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やはり、せーら!

やはり、せーら! #早川聖来
 歴史
個と国家との関係は変わる
国民国家は国民へのサー ビスが 役割
国家はグローバル化に対応する
歴史を個−地域− 国−超の階層の時空間と見ていく
歴史哲学は平等がテーマ 所有 から共有がキー
無限の家族制度から有限の個の時代に変わる
組織の目的がサー ビスになり 全体が安定する
超の下に地域・国家が 中間の存在として 個を支援
 豊田市図書館の2冊
302.4『地図で見るアフリカハンドブック』
167『東大塾 現代イスラーム講義』
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中華まん      269
食パン8枚   118
マヨネーズ    238
ポテサラ       100
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『地図で見るアフリカハンドブック』

新版『地図で見るアフリカハンドブック』

はじめに

グローバル化でのアフリカの軌道を問いただす

グローバル化による世界の再編成の現状を分析すると、アジアが新興しているのに対し、ヨーロッパとアメリカが相対的に衰退していることは明らかなのだが、アフリカの占める地位はどうもはっきりとしない。はたしてアフリカは、これからも紛争と環境破壊、破綻した公衆衛生の犠牲になり、貧しくて不安定な大陸のまま、世界の中心からはずれていくのだろうか?それとも、豊かな自然資源[鉱物資源、生物資源、景観など]や人口の伸び、都市化、デジタル活用の急激な出現が、ほかに類を見ない成長の担保となって変化をとげ、世界的な資本主義の最後のフロンティアになるのだろうか?

ほかと同じ大陸か?

アフリカについて問いただすとは、つまり「アフリカ悲観論」や「アフリカ楽観論」といった型にはまった考えから完全に離れ、その多様性をとりいれて考えることである。2つの偏見から透けて見えるのは、この大陸を世界のほかの大陸とは違うと見ているのは明らかで、それではカメルーン人の歴史家で哲学者のアキーユ・ンベンベが強調するように、現実のアフリカを反映することにはならない。

アフリカ大陸の面積は3030万平方キロメートル――中国とインド、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国を合わせた面積に相当で、そこに2022年現在、14億5000万人が住んでいる。ひと塊となった大陸部周囲につらなる大小の列島は、1億6000年前にあったとされる巨大なゴンドワナ大陸が分裂した結果である。しかし、アフリカが細分化されているのはなにより政治的な要因によるもので、大半が熱帯である大陸の多様な地形や、何千という言語を話す民族のことは忘れられている。そんなアフリカの国々に共通しているのは、少数の例外(リベリア、エチオピア)をのぞき、19世紀の終わりからヨーロッパの大国の植民地となり、1960年代に多くが独立してからは、開発途上国に埋没したまま抜けだせていないことである。アフリカには現在、54の国家がある。国境の制定は外的な要因だったとしても、いかんせんその影響力は決定的だ。各国はあたえられた領土の枠組で、平和的にしろ、悲劇的にしろ、それぞれ特異な歴史をきざむことになったのである。

アフリカ情勢についての西欧の分析の多くは、単純化されるきらいがある。フランスの農学者でエコロジスト、ルネ・デュモンが『アフリカはハンディを背負ってスタートした』(1962年)で述べた意見は、1960年代においては異端で、当時支配的だったのは、「アフリカはヨ―ロッパからの開発の遅れを猛スピードでとりもどしている」という見方だった。続く1980-1990年の10年間は、災害大陸(干ばつ飢饉、戦争)として、世界体制の周辺に追いこまれることが多くなる。2000年代に入ってからはもっと複雑だ。多くは、元世界銀行副総裁のジャン=ミシェル・セヴェリーノと彼の特別補佐官オリヴィエ・レイの意見と歩調を合わせ、2人の共著書のタイトルのように『アフリカの新時代』(2010年)が来たとみなしている。その要因としては、新興各国との新しいパートナーシップ、人口増加と都市化による国内市場の拡大、教育とインフラの向上、独裁政権の減少と民主化の要求、国連で2015年までに達成する目標として合意された「ミレニアム開発目標」(MDGs)に象徴される開発政策の新たな高まり、などがあげられ、アフリカは新興地域に仲間入りしたようでもある(大陸内の重要な市場に支えられた堅調な経済で、グローバル化のなかで力をつけていることが確認される)。しかしそのいっぽうで、さまざまな危機(内戦、テロ、感染病など)によって、「アフリカ悲観論」が根強く残っている面もある。たとえば、開発問題の専門家セルジュ・ミハイロフは、著書『アフリカニスタン[アフガニスタンの過ちとアフリカを引っかけた造語]、アフリカの危機はわれわれの近くにもおよぶのか?』(2015年)で、地中海からそう遠くないサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]で、貧困と暴力にあえぎながらも人口が爆発的に増えていることが、ヨーロッパにとって事実上の「爆弾」になっていると訴えている。

軌道と分岐点

本書では、データにもとづいた地図で、グローバル化のなかでの現在のアフリカの立ち位置を明確にしたいと思っている。現在の活力に満ちた状況は、アフリカ大陸のさまざまなレベル(国家、地方、大都市)で、軌道を多様化させるのには絶好だ。ちなみに、一部の国は新興国(南アフリカ、モロッコ)に組み入れられているのに対し、貧困と政治的な無秩序の負のスパイラルにおちいっている国(中央アフリカ共和国、ソマリア)もある。経済と人口、環境の動向が複雑にシンクロしているのである。

アフリカ経済の歩みはいたって遅い。人口の動向は、アフリカを専門とするイギリス人歴史家、ジョン・イリフェが強調するように(2009年)、鍵となるパラ―メーターの1つである。広大な空間を移動しながら暮らす、多いとはいえない人口に税を課すのが非常にむずかしいことから、アフリカの指導者は遠方との貿易を管理することで権力を築くことが多かった。それはたとえば、フランス人地理学者のロランプルティエが指摘するように、18世紀から19世紀に最盛期を迎えていた奴隷貿易である。これが先例となって、未加工の原材料(農業、鉱業、林業)の輸出に頼る資源依存型経済に踏襲され、19世紀終わりから、植民地時代をへて独立してからも実施されている。こうして、経済が原材料の世界相場に左右される脆弱な国家が生まれることになる。このようなやり方は、現在までのところ、多様な工程で経済全般を押し上げることができず、結果、より多くの人々の生活が持続的に向上する意味での発展からは見放されている。

1960年代の至福の時代(原材料の相場が高騰)のあとは、相場の下落で経済成長が失墜(1970-1980年)あした。つづく冷戦の終了(1990年)と、関連する支援の打ち切りなどで、アフリカの国々は貧困と政治危機のスパイラルにおちいり、各国は構造的な修正計画をよぎなく

された。次いで2000年から2014年にかけて、新たな好機が訪れる。中国の成長が世界の原材料相場を支えたのである。債務の帳消しと、新自由主義経済の改革(ゆるい税制と、法的な安全性)に引きつけられた対外投資が、とくに新興国(中国がいちばん目立つが、一国だけではない)から競ってつぎこまれた。くわえて、国外移住者からの送金や、グローバル化された金融が、合法違法にかかわらず流れてくる。この間、経済は成長して資金が流通、各国はふたたび開発計画をスタートさせた。しかし2014年以降は、景気循環の周期が短くなり、読みとりにくくなっている。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]の影響で、とくに経済が打撃を受け、アフリカの成長は抑止され、政治の不安定化が助長されている。2022年初頭現在、ロシア・ウクライナ危機で世界に新たな衝撃をあたえていることもあり、その中期的な結果を判断するのはいっそうむずかしくなっている。

ところでアフリカの人口は、奴隷貿易や植民地時代の武力衝突などで減少していたのだが、第2次世界大戦以降、猛烈な勢いでとりもどしている。世界の人口転移の最新版では、アフリカ人は1900年には1億人だったのが、2000年には10億人になり、2050年には24億5000万人に達し、2100年に32億人から44億人のあいだで安定すると予想されている。都市化率も上昇している(人口に占める都市住民の割合は、1950年には14パーセントだったのが、2020年には43.5パーセント)。これらの変化は、かつてない規模とペースで起きており、好機をもたらすと同時に挑戦にもなっている。好機といえるのは、新興国を目ざすにはけた違いの消費とインフラ整備が欠かせないのだが、その点、都市化で経済力をつけた中流階級には相当の消費が期待できるからだ。そうなると、外部依存型経済[巻末用語]で貧困におちいってきた長い歴史とも決別し、大陸内部で生産性のある多様な分野に活路を提供する可能性も見えてくる総人口のなかで非労働力人口(15歳以下と、65歳以上)の割合が減少すれば、アフリカにもついに「人口ボーナス」期――労働力人口が増加して、消費や投資への購買力が高まり、経済成長が促進されること――が訪れることになる。そのいい例が、経済で急成長している中国だ。このシナリオでは、毎年、労働市場に参入する若い世代に見あう雇用が生まれることが想定されるのだが、そのいっぽうで、政治・社会が急激に不安定になるリスクもはらんでいる。これらをふまえたうえで、別の新たな開発軌道として考えられるのは、世界の投資をアジアからアフリカへ移動させ、安価な労働市場としては最後の鉱脈を発掘することで、産業に舵を切ってスタートすることだろう。この過程をふむと、都市部の新たなサービス業と、農村経済の多様化につながり、アフリカの農業と都市部市場の関係もより密接になるはずだ。

それにくわえて、人口の伸びで想定されるのは、環境との均衡を保ちつつ、増加した人口を養うために農業のパフォーマンスを向上させることである。そのためには、フランスの地理学者ジャン=ピエール・レゾン(1997年)や、農学者ミシェル・グリフォン(2006年)が強調するように、環境に配慮しつつ農作物の増産をはかる「緑の革命」が必要になるだろう。また一方で、アフリカ大陸の大半はいまだに農村部が貧困下にあることから、気候変動の影がよけいに重くのしかかっている。それによる結果はさまざま――その地域が乾燥化に向かうかどうかにより――であろうし、住民が気候変動に対応できるような設備にしても、いまだ確実なものはないのが現実だ。この不安を反映しているのが、2015年、国連の「ミレニアム開発目標」(MDGs)を受け継ぐ形で合意された「持続可能な開発目標」(SDGs)[2030年を目標]に、環境問題が統合されていることだろう。ちなみにこの重要問題は、2014年、「アフリカ連合」(AU-2001年に創設)に属する各国首脳が、前身「アフリカ統一機構OAU」の創設100周年を見越して合意した、長期的ヴィジョン「アジェンダ2063」にもしっかりと明記されている。

最後に、本書で使用した統計の出典についてひと言ふれておこう。強調したいのは、アフリカにかんする数字のデータでは信頼できるものがきわめて少ないことである。これは毎度のことなのだが、近年は状況が新しくなっている。実際に現在は、さまざまな組織が過剰なほどの統計的な情報を発信している。しかし、国連アフリカ経済委員会によると、アフリカで国際的基準に合致する統計を所有しているのはわずか12か国だけである。これでは情報は豊富でも、世界銀行チーフ・ディレクターのシャンタ・デバラジャンの表現を借りると、「アフリカの統「計学の悲劇」は防ぎようがないだろう。アフリカでは、統計にかける国家予算や調整能力不足、計算方法の変化などから、慎重に扱うべき統計がおろそかにされている事実がある。たとえば2013年、ナイジェリアではGDP国内生産が再計算されて89パーセント増となるなど2倍近くに上昇、一挙に南アフリカを抜いてアフリカ最大の経済国になったのだが、貧困度はいっこうに減少していないのだ。それでも、いまや豊富な情報があれば、それを地図にして、将来を展望し、アフリカのおもな動向を理解することは可能なのである。

人口動態――とりもどした人口と不確実性

人口転換の推移[死亡率と出生率の低下による少産少死型への移行]がもっとも遅れたアフリカ大陸では、20世紀後半以降、人口がめざましい勢いで増加している。なかでも若年層の伸びは、最近はややペースが落ちているとはいえ、大幅に増えつづけている。地域によってかたよりがあるのは、時代の変化に追いつけなかったことの反映だが、その問題はさておき、一部の状況で問われるのは、人口転換の普遍的モデルがはたして有効かどうかである。

歴史的なとりもどしと、人口増加による方向転換

1950年以降に観察される人口の伸びで、世界におけるアフリカの地位は変化した。1650年、アフリカ大陸の人口は1億人で、世界人口の20パーセント、インドや中国も同程度だった。1900年になっても、奴隷貿易による直接的、間接的な影響で、人口はいっこうに増加せず、植民地時代も武力衝突などで、人口は少ないままだった。1950年、アフリカの人口は世界人口の7パーセントだったのである。

死亡率が低下しはじめたのは、第2次世界大戦前の北アフリカと南部アフリカからで、ついでアフリカ全土で低下し、いった。おもな要因は、ワクチンが徐々に普及していったことである。いっぽう、世界でも突出して高い出生率の低下には、サハラ以南の国々では時間がかかっており、なかには中部アフリカのように上昇している地域もある。これは医療や社会的・経済的の進化のおかげである。

人口の平均増加率が最高に達したのは、1980年代のはじめ(年に3パーセント近くで、20年間で人口が倍増)以降はゆっくりと減少に転じ、2021年に2.6パーセントになって安定している。この上昇率はより多くの人口にかかわることから、まさに力強い人口増加といえるだろう。

こうしてアフリカの人口は、2021年現在で14億人(世界人口78億人の17パ―セント)。将来的な展望では、2050年には24億5000万人(世界人口97億人の25パーセント)となり、うちナイジェリアが4億人(2021年は2億1100万人)で、人口では世界第4位。エチオピアとコンゴ民主共和国も世界の上位10か国に入ると予想されている。

かたよった、不明確な人口転換

アフリカの人口転換の推移(死亡率と出生率の低下の時期的な遅れ)は、大陸全体が同じ段階にあるわけではない。北アフリカと南部アフリカは、ほぼ終わった段階だろう。人口の増加が非常に力強かったのは、1950年代から1980年代にかけてで、以降は足ぶみ状態になっている。合計特殊出生率[女性1人が15-49歳までに産む子どもの平均数]も、現在は女性1人につき子ども3人以下が多く(教育と女性解放のパイオニアであるチュニジアは2.1人)、出生・死亡数の差(自然増加)もゆるやかになっている(年に1.2から1.8パーセントの増加)。現在進行中の人口の伸びがみられるのは、おもにサハラ以南アフリカだ。歴史的に人口が少なかった中部アフリカは、2050年に向かって北アフリカを超えるはずである。その地域では、とくにコンゴ民主共和国などが、非常に高い合計特殊出生率(6人以上)を維持している。いっぽう、それよりも合計特殊出生率が高いのはサヘル地域[サハラ砂漠南縁部]の国々で、この点で長く世界記録を保持しているのがニジェール(6.9人)だ。

世界のほかの地域と同じように、合計特殊出生率の低下は発展と都市化の反映でもある。死亡率の低下と女子教育による意識の高まり、それ以外に、都市生活のむずかしさが出生率を下げている(家賃や教育、健康にお金がかかる)。その傾向がよくあらわれているのが、中程度に発展している沿岸の国々(ガボン、コ―トジヴォワール、ガーナ、ケニア)で、人口転換がより進み、そのなかでも変化の波はまず都市住民や、教育のある富裕層におよんでいる。

しかし、こうした人口転換はつねに円滑に進むわけではない。サヘル地域のように、全体的に死亡率も合計特殊出生率も低下しているものの、それらが互いに拮抗しているところもある。これは乳児の死亡率が依然として高く、それに社会的、経済的不安がくわわって、子どもを多く育てたいという欲求が維持されている結果である。同様に、ガーナやケニアなどの一部の国では、長く継続して家族政策がとられているにもかかわらず、合計特殊出生率の低下は遅々としている。アルジェリアでは、2000-2005年以降、合計特殊出生率がわずかに上昇し(2.4パーセントから2020年には2.8パーセント)、世界的なモデルの逆をいっているように見える。

若い世代の挑戦

2021年現在、サハラ以南アフリカ(南アフリカをのぞく)の人口の42パーセントは15歳以下で、25歳以下は3分の2を占めている。アフリカ全体をみると、65歳以上の高齢者は4パーセントだ。人口転換のかかわり方におけるズレは、年齢のピラミッドにもあらわれている。北アフリカでは、ピラミッドの下はどちらかというと圧縮しており、中央部がふくらみ、頂上もそれなりにふくらんでいる。いっぽう、西アフリカと東アフリカの国々では、ピラミッドの底辺は幅広く、頂上がとがっている。このような人口構成には重い結果がつきまとう。2010年から2012年にかけて、北アフリカで発生した民主化運動「アラ「ブの春」は、とくに人口の増加がきわだつ年齢層の雇用のむずかしさを浮き彫りにしている。いっぽうサハラ以南アフリカでは、出生率が上昇に転じた影響で、労働力人口率(15歳から65歳までの割合)はいまも伸びつづけている。このままいくと、サハラ以南の国々もいわゆる「人口ボーナス」期(投資と消費のための人口が多くなる)を迎えることになり、中国モデルを追随できそうだ。しかし、それには毎年、労働市場に流れこむ多くの若者たちの雇用を創出することが前提だ。ちなみに2015年に労働市場に新しく参入した若者は2200万人、2030年には3200万人になると想定されている。このような問題に挑むには、大陸をむしばむ社会的・政治的な不安定さが増大するリスクをおかしても、経済的に新しいモデルを生みだすことがぜひとも必要なのである。

教育は人口と開発の中心問題

アフリカの教育制度は、2000年代に大きく進化したにもかかわらず、そのパフォーマンスは低いままで、世界的レベルでも最低の位置を占めている。識字率がもっとも低いのはサハラ以南アフリカ(2019年度で、15歳以上の66パーセント)で、世界で読み書きができない若者(15歳から24歳)9900万人のうち、5000万人がこの地域である。若い世代の人口が増加しているアフリカでは、教育問題への挑戦が喫緊の課題になっている。

教育面でのかたよった進化

大人の識字率とその変化を見ると、対照的な状況が浮き彫りになる。この数十年で、アルジェリアは70から80パーセントに、ガーナは58から79パーセントに上昇したのに対し、その対極のギニアは40パーセントで頭打ち、ニジェールは35パーセントである。近代的な制度のなかで、アフリカの教育整備は相対的に最近のものである。この遅れは、同化とエリート主義を土台とした植民地時代の教育モデルでは教育の穴をうまく埋めあわせできなかったことで、現状の一部が説明できるだろう。教育現場での指導言語についての問題より実用的なヨ―ロッパ言語に対して、アフリカの言語を選択する正当性などが、定期的に議論になるのは別として、それでも、万人のための普遍的教育は20世紀のあいだにあらゆる地域で現実のものになっていた。

アフリカ諸国は、教育を支援する数々の計画を提示されたあとの2000年、ダカールで開催された「教育にかんする世界フォーラム」で、国連の「ミレニアム開発目標」をバッグボーンに、万人のための教育に沿った多くの目標[2015年まで]を目ざす取り組みに合意した。それでも、このアクションプランの結果はかんばしいものではなかった。サハラ以南アフリカは、初等教育の就学率ではもっとも高い数字をあげて進歩したのだが(1999年から2019年のあいだに59パーセントから85パーセントに)、しかし、都市と地方、富裕層と貧困層間のかたよりはいまも強く残っている。多くの国では、男子に比べて女子の就学率が低く、ニジェールやチャドでは、女子は初等教育の生徒数のそれぞれ46パーセントと44パーセントである。サハラ以南アフリカでは、男性の72パーセントが読み書きができるのに対し、女性はわずか60パーセントである。教育の質もまた問題で、アフリカ大陸の落第者率は記録的だ。初等教育のサイクルを終えた生徒の割合は、世界平均が83パーセントなのに対し、アフリカは60パーセント以下である。Covid-19[新型コロナウイルス感染症]のパンデミックは、就学に悪影響をあたえ、学校はほとんどの国で数か月、ウガンダでは2年近く閉鎖されている。

教育と養成は開発の中心問題

国家にとって教育制度への支出は、かぎられた予算や高い人口増加率からして、

質的にも量的にも、大きな挑戦である。1980-1990年の災害などによる10年間の危機のあと、アフリカへの貸付け投資はほかのどこよりも増加したのだが、予算全体をカバーするのはむずかしく、教育分野に投入された開発の公的援助の割合をみても、進展は見られない。

学校の建設と整備は問題を残したままである。生徒をとり囲む環境をみても、教員の養成はいきとどかず、報酬も少ないなど、同じく問題をはらんでいる。ちなみに、サハラ以南の国々では、教員1人に初等教育の生徒数は平均で42人、中等教育では25人(対して世界の平均は24人と17人)だ。このような状況を前に、宗教色のない、あるいは逆に宗教をうたう私立学校が増え(サハラ以南アフリカでは中等教育の生徒の20パーセント)、格差が広がるいっぽうの社会の上層階級や、差別化の要求にこたえている。

教育の発展にかんしては、高等教育や、専門職としての教員の早急な養成も問題として残っている。大学への入学者は急速に増えているものの、非常にかたよったままで、アルジェリアの若者の52.5パ―セントに対し、ブルキナファソの若者はわずか7.8パーセントである。いっぽう、学生数は増加していても、大学の施設は飽和状態で、ヨーロッパやアメリカの大学に匹敵するレベルにはなく(例外は南アフリカの大学)、アフリカの学生の20人に1人は欧米の大学に入学している。くわえて、失業は高等教育資格所有者にも重くのしかかり、一部は国外に移住しているのが現状だ。

キンシャサ――創造の熱気あふれるインフォーマルの中心都市

コンゴ民主共和国の地方都市かつ政治の首都キンシャサは、2018年度の人口は1300万人、世界のフランス語圏でもっとも人口密度の高い上位25都市の1つである。公的機関の管理が悪く、公共設備が不足しているにもかかわらず町が機能しているのは、もっぱらキンシャサ市民のおかげだ。多くは不安定な生活を送っているのだが、しかしエネルギーに満ちあふれ、それが首都の活力のもとになっている。

計画的な人種隔離から、制御不能の拡張へ

都市化された空間(2015年現在で約500平方キロメートル)は、当初マレボ湖[コンゴ川の中流に位置し、正確には川の広がった部分]に沿った広大な沖積平野に建設され、それから8から20パーセントの傾斜で標高700メートルまでだんだんと高くなる丘陵に広がった。

1881年、レオポルドヴィル[ベルギー王レオポルド2世の名から]という名で建設された町は、1923年、ボーマに代わってベルギー領コンゴの首都となり、1929年、首都機能が正式に移転された。当初は植民地の都市計画で、ヨーロッパ人の町と「原住民」の町は隔離され、あいだに管理設備のある中立地区があった。この人種隔離は、1950年代に新しい都市が建設されるとさらに強まった。

1960年6月30日の独立後は、中立地区での移動の管理は撤廃され、都市計画は名目だけになり、丘全体があっというまに長方形に分割された分譲地になった。このとき小区画を配分したのは「土地の長」[アフリカで雨乞いや豊作を天に祈る祈祷師]で、人口も都市空間も急増する状況のなか、恒久性のある住居(コンクリートブロック)が建てられた。こうしてキンシャサ(1966年に改名)の人口は、1960年には40万人だった(都市空間6.8平方キロメートル)のが、1975年には170万人(200平方キロメートル)、1984年には270万人(260平方キロメートル)、2005年には750万人(430平方キロメートル)になった。2030年には、2014年に計画されたキンシャサ都市戦略方針によると、人口がさらに密集して全体で1800万人(国連の予想では2200万人)、都市圏は860平方キロメートルになるとされている。

このような状況のなか、設備やインフラへの投資は、拡張しつづける都市に追いついていないのが実情だ。雨期になると丘陵や、洪水の多い地域に住む市民は浸食や泥流、洪水のリスクにおびやかされている。道路網は並以下で、アスファルト舗装は10パーセント、修繕もされておらず、鉄道の線路も機材も老朽化している。移動性はそこなわれ、市民の57パーセントは徒歩で往来、交通機関の不備が住民排除の要因になっている飲料水の生産も不十分(1人1日60リットル)なら、電線の引きこみ率も低く(40パーセント)、ゴミの収集場もめったにない。とくに、排水処理では下水道が1パーセントしかカバーしておらず、清潔でゴミ1つなかった1970年代、住民から「美しいキンシャサ」といわれていた町は、「ゴミ箱のキンシャサ」とさげすまれるようになった。それでも首都は、市民のエネルギーで活気に満ちているのである。

 映像を見ているとイスラエルが「乳と蜜の流れる」約束の地というのは本当にここなのか
「イスラエルを飢饉が襲い、ヤコブと息子たちはエジプトに逃れ、エジプトで宰相を務めていた11番目の息子ヨセフに救われた。しかし、ヨセフの死後、彼らの子孫は迫害されるようになり、400年にわたって奴隷にされた。そこで神は、アブラハムと交わした約束を、今度は、エジプトの砂漠にあるシナイ山でモーセに伝えた。神はモーセに、ユダヤの民は神が選んだ民であると告げ、「十戒」を与えた。これが、ユダヤ教の基礎となった。モーセは神の助けを得て、ユダヤの人々を奴隷の立場から救い出し、「乳と蜜の流れる」約束の地に移住させた。」

 神はどちらに約束の地を与えたのだろう。アラブ人なのだろうか、ユダヤ人なのだろうか。それとも、分かち合いの精神を学ばせるために、両方の民に与えたのだろうか。この土地の正当な所有者がどちらの民族なのかという問題は、人類史上、最も長く続く争いのもとになった。長期間にわたる宗教戦争や領土紛争にも発展し、争いは今日も続いている。 『137億年の物語』
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 『現代イスラーム講義』

東大塾『現代イスラーム講義』

世界に広がる預言者ムハンマドの一族「異」なるものへの共感

森本一夫東京大学東洋文化研究所教授

イスラーム史、イラン史専攻。なかでも預言者ムハンマド一族の研究を特色とする。東京大学人文科学研究科修士課程修了(東洋史学)博士(文学)東京大学東洋文化研究所助手、北海道大学文学研究科助教授などを経て現職にいたる。研究業績に『聖なる家族―ムハンマド一族―』(山川出版社、2010)『ペルシア語が結んだ世界もうひとつのユーラシア史―』(編著、北海道大学出版会、2009)、『シーア派の自画像一歴史・思想・教義-』(翻訳、慶應義塾大学出版会、2007)などがある。

はじめに

第3講の講義を担当する森本一夫と申します。私は、自分にとっては「異」なるものであるムスリム諸社会の歴史を、「異」なるものに対する好奇心に突き動かされながら、しかし同じ人間の営為として共感的に見るという姿勢を大事にしつつ、研究している者です。専門分野は歴史です。こういう私ですから、今日はまさに、一見物珍しい「異」なるものも子細に見ていくとどんどん身近に感じられるようになる。自分と同じ人間の営為なんだなあと共感が湧いてくるという、そういう体験を皆さんにしていただこうと思っています。「イスラームとどう付き合うか」というテーマの連続講義に参加されているのですから、皆さんご自身も私と同様ムスリムではない。外部から「イスラーム」という対象を眺めるという立場でおられるという前提でお話しさせていただきます。「異」なる部分は確かにある。しかし、同じ人間の営為である限り共感的に理解できる道筋はいくらでもある。この当たり前の陳腐なことがこの講義のメッセージということになります。しかし、ことイスラームに関する限り、教養豊かな受講生が集まるグレーター東大塾というような場においてさえ、この陳腐なことが繰り返し強調される必要があるというのが、日本で一般的なイスラーム認識についての私の現状理解です。

講義の主役はイスラームの預言者ムハンマドの一族だと称している人々です。いま現在、世界中にはムスリムが18億から19億人くらいいると言われていますが、そのなかにはこのムハンマド一族を称する人たちが、確実に数千万のオーダーで存在します。億を超える可能性もあるかもしれません。預言者の一族というと、ムスリムの間にごくごく少数そのような立場を称する人がいるという話だとお考えになるかもしれませんが、そういうことではないのです。この非常に広範な現象が今日の主題です。預言者の一族とされる人々が多数存在し彼らの血統が特別視されているということは、明らかに我々にとっては「異」なることでしょう。しかし、特別な血統という言説それ自体、あるいは特別だとされる血統が存在するときにそれをめぐって起こる人間模様は、多分皆さんにも身近に感じていただけるものなのではないかと思っています。例えば、ムハンマド一族に属していると特権に与ることができるということを知った上で細かく見ていくと、そこには、では誰がムハンマド一族で誰がそうでないかという問題をめぐるかなり泥臭い人間的な営みがあるわけです。

話の進め方は以下の通りです。まず、講義の前半では、ムハンマド一族とは具体的にどのような人々なのか、そうした人々はどのような理屈にもとづいて特別な人々として遇されているのかを説明します。この部分では、目新しいものに対する好奇心を全開にして、なんと世界にはそんなことがあるのかと、「異」を知ることを楽しんでいただければと思います。その上で、講義の後半では、前半でその俯瞰図をお示しした「異」なる現象の細部のいくつかにズームアップし、そこで起きてきた、またいまも起きている、人間的な営みについてお話しします。後半はしたがって、うわー、自分がこの人の立場でこのルールのこのゲームに参加していたとしたら絶対同じようにプレイするな/しないなというような、共感的な姿勢で聴いていただければ、私の狙いはうまくいったことになります。

世界に広がる預言者ムハンマドの一族

なお、以下で「ムハンマド一族」というとき、それは大方の含意としてはムハンマドの直系の子孫とされる人々を指しているとご理解ください。次の「ムハンマド一族の面々」で触れる人たちは、実際全てムハンマドの直系の子孫と称している人たちです。では、なぜムハンマドの子孫と言ってしまわないかというと、そこにはすでに、子孫こそが一族だという意見と一族はもっと広い範囲の親族を含むのだという意見の対立という人間的な営みが関係しています。これについては、また講義の後半で説明することといたしましょう。

1 ムハンマド一族の面々

過去に生きた、そして現在を生きているムハンマド一族の人々を見回し、預言者につらなるこの血統の広がりを確認するところからお話を始めたいと思います。最初にとりあげるのはヨルダンの国王アブドゥッラー2世です。ヨルダン王家は、第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブ大反乱(映画『アラビアのロレンス』の舞台となった反乱)を率いたメッカ太守の子孫です。メッカ太守の家は12・13世紀の交から1925年までイスラーム第一の聖地を支配し続けてきた超名門なので、アブドゥッラー国王はその超名門を通じた預言者の直系の子孫ということになります。アブドゥッラー国王のお母さんはイギリス出身で、前王との結婚前はクリスチャンだった方ですが、血統は父方が繋がっていればいいのでこれはムハンマド一族を称する障害にはなりません。

ヨルダン政府は2004年に「アンマン・メッセージ」というものを出していて、スンナ派やシーア派、またその他のイスラーム諸派に対し、同じムスリムとして手に手を取り合って平和的にやっていくことを呼びかけています。ここで面白いのは、なぜヨルダン政府がそうしたメッセージを出すのかという説明です。メッセージのなかでは、ムハンマド直系の子孫である我が王家には、イスラームに関わる事柄についてイニシアティブを取る責任があるのだとはっきりと述べられています。この一例だけからも、ヨルダン王家にとって、ムハンマド一族の血統はただのお飾りなのではなく、実質的な意味をもっているということがお分かりいただけるでしょう。

ブルネイ・ダルサラーム国の現国王(スルタン)、ハサナル・ボルキア国王もムハンマド一族の血統を称しています。ブルネイではいまに続く王家が14・15世紀に支配を固めるのですが、比較的初期のうちに、アラブ圏からやってきたとされるムハンマド一族の人物が王家に婿入りし、王家はそれ以降ムハンマド一族の血統を称しています。世界を見回すとき、王様というものには何らかの聖なる後ろ盾があるとされるのが普通で、マレ一世界にも王権と聖なるものを結びつけるマレー世界独自の理論が存在するのですが、イスラーム化に伴いムハンマドにつらなる血統も意味をもつようになっているわけです。

二人の国王とは大分趣きが変わりますが、いわゆるイスラーム国(IS)のリーダー(講義当時)、アブー・バクル・バグダーディーがムハンマドの子孫を称していることにも触れておきましょう。これは、彼がムスリム共同体全体の指導者を意味するカリフの位を称していることと関係していると考えられます。明確な規定によってそれが条件とされているわけではありませんが、預言者ムハンマドの権威を引き継ぐカリフにはムハンマド族出身者がふさわしいという考えがそれなりに広く受け入れられているからです。ムハンマド一族の血統という問題は、実は直近の時事ネタにも深く関係しているのです。

さて、ISがとくに敵視している相手の一つがシーア派(ここではシーア派のなかでも十二イマーム派を含意以下同様)です。イランの最高指導者アリー・ハメネイ師と言えば、そのシーア派世界の重要人物ですね。彼の前の最高指導者は、皆さんもっとよくご存じかと思いますが、ルーホッラ・ホメイニ師でした。この二人もムハンマド一族の血統を称しています。最高指導者になる資格としてムハンマド一族の血統が定められているわけでは決してないのですが、少なくともホメイニ、ハメネイという2代の最高指導者については、彼らがムハンマド一族に属していることがその権威を高める一要素となってきたと言って間違いないでしょう。

このように、イスラーム圏の政治指導者をザッと見回してみただけでも、ムハンマド一族の血統を称している人々がそれなりにいることが分かります。他にもモロッコ王家がムハンマド一族の血統を称しているのは有名です。以上からは、また、ムハンマド一族を称す人々がイスラーム圏のさまざまな場所に、またイスラームの二大宗派であるスンナ派とシーア派の両者にまたがって、生きていることも分かります。

次に宗教指導者の例を見てみましょう。イスラームについて語るときに政治指導者と宗教指導者を端から別のものとして話を進めてしまうのは方法として決して正しくはないのですが、ここで宗教指導者というのは政治的には目立った活動をしなかったタイプの宗教指導者を含意するということでお許しください。先の政治指導者というのも同様にゆるく理解していただけると幸いです。宗教指導者の間にもムハンマド一族を称する人たちがたくさんいます。図2はインドで買ったポスターの一部ですが、描かれているのは12世紀のイラクで活動した聖者、アブドゥルカーディル・ジーラーニーという人物です。一般にムハンマド一族出身とされています。ここでジーラーニーを出したのは、しかし、単に宗教指導者の一例としてのジーラーニーがムハンマド一族出身と理解されていることをお伝えしたかったからではありません。彼の例は、ムハンマド一族とされる家系には、同じくムハンマド一族とされる聖者を通じて血統を主張している例が数多く見られるという、もう一つの広範な現象をお伝えするのにちょうどよいのです。聖者ジーラーニーの子孫たちは、往々にして、イスラーム神秘主義(スーフィズム)教団の一つでジーラーニーの衣鉢を継ぐとされるカーディリーヤで指導的な立場にありました。そして彼らは、カーディリ―ヤの発展と歩を合わせるように各地に移住していったのです。その結果、仮に本人は宗教指導者としての役割を果たしていなかったとしても、聖者ジーラーニ一の血統とムハンマドの血統を合わせもつ人々が、それこそ西はモロッコから東はインドネシアまで広く見られるようになっています。このような、ムハンマド一族の血統を称す聖者を先祖とする二重の意味での聖なる家系は、さまざまな場で見ることができます。

さて次の図3ですが、これはイランのサーヴェという町の墓地で撮ったものです。この人は家族の墓参りに来た人からお金を取っては、供養のためにと言っていいでしょう、墓に向かってクルアーンだか祈疇の文句だかを詠んでいました。普通に考えて、豊かな、あるいは社会で指導的な立場にある人とは言えないでしょう。慎ましい生活をおくる人の日銭稼ぎと考えるのが自然かと思います。ムハンマド一族は、ここまで見てきたような社会の指導層に見られるだけでなく、こういう人たちも含んでいるのです。しかもこの場合、家族のお墓にお参りに来た人たちにとって、この人がムハンマド一族の一員だということには明らかに意味があります。お金を払って宗教的なテクストを詠んでもらう際、ムハンマド一族の詠み手とそうでない詠み手がいるならば、人情としてはやはり一族の人に頼みたいということになるわけです。このように、ムハンマド一族の人々は、単に庶民や貧しい人々の間にもいるというだけでなく、そのような人たちにとっても彼らが帯びている血統が得になる場面があるのです。一国の指導者からお墓のクルアーン詠みにいたるさまざまな社会階層の人を含み、しかもそうした人々それぞれが置かれた状況に応じて意味を発揮しうる血統。ムハンマド一族の血統がもつ面白さがここにあります。

さてしかし、家族の墓参りに来た人たちは、どうしてこのおじさんがムハンマド一族の一員だと分かるのでしょうか。すでにお分かりかもしれませんが、実は、このおじさんが被っている緑の帽子と肩にかけている緑のショールは、イランでは誰もがそれと理解するムハンマド一族の印なのです。おじさんは、自分はムハンマド一族だよと一目で分かる格好をして墓地で客待ちをしていたのです。イランでは、シーア派のお坊さんの場合、黒のターバンがムハンマド一族の、白のターバンがそうでない人の、印になっています。お坊さんの場合、お坊さんとしての正式な服装をすれば、否応なしにムハンマド一族かどうかが外見的に示されるということになります。それに対しお坊さんでない場合は、このおじさんが身につけているような、はっきりした緑色をしたいくつかの特定のアイテムが印となります。こちらは全くの随意で、自分の血統を外見で示したいと考える人だけが使うものになります。帽子とショール(首に巻いたり首や肩に掛けたりする、あるいは腰に巻くこともある)が代表的なものです。緑色は天国の住人の衣の色ともされ、一般にイスラームを象徴する色と考えられている色ですが、このように、ムハンマド一族の人々が一目見ただけでそれ以外の人々と区別されるような格好をしていることはかなり広く見受けられることです。図4は、16世紀末のオスマン帝国に暮らしたムハンマド一族の人々を描いたものですが、ここでも彼らが緑のターバンを被っているのが分かるでしょう(本をお読みの方は挿図を白黒でご覧かと思いますが、4人のターバンはす)。そしてもう一つ、ターバンの下から伸びている二筋の髪の房にも注目してください。この二筋の髪の房というのも、いまではどうも廃れてしまったようですが、昔はムハンマド一族であることを示す印として広く知られたものでした。

ムハンマド一族を他と区別する手段としてもう一つ大事なのは、彼らだけに使われる特別な呼び名です。例えば彼らは、モロッコでは一般に「シャリーフ」と呼ばれます。「高貴な人」という意味です(女性の場合はシャリーファ)。南フィリピンなどではこれがなまって「サリップ」となるようです。同様にイランではアラビア語の「サイイド」(女性形は「サイイダ」)がペルシア語になまった「セイイェド」が使われます(インドでの「サイヤド」というのも同じ)。このうち「サイイド」という称号について言うと、これはアラブ圏でもそれなりに広く使われていたのですが、20世紀に入ってからムハンマド一族を特別視するのはよくないという主張が言論界で力をもつようになった結果(この動向については講義の最後で少し説明します)、我々が教科書で学ぶような標準アラビア語ではムハンマドー族の意味では使われなくなり、ただの「ミスター」という意味で使われるようになってしまいました。したがって、イランで誰かが私に「セイイェド森本」と呼びかけたとすると私は「いやいや私はムハンマド一族ではありません」と言わないといけないのに対し、ヨルダンで誰かに「サイイド「森本」と呼ばれても問題ないという、やや混乱した状況が生じています。あと、私が「サイイド」と言うと意外と多くの方が「あっ、私も一人知っている」と、オリエンタリズム批判で有名なエドワード・サイードの名前を嬉しそうにおっしゃるのですが、残念ながらこの二つの単語は別物です。「サイイド」はアラビア語のローマ字転写ではsayyid、サイードの方はsaidで、似てはいるのですが別物です。ちなみに「サイード」の方は「幸せな」(形容詞)、「幸せな人」(名詞)というような意味です。

2ムハンマド一族を支える考え方 せーら

世界のムスリムの間にかなり多数のムハンマド一族とされる人々が、しかも社会のさまざまな場所に散らばる形で、暮らしてきたことがお分かりいただけたと思います。では次に、彼らの広範な存在を支えている、ものの考え方を見てみましょう。こうした現象は、ムハンマド一族の血統には意味がある、血統をもつ人は他の人とは違う、という考え方があってはじめて可能となったと考えるのが自然でしょう。主張しても誰も何とも思ってくれない血統であったならば、これほどの広がりを見せることにはならなかったと考えられます。皆が皆そう思っているわけではないにしても、ある程度は人々に特別だと認められていなければこういう状況にはならなかったでしょう。では、ムハンマド一族の人々はそれ以外の人々と何が違うとされているのでしょうか。以下では彼らにはそれ以外の人々にはない「ありがたさ」が備わっているという考え方と、彼らには他の人々はもたない、他の人々に対する権利があるという考え方の二つに分けて説明したいと思います。

まず、ムハンマド一族のありがたさですが、これには聖典クルアーンそれ自体に根拠があるとされます。最もよく知られているのが「アッラーはただ、この家のものたち(よ)、おまえたちから汚れを取り除き、そしておまえたちを清らかに清めたいと欲し給うのである」という章句です(33章33節;中田考監修『日亜対訳クルアーン』より)。この章句は、「家のものたち」が「ムハンマドの家のものたち」、さらには「ムハンマドの一族の者たち」と解釈され、ムハンマド一族が神によって「汚れを取り除」かれ、「清らかに清め」られた人々であることを示すものと解釈されます(他の解釈もあるのですが、そのことには後に触れます)。神によって汚れを取り除かれ、清められたというのですから、これはムハンマド一族の者たちが他の人々には及びもつかない神与の清らかさをもった本性的にありがたい人々であることを意味するということになります。ムハンマド一族のありがたさに関する議論のなかには、この章句にもとづき、ムハンマド一族の者はその本性的な清らかさによって、現世で罪深い人生をおくっても最後にはその罪はぬぐい去られ地獄に行くことはないと主張するものさえあります。また、さまざまな罪を犯すムハンマド一族出身の者をどぶに落ちた金貨に喩えた論者もいます。どんなに泥が表面を覆い尽くしたとしても、それは金貨の輝きに少しの影響も与えるものではないというわけです。また、一般信徒の日常的な実践というレベルでは、例えばムハンマド一族の人々には病を治す力があると信じられているケースがあることが指摘できます。そういう場合に、そう信じている人をつかまえてあなたのその信仰の典拠は何ですかと問うても、まあ大半はポカンとされるだけでしょう。しかし、そのなかにそれなりの宗教教育を受けた人がいた場合に、その人がこの章句に言及しながら自分の信仰を説明したとしたら、それはいかにもありそうなことだと思います。「清らかさ」は、広く聖性一般に敷衍可能なものと観念されているのです。

ムハンマド一族のありがたさは、彼らには信徒たちを導く使命が与えられているという意味でも主張されます。この主張がなされる際に最も頻繁に典拠として引かれるのは、ムハンマド自身が語ったとされる、私の死後、信徒たちはクルアーンと私の一族に従っていれば道を踏み外すことはないという言葉です。他にも、私の一族はノアの箱舟のようなもので、それに乗った者は救われるが乗らなかった者は滅び去るという内容の言葉も伝えられています。なお、ムハンマドの言とされるこうした伝承はハディースと呼ばれ、クルアーンにつぐ典拠性をもつとされています。

ムハンマド一族のありがたさに対する信仰は、彼らがムハンマドといったさらにありがたいご先祖さまたちと時空をこえた超自然的なつながりをもつとされることにも及びます。一般信徒向けに説教の会などで語られてきた逸話のなかにはムハンマド一族に対しどう振る舞うべきかを説いたものがあるのですが、この考えはそうした逸話のなかにとくにはっきりと現れています。ムハンマド一族の者たちに対して善行を行った人が、夢、あるいは覚醒時のヴィジョンに現れた預言者などムハンマド一族のありがたい始祖たちから褒美を与えられる、逆に、ムハンマド一族の者にすげない態度をとった人がそうした始祖たちからつれない態度をとられてしまう、というような逸話が多く見られるのです。歴史的に見ればとうの昔に亡くなってしまっているといっても、ムハンマドなどのありがたい始祖たちはこの世界とは次元の違う不可視界と呼ばれる世界で自分の一族のことを見守っており、夢やヴィジョンを通じてこの世のできごとにも介入してくることがあるというわけです。

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『万物の黎明』

 『万物の黎明』

人類史を根本からくつがえす

デヴィッド・グレーバー

なぜ国家は起源をもたないのか

主権、官僚制、政治の卑賤なるはじまり

「国家の起源」の探求は、「社会的不平等の起源」の探求とほとんどおなじくらい古い。そして、それとおなじくらい熱い議論が交わされてきた。そしてまた、多くの点で、それとおなじように骨折り損である。今日、世界中のほとんどの人間が、国家の権威の下で暮らしているとふつうには考えられている。おなじように、ファラオ時代のエジプト、股の中国、インカ帝国、ベニン王国などの過去の政治体制も、国家ないし、すくなくとも「初期国家」とみなしてよいという感覚は浸透している。しかし、国家とはなにかについて社会理論家のあいだにコンセンサスがないため、問題は、これらの事例をすべて包摂しながら、それでいて、ガバガバすぎて無意味にならないような定義をどのように設定するか、になる。ところが、これが意外とむずかしいのである。

「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは、六世紀後半になってからのことである。フランスの法律家ジャン・ボダンが、この言葉をひねりだしたのがことのはじまりだ。ジャン・ボダンは、魔女、狼男、邪術師の歴史などをテーマにした、影響力のある論文を執筆した人物でもある(さらにボダンは、女性に対する極度の憎悪によっていまだに記憶されている)。しかし、おそらく最初に体系的な定義を試みたのは、ルドルフ・フォン-ェーリングというドイツの哲学者であろう。かれは一九世紀後半に、「国家とは、所与の領域内で合法的な強制力の使用を独占することを主張する機関である」とする定義を提起した(この定義は、それ以降、社会学者マックスェーバーのものとみなされるようになる)。すなわち、まずある一定の範囲の土地の領有権を主張する。そして、その境界線の内部では、人を殺害すること、殴打すること、肉体の一部を切断するこ監禁することをゆるされる唯一の機関がわれなりと宣明する。イェーングの定義によれば、そのとき、政府は「国家」となるのである。

フォン・イェーリングの定義は、近代国家にはかなり有効であった。ところが、人類史のほとんどにおいて、支配者はそのような大仰な主張をしていなかったことがすぐにあきらかになった。あるいは、われは強制力を独占するものなり、などと口ではいうが、そこにはほとんど実質がなかったのである。つまり、その主張は、われは森羅万象を支配するものなりといった言明と変わるところがなかったのだ。フォン・イェーリングやヴェーバーの定義を保持するならば、たとえばハンムラビのバビロン、ソクラテスのアテネ、征服王ウィリアム支配下のイングランドなどは、まったく国家ではないと断じるか、あるいはもっと柔軟でニュアンスのある定義をひねりだす必要にせまられることになろう。マルクス主義者にも、国家の定義がある。かれらによれば、国家が歴史的にはじめて登場するのは、新興支配階級がわが権力を防衛するためである。他者の労働力に依存して日常的生活をいとなむ人間があらわれるや、かれらは必然的に支配の装置を構築することになる。公式的にはみずからの所有権を守るため、実質的にはみずからの優位性を保つためにである(まったくルソー的思考の系譜に属している)。この定義ならば、バビロン、アテネ、中世イングランドは、あらためて国家の名に値するものとなる。だが、それはまた、搾取をどのように定義するかなどといった、あたらしい概念上の問題も導入した。また、リベラル派にとっては、このような定義は、国家が善良なる機関となる可能性を排除するものであり、好ましくなのだった。

二〇世紀のほとんどを通じて、社会科学者たちは、国家をより純粋に機能的観点から定義することを好んだ。社会が複雑になるにつれ、あらゆるものごとを調整するため、トップダウンの指揮構造を形成する必要性が高まってきたと主張したのである。現代の社会進化論者のほとんどが、基本的にこの論理を踏襲している。そこでは「社会の複雑性」を示す証拠があれば、反射的にそれはある種の統治機構の存在を示す証拠とみなされる。(たとえば、都市、町、村落、小村といった)四段階の集落ヒエラルキーについて語るとして、それらの集落のすくなくとも一部にフルタイムの専門家(土器づくり職人、鍛冶屋、僧侶や尼僧、職業兵士や音楽家)がいたとすれば、それを管理する装置は、それがどのようなものであれ、事実上、国家でなければならない。そして、その装置が実力の独占を主張したり、めぐまれぬ労者の労苦で生活するエリート階級を支えたりはしてかったとしても、遅かれ早かれそうなることは避けられなかった、とこういうわけだ。この定義にも利点はある。断片的な遺物からその性質や組織をあきらかにしなければならない超古代社会について推測するばあいには、この定義は役に立つ。とはいえ、その論理は完全に循環している。基本的には、それは「国家は複雑であるからして、複雑な社会組織は国家である」といっているにすぎないからである。

実のところ、前世紀の「古典的な」理論的定式化のほとんどすべてが、まさにこの想定から出発している。つまり、大規模で複雑な社会には必ず国家が必要だという想定だ。とすれば、真の争点は、以下の点にある、なぜそうなるのか?なにがしかの筋の通った実際的理由からか?それとも、そのような社会は必然的に物質的余剰を生みだすからなのか?すなわち、物質的余剰があれば、――たとえば太平洋岸北西部の魚の燻製のように――分け前を他より多く手に入れようとする人間たちが必然的に存在することになるからか?

第8章ですでにみてきたように、最初期の都市に対して、このような想定はとりわけ有効ではない。たとえば、初期のウルクは、いかなる意味でも「国家」ではなかったようにおもわれる。それに、古代メソポタミア地域でトッブダウンの支配が出現したとしても、そこは低地の河川流城に位置する「複雑な」大都市ではなく、周辺の山麓に位置する小規模な「英雄」社会だった。ところが、それらの社会は行政管理の原理を嫌っていたため、結果的にこれもまた「国家」とみなしえないようにおもわれる。後者の「英雄」社会」に民族誌的に比肩ものがあるとすれば、それは北西海岸の社会かもしれない。というのも、そこでも政治的リーダーシップは、自慢好きで虚栄心の強い戦士貴族の手にゆだねられ、かれらは、称号や財宝、平民の忠誠や奴隷の所有権をめぐって派手な争いをくり広げていたからだ。ここで想起してほしい。ハイダ族やトリンギット族らは、国家装置と呼べるものをもたないだけではなかった。かれらはフォーマルな統治機関のすべてを欠いていたのだった。

すると「国家」は二つの統治形態(官僚的形態と英雄的形態)が融合したときにはじめて出現したのだな、と考えるむきもあるだろう。それもありえないわけではない。しかし、それと同時に、そもそもそんな問いに本当に意味があるのか、と疑義を呈することも可能だ。国家が不在であって君主支配、貴族支配、奴隷制、極端な形態の家父長制の支配は可能であり(実際にあきらかに可能であった)、国家がなくても複雑な灌漑システムを維持したり、科学や抽象的な哲学を発展させたりすることが同様に可能であるならば(これもまた実際にそうであったようにおもわれる)、ある政治体は「国家」であって、ある政治体は「国家」じゃないと区分することで、人類の歴史について本当に意味あることを学ぶことができるのがつうか?もっと退屈でなく、もっと重要な問いがあるのではないだろうか?

この章では、その可能性を探ってみたいとおもう。古代エジプトと現代イギリスの統治機関のあいだには深いところで共通するものがあるにちがいないから、それを正確に解明しなければならない、というふうに考えるのではなく、問題全体をあらたな視角から検討してみるなら、歴史はどのようにみえてくるだろう。都市が誕生したほとんどの地域で、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいない。しかし、それらにはどんな共通点があるのだろうか?はたして実際に共通点はあったのか?それらの出現は、人間の自由と平等、あるいはその喪失の歴史について、なにを物語っているのだろうか?それ以前のものの根本的な断絶を示すものがあるとすれば、それはどのようなものだろうか?

ここでは、支配の三つの基本形態にかんする理論が提示され、それが人類史にもつ含意の探究に手が着けられはじめる

この課題に取り組むためのベストの方法は、第一原理に立ち返ることである。わたしたちはすでに、根源的ないし基本的自由の諸形態についてはふれた。すなわち、移動する自由、命令に従わない自由、社会的関係を再編成する自由である。では、支配の基本的形態についても同様に語ることができるだろうか?せーら

ルソーが有名な思考実験で、すべては私的所有、とりわけ土地の所有権に帰結すると考えたことを想起しよう。間が最初に囲いを築き、「この土地はわたしのものだ、わたしだけのものだ」といったあのおそるべき瞬間に、それ以降のすべての支配形態、つまりその後のすべての破滅的事態が必然となった、というわけだ。これまでみてきたように、社会の基礎としての、そして社会的権力の基盤としての所有権へのこのような執着は、西洋特有の現象であ実際、「西洋」なる観念になにがしかの実質的意味があるとするならば、それはおそらく、こうした観点から社会を認識している法的・知的伝統を指すということができよう。そこで[ルソーのものとは]いささか異なる思考実験をはじめるには、ここがよい出発点になるもしれない。封建貴族や地主階級、あるいは不在地主の権力が「土地を基盤としている」というとき、わたしたちは実質的にはどのようなことをいっているのだろうか?

わたしたちはしばしば、このような言い回しを、うわいた抽象論やご立派な建前をかきわけて、シンプルな物質的現実に接触するための方法として用いている。たとえば、一九世紀イングランドの二大政党であるホイッグとトーリーは、じぶんたちが理念をめぐって争っている、つまり、自由市場リベラリズムの観念と伝統の観念との対立を体現しているとみせかけたがっていた。史的唯物論者ならば、実際にはホイッグは商人階級の利益を代表し、リーは地主の利益を代表していたのだと反論するかもしれない。もちろん、かれらはただしい。それを否定するのは無謀なことである。しかしながら、わたしたちが疑問におもうのは、「土地」(あるいはその他の形態の)という財産が、それ自体すぐれて物質的なものであるという前提である。なるほど、土、石、草、垣根、納屋や穀倉などは、すべて物質的なものである。しかし「土地という財産[不動産]landedproperty」が論題にあがっているようなとき、実質的に語られているのは、特定のテリトリー内にある土、石、草、垣根などすべてへの排他的アクセスや支配に対する個人の権利のことである。つまり、現実には、これは、そこにじぶん以外のだれにも手出しさせない法的権利を意味している。この意味で土地が本当の意味で「あなたのもの」になるのは、あなたの権利主張に異議を唱えようなどとだれも考えないばあいや、武器を携えた人間を必要なときに動員なたの権利主張に異議を唱える人間や許可なく侵入立ち去ろうとしない人間を、脅したり攻撃したりする力があるばあいにかぎられる。たとえあなたずからの手で不法侵入者を撃ったとして、その行為が権利の範囲内であったことを他者に認めてもらう必要がある。いいかえれば「不動産」とは、実際の土や岩や草ではない。それは、道徳と暴力の脅威の微妙な組み合わせによって維持される法的了解である。事実として、土地所有権は、ルドルフ・フォン・リングが、テリトリー内――国民国家よりはるかに小規模のテリトリー内ではあるが――における国家による暴力の独占と呼んだ論理を完璧に示すものである。

このような議論はいささか抽象的に聞こえるかもしい。だがそれは、土地や建物を占拠したり、さらには政府を転覆させようとしたことのある読者なら痛感されるであろうが、現実に生じる出来事の単純な記述なのである。究極的にいえばだれもが知っていように、実力で排除するよう命令を下す相手としての人間がいるかどうか、もしいるようなばあい、実際にその人間が命令にすすんで従ってくれるかどうか、それにすべてがかいる。革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ。

とすると、財産もまた政治権力と同様、究極的には(毛主席がうまいこといったように)「銃口から」生まれるのだろうか?あるいはせいぜい、銃口を使いこなす訓練を受けた人間たちの忠誠を確保する力能から生まれるのか?

そうではない。というか、正確にはそうではない。

その理由を説明するために、また思考実験をつづけるために、別の種類の財産をとりあげてみよう。たとえばダイヤモンドのネスである。キムカーダシアンが数百万ドルの価値のあるダイヤモンドのネクレスを身につけてパリの街を歩いていたら、彼女はみずからの富をみせつけているだけでなく、暴力をあやつる権力を誇示していることになる。なぜなら、公衆の目にあらわれていようがいまいが訓練された私的な武装警備員なしに、彼女にそんなことはできないことなど、だれもが知っているからである。あらゆる種類の所有権は、イェーリングのような法理論家が婉曲に「実力」と呼んだものによって最終的に支えられている。しかし、地球上のすべての人間が、突然、物理的損傷を受けることがなくなったらどうなるか、ちょっと想像してみよう。たとえば、だれもが他の人を傷つけることができなくなるような薬を飲んだとする。キム・カーダシアンは、じぶんの宝石に対する排他的権利を維持できるだろうか?

まあ、あまりひんぱんに見せびらかすとだれかに盗られてしまうので、無理だろう。しかし、ふだんから金庫に隠しておき、その金庫の番号を彼女だけが知っていて、事前告知なしのイベントで、信頼できるオーディエンスにだけ公開するというのであれば可能であろう。つまり、他者が有していないアクセスの権利を確保するための第二の方法、それは情報の統制だ。ダイヤモンドがどこに保管されているのか、いつダイヤモンドを身に着けて登場するのかは、キムと彼女の親しい関係者だけが知っている。このことは、不動産や店舗商品など、最終的に「実力の脅威」支えられているあらゆる財産にも当然あてはまる。も間がたがいを傷つけることができないのであれば、だれもなにかがじぶん以外には絶対不可侵であること、なにかを「全世界」に対抗して所持することができるなどと宣言することはできなくなるだろう。かれらのできることは、[暴力を使えないのだから]排除されることに同意する者を排除することしかなくなるのである。

さらに実験を一歩すすめて、地球上のすべての人が別の薬を飲むと、秘密を守ることができなくなり、しかもたがいに肉体的な危害をくわえることもできない、と考えてみよう。情報へのアクセスも実力へのアクセスと同様に平等となったのである。キムはいまだダイヤモンドを保持できるだろうか?可能性はある。ただし、キム・カーダシアンという人間が、他のだれにも手に入らないものを手に入れる資格があるほどユニークで並外れた人間であると、れにでも納得させることができればの話だ。

わたしたちは、これらの三つの原理――それぞれ暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性と呼ぼう――社会的権力の三つの可能な基盤でもあると提起したい。暴力の脅威は、傾向としては最もたよりにできるものであり、だからこそ世界中で統一された法制度の基礎となっている。それに対し、カリスマ性は最も脆いものとなるきらいがある。通常、この三つはある程度共存している。対人暴力がまれな社会ですら、知によるヒエラルキーが存在することがある。その知がなんであるかはとくに問題ではない。たとえば、技術的なノウウ(銅の精錬方法とか植物療法のやりかたなど)であったり、あるいは、わたしたちにはまったく理解不能であるようなこと(二七の地獄と三九の天国の名称とか、そこを旅するとどんな生き物に出会えるかなど)であったりする。

現在では、たとえばアフリカやパプアニューギニアなどの一部では、官僚制的運営を必要とするほど複雑なイニシエーション儀式がおこなれているのがよくみられる。いかなる公式の位階も存在しない諸社会で、新加入者は、徐々に高いレベルの秘教的知に手引きされていくのである。とはいえ、そのような知のヒエラルキーが存在しない場所でも、当然ながら個人のあいだに差異はつねに存在するものだ。人一倍、チャーミングだったり、おもしろかったり、知的だったり、肉体的に魅力的だったり、そのようにみなされる人物はいるものなのだ。そうならないように緻密な安全策を講じている集団であっても、必ずなんらかの差異が生じることになる(たとえば、ハドザ族のような「平等主義的」狩猟採集民のあいだで、成功した狩猟者を儀礼的に嘲笑うように)。

平等主義的エートスには二つの方向性がありうる。ひとつは、そのような個人のいかなる特性のようなものをも完全に否定し、人びとをまったく同一であるかのように扱うべしと主張すること。もうひとつは、そのような特性を称賛し、どのような順位づけもなしえないほど根本的に異なっているとみなすことである(たとえば、最高の腕の漁師と最も威厳のある長老、ョークにかけてはだれにも負けない愉快な人間を、結局どうやって比較し順位づけできるのだろうか?)。このようなばあい、ある種の「極端な個人」そのように呼ぶことができるならば傑出した役割、さらには指導的役割をもはたすこともあるだろう。ここでは、ヌアー族の予言者、アマゾンのシャーマン、マラガシの占星術師=魔術師であるポマシmpomasy、あるいは肉体的に(そしておそらくそれ以外にも)特異な属性をもつ個人にきわめて多く集中している後期旧石器時代の「豪奢なる」埋葬などが想起されるかもしれない。しかし、これらの事例がひそかに語っているように、このような人物たちは、きわめてまれな存在であって、だから、その権威をどのような種類であれ継続的権力に転化させることははなはだ困難であったとおもわれる。

この三つの原理についてきわめて興味深いのは、それらの原理のいずれもが、現在、近代国家の土台をなす諸制度の基礎となっていることである。暴力の統制のばあい、これはあきらかだ。近代国家は「主権者」である。つまり、近代国家は、かつては王のものであった権力を保持している。権力を保持しているとは、実際にはフォン・イェーリングのいう領土内での強制力の正当なる行使の独占に相当する。理論的には、真の主権者は、法を超えた力を行使する。古代の王は、この権力を組織的に行使することはほとんどできなかった(これまでみてきたように、かの王たちの絶対的とされる権力なるものも、王が立つか座るかしている場所から一〇〇ヤード[およそ九一メートル]以内では、かれらだけが恣意的暴力をふるえる唯一の人間であることを意味するにすぎなかった)。現代の国家では、おなじ種類の権力が、一〇〇〇倍ほども強化されている。というのも、それが第二の原理たる官僚制と結合しているからである。官僚制を論じた偉大な社会学者であるヴェーバーがずっと以前に観察したように、行政組織はつねに、情報の統制のみならず、ある種の「公務上の秘密」に足場をおいている。秘密諜報員が近代国家の神話的シンボルとなっている理由がこれである。ジェームズ・ボンドは、殺しのライセンス、カリスマ性、秘密主義、そして説明責任のない暴力を行使する権力を兼ね備えている。だがそんなジェームズ・ボンドを支えているのが、大いなる官僚制機構なのだ。

主権と、情報を保存・集計するための高度な行政管理技術との組み合わせによって、個人の自由は、あらゆる種類
の脅威にさらされる――それは監視国家や全体主義体制への端緒をひらくのである――が、この危険性は、第三の原理である民主主義によって相殺されると、わたしたちはつねに確信している。近代国家は民主主義的である、すくなくとも民主主義的であるべきだと一般的に考えられている。しかし、近代国家における民主主義と、たとえば、共通の問題について集合的に審議していた古代都市の集会のありようとでは大幅に異なっている。むしろ、わたしたちがなじんできた民主主義は、実質的には、大物たちのくり広げる勝敗ゲームにすぎず、それ以外の人間は、ほとんど野次馬にすぎないのだ。

現代の民主主義のこの局面に古代の先例をもとめるならば、アテネやシラクサ、コリントの集会ではなく――逆説的に――、『イリアス』に描かれているような、(競争、決闘、ゲーム、贈与、生け贄など)はてしない「アゴーン[競合]」に充ちた「英雄時代」における貴族の抗争に注目すべきであろう。第9章で述べたように、後期ギリシア都市の政治哲学者たちは、選挙を、公職の候補者を選抜するにあたっての民主主義的方法とはまったく考えていなかった。民主主義的方法とは、現代の陪審員のようなソーティション、すなわちくじ引きによる選抜だったのである。選挙とは、貴族政の方法であって(貴族政aristocracyとは「選良による支配」を意味している)、平民(英雄的な貴族社会では家臣のようなものであった)に、生まれのよいもののなかからだれを最良とみなすべきかを決めることを許容するものであった。生まれのよいものとは、この文脈では、政治をプレイすることにみずからの時間の多くを割くことのできのを意味していた。

 乃木坂工事中に違和感 お気に入りが一人もいなかった 田村・早川・清宮・松尾・久保・賀喜・池田 #乃木坂工事中
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204『万物の黎明』人類史を根本からくつがえす
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『万物の黎明』

 『万物の黎明』

人類史を根本からくつがえす

デヴィッド・グレーバー

なぜ国家は起源をもたないのか

主権、官僚制、政治の卑賤なるはじまり

「国家の起源」の探求は、「社会的不平等の起源」の探求とほとんどおなじくらい古い。そして、それとおなじくらい熱い議論が交わされてきた。そしてまた、多くの点で、それとおなじように骨折り損である。今日、世界中のほとんどの人間が、国家の権威の下で暮らしているとふつうには考えられている。おなじように、ファラオ時代のエジプト、股の中国、インカ帝国、ベニン王国などの過去の政治体制も、国家ないし、すくなくとも「初期国家」とみなしてよいという感覚は浸透している。しかし、国家とはなにかについて社会理論家のあいだにコンセンサスがないため、問題は、これらの事例をすべて包摂しながら、それでいて、ガバガバすぎて無意味にならないような定義をどのように設定するか、になる。ところが、これが意外とむずかしいのである。

「国家」という言葉が一般的に使われるようになったのは、六世紀後半になってからのことである。フランスの法律家ジャン・ボダンが、この言葉をひねりだしたのがことのはじまりだ。ジャン・ボダンは、魔女、狼男、邪術師の歴史などをテーマにした、影響力のある論文を執筆した人物でもある(さらにボダンは、女性に対する極度の憎悪によっていまだに記憶されている)。しかし、おそらく最初に体系的な定義を試みたのは、ルドルフ・フォン-ェーリングというドイツの哲学者であろう。かれは一九世紀後半に、「国家とは、所与の領域内で合法的な強制力の使用を独占することを主張する機関である」とする定義を提起した(この定義は、それ以降、社会学者マックスェーバーのものとみなされるようになる)。すなわち、まずある一定の範囲の土地の領有権を主張する。そして、その境界線の内部では、人を殺害すること、殴打すること、肉体の一部を切断するこ監禁することをゆるされる唯一の機関がわれなりと宣明する。イェーングの定義によれば、そのとき、政府は「国家」となるのである。

フォン・イェーリングの定義は、近代国家にはかなり有効であった。ところが、人類史のほとんどにおいて、支配者はそのような大仰な主張をしていなかったことがすぐにあきらかになった。あるいは、われは強制力を独占するものなり、などと口ではいうが、そこにはほとんど実質がなかったのである。つまり、その主張は、われは森羅万象を支配するものなりといった言明と変わるところがなかったのだ。フォン・イェーリングやヴェーバーの定義を保持するならば、たとえばハンムラビのバビロン、ソクラテスのアテネ、征服王ウィリアム支配下のイングランドなどは、まったく国家ではないと断じるか、あるいはもっと柔軟でニュアンスのある定義をひねりだす必要にせまられることになろう。マルクス主義者にも、国家の定義がある。かれらによれば、国家が歴史的にはじめて登場するのは、新興支配階級がわが権力を防衛するためである。他者の労働力に依存して日常的生活をいとなむ人間があらわれるや、かれらは必然的に支配の装置を構築することになる。公式的にはみずからの所有権を守るため、実質的にはみずからの優位性を保つためにである(まったくルソー的思考の系譜に属している)。この定義ならば、バビロン、アテネ、中世イングランドは、あらためて国家の名に値するものとなる。だが、それはまた、搾取をどのように定義するかなどといった、あたらしい概念上の問題も導入した。また、リベラル派にとっては、このような定義は、国家が善良なる機関となる可能性を排除するものであり、好ましくなのだった。

二〇世紀のほとんどを通じて、社会科学者たちは、国家をより純粋に機能的観点から定義することを好んだ。社会が複雑になるにつれ、あらゆるものごとを調整するため、トップダウンの指揮構造を形成する必要性が高まってきたと主張したのである。現代の社会進化論者のほとんどが、基本的にこの論理を踏襲している。そこでは「社会の複雑性」を示す証拠があれば、反射的にそれはある種の統治機構の存在を示す証拠とみなされる。(たとえば、都市、町、村落、小村といった)四段階の集落ヒエラルキーについて語るとして、それらの集落のすくなくとも一部にフルタイムの専門家(土器づくり職人、鍛冶屋、僧侶や尼僧、職業兵士や音楽家)がいたとすれば、それを管理する装置は、それがどのようなものであれ、事実上、国家でなければならない。そして、その装置が実力の独占を主張したり、めぐまれぬ労者の労苦で生活するエリート階級を支えたりはしてかったとしても、遅かれ早かれそうなることは避けられなかった、とこういうわけだ。この定義にも利点はある。断片的な遺物からその性質や組織をあきらかにしなければならない超古代社会について推測するばあいには、この定義は役に立つ。とはいえ、その論理は完全に循環している。基本的には、それは「国家は複雑であるからして、複雑な社会組織は国家である」といっているにすぎないからである。

実のところ、前世紀の「古典的な」理論的定式化のほとんどすべてが、まさにこの想定から出発している。つまり、大規模で複雑な社会には必ず国家が必要だという想定だ。とすれば、真の争点は、以下の点にある、なぜそうなるのか?なにがしかの筋の通った実際的理由からか?それとも、そのような社会は必然的に物質的余剰を生みだすからなのか?すなわち、物質的余剰があれば、――たとえば太平洋岸北西部の魚の燻製のように――分け前を他より多く手に入れようとする人間たちが必然的に存在することになるからか?

第8章ですでにみてきたように、最初期の都市に対して、このような想定はとりわけ有効ではない。たとえば、初期のウルクは、いかなる意味でも「国家」ではなかったようにおもわれる。それに、古代メソポタミア地域でトッブダウンの支配が出現したとしても、そこは低地の河川流城に位置する「複雑な」大都市ではなく、周辺の山麓に位置する小規模な「英雄」社会だった。ところが、それらの社会は行政管理の原理を嫌っていたため、結果的にこれもまた「国家」とみなしえないようにおもわれる。後者の「英雄」社会」に民族誌的に比肩ものがあるとすれば、それは北西海岸の社会かもしれない。というのも、そこでも政治的リーダーシップは、自慢好きで虚栄心の強い戦士貴族の手にゆだねられ、かれらは、称号や財宝、平民の忠誠や奴隷の所有権をめぐって派手な争いをくり広げていたからだ。ここで想起してほしい。ハイダ族やトリンギット族らは、国家装置と呼べるものをもたないだけではなかった。かれらはフォーマルな統治機関のすべてを欠いていたのだった。

すると「国家」は二つの統治形態(官僚的形態と英雄的形態)が融合したときにはじめて出現したのだな、と考えるむきもあるだろう。それもありえないわけではない。しかし、それと同時に、そもそもそんな問いに本当に意味があるのか、と疑義を呈することも可能だ。国家が不在であって君主支配、貴族支配、奴隷制、極端な形態の家父長制の支配は可能であり(実際にあきらかに可能であった)、国家がなくても複雑な灌漑システムを維持したり、科学や抽象的な哲学を発展させたりすることが同様に可能であるならば(これもまた実際にそうであったようにおもわれる)、ある政治体は「国家」であって、ある政治体は「国家」じゃないと区分することで、人類の歴史について本当に意味あることを学ぶことができるのがつうか?もっと退屈でなく、もっと重要な問いがあるのではないだろうか?

この章では、その可能性を探ってみたいとおもう。古代エジプトと現代イギリスの統治機関のあいだには深いところで共通するものがあるにちがいないから、それを正確に解明しなければならない、というふうに考えるのではなく、問題全体をあらたな視角から検討してみるなら、歴史はどのようにみえてくるだろう。都市が誕生したほとんどの地域で、やがて強力な王権や帝国が誕生したことはまちがいない。しかし、それらにはどんな共通点があるのだろうか?はたして実際に共通点はあったのか?それらの出現は、人間の自由と平等、あるいはその喪失の歴史について、なにを物語っているのだろうか?それ以前のものの根本的な断絶を示すものがあるとすれば、それはどのようなものだろうか?

ここでは、支配の三つの基本形態にかんする理論が提示され、それが人類史にもつ含意の探究に手が着けられはじめる

この課題に取り組むためのベストの方法は、第一原理に立ち返ることである。わたしたちはすでに、根源的ないし基本的自由の諸形態についてはふれた。すなわち、移動する自由、命令に従わない自由、社会的関係を再編成する自由である。では、支配の基本的形態についても同様に語ることができるだろうか?せーら

ルソーが有名な思考実験で、すべては私的所有、とりわけ土地の所有権に帰結すると考えたことを想起しよう。間が最初に囲いを築き、「この土地はわたしのものだ、わたしだけのものだ」といったあのおそるべき瞬間に、それ以降のすべての支配形態、つまりその後のすべての破滅的事態が必然となった、というわけだ。これまでみてきたように、社会の基礎としての、そして社会的権力の基盤としての所有権へのこのような執着は、西洋特有の現象であ実際、「西洋」なる観念になにがしかの実質的意味があるとするならば、それはおそらく、こうした観点から社会を認識している法的・知的伝統を指すということができよう。そこで[ルソーのものとは]いささか異なる思考実験をはじめるには、ここがよい出発点になるもしれない。封建貴族や地主階級、あるいは不在地主の権力が「土地を基盤としている」というとき、わたしたちは実質的にはどのようなことをいっているのだろうか?

わたしたちはしばしば、このような言い回しを、うわいた抽象論やご立派な建前をかきわけて、シンプルな物質的現実に接触するための方法として用いている。たとえば、一九世紀イングランドの二大政党であるホイッグとトーリーは、じぶんたちが理念をめぐって争っている、つまり、自由市場リベラリズムの観念と伝統の観念との対立を体現しているとみせかけたがっていた。史的唯物論者ならば、実際にはホイッグは商人階級の利益を代表し、リーは地主の利益を代表していたのだと反論するかもしれない。もちろん、かれらはただしい。それを否定するのは無謀なことである。しかしながら、わたしたちが疑問におもうのは、「土地」(あるいはその他の形態の)という財産が、それ自体すぐれて物質的なものであるという前提である。なるほど、土、石、草、垣根、納屋や穀倉などは、すべて物質的なものである。しかし「土地という財産[不動産]landedproperty」が論題にあがっているようなとき、実質的に語られているのは、特定のテリトリー内にある土、石、草、垣根などすべてへの排他的アクセスや支配に対する個人の権利のことである。つまり、現実には、これは、そこにじぶん以外のだれにも手出しさせない法的権利を意味している。この意味で土地が本当の意味で「あなたのもの」になるのは、あなたの権利主張に異議を唱えようなどとだれも考えないばあいや、武器を携えた人間を必要なときに動員なたの権利主張に異議を唱える人間や許可なく侵入立ち去ろうとしない人間を、脅したり攻撃したりする力があるばあいにかぎられる。たとえあなたずからの手で不法侵入者を撃ったとして、その行為が権利の範囲内であったことを他者に認めてもらう必要がある。いいかえれば「不動産」とは、実際の土や岩や草ではない。それは、道徳と暴力の脅威の微妙な組み合わせによって維持される法的了解である。事実として、土地所有権は、ルドルフ・フォン・リングが、テリトリー内――国民国家よりはるかに小規模のテリトリー内ではあるが――における国家による暴力の独占と呼んだ論理を完璧に示すものである。

このような議論はいささか抽象的に聞こえるかもしい。だがそれは、土地や建物を占拠したり、さらには政府を転覆させようとしたことのある読者なら痛感されるであろうが、現実に生じる出来事の単純な記述なのである。究極的にいえばだれもが知っていように、実力で排除するよう命令を下す相手としての人間がいるかどうか、もしいるようなばあい、実際にその人間が命令にすすんで従ってくれるかどうか、それにすべてがかいる。革命が公然たる戦闘で勝利することはめったにない。革命家が勝利するときは、かれらを弾圧するために送り込まれた人間の大半が銃撃を拒否するか、端的に帰宅してしまうときなのだ。

とすると、財産もまた政治権力と同様、究極的には(毛主席がうまいこといったように)「銃口から」生まれるのだろうか?あるいはせいぜい、銃口を使いこなす訓練を受けた人間たちの忠誠を確保する力能から生まれるのか?

そうではない。というか、正確にはそうではない。

その理由を説明するために、また思考実験をつづけるために、別の種類の財産をとりあげてみよう。たとえばダイヤモンドのネスである。キムカーダシアンが数百万ドルの価値のあるダイヤモンドのネクレスを身につけてパリの街を歩いていたら、彼女はみずからの富をみせつけているだけでなく、暴力をあやつる権力を誇示していることになる。なぜなら、公衆の目にあらわれていようがいまいが訓練された私的な武装警備員なしに、彼女にそんなことはできないことなど、だれもが知っているからである。あらゆる種類の所有権は、イェーリングのような法理論家が婉曲に「実力」と呼んだものによって最終的に支えられている。しかし、地球上のすべての人間が、突然、物理的損傷を受けることがなくなったらどうなるか、ちょっと想像してみよう。たとえば、だれもが他の人を傷つけることができなくなるような薬を飲んだとする。キム・カーダシアンは、じぶんの宝石に対する排他的権利を維持できるだろうか?

まあ、あまりひんぱんに見せびらかすとだれかに盗られてしまうので、無理だろう。しかし、ふだんから金庫に隠しておき、その金庫の番号を彼女だけが知っていて、事前告知なしのイベントで、信頼できるオーディエンスにだけ公開するというのであれば可能であろう。つまり、他者が有していないアクセスの権利を確保するための第二の方法、それは情報の統制だ。ダイヤモンドがどこに保管されているのか、いつダイヤモンドを身に着けて登場するのかは、キムと彼女の親しい関係者だけが知っている。このことは、不動産や店舗商品など、最終的に「実力の脅威」支えられているあらゆる財産にも当然あてはまる。も間がたがいを傷つけることができないのであれば、だれもなにかがじぶん以外には絶対不可侵であること、なにかを「全世界」に対抗して所持することができるなどと宣言することはできなくなるだろう。かれらのできることは、[暴力を使えないのだから]排除されることに同意する者を排除することしかなくなるのである。

さらに実験を一歩すすめて、地球上のすべての人が別の薬を飲むと、秘密を守ることができなくなり、しかもたがいに肉体的な危害をくわえることもできない、と考えてみよう。情報へのアクセスも実力へのアクセスと同様に平等となったのである。キムはいまだダイヤモンドを保持できるだろうか?可能性はある。ただし、キム・カーダシアンという人間が、他のだれにも手に入らないものを手に入れる資格があるほどユニークで並外れた人間であると、れにでも納得させることができればの話だ。

わたしたちは、これらの三つの原理――それぞれ暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性と呼ぼう――社会的権力の三つの可能な基盤でもあると提起したい。暴力の脅威は、傾向としては最もたよりにできるものであり、だからこそ世界中で統一された法制度の基礎となっている。それに対し、カリスマ性は最も脆いものとなるきらいがある。通常、この三つはある程度共存している。対人暴力がまれな社会ですら、知によるヒエラルキーが存在することがある。その知がなんであるかはとくに問題ではない。たとえば、技術的なノウウ(銅の精錬方法とか植物療法のやりかたなど)であったり、あるいは、わたしたちにはまったく理解不能であるようなこと(二七の地獄と三九の天国の名称とか、そこを旅するとどんな生き物に出会えるかなど)であったりする。

現在では、たとえばアフリカやパプアニューギニアなどの一部では、官僚制的運営を必要とするほど複雑なイニシエーション儀式がおこなれているのがよくみられる。いかなる公式の位階も存在しない諸社会で、新加入者は、徐々に高いレベルの秘教的知に手引きされていくのである。とはいえ、そのような知のヒエラルキーが存在しない場所でも、当然ながら個人のあいだに差異はつねに存在するものだ。人一倍、チャーミングだったり、おもしろかったり、知的だったり、肉体的に魅力的だったり、そのようにみなされる人物はいるものなのだ。そうならないように緻密な安全策を講じている集団であっても、必ずなんらかの差異が生じることになる(たとえば、ハドザ族のような「平等主義的」狩猟採集民のあいだで、成功した狩猟者を儀礼的に嘲笑うように)。

平等主義的エートスには二つの方向性がありうる。ひとつは、そのような個人のいかなる特性のようなものをも完全に否定し、人びとをまったく同一であるかのように扱うべしと主張すること。もうひとつは、そのような特性を称賛し、どのような順位づけもなしえないほど根本的に異なっているとみなすことである(たとえば、最高の腕の漁師と最も威厳のある長老、ョークにかけてはだれにも負けない愉快な人間を、結局どうやって比較し順位づけできるのだろうか?)。このようなばあい、ある種の「極端な個人」そのように呼ぶことができるならば傑出した役割、さらには指導的役割をもはたすこともあるだろう。ここでは、ヌアー族の予言者、アマゾンのシャーマン、マラガシの占星術師=魔術師であるポマシmpomasy、あるいは肉体的に(そしておそらくそれ以外にも)特異な属性をもつ個人にきわめて多く集中している後期旧石器時代の「豪奢なる」埋葬などが想起されるかもしれない。しかし、これらの事例がひそかに語っているように、このような人物たちは、きわめてまれな存在であって、だから、その権威をどのような種類であれ継続的権力に転化させることははなはだ困難であったとおもわれる。

この三つの原理についてきわめて興味深いのは、それらの原理のいずれもが、現在、近代国家の土台をなす諸制度の基礎となっていることである。暴力の統制のばあい、これはあきらかだ。近代国家は「主権者」である。つまり、近代国家は、かつては王のものであった権力を保持している。権力を保持しているとは、実際にはフォン・イェーリングのいう領土内での強制力の正当なる行使の独占に相当する。理論的には、真の主権者は、法を超えた力を行使する。古代の王は、この権力を組織的に行使することはほとんどできなかった(これまでみてきたように、かの王たちの絶対的とされる権力なるものも、王が立つか座るかしている場所から一〇〇ヤード[およそ九一メートル]以内では、かれらだけが恣意的暴力をふるえる唯一の人間であることを意味するにすぎなかった)。現代の国家では、おなじ種類の権力が、一〇〇〇倍ほども強化されている。というのも、それが第二の原理たる官僚制と結合しているからである。官僚制を論じた偉大な社会学者であるヴェーバーがずっと以前に観察したように、行政組織はつねに、情報の統制のみならず、ある種の「公務上の秘密」に足場をおいている。秘密諜報員が近代国家の神話的シンボルとなっている理由がこれである。ジェームズ・ボンドは、殺しのライセンス、カリスマ性、秘密主義、そして説明責任のない暴力を行使する権力を兼ね備えている。だがそんなジェームズ・ボンドを支えているのが、大いなる官僚制機構なのだ。

主権と、情報を保存・集計するための高度な行政管理技術との組み合わせによって、個人の自由は、あらゆる種類
の脅威にさらされる――それは監視国家や全体主義体制への端緒をひらくのである――が、この危険性は、第三の原理である民主主義によって相殺されると、わたしたちはつねに確信している。近代国家は民主主義的である、すくなくとも民主主義的であるべきだと一般的に考えられている。しかし、近代国家における民主主義と、たとえば、共通の問題について集合的に審議していた古代都市の集会のありようとでは大幅に異なっている。むしろ、わたしたちがなじんできた民主主義は、実質的には、大物たちのくり広げる勝敗ゲームにすぎず、それ以外の人間は、ほとんど野次馬にすぎないのだ。

現代の民主主義のこの局面に古代の先例をもとめるならば、アテネやシラクサ、コリントの集会ではなく――逆説的に――、『イリアス』に描かれているような、(競争、決闘、ゲーム、贈与、生け贄など)はてしない「アゴーン[競合]」に充ちた「英雄時代」における貴族の抗争に注目すべきであろう。第9章で述べたように、後期ギリシア都市の政治哲学者たちは、選挙を、公職の候補者を選抜するにあたっての民主主義的方法とはまったく考えていなかった。民主主義的方法とは、現代の陪審員のようなソーティション、すなわちくじ引きによる選抜だったのである。選挙とは、貴族政の方法であって(貴族政aristocracyとは「選良による支配」を意味している)、平民(英雄的な貴族社会では家臣のようなものであった)に、生まれのよいもののなかからだれを最良とみなすべきかを決めることを許容するものであった。生まれのよいものとは、この文脈では、政治をプレイすることにみずからの時間の多くを割くことのできのを意味していた。

 乃木坂工事中に違和感 お気に入りが一人もいなかった 田村・早川・清宮・松尾・久保・賀喜・池田 #乃木坂工事中
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『超約 ヨーロッパの歴史』

『超約ヨーロッパの歴史』増補版

二つの世界大戦

ビスマルクがドイツ帝国を創設すると、彼の戦争にかける冒険主義はひとまず終了した。彼はヨロッパにおける平和の保持を希望していた。ヨーロッパには五つの列強が存在していた。ビスマルクの目的は、常に三つの国々からなる同盟に加わっていることだった。

ドイツ統一後のヨーッパ諸国は、地図に示した通りである(p271、図4)。

一八七一年に生まれた新ドイツ帝国は、現在のドイツよりもかなり大きい。二つの世界大戦により、ドイツは東部において広い領土を失った。かつてのプロイセン東部だった地域は、現在ポーランドになっている。

イタリアもドイツ同様、ごく最近になって統一された国であり、その統一までの道のりはドイツとよく似ている。一八四八年の革命によって既存権力が崩壊すると、イタリアの民主共和政体宣言がローマで行われたが、これはすぐに弾圧された。すると北イタリアのピエモンテ王国の首相カヴールが見事な外交的手腕を発揮し、力づくでイタリアを統一し、彼の王ヴィットーリオエマヌエーレ二世が一八六一年にイタリア王国の王となった。この新国家によって統一された最後の国家は、ローマ教皇領だった。その領土は、その時もなおイタリア半島中心部を横断する帯状の土地で、かなりな面積を有していた。一八四八年の諸革命後、フランスのナポレオン三世は教皇を保護するため、イタリアに軍隊を送った。しかしナポレオン三世は普仏戦争でプロイセンに敗北したため、イタリアはローマを奪還することができたのだった。

ドイツとイタリアという二つの新国家の東には、不規則な広がりを持つロシアとオーストリアという二つの帝国が存在していた。しかしこの両国は経済面では西ヨーロッパ諸国より遅れを取っていた。しかもこの両国は多民族社会であり、その中には、いまや自分たちを被支配民族とみなす人々も含まれていた。ハンガリーのマジャール人はオーストリアに対して自国を認めるように迫り、一八六七年にオーストリア=ハンガリー二重帝国の名のもとに権力を分かち合い、君主政体を共同で支える合意がなされた。

ヨーロッパにはさらに第三の多民族帝国があった。それはイスタンブール〔かつてのコンスタンティノープル〕を首都とするオスマン・トルコ[オスマン帝国]である。この巨大な帝国はいまや没落しかけており、支配下のバルカン半島の人々に独立の希望を抱かせるようになっていた。しかし、それはかなり危険な道だった。トルコはこれら諸国に独立した権利を認めたものの、依然として彼らを支配したがっていた。オーストリアとロシアはトルコ人の帝国の解体を歓迎したが、特にこの地域に強い関心があるため、ここに新国家がいくつも独立することを望まなかった。ヨーロッパにおけるトルコに取って代わるという野望を持つロシアにとって、黒海から地中海に抜ける二つの海峡を経由するルートが中断されることは断じて許されなかった。オーストリアは北ヨーロッパでプロイセンに敗北した経験から、自国領の南東部においてロシアに負けたくなかった。このように、バルカン半島は「ヨロッパの闘鶏場」に他ならず、紛争が絶えることがなかった。オスマン帝国はますます衰えていき、ナショナリストたちに希望を与えた。トルコの支配を脱して生まれた新国家は、依然としてオーストリアやロシアの支配下にある国々を勇気づけた。しかしこうした民族解放の力は列強の戦略的利害と衝突することになる。さらに新国家や新国家を希望する民族は、互いに主張し合って譲らなかった。多民族から成るこれらの国では、領土に関して複数の主張が存在していたのである。

当時のヨーロッパの強国は、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアの五か国だった。

その六番目の地位に就きたかったイタリアは、同盟のシステムのプレーヤーではあっても、大きな重みを持たなかった。ビスマルクにとって、ドイツの最高の同盟相手はロシアとオーストリアだった。両国ともドイツと同じように皇帝が支配する国だったからである。一八七〇年の普仏戦争の敗戦国である共和政国家フランスは、何があってもドイツと同盟を結ぶことは考えられなかった。ことに自国東部の二つの地方、アルザスとロレーヌを奪わたことにより、フランス人の心にはドイツに対する深い復讐心が育まれていった。この地域の住民の大半はドイツ語を話し、ドイツの将軍たちは、ライン川を越えた地域にドイツの領土を持つことの有利さを感じていた。イギリスはヨーロッパに対しては孤立主義を取る傾向があった。その関心の方向は海外にあったが、ただひとつの権力がヨーロッパ大陸を支配することは決して許さないという政治方針だけは定まっていた。

ロシアとオーストリアはビスマルクのドイツと組んだが、三者が協調関係を保持することは非常に困難だった。露・墺両国はバルカン半島で争いあっていたからである。ビスマルクはいやおうなしにバルカン問題に取り組まざるを得ず、しかも両国とは良好な関係を維持し続けなければならなかった。もしもドイルカン問題でオーストリアを強く支援したら、ロシアはフランスと手を組むかもしれず、ビスマルクの恐れていたことが現実になる可能性もあった。もしも戦争が起こったら、ドイツは東西両戦線で闘うことになるかもしれなかった。この曲芸のような外交ができる人間は、ビスマルク以外にいなかった。彼はまさに辞任する直前まで、三国の協調関係を生かそうと努力し続けた。ヴィルヘルム二世とその閣僚は、それまで継続してきた露・墺両国との同盟関係を打ち切り、ドイツを全面的にオーストリアの側につけることにした。当然の結果として、八九三年にロシアはフランスと同盟を結んだ。そして一九〇四年には、イギリスがフランスと協商〔条約〕を結んだ。この条約は細部において、ヨーロッパ以外で両国が主張していた領土の紛争解決に関する部分に言及されていた。ヨーロッパで戦争が起きた際にイギリスがフランスを支援するという誓約はなかったものの、フランスはイギリスにとって古くからの宿敵だったため、この新しい同盟は非常に重要なものであった。今やドイツとオーストリアは、ヨーロッパの五強のうちのたった二つになってしまった。ここにイタリアを引き入れたとしても、たいした力にはならなかった(しかも第一次世界大戦ではイタリアは敵になった)。

ドイツの力を信じきっていたヴィルヘルム二世とその閣僚は、同盟国としてのロシアを失ったことを深く悔いてはいなかった。ドイツ語を話すオーストリア人は、後進国のロシア人より馴染み深かったし(実際、ドイツ人はロシア人を東方の野蛮なスラヴ人と見なしていた)、プロイセン主導のドイツ統一を確保するためオーストリアと戦争を行ったビスマルクのことをあまり重要視する必要はない、と考えていた。しかし、このような事態になると、ドイツは二方面で戦線を準備する必要に迫られた。こうして、まずフランスを奇襲攻撃で打ち倒し、その後ただちに反転して、全力でロシアに向かうという計画が立てられた。

ブロイセン、および新生ドイツは、兵士を短期間で動員して素早く動かす物流方法をマスターしていた。彼らは軍隊の移動手段として列車を利用し、情報の監視や命令の指示に電信を使った。一八七〇年にプロイセンがフランスに勝利した際には、かけた時間はわずか六か月だった。次の戦争では、六週間で終わる戦闘計画であった。ドイツ以外の列強もドイツの例を踏襲し、迅速な動員計画を立てていた。こうして両陣営とも戦争の準備を整えていた。

ヨーロッパの陸上で圧倒的な力を保持していることに満足せず、ドイツは強力な海軍の建設に着手した。それはこの分野におけるイギリスの卓越性に我慢がならなかった皇帝の肝煎りの計画だった。食糧自給率が低いイギリスにとって、制海権は帝国の存亡とイギリス本国自体の存亡に不可欠なものだった。ドイツの造船はイギリスの制海権を脅かすものであり、さらに彼らを上回る可能性もあった。海軍力競争が始まり、両国民はある時は喝采したり、ある時はパニックに陥るという状況を交互に体験した。新聞と政治家は愛国精神をおおいに煽った。それは防衛計画における新たな要素だった。イギリスの大臣ウィンストン・チャーチルが新しい軍艦が六隻必要だ、と発言すると、経済学者たちは、できるのはせいぜい四隻なのだが、「結局我々は八隻で妥協するだろう」と述べた。

誰もが戦争が間もなく始まるであろうことを予測していた。そして、むしろ戦争を歓迎するかのようにも見えた。人種主義や適者生存といった新たな思潮が、戦争を正当な国民国家のための資格試験であるかのように見せていた。そして人々のほとんどは、戦争が始まったとしても、短期ですぐに終わるだろうと考えていた。

列強の中でドイツだけが不安要素だった。経済力が高まるにつれて、より大きな影響力を求めるようになっていたが、九一四年七月には、その軍事指導者たちはヨーロッパの全面戦争で勝利を目指すという賭けに出た。彼らが飛びついたのはバルカン半島の危機的状態だった。将来のオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であった皇太子フランツ・フェルディナント大公が、帝国の最南部にあたるボスニアでセルビア人ナショナリストによって暗殺された。ボスニアは多くのセルビア人たちの本拠地であり、彼らはオーストリアの支配に対する反乱を企てていた。セルビアは当初オーストリアの援助を得てトルコからの独立を果たしたが、この頃になるとオーストリアはセルビアを不穏勢力と見なすようになっていた。オーストリアを脅威と感じるようになったセルビアは、ロシアに保護を求めた。

オーストリア政府は、セルビアが暗殺の責任を負いきれなくなるとロシアに頼り、そこから対ロシア戦争が誘発されかねないことを理解していた。ドイツは事態が深刻化することを望み、皇帝自身はオーストリアがどのような行動に出ても支持することを約束していた。そこでオーストリアは、セルビアに強く反発させるためにあえて厳しい要求を突き付け、戦争の口実をオーストリアに与えるように仕向けた。他の列強各国は、セルビアが抵抗し、さらにロシアがそれを支持するようになれば、大きな脅威になると見た。ロシア自身も含む列強各国は、なんとか戦争を回避する道を模索した。ドイツは、セルビアに対するオーストリアの厳しい要求とドイツは無関係であると訴え、さらに平和的解決のためのすべての試みは失敗した、と他国をあざむいた。ドイツの軍事指導者は、ロシアがオーストリアと戦争に入ることを望んでいた。ドイツはロシアの軍備強化計画が完成する前に、ロシアと戦いたかった。もしもロシアが強くなりすぎると、二正面作戦の勝利は不可能となる。皇帝は戦線の拡大した戦争を望んでいなかったが、首相と軍隊はもはや彼抜きで動き出していた。

ドイツ陸軍の参謀総長モルトケは、開戦は早ければ早いほど良いと考えていた。彼はロシアが軍備を整える前に、フランスを速攻で打ち倒そうとしていた。ロシアにしてみれば、ドイツが侵略者として自国を襲う前に、まず軍隊を動員することが最優先事項だった。ドイツの社会民主党は戦争に反対していた。彼らはセルビアに対するオーストリアの要求が過酷すぎると非難していたが、ロシアが侵略者となれば防衛戦を支持する態度を示していた。ロシアはオーストリア抑止のための動員を達成した。これを歓迎したのはドイツの軍人たちで、ことここに至り、ドイツはロシアに対する宣戦布告が可能になった。ドイツはロシアを戦争の侵略者であるという旨を表明した。これはベルリンの政府の企みにほかならなかった。フランスは自国防衛のため、ドイツに宣戦布告を行った。

フランスを六週間で征服する計画が実行に移された。ドイツ軍はベルギーを横断して、北部からフランスに侵入することになっていた。そこからドイツ軍はさらに南に展開して巨大な弧をつくってパリを包囲する。そこからさらに東に向かい、独仏国境を越えて攻撃していたフランス軍の背後に回る、という作戦だった。ドイツはベルギー国内をドイツの軍隊が通過することを認めるようにベルギー政府に求めたが、拒否された。それにもかかわらずドイツ軍はベルギー国内を行進し、これによってドイツも保証国のひとつだったベルギーの中立性が破られた。このドイツの冷酷無慈悲な行為はイギリスを憤慨させた。このベルギーにおけるドイツの違反行為は、戦争に対する態度をあいまいにしていたイギリスを参戦の方向に舵を切らせることになった。

ドイツの帝国議会における演説でヴィルヘルム二世は大きな嘘をつき、ドイツは戦争回避のためにできることすべてを行ったと宣言した。皇帝を信用していなかった社会民主党の議員たちも含め、会議員たちは戦費の最初の支出に満場一致で賛成した。彼らはロシアが戦争に勝利すればドイツの状況は悪化する、と信じ込んでいた。ヨーロッパの各国には社会主義者たちが国会に議席を持っていたが、彼らもみな戦争支持に回った。ナショナリズムの勝利である。結局、労働者たちは互いに戦い合うことになった。

ドイツのフランス侵攻作戦は失敗した。掃討作戦に投入された軍事力が十分とはいえなかったからである。ドイツ軍はバリを包囲することなく、北へ向かい、結果として、英仏二か国の軍隊によって自軍の側面に攻撃を受けることになった。両軍はすぐに膠着状態に陥った。ベルギーと北フランスを横断し、中立国のスイスにまで伸びる長い塹壕線ができ、敵対する両軍は向かい合った。それから三年間、両軍は数百万の尊い命を犠牲にして互いに押し合ったが、この塹壕の線が動くことはほとんどなかった。何よりも守る側が有利だったからである。塹壕から這い出て突進する兵士は、相手方の塹から発射される機関銃に撃たれ、上空には両軍の砲弾が飛び交う。両陣営の間には有刺鉄線の輪が張りめぐらされた。こうした状況での攻撃は自殺行為に等しい。やっと最後の年になってイギリス軍の発明した戦車が、身の安全を確保しながら攻撃することを可能にした。

この戦争は、兵士と武器を最後まで補給し続けられる側が勝利を得ることになる。戦争を支えるためにすべての経済活動が組織され、そしてこの大義を信じてすべての人々が戦い、また労働についた。これはまさに総力戦だった。

イギリス海軍は、海外からの物資を人国させないようにドイツの海域を封鎖した。これに対抗してドイツ海軍は潜水艦ロポートを海域に送り込み、イギリスへの物品(ことに最も重要な食糧品)の供給を断つために、船舶を沈めていった。この当時、まだアメリカ合衆国は中立を保っていたが、もしもドイツがアメリカの船舶を沈めれば戦争に新たな危険が生まれることは明らかだった。一九一七年二月、戦闘の膠着状況を打開するために必死だったドイツは、無制限の潜水艦攻撃を命じた。これによってアメリカが参戦してくることはドイツにとって想定内だった。実際、アメリカは同年四月に参戦したのだが、アメリカ軍がヨーロッパに到着する前にイギリスを飢えさせて、戦争に勝利するというのがドイツの作戦だった。皇帝や首相はこの作戦には懐疑的だったが、決定権は軍人に握られていた。ヒンデンブルクとルーデンドルフという二人の将軍が、もはやこの時のドイツ政府そのものとなっていた。彼らは後になって、ヒトラーに接近していくことになる。ルーデンドルフは一九二三年の未遂に終わったミュンヘン一揆の際にはヒトラーを支援し、ヒンデンブルクは一九三三年にヒトラーを首相に任命した。
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 『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』

『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』

銃口を突きつけられて

民主主義の苦難

ラジオを聴いていると、天気予報に続いてアナウンスがあった。「それでは、みなさまをニューヨークのダウンタウンにあるパーク・プラザ・ホテルのメリディアン・ルームにご案内いたします。ラモン・ラケロ楽団の演奏をお楽しみください」。

スペイン風のダンス音楽がしばらく流れた。ところがすぐに、「インターコンチネンタル・ラジオニュース」の臨時ニュースが始まる。ある天文台から報告があり、火星の表面で奇妙なガス爆発が起きたらしい。そして、再びラモン・ラケロ楽団の演奏が流れたが、また中断され、「プリンストン天文台」の「著名な天文学者、リチャード・ピアソン教授」のインタビューに切り替わった。ピアソンはインタビュアー――カール・フィリップスという名の果敢なリポータ・に、爆発については何もわからないと答えた。

番組はその後も中断され、臨時ニュースが入った。ニューヨークの「ナショナルストリー博物館」からは、プリンストン付近で「地震と同程度の」衝撃があったと報告が届いた。「巨大な、炎に包まれた物体」が、ニュージャージー州のグローヴァーズ・ミル近郊に落下したという報告も複数あった。カール・フィリップスは驚くべき早さでプリンストンから現場へ向かい、「目の前に広がる不思議な光景をみなさんのために言葉で描こう」と試みた。彼が見たのは隕石ではなく、巨大な金属の円筒だった。その物体が自分の農場に落下するところを目撃したという農場主に話を聞く。ただならぬ気配が濃くなる。奇怪な生物が円筒から這い出してきた。フィリップスの描写によると、その生き物は火炎放射器のようなものを使って、取り囲む警官や見物人を殺しているらしい。ついに、フィリップスのマイクが地面に落ちる鈍い音がした。そして、何も聞こえなくなった。

そこから危機は急速に拡大した。ニュージャージー州に戒厳令が発令されて軍隊が出動したが、謎の生物に虐殺される。「内務長官」がワシントンから演説する氏名は明らかにされなかったが、声はローズヴェルト大統領に酷似していた。彼は国民に向かって、深刻な脅威ではあるが、「地球における人類の覇権を維持するために、勇敢かつ穢れのない国民がひとつになれば」アメリカはこの脅威を封じ込められる、と保証した。だが、大砲や爆撃では異星人を阻止できないらしい。攻撃者は熱と毒ガスを使っている。やがて攻撃者はニューヨーク市に到達し、逃げようとする数百万の市民が、ロングアイランドやウェストチェスターに流れ出ていく。全国から火星人襲来の知らせが入り始める。

アメリカ全土で起きたパニック・-ラジオ放送のなかのパニックではなく、本物のパニック――は驚異的だった。六〇〇万人ほどの聴取者が、コロムビア放送が電波に乗せた数々の報告を聴いていた。だが、一〇〇万人以上は、これから始まるのは若きオーソン・ウェルズが担当する『マーキュリー放送劇場』の作品だという冒頭の紹介に気づかなかったか、あるいはそれを聞いていなかった。彼らは、名前や記述のちょっとした違いは、あまり気にかけなかった――「ダウンタウン」にある「パーク・プラザ・ホテル」、「インターコンチネンタル・ラジオニュース」、「ナショナル・ヒストリー博物館」などだ。四五分足らずの間に、地球までやって来てニュージャージー州に着陸し、軍の部隊をいくつも壊滅させ、ニューヨーク市を破壊させる火星人の能力にも、疑いを持たなかったらしい。人々は家の外に飛び出し、自動車を持つ者は急いで街を離れ、子がいる者は慌てて探し回った。

一九三八年一〇月三〇日のことだ。

世界中が神経をとがらせていた時期で、アメリカも例外ではなかった。ミュンヘン会談で戦争の危機が回避されてから、さほど時間はたっていない。緊張状態にあった九月、アメリカの国民は、スポーツ中継やダンス音楽の放送が臨時ニュースで中断されるのに慣れてしまっていた。危機が去ってからも、多くの人が戦争について、ドイツ人について、考えずにはいられなかった。「戦争の話題であまりにも不安になりまして」と、ある人は(本物の)プリンストン大学教授、ハドリー・キャントリルに述べている。キャントリルはこの放送の後、何週間にもわたって人々の反応を調査していた。「チェンバレンがヒトラーに会いに行って以来、状況はとても不安定です」。航空技術が大きく発展しているのを知る人もいた。「新しい装備を積んだ飛行機で、外国の軍隊が私たちの国に攻め込んで来る可能性もあると思います。ヨーロッパの危機の最中は、あ送を聴きましたので」とキャントリルのインタビューを受けた人は述べている。「隕石は偽装ではないかと思いました」と話した人もいる。「あれは隕石のように見えて、実はツェッペリンのような航空機で、ドイツ人が毒ガス爆弾で攻撃しくるのだと思いました」。ナチ党による迫害の犠牲者について考えた人もいた。「ユダヤ人がとてもひどい扱いを受けている地域が世界にはあるので」と、ある人はキャントリルに述べた。「この国にいるユダヤ人を殺すために、何かがやって来たのに違いないと思いました」。

ウェルズの放送のために脚本を書いたのは、若き脚本家ハワード・コッチだ。後年コッチは、ウェルズがどれほど真剣にこのプロジェクトに取り組んでいたかについて語っている――芝居とその効果によって、ウェルズがもはや猶予がならないと考えていた問題が明確になった。コッチ自身も、脚本のせりふの裏にメッセージをしのばせるのを得意としていた。数年後、彼は永遠の名作映画『カサブランカ』の脚本家のひとりとなる。ハンフリー・ボガート演じるリック・ブレインに、エチオピアに味方して銃を密輸し、スペイン内戦では共和国人民戦線政府側について戦ったという経歴を与えたのはコッチだった。映画のなかでは、誰もリックの政治的立場を説明しない。だが一九三〇年代のアメリカでは、そのような経歴があるのは共産主義者と決まっていた。

オーソン・ウェルズは、ラジオという新しい媒体について考え抜いていた。どのように情報を伝達できるのか――そして、どのように人を欺けるのか。彼が着想を得たのは、数年前にイギリスで起きたあるできごとだ。一九二六年、労働者の緊張が高まって今にもゼネラル・ストライキが起こりそうなとき、BBCは、群衆が国会議事堂を破壊しようと迫撃砲をビッグ・ベンに向け、ひとりの閣僚を縛り首にして、ついにはBBCのスタジオを占拠したという「報道」を放送した臨時ニュースの合間には、サヴォイ・ホテルで演奏されているダンス音楽を中継した。当時も、多人々が報道を信じ込んだ。ウェルズは、自身の放送の進行とともに、何が起きつつあるのかを明確に理解していた。CBS放送の職員が来て、「あなたのせいで、みんなが死ぬほど怖がっている、どうか中断してこれはただの芝居だと伝えてほしい」と言った。しかし、ウェルズは挑戦的に応じた。「怖がっている?結構だ、怖がっているなら予定通りだ。さあ、終わるまで邪魔しないでください」。

放送から数日後、当時の先駆的なジャーナリスト、ドロシー・トンプソンが明確に指摘した。「今日の集団ヒステリー、集団妄想の最大のしかけ人は」、と彼女は書いている。「ラジオを使ってテロを扇動し、憎悪をあおり、大衆をたきつけ、大衆から政策の支持を集め、心酔する人々を生み出し、理性を破壊して自分たちの権力を維持しようとする国家である」。トンプソンは、ウェルズは「ヒトラー主義、ムッソリーニ主義、スターリン主義、反ユダヤ主義、さらに現代の他のすべてのテロリズムを理解するうえで、過去に記されたどんな言葉よりも大きな貢献をした」と考えた。この指摘は、彼女自身が思った以上に大きな影響をもたらした。このパニック事件を研究し、よく理解していたハドリー・キャントリルは、ローズヴェルト政権やイギリス情報部と協力して、アメリカ国民の世論を開戦賛成へと誘導した-しかも極秘で。

一九三八年九月三〇日、金曜日、ネヴィル・チェンバレンとエドゥアール・ダラディエは、群衆の大きな歓呼に迎えられた。だが、ミュンヘン会談がもたらす余波は、後悔、不名誉、悲しみ――そして恐怖だけであるように思えた。ダラディエは側近に「錯覚してはならん。一時的な猶予にすぎないのだから。この猶予を正しく使わなければ、われわれはみ撃たれる」と話した。

チャーノ伯爵の記録によれば、駐独フランス大使アンドレ・フランソワ=ポンセは、文書に署名する間も顔を赤らめ、「これが、フランスにずっと忠実であったただひとつの同盟国〔チェコスロヴァキア〕に対する、フランスのやり方なのだ!」と叫んだ。チェンバレンでさえも、ミュンヘンの一日は、「長すぎた悪夢」だったと書いている。ダラディエと同じように、歓声を上げる群衆の間をハリファックス外相と同乗の車で進みながら、彼は陰気につぶやいた。「こういうことは、三ヵ月もたてばすべておしまいです」。ロンドンに戻ったチェンバレンは疲れ切っていて、週末に首相別邸「チェッカーズ」で休養した。「神経をやられてしまいそうだ、これまで生きてきたなかで一番ひどい」、と妹宛に書いている。しかし、「議会で新たな試練をくぐり抜けるために」、立ち直らねばならないのはわかっていた。ミュンヘン協定に関する庶民院の論議が、月曜日から始まる。

ミュンヘン会談は、戦争へ向かう道筋の大きなできごとだった。会談にかかわったドイツ、タリア、フランス、イギリスにとって-また、直接はかかわっていない主要国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国にとっても政治や軍事の指導者が何をすべきか、どこに向かうべきかを考えるうえで根本的な変化が起きる、決定的な転換点となった。そして、ここにもまた矛盾が存在していた。ミュンヘン会談は、主としてチェンバレンによる、平和維持のための超人的な努力の結果だった。しかし同時に、多くの人が戦争回避の可能性を感じた最後の機会であった。ミュンヘン会談以降はすべてが加速し、戦争へと転がり落ちる道はますます急勾配に、一直線になっていく。

ヨーロッパの小国、特に中欧や東欧の脆弱な諸国にとって、ミュンヘン会談は大惨事となった。

 まだ開かない #スタバ風景
 てれさはわけがわからない
 藤森慎吾が一般女性と結婚発表しないかな #早川聖来
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『137億年の物語』

『137億年の物語』

宇宙が始まってから今日までの全歴史

著●クリストファー・ロイド

  1. 母なる自然(137億年前~700万年前)

1ビッグバンと宇宙の誕生

無限のエネルギーを持つ目に見えない点が大爆発。
わたしたちの宇宙を創り、銀河と普遍的な物理法則を生み出した。

2生命はどこからきたか

彗星の衝突や火山の噴火が、原始地球の灼熱の地殻を揺り動かし、化学物質が複製によって、極小の生命体に変わりはじめた。

3地球と生命体のチームワーク

地球の惑星システムと原始生命体の進化が手を結び、より新しくより複雑な生物が登場するための環境を整えた。

4化石という手がかり

生物は爆発的な進化を遂げ、さまざまな原始生物が登場した
硬い殻や骨、歯を発達させた生物は、化石となり、自然という博物館にその姿をとどめた。

5海は生命の源

先史時代の生物は、陸に上がる前に、海の中で長い年月をかけて進化した。
ある種の魚は背骨をそなえ、人類につながる最古の生物となった。

6生物の協力体制

陸上植物は背の高い樹木へと進化し、大地は、昆虫やミミズや菌類が耕す滋養豊かな土壌で覆われた。

7進化の実験場

働きつづける大陸どうしがぶつかって超大陸を形成し、新たな生命の進化をうながす一方で、陸上生物がはじめて経験する大量絶滅を引き起こした。

8恐竜戦争

地上は恐竜に占拠されたが、その恐竜も地球の外から偶然襲ってきた隕石の衝撃により、絶滅の運命をたどる。

9花と鳥とミツバチ

地球ではじめて花が咲き、羽毛を持つ鳥が舞い、社会性昆虫という新たな種が、自然界初の「文明」を築いた。

10哺乳類の繁栄

夜の森に潜んでいた控えめな動物が地上の新たな覇者となり、離れ行く大陸とともに移動して、数多くの種に進化していった。

  1. ホモ・サピエンス(700万年前~紀元前5000年)

11冷凍庫になった地球

地球の自転による循環変動と大陸のランダムな移動がもたらした気候変動により、広大な草原と極地の氷床が生まれた。

12二足歩行と脳

類人猿とよばれる生物が、樹から下りて、2本足で歩くことを覚え、狩りのための道具を作り出し、大きな脳を持つ種へと進化した。

13心の誕生

初期人類のいくつかの種は氷河期の環境に適応し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアに広がっていった。彼らは火の使い方を覚え、捕えた動物の肉を調理して食べた。

14人類の大躍進

人類の中で唯一生き残った種「ホモ・サピエンス」は、だれも足を踏み入れたことのない大地に住みつき、言葉を覚え、投げて使う武器で狩りをした。

15狩猟採集民の暮らし

人類は、誕生してから現在までの年月の99パーセントを、住む家も、フルタイムの仕事も、そして個人の所有物もないまま、自然の中で暮らしていた。

16大型哺乳類の大量絶滅

現生人類の登場と気候変動が偶然重なったことにより、まずオーストラリア、次に
南北アメリカ大陸で生態系のバランスが
崩れ、数多くの大型動物が絶滅した。

17農耕牧畜の開始

最後の氷河期が終わると環境は激変したため、人類は生き残りをかけて新たな技術を試し、自分たちの利益のためにはじめて進化を操作しようとした。

第3部文明の夜明け(紀元前5000年~西暦570年ごろ)

18文字の発明シュメール文明

文字の発明によって「有史時代」がはじまり、商人、君主、職人、農民、神官が、最初の文明を築いた。

19王は神の化身エジプト文明

豊かな自然に支えられて、王の中には生き神となる者が現れた。臣民は、王に絶対的に服従し、全身全霊を捧げ、何があっても王を守らなければならなかった。それは王の死後も続いた。

20母なる大地の神
インダス文明、巨石文化、ミノア文明

誕生と生と死という自然のサイクルへの崇拝が、実りと多産、女性らしさ、平等を重んじる文化をもたらした。

21金属、馬、車輪

青銅器の武器、家畜化された馬、二輪戦車という三つぞろいの脅威が、アジア、ヨーロッパ、北アフリカに押し寄せ、破壊と征服と不平等をもたらした。

22中国文明の誕生

米、絹、鉄という自然の恵みを得て、
東方でも強大な文明が生まれ、繁栄した。


23仏教を生んだインドの文明

人間は自然と調和して生きていける、ということを再発見した文明が、そのメッセージを伝えはじめた。

24オリエントの戦争

遊牧民族と定住文明の衝突が、世界最古にして最も長く続く破壊的な紛争の種をまいた。

25ギリシア都市国家の繁栄

交易を経済の基盤にするようになった都市国家が競い合う中で、実験的で新しい、さまざまな生活様式が生まれた。

26覇者が広めたヘレニズム文化

自然のシステムの理解が、哲学や法として花開き、征服者によって東西に伝えられた。

27ローマ帝国の繁栄と衰退

物まねが得意で乱暴な民族が築いた帝国が限度をはるかに超えて権力にしがみつく。
その時代に誕生したイエス・キリストはやがて救世主とよばれるようになる。

28先住民の精霊信仰

文明世界や遊牧民から遠く離れた土地で、人々は自然を畏れ敬い、知恵を発揮し、
平穏な日々をすごしていた。

29コロンブス以前の南北アメリカ大陸

「新世界」の人々はヨーロッパ、北アフリカ、アジアの文明を知らないまま独自の文明を築いたが、大型動物がいないという致命的なハンディキャップを背負っていた。

  1. グローバル化(西暦570年ごろ~現在)

30イスラームの成立と拡大

メッカに生まれたムハンマドが神の啓示を次々に授かり、イスラームの教えを説きはじめる。
人間とは過ちを犯すものであり、それを正すことが大切だ、とその教えは説く。

31紙、印刷術、火薬

中国の科学的な発明は、イスラームの世界を通じて少しずつ西側に伝わっていったが、それを一気に加速したのは、世界最大の帝国を築いたモンゴルの王だった。

32中世ヨーロッパの苦悩

ヨーロッパのキリスト教国は、疫病や侵略や飢饉によって疲弊し、イスラーム文明と人を寄せつけない砂漠、はてしなく青い海に包囲されていた。

33富を求めて

世界各地にあった定住社会は、交易、労働、あるいは略奪によって、富を築いていった。

34大航海時代と中南米の征服者たち

数人の海洋探検家が偶然、新世界を発見したことにより、古代からの文明が滅亡に追いやられ、ヨーロッパ各国のあいだでは激しい競争が起きた。

35新大陸の農作物がヨーロッパを変えた

ヨーロッパの商人が海外で新しい暮らし方をはじめたことから、利の多い農作物の栽培が流行し、ひと握りの富める者と多くの貧しい者が生まれた。

36生態系の激変

今や全世界に広がった、ほとんどが文明化された唯一の種「人類」のために、動物や植物は栽培され、飼育され、装具をつけられ、輸送され、酷使された。

37ヨーロッパ人は敵か味方か

ヨーロッパから「ビジネスマン兼戦士
が交易を求めてやって来たとき、トルコや中国で栄えていた文明の反応はそれぞれ異なっていた。

38自由がもたらした争い

極端な不平等は、自由を求める暴動を引き起こした。人々は、理想や国旗、国歌のために、進んで戦争に参加した。

39人類を変えたテクノロジー

持ち運びできる動力源を得た人類は、ついに自然の制約を克服した。
人口は爆発的に増え、どの基準に照らしても、過剰となった。

40白人による植民地獲得競争

西欧諸国の人々は、自分たちはあらゆる
生きものの頂点に立っていると信じ、自分たちの生き方に世界を従わせることが使命だと思い込んだ。

41資本主義への反動

西洋文明を受け入れず、自然な暮らしに戻ることを願った人々もいたが、その抵抗は悲惨な結末を招いた。

42世界はどこへ向かうのか?

世界は、休むことのない科学の発展に支えられて、グローバル化した金融、貿易、
取引システムの下に統一された。
地球とその生態系は、人類のとどまるところを知らない要求に今後も応えてくれるだろうか?

  • ビッグバンと宇宙の誕生

無限のエネルギーを持つ目に見えない点が大爆発。わたしたちの宇宙を創り、銀河と普遍的な物理法則を生み出した。

あなたのまわりをよく見てみよう。そして、目に見えるものすべてを、とてつもなく大きくて強力な粉砕機に放り込むことを想像してみよう。植物、動物、家(中にあるものもいっさいがっさい)、ビル、住んでいる町、それどころか国全体も、すべてを粉々にして、小さなボールくらいの塊の中に押し込んでいくのだ。

それがすんだら、残りの世界もすべて入れてしまおう。太陽系にある他の惑星も太陽もすべてである。ちなみに、太陽は、太陽系の惑星をすべて合わせたより1000倍も大きい。その次は銀河系だ。銀河系には、太陽と同じような恒星が2000億個もあるが、これも全部入れてしまう。そしてついには、すべての銀河を押し込もう。この宇宙に銀河はおよそ1250億個もあり、その多くはわたしたちの銀河系より大きい。それらをすべてひとまとめにして、ぐいぐい圧縮していく。レンガくらいの大きさにできたら、次はテニスボール、次はひと粒の豆くらいにして、最後はアルファベットの「i」の上にある点より小さくする。

とうとう点は見えなくなった。すべての恒星、惑星、そして衛星は、目に見えない点の中に消えた。これが宇宙の原初の姿、科学者たちが「特異点」と呼ぶものである。この非常に小さく、とてつもなく重く、とてつもなく密度の高い点は、内側に閉じ込めたエネルギーの圧力に耐え切れず、137億年前に途方もないことをしでかした。

爆発したのである。

並みの爆発ではない。壮大な爆発。空前絶後の巨大爆発。すなわち、「ビッグバン」だ。それに続いて起きたことはさらにすごかった。はるかかなた、数十億キロ先まで破片が散らばったのだ。ほんの一瞬で、宇宙は目に見えないほど小さな点から、この地球はもとより、今わたしたちが見ているすべての星を創るのに必要なものが存在する空間へと拡がったのである。さらにそこには、わたしたちには見えないもの、つまり現在の天体望遠鏡では見ることのできないものも存在する。この宇宙はあまりにも広大で、いったいどこまで続いているのか、本当のことはだれも知らない。

ビッグバンの証拠

ではなぜ科学者たちは、そのようなとてつもないできごとが起きたと信じているのだろう。だれかが目撃するはずもない、遠い過去のことなのだ。当然ながら、今でも少なからぬ人がビッグバンという考え方自体を疑っている。しかし、大方の科学者はそれが起きたことを認めている。彼らに言わせれば、証拠はそこかしこにいくらでもあるからだ。

ジョルジュ・ルメートルはベルギー出身のカトリック司祭にして天文学者である。神学と科学を志したのは、第一次世界大戦中に戦場で悲惨な光景を目の当たりにしたのがきっかけだった。1923年にはケンブリッジ大学に滞在して天文学の理論を学んだ。ケンブリリッジの天文台には、世界最大級の天体望遠鏡があった。1927年、すでに数学者として名をなしていた彼は、「ビッグバンにはじまり、膨張する宇宙」という仮説を立てた。

ルメートルがその仮説を発表したわずか2年後、もうひとりの天文学者、エドウィン、ハッブルが、強力な天体望遠鏡で、他の銀河が地球から離れていく様子を観測した。しかも、遠くの銀河ほど、離れる速度が速かった。それは宇宙が今も膨張し続けていることを明らかに示していた。ハッブルは、遠い昔に何かが起きて、星や銀河が外に押し出されたに違いない、と結論づけた。ルメートルが想定したビッグバンは、まさにその何かであった。

雷鳴は山や谷に反響し、ときにはその残響1分以上消えないこともある。雷鳴でさえそうなのだから、ビッグバンほどの巨大な爆発のこだまとなれば、現在でも検出できるのではないか、と科学者たちは考えた。

1964年、ニュージャージー州で、技術者アーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンによってそのこだまがはじめて検出された。ふたりは古い無線アンテナを利用して電波望遠鏡を作ろうとしていたのだが、そのアンテナは不可解なノイズを拾い続けた。どちらの方向に向けても、わずらわしい雑音は消えなかった。当初ふたりは、ニューヨーク市の無線送信機が原因ではないかと疑ったが、現地まで出向いて調べたところそうではなかった。そこでニュージャージーに戻ってアンテナの内部を見てみると、ハトの糞がこびりついていた。ノイズはそのせいだと思った彼らは、周辺のハトを駆除してアンテナをきれいに掃除した。それでもノイズは消えなかった。

当時、そこからほんの50キロほどの場所で、宇宙学者ロバート・ディッケ率いる研究者グループが、ビッグバンのこだまを検出すべく、超高感度のマイクロ波アンテナを完成させようとしていた。たまたまペンジアスとウィルソンはディッケに電話をかけて、望遠鏡のノイズを消す方法をご存じないだろうか、と尋ねた。そう聞くなりディッケは、ふたりが聞いているのはビッグバンのこだまに違いないと直感したそうだ。今日では、彼らの説明を聞かなくても、こだまをこの目で見ることができる。テレビの放送終了後やチューニングが合わないときに画面に現れる砂嵐(無数の白い点)はご覧になったことがあるだろう。あの点々の100個にひとつは、ビッグバンのこだまが引き起こしたものである。

しかし、目に見えないほど小さな点が爆発してこの宇宙が生まれたという説を受け入れたとしても、科学者たちにはどうしてそれが137億年前に起きたとわかるのだろう?ハッブルは遠くの銀河ほど速く遠ざかることを観察したが、現在では、さらに進歩した天体望遠鏡を用いて銀河の後退速度を正確に検出できるようになった。このデータから時間をさかのぼっていけば、すべての物体が1ヵ所にまとまっていたのがいつであったのかを突き止めることができるのだ。

宇宙は無数にある?

ビッグバンの直後には、さらに不思議なことが起きはじめた。途方もないエネルギーが放出され、このエネルギーがまず重力に変わった。重力は目に見えないのりのようなもので、そのせいで宇宙に存在するあらゆるものは、互いとくっつこうとする。それに続いて宇宙のもとになる、おびただしい数の粒子が生み出された。いわば、ミクロサイズの「レゴ」である。今日この世界に存在する物質のすべては、ビッグバン直後に生じたこの無数の粒子からできている。

それからおよそ30万年がたち、宇宙の温度が低くなるにつれ、これらの粒子(最も一般的なのは、電子と陽子と中性子)は互いに結びつき、わたしたちが原子と呼ぶ小さな塊になった。その原子が互いの重力に引き寄せられ、超高温の巨大な雲を作った。このような雲から生まれたのが、最初の恒星、すなわちビッグバンの名残のエネルギーが詰まった巨大な火の玉の集団である。それらの恒星がやはり互いの重力に引かれて集まり、らせん状から渦巻状まで、形も大きさもさまざまな集団、すなわち銀河になった。わたしたちの銀河である天の川銀河(銀河系)は、ビッグバンのおよそ1億年後、今から136億年前にその姿を現した。銀河系は、巨大な円盤のような形目玉焼きをふたつ背中合わせにしたような形をしていて、時速約100万キロメートルという目のくらみそうなスピードで旋回している。
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