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福島原発事故の国民生活への影響

『新版 原子力の社会史』より

周辺地域住民への影響について主要なものを五点に整理してみる。

 第一に、住民の間で急性放射線障害の症状が確認された者は、二〇一一年七月末現在でまだ出ておらず、もちろん死亡者も確認されていない。しかし地震・津波で負傷したり瓦傑に埋まった被害者のうち、迅速に現地で救助活動かおこなわれていれば助かったかもしれない人々が犠牲になった。福島第一原発から二〇キロ圏内では放射能汚染のため救助活動がほとんどおこなわれず、原発事故のために生命を落とした住民が少なくなかったとみられる。

 第二に、福島原発事故は十数万人にのぼる周辺住民に、避難行動・避難生活を強いることとなった(半径二〇キロ圏内の市町村だけで七万八〇〇〇人が居住していた)。そうした住民のなかには、避難行動・避難生活により生命を落とした人々も少なくないとみられる。とくに老人や病人には難儀だったであろう。無事だった人々も例外なく家族・住居;エ地・職場・学校等の生活基盤を完全に失うか、もしくは大きく損なっている。それに加えて遠方に避難した人々を除く多くの避難住民は、事故拡大リスクに直面しつづけた。冷却水注入によって三基の原子炉は三月下旬以降、小康状態を保ってきたとはいえ、巨大余震など何らかのきっかけで事故が再燃する可能性が残っているからである。かりに事故がこれ以上拡大しなくても、放射能汚染のためにチェルノブイリ事故のときと同様、避難住民の多くは数年から数十年にわたり故郷に帰れない可能性が高い。

 第三に、警戒区域(福島第一原発から半径二〇キロ圏内)や計画的避難区域(年間二〇ミリシーペルト以上の被曝が予想される区域)など政府が指定した地域の範囲外に居住する人々のなかにも、自主的に避難した人々が多い。そうした人々は高い放射線レペル、事故拡大の危険、子供の健康への配慮等の事情を総合的に考慮したうえで、それぞれ判断を下したと思われるが、東京電力や政府から何の保護・補償・支援も得られていない。

 第四に、福島県の相当部分は、原発事故によって高濃度に汚染された。放射線管理区域(年間五ミリシーベルト相当)に匹敵する被曝線量の地域が、福島市・郡山市も含めて広範囲に広がっており、被曝による健康リスクや、それを最小限にするための対策によって生活上の不自由が生じている。なおこうした福島第一原発の近郊地域に住む人々にも、事故拡大リスクが汚染地域住民と同様に、覆いかぶさってきたことは否定できない。

 第五に、福島県とその周辺地域の農畜産業者や水産業者が、農地や家畜を失い、あるいは生産物の出荷停止を強いられることによって大きな被害を受けている。そのなかにはいわゆる風評被害も含まれる。もちろん農畜産業や水産業だけでなく、周辺地域の商工業への打撃も大きい。

首都圏住民を含むより広範囲の人々への影響について、これも五点に分けて整理する。

 第一に、首都圏住民等は事故拡大リスクに直面した。もし格納容器の爆発的破壊などが起きれば、風向き次第では首都圏一帯が高濃度汚染地域となり、放射線防護をせねばならず、さらには疎開の可能性をも検討せねばならなかったからである。とくに小さな子供を抱えた家族にとってこれは真剣に考慮すべき問題であった。遠方に家族・親族等の疎開先のあてがあるならば、疎開はきわめて現実的な選択肢であった。なぜなら首都圏等では三月には放射能問題のみならず、計画停電問題や物資不足問題なども重なっており、また学童の授業がおこなわれない期間でもあったので、疎開はごく自然な選択肢であった。結果として首都圏にさほど高濃度の放射能が降らなかったことは、疎開が必要なかったことの根拠にはならない。「予防原則」が防災の基本である。

 第二に、首都圏住民の食生活にも大きな影響が出た。三月には飲料水の摂取が一部で制限された。また福島県を中心とする東北・関東地方でとれた農畜産物や海産物が放射能で汚染され、その安全性についての懸念が高まり、なかなか解消されなかった。

 第三に、首都圏住民を含む関東地方全域の住民は、東京電力の「計画停電」(輪番停電)によって大きな被害を受けた。交通機関も数カ月にわたって減便を余儀なくされた。鉄道駅に設置されているエスカレーターの多くが停止され、心臓や足腰が弱いか、あるいは痛めている乗客は、筆者を含めて苦難を強いられた。東京電力は三月一四日から管内を五つの地域グループに分け、地域グループごとに実施時間を設定して、一日三時間から三時間半程度の強制的な停電を実施した(それが一日二回におよぶことも多かった)。ライフライン施設と呼ばれる停電による社会的影響の大きな施設(病院など)も例外ではなかった。ただし東京二三区内は北部の一部地域をのぞいて対象外となった。東京電力がどのような顧客を重視しているかが、これによりおのずと浮き彫りになった。つまり大口需要家に過度の負担をかけず、東京に本社をもつ大手企業を優遇するという姿勢である。計画停電は週末をのぞいて、三月二八日までの二週間にわたってほぼ全日実施された。その後は時折実施される程度となった。東京電力はようやく四月八日になって、今後は原則的に実施しないと発表したが、三週間以上にわたる国民生活への影響は甚大であった。なお東北電力は計画停電を実施しなかった。

 第四に、東京電力・東北電力管内はもとより日本全国の企業や住民が、二〇一一年夏において電力不足問題に直面することとなった。東京電力・東北電力については政府の電力使用制限令大口需要家に一五%削減を義務づけるもの)が七月一日から三七年ぶりに発動された。石油危機たけなわの一九七四年以来のことであった。東日本太平洋岸のすべての原発が運転停止となり、火力発電所も多くが地震・津波の被害を受けたので、この二社については電力需要がピークを迎える夏期の電力不足は避けられなかった。だがそれ以外の電力会社も大きな影響をこうむった。都道府県知事は運転中の原発について停止を命ずる権限をもたないが、定期点検等で停止していた原発の運転再開に関しては慣例的な拒否権をもつ(ただし法的裏付けはない)。地元自治体が運転再開への合意をしぶれば、全国の原発は定期検査のたびに無期限の停止状態におちいり、やがて全機停止することとなる。そうした状況下において、原発依存度の高い電力会社は電力需給逼迫問題に直面する可能性があるのである。

 第五に、福島原発事故の収束・復旧と損害賠償に要する費用は数十兆円に達するとみられ、復旧までに要する歳月としては数十年が見込まれる。たとえば三〇年間で五〇兆円というのは現実的な見積りである。東京電力を会社清算し資産を売却してもI〇兆円程度しか回収できない。株式、社債、融資については金融業者に債権放棄してもらうのは当然だが、正味の資産をすべて一般公開入札で売却しても、損害賠償および事故処理・復旧のための費用のごく一部しか返済できない。残りの大半は政府が数十年にわたり返済していくしかないので、巨額の国民負担が発生するのは避けられない。単に原子炉施設の解体・撤去をおこなうだけでなく、周辺地域の汚染した表土の回収・処分を徹底的におこなうならば、数百兆円を必要とするかもしれない。その重荷が日本の財政破綻をもたらすおそれもある。それが回避されても大幅増税による国民負担増とそれによる一層の景気低迷はさけがたい。
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図書館回り

未唯へ

 木曜日の祝日は、半分を部屋の掃除をします。ロバニエミから帰ってこなかった時の準備です。

ICレコーダーを忘れた。

 外出する時に、ICレコーダーを忘れてしまった。その時に思ったことを述べることができなかった。ノートの端っこにキーワードだけを書いていました。

図書館周り

 今日は図書館を二つ回った。2週間に一度の岡崎図書館と土曜日に行けなかった豊田市図書館です。

 岡崎図書館では限度10冊です。岡崎は3ヶ月、新刊書を保有しているので、以前借りた本を2冊も借りてしまった。変わったところでは、『ヴァイオリニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』です。どの筋肉を使うとか、仔細に述べられている。こんな所まで意識して演奏しているんですね。

  289.3『アインシュタイン 下』その生涯と宇宙
  I451.8『低炭素社会のデザイン』ゼロ排出は可能か
  003.7『ドラゴンフライエフェクト』ソーシャルメディアで世界を変える
  375『ボランティア教育の現象学』他者支援を教えるとは何か
  377.9『宮台教授の就活原論』
  539.0『新版 原子力の社会史』その日本的展開
  007.3『リアルタイムメディアが動かす社会』
  943.7『シュダルタ』
  010.1『知をひらく』「図書館の自由」を求めて
  763.4『ヴァイオリニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』すべての弦楽器奏者、必読! ボディ・マッピングによる「正しい身体の使い方

 老人ホーム経由で、豊田市に行くまでの、7冊を片付けてしまった。やはり、10冊というのは少なすぎる。

 豊田市図書館では10冊です。ふだんは24冊ぐらい借りているが、何しろ、乏しかった。土曜日の朝10時に新刊書はオープンされているので、完全に出遅れです。それでも、もう少し、あってもいいのに。

  070.17『最前線の報道カメラマン』
  319.8『非核兵器地帯』核なき世界への道筋
  319.53『55人が語るイラク戦争』9.11後の世界を生きる
  289.3『ハドリアヌス』ローマの栄光と衰退
  914.68『人間はすごいな』
  675『マーケティングの諸問題』
  021.2『文化のための追求権』日本人の知らない著作権
  510.9『雇用連帯社会』脱土建国家の公共事業
  007.3『監視スタディーズ』
  818『県別 罵詈雑言辞典』

 夜の11時までに、『ハドリアヌス』以外は対応しました。今週は未唯空間に専念できます。
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環境塾第10回講義メモ

テーマはちょっと長いです。 「人類の将来を左右する地球温暖化、生物多様性の減少、化学物質の氾濫の現状と対応策」です。

三つの関係をどう考えている。事前の資料解析ではバラバラでは答えがでていない。有限と人間のあり方が課題になればいいけど、どうなっているかの照会です。

横浜はスマートシティを目指している。国大の教授だから、それには絡んでいるのでしょうか。

本当に環境右派です。環境には結論はない。実感がないところでは、いくつでも答えが存在する。環境でも皆、理解してもらうのは、数字よりも実感ですね。

IPCCは信じられない。どう見ても、ごまかしですね。国を維持して、国民を動かすための仕掛けです。

クライシスでも分かるように、自然のなかで生きていくしかない。気候変動についても同様です。人間が現れた方のが、気候変動よりも地球にとっては、大きなモノです。

数字として、人間の数と気候変動との関係があれば、人間の数を減らすことを主張するのでしょう。もしかすると気候変動で人の数が増えたのかもしれないのに。日本はプレートの上にいる。自然の中にいる。温暖化もその一部になる。その中でどう暮らしていくのかの知恵だけが答えになる。
自分に納得させるために話している。くどい。それだけ自信がないのでしょう。人間が生まれてきた。あなたが生まれてきた。それがある限り、すべてを受け入れないといけない。イヤなら、人間を淘汰することです。

海を変化していることを止められるのか。止めすぎたらどうなるのか。生態系のバランスを壊したのは人間なら、それを駆除するか、新しいバランスの中で生きるしかない。

なにが目的なのか。グローバル支配しかない。国がそれだけの負担を市民の押しつける権利をあるのか。今まで、散々、混迷している国では何の方向が出てこない。

燃費が下がれば、エネルギー効率が変わるのか。使わない生活を場所を変えずにできるような生活とその中での意識で変われる。エアコンがエネルギー効率が倍になっても、我が家では使っていない。一番のポイントは、その時に皆が幸せになれるのか。

技術では何も変わらない。今を作ったのは技術だから。今後の技術で必要なのは、インフラです。産業のソフト化のように、モノを作らないことです。

技術ではICTのような、人間の生活を変えることであり、個人レベルからコラボレーションで自分たちで考えられる。車の技術の歴史は環境を悪くする世界でした。車を買ってもらうことが目的だから、どうしようもない。

日本は30年で家を建て替える。これ自体が問題です。オール電化と言いながら、自動食器洗いを入れることは矛盾です。自己満足だけです。理想的な土地づくりのために、津波に流されて、作り出すこと、その発想はおかしい。CO2削減が人生の目的なのか。

主体になるのは何? 企業、国、行政。それだけが問題です。

今までが、地球温暖化の感想です。次は生物多様性です。

「生物絶滅」というのはおかしい。人間は生物を絶滅で生きてきた。民族を絶滅させることはふつうです。元々。淘汰の歴史です。気候変動に対応できるモノが総取りする。

人間に有用かどうかが判断基準になる。身近にいないから、気がつかないと言っているけど、それでいいんじゃないのか。

バランスのとれた多様性をどう維持すると言うけど、実感がない。人間の多様性が崩れているのは、分かるけど。

生物多様性保護は、誰が、どのように「保護」するのか。だから、理念だけです。それ以上のモノができない。企業でのモノ作りに振れないから。市民レベルには浸透しないし、浸透してもアイデアはない。

神は地上のモノと地下のモノのいずれを先に考えたのか、作り出したのか。地下は後から勝手に作られて、自然で残された来たのでしょう。

午後から、ディスカッションです。地球温暖化に関して、急に言うことが変わってきた。IPCCは出てこなくて、市民の「意識」を求めるようになってきた。それなら、資料で展開しておいてほしかった。

規制という考え方になっている。主体は国なのか。原因と結果が逆になっている。

書いていることと言っていることが違う。国の力ではできない。強制力では維持できない。餌では無理です。政府の規制で何でもできると思っている。

「見える化」でごまかそうとしたので、それは「ゲーム化」で攻撃した。それだけで終わってしまう。言葉でごまかして欲しくない。

論理が一貫していない。資料とディスカッションの中身が異なる。要するに、口から出任せです。建前をいくらでも変えていく。だから、あなたに答えを求めない。

意識を変えるために、何が必要なのか、というときに、国からのスマートグリッドに頼ろうとする。そこで思考をストップさせる。道具で考えていくからです。説明がすべて、後付けです。社会モデルを持っていないから、素人相手のごまかしになっている。

生物多様性はあきらめたときから、問題解決は変わってくるのに、中途半端です。
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「ゲーム化」が進んでいる

未唯へ

 体重もエッセイもなかなか進みません。勝負を掛けないといけないけど、精神的に体力が持つかどうか。追い込まないといけないけど、かなりしんどいです。

 何となく、風邪っぽいです。寒いからでしょうか。こんなに季節が揺れていては、適応できません。

 名駅地下街のスタバの悪さはトイレがないことです。飲むとトイレに行きたくなります。

第10回講義

 生物多様性はあきらめたときから、問題解決は変わってくるのに、中途半端です。多分、考える範囲が違うんです.私が一番大きいです。

 環境問題にしても、それだけで片付かない.問題の定義からしても、大きくならざるを得ない。それに対して、聞いている人たちは、そんな世界はイメージしていない。自分の身の回りのことしかない。それと仕事のことしかない。

 チューターは自分のテリトリーはキッチリさせています。それ以外は全て排除です。だけど、その範囲ではものごとは解決しません。かといって、ローカルにいる人に、グローバルまで考えろと言っても難しい。

 だから、役割分担が出てきます。これは組織ではないので、命令系統ではなく、全体を考える役割です。ローカルでそれを実現して、グローバルに伝えるというのがサファイアの考えです。

「ゲーム化」が進んでいる

 結局、CO2を削減するというゲームに参画する。それをゲームとして、成り立つと思える人と、そうでない人がいる。こんなことはゲームではない。最後が幸せにつながらないからです。

 ごみの問題の分別も、レジ袋の有料化も、皆ゲームです。楽しめないです。

無視されること

 無視されることは、私にとってはやさしさです。家でも職場でも同様です。

追い詰めるために

 未唯空間を行う時には、スケジュールにμと書きましょう。その面積を増やすと同時に、スタバとかバスとかの時間の横に書きます。

 ICレコーダー録音の感度を2にしました。なんでも話しましょう。

 自分をどこまで追い込めるか。先ほどのバスの中では結局、寝てしまっていた。

 例えば、スタバで一時間、時間があるとしても、なかなか取り掛かることができません。この優柔不断さが課題です。

 スタバのクッキーで280Kcalです。他に比べると低いです。そういう意味では十分な栄養です。朝、食べるものはこれだけです。先週は土日を含めて、対応できた。食べることに神経を使わない。


公共図書館の概念は英国で生まれた

 元々、地産地消も公共図書館も自分たちでやれることをやっていく。これが民主主義の本来の姿です。行政でできることは通り一遍のことです。そんなんではできないです。

 一番、分かりやすい例が図書館の開館時間の拡大でしょう。個人的には図書館と生涯学習、その延長線としての社会ライブラリです。
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〝部分〟をつなぎ〝全体〟を最適化する

『自分たちの力でできる「まちおこし」』より

なぜ、A市の数々の地域活性化策は機能しなかったのでしょう?

それは、すべての施策がパラパラで、それぞれの成果が地域全体に波及しなかったためです。つまり、商店街や工業団地、温泉地域が抱えている問題を個々に解決しようとしていただけで、全体最適化にはつながっていなかったのです。

目先の成果を追い求めて部分最適化に没頭すると、必ずどこかで弊害が出てくるということに気がつくべきでした。

例えば、市長が優先的に予算を費やした温泉地域の活性化策ですが、温泉宿はA市全体の2万世帯のうち、10軒(世帯)しかありませんでした。わずかO・0005%のために委員会を立ち上げ、検討に入っていたわけです。地域にとっては、主たる産業の農業をどうするべきかのほうが大きな問題です。もっといえば、その点にどう広がりを持たせてまち全体を強化していくかを施策の重点課題にすべきだったといえるでしょう。

商店街の空き店舗対策も部分最適化の域を出ませんでした。アーケードの補修や朝市の開催など、行政の支援が中心商店街ばかりに注力するのではなく、まち全体との関連づけを考えることがとても重要です。

市の貴重な財源を「部分最適化」に費やすのではなく、なるべく多くの人が関わって広がりのある「全体最適化」につなげることを考えなければ、地域活性化の継続・進化は望めないのです。

では、地域活性化を実現できたまちとは、いったいどのような状態を指すのでしょうか?

その基準としては、次の2点が挙げられます。

 ・一部の地域、一部の関係者のみの事業とならない、地域全体を見据えた広がりを持つ利より害の少ない政策策定と、その実現度(可能な限り地域に利より害の少ない政策)
 ・地域全体で必要とされている人財育成のシステム化と、その実現度

そして、このことがI人あたりの市民(県民)所得の増加に、どの程度、貢献しているのかが地域活性化の客観的なモノサシになると考えています。

もう少し詳しく説明しましょう。

全体最適化に必要なことは、次の5つに分けられます。

 ①地域内産業の売上や県民・市民所得の向上
 ②人財の育成と定着率の向上
 ③地域で汗する人たちを評価する仕組みづくり
 ④女性・若者・年配者の活躍の場の創出
 ⑤新しい産業・文化おこし

次章からは、それぞれのポイントを押さえた実例を紹介していきましょう。

まずは常勤者同士の情報共有と役割分担

ここまで様々な事例の紹介と解説をしてきましたが、一度、わがまちを冷静に眺めてみてください。

若者が都市に流出していませんか?

まちの主要な産業が、誘致した企業によって打撃を受けていませんか?

商店街に空き店舗が目立っていませんか?

市町村民I人あたりの所得が年々落ちてきてはいませんか?

起業より廃業が増えていませんか?

なかには、その複数が当てはまるところもあるでしょう。そうすると、まちの皆さんはこう思うでしょう。

「いったい、何から手をつければいいのか……」

地域活性化といっても、何から始めていいのかわからないという点は、まちづくりの現場や講演の場でよく質問されることでもあります。

まずしなければならないのは、地域の中で30~40年と勤め続けるまちの諮冨勤者〃同士が、しっかりと話し合う場をつくることです。行政、商工会議所、商工会、農協、漁協、地域金融機関、近隣の大学、小中学校の教員の皆さんなどがカギとなります。地域のために〝住む〟覚悟を持って、汗を流している常勤者がひとつの場に集まり、全員が考えや意見などを出し合うことです。
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地域活性化に求められる2つの“気づき”

『自分たちの力でできる「まちおこし」』より

私は全国の地域活性化の動向に関して、特に農商工連携や6次産業化などの事例の解説、地域リーダーの育成に関する講演、地域ブランド創出の協力やアドバイスについての依頼を受ける機会が数多くあります。

そこでよく聞かれるのが、次のような質問です。

「まちの活性化とはどのようなことなんですか?」

「わがまちの魅力は何でしょうか?」

「何を地元資源にするのが一番有効なのでしょうか?」

「地域活性化を進めるにはどうすればいいのでしょうか?」

どれも一言では答えられない質問ですし、それぞれの産業・文化や歴史などまちの実情を見て、汗して努力してきた皆さんに会わないことには何ともいいようがありません。

そこでまず、地域活性化の2つの“気づき”を考えたいと思います。

ひとつ目は、“地域をよく知る機会の創出”です。

自らのまちの貴重な資源を知ることができれば、地域間の比較ができ、まちに愛着心を持てるようになります。特に、子どもたちに「恕」の心を持って自分の生まれ育ったまちを知る機会を創出することが、地域活性化にはとても重要といえます。

「恕」とは、相手の心情や事情を察して思いやるという意味で、地域づくりには欠かせない志だと考えています。一部の人だけではなく、より多くの人が恩恵を受ける仕組みづくりが必要なのです。

例えば、私は小樽市職員時代に3世代交流の『まち並み産業散歩(兼まちの語り部育成)』や、子どもたちが自ら考えて地域の人たちとともにものづくりから販売までを体験する『キッズペンチャー塾』などを企画・実現してきました。こうした取り組みを通じて、子どもたちが地元の産業・文化や汗を流して努力している人たちと触れ合う機会となり、わがまちの素晴らしさに気づいて地域に大切な継続的な人的資源の確保につながるきっかけをつくることができたと考えています。

ふたつ目は、〝地域活性化とは「部分最適化(部分的に最もよい状況)」から、「全体最適化(全体的に最もよい状況)」を図るということ〟です。

「衰退した中心市街地をどうしますか?」

「一刻も早く、空き店舗や空きビルを埋めなければなりません」

「来年度は、温泉地域の宿泊観光客数を10%増やしましょう」

これらは「部分最適化」の話です。中心市街地や温泉地域は、あくまで一定の広がりをもつ地域の一部に過ぎません。地域活性化を図るという目的で、そこに人財や資金を注ぎ込んでも、効果は一過性のものに終わってしまうでしょう。そのことが広がらず、継続・進化しない原因といえます。

もう少し、部分最適化の弊害について説明します。

例えば、行政が起業セミナーや企業誘致活動を企画する場合、出席者数や企業誘致数といった数値目標を最優先にしているケースが目につきます。起業セミナーの開催は出席者の中から起業者が出ることが目的であり、企業誘致活動は誘致数より地域の主たる産業や既存企業との連携による。地域産業全体の強化〃が最大の目的と考えます。

後者を例にすれば、誘致数(部分最適化)を重視するあまり、誘致後に地元企業が弱体化するのでは本末転倒といえます。ぶ?より量yの多い政策であれば、実行しないほうが賢明です。まちづくりに関わっている人は「全体最適化」の考えで、今、地域に求められていることは何かに気づかなければなりません。私はこのことを小樽市の産業振興課長時の2002年から力説しています。

「全体最適化」を目指すためには、ここに挙げたようなまず「部分最適化」をつなげて広がりを出す創意工夫が何よりも大切です。つまり、問題となっている中心市街地や温泉地域をまち全体の活性化計画の中に位置づけ、それぞれの部分的な活性化を地域全体に波及するように配慮することが重要です。
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明日の講義への武装化

未唯へ

 サウナで、体重測定。2日間でマイナス0.6Kg。ちょっときついですね。

 発熱する手袋をサークルKで買いました。朝、着けていたが、何も変わりません。小物ばかりを買っています。似たようなものばかりです。ロバニエミではそれらを重ね着するしかない。

 布団乾燥器は明日は買えないので、日曜日に買ってきます。これが決め手です。スポット暖房ができます。コンパクトだから、フィンランドに持って行きたいけど、やはり、邪魔ですね。

コミュニティの構造

 コミュニティの構造とその生成過程。自分がやるわけではないから、いくらでも描けます。これをやれる人はいくらでも居ます。地域の活性化の主導権を握ってはいけません、

明日の講義資料

 明日の講師は資料を見る限りは、環境右派です。だから、どうするかがハッキリしない。知っている情報をすべて取り上げています。それも自分で得たものではない。今時、IPCCが間違いでないという感覚がわからない。

 IPCCなんて、信じるわけないでしょう。原因と結果をあえて、逆転させている。国の意図が働いているとしか主でない。130カ国とは、4000人以上の専門家とか、数だけを言っています。人の含みがないです。国とか行政だけでできるはずがない。国は破綻しています。何の政策を出ないです。

 メーカーの技術も儲からないとやらないです。儲ける基準がグーグルなどで変わってきているが、日本のメーカーは相変わらずです。重要なのは、市民生活を犠牲にして、そんなことをするかどうかです。環境に市民生活を犠牲にするだけのメリットがあるのか。その結果、2030年にはどうなっているのか。

 そういう意味では、現実的な解を考えてほしい。こうなっていると伝えるだけでは意味がない。

節食生活

 土日に食べずにいられるかどうかが20日後の健康診断へのポイントです。サークルKの焼き鳥が食べたい。それと老人ホームでの間食が鬼門です。低カロリーのポッキーにしましょう。

 目標はウエストに変わりました。メジャーの使い方が間違っていて、4cmばかり、減っていた。83cmmが87cmです。メタボの基準の85cmまで、20日間で落とします。

明日の講義への武装化

 明日の講義への武装化をしています、資料のアウトライン化を進めています。これさえあれば、資料をすべて、頭の中に入るので、資料の説明を聞くと同時に、分析します。こんなことを一方的に、勝手に言われたらたまらない。

 生物多様性は何回聞いても、こんなことをやらないといけないのかという感想しかもてない。何の意味も持たないです。偶々、拾ってきた「国際会議」が生物多様性というだけで、愛知も名古屋に何の縁もゆかりもない。生物多様性の損失を止めるために、効果的な、かつ、緊急な行動を開始すると書いてあるけど、どこにも行動が書かれていない。誰がやるのかわからない。

 その結果、どうなるのかも分からない。すべて、分からない。これは低炭素社会への取り組みでも同じです。だから、どうするのか。温暖化があるでしょう。CO2が増えているかもしれない。その間の関係が明確になっていない。人間の行動をとめない以上、CO2は必ず、発生します。

 CO2と人口増加は関係を持っています。先ほどの論理からすると、人間の25%減が有効対策になります。それだけのことです。だから、CO2を減らすことに情熱を燃やして、どうなっているのか。2050年、どうなっているのか。お金を使い切った社会です。人間関係はスタズタです。レジ袋の有料化を豊田市が行って、環境がよくなったのか。嫌な思いだけが増えている。後は万引き問題です。何しろ、商品を持ったまま、店内をうろつくことが堂々とできるのだから。

 多分、2030年にはCO2は増えているでしょう。「国」がやる以上は大体、そんなものです。京都議定書でも、6%減が6%増になります。国が当てになるのであれば、原発もなくなっていた。まじめに考えて、行動していれば、自明だったはずです。メーカーと同じように、自分のことしか考えていないのが、政治家です。

 もし、明日、このままの資料を読むのであれば、最前列で無視します。時間の無駄というよりも、存在の無駄です。
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エコポイントとエコカー

『不便から生まれるデザイン』 

『今後は、不便が基本になる」

エコポイント

 次男が「自動車免許とるの、気がノラない」と言う。エコエコ言いながら、C02を排出することがわかっている装置を使う気にならないとのことである。息子がバオレの下宿にはテレビがない。なんでエコポイントもらえないんだ」と言う。実家のテレビは生産にも使用にもCO2を排出することがわかっているのにエコポイントがもらえたが、オレはそれ以上にCO2排出削減に寄与しているんだとのことである。

 それでは経済が回らないと答えてみる。回らないと学校の先生や消防署の人の給料はどこから出したら良いんだと問うと、息子は以下のように答えた。「消防署の横で畑してるおばあちゃんがいるよね。そのすぐ横で訓練している消防署のお兄さんのサラリーの一部は、おばあちゃんが育てた息子たちがサラリーマンになり、そのサラリーの一部を出し合ったものだ。そんな遠回しのと、直接大根何本かをお兄さんに渡すのと、お兄さん的にはウレシさ同じではないのか」。フローの可視性という意味では、むしろ後者のほうが嬉しいかも知れない。

エコカー

 『ハイブリッドカーは本当にエコなのか?』を読んだ。エネルギーは変換の度にロスするはずだから、「ガソリン-(内燃)トルク」より「ガソリン-(内燃)→トルク-(発電)→電気-(モータ)→トルク」のほうが燃費が良いとは、工学系の人間には合点がいかぬことである。これに対しては、「効率の一番良い回転数と負荷でエンジンを回していることと回生エネルギー」が「色々な回転数と負荷の元でエンジンを回す非効率」を上回っているそうだ。それでも、燃費が数倍も良いというのは合点のいかぬことである。これに対しては、お受験テクのようなやり方で「とてつもなく良い」数字を出しているだけで、実際はそこまで良くないし、交通事情によってはガソリンエンジンに負ける、しかもドライバの習熟や工夫のしようがないそうだ。しかし、ハイブリッドカーで燃費トライアルキャンペーンというCMを見たことがある。運転方法によって燃費を競っているように見える。本当のところはどうなのか、一度試してみたい。

 自分から見える所だけでエコな気になっているだけという、よく言われる製品ライフサイクル全体を見たときのエコ収支の問題もこの本では指摘されている。電気自動車はCO2を出さなくても、発電やモータの製造・廃棄時に発生するCO2の量や環境負荷についても考慮に入れなければならない。「場を見たことない人が、豚肉がウマイだマズイだの言ってるよ」という感じである。

 不便益的には、ユーザは「買う・買わない」の選択しかできなくて、買ってしまったらそれまで、エコドライブしたくても運転に習熟や工夫をする余地があまり与えられていないというのは、是非とも忌避したい。

 Low TechかRaw Techか エネルギー変換効率という視点からは、ソーラーパネルで発電した電気でお湯を沸かすよりも、太陽光で直接暖めたほうが効率は良いはずである。琵琶湖博物館で滋賀の昔の暮らしを展示していた。風呂を沸かすのに薪が少なくて済むように、朝起きたら水を汲んで軒先に出しておき、太陽光で暖まった水で風呂を沸かしたそうだ。

 ソーラーパネルは使用時にはco。を出さないのでエコだと言われる。しかし製造時や輸送時、廃棄時には子不ルギーや資源の消費、C0。の排出がある。これに対しては、個別に少しずつ排出されるC02の回収は難しいが、工場ではじめにドカンと排出しておけば回収が容易だと言われる。しかし回収したCOjか消滅するわけではない。化石燃料をC0。に変えていることに変わりはない。

 ところで、二〇〇九年五月一五日に京都駅前メルパルクで開催のワークショップで日本政策投資銀行の杉原弘恭さんの話を聞く機会があった。そこで紹介されていたのが、エイモエリー・ロビンズが二九七七年に提出した「ローテク」という言葉である。「バターを切るのにチェインソーは要らない」という標語は「お湯を沸かすのに電気は要らない」という文脈で使われたそうだ。電気は干不ルギー源としては優等で、輸送コストもかからないしさまざまなエネルギーに変換できる。しかし変換効率を考えると、燃料を燃やしていったん電気をおとし、それで湯を沸かすのは無駄である。燃料を燃やして直接的に水を暖めるローテクで良い。そのほうが「使うのに特殊技術は要らない、誰でもメンテできる」という標語も、不便益が求めるものに近い。イメージとしては}ョ(低度)テクというよりもraw (生の、粋な)テクかも知れない、などと考えてみた。
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関係性の科学

『不便から生まれるデザイン』 

 複雑系と呼ばれる分野で、カオスやフラクタル理論を扱う書籍の一つに、『鏡の伝法』がある。その序文によると

 還元主義の究極的な夢は、自然を人知によってコントロールすることです。この夢は、明白な反例に直面しているにもかかわらず、いまも信仰されています。複雑な体系を部分の集合体とみなし、体系から切り離して解析する方法は工学と結びつき、いま世界を支配しています。しかし……オゾン層を元に戻すためにオゾンを人工的につくり出せばよいだろう、という発想です。

 また、本書の第1章では、あえてシステム科学が避けてきたことではあるが、本来は「関係ネットワーク」を果てしなく見渡せる視点が必要である。ネットワークを途中で分断して系(システム)を閉じたものとすると、その先に実は重要な事象があることを見逃す。と述べた。問題意識は共有するが、前者は6・I節で紹介したディープ・エコロジーと同様に「全体性」の重要性を指摘するのに対し、本書は少し日和って「関係性」に着目する。

 近年の設計工学では、単なる局所的な最適化に端を発する社会的諸問題を内省して、「関係性のデザイヤが提唱されている。この考え方は、直面する問題(いかにつくるか)を対症療法的に解決するのではなく、つくったものが社会に投入されたときにほかの人工物・人間・社会・環境とどのように関連しどのように変容させるかをも考慮すべきであると主張する。別の言い方をすれば、とにかくつくれば良いのではなく、なにをつくるべきかをも問うものである。5・1節で紹介した理解社会学で言うところの、目的合理性が問われている。以下に、関係性の科学の標語的文章を抜粋する。

  ●いかに作るかという事と共に、何を作るかが問われる。

  ●与条件から解を導き出すミクロなプロセスだけでなく、与条件を問い直すところから始めて、……。

  ●人工物が生活世界にいかなる帰結をもたらしているかということをフィードバックする回路が基本的に欠落している。

  ●人工物はいつも他の人工物、周囲の自然環境、社会文化環境などと関連づけられており、決して孤立しては存在しない。

 これらの主張は、その内実を知らぬ者の目にはなにも目新しいものには映らないかも知れない。建築屋にとって、新たなシンボルとなる建造物を町に投入したときに、それが人の流れや経済にどのような影響を及ぼすかを想定することは、あえて取り立てるほどでもない通常業務であろう。道具屋にとっても、道具を社会に投入することによって新たなニッチを新規開拓できることは、資本主義の社会においては垂温の対象であり、そのためには「製品が社会に何をもたらすか」は当然のように検討される。

 しかし関係性のデザインは、これらも含めてより広範囲な関係ネットワークにまで考察対象を広げるときの共通の視座を与えてくれる点に、アイデンティティがあると考えられる。たとえば、地球温暖化なども関係ネットワークに含められる。

 考察対象を広げると、議論を尽くしても結論が二音Jに定まらないことが多くなる。たとえば「低燃費」を狭く「環境にやさしい」と考えるか、もう少し広く「逆に大型化の免罪符になっている」と考えるか、どちらを結論とすべきかの絶対的基準はないように思われる。これへの回答こそ今後の関係性のデザイン研究に期待されるものである。本書もその一助となれば幸いである。
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買い換えからメンテに

『不便から生まれるデザイン』より 文化と社会構造

「使う文化に変えていく」

買い換えからメンテに

 「買い換えよりメンテに手間(金)を惜しまぬ物」がもっている特質はなんであろうか。家屋は、何世代にもわたって完成させるものであった。メンテは「修復」だけではなく新たな変化の意味をもつ。祖父が家屋を建て、父がメンテして、人とモノとの歴史であり家族のアイデンティティたる跡を付け、庭を育てあげ、自分がそれを引き継ぐのは誇らしい気もする。人は消えてもモノは世代を超える。

 ところが実際の自分は、昨年、築十年でメンテをした。自分では費用を出すことしかできない。作業はすべて業者任せである。どこがどう直ったかは口頭で説明されたが頭に入っちやいない。見た目も十年前に戻っただけである。この十年の家族の歴史は外からはわからなくなった。この建物は、せいぜい二世代しかもたないそうだ。

 自分でメンテできることに価値を見いだす文化がうらやましい。物を粗末にすると心も荒むとは昔から言われていることでもある。しかし文化や気持ちのもち方だけではないと思われる。使い込んで手に馴染む万年筆がもっている特質はなんであろうか。ューザがメンテして大切に使いたくなるモノを開発する方法論は、研究テーマとしても価値あることだと思う。高価にするという安直な方法ではなく、以下のような特質をもつモノや、それがもたらす方式は注目に値する。

  ●繕いが価値を上げる

  ●年季を重ねる

  ●自分で手を入れて「様になる」

 そのためのキーワードの一つは可視性だと思われる。古くなったソファを粗大ゴミに出した。経費節減のためゴミ処理センターにもち込んだ。慣れ親しんだソファをなんの躊躇もなく目の前で機械が潰した。二〇年前に小遣いをはたいて買った天体望遠鏡を、息子はきれいにパーツごとに分けて箱に収めて保管していた。使えなくなったのでセンターにもち込んだ。躊躇なく箱から出されて潰された。息子を連れてきて見せるべきだったと思う。現場を小学生に見学させることの是非が新聞で議論されていた。見学させるべきだと思う。

 また、不便の益にはューザを「買い換えよりもメンテナンス」に促す性質が多い。不便はューザにタスクヘの積極的介入(手間をかけること)を促し、それが愛着やこだわりといった工学的には取り扱いにくい要因をも取り込んで、ューザの消費スタイルを変容させることも期待している。

 『古くて豊かなイギリスの家、便利で貧しい日本の豹』という本がありました。「古い」と「便利」を対比的に使っているのが少々気になりますが、シンプルでキャッチーな書々ですね。

完全分業制の功罪

 近所の小川をきれいなままにキープして気の向くときに泳ぐことと、小川を汚してまでプールを建設し、それで得た労働賃金でプールの入場料を払うことは、水浴びするなら同じことなのにお金を回すためには後者が良い。GDPを上げることにやっきになっている社会では後者が良いのだろうが、GDPという尺度だけを見るのは、おかしい気がする。

 お金を回すだけなら、国家規模ではなくてローカルなコミュニティ規模のほうが適するのではないだろうか。顔が見えない消費者のための生産より、つながりのある人のための生産のほうが嬉しい。生産の意味もすんなり入ってくる。エJカーをつくることの意味は、近所の人がエコを免罪符にして(歩ける距離でも、電車を使ったほうがエコな距離でも)車を乗り回しているのを目のあたりにしたほうが、わかりやすい。

 お金を回さないで良いなら、自給自足・物々交換・地域通貨などの手がある。ただ、物々交換をしようと大量にできた畑のナスビを市場にもって行くと、ほかの家の畑にも大量にできていて、価値がない。自分だけにつくれる物があれば有利である。分業制への圧がやはり発生す

 育児は機械的な作業ではないことは、皆が頭ではわかっている。手づくりは子育てのスパイスであり、子供心にも嬉しい。数百円で買える子供服は、これを邪魔してはいないだろうか。大量消費に代わる経済の回し方も研究テーマとして価値がある。このとき、定量化にこだわるかもキーとして考えてみたい。’家事や育児の労働対価を金額として定量化してもGDPに加えてはもらえない。定性的なままで皆が価値を共通認識(可視化)できる仕掛けを考えるほうが、挑戦的だし意味があると思う。たとえば、額面のない「砂型地域通筧」とか。手渡された砂粒の数は重要ではない。一つまみなのか、一握りなのか、両手にこんもりか、このような定性的な尺度がそのまま、感謝の気持ちを素直に伝える。できるならば全体不利益が個の不利益として見えるように、全体利益も個の利益として見えるように。数字にあらわれる景気だけが個の不利益(就職難)を煽っているのは、虚構でないことを誰が保証し得るのか。フU円の価値のある台湾元が三円で買えてしまう虚構。
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