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OCR化した6冊

『メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実』

 現代社会におけるジャーナリズム、ジャーナリズム論

 「ジャーナリズム」の構築・構成過程の変容

 マス・コミュニケーション過程をめぐる現実の構築・構成

  「問題ある社会過程」としてのマス・コミュニケーション

  マス・コミュニケーションではない社会過程への期待‥情報(化)社会論

  マス・コミュニケーションではないコミュニケーションの「問題」

 能動性を持った「大衆(マス)」とマス・メディア、ジャーナリズム

 「支配的な大衆」は依然として存在しているのか?

 現代のインターネット社会においてジャーナリズム論は成立するのか?

  ジャーナリズム論の社会的〝機能〟

  ジャーナリズム論の「吸引力」一なぜジャーナリズムは批判されるのか?

  コミュニケーションとしてのジャーナリズム論

  「ジャーナリズムを論じること」の困難

『米国と日本の天皇制1943-1946』

 トルーマンの日本打倒計画

  ローズベルトの無条件降伏

   カサブランカでの宣明

   無条件降伏原則宣明の背景

   無条件降伏原則への批判と修正の動き

『「中東」の世界史』

 はじめに--一九七九年という転換点

 アラブ・イスラエル紛争以後のアラブ世界

 イラン革命からイラン・イラク戦争ヘ--中東紛争の二っ目の中心

 ホメイニーの思想--法学者による統治

 シーア派とスンナ派

 イラン革命は何を変えたのか?

 イスラームは一つではない

 イスラーム過激派の源流--クトゥブ主義の登場

 「原理主義」と宗教復興

 アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード

 米ソ冷戦後の新たな危機

『文字と組織の世界史』

 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

  ヨーロッパ統一の夢

  「ラテン文字世界の統合」としてのEC、EU

  ナショナリズムを克服する世界史的な試み

  国際法上の「正式」な戦争はなぜ減ったか

  イスラム世界における民族主義を超える試み

  パン・イスラム主義と「イスラム国」運動

  よみがえる「巨龍」中国と「巨象」インド、そして日本--近未来の「世界史」

  「アジア・アフリカの世紀」の到来

  民族主義としてのナショナリズムの時代

  「第三世界」の状況

  文化世界の周辺から始まる「改革」

  政治的統合のコストが小さかった日本

  日本の経済的台頭と「アジアの四小龍」

  臥龍転じて昇龍となる--中国

  「東アジア共同体」は実現するか

  巨象も再び歩み始める--インド

  インドが実現した国民国家としての安定性

  近未来の三文化世界・四大主柱

  自然環境と政治体の特性

  西の「動物的世界」、東の「植物的世界」

『デカルト』

 情念


『試験に出る哲学』

 大衆社会と科学技術を批判せよ! ハィデガーの存在論

 「言語ゲーム」って何だ? ウィトゲンシュタインの軌跡

 理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観
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理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観

『試験に出る哲学』より

次に引用する問題は、ゲオルク・ヘーゲル(一七七〇~二八三こが唱えた重要な概念である「人倫」について問うものです。この概念は、法や道徳を論じた『法の哲学』という著作のなかに登場しました。本節ではこの問題を導きに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法をふまえて、人倫について見ていきましょう。

 問 人倫という概念で道徳を捉え直した思想家にヘーゲルがいる。ヘーゲルの人倫についての説明として最も適当なものを、次の0~④のうちから一つ選べ。

  ①欲望の体系である市民社会のもとでは、自立した個人が自己の利益を自由に追求する経済活動が営まれるなかで、内面的な道徳も育まれるために、人倫の完成がもたらされる。

  ②人間にとって客観的で外面的な規範である法と、主観的で内面的な規範である道徳は、対立する段階を経て、最終的には、法と道徳を共に活かす人倫のうちに総合される。

  ③国家によって定められる法は、人間の内面的な道徳と対立し、自立した個人の自由を妨げるものなので、国家のもとで人々が法の秩序に従うときには、人倫の喪失態が生じる。

  ④夫婦や親子など、自然な愛情によって結び付いた関係である家族のもとでは、国家や法の秩序のもとで失われた個人の自由と道徳が回復され、人倫の完成がもたらさる。

  (二〇一八年・センター本試験 第4問・問1)

ヘーゲルが描いた精神の成長物語

 ヘーゲルの哲学では、「精神(ガイスト)」という概念が特別に重要な意味をもっています。というのも、精神は、単に事物を認識するだけではなく、自分自身を反省する能力もともなうからです。たとえば食事をしているとき、私たちは夢中になって食べることもあるけれど、「食事をしている自分」を考えることもできる。「いまの食べ方、ちょっと下品だったかな」と、反省することもあるでしょう。つまり、対象に没入するだけでなく、行為そのものを振り返るような反省的な意識をもつことができるのです。

 ヘーゲルの主著『精神現象学』は、このような反省的な思考を糧として、精神が、意識→自己意識→理性へと成長していくプロセスを描いていくものです。その点では、『精神現象学』は、精神を主人公とする成長小説のように読むことができる作品です。

 ヘーゲルの描く精神の成長プロセスは、カントの哲学と比較するとよくわかるでしょう。カントの場合、人間が自然の法則を理解できるのは、人間の側にあらかじめ、自然を法則的に理解する認識の枠組みが備わっているからでした。いわば人間はみな、自然科学のサングラスをつけている。逆にいえば、このサングラスは外すことはできないので、自然そのものの姿を認識することはできません。

 それに対してヘーゲルが描く精神の成長とは、サングラスの能力が拡大していくことを意味します。たとえば、素人が見るリンゴと、農家が見るリンゴでは、明らかに農家のはうが一つのリンゴから多くのことを知ることができるでしょう。ということは、精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。

 しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。

世界史とは自由が拡大していくプロセスである

 ヘーゲル哲学の特徴は、こうした精神の成長を、歴史の発展として描き出す点にもあります。

 ヘーゲルによれば、精神の本質は自由であり、「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳、岩波文庫、三七三頁)。たとえば古代の東洋では、専制君主ひとりだけが自由だったのに対して、古代ギリシャでは少数の市民が自由を享受するようになりました。さらに近代社会になると、身分制は崩壊し、万人に自由が保障されるようになります。

 こうした自由が拡大していく歴史を、ヘーゲルは「世界精神」という概念で語っていきます。世界精神とは、歴史を通じて現れる精神のことです。このように言うと、なにやらオカルトめいた話に聞こえるかもしれませんが、私たちも、ヘーゲルと同じような意味で精神という言葉をよく使っています。たとえば、「トヨタの精神」「二〇世紀の精神」「古代ギリシャの精神」というふうに、精神は集団や時代に宿るものでもあるのです。それを歴史全体に拡大したものが世界精神にほかなりません。

 一八○六年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙で綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。

人倫とは「理想の共同体」

 弁証法の具体例として、ヘーゲルの「人倫」(倫理)に関する議論を見てみましょう。

 ヘーゲルにとって、世界史とは世界精神が自由を実現していくプロセスのことでした。したがってヘーゲルは、社会のなかに自由を根づかせる制度や組織がなければならないと考えます。この点は、もっぱら自由を個人の内面の問題と捉えるカントとは対照的です。

 実際、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(『法の哲学I』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、六五頁)と述べています。つまり、ヘーゲルにとっての法とは、自由を求める人間の精神が生み出した制度にほかなりません。そして『法の哲学』では、法もまた弁証法的に展開していきます。

 法はまず、外面的な法という形式で現れます。客観的な法は、人間の自由な行動を保障しますが、法があるからといって、人間の自由が社会的な善と結びつくわけではありません。

 そこで、精神は外面的な法を否定して、内面的な道徳律に目を向けます。その典型は、前節で解説したカントの定言命法です。わかりやすくいえば、社会的な問題は視野の外におき、もっぱら自分が道徳的に生きればよい、と考えるわけです。

 客観的な法と、それを否定する主観的な道徳--。この両者が弁証法的に統合されたあり方を、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。人倫とは、個人の内面である道徳と、社会全体の秩序をつくる法が矛盾なく共存する共同体であり、いわば、さまざまな人間が相互に自由を承認し合うような場のことです。

家族・市民社会・国家

 では、人倫とは具体的にどのような場でしょうか。

 ヘーゲルによれば、人倫は、「家族」→「市民社会」→「国家」と、弁証法的に展開するといいます。

 「家族」とは、愛という自然な感情で結ばれた共同体です。ヘーゲルは、「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識である」といいます。この一体的な共同体のなかで、その成員は互いの人格を重んじ合う。家族という共同体では、外面的なルールと内面的な道徳感情は明確に分かれることなく一体化しています。

 しかし家族は、前近代的な人倫の姿であり、近代社会に入ると、家族という共同体の原理は否定され、「市民社会」へと移行していきます。というのも、家族の原理のままでは、個人が独立して自らの自由を追求することができないからです。

 市民社会の原理は「欲求の体系」です。市民社会では、個々の人間は、自分の欲求を満たすことを目的に活動します。しかし、自給自足の生活には戻れないため、個々人は他者に依存しなければ、自己の欲求を満たすことはできません。

 たとえば、野菜が食べたければ、野菜を育てる農家、野菜を売る八百屋さんやスーパーで働く人々に助けを借りなければなりません。このような経済的な関係が成立するためには、法の整備も必要となります。したがって市民社会では、経済活動を通じて、所有権の保護といったルールが整備され、人々が相互に結びついていくのです。

 しかし、個人の自由な競争を旨とする市民社会のなかでは、必然的に貧富の差が生じてしまいます。ヘーゲルの言葉を見てみましょう。

  市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。(『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、九五頁)

 市民社会では、家族のなかにあった人格的な結びつきは失われてしまう。人格的な結びつきを失って、倫理的に頽廃を示す市民社会のことを、ヘーゲルは「人倫の喪失態」と呼んでいます。

 貧困をはじめさまざまな社会問題を抱える市民社会では、福祉行政や職業団体などが、個人の利益を管理して、貧しい人々に対して経済的救済に乗り出す必要が生まれます。その役割を担うのは「国家」でしょう。つまり、「欲求の体系」を原理とする市民社会は、自らのうちに、国家へと展開する契機を孕んでいるのです。

 ただし、ヘーゲルが理想とする理性国家は、ルールにもとづき、福祉をおこなうだけでは不十分です。理性国家のもとでは、国民は、法によって家族のごとく結ばれていなければなりません。すなわち、市民社会的な個人の自立性と、家族がもつ一体性とが止揚された場が理性国家であり、こうした国家のあり方をヘーゲルは「人倫の最高形態」と呼んでいます。ヘーゲルによれば、こうした国家という段階ではじめて、真の自由が実現することになります。

 なお、ここでイメージされている国家とは、啓蒙的改革が進む当時のプロイセンのことです。若き日のヘーゲルが世界精神を看取したナポレオンは程なく失脚し、一九世紀前半は保守反動的なウィーン体制がヨーロッパを支配します。当時のドイツでは、ウィーン体制に対して、自由主義的な改革とドイツ統一を求める運動が繰り広げられました。こういった状況のなかで、ヘーゲルは自らの理念をプロイセン王国に託したのです。

解答と解説

 ここまで解説したように、「人倫」とは、外面的な法と内面的な道徳とが止揚されたものです。このことを理解していれば、正解は②とわかるでしょう。①は「欲望の体系である市民社会のもと」で「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤り。③は、「国家のもとで……人倫の喪失態が生じる」が誤り。人倫の喪失態が生じるのは市民社会です。④は、家族のもとで「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤りです。
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デカルトの「情念」

『デカルト』より⇒サラリーマン時代で一番、精神が不安定なときにデカルトの『情念論』で救われた

感覚が明証的であるのは見かけ上のことだから、懐疑によってこれを棄却しようとするのはよいとしても、常識的に考えれば、日々の生活のなかで明証的と思われるものは揺るぎようがない。実際に、私が炉端近くのここにいて、手元にはこの紙を持ち、この手は自分のものだということを否定するのは、狂気の沙汰にちがいない。私は自分の身体を介して、自分の日常生活を構成する馴染みの事物と接点を持つ。と同時に、〔それらとの関わりで言えば〕唯一の行為者である。このように、毎日を生きていくうえで〔明証的と思われるものをいったん懐疑によって棄却する〕省察的熟考という修練が課されることはまったくない。しかしデカルトは、軍役から退きたいと打ち明ける友人に、平時だって有事と同じく危険は多いのだから、軍役から退くようなことはするな、と助言している--「私たちは数多くの避けがたき危険のなかで生きているのですから、賢明さをもってしても戦争という危険に身を晒すことを禁ずることはできないように思われます」。〔「有事には有事のように(非常事だからやむをえない)」というフランスの諺にあるように〕平時でも有事のようにしなければならないというわけである。というのも、さまざまな事物をそれらの緊急性の度合いに応じて、また、精神と身体の結合体である私たちにとってどの程度、有害かに応じて評定することは、つねひごろの心がまえとして大事だから。

そして感情と情念の役割は、「自然によって私たちに有用と定められているものを、魂が意志する」ように仕向けることである。そのかぎりで、それらが魂の〔受動的な在り方に他ならない〕感情にして情念であるというのは間接的なことでしかない。つまり、〔物体的事物だけから構成される〕自然のうちには、〔人間の〕身体〔という物体〕の求めに応えるべく精神〔のさまざまな能力〕を働かせる策略のようなものがある、ということである。〔デカルトが『情念論』のなかでそう指摘するように]もし驚きの情念が最初に[私たちの精神のうちに]沸き起こるなら、それは、魂と身体の合一体である私たちにとって〔驚きの対象となった〕事物の有用さないし有害さが測られる前に、まずこの情念によって私たちが当の事物のありのままの姿に直面させられるからである。そしてこの驚きの情念から、私たちに害悪を及ぼすものに対する憎しみの情念と、私たちに適合するものに対する愛の情念が生ずる。さらにここでは、健康に良いか悪いかを考慮するだけでなく--ただしこの基準は驚きの情念以外のすべての情念の発生理由でもあるー、時間の流れとともに変化する情念のことも挙げなければならない。つまり、将来に関する欲望という情念と、その反対に現在のことに関する喜びと悲しみという情念である。情念は、そのおかげで暮らしが生き生きしたものになるかぎりで、〔やはり精神内に生ずるが、それとは別に類型化される〕認識作用に関連づけられない時、すべて良いものとされるが、いずれも行き過ぎは免れない。つまり、その対象の〔本来の〕価値を過大に評価することで歪めてしまう力を持っているのである。そのため私たちは〔歪められた価値判断に基づいて〕、その情念が対象とする事物を「適度を超えた熱心さと心配とをもって」追い求めたり、逆に遠ざけたりしてしまうのだ。

デカルトによる「完全な道徳」とは、どのような情念であれそれを感ずることから喜びを一貫して引き出すにはどうすればよいか、自然学上の諸原理から日常生活に関わる諸規則を導き出すにはどうすればよいか、それに答えようとするものである。実際に、魂と身体からなる合一体の仕組みを明らかにするのは自然学に他ならない。自然学こそが、身体のさまざまな運動がどのように脳のなかの最小部位の一つである松果腺に受け止められ、ついで魂に伝えられ、今度はこの魂が松果腺を介して身体に運動を与えるのか、それを教えてくれる。と同時に、生理上のさまざまな機能は、血液が静脈と動脈を循環することをもって説明される。脳とそれ以外の器官、筋肉と神経に血液が行き渡るのは、血液がまさしく循環しているからである。動物精気というのは、すでにベーコンが使っている術語であり、「[身体の]熱によって〔その密度が〕希薄になった、血液のなかで最も活発で微細な部斑」のことであるか、そのおかげで精神と身体のあいだの相互作用は保たれる。したがって、動物精気の状態に変化が生ずれば、魂にも影響が及ぶ。動物精気が溢れんばかりであれば、高邁という情念が生ずるし、それに抑制がかかれば、欲望という情念が生ずるのである。もし情念が、身体に生じたさまざまな変調を原因として身体のほうではなく魂のほうに生ずる反動のことなら、魂もまた、「身体のあらゆる部位と結合している」かぎりで、その作用を身体のほうに及ぼす。その際に中継地の役割を果たすのが松果腺である。この松果腺の機能を強調するにせよ、〔たとえばスピノザ『エチカ』第五部におけるょうに〕皮肉るにせよ、これまでそうされるばかりで、デカルトが脳を重視していたことそれ自体の重要性は見過ごされてきた。脳は、〔身体器官に生ずる〕感覚を〔精神の受け止める〕情報に転換し、〔精神の領分である〕意志作用を〔身体上の〕さまざまな運動に変化することができる。つまりこの脳においてこそ、身体〔物体〕的なものと精神的なものの相互作用が成立するのだ。

私たちは、この身体的なものと心理的なもののあいだの往復運動の仕組みを認識することで、これを意志的にではなく間接的に変更することができるようになる。つまり、或る情念を[引き起こすメカニズムを]使って別の情念を引き起こすのである。魂と身体の合一体の仕組みを言わば挺子にこの仕組みそのものを変えること、この仕組みに従いながらこれに逆らうこと、これがここでの課題である。もし「おのおのの意志作用が自然によって〔松果〕腺の或る運動に結合されている」なら、「工夫や習性によって腺の別の運動に結合されうる」。〔人間の意志だけで情念は変えうるという〕主意主義的な考えは、幻想であると同時に無益である。情念は、〔これを統御するために〕ああだこうだと議論するよりは、訓練によって条件づけられるべきものである。情念に動かされる人間は、〔心身二元論の棒組みで言えば純粋な〕精神というよりは、むしろ自動機械のようなものであると言えるだけに、習慣づけは意志の働きかけよりも効果的なのである。そしてこのことをもってすれば、一目惚れの不思議まで説明できるようになる。デカルトは小さい時に斜視の少女に恋心を抱き、その後もこのような女性に強い魅力を感じた。

彼はこのことを、〔精神と身体のあいだに〕生じた最初の条件づけ〔心理学において、特定の条件反射や条件反応を起こすように人間や動物を訓練すること〕はどのようなものか、という観点から説明する。というのも「私たちがひとたび或る身体の行動を或る思考と結びつけると、その後、両者のうち一方が私たちに現れれば、もう一方も必ず現れる」から。こうして感情を制御することは、〔一六四九年刊行の〕『情念論』のなかで説明されているように、過去の条件づけの解除と新たな条件づけによってなされる。しかしこの著作は、デカルト哲学が進展していったその先に産み落とされるものの一つでしかない。デカルト哲学はそれ以外にも〔一六三七年刊行の『方法序説』の補論である]『屈折光学』であるとか『幾何学』のほうにも進展していくからだ。つまり、デカルト哲学の究極の真理はこの『情念論』のうちに見出される、などというわけではないのである。むしろ、その本質的なところはすでに〔『方法序説』や『省察』などにおいて]定式化され公表されており、その後の作業として残っているのは、この定義済みの諸原理から演繹されるところを実現していくことだけである。それでも『情念論』という著作には、それ以前の道徳論が重視してきたことから軸足をずらすという特徴が認められる。

たとえば、さまざまな情念に対する魂の戦いといった主題は、実際のところもはや問題にはなっていない。そうではなく、〔プラトンにおけるように理性的、気概的、欲望的の三部分に区別されず、単一のものとして捉えられた〕魂が自分自身と交える戦いが問題となっている。情念の激しさに直面した魂は、身体が欲しがっているものを我慢しようと自分に言い聞かせながらも、それに突き動かされて身体の言いなりになってしまう。そうすると魂に実際にできることは、嵐〔のょうに渦巻く情念〕が過ぎ去るのを待つヽ血液の流れによって掻き立てられた情動が鎮まるのを待つ、そして、情念の激しさはその対象ではなく想像力に起因するものであることを思い出す、以上の三点に尽きることになる。情念が想像力によって掻き立てられ、そして引っ張られるかぎり、当の情念が盲目的なものになるのは避け難い。というのも、この想像力は「精神を欺こうとする傾向があり、情念の対象を表象のとおりだと信じさせる理由を実際よりもはるかに強く見せ、信じさせない理由をはるかに弱く見せる傾向がある」から。もし知性が現実世界の本当の姿を表象するものなら、想像力は、そうあって欲しいという現実に関する表象になるだろう。魂をして自分のことを騙し、そして喚かせるのは、この想像力なのである。〔プルーストの大著『失われた時を求めて』のなかで高級娼婦オデットに恋をし、紆余曲折の果てに彼女と結婚することになったュダヤ人の仲買人スワンか〕「僕の生涯の何年かを無駄にしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、僕を楽しませもしなければ、僕の趣味にも合わなかった女のために!」と述べていたように。

しかし或る決まった考え方が、省察的熟考というタイプの修練のおかげで別様に考える習慣に置き換えられたのと同じく、理性は実生活において、想像力が生み出すまやかしを挫き、想像力の向かう対象をきちんと評定することができるだろう。まさしくこの「魂の習慣」こそが、たとえ〔その実現のためには〕身体の仕組みと折り合いをつける必要があるとしても、徳と呼ばれるのである。デカルトは述べる、「予め自分の行動について反省する習わしのある人なら、いついかなる場合にも次のことはなしうると思われる」。たとえば、「恐れに囚われた場合には、逃走するよりも抵抗するほうにはるかに大きな安全と名誉とか存することの理由をいろいろ考えて、危険について考えることから努めて頭をそらそうとすることである」。もし或る情念の統御のために、その都度の条件反射よりも「善悪の認識に関する堅い、しっかりした判断」をもってそうするほうが魂の力を証左するとしても、やはり「それらの[情念に]対して備えができていない場合には、いかなる人間的知恵も、それらの運動に抵抗しうるようなものはない」。「こうして生まれつき」怒りに「強く動かされやすい人々は」「熱病の時のように全血液が激高する」のを抑えることができない。発熱しないように熱に強いても無駄だ、ということである。また、ストア派が描くアタラクシア〔激しい感情の動きに左右されない平静不動の精神の在り方〕という状態は絵空事であり、彼らが言う道徳は〔身体を除外した〕純粋な精神に関するものでしかない。ということは、魂と身体の合一という現実に目をつむり、自分のことを考える事物〔っまり精神〕としてしか認識しないかぎりで、或る種の「デカルト哲学」つまり「カルテジアニズム」だとも言える。〔ところで〕もし理性に情念を支配するための力が備わっていると言うなら、それは、この力がそれ自体、受動的なもの、つまり、理性が自分のことについて感ずる情念〔つまり自己感情〕として見なされるかぎりにおいてである。

こうして情念を「御する」時、それは「過度に傾けばそれだけいっそう有益なものになることが往々にしてある」。徳は、情念とその土俵のうえで向き合い、それと同程度の武器で戦う。デカルトは、エピクロス派がストア派のどちらがなのではない。知恵と自由をもって生きるとは、情念のなかでも最強の、つまり徳という情念に従うことである、と主張するかぎりで、デカルトはエピクロス的であると同時にストア的でもあるのだ。
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未唯空間目次概要見直し 第4章 歴史

4.1 組織の形態
 1. 全体主義の支配
 2. 共産主義の平等
 3. 民主主義の自由
 4. 組織の論理

4.2 国民国家
 1. 地域支配
 2. 内なる自由
 3. 国家と国民
 4. 国民の状態

4.3 国家の限界
 1. 国家意識
 2. グローバル化
 3. 多様化
 4. 歴史は動く

4.4 歴史の解釈
 1. 歴史の目的
 2. 時空間
 3. 支配関係
 4. 数学的解釈

4.5 歴史哲学
 1. 自由を求める
 2. 平等を求める
 3. 地域を主体に
 4. 企業の位置づけ

4.6 歴史の流れ
 1. 137億年の時間
 2. 組織の時代
 3. 多様性を活かす
 4. 個の力を認識

4.7 個が主体
 1. 地域を変える
 2. 組織が変わる
 3. 国家の方向
 4. 超国家の構築

4.8 階層関係
 1. 市民と国家
 2. 地域と超国家
 3. 地域と国家
 4. 市民と超国家
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よみがえる「巨象」インド--近未来の「世界史」

『文字と組織の世界史』より 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

巨象も再び歩み始める--インド

 非西欧・非キリスト教の諸文化世界のうち、次に「梵字世界」について考察してみたい。

 その淵源にして中核をなす南アジア・ヒンドゥー圏としてのインドは一六世紀中葉以降、ムスリムのムガル帝国の支配下に包摂されていき、一九世紀中葉以降は英領インド帝国として英国による植民地支配の下におかれることとなった。

 インドの影響の下に梵字世界に組み入れられ東南アジア仏教圏となったインドシナ半島のうち、漢字世界に属することとなったベトナムを除く諸地域もまた、タイを除いて英仏の植民地となった。

 英仏の緩衝地帯として辛うじて独立を保ったタイでは、一九世紀初頭にチャクリー朝が成立し、その第四代ラーマ四世モンクット王の時代に「西洋化」改革をめざす動きが始まった。そして一八六八年、日本の明治天皇に一年遅れて即位した第五代ラーマ五世チュラーロンコーン大王の下で、近代西欧モデルの受容による体系的な「西洋化」改革が開始された。

 このチャクリー改革の基本は、国エヘの権力の集中をはかり、それを支える新モデルの支配組織とその担い手を養成するところにあった。つまり「上からの改革」であり、それはタイの「絶対王政」を生み出した。

 しかし、その下では近代西欧モデルによる教育システムの受容が進められ、近代西欧知識をもつ新しい新中間層も育ち始めた。一九三二年には立憲革命がおこり、曲がりなりにも憲法制定や議会開設が行われ、権力に対するフィード・バックのシステムが根づき始めた。とはいえ、第二次世界大戦後においても、権力は選挙に基づく政権交替よりも、クーデターによる軍政が担うことが常態化していた。社会経済的発展も、なお歩みは遅かった。

 しかし二〇世紀末に入るとタイ経済の発展は加速化し、二I世紀には漢字世界に起源をもつアジアの「四小龍」につづく、新興工業国と化しつつある。

 これに対し、梵字世界の淵源にして中核をなしてきたインドは、一九四七年に英国の植民地支配から解放された。結局、ムスリムの東西両パキスタンと、ヒンドゥー教徒中心のインド共和国として分割され独立したことは先に触れたが、インド共和国内にはとりわけ北部を中心に一億をこえるムスリム人口をかかえており、その数はアラビア文字圏としてのイスラム圏において歴史的に中核をなしてきた中東の三大国、エジプトとイランとトルコのいずれの国の人口よりも大きい。

インドが実現した国民国家としての安定性

 しかし、一三億人をこえ、二一世紀初頭に中国を抜いて人口世界一になると予測される、インドの人口全体に占めるムスリムの比率は、一〇パーセントをこえない。この巨大なインド共和国には、北部から中部は印欧語族、南部には膠着語系のドラヴィダ語族という全く言語系統を異にする二大集団が存在し、この二つの語族のなかに、さらに多数の言語集団が含まれている。

 しかし印欧系・ドラヴィダ系とも、その圧倒的多数はヒンドウー教徒であり、文字として梵字系諸文字を用い、多くのサンスクリット系語彙を共有する。またヒンドゥーの戒律たるダルマを共有し、ジャーティすなわちカーストの強い規制の下にあった。

 このような事情の下で、ラテン文字圏をなすヨーロッパ大陸の西半にほぼ等しい広大な国土を有し、多様な地域と、そして言語も民族も異にする様々の人間集団を包摂しているインドは、ヒンドゥーという宗教を軸に統合を実現しているのである。ただそれだけに、世俗的な国民主義としてのナショナリズムがゆらぐとき、ヒンドゥーという宗教に基づくナショナリズムが台頭する恐れが秘められている。

 中華人民共和国では国共内戦で勝利をえた共産党による一党独裁の下で成立し独裁政治が続いているのに対し、インドの場合は英領下の自治そして独立を求める運動の末に独立している。憲法は政治権力をある程度制御する機能をはたし、選挙による政権交替が一応定着し、一度も本格的な独裁やクーデターを経験することなく、「下からの参加」に基づく政策決定に対するフィード・バック・システムが二定程度、機能しているといえる。

 そして、政権運営にあたる支配組織を担う支配エリートとしても、英領時代に中間管理者たるべく養成された、近代西欧的な知識と組織技術を修得したインディアン・シヴィル・サーヴィス、すなわち「インド公務員」が確たる社会層として成立し、これが支配組織上層部の運営にあたってきた。

 このように、政治的・行政的インフラにおいては植民地時代の遺産も受け継ぎながら、第二次世界大戦後植民地から新たに独立した諸国のなかでも、インドは顕著な安定性を実現しているかにみえる。ただ経済についてみると、独立後も長らく顕著な発展は始動していなかった。しかし、二I世紀に入り、インド経済はめざましい発展をとげ始めた。膨大な人口と広大な国土からして、二一世紀中葉には、インド経済は中国に続いて、世界経済の第四の核となるであろう。

 インドもまた中国同様に、国民国家の衣をまとった「世界」なのである。
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未唯空間目次概要見直し 第5章 仕事

5.1 会社というもの
 1. 私のためにある
 2. 会社で得たこと
 3. 夢で仕事をした
 4. 数学は使える

5.2 技術者思考
 1. 個人が主役
 2. 部品表をこなす
 3. ヘッドロジック
 4. 作るから使う

5.3 サファイア
 1. 持続可能性
 2. ローカルで行動
 3. グローバル思考
 4. 循環エネルギー

5.4 中間の存在
 1. 組織の構造
 2. 販売店の場合
 3. 高度サービス
 4. ソーシャルツール

5.5 情報共有確認
 1. ネットワーク構築
 2. メッセージ処理
 3. コラボで意思決定
 4.コンテンツ流通

5.6 パートナー
 1. 寄り添う仏陀
 2. 壁を越える
 3. 思いを集める
 4. 思いをカタチに

5.7 地域への思い
 1. 地域に配置
 2. 市民への働き掛け
 3. 地域をまとめる
 4. 地域の統合

5.8 企業存続条件
 1. 組織の分化
 2. 配置ロジック
 3. クルマ 社会提案
 4. 社会変革
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イスラム世界における民族主義を超える試み

『文字と組織の世界史』より 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

イスラム世界における民族主義を超える試み

 西欧圏における、領域的主権国家と民族主義としてのナショナリズムを克服する試みとしてのEUの形成も、そして国際連合の存在も、基本的には西欧圏の枠組みのなかから生じた試みである。国家と階級の棄揚によって新たな世界秩序をめざした共産主義のインターナショナリズムが崩壊した後、新しい世界秩序を求める道はこれしかないかにみえる。

 しかし一方で、民族主義をこえて新たな世界秩序をめざす試みが、非西欧の文化世界に立脚した価値体系からも生み出されようとしている。

 普遍的なイスラム主義の源泉であるイスラムにおいては、人間は信心者としてのムスリムと、不信心者としての異教徒しかない。またその世界も、ムスリムの支配下にあって神の教えの十全に行われる「イスラムの家」と、まだムスリムの支配下に入らず多くの不信心者による共同体が相争っている「戦争の家」からなる。

 「イスラムの家」は本来、預言者ムハンマド在世中は預言者ム(ンマドの下にあり、その没後は全世界の信徒による共同体「ウンマ」の唯一のリーダーにして、「イスラムの家」における唯一の支配者たるべきカリフの下にある、単一の政治体であるべきものとされる。

 歴史的現実において、「イスラムの家」の統一は早くも八世紀中葉には崩れ始め、以来、「イスラムの家」の再統一が果たされることは遂になかった。が、ムスリムは同信者として民族・言語・人種等々の相違を超えて同胞であるべきだという、「『イスラムの家』は一つ」の理念は残った。それが、「西洋の衝撃」にさらされ始めた近代において、これに対抗すべきパン・イスラム主義の運動を導き出したのである。

パン・イスラム主義と「イスラム国」運動

 このパン・イスラム主義は、無神論者であるソ連軍のアフガニスタン侵攻に対抗するための有志者たちを国籍・地域を問わず各地から参集させ、抵抗運動に加わらせる原動力となった。そしてソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も、その抵抗運動で出会い結ばれた同志たちのネットワークは残った。

 それを活用してグローバルに反米テロを敢行したのが、ビン・ラディンの指導するアル・カーイダであった。そして、アル・カーイダの影響下で各地にイスラム主義の戦闘者集団が生まれた。

 その一つこそが、イラク戦争で液状化したイラクに生まれ、「アラブの春」後に内戦状態となったシリアヘと進出し、二〇一五年六月、イスラム暦第九月の断食月ラマダーン月の到来を期して、カリフを名のり国家樹立を宣言した、イブラヒム・アル・バクダーディーの「イスラム国(ダウラトゥル・イスラーミーヤ)」であった。

 カリフとしては四大正統カリフ初代の名にちなみアブー・バクルを称したバクダーディーは、イラクに進出して北部をおさえ、一時はシリアとイラクにまたがる広大な支配領域を実現した。バクダーディーが唱えたのは、第一次世界大戦中にオスマン帝国の解体をめざして異教徒の欧州列強が定めたサイクス・ピコ協定に基づき、中東に引かれた国境の無効化と、カリフ時代の再興であった。

 その後は米国と、シリアに軍事基地を有し同国における利権喪失をおそれるロシアに加え、スンナ派過激主義の拡大をおそれるシーア派のイランの参与の下、「イスラム国」は次第に支配領域を失い、二〇一八年初めにはイラクとシリアにおける支配空間は殆ど失われたとされる。

 しかし、この「イスラム国」運動は地域と国境をこえイエメン、リビア、そしてエジプト領のシナイ半島にも支持者をえて拠点を築いている。彼らはインターネットを通じて全世界のムスリムに呼びかけ、欧米諸国にあって格差と差別に不満を抱くムスリムたちに呼応者を見いだし、テロが頻発している。

 甚だ過激な形をとっているが、「イスラム国」運動もまた、異文化に起源をもつ普遍主義に基づく、領域的主権国家と民族主義の克服をめざす運動とはいえよう。
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未唯空間目次概要見直し 第6章 知の世界

6.1 本と図書館
 1. 私のための本
 2. 本が読める
 3. 図書館がある
 4. 図書館を知る

6.2 本で進化
 1 .本を読む
 2. 好き嫌いで判断
 3. コンテンツに特化
 4. 公共という使命

6.3 内なる世界
 1. 本から始まる
 2. 未唯空間
 3. 他者は分からない
 4. 社会への見解

6.4 図書館って何
 1. マイライブラリ
 2. 図書館の可能性
 3. 図書館の形態
 4. 図書館を守る

6.5 地域と図書館
 1. 配置されている
 2. 地域を拡げる
 3. 情報センター
 4. 地域をまとめる

6.6 知の入口
 1. 知りたい
 2. 好き嫌いを理解
 3. 知の武装化
 4. 教育を見直す

6.7 知の共有
 1. ザナドゥ空間
 2. 本棚システム
 3. 本をバラす
 4. ライフログ

6.8 知の未来
 1. 今を知る
 2. 全てを知る
 3. 先を知る
 4. 未来のカタチ
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「中東」の世界史 米ソ冷戦後の新たな危機

『「中東」の世界史』より アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード

イラクによるクウェート侵攻は、米ソ冷戦終焉後の世界の最初の危機であった。一九九〇年八月に、米ソ冷戦の終焉を見極めるかのようにイラクがクウェートに侵攻し、それに対してブッシュ・シニア大統領(在任一九八九年一月-一九九三年一月)は多国籍軍を結成して、一九九一年一月に軍隊をクウェートに派遣した。いわゆる湾岸戦争の勃発である。

教科書的な説明では、イラクがクウェートに侵攻したのは、イラクが経済的に破綻したため新たな石油資源の獲得が目的だったとされている。実際にそのような側面もあるかと思われるか、政治的観点から見ると、サッダーム・フセインーイラク大統領は米ソ冷戦終焉後に形成されつつあった新しい国際秩序を読み間違ったということだ。ソ連とアメリカという二大超大国による冷戦時代が終わり、アメリカが唯一の超大国として世界を一極支配し、「世界の警察はアメリカだ」という新たな政治状況が生まれつつあったことをイラクは読み間違えたのである。

冷戦後の新しい世界にあっては地域自体が新しい秩序を作っていくのだから、イラクがクウェートに侵攻したところで何の国際的非難も受けないだろう、と読んでいたのである。しかし、イラクの予想に反してアメリカのブッシュ・シニアが「新たな国際秩序に対する挑戦」と非難し、戦争が引き起こされるという事態にまで発展してしまったのである。

ュージン・ローガンは、イラクがクウェートを侵略したことで、アラブ世界が分裂したと指摘する。すなわち、「一アラブ国家がほかのアラブ国家の侵略を受けたことで、全アラブ世界が分裂し、外国の介入に反対する国もあれば、クウェートをイラク支配から解放するアメリカ主導の多国籍軍に参加する国もあった」。

クウェート侵攻はまた、市民と政府の分裂も招いた。サッダーム・フセインは、イラクのクウェート侵攻を非難するのであれば、パレスチナを支配するイスラエルに対しても非難すべきであると言い、イラクはパレスチナをイスラエルから解放すると約束をした。そのため、アラブ諸国でイラクを批判する政府があった一方で、サッダームはアラブ世界全土で各国の市民に人気ある英雄に祭り上げられたのである。

サッダーム・フセインはイラクによるクウェート占領を、レバノンにおけるシリア軍の進駐にも結びつけた。そのため、地域の政治秩序を回復するためには、イラクをクウェートから追い出すだけでは十分ではなく、アラブ世界はレバノン内戦に取り組まなければならなかった。

湾岸戦争でPLOのアラファート議長はパレスチナ民衆の意向を受けイラクを支持する姿勢を表明したため、湾岸戦争でイラクと戦ったサウジアラビアをぱじめとする湾岸産油国からPLOへの財政的援助か打ち切られ、PLOは戦後、財政的危機に陥った。そのような中で、米ソ冷戦終焉後、シリアが米側について湾岸戦争を戦ったことで敵を失ったイスラエルも新たな道を模索せざるを得ず、ブッシュ・シニア米大統領のイニシアティヴの下に、マドリード中東和平会議が開催され、史上初めてイスラエルとアラブ諸国が交渉のテーブルに着くことになった。結局、この会議に基づく和平交渉はパレスチナ問題の解決の主役であるはずのPLO抜きに行われたため、暗礁に乗り上げることになった。

その一方で、イスラエルの次期首相となるイツハク・ラビンとアラファートはノルウェーの仲介で秘密交渉を行って、その交渉がアメリカのクリントン大統領の仲介の下での一九九三年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治に関する原則合意)の締結につながった。しかし、ハマースはこの合意に反対しており、結果的に、オスロ合意はイスラエルとパレスチナ(PL息との間の平和を見出すことができないまま、二〇〇〇年九月には第二次イソティファーダが勃発し、中東和平プロセスは事実上、破綻した。二〇〇四年末にアラファートが亡くなった後はアラファートを継いだマフムード・アッーバスが二〇〇五年初頭からパレスチナ自治政府大統領に就任した。二〇〇六年から形成されていたファタハとハマースのパレスチナ連立内閣は二〇〇七年六月、崩壊し、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザはハマースが実効支配する事態になり、現在に至るまでパレスチナの分裂状態は続いている。

二一世紀に入ると、さらに追い打ちをかけるように、二〇〇一年の九・一一事件、いわゆる「ニューョーク・ワシントン同時多発テロ」が起こり、二〇世紀と二一世紀を画する、文字通り画期的な出来事となった。というのも、以後、ブッシュ・ジュニア米政権(任期二〇〇一年一月-二〇〇九年一月)が「対テロ戦争」を開始したからである。まず、テロを実行したとされるビン・ラ・ディン率いるアル・カーイダの拠点のあるアフガュスタン空爆に始まり、二〇〇三年三月には大量破壊兵器を保有しているとしてサッダーム・フセイン政権の壊滅を目的とするイラク戦争を引き起こした。しかし、後になって米議会においてイラクは核兵器を保有していないことが判明した。

また、一九九一年の湾岸戦争時のイラクヘの多国籍軍による攻撃は国連決議に基づいて行なわれた。ところが、二〇〇三年のブッシュ・ジュニア大統領は、国連の存在を無視するかたちで軍事行動を起こしたのである。ブッシュ親子による二つの戦争の違いは国連を重視するか否かというところだった。

サッダーム・フセイン大統領が捕捉されて処刑された後、イラクには選挙によってヌーリー・マーリキー内閣が成立したものの、同政権のシーア派優遇政策によってイラクはスンナ派とシーア派の宗派間の対立で引き裂かれることになった。

そのような対立の中で生まれたのか「イスラーム国(IS)」であった。二〇一四年六月二九日、「イラク・シャーム・イスラーム国」のアブー・バクルーアルーバグダーディーは自らを「カリフ」であると宣言し、シリア・イラク両国の制圧地域に「イスラーム国」を樹立すると宣言した。同支配地域ではシャリーアが厳密に施行された。しかし、二〇一七年二一月までに同国も軍事的に制圧され、事実上壊滅した。

一方で、二〇一〇年代初頭のアラブ諸国では、独裁政権が倒される民主化運動が連鎖的に起こり、「アラブの春」と呼ばれた。チュニジアでは、二〇一〇年末から失業や物価高騰などへの不満がデモとなって噴き出したため(ジャスミン革命)、ベン‥アリーは次期大統領選挙への不出馬など表明して事態を収拾しようしたが収まらず、二三年の長期政権の末、サウジアラビアに亡命した。「アラブの春」はチュニジアのジャスミン革命からエジプトにも波及し、最終的にこの両国とリビアおよびイエメンにおいて政権交代が起こった。エジプトではムバーラク大統領が、イエメンではサーレハ大統領が辞任に追い込まれた。エジプトではムスリム同胞団系のムルシー大統領が誕生したものの、スィースィーによる軍事クーデタでムルシー政権は崩壊し、スィースィーが二〇一四年六月、大統領に就任した。イエメンでは、サーレ(大統領は辞任後、アブドラッバ・ハーディーに大統領職を譲ったものの、北部を拠点とするシーア派系の武装組織でイランが支援するフーシー派と連携してハーディーに対抗した。しかし、そのためサウジアラビアがイエメンの内政に介入することになり、イエメンは内戦状態に陥った。また、シリアでは二〇一一年三月よりロシア・イランなどに支持されたアサド大統領とサウジなどに支援を受けている反体制派の間で争いが起き、内戦状態になっている。「アラブの春」が「アラブの冬」になったと鄭楡されたりもしている。

現在の中東の状況は、まさに大混乱である。ある意味では不安定が安定化しているという奇妙な事態だ。紛争か起こることによって、逆に奇妙なかたちで地域の「秩序」が保たれているという非常に逆説的な政治状況が中東で起こっている。イエメンやシリアをめぐる争いはスンナ派対シーア派なのであるが、イラクも同じような状況になり、イエメン・シリア・イラクがイスラームの宗派対立の舞台になってしまった。急速に動き始めているのがサウジアラビアであり、最近(二〇一七年二月)、サウジアラビアの外務大臣が湾岸戦争以降初めてイラクを公式訪問し、イラクの現シーア派政権のアバーディー首相と会談した。つまり、イラクにおけるイランの影響力を排除しようとする方向に動き始めたのだ。今までは、スンナ派対シーア派の問題は、イラクでは純粋に国内問題であったか、今後イランとサウジアラビアの対立がイラクにも持ち込まれたのである。イエメン、シリア、そして今度はイラクにも波及した。ただし、二〇一八年に入って、シリアやイラクの宗派対立に由来する内戦状態は終息しつつあると言える。

これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ米大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、二〇一七年一二月に同大統領が駐イスラエルーアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは二○一八年五月一四日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとっては建国七〇周年という節目の日でもあった。この移転は卜ランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のュダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである。

アメリカはさらに、オバマ大統領時代の二〇一五年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策にょって、中東は新たな段階に入ったとも言える。

歴史的に振り返ると、中東という地域は二九世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。二〇世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして一九七九年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラクがクウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった。二世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。

その地政学的な位置から、中東の混乱は世界の混乱に直結することになるのはその歴史が示している。これから中東はどこに向かうのか。人類の未来をも左右しかねないほどの決定的な問題を孕んでいるのが中東という地域なのである。
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第4章 歴史編の概要

第4章 歴史編

 第4章歴史編は4.1から4.3は国家の歴史。国というものの誤解について語るもの。4.3のグローバル化と多様化で国家は限界を迎えた。4.4から4.6は新しく「個の時代」という歴史の解釈。

 個と言うよりも市民、地域、国家、超国家の関係。情報共有で「個」が前面に立つようになったけど、コメントに見られるように意識が未発達。

 個の自立のために家族制度、教育制度の変革が必要。 内なる世界を作り上げ 多様化を担える。 あわせて女性の自立 その上で市民、地域、国家、超国家の関係の再構成。個の歴史が始まる。それを描くのが4-7と4-8
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