どこかの時点で触れられたくない事実を掴んだ「週刊文春」を牽制するために、広告にクレームをつけたという構図は考えられないだろうか。
  昨今、権力を持つ側からの報道への圧力が大きくなったといわれている。告発型ジャーナリズムである週刊誌に対し、自分たちの「痛いハラ」を探られないよう、規制へと向かう動きが加速しているらしい。そのあたりは『新版 裁判官が日本を滅ぼす』門田隆将に詳しいので、興味のある方はお読みいただきたい。
  先の広告の件もそうだが、記事を告訴された際の裁判における賠償金の増加は、つねに訴訟を抱えながら社会に対して告発を続ける週刊誌、またその発行元でいまや財務的に余裕があるとは言えなくなった出版社にとって、看過できない問題となっている。疑惑を、疑惑として糾弾する時、前述したょうに少しでも推測や私見を混ぜ込んで記事を書くと、訴訟を起こされるリスクを免れない。
  硬派で鳴らした「週刊文春」が、芸能スキャンダルを多く扱うようになった背景には、決定的な場面を押さえることができ、大衆が興味を抱きやすく、雑誌の増売も見込めるからといった意味合いも大きい。
  だから、甘利氏に対する一見無謀にも見える取材方法は、より一層違和感を際立たせる。どちらが先なのかは知る由もないが、「週刊文春」に圧を強めてきたある権力に対し、手法はともかくとして、新谷氏は屈しないという意志を示してやり返したのではないか。
  下世話なスクープで注目を集める一方で、権力に対しても物怖じせずに戦う「週刊文春」の姿勢は、週刊誌の草創期の哲学そのものでありながら、他誌が失いつつあるものかもしれない。

 さわや書店は「週刊文春」型か「週刊新潮」型か

  じつは、そんな考えを持つに至ったのは「週刊文春」の編集部の形態を知ったからだ。
  「週刊文春」の編集部は約五〇から六〇人の大所帯で、そのうち四〇人ほどがスクープ取材にあたるらしい。毎週二〇〇本近く上がったネタのなかから、コレだというものをより深く取材し誌面を構成するという。スクープにかける情熱は疑いようもなく、他誌と比べてその存在感は段違いだ。二〇一三年から二〇一七年まで、「雑誌ジャーナリズム大賞」を五年連続[週刊文春]が受賞していることがその証左だろう。この原動力は一体どこから来るのか。
  「週刊文春」では、ネタを取ってきた取材記者自身が、実際に誌面に掲載される完成原稿までを書くという。なんでも自分でこなす専門家集団。これは鮮度を大切にし、勢いや臨場感を記事中へと活かす狙いがあるようだが、なんとなく世に増えてきた〈限定的〉な情報に詳しい人々と存在が重なる。
  それに対してライバル誌「週刊新潮」では、取材記者(データマン)と記事を書くデスク(アンカーマン)が、分業制によって記事を仕上げるという。集めた情報をもとに、取材記者にデータ原稿を書かせ、それをもとにデスクが手を加えるという方式だ。デスクは元取材記者であるから、足りないデータを指摘することで、自分が培った記者に必要なノウハウを、次の世代へと教えることができる。組織の世代交代も視野に入れた非常に合理的なシステムである。
  このシステムの方向性は、新潮社の天皇とも称された伝説の編集者・斎藤十一氏により定められたという。「週刊文春」よりも三年早い一九五六年に創刊し、週刊誌の始祖ともいわれる「週刊新潮」は、脈々と斎藤十一イズムを受け継いできた。最近でこそ「週刊文春」に押され気味の感はあるが、週刊誌のなかでもっとも多く政治家のクビを獲ったのが「週刊新潮」なのである。これは、記者から上がってきたデータを用いて、とのように対象者の急所をつけばよいかを熟知するデスクの「筆の力」による功績が大きいだろう。
  「週刊文春」が、取材のスペシャリストを育てることに主眼を置くのに対して、「週刊新潮」はジェネラリストを育て、競わせることで組織を存続してゆこうという意図がみられる。「週刊文春」の昨今の躍進は、新谷氏のような「変異的なエリート」によって、野放図なイメージのある専門的記者集団を束ねられたことが要因の一つだろう。
  週刊誌が青息吐息のいま、第三者的な立場から極論を言ってしまえば、「週刊新潮」の生え抜きジェネラリストに「週刊文春」の専門家集団を束ねさせ、何チームかに分けたうえで競わせれば最強ではないかとも思うが、そう単純にはいかない。何から何まで正反対に思える二誌が二緒になっても、同床異夢といった事態になりかねないことは容易に想像がつく。
  いま、この時代を生きるためのスタンス。組織として、これからも存在を必要とされるためのレジスタンス。両誌の有り様は重なり、離れ、時にねじれる。
  人を育て、組織を存続してゆく難しさ。
  朝、雑誌売り場に入荷した「週刊文春」を並べながら、つらつらと考える。さわや書店は「週刊文春」型だろうか、それとも「週刊新潮」型だろうかと。
  情報の取り方、仕入れ発注、売るための工夫、様々な準備、POPの作成などは、各々のジャンル担当者に任されている。向き不向きや適性はあるが、それぞれ得意なジャンルがうまくばらけているゆえ、その力をいかんなく発揮してくれている。売り場における一年の業務サイクルも身についているから、最大値に近い売り上げを狙って取ることができる。だから受け持っている担当者は、現状なかなか替えが利かない。スペシャリストとして力を十二分に発揮している。だが、そこには落とし穴があるI 。
  個々が培ったノウハウというのは最終的にはその個人のもので、個人から個人へと受け継かれなければ存続してゆかない。そして受け継ぐ場としての組織が無くなってしまうと、個人間のノウハウも継承されることなく、無形の財産である技術はすべて途絶えてしまう。
  だからスペシャリストになり切れない自分が、組織に貢献できることがあるとしたら、フラットな目を養う努力を怠らず、個々の担当者のノウハウの継承を助長することだろう。「週刊文春」編集長の新谷氏を目指してこれからも日々精進しよう。
  そう結論付けたところで、働き者の雑誌担当者から声が飛ぶ。
   「松本さん、突っ立ってないで動いてください!」
  ……すみません。先のことを考えたら、少々ふらっとしたもので。
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イギリスの海賊大将チャーチル

『海賊の文化誌』より イギリスの海賊大将チャーチル

 ウィンストン・チャーチルは二十世紀の海賊だったのではないだろうか。十七・十八世紀に形成された英国の〈海賊性〉は彼において結晶したように見える。
 一九一一年、チャーチルは海軍大臣に任命される。その突然さにおどろかされる。陸軍士官学校を出て、南ア戦争に従軍しているが、海軍には縁がない。しかし、海軍大臣になると、彼はいきなり変身した。
  「社会改革者チャーチルから、最前線の海軍派チャーチルヘの変身は突然の、ほぼ全面的なものであった」(ジョン・キーガン『チャーチル不屈の指導者の肖像』富山太佳夫訳 岩波書店 二〇〇五)
 チャーチルは海軍を新しくつくり直そうとする。ドイツと戦艦増強競争をくりひろげる。かつて彼は社会福祉を重視し、軍事費の拡大に反対していたはずなのに、戦艦をやたらと増やそうとする。チャーチルのセリフによれば、「議会で、保守党は六隻、自由党は四隻が妥当というので、八隻で妥協した」のである。
 彼はすぐに海軍省のヨット「エンチャントレス」を占有し、海軍のあらゆる施設を見てまわった。1921年十月から1924年八月の間に二〇〇日以上もこのヨットで過ごしたという。
  「英国海軍に対するチャーチルの態度は、まさに所有者のそれであった。いつくしみ、その歴史、能力、戦術、戦略をあくことなき情熱をもって学んだ」(ロバート・ペイン『チャーチル』佐藤亮一訳法政大学出版局一九九三)
 彼のやり方が海軍の伝統に反するといわれて、次のようにいい放ったという。「諸君たちは海軍の伝統とは何かを知っているのかと、私から言おう。ラム酒と男色とむち打ち(の刑)だ。それが海軍の伝統というやつだ」(同書)これは〈海賊の伝統〉というべきかもしれない。
 一九一四年、第一次世界大戦がはじまった。一進一退がつづいた。そこでチャーチルが提案した作戦は、地中海のガリポリ半島の攻撃であった。それはオスマン・トルコの首都コンスタンチノープルヘの接近をはばんでいる。地中海から黒海にいたるダーダネルス海峡を押さえ、コンスタンチノープルを占領すれば、黒海から、同盟軍のロシアを救援できる。オスマン・トルコはドイツについていた。
 一九一五年三月、ガリポリの戦いがはじまった。しかしトルコ軍の攻撃によって、上陸作戦は失敗した。何十万もの死者が出た。戦いは長びき、冬になりかけた。十一月に撤退が決まり、一九一六年一月に作戦は終わった。あまりに被害が大きかったので、大戦後までそのことは秘密にされた。
 この失敗でチャーチルは海軍大臣を解任された。それは彼にとって大きなつまずきであった。だが、彼のすごいところはすぐに立ち直り、一九一七年には軍需相としてカムバックし一九一九年には陸相、空相になる。そして一九三九年、イギリスがドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまると、再び海相として返り咲いている。
 一九四〇年にはついに首相として、イギリスを率い、大戦を戦うのだ。そしてドイツ軍に侵入されたフランスに同盟を求め、拒否されると、アルジェリアのオランのフランス艦隊を砲撃して、世界をおどろかせた。ドイツに使われるなら、沈めた方がいいという考えである。
 チャーチルは第二次世界大戦を勝利に導いた。しかしその栄光にもかかわらず、一九四五年の選挙で敗れ、首相を辞任した。だが一九五一年には再び首相の座についた。なんとしぶとい人だろう。そして一九六五年に没している。二つの大戦を指揮して戦った怪物である。まさに〈海賊〉ではないだろうか。
 チャーチルはまた、秘密情報部に強い関心を抱き、特に無線傍受、暗号解読の可能性にいちはやく気づいていた。第一次世界大戦が開戦してすぐに、アルフレッド・ユーイングはチャーチルに暗号解読の重要性を説いた。チャーチルは直々に「ルーム四〇」を視察し、その仕事を評価した。〈海賊〉である彼は、無線情報を奪う海賊仕事がすぐに理解できたのである。
 それ以来、チャーチルは英国情報部を保護し、戦争が終わった平和時でも予算が減らないようにした。彼はスパイ作戦が好きで直接関わってきた。デヴィッド・スタッフォードの『チャーチルとシークレット・サーヴィス』(一九九七)はそれをくわしく明らかにしている。
 チャーチルは英国情報部を巨大な組織にするのに大きな役割を果たした。彼は現代の情報を掠奪するスパイ海賊の時代を開幕させたのだ。
 『チャーチルとシークレット・サーヴィス』によると、彼は一八九〇年代にスパイとして活動しており、一九〇九年の英国情報部のはじまりにも関わっているという。そして、情報操作の天才であった。陰謀史家によると彼は日本の真珠湾攻撃を知っていたが、あえてアメリカに知らせず、そのショックで参戦させようとしたらしい。さらに、第一次世界大戦の時も、アメリカの世論を参戦に変えるため、アメリカ人が乗っているキュナード汽船の「ルシタニア」がドイツのUボートに沈められた時、やはりUボートの動きを知っていて、アメリカに伝えなかった、などともいわれる。この二つは、陰謀史観であり、噂にすぎないかもしれないが、チャーチルには謎が多い。
 彼は私的なスパイを使っていたという。若い時は自ら敵陣にしのびこんだり、捕らえられて脱出したりした。そのような海賊的冒険に生涯魅せられていたようだ。
 「二十世紀の英国の政治家で--大きな権力を持ったすべてのリーダーたちの中で--チャーチルは生涯通じて、平和な時も戦争の時も、そのあらゆる形でのインテリジェンスの潜在力を楽しみ、確信していたユニークな存在である」(デヴィッド・スタッフォード前掲書)
 彼は暗号通信を盗み、解読することにわくわくするような楽しみを感じていたらしい。それこそ、彼の中の海賊精神ではないだろうか。
 「それと同じような刺激を彼は詐欺師やバカニアに抱いた」(前掲書)とスタッフォードはいっている。つまり、チャーチルは海賊に魅せられていたのだ。彼はT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)、ボリス・サヴィンコフ(ロシアのテロリスト、作家)、シドニー・ライリー(二重スパイ)などに興味を持った。
 チャーチルの異端趣味とイギリス情報部の誕生も相関的だ、とスタッフォードはいう。それはかなり個性的な、数人のグループでつくられた。これまでのイギリスのインテリジェンス史にはあまり出てこないが、チャーチルはそこにかなり重要で、積極的な役割を果たしていると『チャーチルとシークレット・サーヴィス』は指摘している。
 二十世紀は、情報という財宝を掠奪するスパイ海賊時代となった。チャーチルはそれを楽しんでいたのである。そのようなスパイ海賊の典型が、007ジェームズ・ボンドであろうか。ボンドをつくりだしたイアン・フレミングは一九三九年、英国海軍の情報員となった。彼の兄ピーターはSOFの工作員であった。フレミングがリスボンのカジノに行った時の体験をもとにした『カジノ・ロワイヤル』(一九五三)が好評で、ボンドものはシリーズ化される。ボンドはエンタテイメントとしてのスパイという二十世紀のイメージとなり、映画化される。スパイ海賊は大衆文化になったのである。
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SUNとUNIXから始まった変革

『海賊の文化誌』

 イギリスの海賊大将チャーチルが中東での分け前を勝手に決めてしまった。ギリシャ人が嫌いなのは、イギリスだと、玲子さんは言っていた。

『本屋という「物語」を終わらせるわけにはいかない』

 「週刊文春」を文春砲を支える硬派な哲学というけど、乃木坂に関しては単なるストーカー。ポリシーは全く感じられない。本当に下品。ひめたんの時にそう思った。

 これ以上のストーカー行為に対しては、全面的な「深川大作戦」が必要。

『スティーブ・ジョブズⅣ』

 サン・マイクロシステムズの10年目の時に、スコットとビル・ジョイが日本にやってきた。幕張での講演に出掛けた。二人とも若かった。

 SUNは技術者が自分の環境を作り出すのにもってこいだった。一番、すごいと思ったのが、NFSで実験室のデータと設計室データを仮想的につなげてしまった。光ネットワークを敷いて置いて良かった。

 マック上でプログラムがしたくて、NeXTとSmallTalkを実験設備として導入したが、歯が立たなかった。
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自分が生まれた後の世界

『英米哲学入門』より リアリティの謎

 自分が生まれた後の世界

  さてさて、どうやら奇妙な思考の世界の入り口に立ってしまったようだ。世界は自分の外側にあって、自分を制限する。自分とは独立に世界はある。だから、自分が生まれる前にも、この世界、この宇宙は存在した。これが常識だし、科学の前提だ。哲学の世界では、こうした考え方を「素朴実在論」などと呼ぶ。けれども、これまでの、ち上っと不可思議な私の話を汲むならば、どうも、そうした常識は完璧ではなさそうなのだ。少なくとも、常識と言ったって、どこか信仰のような、飛躍を含んでいるような捉え方なんだ。
  別に信仰を含んでいたっていいじゃないか、実際、信仰を旨とする宗教という領域は有意味に成立しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かに、その通り。でも、「世界のすがたはこうなっているの「であるヒという、世界のリアリティ、哲学では実在性と呼ぶんだが、それを探ろうとしているときに、「そうなっていると信仰する」というのは、どうにも物足りないんじゃあないかな。「こうなの「である」」と確実に言えるところまでいかないとダメなのじゃないか。
  もう一度最初の問いに戻ろう。「自分が生まれる前にもこの世界はあったのだろうか」。あった、と考えたい場合、どういう根拠があるのか。結構これは難しい問いなのだよ。こういう難しい問いの場合には、正面突破の直球作戦だけでなく、少し変化球で対することも必要だ。そうした変化球を投げかける有望なやり方は、そもそもこの問いが有意味だと思えるとき、その有意味性を背後から支えている考え方は何だろうか、というように、問いそのものに問いを向けることだ。質問されて答えに窮したとき、その質問の前提に焦点を当てて、矛先を逆に向けるという高等戦術だ。
  その戦術を使ったとき、明らかになるのは、「自分が生まれる前にもこの世界はあったのだろうか」という問いでは、自分が生まれた後にこの世界があることが前提されているという点だ。だふてそうだろう、自分が生まれた後にはこの世界があると言えるからこそ、自分が生まれる前にもそれが言えるか、と問うているのだから。だとしたら、つまり、こう切り返さなければならないというわけだ。「自分が生まれた後には世界がある」というのは、本当に確実に言えるのか。

 世界五分前出現仮説

  そう改めて問うてみると、案外、この前提にも怪しいところがあることに気づくね。まず、自分が生まれた後と言っても、現在以外には、すべて過去のことである点が気になる。過去って、本当に存在するの。いや、こういう問いかけはトリッキーだ。こう問い直そう。過去って、本当に存在したの。もちろん、存在した。だって、自分は記憶しているもの。昨日、朝起きたとき、寝癖がひどくて、珍しくブラッシングしたんだ。こんな風に普通答えるだろうね。
  むろん、誕生した直後からしばらくのことは記憶していないじゃないか、という雑ぜっ返しもできるけど、その点は問わないことにしよう。問題は、過去の存在を記憶によって確証できるか、という点だ。
  イギリス紳士の哲学者で、バートランド・ラッセルという人がいる。ものすごい頭のいい人で、前に名前を出したホワイトヘッドと一緒に『プリンキピア・マテマティカ』(『数学原理』)という、現代論理学の聖典のような本を出した人だ。そのラッセルは、後になって『心の分析』という本を出して、その中で「世界五分前出現仮説」という奇妙な考え方を記した。それはこうだ。
  記憶による信念を探っていくとき、心に留めなければならないいくつかのポイントがある。第一に、記憶による信念を形作っているものはすべて「いま」生じているのであって、その信念が指し示しているはずの過去に生じているのではない。実は、思い出されている出来事は確かに生じたはずだとか、過去は確かに存在したはずだということさえ、記憶による信念にとって論理的に必要なわけではない。世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。
  どうだろう、この奇抜さ。五分前に世界や人々が、いまあるような記憶とともに、突如出現したと考えることに不都合はないのではないか、というんだ。そんなばかな。でも、反論してみてごらん。どうやってそれは間違いだと論破できるだろうか。間違いだと論破できないということは、真実かもしれないということだよ。ゾッとするね。
  ついでに一つ注意しておくが、ここで「信念」といっているのは、日本語で言うところのポリシーを意味するような信念ではなくて、単に「思っている内容」のことだ。英語で哲学を論じるとき頻出する用語なので、覚えておいてほしい。
  いずれにせよ、記憶は遇去の実在の証拠にするにはちょっと弱すぎる。それに、誰だって、記憶違いの経験はあるんじゃない。私なんかしょっちゅうだ。沖縄に行ったのは二年前の秋だったな、と思ってたけれど、よく調べたら、三年前の秋だった。シッテルンだと思ってたのに、知ってなかった。恥ずかしい。こういう意味でも、記憶というのは根拠にするには力不足が否めない。
  それから、「自分が生まれた後には世界がある」ということに関しては、一番最初に触れた疑問がやっぱりぶり返すね。これって、現実なのか。夢を見ているんじゃないか。ものすごい幸運に恵まれたときとか、とんでもない不幸に遭遇したとき、実際そんな風に思うでしょ。それと、人は、死ぬ間際に、一生のことを瞬間のうちに走馬灯のように思い起こす、という話を聞いたことがあって、もしかしたら、実は私はいま死ぬ瞬間で、昔のことを想起している最中なのか、などと思ったりもする。もちろん、死ぬ間際のことなんて、誰も分からないし、何の証拠もない。そういう状態の人は死んでしまうわけだから、そもそも証言できないしね。だから、単なるお話なんだけど、そうだとしても、いまが夢かもしれないという疑惑が成り立つ可能性を示唆はしていると言える。

 閉じこもる

  さてさて、それじゃあ、「自分が生まれた後には世界がある」っていうのも、確かではないと言うべきなのかな。ここまで問いを煮詰めてくると、もしかして、「確か」とか「ある」っていう言葉がそもそもの問題なのではないか、ということにうっすらと気づいてくるんではないかな。「確かに」「ある」、それはどういうことなのか。どういう条件をクリアすれば、そう言えるのだろうか。
  こういう風に攻められたとき、安全に身構える方法は一つ、閉じこもることだ。自分が生まれる前などという途方もないところまで守備範囲に収めようとしないのは言うまでなく、自分が生まれた後でも、過去にまで触手を広げない。とにかく、目の前の「ここいま」に閉じこもることだ。「ここいま」というのは、ラテン語で「hic et nunc」と表現して、哲学の文献によく出てくる。自分の手中に収まっている「ここいま」という内側に閉じこもって、その外には出て行かない。これが、たぶん、「確かに」「ある」という言葉に文字通り対応する、数少ない事態なのではないかな。リアリテ″とか客観性とか、そういう言葉の基盤になるのではないかな。
  こんな風に考えると、記憶も「ここいま」の現象として回収できるし、「ここいま」生じているという点では、夢も現実も区別する必然性は特になくなる。悪夢を見て恐怖を感じているとき、それはまさしく恐怖を感じているのであって、現実じゃないから恐怖も感じていないのだよ、とは言えないでしょ。そういう点で、夢だふて、「ここいま」生じているという点では、リアリティなのではないかな。愛犬に夢の中で会えて、しかもそれがリアリティなのだとすると、私はとてもうれしいな。感動だな。
  でも、本当にこんな考え方が正しいのだろうか。なんか、ち上っと違和感もある。夢と現実、実在と虚構、この区別がまったくなくなってしまうというのは、いくらなんでも極端すぎるんではないかな。ともあれ、哲学では、こうした考え方にのっとってリアリティを理解するやり方は、しばしば「観念論」という見解へと結びつくんだ。次には、それについて論じることにしよう。
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悪の歴史 フランクリン・D・ローズヴェルト

『悪の歴史 西洋編』より

 改革者か腐敗政治の継承者か

  フランクリン・ローズヴェルトが政界に劇的なかたちで復帰したのは、一九二四年の民主党全国大会であった。大会の演壇に現れたローズヴェルトは大統領候補としてニューヨーク州知事アル・スミスを支援する演説をおこなったのである。このときスミスは候補に指名されることに失敗したが、次の一九二八年大統領選挙では成功する。このときもローズヴェルトはスミスを応援しており、その応援の見返りとしてスミスの後継者としてニューヨーク州知事候補に指名された。そして、知事選挙に見事に勝利すると、これが次の一九三二年大統領選挙に出馬する足がかりになったのであった。
  政界への復帰から大統領選挙の出馬までの経過を見ると、気になることがある。それは政治腐敗を糾弾されていた政治家との深いつながりである。彼が支援していたアル・スミスは米国における腐敗政治の代名詞「タマニー・ホール」の引き立てで有力政治家となった人物であった。タマニー・ホールとはニューョータ市の民主党組織を支配した人々の集まりで、南北戦争後にそのボスであったウィリアム・トウィードのおこなった巨額の汚職が暴露されて以降、メディアや改革派の政治家によってアメリカ社会の醜悪さを象徴する恥部と攻撃されてきた。
  セオドア・ローズヴェルトはそうした腐敗への攻撃をもっとも果敢におこなった人物であった。彼はギャングや汚職警官と結んで私欲を満たそうとする政治家たちとの戦いを自らの使命とした。こうしたセオドアと対照的にフランクリンはタマニー・ホールと深いつながりを持つスミスの後継者なのである。通常、フランクリン・ローズヴェルトが改革者であることを強調する歴史家は、ローズヴェルトがニューヨーク州知事になると、スミスの息のかかった人物を州政府幹部に採用しなかったことを高く評価する。しかし、ローズヴェルトの知事としての姿勢をつぶさに見ると、腐敗が取り沙汰された政治ボスのやり方を踏襲したように見えるものが多い。
  州知事としてのスミスの業績として知られるのは、住宅不足の解消、工場労働者の待遇改善、児童福祉の充実である。こうした福祉行政の推進こそ、実はタマニー・ホールを支配するボスがおこなってきたことであった。
  海外から大量の移民を受け入れることで発展してきたニューヨーク市において、政党は十九世紀中期以降、米国になじめない人々の住宅探しや就職、子育ての手助けをすることで、選挙の票を集めていた。スミスがおこなったこと、そしてローズヴェルトがスミスから引き継いでおこなったことは、それまで政党が実施してきた住民の世話の一部を、州政府が代わりにおこなうことであった。これが福祉政治の充実として、都市化が進んだ二〇世紀にふさわしい改革と歓迎されたのである。
  ボスの政治支配を視点として考えるとき、米国社会において腐敗と福祉の充実は表裏一体の関係である。無論、ローズヴェルトの政治手法は政党のボスだちと違うところもある。学歴も財産もない人々をボスたちは政党幹部に登用し政治家として育てていったのに対して、ローズヴェルトは大学出の改革者や知識人を連邦公務員に採用して自らの手足とした。ローズヴェルトは政党組織とは違う役所の場に、自分に忠誠を尽くす人々を配置し、大統領として政府の規模を拡大することで、その人々の数を増やした。こうした彼のやり方は、ボス政治を洗練させるかたちで継承したものとも言えよう。

 リーダーシップはあったのか--非常事態下の内政改革

  国民の支持の厚さから、新しいタイプの政治ボスとしてのローズヴェルトの姿はそれほど目立たなかった。その支持は未曽有の経済危機によって生み出されたものであった。
  一九二九年にローズヴェルトが知事になった後、空前の経済危機が世界を襲う。この危機がもっとも深刻な状況になった一九三三年には米国では労働者の四人に一人が失業した。農家も大打撃を受け、農民所得は一九二九年からの四年間で六割近く下落した。ローズヴェルトは州知事として失業者と農民を助けるための緊急経済措置を打ち出して全国的な評判となったが、それは実にニューヨーク州民の一割に失業救済をおこなうというものであった。救済のためにはあらゆる措置を大胆に取るという態度、そして米国国民は必ずゆたかさを回復できると力強く市民に訴える姿が全国に報道されると、彼を一九三二年大統領選挙に推す声が巻き起こる。そして、そうした国民の期待のなかで選挙に勝利したのであった。
  ローズヴェルトは大統領になると嵐のような勢いで改革政策を打ち出す。彼が大統領に就任する直前から、国家経済の要である金融市場は麻痺状態に陥っており、銀行が次々と倒産していた。この危機に対処するため、議会が法をつくるまで大統領の権力で金融機関に休業を命じ、信用制度を回復させた。そして、全国産業復興法、農業調整法を成立させて、経済的な非常事態に対応する態勢をつくりあげた。彼は大統領就任演説で必要ならば戦時における軍の司令官としての権力で危機を乗り切ると宣言したが、迅速かつ果断な政府の対応は、多くの国民の心をつかむ。民心を得たローズヴェルトは一九三四年議会選挙で勝利を収めると、福祉国家の基礎となる法律を創る。失業保険と老齢年金保険、公的扶助を国民に提供する社会保障法、労働者に基本的権利を保障したワグナー法である。
  改革を実施していくとき、ローズヴェルトはラジオを通して明るく国民に直接語りかけた。また、メディアに政権がどう映っているかを常に注視していた。人気脚本家として、その作品がアカデミー賞を受賞することになるロバート・シャーウッドは、エレノア・ローズヴェルトの紹介で、大統領や政府の演説原稿を書くようになった。シャーウッドをはじめとして芸能関係者とのつながりは、ローズヴェルトの好感度の維持に大きく貢献することになる。
  改革政治を進めていく際にも、彼は好感度を常に意識した。政策を構想する場合、複数の人物や団体に別々の案を起草させ、それぞれ独自に議会や関係団体に接触させた後、もっとも評価が高くて成功しそうな案を選んで、それを大統領の政策と宣伝したのである。恐慌下で資本家と労働者、企業と農家など経済集団間の利害対立が激化した時代、ローズヴェルトのやり方は利害調整をうまく達成し、国民の支持も失わない巧妙な手法に見えた。
  しかし、それは大統領が主導権を握るやり方ではない。利害関係者や国民の動向を見極めた上で、成功することがわかったあとに、大統領の立場を決める究極の日和見主義である。
  一貫した政治信条に基づいてローズヴェルトが行動しているのかどうか、米国国民は一九三七年以降、疑問に思うょうになる。大統領の重要政策を憲法違反と判断し無効判決を繰り返していた連邦最高裁を、大統領の意のままに動くように変えようとしたのが、きっかけであった。同年、経済後退が起こったとき、政府による企業規制を強化してきたローズヴェルトヘの反発が爆発する。ローズヴェルト政権下での経済回復が限定的であったのは確かであり、彼が大統領に就任して五年がたった後でも、国民の三人に一人が貧困という状態にあった。政権への不満が高まるなか、一九三八年議会選挙では民主党と敵対していた共和党が、躍進への足がかりをつかむ。下院では共和党が八九議席から一六九議席、上院でも十七議席から二三議席へと大きく伸びたのであった。

 世界大戦が救った大統領としての名声

  国民の信頼を失いかけたローズヴェルトがとった起死回生の策は、外交での積極行動であった。ヨーロッパ大陸の制覇を目指すドイツは周辺諸国を併合していき、一九三九年、ついに第二次世界大戦が勃発する。この危機のなか、彼はドイツと戦うイギリス、フランスなど連合国を支えることが米国の安全保障にとって死活的重要性を持っていると訴えた。一九四一年の一般教書は民主政治の原則として「四つの自由」を列挙し、そうした原則の守られる世界をつくるため、全面的に連合国を支えていく決意を示したものであった。
  この支援にあたっても、場当たり的な日和見主義が続けられた。連合国支援の条件を定めたのは一九三九年中立法であった。それはローズヴェルトも支持したもので、連合国が援助品を購入するにあたっては現金払いで運搬も連合国の責任としていた。売掛金が巨大になれば、その回収のために米国が連合国の側で参戦することになるし、運搬が米国船であればドイツの海上攻撃を受けて戦争に巻き込まれると恐れられたのである。しかし、一九四〇年にフランスが敗北すると、条件緩和が少しずつ進められていく。翌年には武器貸与法をつくって米国の資金で連合国へ物品を輸出するのを認め、その輸送も米国海軍の護衛をつけることとした。そして、その年の秋には援助物資を狙うドイツ潜水艦を発見次第、攻撃せよと米国護衛艦隊に命じたのである。
  ローズヴェルトは、一九四〇年大統領選挙後、陸軍長官ヘンリ・スティムソンらがドイツに宣戦布告すべきであると繰り返し主張しても、聞く耳を持たなかった。戦争を嫌う国民感情に配慮したのである。その一方、ドイツ潜水艦との交戦を容認し、さらには東アジアでは日本に強硬姿勢を取って、米国が攻撃されても仕方がない状態をつくった。こうした姿勢は日本が米国の真珠湾を攻撃した後に問題となり、彼は口では世界大戦に参戦しないと言いながら、実は参戦の口実を探していたと非難される。参戦を決断せず、少しずつ交戦の道を開いていった態度は、第一次世界大戦下のセオドア・ローズヴェルトと対照的であった。セオドアは戦争を嫌うウィルソン政権と対決し、参戦のための国民運動を組織し、自ら志願兵を率いてドイツ討伐をおこなおうとしたのである。
  真珠湾攻撃の翌月、連合国の代表二六か国を米国に集めたフランクリン・ローズヴェルトは戦争完遂を相互に約した連合国宣言を作成し、それを世界に発表する。そして、戦争終結の直前、戦後世界秩序の在り方をめぐって連合国間での亀裂がはっきりしていくなか、脳溢血で急死する。その最期を看取ったのは、妻エレノアとの夫婦関係を壊した女性ルーシーであった。
  ローズヴェルトが唱えた「四つの自由」は戦後世界の理想として日本も受け入れ、日本国憲法で記載することになる。戦勝国に占領された日本は米国の理想を拒むことはできなかった。ローズヴェルトがムイチの憲法でしたのと同じことが繰り返されたと、われわれは考えて良いのであろうか。
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