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歴史は簡単か?

歴史の理解

 歴史を細かくすると分からなくなるので、大雑把な方でポイントを絞ります。細かいのも書きます。フィンランドの場合は、市民主体社会の見本であることを書くと同時に、ロシアとのフィンランド戦争、そのあとのラップランド戦争、そして図書館。自分たちが戦ってきたこととそこから生まれてきたもの。

 歴史をそのまま、見ていても分からないから、ローカルとグローバルに分けました。ローカルからグローバルに来て、ローカルに戻っていく。このサファイア循環を歴史に当てはめました。あまりにも大雑把にですげど、間違ってはいないでしょう。歴史の未来はローカルから作られていきます。再構成です。それでいかに、継続させるかです。

歴史は簡単?

 そのようにモデル化することで、歴史が簡単に見えてくる。そこから方向が見えてこないと、歴史は歴史として扱えない。そこから、出てきたのは未来予想そのものが歴史を変えるということです。偶々なっていくものを意識することで、ベクトルが合ってきます。それによって、継続した歴史が作られていくかです。

 ヨーロッパ史は各国が確執しているだけ。動きがダイナミックスです。歴史そのものが意思を持っています。ナチから反ナチへ、原発から反原発へ、それらを厳密に持っていきます。崩れてくると、それを補います。

価値観が決め手

 今後の地中海共同体も異なる価値観のEUに比べると安定します。多数決でできる時代ではない。民族主義と同様に、分割するしかない。分割したままではしょうがない。国が一杯あってもしょうがない。同じ価値観でつなげていくことです。それを地理的な関係で留める時代から、ネットワークで組合せが変わってきます。

 ヨーロッパでの実験が中国へ伝われば、一番いいけど。このまま、中国がバラバラになっていくことはよくない。同一価値感で合わせていくかです。チベットはチベットです。今は歴史が不安定になっているのは、国を超えるということ、国という枠に囚われないだけでなく、お互いの国の一部が連携しあうという動きです。

 チェにしても、南北アメリカを横断して、現状を見た後に、カストロと知り合った。革命後も、アメリカを糾弾して、南アメリカの解放を願った。見ることで始まった世界です。見ていないボリビアの世界では通用しなかった。そして殺された。

ベースはサファイア循環

 歴史を考える時も、ベースはやはり、サファイアの循環です。サファイア循環に過去の歴史を当てはめると、次が見えてきます。そのために、ローカルとグローバルとか、考える国家とか市民に分けています。

 それからすると、市民主体社会からグローバルを変えていくことになります。その有効性は数学の理論、社会の状況、仕事のやり方も証明されている。後はこれをどのように翻訳するかです。

インタープリターとしてのパートナー

 パートナーでの販売店との電話のやり取りを聞いていると、ドンドン進化しています。インタープリターに近づいています。

 ネットワークはネットワークだけではない。仕事の仕方とかお客様との接点に使えることを、自分の言葉で言えるようになっています。

 パートナーに教えたいのは、販売店は自分の枠だけで動けるわけではない。メーカーも同じように動けない。もっと、大きな所から動かざるをえない状況になります。それはお客様です。

 その時に、ネットワークは強力な武器になります。それも全販売店の凸凹があってはいけない。

 K社のホットスポットを活用するような、取ってつけたようないい加減さではダメです。キッチリしたインフラとセキュリティのものに置かないと、ツールにはならない。そのために、無線LANのセキュリティをベースにすれば、お客様に情報を流し込むことができます。

文化大革命とは

 文化大革命は世界にとってなんだったのか。政治改革が進まなければ、中国で文化大革命が起こる可能性がある。
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歴史と偶然

未唯へ

 スタバは今日から新しいブランドのドリップです。あまり、インパクトはない。ヨシコさんがブラックエプロンで販拡していました。

社会編の因数分解

 社会編はくどいですね。8-2の環境社会を3-7に組み入れます。

歴史編の因数分解

 歴史編は社会編とは異なり、作り出すことにします。歴史は研究テーマです。ヘロドトスも含めて考えていきます。自分編に哲学を入れたと同様に、歴史編に哲学を入れましょう。そうして、幅を広げます。

 それと各国の歴史をキッチリと調べないといけない。それぞれの国がどうなっていくのか。国に関しては、他のジャンルでは扱えないので、歴史編でキッチリと扱います。元々、ナチから始まって、フィンランド、トルコなどにもやってきた。それらを日本とどういうカタチにしていくのか。

 国民性をここで語るしかない。太平洋戦争の開戦時の日本の判断もテーマです。ポイントがどう変わるかです。

 価値観が同じところが連合するというのが、今後の姿です。政治形態としては、多数決をいかに排除するのかです。商品を買うときには多数決はしません。それぞれの好みで買います。

 歴史の場合には、それぞれで何が言いたいのか、ということと事実が分かれてきます。例えば、沈黙の螺旋ですけど、最初は小さなことを、自分に関係ないとして、無視している。それを根拠の黙るように強制されて、全てを支配される。これを反対にすると、ことが小さくても、反対は反対であると主張せよということです。

 ナチも個人の思いが雰囲気が全体に伝わり、同調する人が現れて、力で押さえ込んできた。個人の思いからグループで動き出して来た。グループは力になる。Think Globallyであることが、Think Locallyで動き出すことです。

Think GloballyとThink Locally

 組織の中で、Think Globallyをすることは難しい。それに比べて、Think Locallyの簡単なこと。自分の思いをしゃべればいい。それに同調するものがいれば、一気に拡大します。感情的なほうが影響力が強い。

 Think Globallyの場合、なぜ、お前がそんなことを言うのか、というところでぶつかります。そういう思いを持っていないと、ダメです。全ての人が、そういう思いを持てば、やれることがハッキリします。

歴史と偶然

 歴史というのは、学ぶことが多すぎます。それから、次へのパスが多くあります。色々な可能性があります。それを仕切るのが、偶然です。偶然には意味があるところと、ないというところがあります。

 偶然、その道を行っても、戻そうとします。その辺が歴史の難しさです。どれが本当なのか、パラレルワールドが多すぎます。だけど、自分の世界ならば、どうなるかというのが私の理論になります。全てが私の中の世界です.

 歴史の奥は膨大です。それをどう表現するかの訓練です。中国自体が強大な権力が求められていた。水の供給一つをとっても、中華思想が土地を生んだ。毛沢東は農民を見方にすることで権力を得た。そして、農民を裏切った。

 一つずつの項目が物語です。だから、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単です。

国民性

 国の中で重要なのは、国民性です。フィンランドとギリシャでは明確に異なり、国の進路にも影響している。日本の国民性は次がないです。

 この組織を見ていても、自分のことしか考えないし、依存しているだけです。政府を見れば分かります。原子力にしても消費税にしても、どのような社会を作っていくのかを述べるものはいません。

 自分と関係するものだけしか述べないし、それ以外は全て、無視します。天下国家を述べる概念も重要です。
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うらみから離れる

NHK「ブッダ 真理のことば」より

諸行無常の科学

「釈迦の仏教」の話をする時、もっとも共感してくれるのは、科学者の人たちではないかと私は思っています。実際、私の話を聞いて興味を持ってくれた科学者が何人もおられます。多種多様な仏教の中でも「釈迦の仏教」は神秘主義がほとんど入らないので、科学の世界の人たちもあまり抵抗なくロジックを共有することができるようです。

また、超越存在を認めず、世界を原因と結果の機械論的因果則でとらえようとする視点も、「釈迦の仏教」と科学で共通しています。仏教はその因果則を精神内部の向上に利用し、科学は外界の法則を探求するのに使うという違いはありますが、論理性のレペルにおいて両者に大きな相違はありません。

この点をもう少し具体的に見てみましょう。「諸行無常」の原理は、次のようなたとえで説明されることがあります。

いま、目の前の机の上に鉛筆が置いてあるとします。そのまま置いておけば明日も同じように机の上にあるでしょう。その姿は今日と全く同じはずです。あさっても同じでしょう。では、これをまったく動かさずに千年間放置したら、どうなるでしょうか? 間違いなくボロボロになっているはずです。では、その鉛筆はいつボロボロになったのでしょう。こう問われた人はたいてい、一瞬「ウッ」と答えに詰まりますが、すぐに正解を見つけます。

正解は、千年間のあいだのあらゆる瞬間です。鉛筆は、それが机に置かれた瞬間から朽ち続けているのです。五分前と今、昨日と今日の比較では全く変化していないように見えますが、じつはとどまることなく、時々刻々、朽ち続けているのです。

私の尊敬する仏教学者、木村泰賢さんが、「映写機」を使った比喩で、諸行無常についてわかりやすい表現をなさっていたのを記憶しています。この世の時間の流れは映写機のフィルムのようなもので、まだ見ていないコマが未来で、それがランプの前に来てスクリーンに映し出されたその瞬間が現在、映し終わってりIルに巻き取られた部分が過去であるIというたとえです。

スクリーン上の映像はたいへんな速さで移り変わっていくので、観客の目には一つの存在物が連続して動いているように見えますが、じつはIコマーコマ区切られた別個の静止物であり、それらが一瞬毎に生まれては消えていく、その連続がこの世の真の姿なのです。この世はこれ以上分割できない短い時間のコマからできあがった集合体である、という考えです。

その「これ以上分割できない短い時間のコマ」、それを仏教では「刹那」と言います。そして、宇宙に遍在しているいっさいの事物は、刹那、刹那でうつろっていくと考えます。これはまさにデジタルな時間概念なので、同じような感覚で世界をとらえる理論物理学の方などはたいへん面白がってくれます。

じつは私は浄土真宗の寺の子に生まれながら、家業を継ぐことへの反発から、一時は科学者を目指した変わり種です。その後、「蛙の子は蛙」で、やはり仏教の世界に戻ってきたのですが、科学への憧れは現在もずっと続いています。今では科学者の方だちと一緒に、分野横断的な公開トークセッションを主宰したりしているのですが、科学と仏教が噛み合って面白い展開になることがよくあります。

仏教を脳科学から考察するということも、いま私が非常に興味を持っていることの一つです。

たとえば、先ほども述べたように、この世の時間は、フィルムのIコマーコマのようなデジタルな断続性から成り立っているのだとしても、それをわれわれは、一本のスムーズな連続性としてとらえます。それは、脳の認識の機能と、どのようにかかわっているのでしょうか。

人間の脳というのは、目の前で起こっている切れ切れな現象の隙間を、推測という機能によって補い、途切れなく連続したものとして認識するようになっているようです。その証拠に、世の中にはこの補足機能がなんらかの理由で欠けてしまって、現象を途切れ途切れにしか認識できない人たちがいるという報告があります。

その人たちは、コップに水を注いでいる時、水が少しずつコップにたまっていくという見方ができません。「からっぽ」「半分」「一杯」というように、切れ切れにしか認識できないのです。今この瞬間、コップに半分まで水がたまっていることを認識し、次にコップを認識した時には、もう水はあふれている、という具合ですから、うまくコップに水を注ぐことができないというのです。

もしかすると、じつはそちらのほうが、客観的な世界の認識としては事実なのかもしれません。いったいどちらが本当の世界の有り様で、どちらが脳によって補正されたヴァーチャルな現れなのか、それを究明するのは脳科学の領域です。

また、先はども申しましたように、私たちはつい自分勝手な解釈で、自分だけはいつまでも元気なのだとか、今のこの楽しい毎日はずっと続くのだとか、漠然と思い込んでいます。すなわち、自分本位の誤った世界を自分の中に構築してしまいます。それをブッダは「無明」と言ったのですが、それももしかしたら、煩悩のなせるわざというよりも、脳の認識機能の問題なのかもしれません。

だとすると、それは、修行という自己鍛錬によってどの程度まで正すことができるのか。それとも、脳の宿命的な構造として、最終的には無理なのか。これらは、最近とくに私が興味を持って脳科学者の方々にお訊ねしている質問です。

悟りとか瞑想といったものに科学的にアプローチすることは、きわめて現代的な問題だと思います。悟りというものが精神論を土台とした仏教世界だけの話でなく、サイエンスとしても普遍の真理であるー、というような話になったら、「釈迦の仏教」の見方も変わり、面白い展開になるに違いありません。
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