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豊田市図書館の22冊

334.41『移民政策とは何か』日本の現実から考える
310.4『政治的査察』政治の根底にあるもの
311.3『ナショナリズムと相克のユーラシア』ヨーロッパ帝国主義の負の遺産
361.9『測りすぎ』
238.05『大人の教養としてのロシア王朝物語』
370.4『創造性が育つ世界最先端の教育』
134.97『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』シリーズ◆世界の思想
366.99『未和 NHK記者はなぜ過労死したのか』
365.35『35歳、働き女子よ城を持て!』
323.53『アメリカ憲法の考え方』
290.93『ドイツ 2019~20』地球の歩き方
728.21『書と思想 歴史上の人物から見る日中書法文化』
140.4『大人の人間関係 心理の迷宮大事典』
913.6『不屈の海6--復活の「大和」』
361.45『メディア用語基本辞典』
367.4『50歳から結婚してみませんか?』
723.37『ピエロ・デッラ・フランチェスカ《キリストの鞭打ち》の謎を解く
364.1『よくわかる社会政策』雇用と社会保障
702.38『20世紀ロシア文化全史』政治と芸術の十字路で
498.58『糖質オフ大全科』いちばんよくわかる!
699.6『平成テレビジョン・スタディーズ』
007.3『情報環世界 身体とAIの間であそぶガイドブック』

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OCR化した4冊

『食で読み解くヨーロッパ』
 農村の変化をジャガイモで読み解く
  不均等な農村
  ジャガイモで強くなったプロイセン
  ジャガイモ飢饉が示す不平等
  格差が進むヨーロッパの農村
 グローバル化をコーヒーで読み解く
  生活文化の均一化が進むヨーロッパ
  コ-ヒー消費の普及とヨーロッパ社会
  カフェの発達と市民社会
  ファストフードに見るグローバル化
『世界の都市』
 都市の地層
  世界史のなかでの都市の興隆と成長
  都市文明の地層
  アメリカが生み出したグローバル様式
  メガシティの増加と不安
  移民の流入と多文化主義
  世界都市という標準的都市像
  栄える都市、不安定な都市
  グローバリズムとローカリティ
 クリティバ
  人間中心の環境都市
   名称の由来
  近代までの地層
  現代の地層
 カイロ
  アラブ人によるエジプトの都市
  都市空間の形成
   近代以前の地層
    アラブ人の軍営都市建設
    アル・カーヒラの建設
    サラディーンの城郭建設
    マムルークの栄華
   近代の地層
    ムハンマド・アリーによる近代化
    イギリスの統治下
   現代の地層
    新市街地の形成
    郊外の膨張
  2。都市・建築、社会・文化の特徴
   ギザのピラミッド・コンプレックス
 フェズ
  千年前に時間旅行できる都市
  都市空間の形成
   近代以前の地層
    遊牧民のベルベル人が先住者
    イスラム王朝の首都建設(イドリス朝:789)
    再び首都に戻る
    メディナの都市空間構成
   近代の地層:フランスの植民都市形成
   現代の地層
  都市・建築、社会・文化の特徴
   メディナの生活空間構成原理
    街区の構成
    空間構成のガイドライン
    小宇宙としてのパティオ
   赤い街マラケシュとジェマ・エル・フナ広場
『せかいの哲学者に学ぶ人生の教室』
 視点を変えて人生を逆転させる
 独断の危険からも、懐疑の迷いからも逃れる方法とは?
 私たちが知っているこの世界は本当の世界の姿ではない
 私たちは色眼鏡を通して世界を認識している
 神が存在するか否かという問題は、理性で議論できる限界を超えている
 色眼鏡を通して見ていることに気づけば認識を変えることができる
 不確かな人生の中で最良の答えを追求する
 自分の人生は自分自身で定義し、評価する
『地球環境辞典』
 環境 environment
 環境アセスメント environmental assessment
 環境意識
 環境NGO Environmental NGO
 環境ODA
 環境オンブズマン environment ombudsman
 環境会計 environmental accounting
 環境会計ガイドライン
 環境・開発サミット(WSSD) World Summit on Sustainable Development
 環境カウンセラー
 環境学習 environmental learning
 環境格付け
 環境確保条例
 環境革命 Environmental Revolution
 環境家計簿
 環境価値評価法
 環境ガバナンス environmental governance
 環境監査 environmental audit
 環境管理会計 environmental management accounting
 環境技術 environmental technology
 環境基準
 環境規制
 環境偽装
 環境基本計画
 環境基本法 Environmental Basic Law
 環境教育 environmental education
 環境行政
 環境金融 environmental finance
 環境クズネッツ曲線(EKC) Environmental Kuznets Curve
 環境経営 environmental management/sustainable management
 環境経営学会(SMF) Sustainable Management Forum of Japan
 環境経営度調査
 環境経済学 environmental economics
 環境計量士 Certified Environmental Measurer
 環境権 environmental right/eco-right
 環境広告
 環境公約 environmental commitment
 環境効率性 eco-efficiency
 環境コスト environmental costs
 環境コストの原価計算 cost accounting for environmental expenditures
 環境コミュニケーション environmental communication
 環境再生保全機構(ERCA) Environmental Restoration and Conservation Agency
 環境産業
 環境資源
 環境社会検定
 環境省 Ministry of the Environment
 環境新聞
 環境税 environmental tax
 環境性能
 環境制約
 環境責任 environmental responsibility
 環境ソリューション
 環境DNA
 環境適合設計 design for environment
 環境テロリズム environmental terrorism
 環境難民 environmental refugee
 環境の世紀
 環境の日
 環境配慮型商品
 環境配慮契約
 環境配慮促進法
 環境破壊
 環境白書
 環境パフォーマンス environmental performance
 環境犯罪 environmental crime
 環境ビジネス
 環境品質原価計算 quality costing for environmental expenditures
 環境負荷 environmental burden
 環境付加価値計算書
 環境負債 environmental liability
 環境ベネフィット environmental benefit
 環境ベンチャー
 環境法
 環境報告書 environmental report
 環境報告書ガイドライン
 環境保護 environmental protection
 環境保護団体 organization for environmental protection
 環境保護庁{EPA) Environmental Protection Agency
 環境保全活動・環境教育推進法
 環境ボランティア conservation volunteers
 環境ホルモン environmental hormone
 環境マーケティング
 環境マネジメントシステム(EMS) Environmental Management System
 環境問題 environmental problem
 環境リスク environmental risk
 環境立国宣言
 環境リテラシー environmental literacy
 環境理念
 環境倫理 environmental ethics
 環境ロジスティクス environmentally responsible logistics

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「環境」ってなんだ?

『地球環境辞典』より ⇒ 「環境」とつけば、商売になるみたい。まともな定義がされていない
環境
 一般的には人間や動植物などの生物の存在と活動に直接的または間接的に影響を与える外界ないしは周囲の状況を指す用語。日本では1900年代前半の大正期あたりから広く使われ始めた。今日、人間を主体とする場合の「環境」という用語は人間を取り巻く自然環境だけでなく、人間活動に関係する社会環境、すなわち生活環境、教育環境、文化環境、経営環境、市場環境、都市環境、国際環境などのような多くの分野で非常に幅広く使用されるようになってきた。
 これらの環境は基本的に自然環境と社会環境の2つに大別されるが、現在のいわゆる「環境問題」は主として自然環境を対象にしている。この背景にあるのは、人間の存在や活動が自然環境に多大な悪影響をおよぽすようになり、自然環境を損なうようになったという実態にほかならない。
環境学習
 環境を総合的にとらえ、自然観察などを通じて体験的に学ぶことを一般に「環境学習」と呼ぶ。近年急速に顕在化する地球環境問題をはじめとするさまざまな環境問題の解決には、行政・企業・市民が三位一体となって行動することが強く求められている。行政は環境行政を行い、企業は環境経営を実践し始めている。しかし、市民の環境意識は高いものの、実際の行動に結びつかない現状がある。こうした現状を打破するために環境学習を通じて市民の環境意識と環境行動のギャップを埋めようとする動きが活発に行われている。
 環境学習の内容は環境汚染や地球温暖化などを理論的に学ぶものから、実際に自分たちの手で植林を体験したりするものまで多くの種類がある。こうした経験を通じて国民1人ひとりが環境問題に関心と知識を持って人間活動と環境とのかかわりについて理解し、環境に配慮した行動をとることが求められている。
環境行政
 行政は国家の統治作用から立法および司法の作用を除いたものとされるが、一般に環境行政という場合には環境基本法の第1条に規定する環境保全の目的を達成するために行われる全体として統一性があり、継続的で形成的な国家活動を指す。具体的には公害防止、自然保護、生活環境保全、および地球環境に関する公共事務の管理・実施がある。
 これらの施策内容は、公害防止のための環境基準の設定と規制、自然環境・地球環境の保護・保全、生活環境におけるリサイクルの促進、地方公共団体・民間団体等の活動促進、国際協力の実施等「規制」と「促進」、その「財政措置」によって、環境保全に関する行政施策に全体的統一性を与えている。地方公共団体では環境基本条例、公害防止条例、自然環境保全条例および環境影響評価条例等の環境保全関連条例が制定され、環境保全に関する施策が実施されている。
環境教育
 人間と環境とのかかわりについて理解と認識を深め、環境に配慮した責任ある行動が取れるような環境学習を推進すること。つまり、人間活動と環境とのかかわりについて理解し、大量消費を中心とした現代社会のライフスタイルがいかに環境に負荷をかけているかという認識を持ち、生活環境の保全や自然保護に配慮した行動を心掛けるとともに、より良い環境の創造活動や自然との触れ合いに主体的に参加し、健全で豊かな環境を人々の共有資産として次世代に引き継ぐことができるよう環境学習を推進することを指す。政府や自治体が学校教育のなかの学習指導要領に環境にかかわる内容を充実させることを盛り込む一方、教育機関では環境に関するボランティア活動を支援するなど環境意識を高める教育を行っている。
環境問題
 環境を汚染、悪化、または破壊することから生じるあらゆる問題を総称して使われる。このような環境問題への関心を高める契機となるのは、有害な化学物質によって引き起こされる環境汚染事故とは限らない。例えば1979年には米ペンシルバニア州にあるスリーマイル島の原子力発電所で事故が発生し周辺の住民が被曝したが、これも放射能による環境汚染であり、地域住民に多大な健康被害と恐怖をもたらした。
 しかし、環境問題への関心が世界中で高まる大きな転機は1986年であり、この年を境に世界各国で環境問題が真剣に議論されるようになったという見解がある。 1986年といえばチェルノブイリの原発事故とライン川の汚染事故が発生した年であるが、前者は情報が開示されていない社会主義国(旧ソ連邦)で発生し、後者は汚染源が環境保護に熱心な国と評されるスイスであったという点で世界中に大きな衝撃を与えたわけである。
環境理念
 企業などの組織が対外的または対内的に策定する環境に対する考え方、方針、哲学などを指す用語。「環境方針」「環境原則」「環境憲章」などと呼ばれることもある。 1980年代の後半あたりから企業に対し国内外において環境理念の確立を推進する試みが、産業界だけでなく政府機関からも活発に行われるようになり、21世紀の今日では環境理念の構築は企業にとって常識になったといっても過言ではないだろう。
 実際、 1994年に環境庁(現在の環境省)から発表された「環境にやさしい企業行動調査」には、すでに次のような記述が見られる。すなわち「昨今の地球環境問題をはじめとする環境問題への対応においては、緊急の健康被害に的を絞って加害的行為を抑制する、いわゆる公害対応型を越えた包括的な環境問題への取り組みが求められており、これに伴い、環境に対する企業理念の再構築が社会潮流となっている」と。

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色眼鏡を通して世界を見ている 『せかいの哲学者に学ぶ人生の教室』より カント 視点を変えて人生を逆転させる 私たちが知っているこの世界は本当の世界の姿ではない

私たちは色眼鏡を通して世界を認識している
 コペルニクスは、私たちの目には「太陽が地球の周りを回っている」ように映っているけれど、実際は「地球が回っている」と主張しました。
 このような革命的な観点を「コペルニクス的転回」といいます。カントは、私たちはいま目の前の世界を認識していると思い込んでいるけれど、実際は、私たちの認識形式が外からもたらされた情報を私たちが認識できる形式に変換したものに基づき、世界を読み解いていると考えました。
 たとえば、因果関係の認識形式についていえば、私たちは世界とは因果関係によって成り立っていると思っていますが、実は因果の認識形式を使って世界を見ているにすぎません。言い換えれば、私たちが認識している世界というのは、認識形式が、外からの情報を原料にして加工製造した世界だということです。カントはその考えを「知識上のコペルニクス的転回」と称しました。
 カントは哲学体系を否定しましたが、新たに構築もしました。つまり私たちが認識する本当の世界を否定しただけでなく、一歩進んで認識形式に基づく新たな知識を構築したのです。ゆえに「私たちは本当の世界を認識することはできない」と主張したカントの哲学は、いわゆる「懐疑主義」には相当せず、理性の限界を深く考え、私たちが把握できるものを把握しようとする思想なのです。
 その認識形式を、一種の色眼鏡だと考えることもできます。私たちは、その色眼鏡を通して世界を見ることで、世界を理解可能な姿につくり上げ、それを認識しています。
 もちろん、「形式」であれ「色眼鏡」であれ、認識のしかたをそんな簡単な言葉で例えるのは、安易と言わざるを得ません。
 なぜなら、私たちには本当の世界の姿を知る方法はなく、一部の「認識形式」を知っているにすぎない(もしかしたら、ほとんどのことに気づいていない)からです。ゆえに、それをどういうふうに例えるのが適当なのかを議論することは非常に困難です。
 とにかく、カントの哲学を生活の中で応用すれば、熟考に値する人生の知恵を三つ兆見することができます。第一に、限界を知る知恵、第二に、色眼鏡を活用する知恵、第三に、最良の答えを探す知恵です。
色眼鏡を通して見ていることに気づけば認識を変えることができる
 人生における最大の限界は、死を避けられないことです。人は死を恐れ、逃れられないと分かっていても、ずっと後に延ばせば向き合わなくてすむのではと、無意識に逃れようとします。
 ゆえに、不治の病に侵され死が迫っていると知らされると、ほとんどの人が青天の露言と感じるでしょう。そうは言っても、人は遅かれ早かれ死を迎える日が来ることを知っていたはずですよね?
 そんなときは、ソクラテスの「無知の知」により、。「死は恐怖に値しない」という知識があることを推測することができます。またヒュームの「自我への懐疑」によっても、ひとまず自我を手放せば恐怖を遠ざけることができます。さらにカントの「先天的な色眼鏡(知識形式)」をヒントに、「死は悪いこととは限らない」ということに気づくでしょう。
 生まれながらに死を怖がるのは、私たちが「怖い」という色眼鏡で死を見ているからです。加えて「怖い」ことが「悪いこと」だと思っているため、おのずと「死は怖くて悪いこと」だという認識になりがちです。
 しかしその認識には、何も根拠がありません。なぜなら生きている人は死を経験していないし、死んだ人も死の真相を私たちに語ることはできないからです。ゆえに理性的に考えれば、「死は悪いこと」とする観念は、先天的な色眼鏡によるものだということが分かります。そしてその観念が正しいのか否かは、私たちにはまったく計り知れないことです。
 言い換えれば、もし私たちがその色眼鏡の作用を発見できなければ、「死は悪いこと」という観念を当然とみなし、本能的に死に抗い、拒み、時には感情的に死から逃げようとさえするでしょう。
 しかしカントの「色眼鏡」という人生の知恵に基づいて考えれば、その認識は一変します。死そのものは悪いことでもないのに、私たちが「悪いことの形式」を用いて、死の印象をねじ曲げていることに気づき、その認識が本当に正しいとは限らないと思えるようになるはずです。
 人生の勝敗にまつわる色眼鏡
 人は、富や成功、幸福や快楽を追い求める傾向にあります。そのうえ当然のごとく人生の成功と失敗を測る色眼鏡をかけています。
 人は、望むものが手に入らなければ、人生に失敗したと思いがちです。しかしカントの哲学に基づいて考えれば、それもやはり色眼鏡の世界観だと気づきます。
 私たちが知らない本当の世界では、そういう価値観が正しいとは限りません。富がなく、成功もせず、さして幸福でなくても、人生に失敗したことにはならないとすれば、人生の最終的な答えとはいったいなんなのでしょうか。それはまるで本当の世界を理解しようとしているときのように、私たちの認識の限界を超えています。
 そんなとき、色眼鏡という知恵に基づいて考えれば、さまざまな価値観の不確定な基礎がはっきりと見え、簡単に束縛から抜け出すことができます。たとえ「正しい」人生が見つからなくても、方向性を見直して最も自分らしい人生を探すことができるでしょう。
 ある人は、人生は白黒だと言い、またある人は、人生はカラーだと言います。果たしてどちらが正解なのでしょうか。カントの哲学によると、人生の真相は理性に制限されています。私たちはこの人生から逃れられないうえ、さらに視野を広げて比較することはできないので、この疑問に答えることはできません。しかしそのどちらも明らかに色眼鏡に左右されています。私たちが白黒の眼鏡をかければ、人生はおのずと白黒になります。逆に、色とりどりの人生を望むなら、カラーの眼鏡をかけることが何より大切です。人生がどういうものなのかは、私たちが人生をどう見るかによって答えも違ってきます。
 多くの人は、習慣的に白黒の眼鏡をかけて悲観的に世界を見ています。それが続くとアリストテレスが言ったように、その習慣により内在的な性質が養われます。しかしその内在的な性質は、私たちを幸福ではなく不幸に導きます。ゆえに、視点を変えて世界を見ることを学び、習慣を変えれば、白黒の眼鏡のせいで不幸になった人生を逆転できる可能性があります。
 感情は、往々にして物事の善し悪しを判断する色眼鏡になります。そして不愉快なことは、悪いことと判断されがちです。たとえば、お金や才能、能力のある人たちが、自分にはやりたくてもできないことをやるのを見たとき、嫉妬という感情が湧き上がってきます。
 嫉妬は、人を不愉快にさせ、無意識のうちに自分を嫉妬させた人を悪者だと決めつける傾向があります。そしてその悪人が災難に見舞われると、愉快な気持ちになるのです。ゆえに大衆は、ボロボロの車を飲酒運転して人身事故を起こした人より、高級車で飲酒運転をして事故を起こした人のほうを厳しく非難する傾向にあります。そのとき、厳しく非難している本人は、自分には正義感があると思い込んでいますが、実はそれは嫉妬心です。
 恋人同士が別れを決意したとき、別れたくないほうはショックを受けとめきれず、振られたことを最悪の出来事だと思ってしまいます。そして最悪の出来事を引き起こした相手が悪魔のように思えてきて、悪魔なら消えてしまえとすら念じてしまうのではないでしょうか?
 このような感情によってつくられた色眼鏡は、人に間違った判断をさせるものです。カントの哲学の知恵を使って、それは色眼鏡がもたらした認識だと理解できれば、激しい感情に流されることもなくなるでしょう。なぜなら事実がそうだとは限らないのですから。
 色眼鏡をはずし、いかに人生を歩むか
 私たちの人生からその先天的な色眼鏡を除いたら、何か確かなものが残るのでしょうか。もし残らないのなら、どういうふうに生きていけばいいのでしょうか。これだという方向を見失ったときは、新たな方向(人生の意義)を探し目標にすればいいのですが、見つからないと、失望し虚無感に襲われます。そしてタンポポの綿毛のように、目的地も分からないまま茫漠とした人生を漂うことになります。
 しかし、それはやはり色眼鏡による人生観といえます。いまこの時を生き、命の存在の美しさを感じられれば、目標など必要でしょうか。人が生まれながらにして目標を欲するのはまさに色眼鏡をかけているからです。私たちは、それに従うべきでしょうか。それともその先天的な色眼鏡を、人生を送るうえの一要素としてうまく活用し、理想とする人生形態をひねり出しますか?
 暫定的にすべての色眼鏡をはずすことができれば、人は大きな自由を感じるのではないでしょうか。カントの哲学のように、たとえ世界の真相を理解する方法はなくても、不確かな中にも有益な情報があり、相対的な確かさを構築することはできます。そして私たちも人生において、不確かな基礎という前提のもとで合理的な答えを見つけることができるはずです。それがカントの哲学がもたらす第三の知恵です。

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カイロ 都市空間の形成

『世界の都市』より 都市の地層 カイロ アラブ人によるエジプトの都市
近代以前の地層
 ①アラブ人の軍営都市建設
  古代エジプトはBC6世紀にペルシャの属領となり、次いでアレクサンダーの支配を経てマケドニアのプトレマイオス王朝が生まれるものの、クレオパトラの時代になるとローマの属領となっていった。ローマが東西に分裂した後は、ビザンティン帝国の属領で古代エジプトの文化は消滅し、コプト教(原始キリスト教)が普及する地域となった。この属領支配の拠点としてトラヤヌス帝は、AD98~117年にバビロン要塞(メソポタミアのバビロンとは異なる)を建設した。
  一方、ムハンマドによって生み出されたイスラムは、彼の没後(632)も勢力を拡大し、そのアラブ軍は642年にササン朝ペルシャを破り、ピザンティン帝国に勝利してシリア全土を支配するに至った。それに先立ち、エジプトに迫ったアムル・イブヌル=アース率いるアラブ軍は、バビロン要塞を包囲して陥落させ(641)、エジプトを支配下に収めた。領土を拡大したアラブ軍は征服後の各地に軍隊の駐屯地を設営し、地域の支配拠点としての軍営都市(ミスル)を建設していった。エジプトでは、アムルがバビロン要塞の隣にアル・フスタート(野営地の意味)をミスルとして建設し(642)、行政拠点であるだけでなく兵士家族の居住地、商工業者の集まる経済拠点として都市活動が営まれる場所となっていった。以降、ミスルはカイロそのものを指し、エジプト全体を指す言葉ともなった。ダマスカスを首都とするウマイヤ朝が創設されるとアムルはエジプトの終身総督となり、フスタートはエジプトの主都の地位を確保し、ガーマ(英名:モスクトアムルが建設された。現在、この一帯はオールドカイロと言われ、フスタートの廃墟、ガーマ・アムル、コプト教の教会が残る遺跡地区となっている。
  7世紀にバダダードを首都とするアッバース朝の時代になると、フスタートの北部のアスカルに政庁が置かれたが、9世紀に入りアッバース朝が弱体化してくると、総督のアフマド・イブン・トウールーンは事実上独立(868)して卜ウールーン朝を設立し、アスカルのさらに北にカターイーの町を築き、ガーマ・アフマド・イブン・トウールーンを建設した。
 ②アル・カーヒラの建設
  10世紀には、チュニジアに興ったシーア派のファーティマ朝はエジプトに遠征軍を送り込んで征服し(969)、カターイーのさらに北の場所に新首都アル・カーヒラ(勝利者の街の意味)を建設する。このカーヒラの英語読みがカイロであり、ここにカイロの都市名が誕生した。カイロは、東西1、100m、南北1、150mのカリフ(イスラム国家の最高権威者)のアル・ムイッズと軍隊のためだけの城郭で、北のフトウーフ門から南北幹線のバイナル・カスライン(現ムイッズ通り)を経て南のズウエーラ門に至り、中央部にガーマ・アズハルと二つの宮殿が配置されていった。その後、ガーマ・アズハルにはマドラーサ(イスラム教神学校)が加えられ、今日1、000年の歴史を誇るアル・アズハル大学となっている。これ以降、カイロは200年にわたるファーティマ朝の首都となるが、新都カイロは軍事・行政拠点として、旧都アル・フスタートは商工業者の拠点として栄えていく。1017年には6代カリフのハーキムはシーア派色を強め、ガーマ・ノヽリーファ・イノレ・ハーキムを建設する。しかしファーティマ朝末期には、十字軍戦争のあおりでフスタートは灰燼に帰し、カイロが商工業を含む両方の都市機能を担うようになる。
 ③サラディーンの城郭建設
  ファーティマ朝は十字軍の侵攻に危機を抱きアッバース朝のザンギー政権4こ援軍を要請し、十字軍は撤退する。その後、援軍のサラディーン(英語読み:正式にはサラーフッディーン)が宰相に指名されたが、すぐにカリフが死去するに及び、ファーティマ朝は滅び、サラディーンは、スンナ派のアッバース朝よりエジプトの君主スルタンに任命され、独自の政権アイューブ朝を開設した。サラディーンは、十字軍の侵攻に備えて、フスタートとカイロを取り囲む新城壁の建設に取りかかった(1176)。さらにその北の高さ75mの断崖を持つモカッタム丘陵に、現在シタデルと呼ばれる山城を建設した。この城郭建設により現在のカイロの旧市街地が完成していった。そして、シーア派の支配したエジプトにスンナ派を復活させるため新しいマドラーサを建設し、病院の建設も行った。その後主君であったザンギー政権をも取り込み、シリア、メソポタミアを統一し、1187年には、十字軍が建設したエルサレム王国を滅ぼし聖地を回復した。十字軍がエルサレムを占領した時、殺人、暴行、掠奪をしたのに比し、サラディーンは身代金の支払いを条件にキリスト教徒の生命を保障し、高潔、清廉、寛容な人柄でアラブ騎士道の花と称せられた。
 ④マムルークの栄華
  サラディーンはムスリムの英雄であったが、アイユーブ朝の政治体制を確立する余裕がないまま病没したことから、この王朝は脆弱であった。この間、奴隷の身分でありながら騎士教育を受け、スルタンの親衛隊となっていくマムルータが力を持つようになってきていた。1249年にフランスのルイ9世は十字軍を率いてナイル河口に上陸したが、バイバルス率いるマムルーク軍に敗北する)1258年にはモンゴル軍の侵攻にバグダードは陥落し、1260年にモンゴル軍とマムルーク軍との戦いが行われるが、マムルーク軍はモンゴルの征服戦争の中で初めての敗北を与える。司令官のパイバルスはカイロに凱旋し、スルタンに就任する。バイバルスはアッバース朝のカリフを復活させ、マムルーク朝政権を正当化してイスラム世界全体のスルタンとなった。十字軍とモンゴルとを駆逐していったマムルータ朝は、紅海と地中海とを結ぶ経済活動も活発化し、黄金時代を迎える。ガーマ・スルタン・ハサン、スルタン・カラウーン・マドラサなど数多くのモスク、マドラーサ、病院、小取引所などが建設され、フアーティマ朝時代に宮殿が置かれていた場所ハーン・アル・ハリーリは大規模なスークとなり、「千一夜物語」の舞台ともなっていった。しかし、この王朝も末期になると政治の腐敗や競合国家の登場で終焉を迎える。
  東西貿易を独占していたエジプトは、ポルトガルが1498年に喜望峰回りのインド航路を開発すると壊滅的打撃を受け、ポルトガルとの海戦にも敗れ、インド洋の制海権を失った。また、ピザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコはエジプトに侵攻し、世界最強の火器でもってマムルーク軍を圧倒し、1517年、カイロに入城しマムルーク王朝は滅亡した。征服者のセリム1世は、カリフや太守、聖職者、商人、職人、知識人など主だった人材数千人を引き連れてイスタンブールに凱旋した。ここに、イスラム世界の中心はカイロからイスタンブールヘと移った。これより、カイロには停滞と衰亡の3世紀が流れる。イスラム地区の東側に広大な墓地がある。「死者の街」と呼ばれ、中世以降、死後の安楽を求めて支配層の人々が壮麗な墓地を建設した「死者の街」であり、ここに衰亡の軌跡を見ることができる。現在では、住宅難からこの中にも2万人もの困窮者が住み着く場所となっている。
近代の地層
 ①ムハンマド・アリーによる近代化
  1798年、フランス軍隊が突如エジプトに侵攻し、カイロを占領する。司令官は29歳のナポレオン・ボナパルトでめった。相変わらずの中世の軍備で立ち向かったマムルーク軍は、戦艦13隻をはじめとする近代式軍隊になすすべがなかった。しかし、イギリス・トルコ連合軍の反撃でフランス軍はカイロを去ることになる。
  英仏の軍隊が去った後、頭角を現し人民戦線から支持されたのはムハンマド・アリーで、オスマン政府により総督に任じられた。アリーは、その後、エジプトの支配をたくらむイギリス軍を撃退してアラブ世界の独立を確保し、残存していたマムルーク軍を絶滅して内政の安定を図った。彼は西洋流の文明開化と富国強兵を政策に掲げ、専門教育機関を開設し、ヨーロッパ各国に留学生を派遣した。交流が活発となるにつれ、カイロではヨーロッパ人が増加し、ナイル川に面するブーラク地区には外国人居住区が形成されていった。その後アリーは、オスマン帝国のスルタンより世襲支配を認められ、アリー家は半独立国のエジプトの君主となった。アリーは、カイロに記念碑ともいうべきガーマ・ムハンマド・アリーをシタデルに建設する。この建設に際しフランス国王から時計塔が贈られたが、その返礼にアリーはルクソール神殿入り口のオペリスクの一つを贈呈し、これはパリのコンコルド広場のモニュメントとなった。1863年に即位した孫のヘディーヴ・イスマイルは、パリで教育を受け、近代産業を興し、外資の導入を図るとともにカイロの西方のナイル河畔に至る地域に新市街地を建設した。鉄道、通信網、港湾施設、ナイルの護岸工事、大街路などのインフラ建設とパリをモデルとしたオペラ座、オスマン様式の建築、水道、ガス燈、公園を整備し、アズバキーヤ地区の繁華街を造り、現在のカイロの中心市街地を生み出した。さらにアブディーン宮殿を建設して為政者の居城を移し、シタデルを観光客に開放した)1969年に開通したスエズ運河の落成式にヨーロッパの賓客がカイロに集まることから、その滞在のためにゲジィーラ島のサムリク迎賓館(現在はホテル・マリオット)が建設された。
 ②イギリスの統治下
  カイロの都市整備は財政を圧迫した。イスマイルは財源確保のためスエズ運河会社の持ち株を売り出し、イギリスが即座に買い取り運河の筆頭株主となった。その後も増加する借金を払い続けることができず、イスマイル政権は破産し、エジプトは債権者代表の英仏の共同管理下に置かれた。その後フランスの撤退により、エジプトはイギリスの単独支配下に置かれる。このイギリス統治時代に、ナイル川東岸沿いにイギリスの総督府が置かれて都市開発が進められ、ガーデンシティと呼ばれる高級住宅街が形成されていった。
  20世紀に入ると郊外開発が始まり、カイロ東部の古代エジプトの創世神話の地ヘリオポリス近くに個人企業により同名のニュータウン(面積2、500ha)が開発され、カイロの市街地を拡大し始めた。

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ファストフードに見るグローバル化

『食で読み解くヨーロッパ』より グローバル化をコーヒーで読み解く
ヨーロッパに普及したコーヒーは、特に19世紀以降、世界の人やモノの流れが激しくなるにっれて世界各地で飲まれるようになった。コーヒーカップに砂糖やミルクを加えてコーヒーを飲む習慣は、広く世界に定着していった。これに応じてコーヒー豆の生産量も増加の一途をたどっており、2013年の世界生産量は約892万t。そのうちブラジルが297万tでトップを占め、ベトナム、インドネシア、コロンビアがこれに続く。コーヒーの生産量とともに消費量も増えており、まさに世界共通の飲み物としてますます浸透しつつある。
たとえば世界第2位の生産量を誇るベトナムのコーヒー栽培は、フランス植民地時代の1857年に始まったプランテーションでの栽培にさかのぼる。収穫されたコーヒー豆のほとんどはフランス本国に運ばれ、さらにヨーロッパ各国に輸出された。コーヒーは明らかにフランス経済を支え、ベトナムにおける主要産業に成長した。第二次世界大戦後にフランスの支配から脱し、ベトナム戦争を経て1986年にドイモイ(市場開放政策)が打ち出されると、ベトナムのコーヒーの生産量はさらに拡大され、この国の主要輸出品へと登りつめた。
その一方で、飲み物としてのベトナムコーヒーもよく知られている。強い焙煎による香り高いフレンチコーヒーに、酪農の発達が遅れていたことからコンデンスミルクが使用されるようになった。独特の風味と味わいが住民の間に定着し、今や毎日の暮らしに欠かせない飲み物になっている。
このほか、同じくフランスの植民地だったラオスや、ポルトガルの影響を受けたマカオでも、コーヒーは日常の暮らしの一部になっており、マカオの朝はもっぱらコーヒーとサンドイッチが定番になっている。日本でも、飲茶の伝統があるにもかかわらず、1864年に横浜の外国人居留地にコーヒーハウスが開かれて以来、コーヒーは次第に飲まれるようになった。今日の1人当たり年間消費量を見ると、コーヒーが2432 gで緑茶の847 gを大きく上まわっている(2015~2017年家計調査による)。
このようにヨーロッパから世界に広まったコーヒーを飲む習慣は、世界に共通の生活スタイルとして定着しつつあり、ごく日常的な暮らしに溶け込んできている。もはやコーヒーは、ヨーロッパの文化とはみなされないほどありふれた飲み物として各地で受け止められている。
ところがその一方で、1970年代以降に登場してきたアメリカ資本のコーヒー専門店によって、コーヒー消費の事情は大きく変わることになった。それは、これまでにないタイプのサービスを提供するもので、どの店でもまったく同じ手順で同じ装置を使って同じタイプのコーヒーがメニューに並べられた。店のレイアウトや看板もすべての店舗で同じような仕様になっており、注文方法やメニューもかなり共通のものにした。同じ名前の店であれば、世界どこでも同じ味のコーヒーを、同じサービスを受けながら飲むことができる。このタイプの店は、消費者に世界共通のものへの安心感や満足感をもたらし、あるいはアメリカ発信の新しい生活スタイルとして各地で受け入れられていった。
たとえばウィーンでは、この種のコーヒー店であるスターバックスが2001年に1号店をオープンさせた。1971年にシアトルで創業したこのコーヒー店は、それまでのいわゆるアメリカンコーヒーではなく、ヨーロピアンテイストのコーヒーを提供した。アメリカ合衆国内で反響を呼び、さらに世界的な展開を続け、そしてカフェの町ウィーンにもやってきた。当時、この開店計画が明るみになると、ウィーン市民の間には伝統的なカフェが客を奪われる恐れがあるとして反対の声があがった。しかし、予定通り1号店が開店。場所は、こともあろうか国立劇場が目の前という旧市街地の一等地にある歴史的建築物。まさにウィーンのカフェ文化に真っ向から挑戦するかのような進出ぶりだった。付近は往来が多く、観光客でにぎわう界隈でもあることから、コーヒー店の思惑は大いに当たり、連日多くの来訪客を集めてきた。
ただ、このコーヒー店進出の影響は、市民が恐れていたほどではなかった。従来のカフェは、引き続き多くの客を集め続けたのである。その理由は、カフェとコーヒー店それぞれで、訪れる客の利用のしかたにかなりの違いがあったからである。カフェでは伝統的な雰囲気のなかで会話や読書にふける人が多いのに対して、アメリカ系のコーヒー店では、カジュアルな感覚でコーヒーを飲むところとして、異なる客層の人気を集めた。その結果、カフェの大半が生き残り、その一方で、現在ウィーンには14軒のスターバックスが営業している。
このように17世紀以来、カフェの歴史を育んできたウィーンに、世界戦略を練った新しいタイプのコーヒー店が、20世紀後半以降、アメリカ合衆国から進出している。両者は激しく競合するように思われたところが、実際にはいずれも多くの客を迎えている。ウィーンにおいて、この新しいタイプのコーヒー店は着実に受け入れられており、ウィーン固有の伝統的なカフェと世界的なコーヒー店には一定の共存関係を見て取ることができる。
ここで改めて注目したいのは、ヨーロッパで普及したコーヒーを飲む習慣が世界各地に広がり、そしてさらに新しい世界戦略を練ったコーヒー店がヨーロッパに進出しているという事実である。同様のことは、ピザやサンドイッチなどのファストフードにも見ることができる。かつて世界各地へと広まったイタリア生まれのピッツァが、アメリカ経由でピザという世界共通の食としてヨーロッパ各地に浸透している。あるいは、冒頭に触れたヨーロッパにおける英語の普及も同じプロセスを踏んでいることがわかる。ヨーロッパから世界へと広まった英語が、今や国際語としてヨーロッパに定着しつつある、というわけである。
つまり現代のヨーロッパでは、世界各地に広がったヨーロッパ発祥の文化が世界共通の文化として、逆にヨーロッパに向かって流れ込み、取り込まれている。こうした一連の変化は明らかにヨーロッパでしか起こっていない。この流れをヨーロッパ固有のグローバル化とみなすならば、それは、それまで継承されてきた固有の伝統文化と、それが世界共通のものへと変貌した新しい文化が同居する状況をもたらすものということができる。つまり、ローカルな文化とグローバルな文化がせめぎ合い、共存するのが今のヨーロッパの姿といえるだろう。

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格差が進むヨーロッパの農村

『食で読み解くヨーロッパ』より 農村の変化をジャガイモで読み解く
不利な条件を抱えて暮らす人々には不公平感がつきまとう、これはアイルランドに限らない。そこで農村は食料生産の場としてきわめて重要であるという観点から、各国政府はもちろん、現在ではEUも条件の不利な地域に対して底上げのための補助金をあてがっている。なかでもEUの共通農業政策は、生産保護や農産物の品質の維持を進めて、質のよい十分な食料を確保する政策をとっている、農業に意欲的で質の高い農産物を生産し、環境に負荷を与えないような農業を行う農家や地域に対して補助金が提供されている。また、生活環境の保護や景観の整備も積極的に支援している。
さらにEUは、域内で消費者が安心して口にできる食料を自由に流通させるために農産物の品質を一定水準に保つための基準を設けている。たとえば農薬や肥料の使用量の制限や、家畜の場合は一定期間の放牧を義務づけている。ワインの場合、醸造の過程で発酵を促進させるために糖を添加することが多いが、EUは生産地の条件に応じてその量を厳しく規定している。
しかし、それでもこうした基準をクリアするのは農地の条件によってはかなり厳しく、それが新たな不平等を呼んでいる。特に東ヨーロッパでは、基準をクリアして成長する地域とできない地域の差が大きくなっている。
東ヨーロッパの農業は、かつて社会主義体制において国の統制下にあり、生産量の目標値だけが設定されていた。そのため、農家は農産物の質の向上には関心が薄く、生産ノルマをこなすために大量の化学肥料と農薬を投入した。その結果、土壌は汚染され、多くの化学物質を含む農作物が出まわっていた。
それが自由経済に移行し、さらに2004年以降、EUに加盟したことによって、販売の機会が大きく広がった。しかしその半面、農家は厳しい規制にさらされることになった。その結果、市場の拡大を最大限に利用して拡大をはかる農業地域が出現した一方で、規制に対応できず農業をあきらめざるをえなくなった農家も各地に現れてきた。
発展している農村の例としてハンガリー南部の農業地域があげられる。もともと肥沃で日照量の多いこの地域では、コムギなどの上質な穀物生産が盛んなほか、優れたワインの産地としても名をあげている。なかでもハンガリー最南端に近いヅィラーニ村は、知る人ぞ知るヨーロッパ最高水準の赤ワインの産地に成長している。カペルネフランCabernet Francをはじめ、ハンガリー特有のケークフランコシュKekfrankosなどの品種が中心で、その芳醇な味わいは多くのワイン通をひきつけてやまない。ゲレGereやテイッファンTiffanといったヨーロッパでも屈指の蔵があり、シーズンともなれば多くの観光客も訪れている。EUではワインを販売する際にボトルに生産年や畑の名称、品種などを明記することが義務づけられている。ハンガリーがEUに入ったことによって、ワイン醸造家はこれらの基準を満たす質の高いワイン生産に力を入れた。EUはそうした優良農家に補助金を提供しており、優れた農機具や醸造設備を整えて、より上質のワイン生産に取り組んでいる農家が増えている。
一方、これとは対照的に条件の不利な地域の実態は深刻である。たとえばルーマニア西部のトランシルヴァニア地方の丘陵地では、地力がやせていて日照量が少ないなどの不利な条件とともに、農業に関する最新の情報が少なく、新しい農業の展開が遅い。ここでは社会主義時代から自家製のジャムやワイン、ハチミツなどが庭先で販売されてきたが、ルーマニアがEUに加盟した2007年以降、基準に合わない製品の販売が禁止され、従来のものが売れなくなった。全般に経済水準が低く、農民の間に新しい農業技術に関する知識が浸透していない。そのため、農業をやめて首都ブカレストに転出したり、西ヨーロッパの都市に出稼ぎに川たりする人々が増えており、人口の流出による経済の停滞に直面している。
東ヨーロッパには、さらに深刻な経済停滞地域がある。ロマが暮らす農村である。ロマはヨーロッパに約1000万人いるといわれるが、その数は定かではない。きちんとした統計がないのは、差別があるために国勢調査で自身を明かさないからである。
ロマというと貧困で社会の底辺をなす人々というイメージがあるが、もちろんそれがすべてのロマにあてはまるわけではない。ただ、東ヨーロッパの農村には、とりわけ厳しい状況に置かれているロマの人々がいることは確かである。その大きな理由は、かっての社会主義体制にある。  1950年代、東ヨーロッパ諸国では一斉にロマ放浪禁止令が出された。当時の東ヨーロッパには、幌馬車で移動して行商するロマがいた。しかし、理想の社会を目指す社会主義政権にとって移動生活は望ましいものではなく、彼らを強制的に定住させる政策がとられた。これによってロマの人々は住宅があてがわれたが、彼らを待ち受けていたのはロマが近隣に来ることを望まない地元住民たちだった。彼らには排除の目が向けられ、嫌がらせや暴力が日常茶飯事になった。
1960年代になると、そうした環境に耐えきれずに逃避するロマが増えてくる。その行く手の多くが、産業の発達が遅れた経済停滞地域だった。そこはあらゆる変化に乏しく、経済水準が低く、ロマ排除の動きも鈍かった。特に目立ったのが、人が去って空き家が多く目立つ町や村への移動であり、その最たる場所が廃村だった。
社会主義時代、束ヨーロッパには多くの廃村があった。これはこの地域特有の事情による。第一次世界大戦後、それまで東ヨーロッパに君臨していたドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国、口シア帝国、オスマン帝国が相次いで崩壊し、いくつもの国家の成立とともに新たな国境線があちこちに引かれた。それに伴って多くの住民がそれまでとは別の国に組み込まれることになった。たとえばルーマニア西部のトランシルヴァニア地方では、ハンガリー領からルーマニア領に変わったために、約40万人ものハンガリー系住民がルーマニア社会から逃れてハンガリーに移動した。また第二次世界大戦時には、ドイツ以東の東ヨーロッパから200万人を超えるユダヤ人がドイツの強制収容所に移送された。さらに大戦後は、東ヨーロッパ全体で1000万人以上のドイツ系住民が強制的に国外に追放された。
こうして東ヨーロッパでは、20世紀前半に住民が大挙して移動する事態が頻発した。そのほとんどは望まない移動であり、あるいは長く住み慣れた家を強制的に追われることになった。多くの家屋は住民が持ち出せなかった家財道具が残されたまま、社会主義体制のもとで国民に再配分された。しかしその後、国によって新しい住宅がつくられると、住民の多くが転出するようになり、古くからの村は次第に一般の人々が寄りつかなくなった。特にトランシルヴァニア地方をはじめ、ルーマニア西南部のバナート地方、ハンガリー南部、かつてズデーテン地方と呼ばれたチェコ北部などの国境地域では、廃村、もしくはそれに近い状況の村があちこちにあったようだ。ここは差別に苦しむロマの人々にとって格好の逃げ込み場所になった。こうして廃村にロマが住む構図が生まれた。
廃村におけるロマの暮らしがいかに劣悪な状況だったかは、容易に想像がつく。電気や水道の施設は老朽化の一途をたどり、学校や医療施設などの生活基盤も整っていない環境でロマは生活し続けてきた。彼らがそこに暮らしていることすらあまり知られず、地図にない村の人々、などと揶揄されたりした。1989年に始まる政治改革によってようやく国や自治体による支援活動が行われるようになり、彼らが住む地域の整備も事業計画に盛り込まれた。しかし、彼らに対する差別はあり続けており、生活環境の改善はなかなか進まず、劣悪な環境での暮らしが続いている。
こうしてみると、そもそも地域間の格差を是正するために進めているEUの農業政策が、実際には格差を拡大させてしまっていることに気づく。EU全体の発展を目指すことによって、これに見合わない地域が現れているのである。アイルランドの飢饉にイギリスが何ら手立てを講じることもなく、多くの犠牲者を出してしまった歴史を教訓にして、経済停滞地域にいかに手を差し仲べてゆくかが今後のEUの課題であることは間違いない。

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豊田市図書館の24冊

134.96『存在と時間1』
134.96『存在と時間2』
134.96『存在と時間3』
134.96『存在と時間4』
134.96『存在と時間5』
213.7『女たちのアンダーグラウンド』戦後横浜の光と闇
146.8『死と愛』ロゴセラピー入門
130.4『世界の哲学者に学ぶ人生の教室』
130.2『創造と狂気の歴史』プラトンからドゥルーズまで
727『数学から創るジェネラティブアート』Processingで学ぶ かたちのデザイン
147『多次元パラレル自分宇宙』望む自分になれるんだ!
336.57『誰でもできる! LINE WORKS導入ガイド』
293.7『イタリアマル秘旅行術』しっていると10倍楽しめる達人の知恵60
222.07『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』
519.03『地球環境辞典』
509.5『小説 第4次産業革命 日本の製造業を救え!』
596.7『珈琲の表現』
007.3『アルゴリズムはどれほど人を支配しているのか?』あなたを分析し、操作するブラックボックスの真実
933.7『図書館司書と不死の猫』
383.83『食で読み解くヨーロッパ--地理研究の現場から--』
162.1『宗教と社会の戦後史』
901.3『物語は人生を救うのか』
007『IT用語図鑑 ビジネスで使える厳選キーワード256』
933.7『たいせつな人へ』

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松屋の卵かけごはん

 豊田市図書館の24冊 4月以降、フルになったことがない。
 朝食が食べたくて、松屋へ。卵かけごはん。
 進行中を描き出そう。あまりにも膨大なので機械的になっている。
 時間的に焦る必要はない。無尽蔵。尽きたら、そこまでの話。偶然に従う。答はそこにあるのだから。
 二兆年後の再会というけど、何と会うのか?
 朝食に290円も掛けてはダメ。10枚切り食パンなら200円以下で5日間当てられる。

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無は無

 無は無
 どこでも行けるのにどこにも行かない。何でもできるのに何もしない。

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