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未唯宇宙10.5.4~10.6.4

10.5.4「境界を越える」

 内なる世界はコンパクト性をもつ。境界は開であり、閉である。「コンパクト」の定義を知ったときに驚いた。よく、考えると開と閉は共存する。そうでないと境界は面積を持つことになる。

 内なる世界は外へは開であり、外からは閉である。分化した私が外の世界で行動することはない。もう一人の私とか、こみゅにてぃでのユニット活動に任せることにする。

 ユニット活動は組織内の個人を使っていくことになる。行政とか企業の分化を図る。ロシア革命の時の軍隊への浸透をイメージする。新しい世界を創るために。ロシア革命の時は頭のすげ替えに終わったけど。

10.6.1「拠点」

 分化した私の統合のイメージは販売店で演習した。企業寄りの販売店をいかに市民寄り、地域寄りにしていくかをテーマにした。

 企業拠点を市民拠点にすることで、シェア社会で販売店は生き残ることができる。武器を持ったままで変革に加わる。

 その為にメーカーのツールではなく、ソーシャルツールを活用することにした。企業インフラと接続して、市民とのコラボが可能になる。

 クルマの活用技術の開発をクルマのプロの立場で行なっていく。

10.6.2「未唯宇宙を展開」

 私の統合の最大の武器は未唯宇宙です。自分の内の「全て」を武器にしていく。

 未唯空間は内なる世界のコンプリートを狙ったが、未唯宇宙には他者の世界の現象を織り込むようにする。他社に関与して、巻き込む。但し、押しつけはしない。

 外延させることで、耐久性を増す。集合は拡大させればするほど、本質部分は小さくなる。逆ピラミッドの関係。本質を絞り込んで、現象を越えていく。

10.6.3「展開のシナリオ」

 未唯宇宙の展開シナリオ。他者の世界に共感は求めない。感じている範囲はあまりにも狭い。依存になるし、元々、他者はいないという根本に反するから。

 本当に他者はいないのか? このテーマは逆の逆の論理ですね。

 ①人間一人では生きていかれない。それは食べているものを見ればわかる。⇒これでは納得がいかない。

 ②なぜ、この世界はあるのか。他者がいないと存在しないのであれば、なぜ、私は存在するのか。⇒コレに対する答えがない。ということは、やはり、他者は存在していない。

 私が特異点ならば、そこから再構成しよう。それが個人からの変革。その際は、一番依存している家族制度から煮成る。

10.6.4「本質を追究」

 なぜ、私は存在するのか。それを知るために、全ての枠組みを外してみる。デカルト以上にデカルトでなければならない。何しろ、自分の存在が掛っているのだから。

 137億9千万年に一回かも知れないし、永劫回帰かも知れない。

 外の世界を創るとしたら、個々の人が、多くの人が自分のために活きられる世界でないといけない。

 世界の状況を把握して、個人が覚醒するところから始める。持続可能な平和を為すために。あくまでも為すのは他者なのだけど。
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未唯宇宙8.2.1~8.2.3、6.6.4~6.7.4

墨田川花火大会を見ていた

 花火大会を見ているいくちゃんをテレビで見ているオタクがツイッターに上げたのとリアルタイムで見ていた。

 花火よりもかわいくて、天然。花火はいいから、いくちゃんに絞ってくれ。

「ひめたん」のトレンド入り

 卒業宣言して、一年。卒業してから8ヶ月経つのに、ツイッター件数が「いくちゃん」に次いでいる。乃木中での一枚の写真だけど、トレンド入り。

8.2.1「売ること」

 車は売ることでやってきた。方向を失った。単純なら売ってもいいけど、クルマは単独では意味をなさない。

 インフラがあって、初めてのもの。インフラはシェアの存在。インターネットのように、その瞬間だけ占有するなら、混在できるが、車は人の何十倍も占めて、二次元にへばりついている。

 結局、差別化で売っている。作るのも差別化している、矮小な人間中心に存在している。エネルギーを含めて、移行コストは論外。

 社会的負担はカバー不可能。なぜ、こんんあ中途半端なモノを作って、売っているのか。買った人間も禄に使ってはいない。

8.2.2「地域を圧迫」

 車は資本主義を代表している。消費資本主義、格差インフラ、公共との対比。

 地域を圧迫しているが、メーカーは作り続ける。メーカーはしがみついている。自行程完結は悪の煩悩。

 メーカーは人類の幸せを願うという役割を果たしていない。

 2005年以降、日本国内では車は売れていない。その原因を知りたくて、技術から販売に異動希望。

 分かったのは、名古屋は昭和陸軍と同じ体質。自分のことを考えて、全体のことは考えない。そして、今の状態は続くと思っている。

 販売店は地域の現状は分かっているので、先行販売店はメーカーに依存しないようにしている。その他の販売店は目をつぶって、メーカーに依存している。

8.2.3「進化の方向」

 車の進化の方向は技術ではない。自動運転とか電気自動車とかではない。車の存在そのものを変えること。メーカーの台数発想の役割は終わっている。

 いかにクルマを使うかという活用技術をいかに開発するか。コレに気づいたのは、30年前の東富士の頃。

 当時から、自動運転、電気自動車などが試されていた。ハイブリッドの直前に、それでどうなるかを考えていた。

 そんなモノを作ったところで、台数が増えたら意味がない。商品という考えではなく、仕組みで考えた。クルマの本来の役割を考えた。

 どうしたら、多くの人が幸せになれるのか。そこを考えるには、東富士ではダメだ。自動車研究所が生活研究所になった時に戻ってこよう。

6.6.4「教育の見直し」

 図書館が知の入口として、知の出口は教育そのもの。今の学校制度でも、生涯学習というモノではない。

 教育の根本を見直す。自立した市民をいかに意識させ、いかに進化させていくのか。家族とか国家に依存しない。

 会社のあり方を変革させるための教育。それにしても「教育」という名前はえげつないですね。

 家族と一体化した教育は崩壊しているし、国家に帰属する洗脳教育は自滅する。

 市民の覚醒とそれを支援する力で新しいカルチャーを創造していく。

6.7.1「ザナドゥ空間」

 本の未来を示したのが、ザナドゥ空間。ビルゲイツのMSOSと同じ時期に提唱された。エジソンに対するテスラのようなザナドゥ。

 本は参考文献からできている。個々に対する著作権は存在しない。全体で見ていくための空間。

 本がデジタル化され、連鎖検索が可能になって、やっと現実的になってきた。東富士の時はハイパーカードでイメージを作っていた。

 知の体系であり、新しい著作権のあり方を求めていた。歴史の文献では欠かせない。哲学は連鎖して欲しくない。

 未唯宇宙は内なる世界にザナドゥーを作り、外延する。

6.7.2「本棚システム」

 図書館の新刊書25000冊からOCR化した3000冊を2つの体系にしている。

 ①図書館コード:NDC

 分類0:総記532冊、分類1:哲学588冊、分類2:歴史541冊、分類3:社会科学1786冊、分類4:自然科学297冊冊、分類5:技術321冊、分類6:産業247冊、分類7:芸術53冊、分類8:言語51冊、分類9:文学94冊

 ②雑記帳No:時系列

 625冊目(2012.6)~1095冊目(2018.7)

 これを知識ベースとする。スマホでのオフラインでの検索可能。OCRの一部はブログ化しているので、ネットワークでの検索を可能にしている。

 これらは問われたら応えるためのモノ。膨大なデータベースの使い方はコレに限る。電子図書館のクラウドサービスのイメージを先行させる。

6.7.3「知の体系」

 知の体系はNDCのように標準として与えられるものではない。本もメディアもバラバラにした上で、好き嫌いで統合されるモノ。

 デジタル化されることが前提です。本のようにカタチに拘るのではなく、コンテンツを本質で絞り込んでいく。

 そのようにしてできたデジタル空間にメッセージ、映像などの思いとか考えを詰み込んでいく。

 コンテンツそのものはきれいなモノでなくても言い。連鎖の塊が意味あるものになればいい。問われたら、再編集して答えを出していく。それがECHOソクラテスとなる。

6.7.4「コンテンツ」

 コンテンツの拡大はメディアの多様化で可能になる。全思考過程をコンテンツ化できる。参考資料とも連携できる。これらは思考を飛躍させるのに重要なファクターになる。

 コンテンツは拡大させると同時にコンパクト化させる仕組みが必要になる。持っているだけで、使えなければ、先に進めない。

 ブログそのものはコンテンツだが、全ては表現できない。新聞のデータ量をはるかに超える。

 グーグルサーチは1つの解を出したが、あくまでも1つの方法であって、状況は更に進んでいる。

 情報の集約はAIに頼るしかない。そのために出てきたと思っている。情報の連鎖を把握した後の集約。

 問われたら応える環境作り。知のカプセルにつながる。それが教育をも変えていく。人がつながることの意味。
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未唯宇宙9.8.3~9.8.4

9.8.3「シェア社会」

 シェアはビジネスモデルではない。インフラに只乗りしようとする、グローバル企業の商売のネタではない。人間の存在に関することです。なぜ、生まれてきたのか? なぜ、こんな社会だったのか? そこから社会を見ていく。

 下流からの循環を考えた時にモノを作るとか、所有するのがいかに余分なのかが分かる。人間はもっと多様なコトができる筈。ジコチュウで何をやりたいかを考えて、実行する。

 その夢を応援する。お互い様でありながら、先が見えていく知の世界。今はそんなことぐらいしか考えられないが、次の頂で何かが見えてくるのか。

9.8.4「知の世界」

 結局、知の世界を望むことになる。この要望に沿った生活者主体で低エントロピーの世界を地域から組み立てていった、何を作り上げるか。歴史はまだ、その領域に踏み込んではいない。新しい歴史哲学、結果としての哲学ではなく、自由と平等を得るための哲学が専攻する世界。

 行動よりも考えることを重視する世界。なぜ、存在するのかに対する答えを見出そうとする世界。放り込んだものへの意趣返しかもしれないが、それを考えていくための知の変革。

未唯宇宙の参考資料

 結局、29冊の本からOCR化したのは5冊。未唯宇宙の参考資料にしたが、思考は進めるものはなかった。⇒歴史物が多い。

 『イスラエルを知るための62章』

  ⇒「イスラエルの出産・子育て事情」:国家維持のための出産

  ⇒「二都物語--エルサレムとテルアビブ」:車で1時間の距離にある意外性

 『テクノロジーがすべてを塗り変える産業地図』

  ⇒「もしトヨタが自動車メーカーからモビリティサービス企業に変わったら」:それなりの動きがあるけど、現社長ではムリ! 販売店を見ていない

 『昭和史講義【軍人篇】』

  ⇒「武藤軍務局長と田中・服部・辻の参謀本部」:思考停止した昭和陸軍の実体

 『世界史序説』

  ⇒「四世紀から五世紀は滅亡と解体の時代」:寒冷化がもたらした変化。では、温暖化ではどうなる?

  ⇒「イスラームの登場と席捲、そして定着」:ムハンマドの初期メンバーの強さ。妻のハディージャ、いとこのアリー、友人のアブー・バクル、ウマル。

 『サピエンス全史』

  ⇒「なぜヨーロッパなのか?」:オリエントに比べて、辺鄙なヨーロッパが繁栄したのか。それで世界は狂ってしまった。

  ⇒「産業革命で家族とコミュニティの崩壊」:歴史的な経緯として、コミュニティを新しいモノにして行くにはどうする。そして、家族は完全になくしていくには。
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OCR化した5冊

 『イスラエルを知るための62章』

 一瞬も退屈のない国 波乱と緊張と多様性の中で

 宗教共同体から民族共同体へ ヨーロッパ近代がもたらした新たな潮流

 アイヒマン裁判--陳腐ではなかった悪

 産めよ育てよ イスラエルの出産・子育て事情

 教育重視社会 18歳で大きな転機

 時代とともに変化し続するキブツ 自然と社会環境の豊かな生活

 兵器産業と武器輸出 最先端システムを支える柱

 イノベーション大国 ハイテク国家の旺盛な起業精神

 二都物語--エルサレムとテルアビブ

 「世界最大の刑務所」ガザ 長期化するハマスの実効支配

 『テクノロジーがすべてを塗り変える産業地図』

 [自動車]もしトヨタが自動車メーカーからモビリティサービス企業に変わったら

  実は「鉄道会社」が最も近いトヨタのMaaS構想

  トヨタ自動車の国内生産台数はすでに減少トレンド

 『昭和史講義【軍人篇】』

 昭和陸軍の派閥既争

  間違いの多い昭和史本が生み出される背景

  陸軍派閥対立の起源--九州閥と一夕会・青年将校運動

  皇道派 vs 統制派

  二・二六事件後--石原派 vs 東条派

  武藤軍務局長と田中・服部・辻の参謀本部

  中堅幕僚グループの重要性

 石原莞爾--悲劇の鬼才か、鬼才による悲劇か

  思想・行動の多面性

  世界最終戦と日蓮信仰

  満州事変

  サクセス・ストーリーの主人公

  二・二六事件への共感?

  石原時代

  日中戦争不拡大の挫折

  東亜連盟

 『世界史序説』

 「大移動」と古代文明の解体

  「滅亡」の時代

  寒冷化

  新しい体制

  「世界宗教」?

  キリスト教とローマ・オリエント

  東アジアの仏教

 東と西の再統一

  優越するオリエント

  イスラームの登場と席巻

  オリエントの再統一

  イスラームの定着

  中央アジアの位置

  突厥から隋唐へ

  唐と中央アジア

 『サピエンス全史 下』

 科学と帝国の融合

  なぜヨーロッパなのか?

  征服の精神構造

  空白のある地図

  宇宙からの侵略

  帝国が支援した近代科学

 国家と市場経済がもたらした世界平和

  近代の時間

  家族とコミュニティの崩壊

  想像上のコミュニティ

  現代の平和

  帝国の撤退

  原子の平和
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産業革命で家族とコミュニティの崩壊

 『サピエンス全史』より 国家と市場経済がもたらした世界平和 家族とコミュニティの崩壊

 産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の三つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。人々はたいてい、家族で営む農場や工房といった家業に就いていた。さもなければ、近隣の人の家業を手伝っていた。また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制皮であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった。

 誰かが病気になると、家族が看病に当たった。誰かが歳を取れば家族が世話をし、子供たちが年金の役割を果たした。誰かが亡くなると、家族が残された子供の面倒を見た。誰かが家を建てたいと思えば、家族が手伝った。誰かが新たな仕事を始めたいと思えば、家族が必要な資金を用立てた。誰かが身を固めたいと思えば、家族がその相手候補を選んだり、少なくとも厳しく審査したりした。誰かが隣人と揉め事を起こせば、家族が加勢に入った。だが、病状が爪すぎて家族の訃には負えなくなったとき、あるいは、新たな商売を起こすために大きな投資が必要なとき、さらには、近隣の揉め事が暴力沙汰にまで発展したときには、地域コミュニティが助け舟を川した。

 コミュニティは、地元の伝統と互恵制皮に基づいて、救済のfを差し伸べた。多くの場合、それは自由市場の需要と供給の法則とは人きく賢なっていた。昔ながらの中世のコミュニティでは、助けを必要とする隣人がいれば、見返りの報酬など期待せずに、家を建てたり、ヒツジの番をしたりするのに手を貸した。そして自分が助けを必要としたときには、今度は隣人が恩を返してくれるのだった。その一方で、地域の支配者が村人を全員徴集して、一銭も支払うことなく、城館の建設に当たらせることもあった。その代わりに村人は、略奪者や蛮族から守ってくれる存在として、その支配者を頼みにできた。村の生活の中では、多くの取引がなされたが、支払いを伴うものはごくわずかだった。もちろん市場があるにはあったが、その役割は限られていた。人々はそこで、珍しい香辛料や生地、道具などを買ったり、法律家に相談したり、医師に診てもらったりすることができた。だが、日常的に利用する品物やサービスのうち、市場で購入する分は全体の一割にも満たなかった。人々が必要とするものの大半は、家族とコミュニティによって賄われた。

 それ以外に、王国や帝国もあり、戦争を遂行したり、道路を整備したり、宮殿を建造したりといった大規模な事業を行なった。そうした事業のために、君主たちは税を徴収したり、ときには兵士や労働者を徴集したりした。だが、ごくわずかな例外を別にすれば、君主は家族やコミュニティの日常の営みにはかかわりを持たないことが多かった。たとえ介入しようとしても、それにはたいてい大きな困難が伴った。伝統的な農耕経済では、政府の役人や警察官、ソーシャルワーカー、教師、医師といった人々を養うだけの余剰はほとんど存在しなかった。そのため大方の支配者は、福祉や医療、教育の広範な制度などを構築できず、そうした分野は依然として、家族やコミュニティの手に委ねられていた。支配者が小作農階級の日常生活に精力的な介入を試みた稀な事例(中国の秦帝国で起こったような事例)においても、そうした介入は、家長やコミュニティの長老を政府の役人に取り立てることを通じて行なわれた。

 交通と通信の問題から、遠隔地のコミュニティの事柄に介入するのがきわめて難しい場合が多かったため、多くの王国が徴税権や処罰権といった最も基本的な君主の特権さえも、コミュニティに譲り渡すことを選んだ。たとえばオスマン帝国は、強大な直属の警察部隊を維持する代わりに、家族による復讐で処罰を行なうことを許していた。私のいとこが誰かを殺したならば、帝国のお墨付きを得た復讐として、私が被害者の兄弟に殺されるかもしれないのだ。イスタンブールのスルタンはもちろん、地方高官でさえも、実力行使が許容範囲内にあるかぎり、こうした衝突には介入しなかった。

 中国の明帝国(一三六八~一六四四年)では、保甲制度と呼ばれる制度で民を組織した。一〇世帯を一まとめにして一「甲」とし、一〇「甲」で一「保」を編成した。「保」の成員の一人が罪を犯すと、同じ「保」の成員たち、とくに「保」の長老たちが罰せられた。税も「保」ごとに徴収された。各世帯の状況を査定し、税額を決めるのは、国の役人ではなく「保」の長老たちの責任だった。帝国側から見れば、この制度にはきわめて大きな利点があった。何千もの税吏や収税吏を抱えて、各世帯の収支に目を光らせておくのではなく、そうした職務をコミュニティの長老たちに任せておけたからだ。長老たちは、それぞれの村人の財力を把握しており、通常は帝国の軍隊の関与がなくても、税を取り立てることができた。

 王国や帝国の多くはじつのところ、巨人な用心棒組織と大差なかった。君主はマフィアの首領で、みかじめ料を取り立てる見返りに、近隣の犯罪組織や地元のチンピラなどが、自分の庇護下にある者たちにけっして手を出さないようにしていたのだ。それ以外には、何もしていないに等しかった。

 家族やコミュニティの懐に抱かれた生活は、川想とはほど遠かった。家族やコミュニティもまた、近代の国家や市場と同じように、その成以を容赦なく迫巾‥しかねず、内部のダイナミクスはしばしば、緊張関係と暴力に満ちていた。それでも、人々に選択肢はほとんどなかった。一七五O年ごろには、家族やコミュニティを火えば、その人は死んだも川然だった。什嘔もなく、教育も受けられず、病気になったり苦難に直面したりしても、支援は得られなかった。お金を貸してくれる者もなく、厄介な事態に陥っても、誰も守ってくれない。警察官もソーシャルワーカーもいなければ、義務教育もない。こうした人物が生き延びるためには、失ったものの代わりとなる家族やコミュニティをさっさと見つける必要があった。家出した少年や少女に期待できるのは、よくてもよその家族の使用人になることぐらいだった。最悪の場合、軍隊や売春宿に行き着くことになった。

 こうした状況はすべて、この二世紀の間に一変した。産業革命は、市場にかつてないほど大きな力を与え、国家には新たな通信と交通の手段を提供して、事務員や教師、警察官、ソーシャルワーカーといった人々を政府が自由に活用できるようにした。ところが当初、市場や国家は自らの力を行使しようとすると、外部の介入を快く思わない伝統的な家族やコミュニティに行く手を阻まれることに気づいた。親やコミュニティの長老たちは、若い世代が国民主義的な教育制度に洗脳されたり、軍隊に徴集されたり、拠り所のない都市のプロレタリアートになったりするのを、むざむざと見過ごそうとはしなかった。

 そのうち国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やIコミュニティの絆を弱めた。国家は警察官を派遣して、家族による復讐を禁止し、それに代えて裁判所による判決を導入した。市場は行商人を送り込んで、地元の積年の伝統を一掃し、たえず変化し続ける商業の方式に置き換えた。だが、それだけでは足りなかった。家族やコミュニティの力を本当の意味で打ち砕くためには、敵方の一部を味方に引き入れる必要があった。

 そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

 ロマンド義のえ学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は頁火とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで佃人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは什事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身につけたければ、公立の学校が必要な救育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ、工事は建設会杜に頼めるし、銀行で住七ローンを組むことも吋能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。数日間体調を崩したときには、健康保険が私たちの面倒を見てくれる。病が数か月にも及ぶと、社会保障制度が手を差し伸べてくる。二四時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。看護師はたいてい、世界の反対側から来たようなまったくの他人で、もはや我が子には期待できないほど献身的に私たちの世話をしてくれる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱うので、隣人の税金まで支払うよう求めはしない。裁判所もまた、私たちを個人と見なすので、いとこの犯した罪で人を罰することはけっしてない。

 成人男性だけでなく、女性や子供も個人として認められる。歴史の大半を通して、女性はしばしば、家族やコミュニティの財産と見なされてきた。一方、近代国家は、家族やコミュニティとは関係なく、経済的権利と法的権利を享受する個人として、女性を捉える。女性も自分自身の銀行川座を持ち、結婚相手を決められるだけでなく、離婚したり自活したりすることさえ選択できる。

 だが、個人の解放には犠牲が伴う。今では、強い絆で結ばれた家族やコミュニティの喪失を嘆き悲しみ、人間味に欠ける国家や市場が私たちの生活に及ぼす力を目の当たりにして、疎外感に苛まれ、脅威を覚える人も多い。孤立した個人から成る国家や市場は、強い絆で結ばれた家族とコミュニティから成る国家や社会よりもはるかにたやすく、その成員の生活に介入できる。管理人に支払う額についてさえ合意できない高層マンションの住人たちが、国家に抵抗することなど、どうして期待できるだろうか?。

 国家と市場と個人の関係は穏やかではない。国家と市場は、相互の権利と義務に関して異議を唱え、個人は、国家も市場も求めるものは多いのに提供するものが少な過ぎると不満を漏らす。市場が個人を搾取したり、国家が軍隊や警察、官僚を動員して、個人を守るのではなく迫害したりすることも多い。ところが、三者の関係は、まがりなりにも機能しているのだから、驚かされる。というのもそれは、無数の世代にわたって続いてきた人間社会の取り決めに反するからだ。何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティの一員として生き、考えるよう設計されてきた。ところがわずか二世紀の間に、私たちは疎外された個人になった。文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は、他にない。

 とはいえ、近代の風景から核家族が完全に姿を消したわけではない。国家と市場は、経済的役割と政治的役割の大半を家族から取り上げたものの、感情面での重要な役割の一部には手をつけなかった。近代に入っても、家族には相変わらず、きわめて私的な欲求を満たすことが期待されており、こうした欲求には、(今のところ)国家や市場では対応できない。とはいえこのような分野でもやはり、家族が介入を受けることが多くなっている。市場は人々の恋愛や性生活に関する行助様式の形成に、ますます人きく関与している。従来、独身社の問を収り持つのは卜に家族だったが、今日では私たちの恋愛面での嗜好や性的な嗜好を仕立て上げ、その後(高額の手数料と引き換えに)好みの相手を紹介して此話を焼くのは市場だ。以前は、未末の新郎新婦は家族が集う部。屋で出会い、父親から父親へと結納金が手渡されたものだった。だが今では、愛をささやく場所はバーやカフェに移り、お金は恋人たちから接客係へと渡される。なおさら多くのお金が、ファッション・デザイナーやスポーツ・ジムの経営者、栄養士、美容師、美容整形医の銀行口座に振り込まれる。彼らは、巾場の示す理想的な美にできるかぎり近い姿で私たちがバーやカフェに行かれるよう手伝う人々だ。

 国家も、家族関係、とりわけ親子関係に厳しく目を光らせるようになった。親には、国家による教育を子供に受けさせる義務が課されている。子供に対して目に余る虐待をしたり、暴力を振るったりする親は、国家による制限を受ける場合がある。必要に応じて、国家はそのような親を刑務所に収監したり、子供を里親に委ねたりすることさえある。つい最近までは、親が子供を殴ったり侮辱したりするのを国家がやめさせるべきだと主張しても、実効性のない馬鹿げた見解として一蹴されていただろう。たいていの社会では、親の権威は神聖視されていた。親を敬い、その言いつけに従うことは、とりわけ尊ばれる価値観であり、親はといえば、新生児を殺害することから、子供を奴隷として売る、あるいは娘を二倍以上も年嵩の男性に嫁がせることまで、思いどおりにほぼ何でもできた。今日、親の権威は見る影もない。子供は年長者に対する服従を免除されることが増える一方で、子供の人生でうまくいかないことがあればすべて親のせいにされる。フロイトの学説が幅を利かせる法廷で親が無罪を勝ち取れる確率は、スターリン派による見せしめ裁判の被告人の場合と同じぐらい低いだろう。
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なぜヨーロッパなのか?

 『サピエンス全史』より 科学と帝国の融合

 北大西洋の大きな島からやって来た人々が、オーストラリアの南の大きな島を征服したという事実は、歴史上の奇想天外な出来事の一つだ。クックの遠征の少し前まで、イギリス諸島とヨーロッパ西部は概して、地中海世界から遠く離れ、取り残された場所にすぎなかった。そこでは重要な事件はほとんど起こらなかった。近代以前のヨーロッパの唯一の重要な帝国であるローマ帝国でさえ、その富のほとんどを北アフリカやバルカン半島や中東の属州から得ていた。ローマ帝国のヨーロッパ西部の属州は、鉱物と奴隷以外何も与えてはくれないに等しい、貧しい辺境だった。ヨーロッパ北部に至ってはあまりに不毛な未開地だったので、征服する価値さえなかった。

 ヨーロッパがようやく軍事的、政治的、経済的、文化的発展の重要地域になったのは、一五世紀末のことだった。一五〇〇年から一七五〇年までの間に、ヨーロッパ西部は勢いをつけ、「外界」、つまり南北のアメリカ大陸と諸大洋の征服者になった。だがそのときでさえヨーロッパはアジアの列強には及ばなかった。ヨーロッパ人がアメリカを征服し、海上での覇権を得ることができたのは、主としてアジアの国々がそれらに興味をほとんど持っていなかったからだ。近代前期は地中海地方のオスマン帝国、ペルシアのサファヴィー帝国、インドのムガル帝国、中国の明朝と清朝の黄金時代だった。それらの国々は領土を大幅に拡げ、かつてなかったほどの人口増加と経済成長を遂げた。一七七五年にアジアは世界経済の八割を担っていた。インドと中国の経済を合わせただけでも全世界の生産量の三分の二を占めていた。それに比べると、ヨーロッパ経済は赤子のようなものだった。

 ようやく世界の権力の中心がヨーロッパに移ったのは、一七五〇年から一八五〇年にかけてで、ヨーロッバ人が相次ぐ戦争でアジアの列強を倒し、その領土の多くを征服したときだった。一九〇〇年までにはヨーロッパ人は世界経済をしっかりと掌握し、世界の領土の大部分を押さえていた。一九五〇年にはヨーロッパ西部とアメリカ合衆国が全世界の生産量の半分以上を占め、一方、中国の占める割合は五パーセントに減少していた。ヨーロッパの支配下で、新たな世界の秩序と文化が生まれた。今日、人類全体が、服装や思考や嗜好の点で、普通そうとは認めたがらないほど多くをヨーロッパに倣っている。言うことは非常に反ヨーロッパ的かもしれないが、地球ヒのほとんどの人が政治や医学、戦争、経済などを、ヨーロッパ的な目を通して見ているし、ヨーロッパの言語で作詞され、ヨーロッパ風に作曲された音楽を聴いている。間もなく世界の佇位の座を奪いそうな、目下急成長中の中国経済でさえ、ヨーロッパの生産と金融のモデルに基づいて構築されている。

 ユーラシア大陸の寒冷な末端に暮らすヨーロッパの人々は、どのようにして世界の中心からほど遠いこの片隅から抜け出し、令欧山々を征服しえたのだろう? その功績のほとんどがヨーロッパの科学者のものとされることが多い。一八五○年以降、ヨーロッパの支配が軍巾・産業・科学複介体と魔法のようなテクノロジーを人きな拠り所としてきたのは間違いない。近代後川に成功した帝川は例外なく、テクノロジーの刷新を期待して科学的な探究を奨励し、多くの科学者が、帝国の主君のために、兵器、医薬品、機械の開発にほとんどの時間を注ぎ込んだ。アフリカ人の敵に直面するヨーロッパの兵士たちの間でよく言われる台詞があった。「どう転んでも、俺たちには機関銃があるが、やつらは持ってない」。民間のテクノロジーもそれに劣らず重要だった。缶詰食品は兵士の糧食に、鉄道や蒸気船は兵士と糧食の輸送手段となったし、さまざまな新薬のおかげで兵士や機関士の病気が治った。こうした兵粘上の進歩が、ヨーロッパ勢によるアフリカ征服に機関銃よりも重要な役割を果たした。

 だがそれは、一八五〇年以前には当てはまらなかった。軍事・産業・科学複合体はまだ生まれたてで、科学革命の木に生ったテクノロジーの果実はまだ熟れておらず、ヨーロッパ、アジア、アフリカの技術力の格差は小さかったのだ。一七七〇年には、ジェイムズ・クックは、たしかにオーストラリアのアボリジニよりもはるかに進んだテクノロジーを持っていたとはいえ、それは中国やオスマン帝国の人々にしても同じだった。それではなぜオーストラリアを探検して植民地化したのは、萬正色船長やフセイン・パシャ船長ではなく、ジェイムズ・クック船長だったのか? さらに重要なのだが、もし一七七〇年にヨーロッパ人が、イスラム教徒やインド人や中国人よりもテクノロジーの面で大きく優位に立っていたわけではなかったのだとしたら、ヨーロッパの国々はその後の一〇〇年間で、どうやってその他の国々にそれはどの差をつけたのだろう?

 軍事・産業・科学複合体が、インドではなくヨーロッパで発展したのはなぜか? イギリスが飛躍したとき、なぜフランスやドイツやアメリカはすぐにそれに続いたのに、中国は後れを取ったのか? 工業国と非工業国の差が経済や政治に明らかに影響を及ぼすようになったとき、なぜロシアやイタリアやオーストリアは差を縮めることに成功したのに、ペルシアやエジプトやオスマン帝国は失敗したのか? 何と言っても、産業化の第一波のテクノロジーは比較的単純だったのだから。蒸気機関を設計し、機関銃を製造し、鉄道を敷設するのは、中国やオスマン帝国の人々にとってそれほど困難だったのか?

 一八三〇年、世界初の営利の鉄道がイギリスで開業した。一八五〇年までに西洋諸国では、四万キロメートル近い鉄道が縦横に走っていたが、アジアとアフリカとラテン・アメリカでは、全土を合わせても鉄道はたった四〇〇〇キロメートルだった。一八八○年には、西洋諸国の線路は合計三五万キロメートル以Lに達していたのに対して、他の国々では全部合わせても三万五〇〇〇キロメートルにすぎなかった(しかも、そのほとんどはイギリスによってインドに敷設されたものだった)。中国初の鉄道は一八七六年になってようやく開業した。長さ二五キロメートルで、ヨーロッパ人が建設したのだが、翌年中国政府によって破壊された。一八八○年、清帝国は一本の鉄道も運営していなかった。ベルシア初の鉄道は一八八八年にやっと建設され、詐都テヘランとそこから一〇キロメートルほど南下したイスラム教の聖地とを結んだ。それはベルギーの会社によって建設され運営されていた。ペルシアはイギリスの七倍の面積があるにもかかわらず、一九五〇年になっても、鉄道は介叶で二五○○キロメートルしかなかった。

 中国人やペルシア人は、蒸気機関のようなテクノロジー上の発明(自由に模倣したり買ったりできるもの)を欠いていたわけではない。彼らに足りなかったのは、叫洋で何匪紀もかけて形成され成熟した価値観や神話、司法の組織、社会政治的な榊造で、それらはすぐには樅倣したり収り込んだりできなかった。フランスやアメリカがいち早くイギリスを見習ったのは、フランス人やアメリカ人はイギリスの最も重要な神話と社会構造をすでに収り人れていたからだ。そして中川人やペルシア人がすぐには追いつけなかったのは、考え方や社会の組織が異なっていたからだ。

 日本が例外的に一九世紀末にはすでに叫洋に首尾良く追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーの才のおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本人が並外れた努力を重ね、西洋の機械や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を于本・として作り直した事実を反映しているのだ。

 このように説明すれば、一五〇〇年から一八五〇年にかけての時代が新たな形で浮かび上がってくる。この時代、ヨーロッパはアジアの列強に対してテクノロジー、政治、軍事、経済のどの面でも明らかな優位性を享受していたわけではなかったが、それでもヨーロッパは独自の潜在能力を高めていき、その重要性は一八五〇年ごろに突如として明らかになった。一七五〇年にはヨーロッパと、中国やイスラム教世界は、一見すると対等に見えたが、それは幻想だった。二人の建築者を想像してほしい。それぞれ非常に高い塔をせっせと建設している。建築者の一人は木と泥レンガを使い、もう一人は鋼鉄とコンクリートを使っている。最初は両者の工法にあまり違いはないように見える。両方の塔が同じようなペースで高くなり、同じような高さに到達するからだ。ところが、ある高さを超えると、木と泥の塔は自らの重さに耐えられず崩壊する一方で、鋼鉄とコンクリートの塔ははるかに仰ぎ見る高さまで階を重ねていく。

 ヨーロッパは、近代前期の貯金があったからこそ近代後期に世界を支配することができたのだが、その近代前期に、いったいどのような潜在能力を伸ばしたのだろうか? この問いには、互いに補完し合う二つの答えがある。近代科学と近代資本主義だ。ヨーロッパ人は、テクノロジー上の著しい優位性を享受する以前でさえ、科学的な方法や資本主義的な方法で考えたり行動したりしていた。そのため、テクノロジーが大きく飛躍し始めたとき、ヨーロッパ人は誰よりもうまくそれを活用することができた。したがって、ヨーロッパ帝国主義が二一世紀のポスト・ヨーロッパ世界に遺した最も重要な財産は科学と資本主義が形成しているというのは、けっして偶然ではないのだ。ヨーロッパやヨーロッパの人々はもはや世界を支配してはいないが、科学と資本はますます強力になっている。資本主義の勝利については次章で考察する。本章では、もっぱらヨーロッパ帝国主義と近代科学のラブストーリーを取り上げる。
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ジコチューでやりたいことをやる

ジコチューでやりたいことをやる

 ジコチューでやりたいことをやると言ってるけど、やりたいことって何なのか? それは言われたことではなく、内から願うことの筈。

 やりたいことをやる。そのテーマはなぜ<ここ>、なぜ<今>を知ることしかないでしょう。

 今だから やりたいことやってる。ツール、図書館も私のためにあるし、他者には妨害されない。時間だけがどうなっているかわかんない

イスラエルは日本の正反対

 今週借りた本の中で、イスラエルのことが多分、メインになる。エジプトを脱出したモーゼがなぜ左に曲がったのか。それが事の始まり。右に曲がったら砂漠。だけどそこは油田地帯。アラーからの贈り物があった。

 イスラエルは日本の正反対で、自己主張が強く、多様性に富んでいる。キブツという特殊なコミュニティ。出産率は高い。未来を示すローカル世界

 テルアビブとエルサレム。その間は車で1時間。こんな近いとは思わなかった。快楽と宗教の距離。ベイルートとバクダッドの距離もソホクリスから教えてもらうまで感じていなかった。ミサイル攻撃が見える距離。

子供を産むことを生産とする社会

 『生産性』って、生む力? となると「生産性向上」って何?

 スパルタでは子供は国のもの。スパルタ教育で育て上げた。それは多数派の奴隷の反乱を防ぐために。その結果は都市国家は没落していった。そして、ペルシャに傭兵として雇われた。

 アレキサンドロスはスパルタ傭兵を嫌った 。容赦しなかった。テルモピレーのスパルタ王の戦いだけは忘れなかったけど。

2歳児と犬と留守番

 2歳児と中型犬の相性はどうなのか?
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イスラームの登場と席捲そして定着

 『世界史序説』より 東と西の再統一

 イスラームの登場と席捲

 オリエント東西の横綱相撲は、このようにシリア・エジプトを争奪するシーソーゲームだった。ササン朝が圧倒しかけた最終局面でも、東ローマが挽回して相譲らない。双方とも疲弊しきっていた。

 その南方にひろがるアラビア半島、いまも遊牧生活をつづける人々が暮らす砂漠の地である。そこに世界史を大転回させる動きが起こりつつあった。

 いかに砂漠が多いといっても、不毛一色ではない。この地はすでにササン朝が、五世紀前後から鉱山開発などのために入植をすすめていた。隊商も行き交い、マーケットができ、もちろん聚落も存在する。

 とくに束ローマとササン朝の交戦が劇化すると、商業路は境界地帯を南に迂回し、こちらがかえって繁昌した。メッカはそんな商業都市の一つである。

 ムハンマド(五七〇頃-六三二)はそのメッカ有数の名門商家の一人だった。かれが六一〇年、唯一神の啓示を受けて、となえた教えがイスラーム。ムハンマドは預言者として布教をすすめ、妻のハディージャ(五五五?-六一九)、いとこのアリー(六〇〇頃-六六一)、友人のアブー・バクル(五七三頃-六三四)、ウマル(?-六四四)らが次々と入信した。

 しかし多神教の聖地メッカの有力者が、信徒のムスリムに迫害を加えたため、ムハンマドは六二二年、かれらとともにメッカを脱出、かねて招かれていたヤスリブに移った。いわゆる「聖遷」である。ヤスリブは「預言者の町」、略してメディーナとよばれた。

 ムハンマドは六三〇年、故郷のメッカを陥落させ、アラビア半島を統一、その二年後に逝去した。イスラームの勃興はあたかも、ササン朝と東ローマが死闘していた時期にあたり、その間隙をついたものである。

 ムハンマドの事業をついだのは、アブー・バクルやウマルら、預言者の「代理人」、いわゆるカリフである。とりわけ第二代カリフのウマルは、ヒジュラ紀元を定め、のちにシャリーア、つまりイスラーム法となる法制をまとめるなど、統治の枠組を定めて内政を整備したばかりでなく、疲弊しきった束ローマ・ササン朝に遠征軍を出して、アラブの大征服を指導した。

 まず六三五年から翌年にかけてシリアを、六四二年にはエジプトを征服する。ヘラクレイオス帝がササン朝から獲た勝利は、こうして十年の後に、けっきょく烏有に帰した。心臓部のオリエントを失った東ローマは、バルカンとアナトリアのみの地方政権と化した。

 ライバルのササン朝の運命は、いっそう悲惨だった。イスラームはシリアの征服後、東方に軍をすすめ、六三七年にクテシフォンを占領する。六四二年、エジプト征服につづいてイラン高原に進攻し、首都から脱したヤズデギルド三世がこぞったササン朝軍をニハーヴァンドで撃破、これで事実上ササン朝は滅亡した。ヤズデギルド三世は東に敗走、ホラーサーンのメルグまで逃れたものの、六五一年に殺害され、君位も断絶にいたる。

 オリエントの再統一

 イスラームはさらに拡大をつづける。ウマルの死後、いわゆる正統カリフが絶え、後を襲ったウマイヤ朝は、統治の本拠をシリア・ダマスクスに置いた。シリアはオリエントの商業中心地、シルクロードの西のターミナルであると同時に、地中海への出入口でもある。それまで陸を征服する「聖戦」にかぎっていたムスリムたちは、ついに地中海の経略にのりだした。

 東ローマの危機は必至である。帝都コンスタンティノポリスとその周辺、エーゲ海・アドリア海はかろうじて死守した。けれども属領のアフリカ・イベリア半島を失い、それにともなって、地中海の制海権もイスラームの手に落ちる。キリスト教徒は板一枚浮かべられなくなった、とまで称せられた。

 以上の史実をわれわれは、もともとローマ(=キリスト教徒=ヨーロッパ人)の内海だった地中海が、ムスリムに奪われた、とみなしがちである。それはしかし、西欧中心史観というべきだろう。

 歴史的にいって、シリアと地中海は不可分である。ギリシア・ローマもフエニキア・シリアが拡大してできたものだから、元来はオリエントの一部だった。それがアレクサンドロス死去以後、シリア以西が東のペルシアと扶を分かったので、いわゆる地中海世界も分立することになったわけである。

 だとすれば、イスラームの地中海制覇とは、地中海世界がようやく東のオリエントに回帰し、分かれていた東西が統合したことを意味する。千年の間、分立と拡大を続けたオリエントが、イスラームのもと、再統一を果たした事象とみるほうがよい。

 もちろんキリスト教のローマが頑強に生きのびた事実は、のちに重大な意味をもってくる。そこを見のがせないのは当然ながら、だからといって、地中海の当時の位地を履き違えてはならない。

 イスラームの定着

 イスラームは「聖戦」をとなえ、武力で拡大したものではある。しかしすべてが力づくだったはずはない。オリエントの広汎な範囲で受け容れられ、キリスト教・ゾロアスター教など、雑多な既存の信仰とモラルを塗り替えて、一つの秩序体系にまとめていった。その事実は重要である。

 キリスト教や仏教と同じく、イスラームの教義に深く立ち入る暇はない。ただ概略のみいえば、偶像崇拝を否定し、奇蹟を説かないなど、当時としては最も合理的な教えだったし、唯一神の前ではみな平等な同胞で、聖俗の区別もなく、位階の差別もなかった。こうした人道的な共同体の形成によって、清新なモラルを供給し、厳格な規律を維持しえたのである。イスラームがオリエントの人々にとって、既存の諸宗教を凌駕する魅力があったことは確かであろう。

 さもなくば、このようにまたたく間にひろがることもなかっただろうし、現在にいたるまで定着してはいまい。その意味では、イスラームはまさに当時、全オリエントの輿望をになって出現した、広域世界を覆いうる普遍的な秩序体系だったといえよう。

 ほかの既成宗教がそうであったように、イスラームも言語・信仰・儀礼・政治、あらゆる方面に及んで、信徒結束の紐帯となった。それは今も大なり小なり続いて、ごく日常のローカルな生活範囲から、戦時をふくめた対外関係までをも規定している。

 最も基本的なレベルを例にとるのが、わかりやすいだろうか。経典のコーランがアラビア語の記載によることから、とりわけ文字・書記言語は、その影響が決定的だった。オリエントで文字の排列法が、最終的に右からの横書きに定まったのも、この時である。それに対し、イスラームの手の及ばなかった西方では、キリスト教によって左からの横書きが定着したのである。
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四世紀から五世紀は滅亡と解体の時代

 『世界史序説』より 「大移動」と古代文明の解体

 「滅亡」の時代

 --ゲルマン民族の大移動で、ローマ帝国が滅んだ。

 かれこれ四十年ほど前、筆者が中学校あたりで教わった歴史である。いまどう教えているのかは、寡聞にして知らない。

 このテーゼは史実経過として、決してまちがってはいないだろう。しかし年齢を重ね、いろいろ歴史を読むと、あまりにも不十分な説明であることがわかってきた。

 首をかしげる点は、いくつもある。一方の「ゲルマン民族」は、なぜ住んでいたところを棄てて、移住する必要があったのか。それはかれらだけだったのか。ほかに類似のことはなかったのか。

 かたやローマのほうは、なぜ滅んでバラバラになったのか。たしか当時は、東西のローマ帝国があった。滅んだのは西ローマだけなのに、どうして「ローマ帝国の滅亡」というのか。そもそも、滅ぶとはどういうことなのか。これだけですでに、疑問百出である。

 しかもそんな現象は、ユーラシアの東西で軌を一にしていた。西ローマ帝国の滅亡と同じころ、中国・中原でも、同様の四分五裂状態となっている。漢王朝が滅んで三国となり、いったんは再統合するものの、その後まもなく遊牧民が来襲した。では、こちらの滅びは、いかに解すればよいのか。

 このように四世紀から五世紀は、ユーラシアの東も西も、滅亡と解体の時代であった。その動因が異種族・遊牧民の移動、攻撃だったことも共通している。それなら、こんな破局をもたらした要因は、いったい何だったのか。

 寒冷化

 あげだせば、数えきれまい。直接の因果関係は時と場所、局面によってさまざまだろう。しかし最も普遍的で根本的なものを問うなら、その答えも近年はっきりしてきた。地球規模の気候変動、寒冷化である。

 近年は逆の温暖化が問題になっているので、この種の気候変動は大なり小なり、実感できるだろう。寒暖いずれにしても、気候の変動による災害の誘発、生態系の動揺・崩潰が問題なのである。

 寒冷化といっても、やはり所によって、その影響はさまざまである。温暖な地域が寒くなるのは、まだしも、なのかもしれない。もともと暖かい所の気温が下がっても、なお人間の生存に関わらないからである。それでも冷害など、農耕・生産に対する影響は少なくない。長期にわたれば、事態は深刻さを増してくる。

 寒冷地になれば、なおさらである。寒いところがいっそう寒冷化しては、生命活動が往々にしてたちゆかない。それまでかろうじて生育していた作物や草原が、烏有に帰してしまうこともあろう。疫病も流行りやすくなる。もはや人間の生存に関わる事態であった。遊牧民であれ農耕民であれ、まず内陸の寒冷地帯に暮らす人々が、生き延びるため、少しでも温暖な地に移動、移住する。「民族大移動」のはるか以前から、ゲルマン人は多くローマ帝国内部に移り住んでいた。もとより流浪したのは、かれらに限らない。

 「民族大移動」とはもとの住地を逐われた集団難民が武装したまま、ローマ帝国に入り、力づくで転々と住地を変えたことをいう。それは遠く東方から、遊牧民のフン人が移動、襲撃してきたことでひきおこされた、いわば玉突き現象だった。しかし長駆移動したのは、フンだけではない。寒冷化に苦しむ誰も動機があった。

 したがって「大移動」は決して、この時だけに限らない。北方や内陸からの移動は、以後もくりかえし絶えなかった。ヨーロッパだけに限ってみても、東方のスラヴ・アヴァール・マジャール、北方のノルマンがよく知られたところだし、いっそう東の中央アジア・東アジアの遊牧民も、後述するとおりである。いずれも元来は生存を求めての、やむにやまれぬ行動であった。

 新しい体制

 かくて遊牧世界では生活の危機、農耕世界では生産の減少が生じる。もちろん互いの関係にも、安定を欠くようになってきた。もちろん両者の生産物の交換を基幹とする商業も、それにともなって衰退せざるをえない。必然的に乏しい物資をめぐって、紛争も多発する。

 だから影響は遊牧・農耕の両世界にまたがっている。寒冷化のダメージから、遊牧世界は移動・襲撃、あるいは移住・難民が避けられなかった。農耕世界のほうでも流亡・移入を受けとめるべく、生産力の低下を防がなくてはならなかったし、多発する紛争にも対処する必要がある。

 そこで下は労働形態から、上は権力構成にいたるまで、社会も変容せざるをえない。生産を少しでも増やすべく、人力を強制的にでも動員して、開墾・耕作をすすめる必要が生じた。またそのために、在地有力者の権力が個別的に伸長してゆく。政治的な分立抗争がこうして、いよいよ起こりやすい社会情勢になっていった。

 古代文明はかつて遊牧(軍事)・農耕(生産)・商業(交換)の三者が、組み合わさってできあがっていた。気候の寒冷化はそのバランスを崩したのであって、既存の文明は必然的に、その構成を変えざるをえない。

 「民族大移動」とは、そうした過程を象徴する現象の一餉であった。古代帝国と称する広信仰である。それは個人の精神・モラル・生活のよりどころとなるばかりではない。個々人が暮らしてゆくのに、社会と無縁ではありえないから、宗教・信仰の活動は必然的に社会秩序を形づくり、保ってゆく役割をも担う。

 したがって、時代をさかのぼればさかのぼるほど、それは政治的な統治機能をも兼ね備えていた。和語でも「まつりごと」といいならわすとおりである。平穏無事な時期でさえ、そうである。ましてや危機の時代、いよいよ人々が信仰にすがる気運は、高まらざるをえない。

 かつて栄えた古代文明は、気候変動とそれがひきおこした動乱でゆきづまってしまった。政治・経済の変革とあわせ、その後の時代をささえたもう一方の柱は、そうした宗教・信仰の刷新である。キリスト教・仏教など、いわゆる「世界宗教」が定着したのは、まさにこの時代、時機の一致は決して偶然ではない。そしてその棹尾を飾って、さらに新しい時代を切り開いたのが、イスラームだった。

 宗教・信仰が社会秩序をささえるものであるとすれば、古代文明が広域政権を形づくっだ時、それに見合う宗教がすでにはじまっているはずであり、事実そうであった。オリエント・ペルシアではゾロアスター教、インドではバラモン・原始仏教、中国・中原は儒教である。ただし、いずれも「世界宗教」に数えないところに注意しなければならない。
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昭和陸軍 武藤軍務局長と田中・服部・辻の参謀本部

 『昭和史講義【軍人篇】』より 昭和陸軍の派閥闘争

 一九三九年、五月から九月にかけてソ連との国境紛争ノモンハン事件が起きた。強攻策をとって失敗した関東軍参謀服部卓四郎中佐と辻政信少佐はそれぞれ歩兵学校付と第一一軍司令部付に左遷される。

 一方、一九三九年八月、平沼内閣が倒れると、後継の阿部内閣組閣に際し、多田第三軍司令官が陸相に決定しかかった。東条航空総監はこれを阻止しようとして対立。天皇による「陸相は梅津か畑」という畑陸相指名で事態は落着する。

 なお、阿部内閣組閣に際しては有末精三軍務課長が大きく関与しており、有末の「製造した」内閣とも言われた。「阿部内閣の組閣本部は(中略)事実上は陸軍省軍務課長室」で「有末大佐が組閣の事実上の参謀長であり」「(内閣書記官長の)遠藤柳作は阿部大将と有末との連絡役以上の存在ではなかふた」。有末らが内閣の「背骨」と構想した民政党の永井柳太郎を町田忠治総裁が拒否したと知った有末は、軍務課長室で民政党の中井川代議士に「陸軍は貴党の挑戦に応ずる」と威嚇。民政党はたちまち腰砕けとなり永井の入閣が決まった。すなわち、全体として陸軍の政治勢力は大きなものとなっており、軍務課長が組閣に活躍する状況となっていたのだった。もっとも、それだけに天皇の陸相指名が起こり、有末も注意を受けることになるという反動も起きたのだった。

 そしてこうした中、一九三九年九月、中国大陸に出ていた武藤章が軍務局長として戻ってくる。武藤章軍務局長時代の開始である。どうして武藤は帰ってきたのか。

 武藤の盟友田中新一は、関東軍参謀長時代に同居するなど親しかった岩畔豪雄を、自らが兵務課長になる時に兵務局に採用二九三六年八月)していたが、軍事課長(一九三七年三月)をやめて転出する時後任を岩畔としておいた(一九三九年二月)。そして、一九三九年九月、町尻軍務局長の後任人事の相談が山脇正隆次官から岩畔軍事課長と有末軍務課長にあった時、岩畔らが武藤軍務局長と田中新一作戦部長という提案を行い、まず前者が実現したのであった。

 武藤は三七年二一月に中支、三八年七月に北支の各方面軍参謀副長を経験し、日中戦争への基本認識を大きく改めていた。ナショナリズムに目覚めた中国大衆の動向への認識が不十分だったことに気づき戦争拡大論を反省していたのである。中国大陸に来た日本人の中にある「粗暴驕慢」「偏狭な日本精神の押売り」の面は「支那民族には一向理解できない」ことを悟っていたのである。

 こうした認識が陸軍にある中、一時は大陸からの撤兵案が出てくるような状況もあったが、そこに生じたのが四〇年四月、ナチスのョーロて(大陸での電撃的攻勢であった。その圧倒的勝利により四〇年七月、米内「親英米」内閣は倒壊する。そしてマスコミによる「近衛新体制」待望世論の急速台頭の中、第二次近衛内閣が成立し四〇年七月、東条陸相が登場する。

 この時、阿南惟幾が陸軍次官であった(三九年一〇月)。阿南は沢田茂参謀次長に次の陸相について相談した。衆目の一致するところは、梅津か東条であった。梅津は関東軍司令官(三九年九月)であり、「思慮周密にして冷静」な梅津に統帥部は続けてもらいたかった。さらに、梅津と阿南が同郷(大分)であり、阿南は梅津が大臣になるなら自分は次官をやめると繰り返し言っていたため沢田は「私情としてそれは言うにしのびなかった」。こうして、阿南は東条就任を進めて行くが石原との融和を条件としたと見られており、七月末に東条と石原らが「電撃的に」会談したが物別れに終わる。この後、結局石原は東条陸相により予備役入りが決められたのだった。

 東条陸相・松岡外相の第二次近衛内閣は大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定し(それは南方進出が謳われたるのであったが、決定的なものではなかった)、四〇年九月、電撃的に三国同盟が結ばれる。三国同盟は松岡外相の強力なイュシアティブによるものであり、武藤らはほとんど関与してはいない。むしろ、陸軍内部で問題となぶたのは同じ四〇年九月の北部仏印進駐の方であった。

 援蒋ルートの遮断を目指し行われた北部仏印進駐であったが、平和進駐と決まっていたものを富永恭次作戦部長がわざわざ現地に赴き武力進駐を指導するという不祥事を起こしたのである。このため作戦部長を田中新一へ交代させることになる。田中新作戦部長は東条大臣の提案で、杉山元参謀次長が引き受けて来たものを沢田茂次長が「情勢が極めて重大微妙である折から(中略)幅の広い考え方の者でないと困る」として総長を説得。東条大臣に交渉したが、「総長が引き受けたものを次長が文句をつける法があるかとまで激昂」するので拒絶できず決まった。すでに見た通り岩畔らの人事提案にあった結果でもあり、武藤は田中に期待したのだが裏切られることになる。

 同じ頃(一九四〇年一〇月)、閑院宮が八年十ヵ月勤めた参謀総長をやめることになり、阿南次官は畑を、沢田次長は寺内を後任に考えたが、東条は周囲の意見を聞かず「高級人事については大臣が一人でやるから他人の進言を待たず」と「杉山」に強行した。独裁的傾向を見せ始めた東条に二人は怒る。沢田がまず去り(一九四〇年一二月)、東条の「不愉快」を沢田に三回も相談した阿南も去る(一九四一年四月)。阿南は、東条陸相推薦を「一生の最大の過失」と悔やんだという。

 なお武藤は新しい政治勢力の結集も期しており、強力な政党による「新体制」の確立を考えていたが、観念右翼の反対もありまた既存の秩序の存続を求める内務省の反抗も強く結局「大政翼賛会」(一九四〇)は「公事結社」と化し構想とはかけ離れものであった。

 四一年四月、日中戦争をめぐり日米関係悪化の中日米交渉が開始され、続いて四一年六月独ソ戦開始、四一年七月南部仏印進駐、米の日本資産凍結そして対日石油輸出禁止となり、事態は日米戦争直前に進んで行く。対米開戦派と非戦派の対立の状況が生まれるのである。

 すなわち、四一年七月、参謀本部では田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信戦力班長という体制となり開戦派が主流となるのに対し、陸軍省では中核となる武藤軍務局長が日米非戦の立場だったのである。

 服部作戦課長、辻戦力班長はノモンハン事変の失敗で左遷されたものがこの地位にまで復活していたので失敗を取り返そうという意識が非常に強かふたことは否定できない。一方、武藤軍務局長は日中戦争の泥沼化への反省から日米戦争はそれ以上の持久戦となり勝ち目がないという認識から日米非戦の立場だったのである。武藤は大正末に二年半ドイツに駐在したが帰りにニカ月間アメリカに立ち寄り「何にも古いものはない」「すべてが動いている」「近代文明の具体化」アメリカに驚いて帰国した経験があったが、それがこうした態度の根底にあったと見られる。

 こうした状況が生まれるプロセスを見ておこう。四一年三月武藤系の河村参郎軍務課長が東条派の佐藤賢了に代えられ、四月には次官も阿南から東条系の木村兵太郎に交代、人事局長にも北部仏印進駐で左遷されながら東条と「特別な関係」の富永が復活して着任し、武藤には次第に不利となり始めていた。

 そして、参謀本部に戦力班長として着任していた(四〇年一〇月)服部が、七月に台湾で南方作戦を研究していた辻を起用しょうとして土居明夫作戦課長と対立。土居は「君と辻とが一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ」とこの人事を拒否した。しかし、服部・辻は参謀本部・陸軍省などに「根をはって居って、同志で気脈を通じ、全体の空気を作って」いき、土居に「この壁は破れなかった」。

 土居は、服部の転出か自己の転出かを田中作戦部長に迫り、土居の転出が決まると「服部はすぐに辻を補充して南方作戦一色となった」「これで日本の方向は決した」。ここが二つの分岐点であったともいえ

 参謀本部の田中作戦部長、服部作戦課長、辻戦力班長という体制は何といっても強力であった。当時作戦課にいた高山信武少佐は、この三人が参謀本部における「開戦の強力な主唱者」だったとしている(田中新一著、松下芳男編『田中作戦部長の証言--大戦突入の真相』芙蓉書房、一九七八、六頁)。また軍務局で武藤の下にいた石井秋穂中佐は、「赤松(貞雄陸相秘書官)、富永、佐藤、服部、辻」を「東條直系」と呼んでいる。

 独ソ戦開始が知られた時、陸軍省では武藤を中心にすぐに協議し不関与を決めるが、参謀本部では強硬論が強く「様子見の」関東軍特殊演習になるのである。

 こうして、四一年一〇月東条内閣成立、四二季二二月太平洋戦争開始となる。

 秋になると、開戦決定の時期を決める大本営政府連絡会議(一一月一日)に出かける「塚田(攻参謀次長)が『陸軍省がなんだ、武藤がなんだ』と口走りながら車に乗った」という報告が参謀本部から陸軍省に入るという有様であった。

 陸軍省でも富永人事局長らが開戦論であり、武藤も苦しかった。最後は非戦論の武藤軍務局長と開戦論の田中作戦部長とが連日のょうに激しく激突したが、陸軍省の富永人事局長が田中を援護するので「二対一」の格好ともなった。

 一一月一八日、議会では対米強硬の「国策完遂」決議がなされ、一二月初めには陸軍省記者クラブの記者達が陸相に面会を求め、対応した西浦進軍務局課員に「どうですか対米交渉は、国民の間にはもう東条内閣の弱腰に非難の声が起り出した」と迫った。

 開戦が決まった時、岡田菊三郎陸軍省戦備課長によると、誰かが「これですべてはっきりしました。蟠りがみな解けて結構ですな」と言うと武藤軍務局長は「そうじゃないぞ。戦はしない方がいいのだ。俺は今度の戦争は、国体変革までくることを覚悟している」と言った。
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