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アンゲラ・メルケル--ドイツ初の女性首相の誕生

『100のトピックで知るドイツ歴史図鑑』より

2005年11月22日、ドイツの連邦議会でキリスト教民主同盟(CDU)の党首アンゲラ・メルケルが首相に選出された。これによりドイツ史上はじめて女性が国家の頂点に立つことになった。物理学博士であるメルケルは、初の東ドイツ出身者としても国の最重要の要職についた。

選挙当日の夜、首相となるメルケルの夢はついえたかのように思われた。何か月にもわたる、あらゆる訓査結果からは、CDUが勝利することがはっきりと予測されていた。 CDUは社会民主党(SPD)を僅差でリードし、第一党となったが、行き詰まりの状態となった。主要政党であるCDU、SPDの両党は、どちらも過不数の議席を獲得することができず、単独で組閣することができなかった。

2005年9月18日の夜、「テレビ党首討論」で、当時まだ首相であったゲアハルト・シュレーダーは、「メルケル主導のもとで、われがSPDが連立を組むことはない」と、余計なことを口やかましく述べた。そのことは明らかであるし、そのうえドイツ人は、首相候補者問題にかんして、はっきりと意思表示をしている、つまりシュレーダーの続投を望んでいると、シュレーダーは言った。

だが、それはあきらかな見こみ違いであった。大多数のドイツ人はすくなくとも多少の変革を望んでいた。そして「東ベルリンから来たお嬢さん」のことも望んでいた。 2005年11月22日、キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟の統一会派(CDU/CSU)とSPDからなる大連立の投票で、アングラ・メルケルがドイツの首相に選出された驚くべきキャリアを有する人がほんとうに少なくはないドイツの政治家の中で、もっとも驚くべき政治的かキャリアを有する一人が頂点に達した。

とくにあっけにとられるのは、アンゲラ・メルケルからは、主要な政治家にとってふつうであれば絶対必要な「泥臭さ」が感じられないことである。旧東ドイツで、プロテスタントの牧師の娘として育ったメルケルは、1989年の平和的革命によって、はじめて政治の世界へと押し流されていった。そのころのメルケルは、あたかもジャムの種類を選ぶかのごとく所属政党を探していた。彼女が保守的方面に進んだことについて、不思議に思ったかっての同僚は少なくはなかった。

統一されたドイツにおいて、メルケルのサクセスストーリーは、彼女に対する過小評価のストーリーであった。1991年、ヘルムート・コール内聞にメルケルが初入閣を果たしたとき、首相のコールは、メルケルのことをまだひやかし半分で「コールのお嬢さん」と呼んでいた。しかし、1999年のヤミ献金問題による党の危機に際して、メルケルは首尾一貫した態度を貫きとおし、ついにまずはCDUの党首、そして首相という頂点に登りつめた。ドイツは確かに変化したといえる。
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図式

『純粋理性批判3』解説より

概念を感性化し、直観を概念化することはどのようにして可能になるだろうか。カントはカテゴリーが働くためには幾何学における皿の丸さのような「同種のもの」ではないが、異質なもののあいだを媒介とする「第三のもの」が必要だと考える。そしてこの第三のものがこうした異質なものを媒介するためには、二つの要件が満たされている必要があると考える。第一に、心に思い描かれた像のように具体性をもつという性質と、カテゴリーのように純粋なものという両方の性質をそなえていなければならない。第二に、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように知性的なものであるという性質をそなえていなければならない。このような要件を満たすものが、カントが「超越論的な図式」と呼ぶものである。

これが「図式」と呼ばれるのは、それが純粋でイデア的なものであると同時に、「丸さ」のような感性的な図形と同じ役割をはたすことが期待されているからである(第一の要件)。またこれが「超越論的な」図式と呼ばれるのは、こうした図式は、感性的なものであると同時に、あくまでも有限な人間の知性としての性格にふさわしいものでなければならないからである(第二の要件)。これは対象一般を可能にするような超越的な条件であることはできず(すなわち物自体にかかわることはできず)、たんに「人間の経験が可能となるための[超越論的な]条件として」、現象とかかわるだけである。

すでに確認したように、ある具体的な個物を認識するためには、対象の直観を概念化し、直観に適用される概念を感性化する必要があった。ということは、「知性の概念が使用されるときには、感性の形式的で純粋な条件の制約にしたがわねばならない」ことを意味する。そして感性の形式的で純粋な条件とは何だろうか。もちろん空間と時間である。その両方にしたがうことはできないのだから、どちらかの条件の制約にしたがう必要があるだろう。カントはその条件として空間ではなく、時間を選ぶ。すでに概念が対象に適用されるための総合が、過去、現在、未来という時間的な契機にしたがわねばならないことは、初版のカテゴリーの根拠づけにおいて詳しく考察されてきた。このことからみても、カントが時間を選択したのは、きわめて自然なことと言えるだろう。

さきに、知性と感性を媒介する「第三のもの」に必要な要件が二つ提起されていた。第一の要件は、心に思い描かれた像のように具体性をもつという感性の側の性質と、カテゴリーのように純粋なものという知性の側の性質の両方を兼ねそなえていることだった。ところで時間は、「内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件」であることで感性と共通したものであると同時に、「純粋な直観のうちに、あるアプリオリな多様なものを含」むという意味で、カテゴリーおよび知性と共通したものである。こうして、時間は第一の要件を満たすのである。

第二の要件は、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように知性的なものであるという性質を兼ねそなえていなければならないことだった。ところで時間は、「普遍的なものであり、アプリオリな規則にもとづくものであるという意味で、カテゴリーと同種のもの」であると同時に、「時間は、多様なものを心のうちで経験的に思い描いたときに、その像のうちにつねに含まれる」という意味で、現象と同種のものである。

このように時間は、感性と知性を媒介する「第三のもの」に必要なすべての要件を満たしている。だから超越論的な時間規定こそが、知性の概念の〈図式〉の役割をはたすのであり、「この時間規定を媒介として、現象がカテゴリーのもとに包摂される」ことになる。このように図式論の役割は、時間という条件によって、カテゴリーが外部の対象に適用される可能性を示すことにある。対象にカテゴリーが適用できるのは、図式のうちにカテゴリーの時間規定が時間の系列、内容、秩序、総括としてすでに含まれているからである。カテゴリーが時間規定のもとで実際に対象に適用される方法は、次の原則論が示すことになる。
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考えよう!

未唯へ

 朝、6時はまだ、寒いから、一応、薄くて。軽いコートを持って来ました。昼はいらないでしょう。

 春だから、桜マカロンを買いました。

考えよう!

 春です。考えよう。何しろ、軽くしましょう。全てのものを。私の存在そのものも。

 毎日の永遠回帰の中から抜け出すつもりはありません。その中で蓄積するものはあってもしょうがない。そこから考えて、一つずつ答を出していくだけです。

 今の最大の悪さはThinkがない所です。Think Globallyなしに、モノつくりのAct Globallyを勝手に作って、Act Locallyを要求します。本来の全体を考える部分と、販売店がどのように実現するかを考える部分がないのです。両方ともThinkがない。だからThinkを要求します。

 活性化はActではなく、Thinkです。その意味ではイリュージョンです。そうなっていると考えれば、色々なアイデアが出てきます。そのためのプロはいくらでもいます。

プレゼン版の改訂

 未唯空間の4つの資料をパソコンでタテにつなげます。時間はかなり掛かります。それと紙での世界の二つですね。紙の方は場所を選びます。

 パソコンはとりあえず、タテに考えて、紙はヨコに考える。問題は1からやるか、8からやるかです。今の悩みは1です。内なる世界が成り立つかどうか。それをカントがどう見ているのか。

 カントの7巻で拾い読みしましょう。ふつうは1からコツコツとだけど、問題意識が先行しています。

日常と非日常

 永遠回帰から少し抜け出したいから、人は旅をする。日常と非日常の使い分けです。だけど、これは混在します。非日常からすると、日常は非日常です。スタバが日常で、吉野家が非日常。私の朝食です。

コミュニティの作り方

 ゲーム化からコミュニティ化。皆の興味をゲームで引く。環境をポイントゲットで行う。家庭での省エネもポイント性です。これレベルでは、あくまでも個人とか家庭単位です。

 個人とか家庭をつなぐことで、コミュニティを意識させて、互いに影響でき、連携できるようにさせるのが、コミュニティ化。

 危機感から幸せ感。個人とかグループが動き出せるのが、危機感です。環境にしても、危機感がバネになります。IPCC4次報告のように、ウソが分かると逆効果です。危機感だけでは永続きしません。

 危機感で変わったライフスタイル・政治形態で皆が幸せを感じられるようにすることが重要です。それはサファイア循環のような形態になります。

 これらはコミュニティの作り方、そのものです。

自分編での感想

 存在と無が全ての根源です。特に存在です。

 頼るものとしての真理。真理をどう求めるか。
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