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店舗活性化の危機感

ネットワーク会社が生き残るには

 3年後に、KDDIが生き残るためにはauとの関係が決め手になる。無線LANの技術などで、データ共有させるだけでなく、料金体系を一緒にすることです。SBはケータイしかない。NTTとドコモはくっつかない状態を考えると、KDDI・auの最大の利点です。次期ネットは3年後のメリットも追求させていきます。

 気をつかないといけないのは、SBです。固定網なしで全てができることを狙うでしょう。かなりのことを政府を巻き込んで、NTTに仕掛けてきます。NTTの基幹網だけでなく、NTTそのものをSBの望むカタチに変えようとします。それに対して、KDDI・auの選択できる道はさほど多くはない。料金の一体化という先制攻撃あるだけです。

店舗活性化の危機感

 われわれも販売店の3年後のために何ができるかです。店舗の活性化のために必要なのは、危機感です。お客様とどうつながっていくのか、それをメーカーと対抗して、作っていかないといけない。経営者が考えてもダメです。スタッフがいかに自分の知恵でやっていくことです。そのための環境は提供していきます。

 300人を相手にするには、OneToOneにしても、かなりの道具が必要です。お客様の状況を把握するにしても、リアルでの双方向が必要です。タブレットにしても、面着にしても、その時点で、プル型にしていくしかない。各自がプル型でデータを収集するとなると、かなりのインフラが必要です。その配置をどうしていくのか、そのためのポータルです。そんな設計はパートナーしかできない。

 そして、危機感から幸せ感です。お客様とつながることで幸せになれるか。スタッフが幸せになるか、それをどう解いていくのか。

エネルギーがあると、幸せなのか

 エネルギーがあれば、幸せになれるのか。今のクルマで幸せなのか。クルマは多くの人に迷惑をかけています。やかましいし、場所を取るし、動く。インフラでお金を使う。

 ローコスト・ローエネルギーにして、移動しないで済む方がいい。今から、どう生活を変えていくのかの方が重要です。

ネットワーク会社の能力

 ネットワーク会社はなぜ、あれほど、能力がないのか。まあ、上がやる気がないのでしょう。営業は言ったことをそのまま、書いてくるだけです。それはなぜでしょう。パートナーが決めて、やらせるしかない。パートナーはアイデアがあるし、ファシリテーターとして、販売店から見る目はあります。

 インタープリターとして、販売店の要望を聞き、先を見て、行動することができれば、色々なことができます。

 その内に。組織の邪魔者は居なくなるでしょう。なぜ、組織の連中は考えないのか、先を見ないのか、何のために生きているのかが不明のまま、居なくなるでしょう。

映画「サッチャー」

 世界史と哲学をずっと、見ていた。共に、世界を知ることです。今日はそれだけです。何となく、パートナーの健康管理をしていた感じです。ICレコーダーの入力は避けました。4時半から「サッチャー」です。1000円で済みます。

 映画は6時半前に終わりました。最後は見損なった。ジンジャエールを飲んでいたので、トイレに行っている間に終わっていた。2時間は我慢の限界です。

 鉄の女にしても、認知症はきついですね。年をとることは、輝いた人ほど、きついですね。その後は、労働党のブレアでしたか。確認しましょう。ブレアは回顧録で読みました。偶然が多く絡んでいます。

 フォークランド戦争に、真珠湾攻撃が絡んでいるとは思わなかった。サッチャーは頭が回る。イギリスがEUに参加しなかったことは、今になってみると正解かもしれない。EUで独仏がつぶれても、イギリスは残る。これも歴史のアナロジーです。
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技術員の環境つくり

未唯へ

 パートナー言行録:「一人でお茶すりゃ、いいじゃん。」

 双子のおかあさんとお茶する、軽い約束をしていた。そこに、一緒に買い物に行くという計画を割り込ませた。あの役はどうなったかを双子のお母さんに聞いたことに対して、やはり、割り込んでいった言葉です。

 何となく、久しぶりの太陽です。まんまるです。この間の、月と二つの惑星が並んでいたものは、二つしかなかった。一つはどこへ行ったのでしょう。

 どう見ても、睡眠不足なのでしょう。90分×3回です。だから、8-2は明日にします。夢を見たのは、出張のための切符が8枚です。やはり、気になっているのですね。

 昨日は、グレー、ドット、黒、黒。今日はうぐいす色です。

 ローソンにジンジャーが売っていました。金曜日の午後ですね。

店舗の活性化

 地域の活性化というよりも、店舗の活性化とはどういうことなのかをまとめないといけない。活性化してなかったら、どうなるかもあります。

 今のままで行くと、メーカーはお客様と直接、つながろうとします。インターネットの世界では可能です。集まってきた情報をスマートセンターで処理できるか。できるはずがない。

 一番できないのはアクチュエーター、お客様に行動する部分です。そんなものは一律的なメーカーでできることではない。メーカーができるのはThinkだけです。そして、システムを作ることだけです。実際に行動できるのは、スタッフであり、店舗です。行動を指示するのは、販売店本部です。

 お客さんとつながる時のそのシナリオを使っていかないと、ボリュームに負けます。お客様の要望をメーカーで全て取り上げて、選択・分類するのではなく、現場のレベルを上げて、その場で解決するもの、本部に伝えること、メーカーとの関係などに分けていくことです。店舗の活性化はその先にあります。そのお客様と一緒になって考えるということです。

地域コミュニティに誘い込む

 お客様には地域コミュニティに誘い込みます。一人ひとりのお客様に対応するのは難しい。自分の300人のお客様のコミュニティではなく、同一価値観のコミュニティです。

 ネットの必要性はライブラリです。お客様からの要望に対して、一緒になって、考えるための道具です。ライブラリでお客様の状況把握です。お客様データベースから外します。

 それをiCloudのように中核に持っておいて、どのデバイスからも見られるようにする。お客様からも見られるようにしておく。地域コミュニティそのものも、そのライブラリの横に自分たちの状況をつけていく。市民間の横の連絡ができます。各自の状況がわかれば、的確なグループ活動ができます。

技術員の環境つくり

 元々の発想は研究開発部署での技術員の環境づくりです。道具に縛られずに、環境を作ることが私の研究テーマでした。一緒に考えるために、技術員の主査とか課長を指定して、参画してもらいました。皆、問題意識を持っていました。

 技術者が実験室に対して、どんな指示をして、解析をしているかを半年かけて分析しました。そのためのデモ環境を作るのに、やはり、半年かけました。そのときにUNIX、MAC、光回線を使いました。

 MACのソフト群は強力でした。グラフにしても技術者に合わせて、5種類のソフトを検証して、渡しました。実験室のデータをCADとかモーターショーにもつなげた。その際も、技術者と一緒になって実データで行いました。今まで、メインフレームに依存して、待ちの状態だったものを自分の分野のデータベースを作り、解析し、レポートしたものを蓄積していった。その段階で、役員にプロモーションをして、全員が利用可能人あるだけのお金を貰ってきました。説明は実際に環境を使っている技術者なので、インパクトは十分でした。

名古屋での状況

 そういうことを販売店でいかにやるのか、が名古屋に来た時の思いでした。名古屋はあまりにもひどかった。過去の成功体験で生きていた。システムはあくまでも直間比率を変えるためのモノしかなかった。
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ナチスヘの道

『世界を変えた哲学者たち』より ハイデガー--ナチスにみた夢の幻

●若者の革命

 それともうひとつ、ナチスは伝統的な右翼ではない。たんなる右翼ではない。

 ドイツの伝統的な保守・右翼は(貴族など)名門一族による国家支配を当然と考える。由緒正しい身分の人間による支配である。

 名門による権威が強調され、年下のものは年上の人間を尊重し服従する。だからどうしても老人支配の傾向も強くなる。ヒトラーやハイデガーのような下層階級出身の人間は支配集団からはずされ、肉体労働は軽蔑の対象とされる。ドイツの帝政時代の貴族支配が伝統右翼の理想である。第一次世界大戦以前のドイツではこうした名門による支配がおこなわれていた。

 ナチスはこうした権威とは別の世界から出現する。ナチスは貴族的な支配階級を信用しない。民衆の下からの大衆運動によってドイツ社会を革命する、これがその目標である。伝統的な保守は肉体労働を軽蔑するエリート貴族の支配であり、老人の支配なのである。「老人どもによる支配を粉砕せよ!」これがナチス運動にエネルギーを供給するのだ。

 ナチスの幹部はみな若かった。ナチスが権力を握ったのは一九三三年であるが、そのときヒトラーは四十四歳、親衛隊隊長・ヒムラーは三十二歳、ナチスの天才的な扇動家・ゲッペルスは三十五歳、ゲーリングは四十歳である。

 年齢構成的には、ナチスの党員には二十歳代の青年が多かった。だからナチス革命は「若者の革命」と呼ばれることもある。ワイマール共和国の指導者たちは、これとは対照的に、みな高齢の老人たちであった。

 名門の老人たちによる支配をおわらせ、労働と自然を賛美し、西欧の技術文明を乗り超える民族共同体をつくる、というナチス社会革命の夢、ハイデガーだけではなく、多くの知識人たちもこれに引き寄せられたのである。
●行動主義

 もうひとつ人びとがナチスに引きつけられたものがある。

 行動主義である。

 ナチスの思想というのは単純なものである。簡単に言えば、「ドイツ民族は優秀だ!」これでおしまいである。そう一貫した思想や哲学があるわけではない。この点ではマルクス主義の方がはるかに洗練されている。

 しかしナチスの行動は早い。議論に余計な時間は使わない。指導者が決断し、決定を下すと、それがただちに行動に移される。

 「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの指導者」、これがナチスのモトーである。

 ワイマール共和国は民主主義の国家であった。民主主義は時間がかかる。それに政党間の妥協と取引でものごとが決まるから、どのように魅力的な政策であっても、交渉の過程で薄められ、ごく凡庸なものとなってしまう。面倒なものごとは先送りされ、責任をとるものは誰もいない。

 そして民主主義の政治では本当の交渉は舞台裏でなされる。手練手管に秀でた政財界のボスたち、老人たちが舞台裏を仕切ることになるだろう。下々の者たち、若者たちには出番はない。

 民主主義の政治が優柔不断と先送りと取引の政治を意味するとすれば、それにくらべると独裁はときとして純粋なものとみえる。不満をもった人びとは「なにかの希望」のために戦おうとするのであって、民主主義それ自体のために戦うわけではない。

 民主主義の政治ではできないこと、先送りされてしまうようなこと、それを行動主義がごくあっさりと実現するとすれば、民主主義にこだわる理由などどこにもない、人びとはそう考えた。

●決断主義

 ナチスは決断主義であるといわれる。

 「決断する」とはどういうことか?

 「決断する」とは、議論をどこかで停止することである。議論がつくされたわけではないかもしれない。いや、「議論がつくされた」といえるときは永遠にこないであろう。いつだって、「いや、まだまだ」と苦情をいう人びとがいるものである。

 そして決断とはなにが正解であるか、それがよく分からないときになされるものである。正解が単純で明快なものであれば決断の必要はないわけである。そして政治の問題とはすべてなにが正解であるのかよく分からないものである。

 そういうわけで、ナチスは決断する、ひとりの指導者が決断する、その決断を人びとは無条件に受け入れる、そして行動する。これがナチスに特有のスタイルとなる。政治家たちの煮え切らない議論に飽きた人びとはこれを歓迎したのである。
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哲学者がめざすのは世界の理解

『世界を変えた哲学者たち』より ニーチエ……哲学は魂をいやす

●エピクロスは語る

 医者はからだの病気をいやし、哲学者は魂の病をいやす。それが哲学者の仕事であり、これができない者は無用の存在である。古代ギリシアの哲学者エピクロスの言葉である。

 彼の言葉ではこうなる。

 「人間のどんな悩みをもいやさないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術がからだの病気を追い払わないならば、なんの役にも立たないように、哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、なんの役にも立たないからである」

 不安に追いかけられている間は魂は健康ではない。魂の病とは魂が不安に満たされている状態である。だから「魂の病をいやす」とは魂から不安を取り除くことである。魂の平安を得ることである。不安がなくなれば魂は平静になる。それが幸福な状態である。

 哲学は幸福をもたらす、私のめざす哲学は魂の治療である、エピクロスはこう言いたいのである。

●理解できないものの存在は私たちを不安にする

 ニーチエの哲学もこれと変わりはない。

 哲学はすべてそれぞれの方法による魂の治療である。

 宇宙を語るばあいでも、ピタゴラスのように数学を問題にするばあいでも、プラトンのように正義の国家を考えるばあいでも、哲学者がめざすのは世界の理解であり、それを通した魂の浄化である。

 というのも、精神が平安を得るためには、まず精神はまわりの世界を理解しなければならないからである。理解できないものの存在は私たちを不安にする。なにが分からないのか分からないとき、人は不安になる。

 「理解できない」ということが分かれば、それも「理解できた」ということである。だから精神は平安をもとめて世界の理解をめざす。

 たとえその理解が世界の終末の理解であったとしても、理解することは魂の平安を可能にするだろう。「どうしようもないことだ」と理解することは一種の救いとなるものだ。そのとき人はそれを運命として受け入れることができるのである。

 そればかりではない。ニーチエは運命を受け入れるだけではなく、それを愛するように、と教えている。それが運命愛と永遠回帰の哲学、ニーチエ流の魂の治療法である。

●病気が病気をいやす

 しかし、魂の病がいやされるためには、人はその前にまず魂の病気にかかっていなければならない。病人だけがいやされることができるのである。

 だがここに面倒なことがある。

 哲学自身が病気の原因であるとすればどうなるのか?

 そのときには、病気によって病気をいやす、ということになる。

 これは不合理なはなしではないか? 治療自体が病気を生み出すのではなかろうか?

 だがおかしなものとみえようと、病人による病人の治療、病気による病気の治療、これが哲学の歴史である。「君は病気だ」と教えてあげるのが哲学者の仕事である、とウィトゲンシュタインも書いている。

 ニーチエの哲学もまたこれと変わらない。

 それになによりも、ニーチエもウィトゲンシュタインも、まず自分自身を治療する必要があった。そこから彼らの哲学が生まれてくる。だから彼らとおなじような病気を経験している人には、彼らの哲学(治療)は効果的であり、よくきくのである。逆にそういう病気とは無縁な人びとには彼らの哲学も無縁となる。

 しかし、どういうわけか、ニーチエの哲学が必要な病人は世界中にどっさりといるらしい。とくに二十世紀にはそういう病人だちがたくさん生まれてきた。あちらにもこちらにも病人だらけ。だからニーチェは人気者となる。
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音声の書き起しから社会の革命

電算部のシナリオ

 それらに比べて、電算部のシナリオはプアです。販売店とは関係ないところでの工数削減です。インパクトがありません。世の中から置いていかれます。主戦場はネットワークです。お互いが変わっていくしかない。そこに何を供給して、店舗の活性化をするのかという発想が一番分かりやすい。

音声の書き起し

 音声とデータの本当の融合はいつ始まるのか。インターネットの世界にもありません。機能が足りない。お互いの世界に入り込むための技術が中途半端になっている。

 iCloudでデータとしての音声、音声のデータ化が考えられる。それを自分のデバイスで自由に活用できる世界です。音声がデータになって、データが音声になる。チャッターにしても、それがあれば、本当のつぶやくが簡易に広がり、反応されます。

 ICレコーダーの書き起し技術の延長線上にあるのかもしれません。これはアナログとデジタルの完全な変換となります。世の中はどこのレベルであればいいのかにより、答が異なります。

 昔から、この分野を個人的にやってきました。雑記帳では15年前からICレコーダーの書き起しを行っています。しゃべったことを書き起して、安心してきた。音声のままでは役に立ちません。自分のアイデアを残すために、膨大な工数を使ってきました。

 販売店ヒアリングをすべて、ICレコーダーで録音したが、書き起さないと、集約ができなかった。10倍ぐらいの工数が係りました。音声認識のソフトも2度ほど、買ったけど、役に立たない。聞いている本人が分からないものが機械で分かるはずがない。

 変換技術をクラウドで作り出すことになるでしょう。通訳のクラウドがあるし、印刷依頼に応えるものもあります。そうすれば、データと音声とクラウドがつながります。老人ホームでの口述筆記になれば、人生論もできます。もしかすると、世の中に出ることになります。これが発信の元です。チャッターをそのレベルまで上げたものが勝利者になるでしょう。

 なぜ、クラウド化というと、変換には膨大なデータベースと解析技術が必要になります。全ての素材が備わっています。後は商売のやり方と意味付けだけです。図書館クラウド辺りがやれば、商売になるし、知の入口という公平感も保たれます。

ECU解析の場合

 必要な機能としては、人工知能ですね。ECU解析の時に、データから、意味合いを探りました。技術者の仮説をLispで表現して、マッチングを行いました。できることは分かりました。プロトタイプは作りました。

 クルマがしゃべるといっても現象を話すだけではダメです。対策まで遡ることです。膨大な仮説とのマッチングです。これはコンビニでのデータ処理と同じです。どう並べたらいいのか、おでんの終了日をどの地区はいつにするのかを判定します。

 今後、エネルギーに関することも、スマートセンサーからは一杯集まってきます。ビッグデータ処理を行うのが、スマートセンターとかクラウドになります。

 研究開発部署の時には、問題意識が先にありました。その空間をどのように作るのかを考えていた。EUC解析用につけた名前がμ空間でした。そういう技術を汎用化するだけです。

パートナーの役割

 パートナーは跳べないから、実績を上げて、皆から認められることで、そこから派生できるようにしていきます。これは、以前考えた、空中戦と地上戦の役割分担です。

つながるの概念

 つながるも新しい概念で変えていきます。かれらはまだまだ狭いし。先が見えていない。システムを作るのではなく、使うことという点では、やっと、追いついたという感じです。

 徹底までのプロセスを目的に合わせて、変えていかないといけない。その中で、食べていく人のために作るのではなく、それを使っていく人のために作るという原点です。

 最終的に、販売店をなくすことを、つながるは狙っています。全てをつかみたいから。よほどのことと販売店システムで提案しない限り、販売店は外されます。その危機感が販売店にはない。

 使うことを中心にしたら、本来、全国レベルです。売ることなら、ローカルです。地域コミュニティが必要なように、地域での店舗が必要です。環境社会の概念をどう入れていくかです。そのためには、店舗がそれだけの役割を地域に対して、働きかけないといけない。売るだけなら、その地域にある必要はない。中国からでも売れるのだから。

シェア社会のクルマのあり方

 壊れた時に、直すサービスしかない。それも部品の共有化を図っていくことになります。シェア社会における車は会社を超えて、同一仕様です。カタチも部品も一緒です。共有化することで、サービスの部品は少なくて済みます。

 これは格安航空会社の戦略です。機種を同一にすれば、パイロットも部品も少なくて済みます。画一サービスで安く、移動することができます。使うことを中心にすれば、クルマも同様になっていきます。
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歴史と哲学を自分の中に

未唯へ

 夕食の楽しみがないのは苦しいですね。間食したくなります。

 この北極圏仕様のコートで正解です。フードがないと本当に寒い。

 月を挟んで惑星が二つ並んでいます。

 やはり、時計機能が欲しいですね。ケータイはかさばるので、持たなくしたが、時計部分だけが欲しい。100円ショップでさがしましょう。

2年前に設計は終わっている

 次期のポータルもライブラリも2年前に設計は終わっています。ジワジワとパートナーの中に染み込んでいけば良いです。考えていない・見てないGMに頼ってもどうしようもないのに。

 第8章は地域活性から始まっています。これが終着点です。次期システムの全てがあります。パートナーの言っていたポータルの答もそこにあります。2年前に出した答の因数分解を行っています。それよりも、低いレベルでも、答を出してもらえば、当分の要求には応えられます。あとは社会の進化に依存します。

 中身は循環パターンが多いです。①→②、③→④です。この意味は、ローカルで行うことと、グローバルで行うことをハッキリさせるということです。

歴史と哲学を自分の中に入れる

 歴史と哲学は自分の中に入れ込まないとダメです。今日の資料はOCRするだけでなく、キッチリと理解させましょう。ギリシャとドイツとの戦争も両方の立場から見てします。ついでのムッソリーニのイタリアの立場とトルコも見ることができました。

やかましい車

 本当に車がやかましい。私の精神が持ちそうもない。こんな世界を作った覚えがない。研究開発部署は何をやっているのか。車の根本的な部分は何も変わっていない。快適に移動する手段を作るのであれば、キッチリと作りなさい。車は場所を取りすぎます。自転車ぐらいで十分です。

社会のモデル化をゲーム化

 社会をモデル化して、ゲームのように、内なる世界に入れないとイメージはつかめないでしょう。早く社会をモデル化します。それが未唯空間の役割です。

人間関係

 思いを伝えたり、聞いたりするために販売店には行くけど、それ以外は不要です。人間関係はいらない。システム担当者に意思がないことは、先進販売店へのヒアリングで判断しました。彼らの仕事は助けるのはどうでもいいです。そんなことよりも店舗の活性化です。

あるはずがない

 銀河宇宙はあるはずがない。あったとしても、小さなものです。グランド・ツアーもないです。あると思いたいだけです。今とか将来から発想しないとダメです。過去から積み上げてここに来たわけではない。

 人間原理というのを使うのは止めましょう。これは真理です。原理ではない。観察するものと被写体が同一である限り、観察するものが優位でないとダメです。観察するものがなくなれば、被写体は全てなくなるのだから。終わりとは何かというと、終わりです。

電話と通信

 電話と通信はもっと重ね合わせないといけない。その仲介をするのはスマホとかタブレットでしょう。iPadでいうところのiCloudです。それと音声です。データベースを多様化して、音声と文章の融合を始めます。

 話し言葉の世界とテキストの世界を自由に行き来できるようにすることです。チャッターにしても、今までは噂というカタチで音声でやってきているはずです。言葉になった所から、ライブラリが始まります。

 ICレコーダーとテキストとブログのような関係です。それに対して、人はどのようにして、コメントが付けられるのか。私の場合はコメントはありません。

 YES/Noボタンのような形で部分的にやるしかないです。発信者の人格に対して、どのように、コメントできるのか。非難しかできない。そういう個人の戯言とどのようにつなげていくのか。それがお客様との接点です。

 マクドナルドも一緒です。そのレベルでくっつけないといけない。本も皆、そんな形で来ます。大学に関する本、就職に関する本も読まれない限り一緒だし、コメントがない状態では勝手なことです。勝手なことをどう見るのか、自分の世界として見るのか、外なる世界と見るのかです。

 世界にアプローチして、どう変えていくのか、その部分です。クレーマーだけではダメです。そこから、スマートセンターの役割が出てきます。言葉を音声情報にして、データベースにして、世界とどう関わらせるのか。

映像の使い方

 次期ネットのターゲットは映像です。この5年間で、YouTubeなどで変わってしまった、映像をいかに自分たちのモノにしていくのか。と言っても、商売というよりも、YouTubeなどの安易さとか双方向性の世界で映像をもっと使っていきます。

 お客様との関係では、映像を仲介させます。これはかなり膨大な世界です。クレームもその中に入れれば、初めてお互いがつながると同時に、関係者に的確に伝わります。文章での表現力の比ではない。メーカーからのプロモーション情報をどうするかというレベルではない。

 方向としては、逆が主流になります。それに耐えられる仕組みが持つところが、お客様ニーズとタイアップできます。そこから、お互いの道具を作り上げていきます。単なるクレームよりも写真とか映像の方がインパクトがあります。全ての人が発信者になる時代に手を打つことになります。
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「ヨーロッパ合衆国」への道筋

『世界の歴史』より ヨーロッパ世界の統合

二〇〇四年六月、ヨーロッパ連合傘下の二五ケ国国民がそれぞれの国で有権者として「統一憲法」導入の可否に関する総選挙に臨みました。しかし、その結果全有権者中わずか四三パーセントが賛成を表明したにすぎず、ヨーロッパ憲法の新規制定にかかわる案件は見事に否定されてしまったのです。

しかも、その際注目すべき現象が見られました。新たに加盟した右記一〇ケ国の有権者は、結果的に他の古参組加盟諸国との力関係において明らかに不利な状況に置かれていたという事実でした。さらには、加盟国のほぼすべての有権者に見聞された事態だったのですが、この憲法草案に積極的対応をした国内の与党・政府以上に、ヨーロッパ連合の動きを最初から批判してきた野党勢力の方が国民からより多くの支持を獲得するという驚くべき結果が出現したのです。

域内選挙から数日も経たぬうちに、事態を重く見た加盟二五力国の元首・政府関係者たちは急ぎ参集し、起草委員会から提出されていた憲法草案を再度徹底的に検証しました。長時間にわたり白熱した議論が続きました。その後に、彼らは参加二五ケ国全員の意思として最小限の共通理解を確認し合い一定の合意に達したのです。不名誉な挫折をこれ以上繰り返すことなく、破綻を何とか回避することに成功しました。ここで確認された合意と一致によって、ヨーロッパ現代史上初めて“人間理解に関する共通の前提”が承認され、確立したわけです。少なくとも、ヨーロッパ連合に加盟する二五ケ国における人権理解の共有化がなされたといってよいでしょう。

首脳会議で合意された諸事項を詳細に見るならば、先ずより強力な権限がヨーロッパ議会に付与されたという事実が理解できます。けれども、これは以前も同様だったのですが、この議会がヨーロッパ委員会を組織する権限まで掌握しているわけではありません。“ヨーロッパ政府”でもあるこのヨーロッパ委員会の議長(委員長)と構成メンバー(委員)の選任は、ヨーロッパ議会によってではなく、どこまでも連合加盟国の政府・議会によってなされなければならないという規約です。

これらと並んで、白熱の議論が続いた案件は「議事の進行と議決手続き」をめぐる平等と公平性の問題でした。加盟国の中で、大国といわれる国々はやはり自国のより強い影響力を議会で行使したいと考えがちです。また、小国とされている国々はヨーロッパ連合内での議事の審議と決定を単に“承認する”役割だけではなく、自分たちも対等に審議と決定に“参加する”権利を強く要求するに至ったのです。錯綜した利害関係の調整努力の結果として、連合内議事の審議と決定に関する手続きは、文字通り複雑多岐に及ぶ内容になってしまいました。それが後日域内各国で、人々が“一重多数決の原理”と揶揄しながら呼ぶに至った難解な審議・議決プロセスです。すなわち、正式な議決には加盟諸国の五五パーセント、あるいはそれ以上の賛成が要求される。と同時に、そこには最少一五ケ国の同意が伴わなければならない。さらには、その案件に関して加盟諸国で最少六五パーセントを超える賛成が前提とされなければならないと同時に、議決に反対意思を正式表明するには、加盟国の中に最少四ケ国の支持を獲得しなければならない--こういった、まさに複雑、かつ難解な議決プロセスが導入されたわけです。

組織面を見ると、新しく導入された「外務大臣」の職責と権限が注目に値するでしょう。彼(または、彼女)は、ヨーロッパ連合全体の外交、および安全保障にかかわる政策を統括し、同時に実行に移すという重い責任を担います。同時に、この外相職は、ヨーロッパ委員会の中で副議長を兼任します。換言すれば、この新設外相職は、ヨーロッパ連合における第二位の立場に身を置くことになるわけです。

ヨーロッパ憲法の導入の可否に関して、加盟国は二〇〇七年末までにそれぞれの国で国民投票を通して結論を出さなければなりません。しかも、この案件にも以前同様全会一致の原則が貫徹されなければならないでしょう。それ以外の有効な法的拘束力はないからです。しかし、そうした手続きがはたして順調に進展するのでしょうか。すでに、その成果に関して多くの人々が疑念と批判を投げかけています。そうした声は、最初の段階から存在していました。

二〇〇五年五月以降のヨーロッパ連合の情勢を見る限り、疑念と批判は確かに的中しています。フランスとオランダは、国民投票を通してこの「ヨーロッパ憲法」草案を全的に拒否したのです。まさに、国民の不安心理がそこに具体的な形を取って現出したわけです。とりわけ、そこで人々が抱いた共通の懸念と危惧は、今や肥大化し過ぎた(といわれる)ヨーロッパ連合の機構の官僚化と、この間増加した加盟国のさらなる増大化現象に対して向けられました。すなわち、これらの不安や心配は、かつてヨーロッパの国民が素朴に抱いていた“ヨーロッパ全体の統合化”(ヨーロッパの家の建設)という懐かしいアイデンティティが、連合機構の官僚化や加盟国の急激な増加によって消滅してしまうのではないかという深層心理だったのです。フランスとオランダにおける国民投票の否定的結果が、今後他の加盟諸国にどのような影響を与えることになるのか--それは、もちろん明確ではありません。しかし、今確かなことは、“ヨーロッパ合衆国”の建設に邁進してきた域内関係国や指導者たちが、確固たる信念を抱いて大陸ヨーロッパの統合と一体化に向けた真摯な努力を今後とも重ねていかなければならないであろうということです。
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イスラム教の共同体

209『世界の歴史』より 世界宗教の出現--キリスト教とイスラム教

ムハンマドの教え、換言すればアラー神への信仰と信者の生活は、コーランと呼ばれる宗教文書にまとめられています。イスラム教は、この“聖なる書物”の教えを絶対的真理として受容する位相から出発した宗教であると考えてよいでしょう。イスラームという言葉には、“神への恭順へ”“神のための献身”といった意味があります。また、コーランの別名が聖なる文書であることは先に触れた通りです。このコーランにはイスラム教徒の遵守すべき信仰生活が、非常に厳格、同時に詳細に記されています。それは具体的な毎日の生活に関するきわめて詳細な規定や規則を含んでいるのです。例えば、信者は「日に五回、メッカに向かって拝礼をすること」や、「食事の際、許される肉類と忌むべきそれとを峻別しなければならない」などといった具体的指示まで明記されています。行動や言葉における禁止事項、違反が決して許されない倫理的・道徳的規範の明示と処罰規定の記載などがここには具体的に記されているわけです。

ユダヤ教とキリスト教、そしてイスラム教の間には、共通点がいくつか存在すると同時に、三宗教間の質的な相違も当然あります。例えば、顕著な相違点として考えられるのは、共同体理解に関する決定的相違です。イスラム教では、宗教の概念の中に単なる信徒同士の共同体生活を越えて、現世の世俗的世界(国家・社会・政治・経済・文学など)も明確に位置づけられているのです。コーランは単なる宗教生活だけではなく、社会的・政治的領域に関する厳格な規定をも明示しているということです。換言すれば、キリスト教世界でしばしば問題とされる「宗教と政治」、「教会と国家」、あるいは「信仰生活と世俗的・一般的社会生活」などは、イスラム教の場合すべてアラーの神への信仰と関連づけて考察しなければならないわけです。ヨーロッパ中世に出現した「政治と宗教」の分離、関係の明確化といったテーマは、イスラム教では最初から存在しません。コーランのこういった教説は、中世初期の七世紀だけではなく、二一世紀の現代においても通用する真理だと、考えられているのです。まさに、ここに他の二宗教とは異なるイスラム教の際立った特徴があるというべきでしょう。社会にせよ、国家にせよ、すべての領域がアラー神信仰の下位に位置づけられている--これがイスラム教の世界です。

元来、イスラム教にはきわめて寛容な精神がそこに存在していました。また、現在でもその寛容性は存在しているはずです。しかし同時にこの宗教には権威主義的・非寛容な思想が並存しているといわざるをえません。

ムハンマドの死後、すでに言及したカリフが後継者として信徒集団の指導の任を引き受けます。彼に続くその後の数百年間に、アラブ系イスラム教徒は、現代の中・近東(西アジア)地域へ勢力を拡大していきます。アフリカ北部に位置するエジプトと地中海沿岸地域から始まり、イスラム勢力は大陸ヨーロッパ南西部のスペインやポルトガル、あるいはフランスにまで進攻していきました。そうした激しい行動に彼らを駆り立て、外敵勢力を壊滅させようとする動機は、ただ一つです。すなわち、唯一神アラーに対する絶対的な、堅忍不抜の信仰と服従の結果なのです。この神の意思に心服して、彼らは信奉するイスラム教の拡大に努めたわけです。しかも、そこには戦闘の最中に落命した信徒は必ずやパラダイスに迎え入れられるのだという堅固な確信が支配していました。ですから、戦争はジハード、すなわちアラーの神のための“聖戦”になりうるのです。
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環境問題を解決するには?

104『100の思考実験』より

家業の成功には大きな代償を伴うことを、グリーン家の人たちは思い知った。田舎で農業を営む彼らの家屋は、生活の場であると同時に、仕事の場でもあった。しかし、商売の利益が順調に上がる一方、屋内で使う重機の振動のせいで、屋根や壁が少しずつ傷んできた。このまま商売を続けていたら、五年で傷みが進んで建物は危険になり、住めなくなってしまうだろう。かといって、新たに家屋を建てたり、必要な修理を施したり、構造を補強したりする金銭的余裕はなかった。

グリーン夫妻は子どもたちのために家を守ろうと決めた。だから、生産量を落として、これ以上傷みがひどくならないようにした。

一〇年後、夫妻は亡くなり、子どもたちが遺産を相続した。けれども、農家の建物はばらばらに崩れつつあった。やってきた建設業者は首を横に振り、きちんと建てなおすにはI〇〇万ポンドかかると言った。以前から会社で経理の仕事をしていた末の弟は、顔をしかめ、両手で頭を抱えた。

「もし建物のことを気にせずフル稼働で生産を続けていれば、建てなおせるだけの資金を、五年前には稼げていたはずなのに。一〇年間も生産量を落としていたせいで、僕たちの資産はなくなってしまったよ」

両親は資産を残そうとした。それなのに実際は台なしにしてしまった。  ビョルンーロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』山形浩生訳/文蘇春秋/二〇〇三年

この思考実験は、商売の将来予測に関する教訓としてだけ受け取ることもできる。けれども、もっと大きな懸念、つまり、現在わたしたちが直面している環境危機にどう対処するか、という深刻なジレンマに置き換えてみると、さらに興味深い。

気候変動を考えてみよう。専門家たちは、現在、気候変動が起きていて、おそらくその原因は人間だろうという。しかし、それを完全に阻止するために、わたしたちが今、実際に採りうる手だてはない。たとえば、京都議定書を実行しても、温暖化を六年ほど遅らせることしかできないだろう。それなのに、アメリカ合衆国が議定書を履行するのにかかる費用だけでも、世界中の人すべてに清潔な飲料水を供給できる額に匹敵する。だから、履行する価値があるかどうか、問うてみなければならない。

大事なのは、京都議定書がなくても、アメリカが実際に清潔な水を供給するかどうかということではなく、これがグリーンー家の状況と相似形だということだ。わたしたちが経済的成長を犠牲にして、いずれ必要な処置をただ遅らせたせいで、将来の世代は、自分たちの受け継ぐ問題を解決するために必要な資金を失ってしまう、という状況に行きつくのではないだろうか? 地球温暖化の問題を先延ばしにしたため、やがてその影響があらわれはじめたときに、対処する十分な備えがなくなってしまうのなら、先延ばしは得策ではないだろう。

だからといって、地球温暖化に関して何もしなくていいと言っているのではない。指摘すべきは、自分たちの行動が効果的かどうか、そして、不用意にものどとを悪化させていないかどうかを確かめなければならない、ということだ。そのためには、環境破壊の拡がりだけでなく将来の世代がそれに対処する能力をも考慮に入れる必要がある。環境保護運動家たちの多くは犠牲を払ってでも環境破壊を食いとめようとしているが、これは、グリーンー家が、犠牲を払ってでも家屋の損壊を最小限にとどめようとした戦略と同じくらい近視眼的だ。
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移動の豊かさを見直させる交通システム

601.1『国土の未来』より 「魅力のかなめ、都市交通」

〈フィンランドのエスポにはノキアの本社がある。一回目はそこへ行き、二回目は環境学習設備と図書館併設のスーパーマーケットに行った。自転車道は見当たらなかった)

人にやさしい低速の交通

 中心市街地の活性化のためにLRT(Light Rail Transit)を整備し、都心部にトランジットモールを導入する事例が諸外国で多くなされてきた。古くは一九八〇年前後より整備され、カナダのカルガリーなどを初期の例として挙げられる。その後もLRTは、ポートランド、サンノゼ、デンバー、ダラス、ソルトレイクシティなど米国の数多くの都市で導入され、一部はトランジットモールに似た形状で、都心部の魅力向上に一定の貢献をしてきた。また、欧州でも特に近年フランスを中心にLRT等を活用した都心再生が各地で進行している。

 わが国では未だにLRTを用いた新たな都心空間整備は進んでいないが、最近になって、前橋のコミュニティバスを運行させたトランジットモールなどバスによるトランジットモール化か、実験を含めれば増えている。乗り物と人とが空間を共有し共存する考え方は、ゆったりとした買い物や移動を楽しめる空間として、都心部の活気を取り戻すことに貢献する期待が大きいが、同時に一般車両を締め出すことへの抵抗感も相変わらず強い。また、鉄道の事業としての捉え方に、欧米と日本で隔たりがあり、わが国で新たに鉄軌道を敷設する取り組みは容易ではない。

 更にゆったりとした移動を支える乗り物には人力自転車がある。これらが都市の中心に佇む風景が先進国でも見られるようになった。シクロは開発途上国で衰退の一途をたどり都市の発展とともに表舞台から消えているが、先進国では珍しさも手伝って、環境にやさしい究極の乗り物との謳い文句もあり、スポンサーをつけて運行するNPOなどが現れている。わが国でも京都、東京、松本などでは、デュッセルドルフ、ベルリンなどで運行が始まった電動アシストの三輪車を輸入して運行している。低速で周遊するに相応しい町並みや観光資源の点在が必要になるが、まだ各地で増えそうな勢いである。

 一方、自転車のネットワークづくりも見直されている。フィンランドのエスポでは、長い年月をかけて自転車ネットワークの整備が進められている。森の都市に相応しい自然道のネットワークと幹線道路に沿った自転車道などが豊かに密度高く配置されている。ネットワークとしての自転車道は途中でいきなり途切れることはなく、必ずどこかにつながっている。これがネットワークのあり方だと再確認できるような形状が徐々に用地を手当てしながら延伸されている。海辺に面する住宅へも地道な説得によって土地売却の合意を得て、あるいは企業の協力を得て、海辺をつなぐネットワークも整備し続けている。このように長期の計画に基づく地道な魅力づくりは、わが国の地方都市でも一層進められるべきだろう。

公共交通による都市の魅力向上

 ITSが本格化すれば、自家用車の使いやすさや安全性が格段に向上すると思われるが、同時にバスなど公共交通の利便性、安全性、定時性なども改善されるだろう。それらも都市の魅力を高めることに貢献する。新しい交通システムが都市の魅力を形成する姿は古くから都市づくりで採用されてきた手法ではあるが、今後は鉄道などの大量輸送機関が存在する魅力とは別に、よりパーソナルでコンパクトな交通システムを、個々のニーズに合致するように提供する姿が都市の魅力になるのではなかろうか。

 オンデマンドでルーティングを行うバスとタクシーの中間のパラトランジットシステムも、予約や課金の最先端技術と都市に溶け込む新しいデザインを伴って先進国で今後普及するかもしれない。従来、鉄軌道を前提に整備が行われてきたLRTシステムも、最近では同様な輸送量をガイドに沿って走行するゴムタイヤ式の車両が提供できるようになり、旧来のトロリーバスやLRTの境界も曖昧になっていて、今後の発展が期待される。

 シアトルなどでは将来のLRT整備を前提に、都心部のトンネルを先行的に建設し、その中を都心部は電気、郊外部はディーゼル機関で走行するデュアルモード式のトロリーバスが走っている。しかし、ITSの進歩に伴ってバスの輸送効率を増やせれば、バスには端末部を面的にカバーする利点があることから、LRTシステムに置き換えるメリットは減少するかもしれない。先のカルガリーではトランジットモール区間を鉄道車両とバスとが混在するが、シアトルでもそのように活用するかもしれない。あるいは新システムを考えることになるかもしれない。技術進歩に伴ってインフラストラクチャの使い方を変えることは当然であるが、都市公共交通システムは都市の魅力向上にとって欠かすことの出来ない要素であり、その開発動向には今後も引き続き注目する必要がある。

 なお、公共交通機関の採算性確保が困難な都市も多く、採算性と必要性とを地域で再度問い直す必要も増している。企業会計として採算を重視する前に、消防、警察、医療、教育などと同列で、公共交通サービスを利用者と納税者が負担し育てることに納得出来るかが一つの論点である。そうであれば、イギリスやフィンランドなどのフランチャイズ方式のように、一定条件のサービス提供を低価格で入札した民間会社に任せ、地方政府の支出削減に貢献する都市も増すことになるが、通常の運行時の安全確保やテロ防犯対策など、公共交通を取り巻く利用者の安全安心の課題が一層重視され、コスト構造を変えることも予想される。
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