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Googleを組み合わせる発想

部屋で見ているYouTubeが居間のテレビにでてしまう

 買ってもらったスマホでYoutubeを観ている。いくちゃんは本当に凄い! 悩みが一つ。その映像が下のテレビに映されてしまう。その度に奥さんに怒られる。

 だけど、これって、10年前にMu-TVでやりたかったこと。こんな簡単にできるようになっているんだ。今の連中はなぜ仕掛けないのか?

Googleを組み合わせる発想

 図書館システムにしても、作ろうと思ったけど、Googleを組み合わせたら出来てしまった。さすが、知の入口を標榜するだけのことはある。目指すものが一緒と感じた。アマゾンとかセールスフォースではこうはいかない。

FBは役に立たない

 FBは見ていると、コマーシャルばかりで、勝手に話し出す。ろくなものではない。

 車と食べたものの映像ばかりで知的ではない。FBはメモ帳として使っている。思いついたときに入れ込んでおけば、後日にまとまった形に抜け出せる。誰も見ていないのは有難い。
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シュメールで数学

『古代エジプトの数学』より 尖筆は槍よりも強し バビロニアの数

シュメールで数学が生まれたのは、都市がどんどん大きくなり、数を扱う必要が増えていったからだった。メソポタミアの天然資源といえば、何といっても粘土だった。労働力が増えれば、道具もたくさん必要になる。アラビア半島のオマーンからは銅が、アフガニスタンからはスズが持ち込まれ、これらを混ぜて青銅の道具が作られるようになった。木材はほとんど無く、レバノンなどから持ってくるしかなかった。さらに、当時増えていた上流階級の人々はにイランなどで取れる宝石をほしがった。都市が大きくなりすぎて、誰が重要人物なのかが一目ではわからなくなり、地位を示す品を身につける必要が生じたのだ。

メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川に沿った都市国家の集まりだったが、これは、大量の品を取引するにはいささか都合の悪いことだった。支配階級の僧たちは、何か必要な物があると、一番近い都市の人々と取引をするか、遠くまでの隊商を差し向けるしかなかったが、第1の選択肢には金がかかりすぎた。さまざまな素材を遠くから運んでくると、町から町へと転売されることになり、間に入った何人もの仲介業者がそれぞれに利益を出そうとするので、最終的な費用が法外なものになるのだ。かといって、第2の選択肢は危険だった。隊商の人々は住み慣れた都市の影響下にある小さな円の外に出なければならなかったが、ほかの都市にすれば、これらの商人を盗人や蛮族の襲撃から守る義務などなく、商人が運ぶ品々を自ら奪うこともあった。

メソポタミアの地理上の位置からいって、交易路はさらに大きな意味を持っていた。シュメールは、東西の豊かな文明の間に位置していたのだ。東には、インドやスーサ〔現在のイラン西南部にあった古代イランの都市〕やペルシャ湾岸のほかの文明などがあり、西には、エジプトやミノア文明やレヴァントと呼ばれる地域〔今のシリア、レバノン、ヨルダンに相当する地域〕の都市国家をはじめとする地中海文化があった。この二つのグループの間の東西交易には、きわめて大きな可能性があったが、メソポタミアの北には容易に越えることのできない山があり、南には過酷な砂漠があった。メソポタミアの都市は東西に流れる2本の川のどちらかのほとりにあって、この二つの川が唯一の交易路だったのだ。貿易によって膨大な富を蓄積できる可能性があったとしても、どうすればうまく儲けられるかが問題だった。そして残念なことに、彼らはきわめて単純な答えを出した。

人類は常に、戦争に悩まされてきた。隣り合うグループが境界のことでもめると衝突が起こり、何人かが死んで、負けた方は引き下がる。ところがこの頃--つまり紀元前3000年代も後半--になると、より組織的な戦争が頻繁に起きるようになった。ある都市国家の軍隊が相手を制圧すると、もはや領土を少々手に入れるとか、何人かを連れて行くといったことでは済まなくなった。勝者のリーダーは敗者に服従を求め、代表と兵士をその都市に残して、敗者が管理していた川の交易権を手中に収めた。都市を一つ手に入れただけで、自分たちが管理できる川の長さは2倍になり、交易による利益も事実上2倍になった。都市を二つにしたら利益が2倍になるのだから、三つにして利益を3倍にしないという手はない。だったら四つでは? こうして境界を共有せず、真剣なもめ事もない都市同士が、川の流域の支配権を得るために繰り返し戦うようになった。

シュメールの都市国家の伝統的なリーダーは高位の僧で、エン〔ないしエンシ〕と呼ばれていた。エンとは「神の配偶者_という意味で、エンとなった僧は、儀式的に結婚したことになる。都市の長老たちは、何か衝突が起きるとルガルを選出した。ルガルとは「大きな男」の意味で、この人物が軍の戦士たちを率いるのだ。ところが戦争が頻繁に起きるようになると。ルガルの地位は上がり、それまでエンだった王たちの肩書きも、ルガルに変わった。高僧たちは、大きな都市を治めて芸術や産業や儀式を盛んにすることができたが、都市が占領されて略奪されるかどうかという瀬戸際では、そんなものは何の役にも立たなかった。決死の場面では、何よりも安全を保つことが優先されたのだ。こうして、何千年もの間都市国家を治めてきた知的階層は戦士たちに押しのけられ、シュメールの終わりが始まった。

最初の偉大なるメソポタミアの皇帝、アッカドのサルゴン〔シャル・キンとも、在位BC2334―BC2279〕は、シュメールではなくセム族の出身だった。セム族は単一の民族ではなく、同じ起源を持ついくつかの言語を話す民族の集まりで、今も中東のいくつかの地域では、セムの言語が使われている。言い伝えによると、サルゴンは高僧の家に生まれたのだが、高僧は独身でなければならないという定めがあった。そこでサルゴンの母は醜聞を避けようと、編んだ葦の隙間をコールタールでふさいだ寵にサルゴンを入れて、ユーフラテス川に流し、それを見つけた水汲み人夫〔庭師とも〕が自分の息子として育てた、というのだ。この物語がモーゼの洗礼の物語の元になっているとする人は多いが、いずれにしてもこれは、サルゴンが王家の血を引いていることを裏付け、平民であるサルゴンが王位に就くことを正当化するための作り話と見ていいだろう。

古代メソポタミアの都市キシュの庭師として働き始めたサルゴンは、やがて王家の酌人の地位に上り詰めた。酌人とは宮廷でワインカップの酌をする召使いのことで、高位の役人である。ウルクのルガルがキシュを征服すると、サルゴンは町を逃げ出して、アッカドという都市を興した。そして自前の軍を作ると、ウルクから来た敵を打ち破った。サルゴンは次々に都市を征服し、ついにその帝国はイランの一部をも含み、地中海からペルシャ湾まで及ぶこととなった。サルゴン自身の記録によると、ほぼ1000マイル〔1600キロメートル〕にわたっていたという。

ここで、この新たな帝国における数学者の仕事を想像してみよう。都市国家では、たまに数千単位の数を扱う必要はあっても、1万単位の数を扱うことはめったになかった。では、この新たな帝国ではどうだったのか。たとえば、9万人の軍人たちを3ヵ月養うのに必要な穀物の量はどれくらいなのか。ここまで大きな数を扱う際に一つの数に含まれるそれぞれの位の記号が異なっていたのでは、混乱が生じる恐れがある。小さな数を扱う場合は、使う記号も少なく、めったに使わない記号がはとんどだが、大きな数を扱おうとすると、異なる記号がたくさん必要になるのだ。シュメールの人々が60を底としていたのに対して、セム族の人々は10を底としていたので、たとえシュメールの記号があったとしても、それをそのまま使うわけにはいかなかった。というよりも、そもそも無学なアッカドの人々は、帝国を運営するのに必要な量を扱うどころか、その量を表現する術も持ち合せていなかった。

これらの僧兼数学者たちは、メソポタミアの支配者としての地位こそ失ったが、帝国にとって必須の役割を担い続けていた。都市を運営していた人々が、巨大な帝国を運営するようになったのだ。しかし、古き良き時代はもはや過去のものだった。メソポタミアの帝国はひどく不安定で、概していえば、支配している側の都市だけが儲けていた。そのため、至るところで反乱が起きた。皇帝は革命の影響を小さくするために、臣下である都市の防護壁を壊し、敵に対して無防備にすることが多かった。けれどもこれによって帝国そのものが、外からの攻撃に対してひどく脆弱になった。蛮族や自由都市などの敵が、いとも簡単に事実上無防備な都市を襲うようになったのだ。

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満洲の特急列車あじあ号

『満洲の土建王 榊谷仙次郎』より

特急列車あじあ号

 十月二十八日、「大連新京間の特急亜細亜の試運転に招待され、八時に駅に行く。八田副総裁も乗っておられる。八時五十分亜細亜は静かに出発す。引出しの音がしないので、出たか出ないか分からないくらいである。振動もなく乗心地良し。展望車は勿論一等車、二等車椅子も上出来で、布は日本の神戸工場で作ったものを二等だけは使っている。一等は舶来品。沙河口杉浦熊男工場長が昼夜兼行誠心誠意作られただけあって、実に心地良い。木材は外国品を排し、吉林の用材を大部分使用している。価格は外国品の三分の一に当たり、チークは使用せず、機関車ボールベアリングと冷房器だけは遺憾ながら日本品で間に合わず、外国品を使用したのであると、杉浦工場長は苦心の結果を話しておられた。一、二等車の腰掛けレザーは高島屋が請負、大阪住吉工場で出来たとの事。誠に上等である。外国品以上だと言っている。冷房器についていろいろ説明あり、外より空気入れるため内部より綿ネルを以て締め付けられてある。亜細亜の機関車及び客車共に之が製造については随分苦心されたようである。スピードは最少八○キロ、最大一二〇キロ。三等車に乗り込む者を申し込ませた所二〇〇〇人余りの申し込みあり。抽選して六〇人に決めたとの事。十一時四十四分大石橋に着く。奉天着が十三時三十七分、大連、奉天間四時間四七分であった」(日記)

 満鉄が誇る特急「あじあ(亜細亜)」の試乗体験記である。

 今日、満鉄といえば特急「あじあ」。「負」の面だけが強調されがちな、満鉄、いや満洲が生んだ

 「あじあ」は最大のスターと言ってよい。余談になるが、「あじあ」の誕生から満鉄の終焉までを簡単に触れてみたい。

 満鉄が特急列車の建造を社議決定したのは三三年八月二三日、翌年の十一月には早くも試運転にこぎつけた。「あじあ」を牽引する機関車パシナの設計、製造に当たったのは機関車係主任、後に「機関車の神様」と言われる吉野信太郎であった。当時、日本最速の「燕」の平均速度が六六・八キロなのに対して、「あじあ」は八二・五キロと大きく上回り、東洋一のスピードを誇った。そして時代の最先端をゆく流線型のボディである。試運転に試乗した米国の記者団は、満鉄独自に開発したものであることを信じなかった。鉄道後進国の日本に出来るはずがないと思っていたのである。しかし華やかにデビューを飾った特急「あじあ」であったが、四三年二月二十八日に終幕を迎えた。戦況が厳しくなり、貨物輸送の妨げとなるとのことから、関東軍の命令によって運行停止、わずか八年四ヵ月の命であった。

 ちなみに今日、新幹線の生みの親とされている島秀雄(当時、国鉄技師長)の父、安次郎は一九年、「我が鉄道は狭軌にて可なり」という国会議決に署名することを拒否して、鉄道省技監の職を辞し、満鉄に入社、一九年から二三年まで理事とし、広軌高速長距離列車の開発を主導。三九年、東京・下関間の広軌路線を九時間内で走る、通称弾丸列車計画が浮上すると、汽車製造会社の会長の職にあった安次郎は、再び鉄道の現場に戻って、幹線調査会特別委員長に就任するが、戦況の悪化によって計画は頓挫。

 「あじあ」のスピードは満洲の鉄道が広軌であったから実現したことから、安次郎はあくまでも広軌にこだわった。

 秀雄は安次郎の勧めもあって、吉野に会うために四〇、四一年に渡満している。安次郎の信念は息子秀雄に引き継がれ、東海道新幹線(六四年開通)に繋がる。桜木町事件で国鉄を引責辞任していた秀雄を技師長に呼び戻したのは、当時の国鉄総裁、十河信二。満鉄時代は仙谷、内田、林の三代総裁にわたって理事を務めた十河だったが、石原莞爾失脚以来不遇をかこち、戦後は故郷の西條市長を務めていた十河を国鉄総裁に引っ張り出したのは、満鉄時代の同僚、村上義一であったとされている。村上は第三次吉田茂内閣で鉄道大臣を務めた。新幹線が満鉄の技術によって生まれたとは一概には言えないが、鉄道開発に情熱を燃やす人と人との繋がりによって生まれたことだけは間違いない。「人材の満鉄」と言われた社風は後の世にも引き継がれたのである。

 十一月一日、播磨町に建設中の榊谷組本店が落成。大連は前日来の雪交じり大風吹で一日延期したが、天候は回復せず、これ以上延期出来ないことから落成式が強行された。「風吹は昼になっても止まず、僕の気性を表していると、誰かが言っていた。午後二時より来賓続々集まる。三時から余興を始め記念撮影。四時から宴会。案内した人のほとんどが来てくれ、会場は立錐の余地もなかった。八時にようやく終わった」 (日記)

 二十九日、「本年は天候に恵まれず、創立以来の不成績である。請負金額からいえば昭和六年の請負金額は八二万円、七年が一六○万円、八年が一躍七五〇万円、本年はコー○○万円、とんとん拍子に進んで来たのだが、結果において拙かったのは、軍人が強敵に遭って戦死したのと同様である。しかしわれわれは戦死したのではない。多額の教育費を払って実地に体験したのであるから、これを土台として、我々は益々発展しなければならない」 (日記)

 十二月五日、新京で開かれた満洲土建協会主催の座談会で、満洲土建協会と日満土建協会の二本立ては紛らわしいとの意見が多数を占めたことを受けて、日満土建協会を廃止して満洲土建協会一本に改めることになった。その他、請負業の数が多すぎることもふくめて支店、出張所の統合、競争入札を止めて実費請負制度に改めるべきなど意見が出て、土建界そのものの改善が強く求められた。

 大連に戻った榊谷は組員を前にこう語った。「協会の仕事も多忙、組の仕事も多忙だが、私の立場上、どっちかと言えば組を犠牲にしても協会を発展させなければならない。今の協会は二七年に多数の人が反対するにもかかわらず、僕が作って今日まで発展させ、今に続いている。この使命は誰が何と言ってもやり抜かねばならない。万難を排してでも実行する覚悟である」

甘粕正彦

 満洲における特務機関の始まりは、一七年のシベリア出兵に遡る。シペリア派遣軍司令部付となって情報収集、並びに謀略工作を行なった、通称中島機関がその始まりである。任務は「統帥範囲外の軍事外交と情報収集」であることから、その存在も秘匿され、行動が表面化することはほとんどない。機関のトップはもとより陸軍将校だが、配下には軍人だけでなく、民間の日本人もいた。張作霖爆殺、満洲事変勃発、満洲建国に至る一連の関東軍の謀略工作の影の主役は特務機関で、土肥原賢二の名が広く知られる。満洲事変の後、中国大陸各地に続々特務機関が設立されたが、時には領事館の一部署であったり警察、行政の一機関であったりして、その存在は見えにくい。

 三一年、満洲が建国されると、民政部初代警務司長に甘粕正彦が就任。関東大震災の折の「大杉栄・伊藤野枝殺害」の首謀者との疑いのある、あの甘粕である。一〇年の刑期を大きく余して出所した甘粕は三一年に満洲に渡った。元憲兵大尉の甘粕は、満洲国の治安対策の基礎を作ったとされている。

 満洲建国後、満ソ国境の情報収集、謀略工作の中心になったのはハルビン特務機関であった。三二年に満州里に国境警察、黒河、再開、海拉爾に特務機関が、三三年に首都警察庁に特務科が、三四年に赤峰、図椚に国境警察、富錦、大連、奉天に特務機関が開設された。
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グローバル化と国家の恣意性

『国家の哲学』より 個人は国家に対して義務を負うか?--政治的責務の正当化根拠を問う

グローバル化

 現代は、グローバル化の時代である。「冷戦」が、20世紀後半の時代を象徴する語彙であったように、「グローバル化」は、現代を象徴する語彙である。冷戦がそうであったように、グローバル化は、法・政治・経済・社会・文化・思想・芸術などの多元的領域で影響を及ぼしている。

 グローバル化は問題の磁場である。それは問いの立て方に関わり、従来とは異なる様相で問題を提示する。グローバル化によって、何が問われるべきか、何か主張されるべきかが規定される。

 その意味で、グローバル化は一種のイデオロギーとして機能する。例えば、福祉国家をグローバル化の枠組で捉えると、グローバルな経済競争においても福祉国家は維持可能なのか、という問題が前景化されることになる。グローバル化によって福祉国家をめぐる環境が変化しているのは事実だとしても、グローバル化によって福祉国家が衰退しているという言説は、イデオロギー的だと批判される。

 だが、イデオロギーとして機能するからといって、それが現状認識として誤っているということにはならない。グローバル化というレンズを通して、まさに問われるべき問いが浮上してくる。それは、国家をめぐる問いである。

国家の問い直し

 私が本書で試みるのは、国家の存在理由を再検討し、国家の意義を解明することである。グローバル化という問題圏において、「グローバル化の時代に、国家は衰退していくか」という問いは、中心的な問いであった。国家の規制や税制を逃れようとする多国籍企業や国際金融資本、国家の信用を格付けする信用格付機関によって、国家に選択可能な政策は制限されている。しかも注意すべきことに、この問いに対して、「国家は消滅していく」という回答を与える者は、予想されるよりも少数である。

 例えば、「国家の退場」を書いたS.ストレンジでさえ、この問いに対して、否と答える。ストレンジによれば、グローバル化によって、国家は退場しつつあるとしても、消滅しつつあるわけではない。言い換えれば、国家の権威は衰退しつつあるが、市場が提供しえない基本的事柄に関してはそうではない。例えば、安全保障、通貨、法システム、インフラ整備に関しては、依然として国家は重要な意義を持つ。

 また、グローバル化に触発されて、新たな世界秩序像を構築しようとするD.ヘルドも次のようにいう。「グローバル化は国民国家の終焉と結びつくわけではない。・・・・・・グローバル化によって諸国家の権力が一方的に蚕食されている、あるいは切り崩されているわけではない。むしろ、国家権力の形状の鋳直しが起こっているとみるべきだろう」。つまり、グローバル化によって国家が消滅していくわけではない。

 U.ベックの見立てでは、事態はむしろ逆である。グローバル化時代において、「国家は時代遅れになっただけではなく、不可欠なものでもある」。第一に、グローバル化は、基本的には、各国家の政策を通じて進行していく。グローバルな経済システムが作動するためには、国家が不可欠である。第二に、グローバル化のプロセスをコントロールするために、協同する国家が誕生してくる。そのような「トランスナショナルな国家は、強い国家である」

 グローバル化(特に経済のグローバル化)と国家の関係に関する現在の支配的な見解は、次のようなものであろう。つまり、グローバル化によって国家は死滅しない。むしろ、グローバル化は、国家を組み替えていく。

国家の恣意性

 グローバル化の時代において、なぜ国家が道徳的に問題となるのか。それは、グローバル化の進展によって、国家が恣意的な存在に見えるようになるからである。

 グローバル化の進展がもたらすのは、国家の枠組を超えた経済的・社会的・文化的な相互作用である。もちろん、国家の枠組を超えた様々な活動は、有史以来存在してきた。中華帝国とローマ帝国を結ぶ貿易ルートであるシルクロードは、その典型的象徴である。しかしながら、現在が特にグローバル化の時代だといわれるのは、相互作用が強化され、しかもそのことが人々に強く意識されるようになったからである。

 グローバル化は、「単一の現象ではなく、様々なプロセスが重なりあった複合的現象」である。複合的現象であるグローバル化に対して、「時間/空間の圧縮」・「複合的結合性」といった規定が与えられてきた。重要なのは、時間/空間の圧縮にせよ複合的結合性にせよ、それが地球規模で生じているということである。グローバル化とは、文字通り「地球化」のことである。

 グローバル化によって、グローブ、すなわち地球がリアリティを持つようになる。いわば、宇宙から見る視線によって、地球が捉えられる。宇宙から見れば、地球に国境線はなく、国家の存在理由が改めて問われることになる。

 例えば、地球規模の所得格差である。グローバル化は富の平準化を期待させた。だが実際には、世界の富裕層と貧困層の格差は拡大している。世界の所得上位層10%は、1988年においては世界所得の64.67%を得ていたが、2002年においては71.08%へと増加した。逆に、世界の所得下位層10%は、 1988年においては世界所得の0.34%を得ていたが、2002年においては0.26%へと減少したとされる。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるという「マタイ効果」が、ここにはにられる。

 もちろん、所得格差の拡大は、ここ20年程度の傾向ではない。200年のスパンで見ても、所得格差は拡大し続けてきた。1820年においては、イギリスとオランダが最も豊かな国であり、最も貧しかったアフリカと比べて約4倍豊かであった。1998年においては、その差は約14倍であった。だが2010年においては、その差は24倍に拡大している。個別の国でみれば、国民一人当たりGDPで、最高位のルクセンブルクと最下位のマラウイの差は、2013年において約500倍である。不平等を示す指数であるジニ係数は世界全体で0.7に達するが、これは世界中のどの国のジニ係数よりも高い数値である。国家が道徳的に恣意的であるならば、こうした格差は到底許容できない。
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新たな家族像と多様な働き方

『「エイジミックス」で日本は蘇る』より

「一・五稼ぎモデル」とは何か

 私たちが目指すべきは「引退しない人生」が普通の社会である。むろん働き続けなければならない社会というわけではなく、働き続けたいという意志が妨げられない社会、つまり働きたい人なら誰でも働けるような社会のことである。それを目指すために、現代日本人はどのような「働き方」をしているか見てみよう。

 政府は二〇一五年以来「一億総活躍社会」を謳い、既婚女性の自由な労働参加を制約している配偶者控除の廃止を検討してきた。ところが二〇一七年、控除の年収上限を引き上げるという思いがけない結果が生まれた。政府は本気度を疑われても仕方がな岫。この結果を後押しした自民党、「春闘」体制、所得税法、厚生年金制度、これらすべてが想定する家庭像は、いまだに、稼ぎ手が一人の「一・○稼ぎモデル」の発想を抜け出せていない。いまや多様な働き方が生まれており、政府はそれを支援するのではなかったのか。

 ここでは、夫婦がともに週三五時間以上働く「二・〇稼ぎモデル」と、夫婦のうち片方が週三五時間以上働き、配偶者は週三五時間未満働く「一・五稼ぎモデル」を比較の対象にしよう。米国の中産階級における「一・○稼ぎモデル」は破綻しており、それがトランプ大統領選出の理由の一端である。では、日本の若者はどんなライフスタイルを望んでいるのか。アンケート調査では、男女とも多くが結婚を希望していること、そして八割が共働きを望んでいることが明らかになっている。

 しかし現実の若い夫婦では、夫婦ともフルタイム(二・○稼ぎモデル)が一九九〇年ごろの六〇%前後から徐々に低下し、最近では五〇%前後である。一方、夫がフルで働き妻がパートタイムで働く(一・五稼ぎモデル)というケースが四五%前後、逆に妻がフルタイムで夫がパートというケースは二%程度、「両方パートタイム」が五%くらいである。

 出産・育児に際して仕事をやめたり休暇をとったりし、その後パートタイム労働に復帰するというパターンが確認できる。日本の女性の就業パターンをみると、かつては結婚を機に家庭に入る「日本型一・○稼ぎモデル」が主流であったためM字型になっていたものが、現在では女性の労働参加が進んで、Mの真ん中のくぼみが浅くなっている。だが、それは三〇歳代の独身女性の増加によって起こっているのである。

 「創知情報化社会」では、女性の労働参加はもちろんのこと、組織内の労働力に多様性が求められる。利益のもととなる新しいアイディア、コンセプトを生み出すために必要なのは、多様な消費者のニーズや変化する市場に柔軟に対応でき、多様な発想を可能にするさまざまな知識・経験をもった集団であるからだ。

スウェーデンの「二・〇稼ぎモデル」

 ではどうすればよいのか。ある議論を紹介しよう。まず、日本が欧米への「キャッチアップ」を目指していたころ、高い経済成長率を誇ったころの遺産である日本型「一・○稼ぎモデル」は過去のものとなった。一方、ダブルインカム(二・○稼ぎモデル)の家庭では、託児・保育のコストが高い米国型はモデルになりにくいため、「子どもが一歳になるまでは家庭で育て、それ以後は政府が保育所を提供し、社会で育児をしていく」というスウェーデン型「二・〇稼ぎモデル」が検討の対象になる。

 スウェーデンでは、親が保育園への入園を申し込んでから三~四ヵ月以内に応じることが、自治体に対して法律で義務づけられている。また、親も一緒に利用する開放型保育所も公的保育制度の一環で、全国に約四五〇ヵ所ある。両親で計四八〇日間の育児休業のうち、国の保険から月収の八割が保障されるのは三九〇日間で、残りの九〇日間は一律の日当制である。

 しかし、このように充実した施設や手厚い保障を支えるのは、高い税であり高い社会保険料である。日本の場合、共著者の一人、吉川が、税負担増は当然と主張し続けても政権が二度も消費税の増税を延期したと嘆くように、このような育児の社会化にも、高い負担にも、コンセンサスがあるとは思えない。一方で米国のように高価な保育サービスにも抵抗がある。

 「二・〇稼ぎモデル」の現状はと言えば、よく言われるように、ぎりぎりで回しているという家庭が多い。良し悪しは別として、フルタイムで働いていると、退社時間の調整には相当な労力が必要になっているからである。このような中で、「一・五稼ぎモデル」を制度化することで、日本の若年層のライフスタイルに展望が開けるのではないかという議論がある。「一・○稼ぎモデル」、「二・○稼ぎモデル」よりましで、ある程度は家庭での保育を行い、比較的廉価な保育所と組み合わせる案、オランダ型「一・五稼ぎモデル」であり、これが高齢者雇用にも可能性を開くのである。

オランダ型「一・五稼ぎモデル」

 オランダではキリスト教系のNPOが発達しており、彼らをはじめ民間が福祉を担うという点では日本と異なりつつも、「標準家族」を単位として「一・○稼ぎモデル」を想定し、給付中心の福祉を提供した点は、日本と同じだった。こうした「一・○稼ぎモデル」は、二度のオイルショックに対応する中で機能しなくなり、就労重視型福祉に変わって行く。

 「一・○稼ぎモデル]が行き詰まったとき、子育ては家庭でという価値観も強かったため、「どちらかがフルに働き、残った者がパートで働きながら子どもを育てる」という、「一・五稼ぎモデル」が選択された。これだけなら、現代日本の∵五稼ぎモデルと大差ない。重要なのは、このときEUに先駆けて、パートタイム労働と正規労働との同一賃金が制度化されたことだ。

 経緯を駆け足で見ていこう。出発点は、一九八○年代初頭の不況に対し、労使間で「ワッセナー合意」のもとに賃金の抑制が行われたことだった。これにより、家計の側から共働きの必要性が出てくる。しかし、長い間「一○稼ぎモデル」でやってきていたせいで保育所が絶対的に不足していた。このため、育児・介護など家庭の事情と働き方の間でどうバランスをとるかが喫緊の課題になった。ワッセナー合意のもとで働き方が模索され、一九九六年に「労働時間差別禁止法」が導入され、「ニューコース」と呼ばれる、同一労働同一賃金のパートタイム労働のあり方が定まった。一九九九年には「フレキュシリティ法」が制定され、パートタイム労働者に対して正規労働者に準じる保護が与えられた。二〇〇〇年の「労働時間調整法」によって、雇用主が正規労働者をより柔軟に使うことを認める一方、その補償として、週の基本労働時間が三八時間から三六時間に短縮された。さらにワークシェアリングを組み合わせることで、育児・介護などそれぞれの家庭事情にしたがって生活できる仕組みができた。こうしてオランダでは労働力人口の半数がパートタイム労働者で占められるようになった。

 その結果、オランダの女性の労働参加率は、二五~五〇歳という広い範囲にわたって、一九八五年と比べて二〇%前後の上昇を示した。システムとしてのコ・五稼ぎモデル」が成立するには、夫婦が別々に所得申告して低税率で課税されること、そして「ファミリーフレンドリー・エンプロイメント」、家族にやさしい雇用のあり方が前提(社会的合意)になる。

 日本で「一・○稼ぎモデル」が破綻したことは確かだとしても、果たしてオランダ型の「一・五稼ぎモデル」を導入できるのだろうか。

 オランダ型と呼んでいるが、前述のように「一・五稼ぎモデル」の導入と同時に、同じ労働において、パートと正規雇用の間で、同一賃金化か実現したことが重要なのだ。図表514を見てもわかるように、オランダの男性労働者に関してフルタイム労働者(日本で言う正規雇用)とパートタイマー谷本で言う非正規雇用)の間に、どの年代で見てもほとんど格差がないのだ。オランダの労働組合は当初、パートタイム労働には懐疑的だったが、非正規労働が増え始めた一九八〇年代から、非正規労働者の待遇改善に力を入れ、その実現に積極的に取り組んできた結果が、格差の小ささなの瓜。

 これはオランダ固有の事情ではない。オランダが実現した翌年の一九九七年にはEUのパートタイム労働指令が出ており、ヨーロッパでは一般化されたことなのだ。二〇〇八年にはEU派遣労働指令が出て、同一待遇はさらに広い範囲に及んでいる。
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文革とは何か、何が文革で、何が違うのか

『文化大革命 <造反有理>の現代的地平』より 文革とは何か

文革とは何か、何が文革で、何が違うのか考えてみよう。文革とは災難であり、大きな災禍であったという人がいる。なぜなら、文革中に多くの人が死亡し、あるいは負傷したり、無実の罪を着せられたからだ。一方、文革は人民の盛大な祝祭日であったという人もいる。なぜなら、文革中に人々はわずかな時間ながらも言論の自由と結社の自由士旱受し、特権階級を批判する権利を手にしたからだ。私は前者の観点に賛成するが、その論拠は中国の統治階級のエリートとは異なる。彼らは、自分たちが文革中に苦労を味わい、ひどい目にあったので文革は災難だと考えているが、私がさらに重要だと考えているのは、幾千幾万の中国の民衆があらゆる苦しみを経験し、すべての民族に災難をもたらしたからだ。以下、簡単に十の事例を挙げて、文革中に何が起きたのかを説明しよう。

ひとつは、大学入試の取り消しである。一九六六年六月、中央政府は大学入試を取り消す命令を下し、大学生と中高生は授業を受けずに革命に加わった。中国で入試による大学入学が復活したのは一九七七年末のことだ。

二点目は、大批判大会とつるし上げ大会である。学生たちといわゆる革命大衆は、校長、教師、学者、芸術家、作家、官僚を公の場で謎責して辱め、彼らは反革命の修正主義分子と呼ばれた。言うまでもなく、例えば、地主、富農、右派分子などの伝統的な階級の敵は、さらにひどい迫害を受けた。

三点目は、個人崇拝である。毛沢東は「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総司令官、偉大な舵取り」と呼ばれ、彼の言葉は「その一言一言が真理であり、その一言は二万語に値する」と考えられ、憲法と法律を超越する威力を有していた。『毛沢東語録』は五十余りの言語に翻訳され、総印刷部数は五十億冊余りに上る。

四点目は、「破四旧」である。いわゆる「破四旧」とは、「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」を打破する運動で、「新思想、新文化、新風俗、新習慣」を打ち立てるのだと言明された。学生たちは図書館で略奪し、書籍を燃や・し、教会やモスクをたたき壊し、墓地を破壊するなどした。また彼らは、地主のようないわゆる階級の敵を北京などのあらゆる大都市から追い出した。文化大革命によってもたらされた破壊は、実に驚くべきものだった。一部の統計データによれば、紅衛兵が二九六六年八月に北京で実際にやったことは、千七百名余りを撲殺し、三万世帯余りの家捜しを行い、個人所有の住宅五十二万件余りを没収し、十万人近い人々を北京から追い出したという。

五点目は、血統論である。高級幹部の子弟は一九六六年五月に紅衛兵を結成し、組織は血統論を原則とした。「親が英雄なら息子は好漢。親が反動的なら息子も馬鹿」というのが彼らのスローガンだ。彼らは出身階級が良くないクラスメートを陵辱し、彼らが運動に参加する権利を剥奪した。

六点目は、革命経験大交流である。中央政府の奨励によって、一九六六年夏以降に中国の中高生と大学生であれば、誰でもどこへでも自分の行きたい場所に行けるようになった。「革命経験大交流」によって、飛行機を除くすべての交通機関を無料で利用することができ、訪問先では無料で食事を提供してもらうことができた。無銭旅行に出かけた人は一千万人以上にのぼり、その大多数は北京に行って、毛沢東の謁見を受けたのだ。当時の交通や生産がどれほどひどい状態だったか想像できるだろう。

七点目は、革命模範劇である。文革期間中、中国の八億人が鑑賞できたのはわずか八種類だけのいわゆる革命模範劇だった。それらはすべて毛沢東夫人の江青の指示によって制作され、彼女は「文化大革命の旗手」と称えられていた。

八点目は、イギリス代表処を焼き討ちしたことである。一九六七年八月二十二日、革命運動の大衆はイギリスの駐北京代表処を包囲して強行突入し、攻撃、破壊、略奪、建物や車への放火を行い、イギリスの外交官を侮辱し、殴打した。また同時に、香港でも暴動が発生した。

九点目は、知識青年の下放である。一九六八年末から、千七百万人の中高生が強制的に農村や山間部に追いやられ、革命の再教育を受けた。

十点目は林彪事件である。一九七一年九月十三日、林彪とその妻と息子が中国から逃亡し、飛行機事故によってモンゴルで死亡した。当時の中国共産党規約と中華人民共和国憲法に基づけば、林彪は毛沢東の法定継承者だったので、林彪事件は中国共産党にとって深刻なイデオロギーの危機となった。

文革による最大の破壊は、法治を踏みにじり、人権を侵害し、人を傷つけたととだ。以下、政府機関の発表によれば、不完全な統計データではあるが、文革中に四百二十万人が拘禁と審査を受け、百七十二万人が不正常な死によって命を落とし、十三万人の政治犯が反革命の罪でその場で死刑に処せられた。武闘で死亡した人は二十三万人、障碍が残った人は七百万人余りに及ぶ。

「文革とは何か」を理解するには、以下の問題について考える必要がある。つまり、毛沢東はなぜ文革を発動したのかという点だ。文革の混乱や破壊行為は多くの人にとって、必要なかった。毛沢東は、自らが設立した政党と政権を、大衆を動員して打ち倒し粉砕する必要などなかったのだ。彼が自分の政敵を打倒したいならば、ソ連でスターリンが行ったように、また毛沢東が文革以前に国防部長の彭徳懐元帥を粛清したように、党内の粛清によって目的を達成することが可能だった。

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電算センター一設備投資抑制下でも建設-

『トヨタ・グローバル10』より ⇒ 部品表データベースとIBM360・370には遊ばせてもらった。好きなように使っていた。

電算センター建設はトヨタ百年の計

 オイルショックで世の中暗くなった。マイカー自粛、週休2日、ガソリンスタンド休日休業で、いずれの企業も石油と電力10%節減に努力していた。高岡工場事務館では工場電算機の運用を高岡電算課で行っていたが、今後の電算化の在り方を考える機会をオイルショックは与えてくれた。高岡・元町・堤とALC集中管理をしているが、本社にも電算機があり、受注・生産・配車の仕事をしている。デイリーオーダーで細かな指示をして、受注一配車のリードタイム短縮を指向している。電算機は長足の進歩を遂げている。本社と工場に分かれて電算機とシステム要員、さらにオペレーターを置く必要はない。本社・工場電算機の統合計画は水谷聴部長の了承を得て進んでいた。技術部門にあるUNIVACのTSSシステムも飽和状態で、電算センター建設は、事務・技術の電算プロジェクトとして集議書の決裁も下りていた。

 突然政府の総需要抑制のお達しが出て、経理部は設備投資の削減を求めてきた。生産機能会議では設備投資案件の審議が行われた。議長は楠兼敬取締役である。今までの増産投資は中断、新製品切替投資も最少に留める、新型クラウン設備投資50%節減など厳しいものだった。電算センター建設は再検討になった。

 半年や1年遅れても電算センター建設は問題なかろうということだが、それは違うのではないか。「電算センター建設はトヨタ百年の計、遅れることは許されない」と水谷部長に答申した。部長は部品表の電算化を陣頭指揮していて、早期に完成することが技術部門だけでなく会社として極めて重要であるとの認識であった。ただ、単に電算部門の合理化ではないということをトップに理解してもらわねばならない。

電算化二-ズの多様化に対処

 一つは排気ガス規制である。技術部門の総力を挙げて開発に血眼である。50年規制は待ったなし、さらに厳しい53年規制に取り組んでいた。組立ラインで排出ガス対策車の全車両の排気ガスを検査して配車するシステムになっている。米国の規制は抜き取り検査でよいことになっている、日本でも基準値は違うが抜き取り検査でよかった。工程能力が安定していればよいかもしれないが、年々規制値は厳しくなっていく。全数検査で1台も排気ガス不合格車を出さないと決めたのは、世界でトヨタだけであった。恣意的検査になる抜き取り検査よりも全数検査でデータを解析し、エンジン開発部門に迅速にフィードバックする目的もあった。

 二つ目は部品表の活用である。デザイン部門、設計部門でCAD(コンピューター援用設計)が、生産準備部門でCAM(コンピューター援用製造)が急速に進む。それを先取りしなければ企業競争に負けるのではないか。月間100時間を超える超多残業を救うのには電算化以外にはない。1年遅れてもよいという見解が分からない。GMではCADが進んでいる。日産もCADを開発したという情報もある(自動車技術会の日本の自動車技術240選では、生産技術分野で1971年に日産がCAD開発と出ている。トヨタの「かんばん方式」は1960年と記されている)。

 三つ目は特許贋報管理である。留学帰りの先輩が5年前に発足した特許管理部に配属になり、多忙な技術屋をアシストする仕組みが電算機でできないかと言っている。5年間に出願も登録も5倍になった、今後ますます増えるだろうとのこと。本社電算機でできるかどうかは分からないが、電算化ニーズが多様化し、それに対処しなければならないのは確かである。

 水谷部長は部課長会で一人ずつ意見を聞いた。2人の課長を除いて全員が会社の意向なら延期やむなしであった。技術電算室も1年遅れても構わないと言う。「トヨタ百年の計」は四面楚歌だが電算部担当役員の松尾易一常務は総合企画室、購買部門も担当していて、「そう信ずるなら生産管理関係役員を説得しろ」とのこと。

 水谷部長は徹夜でA3判用紙1枚の「電算センター新築について」を書き上げた。取り上げた理由、現状の解析、対策、費用と効果、残された問題と将来計画、完璧なQCストーリーである。楷書体で体言止め、重要なところは太い文字、パツと見ればパツと分かる芸術作品でもある。部長はデミング賞受賞時、生産管理部で洗礼を受けている。実情説明書も書いている。資料も説明も抜群にうまい。棄議書とA3判1枚を持ち関係部署を回った。最後は大野耐一専務、以前「電算機が心臓とはけしがらん、盲腸になれ」と宣ったが、水谷部長には歩合会議の資料とデミング賞受賞時の資料作りで世話をかけた。元部下の説明を聞いて、黙ってA3判資料に黒々とサインをしてくれたとのこと。

半年の突貫工事で電算センターが完成

 決裁は下りた、松尾常務に建設場所を相談したら、社長の専権事項であるとのこと。秘書から質問が何回も下りてきた。一番吃驚したのは「電算センターが破壊されたら給与計算はできるのか」だった。電気が止まる、回線切れなどは想定内だがバッチ処理(入力データを一定期間に一定量まとめてから処理する方式)のバックアップは想定外であった。労働争議の頃「人員整理のときは組合の同意を要する」との労働協約を盾に、組合は裁判所に提訴した。弁護士は社長の直筆の署名がないから無効と喜んだ。それを聞いた豊田英二取締役は「会社は協約を守ると決めた。署名がないからと言うのではペテンにかけたと言われたらどうするのか」と疑問を呈した。組合員のことを考えるのは昔からだったかもしれない。豊田英二社長が決めた土地は本社工場内で門衛の詰め所の近く、消防自動車が常駐する所の南側であり、テロ対策に腐心した決断であった。

 地下1階、地上4階建てのビルは、オフィス部分を除き窓の少ない建物になった。それはよいとしても購買部のゼネコンとの価格交渉は難航した。最後は松尾常務自ら交渉していた。交渉が済んでやれやれと思ったら、今度は建築営繕課が材質、工程の見直しをしている。外壁はコンクリート打ちっぱなし、空調設計は内製とか費用逓減を交渉していた。工場電算機は夏休みでないと切り替えが難しい。半年の昼夜兼行の突貫工事で電算センターは完成した。技術電算室、本社電算室の電算機設置、高岡工場電算機の移転とALC回線切り替えも済んだ。統合は完了して組織も新電算部となり、6課、20係、300人の大所帯となった。外壁は美観を損ねるにしても問題はないが、空調の音が大きいとクレームが出た。たかが空調とはいえ設計にはノウハウがいる。内製化は建築営繕課の設計能力向上には寄与した。誰が上申したのか分からないが、電算センター玄関前に豊田章一郎副社長の「会社が苦しいとき、将来を考えて電算センタービルを建設した」という表示板が掲げられた。

 狂乱物価で資材は高騰、2回にわたり車の値上げをした。国内総市場は前期比50%減であり、1974年1月から3月まで減産した。営業利益は前期の17%になった。高度成長期から低成長期に転換する時、よくも電算センターを建てたものだと、今さらながら思う。

 統合後、将来の長期電算化ビジョンを描くように水谷部長から指示が出た。会社では忙しい、自宅で話を聞きたいとのこと。お宅にお邪魔して説明した。部品表のシステムが完成したら、技術部門の情報システム構築が喫緊の課題だと言った。「技術部門はアンチIBMではないか」「そうかもしれないが、会社の将来を考えれば効率的なシステム設計ができる機種の方がよい」「事務も技術もIBMではいろいろ言われるな」「事務系は工場ALC含めて国産機でもできる。技術系のCAD・CAMはIBMにすべきでしょう」

 排気ガス規制で技術部門は青息吐息、それを乗り切っても、10車種もある乗用車のFF(フロントエンジン、フロント駆動)化で技術部門は多くの残業を強いられている。CAD・CAMは工数低減だけでなく、開発のリードタイム(デザイン~設計~生産準備~製造)も短縮できる。一石二鳥との理解は深まった。

 1978年に根本正夫常務が電算部担当になった。部会では電算用語が難し過ぎる、100%正確でなくても分かってもらえる工夫をしてもらいたいと言われた。電算部の関係部署はお客さん、資料の作り方、説明に気配りをしてほしい。もう一つ、来年から部課長対象に経営管理能力向上プログラムが始まる。部課長方針から重要なテーマを登録して2年間切磋琢磨することになった。その積もりで準備してほしい。
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29(ニク)の日を忘れていた

豊田市公共施設に無線LANを導入

 豊田市フリーWiFiがエコットに設置されていることを発見。10年来の願いでした。自販機と同時設置は納得はいかないけど。なし崩しでしょう。

 豊田市がコカコーラ設置と同時の公共施設に無線LANを導入しているみたいです。エコットの掃除をしている女性が言ってました。エコットには8月末に設置したみたい。これで図書室が使えるようになれば、初めて使えるものになる。

 豊田市の駅裏の広場でもauWiFiでつながりました。

世界経済の潮流が分からない

 未唯空間第9章の結論を何にするかですね。「知の世界」ではちょっとまずいかもしれない。かといって、市民主体社会ではありきたりです。ダメですね。

 家族の変革した世界がどうなるのか、その結果、生み出されるモノは何か。

29(ニク)の日

 今日は29日です。モスのニクの日です。ニクニクバーガーの限定美です。思い出したのは、昼食後です。肉を肉のバンズで挟んでいる。

図書館システム未唯宇宙のバックボーンに

 本棚システムをNDCで分類することで図書館システムに格上げ完了。蔵書数は10年掛かってデジタル化した4100冊。

 これを未唯宇宙のバックボーンにします。
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豊田市図書館の28冊

510.92『満州の土建王 神谷仙太郎』土建国家「満洲国」の深層

675『「こんなもの誰が買うのか?」がブランドになる』共感から始まる顧客価値創造

210.77『1990年代論』

397.25『海の地政学』海軍提督が語る歴史と戦略

141.51『古典で読み解く現代の認知心理学』

311.1『正義・平等・責任』平等主義的正義論の新たなる展開

376.48『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』

147『魂は、あるか~「死ぬこと」についての考察~』

316.4『ジハード主義』アルカイダからイスラーム国へ

134.97『ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ』プラグマティズムの水脈

720.1『図像の哲学』いかにイメージは意味をつくるか

007.35『これからのSlerの話をしよう』エンジニアの働き方改革

345.19『富裕層のバレない脱税』「タックスヘブン」から「脱税支援業者」まで

302.13『23区大逆転』

509.5『変革期のモノづくり革新』工業経営研究の課題

336.1『気まぐれ消費者』最高の体験と利便性を探究するデジタル時代の成長戦略

336.1『すごい! ビジネスモデル』

913.6『天草四郎の犯罪』十津川警部シリーズ

289.3『ゲバラのHIROSHIMA』

335.35『中小企業のための補助金・助成金徹底活用ガイド2017-20186』

336.4『知識ゼロからのモチベーションアップ法』

222.07『文化大革命 〈造反有理〉の現代的地平』

371.43『学校メンタルヘルスハンドブック』

911.36『秘すれば花なり 三頭火』

331.42『アダム・スミスの影』

C31.1『トヨタ・グローバル10』三河から世界へ

C31.1『トヨ319.8『ベトナム戦争に抗した人々』世界史リブレット

410.24『古代エジプトの数学』文明繁栄のアルゴリズム
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本をバラバラにする快感

岡崎図書館に行く回数を減らしたい

 車を運転するリスクを減らすために、岡崎へは一ヵ月に一回にする。返却期間がだから、近い岡崎市の市民センターに返却しにいく。車は中途半端なものだと感じている。それに対して、メーカーは動いていない。自己防衛しかない。

 岡崎図書館の本も豊田市図書館で返却できれば、一ヵ月に一回で済みます。負担が減る。問題は借りたら、二週間以内に返さないといけないということ。リアルな本と図書館の嫌なところです。

 とりあえず、岡崎の交流館みたいなところで、豊田市に近いところで返却出来るか調べましょう。

 豊田市に一番近い返本できる場所は、矢作の市民センターでした。場所をネットで調べておきましょう、ウェブで予約しておいて、一ヵ月に一回取りに行くというスタイル。そして、一週間後に矢作の市民センターに返却する。これなら、岡崎の町を車で走らなくても済む。

本をバラバラにする快感

 本をバラバラにしていくことで本質が見えてくる。その分類に対して、未唯空間NDCの分類を掛け合わせます。それを体系化すること、読めるようにすること。

 その為には本をバラバラにする視点で再編する。個人の知恵が必要です。この部分はコミュニティの知恵と意識を活用すれば、可能です。

 本をバラすとはどういうことなのか。つなぎ合わせるとはどういうことなのか、を説明していきます。本来、参考文献と言うことは本をバラすことを意味している。じっさいに参考文献で本をバラすことはできない。本自体が身近にないし、バラすことも容易ではない。

本当のデジタル図書館の構築

 これらのことが個人のレベルでできるということは、たとえば、市民の10%、もしくは1%の人間がそれぞれ自分のライブラリを作って、混ざり合えば、大きなものになります。つながりあえば、既存の図書館をはるかに超えます。

 後ろ側には、コンテンツが最大に活かせるように、知の入口としてのグーグルを付けます。単に電子書籍として、デジタル化するだけでは答えにはなりません。

聞いてくれる人が欲しい

 こういったことを興味を持って聞いてくれる人が欲しい。6ヶ月に一回の玲子さんだけではなくて。受け継ぐためにはサチ辺りが一番いいかもしれない。そして、未唯の子ども、女の子、仮称ナノとチームを組んでくれれば。「20年後の「サノナノ」コンビ。

本をコンシェルジェシステムの環境

 本と言うモノを持って変えないといけない。グレードアップです。役に立つモノにしていく。図書館の「本」が、デジタル化も含めて、変わるということです。

 花に興味を持っている人は花の分類に従って、自分のモノを作っていく。抜粋していく。これって、20年前位に書いたコンシェルジェシステムです。

 その時に図書館というフィールドで考えていた。そうではなく、広い世界、バーチャルな世界でやっていける。個別の人に対抗する以上のことが出来る。一冊の本を奪い合うのではなく、本をシェアしていく環境をつくる。

デジタル化はシェアの世界を創り出す

 皆の知恵を使うからマルチタスク。そうしたところで、図書館がフィールドでなくなる。デジタル化の本来の意味はシェアの世界を創り出すこと。所有する本は意味がなくなる。世界に一冊しかない本は本ではないように。
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