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図書館から本をなくす

『勝てるビジネスのヒント』より

この動きと連動するように、図書館での電子書籍化も進行している。極端な例では○九年、全米の先がけとしてマサチューセッツ州ボストン郊外にあるプレップスクール(私立の進学校)クッシング・アカデミー校が二万冊あった図書館の書籍をすべて撤去し、電子図書館に移行した。

同校は一四五年の歴史がある伝統校で、実際に図書館の本をすべて電子書籍にする動きに対しては、一部から「過激すぎる」との反発もあった。しかし、同校は五〇万ドル(約三八〇〇万円)をかけて図書館にかわる学習センターを設立。持ち運びできる電子書籍リーダーを備えた。

ただ実際の本でこそ味わえる質感や、大判の写真集や地図をめくる楽しさなどは失われる。さらに電子書籍のリーダーは読書以外の機能も搭載されているため、ネットサーフィンや電子メールに時間が割かれ、集中力が落ちるという憂慮もある。

しかし実際に利用している高校生の評判はすこぶる良好だ。新時代の図書館としての期待が大きいばかりでなく、同校の教諭たちからも「失うものより得るものの方が大きい」という反応がでている。

一つには、既存の教科書を使いつつ、多くの資料や書籍にアクセスしながら知識を深め、違う学習方法を容易に試すことができる利点がある。また伝統的な図書館になれた大人たちより一〇代の生徒たちの方が、マルチタスクに優れているため、一冊の本に時間をかけるより、同時にさまざまな文書を閲覧し、違うトピックの本を検索する術をもつ。

英語ではすでに「マルチタスカー」という言葉が一般化している。こうした環境では電子書籍はうってつけである。若ければ若いほど電子書籍への抵抗感は少なく、近い将来、紙の本を手にすることが時代遅れの象徴にさえなる日がくるかもしれない。

しかも、これまでの図書館では「貸出中」の本にはアクセスできなかったが、電子図書館ではそうした心配はいらない。さらに新聞や雑誌にもアクセスできるので学習の幅は広がる。

既存の図書館から電子図書館へ切り替えると、長期的な図書館の維持・管理費、書籍の購入費といった総合的な経費が安価に済む。さらに図書館をなくしたクッシング・アカデミー校の場合では、書籍を撤去した図書館のスペースを違う目的で使用することができた。

ではなぜ日本ではそこまで電子書籍が爆発的に伸びないのか。日本ならではの事情がいくつかある。

まず日本はスマートフォンを含めた携帯端末の充足度が高く、PCと携帯の中間点に位置する電子リーダーを購入する人が少ないという点だ。特にメインターゲットだった一〇代と二〇代の若者たちは、携帯とPCを保持した上でさらに電子リーダーに手を出す動機が乏しい。

電子書籍を提供する側の体制づくりの不備もある。一一年一月に運営サービスが始まったNTTドコモと大日本印刷が共同出資したトウーディファクト社は、同年春までに一〇万冊のラインナップを目標にしていたが、夏になってもまったくその数字に届いていない。

そればかりか、出版大手三一社が市場の九割以上を占めているにもかかわらず、一〇万冊に到達していないのが現状だ。英語圏ではアマゾンだけで一〇〇万冊に到達している。さらに紙のベストセラーの九割以上が電子化されている。

さらに電子書籍への不満として、スクリーン上で余白への書き込みができないことがある。読んだ本をテーマごとに書棚に並べることもできない。価格が下落してきているため今後伸びてこようが、アメリカと同じような「紙の本よりも電子書籍」の流れは確立されていない。

しかしこの流れはもはや「好き・嫌い」という次元を通り越しているかに見える。携帯電話を受け入れるか入れないかという選択の時と同じで、ほとんどのユーザーは将来、この流れの中に身を置くことになる。

あと一〇年もすると、電子書籍を手にしない限り一般の新刊本は読めない時代に突入するかもしれない。ただ同時に、まったく紙の本がなくなるかは定かではない。いまだにアメリカでも電子書籍化への抵抗が残っていることは確かで、すべての書籍、図書館が消えてしまう日はこないだろう。
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認識の七段階

『純粋理性批判2』解説より

第一に、あるものの像が与えられる。これは感性という受動的な働きが、外部の事物によって触発されて、心のうちで外部のものの像が思い浮かべられる(フォアシュテレン)ということである。実例で考えよう。ぼくが庭を眺めているとする。目を開けているかぎり、樹木と草木と空の印象の塊は、ぼくにふりかかりっづける。これはまず「多様なもの」として感受される。もしもぽくがそれまで一度も目を開いたことがなかったとしたら、緑や青の色の塊としてしか感じられないだろう。ケヤキもツバキもミモザも芝も垣根も空も建物も、それと区別して認識されることはないだろう。それはたんなる「多様なもの」なのである。

次の第二段階では、ぽくは樹木をただ眺めるという受動的な働きをするだけでなく、ある能動的な働きによって、これを「知覚する」(ペルキペーレ)。これは注意の働きだと考えることができる。たんなる「多様なもの」が目に浮かぶだけでなく、認識が成立するためには、この多様なものにたいして、主体であるぼくが注意を向けて、「知覚する」必要があるのだ。

次の第三段階は、その知覚した多様なものを区別することであり、カントはこれを「見分けること」(ノスケレ)と呼ぶ。これは、あるものを「一様性と相違性」の基準によって、比較して眺めることだとされている。ぼくはこの像をただ眺めるのではなく、それに注意を向けて意識する。そして多様な像のうちに、さまざまな共通の相違点をみいだす。「幹、枝、葉などからみてたがいに違いがある」ことを確認する。しかしこの違いのうちに、ある共通点があることにも気づく。異なるものが「ひとつの意識のうちに把握される」のは、こうした共通点によってである。これをガントは「反省」の作業と呼ぶ。

カントは、これは動物たちのすべてがやっていることだと語っている。ハ卜たちも、木の枝にとまり、餌を探し、縄張りを争う。動物たちもまたさまざまなものを見分けているわけである。ここではこれらの動物のうちで、すでに知性が原初的な形で働き始めていると考えることができる。

認識の第四段階は、カントは「認識」(コグノスケレ)と呼ぶ。ぼくは知性を働かせて、この反省の作業によって、ある共通点に基づいて、さまざまな違いを抽象する、すなわち切り捨てる。これが抽象作業である。この抽象によってひとつの共通点だけが残される。「こうしてわたしは木の概念を獲得する」のである。「像から概念を作るためには、比較し、反省し、かつ抽象することができなければならない」のである。

カントは、動物は見分けるが、認識しないと語っている。ということは、ここで言語のようなものが介在していることが示唆されている。この言語はすでに原初的な概念として、木というもの、ケヤキというもの、ハ卜というものを区別して認識することを可能にしているのである。ぼくのうちにすでにケヤキという概念が、木という概念が存在しなければ、ぽくはこの多様なものを樹木の集まりとして認識することはできないだろう。

この概念とは、言語のことなのだが、カントは言語そのものについて、概念がどのようにして言語によって生まれてきたかについては考察しない。しかし興味深いのは、カントは人間の認識における言語の働きをきわめて重視しているということである。それはすべての認識が判断によって成立するという次の段階に示される。

認識の第五段階では、「知性によって概念の力を借りて認識する」ことが成立するとされている。これが理解する(インテリゲレ)の段階である。これはたんに言語による概念を使っているだけではなく、知性の純粋な概念であるカテゴリーが働いていることを示すものである。これは「判断」の段階といっていいだろう。

判断するということは、ある特定の概念に基づいて、さまざまな対象をひとつの共通のもののうちに「統一する」ことである。この統一の作業をカントは「概念のもとへの包摂」と表現するが、「すべての判断は、わたしたちのさまざまな像[=観念]を統一する働きをする」ものなのである。

たとえば「このものはケヤキである」という判断は、「このもの」という主語が、ケヤキという種(述語)のうちに包摂されることを意味する。「このケヤキは植物である」という判断は、ケヤキという主語が、植物という述語のうちに包摂されることを意味する。すべての判断はこのように主語と述語の包摂関係として表現されることになる。カントは「知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなす」と語っているように、知性は「判断を下す能力」であり、「概念によって認識する行為」である。

認識の第六の段階は理性によって「洞察すること」(ペルスピケーレ)であり、第七の段階は「会得すること」(コンプレヘンデ)であり、これはきわめて高度なものとされている。これらについてはここでは触れないことにする。大切なのは判断ということだからである。
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考えて!

未唯へ

 1時間起きにトイレです。その間を夢でつなげています。疲れます。夢はドンドン、ややこしくなっています。

 今日は雨を理由にクルマで元町工場駐車場です。

 明日から春モードにしましょう。

プレゼンとシステム思考

 本当にプレゼンするためには、未唯空間の資料を的確にします。金曜日のGMへの説明は失敗です。全体を考えていない。先を考えていない。そういう人にプレゼンする仕組みを充実させます。

 名古屋の人間はシステム思考しない。システム思考そのものをぶつけたが、理解できるはずがない。だけど、そこに私の存在理由がある。今後の世界はシステム思考で考えるしかない。必要な機能をシステム思考から生み出してきた。それの実証を行っている。

考えて!

 何しろ、言いたいことは一つです。考えろ! これだけです。明日はトコトン考えてましょう。なぜ、考えないのか。考えるにはどうしたらいいのか、考えなければ、どうなるのか、などを考えてください。

 iPadは会社では使えないですね。プレゼンは、紙の世界の未唯空間で考えましょう。

全体を考える権利

 哲学者は全体を自分の問題だと思っています。組織の人間は自分の分をなるべく、狭くして儲けようとします。個々が全体を考えない限り、全体は変わらない。
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