どう見ても時間が掛かりすぎている。大いなる意思もそこまで待ってはくれないだろう。 #詳細と概要
詳細に落ち込んでしまう傾向にある。詳細の中に概要を見いだしてしまう。下手すると縦ループ。点は集合で、点は集合という意味ではきちょうなことだけど。 #詳細と概要
このロジックに埋もれているのもいいとは思える。だけど、未唯宇宙を納得できるものにしたい。表現は従来のやり方とは異なるのも確かです。 #詳細と概要
ネットで「トロッコ問題」が出ていた。読まなくても世間というもの気にするだろうということはわかってしまう。「教育」の愚かさを感じる。 #三つのなぞ
今の日本では哲学は育たない。個人レベルが低すぎる。他者に依存している。個の自立から始めないと。 #三つのなぞ
そのためには哲学の三つのなぞを「教育」のテーマにしてほしい。1.存在のなぞ 2.認識のなぞ 3.言葉のなぞ #三つのなぞ
『ナポレオン 2』
ピラミッドの戦い
カイロ
『失われた居場所を求めて』
情報縁社会の居場所--高度情報化時代と人間生活
情報社会の深化と危惧
AIやIoTへの期待と不安
生産・流通への影響
生活に入り込むAI、IoT
AI社会をめぐる議論の現状
人の過半は失業する?
AIは人間を超え不安にする?
働かすとも所得配分がある?
人は人間ロボットになる?
そして人は蟻になるのか
人間の自然性、自律性
人間はどこまでも生物的存在
人は改めて自然を求め田園に回帰する?
労働と生活の本質的転換--自由で積極的な仕事の時代へ
人は働くことを求め、道徳とする
「仕事をし、生活し、遊ぶ」人間
「人を喜ばせる喜び」へ
希望の場、新たな故郷--多職社会へ
『ソーシャルワーカー』
ソーシャルワーカーが歴史をつくる
歴史の潮目
移民政策に転じてもきびしい現実
アメリカもまた、かつてのように成長しない
「経済の時代」の終焉
何をあなたは利益と感じるか?
設計主義を乗りこえる
「必要の政治」への一撃--ライフ・セキュリティ
消費税を軸とするということ
ライフ・セキュリティの持つ社会的な「効率性」
「必要の政治」を「人間の自由」につなぐ--ソーシャルワーク
無力さを知り、尊敬することから始まる議論
近代が下降し、終わりを迎える
「市場の世紀」から「プラットフォームの世紀」へ
僕たちはなにを平等にしようとしているのか
『まちの居場所』
「まちの居場所」としての公共図書館
公共図書館の今
公共図書館とはどんな場所か
「まちの居場所」としてみた国内の公共図書館
変わる公共図書館
武蔵野プレイス
まちライブラリー@大阪府立大学
「まちの居場所」としてみる海外の公共図書館
「まちの居場所」となる公共図書館とは
『人工知能と経済』
再分配--ベーシックインカムの必要性
AI時代におけるベーシックインカム
ベーシックインカムとは何か?
ベーシックインカム導入の目的
普遍主義的社会保障
メリットとデメリット
ベーシックインカムと他の所得保障制度との関係
所得保障制度の分類
ベーシックインカムと負の所得税との関係
負の所得税と生活保護の関係
ベーシックインカムの歴史と現状
3人のトマスと土地の分配
20世紀のベーシックインカム論
ベーシック・インカム地球ネットワークと現代の提唱者
海外でのベーシックインカム実現に向けた試み
日本におけるベーシックインカム論
AI時代に向けたベーシックインカムに関する議論
『シリア 震える橋を渡って』
本書に登場する人々
序文
『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!』
ちょっと長めのおわりに--「社会を変える」ことについての試論的総論
この本を企画した理由
本書の「社会を変える」の前提
「社会を変える」とは?
「社会を変える」ということ
法律を作る・変える
状況(状態)を変える
慣習を変える
人々の意識を変える
誰が社会を変えるのか
当事者という概念について
どのようにして社会を変えるのか
変えたいことの明確化・具体化(問題をカタチにする)
状況についての具体的な語り(自分の状況を具体的に語れるようになる)
目的の設定(何を目指すのかを明らかにする)
仲間を作る(同じ問題意識がある人とつながる)
理解者を増やす(社会の人々に知ってもらう)
変換力をもとう
『教え学ぶ技術』
キーワードを探すために
いかにキーワードを増やすか
現象がどういう言葉で表現されているか探す
「何々以前・以降」に注目する
アクターに焦点を当てて、別の側面を探す
言葉がないときはXとおいてみる
出来事からキーワードを探す
モヤモヤからそこにある言葉を探す
『革命を戦争のクラシック音楽史』
フランス革命とベルリオーズ
虚無と狂乱の『幻想交響曲』
ロマン派音楽としての『幻想交響曲』
ロマンティストの自己暴露の儀式
ギロチンヘの行進
なぜパリの聴衆は熱狂したか
自由・平等・友愛
革命は輸出可能!
愛国心は外敵に向けて生ずる
『ラ・マルセイエーズ』
フランス革命と軍隊
民衆の軍隊は歌うと強くなる
ギロチンとチェンバロ
ギロチンと弁護士
ナポレオン時代から七月革命へ
七月革命と『幻想交響曲』
『幻想交響曲』成立の前提条件
ゴセックとベートーヴェン
『革命を戦争のクラシック音楽史』より フランス革命とベルリオーズ
『ラ・マルセイエーズ』
フランス革命戦争は、敵の国とは対極的な政治の形態、共和政治の理想によって愛国心を結集し、ブルボン王家の立つ瀬はいよいよ無くなります。実際、マリー・アントワネットはハプスブルク帝国に内通しており、自分の実家にフランスの軍事情報をせっせと送っていました。お妃さまはスパイだったのです。一七九二年四月、フランスはハプスブルク帝国に宣戦布告し、七月に国家非常事態の宣言がなされ、八月にテュイルリー宮殿を民衆が襲って、「裏切者」の国王夫妻は牢屋暮らしになります。
この宮殿襲撃の際、南フランスのマルセイユから駆け付けた義勇兵が歌って、たちまちパリに大流行したと伝えられるのが、軍歌であり行進歌である『ラ・マルセイエーズ』です。この歌は、しかしマルセイユでできたのではありません。フランス革命戦争が勃発した同年四月に、対プロイセン・ハプスブルクの国防の最前線になるストラスブールで、陸軍工兵大尉のクロード・ジョゼフ・ルージエードーリールが兵士と民衆を鼓舞するために作詞作曲したものです。
たくさんの革命歌・軍歌が一七八九年の革命の始まりの段階から生まれて流行を繰り返していました。『サ・イラ(そりゃ行けや)』などが代表的なものでしょう。革命の暴力的な組織行動は、訓練された軍隊や警察によって行われるものではないことが多い。集まってきた民衆が即座に連帯して行うことが多い。即席で足並みを揃えて、半組織的かつ電撃的にしでかしてしまうわけです。そこでは笛や太鼓や歌がないと、最低限の水準の集団行動さえ、生み出しにくい。その意味で、フランス革命は全国に歌とマーチを氾濫させました。
野球場やサッカー競技場などで、知らない人と肩を組んで応援歌でも歌っていると、もしかしてこの人たちと一緒に何かができると思ってしまったりするでしょう。だいたいスポーツと戦争や革命は似たもので、人々が我を忘れて熱狂するものなのです。そのときには歌がないとうまくゆかない。甲子園球場の高校野球の応援なんて、金管楽器と太鼓と大合唱でうるさい限りでしょう。あれと同じなのです。
『ラ・マルセイエーズ』も同様なのですが、フェーズが一段階か二段階、上がったとも言えると思うのです。とりあえずの革命気分を生む、言葉悪く言えばやや適当な民衆歌のレベルから、持続的な不動の愛国心を喚起する格調高く劇的変化に富んだ歌曲へ。『ラ・マルセイエーズ』は、三〇小節近くに及ぶ、オペラのアリアか合唱曲のような起伏に富んだ歌であって、付点リズムを活かした景気のよい行進歌の調子に、人々に深い感情を内発させる聖歌の荘厳な調子を織り込んで、「行進しよう、行進しよう」というフィナーレに感極まるように持ってゆく。見事な出来栄えです。
四月にストラスブールで生まれた軍歌を、八月にルイヱ(世とマリー・アントワネットをパリでつかまえるマルセイユの義勇兵が歌っている。この伝播力こそ、すなわち革命のエネルギーなのです。『ラ・マルセイエーズ』はその場のノリの歌ではありません。常時臨戦態勢の国民総動員の精神を支える、革命軍歌即革命宗教歌なのです。
フランス革命と軍隊
そして、恐らく『ラ・マルセイエーズ』は革命戦争を戦うフランス軍の呪文になりました。ここで、革命前後のフランスの軍隊について考えておかなくてはならないでしょう。プロイセン王国やハプスブルク帝国は、お互いが張り合う中で、自国の貴族から指揮官を養成し、その下で働く兵隊にも、信用がおけて、愛国心や、祖国を守ろうとする郷土愛的精神や、皇帝・王への忠誠心に富んだ自国民を増やそうとし、それなりの実を挙げました。でも、外国人の傭兵に相変わらずある程度は頼らないと、必要な規模の軍隊を整えることはできませんでした。
ブルボン王朝のフランスでも、情況は基本的には同じでした。フランスの軍事貴族と傭兵の組み合わせ。たとえばマリー・アントワネットを守っていた兵隊はと言えば、スイスの傭兵です。現代ならばガードマンを雇う感覚で、軍事的・警察的な外国人のプロが、王室を守っている。もしも日本の皇居を守る皇宮警察的なものが外国人で構成されていたとしたらどうでしょう。国民国家の感覚で言えば、ありえません。裏返して言うと、立憲君主政治に至っていない王国や帝国は、国民が対等で、自国民が国家の基礎で、外国人に頼るのはおかしいという思想常識は未成立なので、外国人が皇帝や王を守るのも大いにありなのです。
フランス革命はそういう秩序を旧秩序として否定します。なんといっても「自由・平等・友愛」がスローガンですから。軍隊も平等でなければなりません。しかも、自由と平等と友愛を掲げるのは、あくまでその国に参加して国民となる人民であって、その国を守る軍隊も国民が自分の意思で、自国を守りたいと思って形成してこそ、国民の軍隊になる。特権階級の貴族が軍のお偉いさんで、その下に外国人が金で雇われているなんて論外ではありませんか。平等な権利を持って分け隔てなく自由にふるまう国民が、友愛の精神に基づいて国家や軍隊という共同体を主体的に作り出す。それが革命の思想です。
以上は建前論ですが、建前とは違う現実論もありました。建前だけでは戦争になったら勝てない。軍隊は実質的に戦えるかどうかである。素人の国民をいきなり、革命を守るために動員しても、日ごろから訓練された常備軍を備えている既成の国家に太刀打ちできるはずもない。だったらとりあえずは、革命戦争のために、フランスを守るために、外国人を雇うこともありうるかもしれない。方便です。
でも、革命直後のフランスには、仮に外国人を雇いたくなったとしても、実際にはとても雇えない事情が存在しました。つまり、革命国家の新しいフランスは、端的に言って、貧乏だったのです。
理由は簡単。大勢の貴族や聖職者が、財産をかき集めて外国へ持って逃げてしまっていました。当然です。国内に留まっていたら、特権を取り上げられてしまうのですから。財産もどうなるか分からない。殺されるかもしれない。
諸外国に亡命した貴族たちは、「早く無法な祖国をなんとかしてくれ」と泣きつきました。亡命貴族を受け入れたのは、ハプスブルク帝国やプロイセン王国、そしてイギリスといった皇帝や王のいる国々でした。そうした背景があって、ピルニッツ宣言も出るのです。
民衆の軍隊は歌うと強くなる
さあ、フランスは大変です。革命の理想を継続して追求するためには、戦争をしなくてはならない。ただでさえ貧乏なのに、戦争をするお金がどこから出てくるか。軍事貴族も大勢逃げ出してしまった。革命に参加している貴族は限られている。傭兵を雇うお金はもちろんない。そこでいきなり一般国民を集めるしかない。給金もなかなか用意できないから、義勇兵というかたちになる。これはつまりボランティアの軍隊です。
ずぶの素人を慌てて訓練し、彼らの愛国心を煽って、前線に出動させる。軍楽マーチに乗せて進ませる。歌をうたわせて連帯心を育てる。革命国家の国民軍には、旧秩序国家の傭兵を使った常備軍よりも、格段と、軍歌、行進歌、革命歌が必要でした。音楽の力は、規律ある身体動作を行わせしめ、敵傷心を高潮させ、仲間意識を高め、生命の危険への恐怖を忘れさせる。音楽の上手な利用以外に、即席の国民軍を軍隊らしくする術はなかったと言えます。そうして急造された革命精神を湛える軍歌の中で、とびぬけてヒットしたのが『ラ・マルセイエーズ』ということでしょう。
そうしたら、なんと、この即席のフランス国民軍が、プロイセンの軍隊に勝利してしまった。彼らは『ラ・マルセイエーズ』を歌っていたことでしょう。実際のところは、戦闘らしい戦闘をして、実質的な勝利を収めたとは、とても言えたものではなかったのですが、勇敢に前進し、火力も活用したフランス国民軍に対して、プロイセン軍が退いたのは、まぎれもない事実です。それが、一七九二年九月二〇日、ということは外国の侵略を恐れてパリでパニックが起き、テュイルリー宮殿からルイ一六世が連れ出された翌月ですけれども、シャンパーニュ=アルデンヌ地方のヴァルミーでの戦いです。フランス国民軍は、プロイセンのプロたちに対して、いちおう真っ当に戦えたということです。
この戦いには、恐らくわざと相当な尾ひれがつけられ、フランス国民軍の大勝利として国内に喧伝されました。革命国家が歌をうたって自信を付けた瞬間でした。
歌が愛国心を育て、ナショナリズムを涵養し、国民の一体性をはぐくみ、しかもそれを持続させ、その持続はむろんおとなしいものではなく血沸き肉躍るタイプの能動的なもので、ついには裏切者の暴君を断頭台に送る熱狂さえ生み出していったと言ってよいでしょう。『ラ・マルセイエーズ』は世界史を動かした歌なのです。『ラ・マルセイエーズ』ばかりが歌われていたのではありませんが、しかしやはりいちばん歌われて名曲として愛されたのは『ラ・マルセイエーズ』でした。だからこの歌は今日もフランスの国歌なのです。革命と戦争の記憶が、この歌で継承されているのです。
『教え学ぶ技術』より キーワードを探すために
キーワードを探すために
いかにキーワードを増やすか
前回の最後に言われたように、文献を調べようとしたんですが、どうも似たような研究を探すのがむずかしかったです。似ている言葉や関連するキーワードをいれる必要があるんだけど、どうもうまくヒットできませんでした。
先生 わかりました。そのキーワードを探していく上でも、まず、復習をしましょう。三つのテーマについて石渾さんが三つのクエスチョンを考えてきたわけだけど。
学生 この間考えた結果として、語り部についてのクエスチョンに絞ろうと思っているんですが。
先生 語り部については前回、これをどういう現象として扱うかということを議論したよね。そこでいくつかキーワードが出てきたと思うんだけど。
学生 語り継ぐとか。
先生 あるいは語り部という現象を他の言葉で言い換えたら?
学生 ナレーター、ナレーション。
先生 それから?
学生 口伝とか。最初にこのクエスチョンを考えた時、口伝という言葉は思い浮かんでなかったけど、たしかに情報伝達のひとつの技法としては、口伝というかたちになっている。
先生 あと、民俗学の話をしたじゃない。民俗学の中で語り部という現象はどういう言葉で扱われているのか。語り部という現象を語り部としか言わないのか、あるいはその上位概念があるんでしょうか。
学生 それは論文を調べても出てこなかったです。
先生 じゃあ、考えてみましょう。語ひ部の上位概念は何か。それから上位とは限らないけど、ナレーションのような他の言葉での言い換えも。英語だとこれは何て言うと思う?
学生 コミュニケーション論の論文では、イタリックにしてKataribe(narration)と書かれていました。日本語の論文の最初に英文の要約があるんですけど、そこではそう表記されてました。
先生 narrativeというのは発話・語りという意味だよね。あとはstorytelling、story、storytellerとかも考えられますね。それはコンテンツによって語り部になったり、そうじゃなかったりする。そういう周辺のキーワードや上位概念を考え、そのキーワードを増やしていくことができます。
現象がどういう言葉で表現されているか探す
先生 石渾さんが語り部のどんな問題に関心を持ち、どんな問題(question、puzzle)を明らかにしたいか。語り部という現象自体はわかったから、今度は語り部についての何かを明らかにしたい。そこでクエスチョンにしたい現象はどういう言葉で構成されていますか? それを考えるのもキーワードを探す一つの方法です。
学生 明らかにしたいことは、コミュニケーション方法の変化ですね。ブログやSNSが中心になり、頻繁に使われている世の中で語り部がどう生き延びていくのか。
先生 今言ったことは二つあって、ぴとつは語り部以外のコミュニケーションの変化、もうひとつはその中での語り部の変化です。まあ、変化してないかもしれないけど。その関係を見たいんですか?
学生 変化していく世の中にあって、語り部はどう存続し続けようとしているのか。
先生 「どう」というのはhow?
学生 howです。
先生 それをもうちょっと言葉にしてみて。
学生 語り部はどう存続し続けようとしているのか。もし存続し続けようとしているならば(if any)、どんな存続方法を選ぼうとしているのか。もしかすると今後は誰かに取材してもらうという方法を選んでいくのかもしれないし。
先生 今、「存続」という言葉が出てきました。古くからの伝統のあるものがどうやって生き残るか。この場合、コミュニケーションのある形態が生き残れるか、生き残れないか。これも問題がちょっと広がってるね。しかも一段階抽象度が上がって一般的になってる。伝統的な何かを語り継ぐということがどうやって生き残るか。これは人類学でもいくらでもありそうですけど、語り部はその中のひとつですよね。
石澤さんの問い・関心は、現在のようにSNSなどface-to-faceではないコミュニケーションが発達する中でいかに生き残るかということだから、単に前近代的な語りが生き残るかどうかということではない。つまりコミュニケーション・ツールとしての関心だよね。
学生 伝え方に関心がありますね。
先生 たとえば、今のようなネット社会の前に同じような変化って起きてると思う?
学生 うーん……、電話やテレビがそうですね。
先生 電話やテレビが普及する前と後では違うよね。televisionとか、teleというのは遠隔という意味だもんね。遠くの人とコミュニケーションができるようになった時、face-to-faceの語りがどう変わったか。それ以前とそれ以降の変化に着目した研究を見れば、何か書いてあるかもしれない。それから移動手段にも変化がありますよね。
学生 移動手段が発達することによって、聞きに来る人が増えた。
先生 交通の発達により、人と会って話すということがどう変わったか。これはまた広い問題だよね。こういうのは一番大きく捉えれば、近代化・科学技術の発達(innovation)です。伝統的な社会にたいしてコミュニケーションの近代化が起こった時、それ以前のコミュニケーションはどう変わったか。ここまで一般化すると、そこから今度は逆に絞り込むほうが難しくなる。でも今の例のように、電話以前・電話以降で人のコミュニケーションがどう変わったかという研究はありそうだよね。それから人の移動が激しくなると、昔のおばあちゃん達が伝承していた事柄が人の移動によって出ていくこともあり得るし、逆に人が来ることもあり得る。それによってどう変わったか。これもすごく一般的な現象だから、ありそうだよね。
『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!』より
「社会を変える」ということはどのようなことでしょうか。結論から示しますと、少なくとも以下の四点に整理されるのではないかと考えます。
ここに示した四点のどれか一つを達成すれば社会が確実に変わるというものではなく、これらは社会を変えるための一要素であり、手段であると表現するのが適切と考えます。そして実際に社会を変えるには、目指していた変化がこれらの手段が全部が揃って初めて達成されるかもしれないし、いくつか組み合わさったことで変わるかもしれないし、どれかIつから出発していくつかの要素を経るようなプロセスを辿るかもしれません。この説明だけではイメージがわかないかと思いますので、以下では、それぞれについての事例を見ていくこととします。
①法律を作る・変える
法律を作る・変えるとは、文字通り新たに法律・制度を作ったり、既存の法律・制度を変えたりすることです。これは直接的には主として国会議員が取り組む事項です。あるいは政令・条例レペルであれば県議会議員や市議会議員の仕事です。最終的に国会や地方議会において議員の決議によりますが、議会の俎上に上がるまでは多くのルートやプロセスがあることはよく知られていることと思います。それについては、紙幅の都合上ここでは詳説しませんが、我々市民・国民の声が法律・制度になっていくことは少なくありません。
法律や制度が変わったことで社会が変わった事例で私にとって特に印象的であったのが、成年後見制度を利用している人(以下、成年被後見人等)の選挙権の回復の例です。成年後見制度は、知的障害、認知症や精神障害などにより、物事を判断する能力が十分でない人に、本人の権利を守る援助者(以下、成年後見人等)を選び、その成年後見人等が本人を支援する制度です。具体的には自身の財産管理が困難な場合などに使用されます。
この制度を利用する成年被後見人は、たとえ本来選挙権を有する人であったとしても選挙権を失うことになっていました。自身の財産管理ができないと認定された人だから、選挙で適任と考える候補者も選ぶ能力がないと判断されていたのでしょう。
しかし、ある障害当事者の方が「財産は管理できないかもしれないが、自分の暮らしを良くしてくれる人は自分で選べる!」とし、成年被後見人の選挙権を制限する公職選挙法は選挙権を侵害しており憲法違反として二〇一一年二月一日に東京地方裁判所に提訴しました。その結果、約二年の歳月を経て、二〇一三年三月一四日に同条は違憲との判決が下りました。成年被後見人の方々が奪われた権利を取り戻した、まさしく社会が変わった瞬間であったといえます。その際に裁判長が「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」と原告に語りかけた心温まるエピソードも残されています。
現在はこの選挙権回復に続き、「欠格条項」つまり成年後見制度を利用し、成年被後見人になると制限される資格や職業が定められていることについても差別的な取り扱いであるという意見から、見直しが行われている最中です。
②状況(状態)を変える
このように法律の制定や改正は社会が変わることへの大きな契機となります。しかし、先にも示した通りそこに辿り着くまでの手続きが煩雑で時間もかかります。また、最終的に法律のようなカタチになればよいですが、局所的な問題であるため日本全土の問題にしていく必要性が感じられなかったり、それが必要であったとしても、まずは目の前の危機的な状況を収めなければならない、時間的猶予がないような場合もあります。その場合、現在直面している課題を緩和・解決するための取り組みが行われることがあります。これをここでは「状況(状態)を変える」と呼ぶこととします。
状況を変えた近年の例(厳密には現在進行形ですが)としてここであげたいのが、二〇一六年の川崎で起こった民族差別デモ、通称ヘイトデモに対する反対行動への呼びかけと行動についてです。このヘイトデモは、日本国内に居住する在日韓国・朝鮮人が在日特権、つまり特別永住資格や様々な経済的便宜などの特権を不当に得ているとの主張をし、人権や人格を著しく侵害するような暴力的な言葉を発しながら街を練り歩くというものです。
これに対して、神奈川新聞報道部が反対行動を紙面上で呼びかけ、この呼びかけに一部の市民が反応して、差別的な言動や行為をやめるように働きかけました。この時の反対行動の特徴は、一般的に反対行動にありかちな罵倒を罵倒で返すものではなく、「仲良くしよう!」「共に地域で暮らそう!」とヘイトスピーチをする側に対して共生する考えを呼びかける内容であったことです。目には目を、という対応策から一歩進んだ、建設的な態度と呼びかけが話題となりました。
この動きは、二〇一八年六月に市民団体である「ヘイトスピーチを許さない川崎市民ネットワーク」が、ヘイトスピーチを禁じる条例の制定を目指して、川崎市に意見書を提出したところにまで進んでいます。この事例は、一部の人の人権を抑圧したり、尊厳を傷つけるにもかかわらず、あるヘイトスピーチがある意味野放しにされていた状況(状態)に変化をもたらした出来事であったと考えます。
③慣習を変える
ある社会において長らく引き継がれている生活の中での習わしのことを、一般的に慣習といいます。この慣習には、ある社会がより円滑に循環するように先人の知恵として受け継がれていることが多くあります。しかし、時としてその習わしがその社会の構成員を不当に苦しめていることも少なくありません。そういった「慣習を変える」ことも、ここでは社会を変えることの一つとして位置づけます。近年、脈々と受け継がれている慣習が、その社会の構成員を不当に苦しめている事例で印象的であったのが、教師の部活顧問問題です。
中学・高校では学校の部活動(以下部活)の指導が教師に当然求められ、それを引き受けるのが当たり前の慣習があるとされています。部活は、教育課程内の活動であると多くの人が疑いを持だない中で、「平日の朝・夕、土日・祝祭日も部活の指導に当たっている場合もあり、休みが全くない。にもかかわらず手当も出ないし、そもそも部活は教育課程内のものではないし、なのにあたかも義務であるかのごとく顧問が割り当てられる。さらに、保護者の多くは部活の顧問が平日の活動はボランティアであるという事実を知らないことがほとんどで、また土日や祝祭日に部活を行わないと、保護者よりクレームがあがることもある。これはどう考えてもおかしいことではないか」とのことを主旨とした内容が一部の教師から問題提起されました。
この発議は発議者のブログからSNS、各種メディアに広がり、大きな反響を呼んだことでその後文部科学省や国会の審議にも取り上げられるようになりました。二〇一八年二月九日には、文部科学省から「学校における働き方改革に関する緊急対策の策定並びに学校における業務改善及び勤務時間管理等に係る取組の徹底について(通知)」が出されました。その中で「教師の勤務負担軽減や教科指導等とのバランスという観点だけでなく、部活動により生徒が学校以外の様々な活動について参加しづらいなどの課題や生徒のバランスの取れた健全な成長の確保の観点からも、部活動の適切な活動時間や休養日について明確に基準を設定すること」との内容が盛りこまれるまでになりました。
少なくない教師が、部活の顧問は義務であると考えていたことは、これが慣習として継承されていたことであり、「そもそも義務ではない」「教育課程に含まれていない」、ということを疑うことすらなかったと振り返る意見を見聞きします。
ただ、そもそもこれは法に規定された義務なのか、あるいは「そういうものだ」という慣習なのか、ということに疑問を持ち、自ら調べ、慣習でしかない根拠を得たのち、部活の顧問を請け負うか否かは選択できるべきだ、という一部の教員の行動が、この慣習を変える方向付けに結び付いて行きました。現段階ではこれから学校現場に浸透していくことになりますが、学校現場に岩盤のように重く横だわっていた部活顧問のボランティア問題は、少しずつではありますが確実に改善に向かって進み始めています。
④人々の意識を変える
また人々の意識を変えることも「社会を変える」ことに相当すると考えます。むしろ、いくら法律や制度によって何かを促したり規制したりしようとしても、人々の意識が変わらない限りは、本当の意味で社会が変わったということはできないでしょう。そのように考えると、社会を変えることで一番必要なことは、この「人々の意識」や元々あった「社会の価値観」が変わることなのではないかと考えます。では、人々の意識や社会の価値感が変わるということはどういうことなのでしょうか。これについて、近年印象深かったアクションとして、セクハラや性暴行の被害体験を告白・共有しようとするSNSにおける「#MeToo」運動があげられます。
この運動は、自らの体験の語りから、潜在化している性関連被害者に、「おかしいものはおかしいと主張しよう!」という強いメッセージになりました。また被害者本人たちに対してはもとより、原体験がない人々、取り巻く人々など社会全体に性的暴力について顕在化し社会全体の意識の変革につながってきている印象があります。このような意識の変革は法律や制度がなくても人々の意識の変化をもたらし、ひいては社会を変えていくことにつながります。
法律があるにもかかわらず、その法律に規定されている人々の意識の変化が伴わなかった、という違う角度からの例をみてみましょう。二〇一八年八月にいくつかの省庁が障害者の法定雇用率を達成していない、ということがメディアに取り上げられ、関係者の間に衝撃が走りました。障害者を既定の割合で雇用することが義務付けられている、法定雇用率を各省庁が軒並み達成していなかったという事件です。
具体的には、「障害者の雇用の促進等に関する法律」という法律によって、国・自治体や民間企業に一定割合の障害者を雇用する義務を課す法定雇用率を定めています。しかし、二〇一八年八月に中央省庁の一部が法定雇用率を水増しして計算し不正していたことが発覚しました。報道の初期は一部の省庁のみの指摘であったのですが、その後中央省庁全体、また多くの地方自治体にも不正が横行していることが明らかになりました。しかもこれは恒常的に行われていて、遡ると四二年間もの間多くの省庁で不正が働かれていたことまで明らかになりました。
この事例は、社会を変えるための代表格である法律を制定したとしても、必ずしも社会が変わることに繋がらないことがあることをわれわれに突き付けると同時に、社会が変わるための根底にあるのは、別言すると社会が変わる要素に通底するのは人々の意識であることを認識させられたものでした。
『ナポレオン 2』より ピラミッドの戦い
--ああ、自信を持て。
ナポレオンは自らに言い聞かせた。これは運とか不運とかの問題ではない。純粋に軍事の問題だ。戦術の問題だし、兵種の、そして兵器の問題なのだ。俺は士官学校を出ている。軍事的才能も多くに認められてきた。逆にどれだけの幸運児でも、軍事音痴では勝てないのだ。
--勝利の女神など必要ない。
ナポレオンは右翼に向けた望遠鏡を覗きこんだ。四千騎は二手に分かれた。二千騎がレイニエ師団に、二千騎がドゥゼー師団に向かうようだったが、最初に交錯しそうなのは、陽動をしかけた中央デュガ師団に近い、レイニエ師団のほうだった。
馬の疾駆にひらひら絹布を泳がせながら、マムルーク騎兵は手綱を口に唾え始めた。突撃の速度を緩めることなく、かつまた両手を自由にして、巧みに武器を扱うという訓練を、奴隷として買われてきた子供の頃から積まされている。それはナポレオンも聞いていたが、両手で操作するのは弓矢ではなく、イギリス製のカービン銃になっていた。
「パラパラパラ、パラパラパラ」
伝統の騎馬突撃も、さすがに中世そのままではなかった。が、戦慄の銃声も、これだけ開けた砂漠では風に擢われ、なんだか迫力がなかった。
それが幸いしたか、レイニエ師団の兵士たちは動じなかった。銃弾も飛んできたが、遥か手前で横一線の砂を舞わせたのみだった。はん、銃身の短い騎兵銃を、そんな遠くから撃ち放して、誰を傷つけられるというのか。
鼻で笑うかたわら、ナポレオンは自信を深めた。やはり中世の騎士だ。火器の戦争を知らない。仮に銃器の扱いには習熟しても、それを用いた戦い方には通じていない。ましてやフランス軍の歩兵戦術のなんたるかなど、想像もつかないに違いない。
「だから、恐れるな。だから、逸るな。だから、慌てるな」
ナポレオンは自分に言い聞かせるように呟いた。
望遠鏡の向こう側ではカービン銃が仕舞われていた。くるりと回して、太腿の下に敷くと、マムルーク騎兵たちは今度は短銃を構えた。ろくろく狙いもつけず、パンと早々に撃ち放せば、二千と数を連ねたところで、やはり音だけの武器に終わる。
肩越しに放り投げれば、その短銃を砂から拾い上げるのが、走って追いかけてくる各々の従者である。すぐさま弾龍めにかかるわけだが、その間にマムルークは楯子で作られた槍を投げる。さすがに距離がわかっている。こっちのほうが恐ろしい。自由になった右腕に、半月刀が白く光を閃かせれば、フランス軍のほうもそろそろである。
「五百歩の距離まで待て」
と、ナポレオンは命じていた。フランス軍の一七七七年型マスケット銃は、射程距離が三百メートル、銃の調子や実包に詰められた火薬の不備を加味しても、百五十メートルは有効射程距離とみなすことができる。だから、五百歩の距離だ。そこまで敵を引きつけてから、一斉射撃を浴びせるのだ。
「撃て」
ナポレオンの呟きに合わせたように、パラパラと銃声が空に響いた。硝煙と砂埃に視界が遮られたが、方陣作戦の成功は疑うまでもなかった。一キロほどの距離を置いて、なお悲鳴が聞こえてきたからだ。地鳴りのように感じられたのは多分、突進してきた馬が次々と横倒しになったのだ。
「撃て」
ドゥゼー師団も射撃に出ていた。同じように十分に引きつけてからの一斉射撃で、その効果の程は風で煙が流れたあとの、レイニエ師団の前面にみる先例に確かめられる通りだろう。
黄色い砂上に、人が、馬が、寝そべっていた。最初の射撃で全体の一割ほどが倒れたろうか。まだマムルーク騎兵は多く残っている。先駆けの一団とて、皆が撃たれたわけではない。のみか、銃弾なにするものぞと突撃を続行して、いよいよ方陣の最前列に肉薄する。が、それまた狙い通りなのだ。
驚くべき速さのアラブ馬が、フランス軍の戦列を前に急停止だった。馬だからだ。飛び越えられない壁を前にすると、足踏みする習性があるからだ。
城壁、防壁は無論のこと、それが人間の壁であっても、獣は躊躇してしまう。高さは越えられるとしても、幾列にも分厚く奥に並ばれるなら、もう跳躍はあきらめる。
勢いに乗った騎手の身体は、それでも急には止まらない。振り落とされる格好で、落馬が相次いでいた。なんとか凌いだマムルークも、自ら下馬して、いよいよ半月刀を振りかざす。が、こちらで待ち受けるのは、同じように刀剣を高く構える騎士ではない。
それどころか、低く構える。後列の銃撃を許すために、地面に片方の膝をついているからだ。その低い姿勢から、銃剣をずらりと横に並べるのだ。イスラムの騎士に迫られても、それを皆で一緒に突き出すまでである。
ナポレオンの位置まで悲鳴が聞こえてきた。血を流したマムルークの、あるいは怒りの咆嘩たったか。
個の武勇と集団行動の戦いになっていた。中世と近代の戦いといってもよい。身ぶり手ぶりで挑発し、一騎打ちを所望するマムルークもいたが、それも突撃を迎える後列の一斉射撃で、フランス軍に屠られるだけだった。
--どうだ。
手柄を立てることができたのは、至近距離で撃たれたために、死してフランス軍の方陣に倒れこんだ馬だけだった。戦列の崩れ目から、まんまと方陣のなかに進んだマムルークもいたのだが、それも回れ右した内側の兵士たちに討たれるか、あるいは捕虜に取られてしまうだけだった。
ピラミッドが見下ろす砂漠に、人馬ともども死体が山になっていた。レイニエ師団、ドゥゼー師団、どちらの前面も血煙で空が薄ら赤くみえる。
フランス軍の「生ける要塞」には攻め手がないと観念したか、残り半数ほどのマムルーク騎兵は、ほどなく退却してしまった。
両師団の間を抜けても、やはり一斉射撃を見舞われるだけなので、西には行けない。もとより東はナイル河で、はじめから退路は断たれている。半分は北のエムバベ村に入り、あとの半分は河沿いを南下して、ギザに逃げこんだようだった。
まずは完勝である。なるほど、この俺が負けるはずがない。ジョゼフィーヌと離婚すると、心を決めたとたんに、いきなり負けが込むはずもない。だから、あの女は勝利の聖母でも、幸運の女神でも、なんでもないのだ。これまでも俺の勝利は俺のもので、あの女など関係がなかったのだ。
先週に引き続いて、未唯がやって来た。動物病院の看護師を永年やって来た。先が見えている。就職したときに、ネットで生まれたばかりのりくくんを見つけてつれてきた。 #りくくん
今週、OCR化した本 #新刊書
居場所探し:『失われた居場所を求めて』『まちの居場所』⇒皆、居場所を探している
社会を変える:『ソーシャルワーカー』『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!』⇒「社会を変える」の定義が間違っている。「常識」を変えること
AIとBIは相性がいい:『人工知能と経済』
シリアは世界中に広がっている:『シリア 震える橋を渡って』⇒トルコとかレバノン以外にコペンハーゲンが拠点になっている
キーワードの探し方:『教え学ぶ技術』⇒17文字で表現する世界
フランス革命:『革命を戦争のクラシック音楽史』 ⇒生ちゃんは好きだけど、「民衆の歌」は嫌い! フランス国民は何を得たのか! ボノジノにしてもピラミッドにしても。
『シリア 震える橋を渡って』より
二〇一二年秋のある夜、私はヨルダンの首都アンマンにある風通しの良いバルコニーでリマと出会いました。二〇一一年まで、リマはシリアでテレビの脚本家として働いていました。彼女はバッシャール・アル=アサドの権威主義体制に反対する活動に積極的に関わるようになり、その後、全国各地で抗議活動を指揮する地方ネットワーク委員会のスポークスパーソンを務めました。その活動により、彼女は政権に数日間拘束されてしまいましたが、釈放後再び仕事に戻りました。政権の諜報機関のエージェントは、より恐ろしい刑罰を科すと彼女を脅し、追跡してきました。彼女は隣国のヨルダンに逃れ、そこで私は友人にリマを紹介してもらったのです。リマは、危険を冒して活動を続ける大胆な女性というイメージとはかけ離れた、とても繊細な声で語りましたが、亡くなった友人たちや、いまだ多くの血を流し続ける祖国のことなど、彼女の肩に重くのしかかる悲しみについては触れませんでした。彼女の革命に対する想いは揺るぎないものでした。「シリアの人々は、路上に出て声を上げた瞬間に政権を打ち破ったのです」と彼女は言いました。「もう二度と誰にも私たちの夢を奪わせたりしません」。
ヨルダンの首都が広がる丘を見下ろしながら交わしたその会話から五年近くの間に、私は何百人ものシリア人男性、女性、そして子どもたちと知り合いました。その人々の中には主婦や反乱軍兵士、髪の毛をシェルで固めた若者や、パリッとしたシャツに身を包むビジネスマン、信念を持った活動家、そして戦乱に巻き込まれた多くの普通の家族たちがいました。本書執筆時点でのシリア難民の大多数がそうであるように、私の出会った人々のほとんどはアサドの支配に反対していました。シリアの人々が祖国を出て行かなければいけなくなった原因は、時の経過とともに変わっていきましたが、紛争初期の数年間に国外へ避難することのできた人々の多くは、アサドの支配に抗う個人や地域に対して行われた、政権による空爆や恐ろしい刑罰から逃れるために国を後にしたのでした。
この本は、シリア人のほんの断片に焦点を合わせたものに過ぎません。私がインタビューした人々の言葉は、シリア国内の複雑に入り混じる宗教や政治思想を持つ人々全てを代弁しているものではありませんし、特にアサド政権を支持している人の言葉ではありません。しかしわずかな断片とはいえ、自らの言葉で語られるそれらの人々の物語は、滅多に耳にすることのできない貴重なものです。世界中の政治家やコメンテーターが、シリア人を哀れな犠牲者、保護の必要な集団、もしくは非難すべき急進派、抑え込むべき恐ろしい脅威などとして語っています。世界的問題としてシリアを語るとき、それはまるで吹き荒れる旋風のような言葉の応酬となり、実際にそこに生きる人間としてのシリア人の声に耳を傾ける機会を見つけるのは難しくなってしまうのです。
この本は、そういった生きた声を届けるものです。中東を専門とする政治学の教授として教鞭を執っているノースウェスタン大学で、二〇一一年に繰り広げられた〝アラブの春〟の様子をパソコンのスクリーンを通して目にしたとき、私はシリア人の声を記録しようと思い立ちました。二〇年以上も中東地域で暮らし、その研究を続けてきた私は、陽気な路上の抗議者たちや、反抗的なスローガン、国から国へと伝わりていく、人々の連帯の織りなす感動的な川来事の虜となりました。他の人々と同様に、私はこの革命の波がシリアに届くことはないと思っていました。大勢の国民を動員したデモが発生した他のアラブ独裁政権と比較すると、シリアの一党警察国家体制はより抑圧的で、その軍隊はより深く体制と結びついており、市民社会の力は削がれていました。バッシャール・アル=アサドの政権は、国内受けのよい外交政策や、様々な福祉を提供する国家システムを継承し、一般的には国民の尊敬を集めている若い大統領がいるという強みを満喫していました。チュニジアやエジプトといった国々は、その大部分が同質的社会で、市民のほとんどは政府から疎外されていました。しかしシリアにはモザイクのように宗教的少数派が入り混じった多様性があり、国民は、アラウィー派という少数派出身である大統領を支持していました。それにもかかわらずシリア人たちは路上へ出てきたのです。怪我や逮捕、死ぬことさえありうる恐怖をものともしない何十、何百の群衆はすぐに膨れ上がり、何十万ものシリア人たちが意を決して抗議の声を上げたのです。リマの言葉を借りて言うならば、彼らは思い切って夢を描いたのです。
これらの抗議活動に興味を持ち、より近くで観察するにしたがい私は、人々が危険を冒してまで抗議活動に参加することの意味を知りたいと願うようになりました。この芽生えたばかりの民衆蜂起がどのように人々を変えてきたのか、そして同様に、人々はどのようにして歴史の流れを変えてきたのか理解したいと思うようになりました。シリア国内は危険な状況だったので、私はシリアから避難してきた数百万の人々の中から体験談を聞かせてもらうことにしました。二〇一二年の夏、私はヨルダンに渡航しました。そこで私は六週間かけ、可能な限り、避難してきたシリアの人々にインタビューをしました。二〇一三年、私は再びヨルダンに戻り、その後トルコでもニカ月間を過ごしました。そこで私は様々な出身地やバックグラウンドを持つシリア人にインタビューすることができました。二〇一五年と二〇一六年には、私はトルコでさらに数力月、レバノンで二週間、そしてドイツ、スウェーデン、デンマークに三ヵ月滞在しました。シリア人を見かけたら、私はどこでも取材をお願いしました。シカゴの自宅から自転車で行ける距離に新しく引っ越してきた家族や、学術会議などで訪問したドバイで出会った何十年もそこに住んでいるシリア人など、多くの人に出会いました。インタビューのたびに私は、より様々な経験を持つシリア人のコミュニティと繋がり、シリア紛争の記録となるこの本が生まれることになったのです。
その過程で私は、難民たちのコミュニティと関わることに没頭しました。ある家族と何週間も一緒に寝泊まりし、カフェラテを飲みながら夜更けまで話し込み、病院やリハビリテーションセンターで負傷者たちの傍らに座りました。埃っぽい難民キャンプや、不潔な非公式居住区、避難所となった体育館などを訪問しました。トルコとシリアの国境で中学生にジャーナリズムを教えたり、ペルリンの市街地で服を配ったりといった様々なボランティア活動も行いました。こういった場所や、他の数えきれないところで、子どもたちと遊んだり、食器を洗ったり、写真やビデオを撮ったり、タバコの副流煙を吸い込んだり、限られた予算の中で調理される素晴らしい食事をともにしたりしました。そして私は可能な限り、出会った人々にその個人的な物語を聞かせてくれるように頼みました。
それらのインタビューは、二〇一一年にシリアで民衆蜂起が起きる前、最中、そしてその後の期間について、それぞれの個人が自由に自らの人生を語り、再考するというものでした。それは二〇分程皮の会話やグループディスカッションであったり、数日にわたり個人の人生を記録したり、ときには数年後に別の大陸でインタビューの続きを行ったりといったものまで様々でした。そのほとんどのインタビューを私はアラビア語で行いました。アラビア語は、流暢に話せるようになるまでに、私が人生の大半を費やして学んだ言語です。おかげで通訳に頼っていたら不可能だったであろう、インタビューする側とされる側の密接な関係を築くことができました。その関係性は長く続いていく友情の基礎となり、実際に今でも私はこの本に登場する人々と連絡を取り合っています。
インタビューを本としてまとめるためには、ふたつの工程を必要としました。ひとつ目は音声録音されたインタビューを書き起こすことです。その後ほとんどの場合、そのインタビューをアラビア語から英語に翻訳する必要がありました。これらの時間を要する作業を現実的なスケジュールで終了させるために、私は二〇人以上の助手を雇い、訓練し、監督しました。それから数カ月かけて、私自身で徹底的にその文章を精査しました。これはインタビュー当時も感じたことですが、その編集作業を行いながら、それぞれの個人の物語が、これほどにもひとつのまとまった大きな物語と密接に繋がり、溶け合っていくものなのだろうかと感銘を受けました。ひとつひとつの物語の中に見られる明らかな一致が、個々の人生がいかに同じ段階を経てきたのか、そしていかに同じような困難に直面し、取り組んできたのかということを暴いていったのです。たとえインタビューに応じてくれた方々が同意しなくとも、それらの証言は、権威主義から革命へ、そして戦争、亡命へと続くシリアの歴史の軌跡の中に、個々人の歩みがどれほど深く刻印されているかということを明らかにしました。
私はその軌跡をこの本の軸に据えることにしました。そして読者がその軌跡を確実に歩んで行くための案内となるような証言を選り抜き、抜粋しました。私はその言葉をシリア人自身の言葉のままであるように注意して選びました。その証言は、決して個人的な逸話を語るだけではなく、私が何かを追記する必要もないほどに、いったいシリアがどのように変わっていったのかという分析的な洞察も与えてくれます。とはいえ、それはこの本に物語が存在しないという意味ではありません。物語は、順番に語られるそれぞれの証言のはざまに横たわっているのです。それは先立つ証言に基づいて成り立ち、後に続く証言へと繋がり、この複雑な背景を持つ紛争の新たな一面を浮かび上がらせるのです。その物語を前に進めていくために私は、特定のパッセージを選ぶ際には、代表性と表現力というふたつの基準を用いました。代表性という面では、重要な出来事に関するものや、何度も語られる中心的な問題、そしてこれまでにすでに出版、発信されてきた、膨大な量のシリアに関する情報と共鳴するものを選びました。これらの証言に現れる共通性は、この本の中で語られる個々の証言や体験が、より広い範囲のシリア人にもあてはまるものだという確信を私に与えてくれました。表現力という観点からは、感情的な衝撃や、詳細な人間模様を伝える証言を選びました。何か起きたか、それがなぜ起こったのかと事実を説明するだけでなく、それを経験したのはまさにそこに生きていた人間なのだと思い出させてくれる、そんな強い印象を与える証言に強く惹かれました。
私はまるでモザイク画をつくるように、インタビューを抜粋し、まとめあげる作業に取り組みました。それぞれの証言は貴重な原石のようでした。それぞれの原石は独自の宝石のような魅力を放っています。私の役割は、それがひとつの欠片であるときよりも、全体として組み合わされたときに、より偉大な絵を構成するように配置することでした。宝石をカットするのは繊細な仕事でした。インタビュー全文を載せようとすれば、何十ページにも及ぷ可能性があり、しかもその話の流れは、あちこち自由に逸れてしまうものでした。人々はときに現在の出来事について語り始め、それから遠く離れた記憶に飛び、より最近の話に戻り、それから一周して、それまでに語られた経験を理解するための重要な出来事を加えたりします。そういった証言の長さを調整し、読みやすく編集する際に私が心がけていたことは、文字通り彼ら自身の言葉をきちんと伝えるということに加え、その言葉の裏に比喩的に潜んでいる、彼ら自身の本質的な部分に耳を澄ますということでした。そういった声をきちんと捉え表現するには、時として数ページを要することもありました。逆に、その生きざまから発せられる力強いエネルギーを表現するのに、わずか数語で済む場合もありました。この本で紹介される、様々な証言の長さの違いは、人々の豊かな多様性を示しているのです。
『人工知能と経済』より 再分配--ベーシックインカムの必要性
ベーシックインカム導入の目的
「ベーシックインカム」(BI:Basic Income)は、収入の水準によらずにすべての人々に無条件に、最低限の生活を送るのに必要なお金を一律に給付する制度である。例えば、毎月7万円のお金が老若男女を問わず国民全員に給付される。世帯ではなく個人を単位として給付されるというのも重要な特徴といえる。もちろん、月7万円が最低限の生活を送るのに十分な額であるか否かは議論の余地がある。
BIは社会保障制度の一種だが、この言葉は公的な収益の分配、つまり「国民配当」という意味でも使われる。例えば、イランの「現金補助制度」や「アラスカ永久基金」は、政府が石油などの天然資源から得た収益を国民に分配する制度であり、これらもBI的な制度として位置づけられる。ただし、最低限の生活保障を目的にしているわけではないので、本章ではあくまでも「BI的」ということにする。
国民配当としてではなく、社会保障制度としてBIを導入する目的は主に2っある。1つはすべての人々を貧困から救済すること、もう1つは社会保障制度を簡素化し行政コストを削減することである。前者の目的は左派(社会主義者)が強調する傾向にあり、後者の目的は右派(新自由主義者、リバタリアン)が強調する傾向にある。左派はBIのもつ「平等性」を、右派は「自由性」を重視しているということもできる。したがって、左派のBI提唱者は、既存の社会保障制度を維持したままBIを導入すべきだと唱えることが多い。それに対し、右派の提唱者は、既存の社会保障制度を全廃したうえでBIを導入すべきだと唱えることが多い。右派は既存の社会保障制度をBIに一元化すべきだと主張しており、左派はその動きに警戒し、弱者の暮らしを破壊するものとして反対しているのである。そうすると、同じ「ベーシックインカム」という名の下に、全く異なった社会保障制度を目指しているということ`になる。
ただしBI導入の際に、残すべき社会保障制度と廃止すべき社会保障制度があり、取捨選択すべきだという立場もありうる。筆者は、左派と右派の中間に位置するこの立場をとっている。これは、自由と平等はどちらも重要であり、可能な限りこれらの両立を目指すべきだという考えにもとづいている。取捨選択の基準については後述する。
普遍主義的社会保障
BIは「普遍主義的社会保障」と位置づけることができる。その点を強調してBIを「ユニバーサル・ベーシックインカム」(UBI: Universal Basic Income)ということがある。
BIのもつこの普遍性が前述した自由性と平等性をもたらしている。生活保護が「選別主義的社会保障」であるがために、自由と平等の両方を損ねているのとは対照的である。
日本の生活保護は、憲法25条で定められた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するための制度のはずだが、実際にはそのような役割を果たしていない。いわゆる「水際作戦」がとられて、病気を患っている場合ですら、生活保護の窓口という水際で申請を拒絶されることがある。申請が受理された場合でも、資力調査(ミーンズテスト)が行われ、申請者本人ばかりか家族や親類の収入や貯蓄まで調査され、基準をクリアしなければ実際に受給資格は得られない。生活保護の給付を受けられないものと最初から諦めて、申請しない人も多くいる。そのため、生活保護基準以下の収入しかないのに給付を受けていない世帯が、日本では特に多く、捕捉率は2割といわれている。つまり、8割の人は給付を受ける権利があるのに実際には受けていないのである。
それに対し、BIの給付にあたっては、労働しているかどうか病気であるかどうかは問われない。金持ちであるか貧乏であるかも関係ない。全国民があまねく受給するものだから取りこぼしがなく、誰も屈辱を味わうことがない。それゆえに、BIは普遍主義的社会保障といえるのである。
BIではまた、貧困の理由が問われることがない。フリードマンは、もし目標が貧困を軽減することであるなら、われわれは貧困者を援助することに向けられたプログラムをもつべきである。貧困者がたまたま農民であるなら、彼が農民だからではなくて貧しいからということで、彼を援助すべき十分な理由がある。すなわち、特定の職業集団、年齢集団、賃金率集団、労働組織もしくは産業の構成員としてではなく、人びとを人びととして援助するようにプログラムは設計されるべきである。と述べている。農民が貧しいから農民を扶助しようとか、母子家庭は貧しいから母子家庭を扶助しようといった考えは間違っているという。そうではなく、政府が貧困を減らそうとするならば、理由を問わず貧しい者をすべからく扶助すべきだとフリードマンは主張している。
人は母子家庭や失業といったさまざまな理由で貧困に陥る。現在、こうした理由の明確な貧困に対処するために、児童扶養手当(いわゆる母子手当だが2010年からは父子家庭も対象となっている)や雇用保険が制度化されている。しかし、政府が認めた理由以外で貧困に陥った場合、こうした救済を受けることができない。だが、すべての人が給付の対象となるのであれば、そういった制度は不要になる。そして、BIを導入し既存の社会保障制度を廃止することができれば、社会保障に関する行政制度は極度に簡素化される。社会保障に費やされる事務手続きや行政コストも大幅に削減される。
ここで注意する必要があるのは、すべての人々を扶助するといっても、BIはあくまでも貧困に対処するものであり、それ以上のものではないということである。
国民の生活を守るために政府が国民にお金を給付する制度である「所得保障制度」は、目的のみをみるならば、
・貧困者支援(生活保護、雇用保険、児童手当、児童扶養手当)
・障害者支援(年金保険、介護保険、医療保険、特別障害者手当)
の2つに分けられる。小沢修司はr福祉社会と社会保障改革』で、社会保障を「現金給付」と「物的給付」とに分類しているが、それらはおよそ本章における「貧困者支援」と「障害者支援」に対応している。
失業や母子家庭は、「貧困」を招くものとして考えられる。他方、老齢や病気、寝たきり、身体障害は「貧困」を招くばかりでなく、医療費の増加やそれ自体の労苦も問題となるので、「障害」(ハンディキャップ)として分類するのが適当だろう。
BIは、貧困者支援のすべてに取って代わることができるが、障害者や傷病者の支援の代わりにはなりえない。したがって、BIを導入した場合でも、後者についてはこれまでどおりの制度が維持される必要がある。個人的にはもっと手厚い支援がなされるべきだと考えている。これが右派と左派の中間的な立場からBIを提唱している筆者の展望である。
メリットとデメリット
BIの最大のメリットは、上記の目的と重なっているが、すべての人々を貧困から救済できることと社会保障制度を簡素化し行政コストを削減できることである。
前述したように現行の生活保護は、受給資格のあるはずの人の2割程度しか受給できていない。つまり、8割の人々は貧困に陥っているにもかかわらずそこから脱却できずにいる。生活が困窮していると、「労働環境が劣悪な企業に入っても辞められない」「病気を患っていても働き続けなければならない」「暴力を振るう配偶者と離婚できない」「十分な期間育休をとることができない」といったさまざまな生活上の問題が発生する。
BIのある社会では、これらの問題をある程度解消することができる。実際に、1974年カナダのドーフィンという町で行われたBIに関する実験では、ドメスティック・バイオレンスが減少し、育休期間が長くなることが確かめられている。そればかりか、「住民のメンタルヘルスが改善される」「交通事故が減少する」「病気や怪我による入院の期間が大幅に減少する」「学生の学業成績が向上する」といった思わぬ効果も現れた。
一方BIのデメリットして最も頻繁に取り上げられるのは、労働意欲の低下だ。労働しなくても最低限の生活が営められるならば、多くの人が労働しなくなるのではないかということである。これは、BIをめぐる最も大きな誤解でもある。まず、「BIが導入されたら労働意欲は低下するか?」という質問に対して、YESかNOで答えるべきではないだろう。その答えは、給付額に依存する。一般には給付額が多いほど労働意欲は低下するが、少なければそれほど低下しない。月50万円も給付されたら、多くの人々が仕事をやめてしまうだろう。実際、筆者が30人の学生にアンケートをとったところ、全員が月50万円の給付が一生保障されるならば、就職しないと解答した。他方、これまで行われたBIに関する実験では、月当たり日本円にして、3万円から15万円程度の給付がなされてきたが、その程度では労働時間はわずかしか減ることがない。先に挙げたカナダのドーフィンで行われた実験では、全労働時間が男性では1%、既婚女性では3%ほど減少したに留まった。しかも、理由の多くは、子供と過ごす時間を増やすことや十代の若者が家計を支えるための労働をしなくて済むということだった。要するに、社会的に望ましいと思われるような形での労働の減少なのである。
BIを導入すると人々が堕落するというのもまた誤解といえる。西アフリカのリベリアでは、スラム街に住むアルコール中毒者や麻薬中毒者、軽犯罪者に対し、200ドル(約2万円)を給付する実験が行われた。彼らは、そのお金をアルコールや麻薬ではなく、食料や衣服、内服薬などの生活に必要な商品に費やしたという。
このように、BIにまつわる「労働意欲を失う」「人々が堕落する」という2つの大きな誤解を解くことができれば、BIの実現に向けて私たちの社会は数歩前進することができるだろう。
『まちの居場所』より 「まちの居場所」としての公共図書館
かつての図書館は、本というモノのための場所であり、そこから直接恩恵を得る人々のための場所であった。しかし今では、情報を享受し、共有し、そして伝達する場所に変貌しつつある。そして、そこでは生身の人間の存在や役割が大きくなっている。つまり、デジタル化が進み、人の存在や営みが見えにくくなった現代社会の中で、人と知、知と知、そして人と人の関係が織りなす場所として再編された公共図書館に、自らの居場所を見いだそうとする市民が増えていると言える。これは、公共図書館がソーシャル・キャピタルの形成拠点の一つになりつつあると言い換えられるかもしれない。公共図書館が「まちの居場所」となっている所以である。
また高い公共性を有した空間、すなわち公共空間という点から考えると、公共図書館があらゆる市民の滞在場所となり、また市民同士をつなぐ役割を果たせるのは、ユネスコの公共図書館宣言にもあるように、何人も拒まず、無料で利用することが保証されているためである。これは、学校は子ども、病院は患者というように、実際には特定の利用者やニーズに応えるべくカスタマイズされた他の公共施設と大きく異なる点である。斎藤純一が指摘する公共性が備える三つの側面(Open、Common、Official)を援用すれば、非排他的(Open)で「知」という共有(Common)したい関心事や情報源などがあり、そこへのアクセスを制度上も保証する(Official)公共図書館は、まさに公共空間としての高い特性を備えている場所である。
わが国の地域社会における居場所づくりは、孤立化や無縁化が進む地域社会に対する一つの対応策であり、各地に「コミュニティカフエ」などが生まれているのはその具体例と言える。前書では、主宰者である「あるじ」の存在や主宰者主導の比較的小規模の空間づくり、また個別の事情に合わせた柔軟な運営を丁寧に取り上げた論考が並んだ。しかし近年では、本稿が取り上げた事例をはじめ、多くの市民にとっての「まちの居場所」となっていると感じられる公共図書館も少なくない。さらに最近では、同様な趣きや雰囲気を持った場所が他の公共建築、例えば児童館や学校、高齢者施設などでも確認できるようになってきた。公共建築を「まちの居場所」とすることは、これからの重要な計画目標になると思われる。
しかし、公共図書館が高齢者や親子の居場所となっている場合、その位相はコミュニティカフエのような利用圏が徒歩圏であったり、顔見知りの人々の居場所、つまり地域コミュニティ単位の居場所とはやや異なる。コミュニティカフエはおもに個人や組織が目を向けるCommonな課題に立脚しながら開設され、運営や空間づくりが行われているが、公共図書館はOpenを旨とするOfficialな運営や空間づくりが幅広い市民の来館と滞在を担保し、図書に限らない情報媒体を介した知的な活動や、それが行われる場所自体の持つCommonとしての特性が、人と公共図書館、もしくは人やコミュニティ同士をつないでいる。
よって、Officialの今日的なあり方が、公共図書館がいかなる公共空間になれるか、そして市民の居場所となりえるかの鍵を握っている。とはいえ、この三つの側面はそれぞれ独立しているわけではない。問われるのは三つのバランスであり、ひいては、「これからの公共空間はだれのためにあるべきか?」という問いかけでもある。このことは公共図書館だけでなく公共建築が「まちの居場所」となるための、また公共建築を市民や地域のニーズに応えながら「まちの居場所」へと育んでいくうえでの課題である。