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生ちゃんという分化

生ちゃんという分化

 ピアノができれば、生ちゃんになれるかというと、そうではない。好奇心、チャレンジ心が内とダメです。楽譜通りには拘らない。誰にどのように話しかけるか。それがミュージカルになること。

 そのために、様々な経験を積むこと。それらから生ちゃんは成り立っています。これこそ、分化の大きな例です。

日本のバレーの秘策

 日本のバレーはブロックをやめることです。慎重さから打ってくることにブロックは役立たない。発射点が変わっても着地点は枠の仲だから、そちらを六人で守った方が確実です。回転レシーブ方式です。

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OCR 化した13冊

『人の国際移動とEU』

 人の国際移動とEU--ハイ・ポリティクス化、統合への挑戦、グローバル・イシューとの接点

  もうひとつの欧州統合

  負の統合への反発か?--加盟国国内政治への影響

  グローバル化との関連--複数の規範形成

  本書の目的と構成

 リトアニア・ラトヴィア--東欧のE (Im) migration問題の極端例として

  2014年欧州議会選挙と東欧の状況

  東欧における人の移動の実態

  リトアニアの状況

  ラトヴィアの状況

  全体の考察と含意

 人の移動、グローバリゼーション、国家

  イントロダクション

  人の移動とグローバリゼーション

  新たなグローバリゼーションの時代における人の移動の管理

  出現しつつある「移住国家」

『よくわかる国際社会学』

 国際人口移動のグローバル化

  非合法移民

   生み出される非合法移民

   非合法移民のパターン

   移民グローバル化時代の非合法移民

   受け入れ国の対応

 国際人口移動のグローバル化

  ディアスポラ

   ディアスポラとは

   ディアスポラの多様性

   グローバル化とディアスポラ

 超国家地域統合と人の移動

  超国家地域統合とは

  ヨーロッパ統合と人の移動

  NAFTAにおける人をめぐる国境の強化

  地域統合と人の移動の解明すべき課題

 ドイツ社会と移民③

  1990年代半ば以降

   労働力の新たな希求:1990年代後半

   帰化と二重国籍:1998年以後

 格差をめぐる問い

  競争か、平等か

   グローバル化と二極分化

   多様な格差とジレンマ

  グローバルか、ローカルか、ナショナルか

   グローバル化問題と統治形態

   3つのガバナンス

   ナショナル・ガバナンスヘの回帰・強化

   問いの設定

『日本仏教史』

 「信」と「行」

  信じる力

  「信ぜよ、さらば救われん」

  キリスト教の予定説と親鸞

  仏教徒であれば誰にでもできる「行」

 檀家制度

  切支丹禁教

  切支丹弾圧と鎖国

  檀家制度の成立

  葬式仏教

  死者のための仏教か!?

『読書は格闘技』

 イントロダクション

『カフェ・バッハの接客サービス』

 「接客サービス」がなぜ大切なのか

 接客サービスの先にある「カフェの役割」では

 地域に豊かな文化か紹介する

 人と人との絆が生まれる場所、それがカフェ

 カフェ・バッハを支えてきた接客サービス

 カフェ・バッハが接客サービスか重要視する理由どは

 「コーヒー1杯で最高のかもてなし」を目指すのはなぜか?

 基本ど個人への接客サービス。サービスには大今く分けてふたつある

 基本の接客サービスか疎かにすると不公平感が生じる

 上手に行えば強力な武器になる個人への接客サービス

 スタッフ全員がか客様になった気分でコーヒーを飲む

 来店予定表か見ながらお客の情報かスタッフが共有

 ミーティングか通してスタッフ全員が商品知識か共有する

 上手くいくかいかないかが決まる

 できることは前日の営業終了後に済ませておく

 リピーターにしたいか客様かカウンター席に誘導する

 お届け~テーブルの片付け~店内巡回

 コーヒーの名前は省略しない。長くて芯正式な商品名か声にだして提供する

 カップルのか客様は女性のオーダーからテーブルに置く

 無理はしない。最悪の事態か想定してお届けサービスを

 基本か踏壇えたうえで、お客様に合わせたサービスか心がける

 お客様から言われる前にテーブルの上か合作いに片付ける

 トイレの使用が確認できるようにランプか新たに設置

 お届けから店内巡回まで。お店の心づかいを発揮する絶好の機会!

 お客様がより気持ちよく快適に過ごせるように努める

 何のために店内巡回するのか。問題意識を持って実践する

 お客様に関心を持つことが店内巡回の基本中の基本

 店内巡回を上手く利用して営業につなげる

『歴史に見る日本の図書館』

 今後の日本の図書館

 デジタル時代の図書館--機械化図書館か、電子図書館か

 図書館とデータベースのあり方

 図書館業務の外部化と図書館の将来

  図書館業務の外部化

  図書館流通センター(TRC)

  図書館サービスの実態

『よくわかる生涯学習』

 指定管理者制度に関する課題

  指定管理者制度とはなにか

  指定管理者による社会教育施設の運営

  指定管理者制度の課題

 ドイツの生涯学習

  生涯学習?継続教育?

  フォルクスホッホシューレとは

  ドイツにおける成人教育のあゆみ

  現在の課題

 デンマークの生涯学習

  学習社会の優等生

  デンマークの国民高等学校

  デンマークのアソシエーション

  多文化化という課題

『自死』

 若者を潰すブラック企業

 「名ばかり店長」という装置

 経営者はサムライ

 ニワトリの頭になりたい

 孤立化と「自死」

『地球環境戦略としての充足型社会システムへの転換』

 「環境の取り組み」は閉塞状態に

 飽和状態に達した半官製・商業主義の「エコ」

  この国の「エコ」

  半官製・商業主義の「エコ」はピークを過ぎた

 市民への「丸投げ」路線で「環境したいことがない人」急増

  国民・市民が主役の環境取り組みにー「参加」・「協働」-

  環境の取り組み「したい人」減少、「したいことがない人」急増

  「暮らしの中での工夫や努力」の定着も危うい

  国は自治体に「丸投げ」、自治体は市民に「丸投げ」

 原発依存の温暖化対策の破綻で「国民総環境疲れ」、「CO2増加」

  大キャンペーンにもかかわらず省エネ行動は減退

  原発に依存した温暖化対策の破綻が原因

 世界の中で最低クラスの日本人の「環境危機意識」

『逆行の政治哲学』

 自由のないデモクラシー トクヴィル:「行政の専制」

  プロローグ--「民主」と「専制」

  「専制」の来歴  西洋の政治文化の連続と断絶

   古代から近代ヘ--「同意」という罠

   専制批判の再興と権力の分立

   ナポレオンの登場と新しい専制

  民主的専制の誕生 行政権力の集中

   集権の論理と心理

   行政の役割の拡大

   行政の専制の性格

  自由のあるデモクラシーの条件 自己統治と自己制約

   自治と習慣

   宗教と尊厳

   司法と形式

   エピローグ--デモクラシーの未来、自由か専制か?

 全体主義的思考を超えて アーレント:国家への問いかけ

  プロローグ

  襲いかかる「政治」 反ユダヤ主義・シオニズム・ナチズム

  シオニスト/アーレントの理論と実践

  国民国家のパラドクス

  異郷の政治哲学に向けて

『数学ガイダンス2016』

 数学科を語ろう

 位相幾何学と多様体論

  ホモロジー論

  基本群とホモトピー論

  多様体論

  他分野との関係

『多文化社会読本』

 フランス共和主義とイスラーム嫌悪

  共和主義ナシオンの「他者」

  「移民」という不安

  国民国家の弱体化と不寛容の操作

 「ユダヤ文化」の復興?

  ポーランドにおける多文化社会の再構築の試み

  廃墟をめぐって一記念碑と忘却碑

  東ヨーロッパの絶滅政策

  絶滅政策の記憶

  「ユダヤ文化」への関心

  「失われた文化」の復興?

『経済法』

 知的財産権と独占禁止法

 知的財産権と競争政策の関係

  知的財産権の本義

  知的財産権の種類と分類

  知的財産権の他の分類

  知的財産権と独占禁止法の関係

 知的財産の創出と知的財産権の利用の実態

  事業活動としての研究開発

  知的財産権のライセンスの実態

  知的財産権のライセンス契約上の制限

 知的財産権と独占禁止法違反行為

  私的独占

  不当な取引制限

  資産としての知的財産権と企業結合規制

  不公正な取引方法

  適用除外

  独占禁止法違反に対する規律
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知的財産権 私的独占

『経済法』より 知的財産権と独占禁止法違反行為

JASRAC事件

 音楽著作権団体の音楽著作権の使用料金の決定方法が、新規参入者を排除する効果をもつとして私的独占の排除に問責された例がある。

 JASRACの料金は、音楽ューザーであるラジオ、テレビ放送事業者の収入に一定率、例えば1.5%を乗じる方法で算定して徴収していた。これは音楽の実際の放送回数が反映されない料金制度(「包括徴収」制度)である。公正取引委員会は, JASRACの料金の決定方法が、音楽ューザーが放送回数を減らしJASRACに支払う料金を節約して他の音楽著作権団体が管理する楽曲を使うというインセンティブを殺いでいるから、私的独占の排除に該当するとして、これを取りやめる排除措置命令を出した。

 JASRACはこれを不服として審判を請求した。公取委は、排除効果があることの実質的証拠がないとして、自らの排除措置命令を取り消す審決を下した。これに対し、審決の名宛人でないイーライセンスが、公取委の事実認定には誤りがあるとして東京高裁に審決取消訴訟を提起した。東京高裁は、イーライセンスの原告適格を認めた上、排除効果があることを示す証拠はあるとしてイーライセンスの主張を認め、公取委の審決を取り消す判決を下した。

 公取委は、上告受理の申請を行い、受理されたが、最高裁は、JSRACの行為は「排除性」があるとし、特段の事情がない限り、通常の競争手段の範囲を逸脱するとみとめられるので、2条5項の「排除」に当たるとして、公取委の請求を棄却した。現在、本件は、公取委で再び審理中である。この問題は, JSARACとイーライセンスの審判手続外の交渉で解決される可能性があり、その場合、この審判は違法宣言審決となるにとどまり、特段の措置はとられないであろう。

ぱちんこ機メーカー(特許プール)事件

 複数の事業者の特許権を共同で特定の事業者に管理委託する方式が濫用された事件がある〔ぱちんこ機メーカー事件〕。ぱちんこ機メーカー10社は、日本遊戯機特許運営連盟と共謀して、ぱちんこ機製造業の分野への新規参入を妨害する目的で、10社を含む工業組合の組合員以外の事業者には特許ライセンスを与えないとする排他的な管理を実施した。それが10社と連盟の通謀による排除行為として、私的独占に問われた。

 「権利の行使と認められる行為」(独禁法21条)は、個々の単独の特許権者のみが行うことができる。特許権者が特許プールを組織し集積した特許権に基づいて行う共同の意思による権利の行使は、外形上または形式的には権利の行使であっても、権利の行使の実質をもたない。「排除」行為とされるのを避けるために、なんらかの開放性が確保されなければならない。

 特許プールは、同一業界に複数存在し、その間で、特許の集積競争、ライセンスの競争、さらに研究開発競争を含む競争が行われていることが望ましいだろう。

その他の排除行為

 「排除」行為には、違法な計画の一部に知的財産権を流用する行為も含まれる。都立病院の病院用のベッドの仕様入札に、事情に疎い入札担当者に働きかけて自己が実用新案権をもっベッドの仕様を指定させて、他社を入札参加できなくした例がある〔パラマウントベッド事件〕。新しい新聞社が自己の地域に進出するのを阻止するための一連の排除行為の一部として、進出者が使用する可能性のある複数の商標を先んじて商標権出願した例〔北海道新聞社事件〕がある。

検索エンジン等における双方向市場の独占化

 悪手と買手の間にたち、取引を媒介するアマゾンや楽天のような電子商取引の事業者は、デジタル・プラットフォーム(以下、単に「プラットフォーム」とする)といわれる。プラットフォーム事業は、売手を買手に仲介をする事業と、買手を売手に仲介をする事業を接続させるので、それらは双方向市場(もしくは2面市場)といわれる。双方向市場においては、概して、買手側の参加者が増加すれば、売手側の参加者も増え、逆に、売手側の参加者が増えれば、買手側の参加者も増えるという効果が発生しうる(いわゆる「ネットワーク効果」)。そのことから、プラットフォーム事業は、一般に、急速に独占を形成する傾向が認められる。 LineやFacebookのようなソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、ユーザーの数が多いことがューザーに大きな効用をもたらすので、このような効果は顕著である。

 検索エンジンも、検索連動型広告により、広告主と買手をつなぐことから、双方向市場のプラットフォームの1つであるが、GoogleやYahooのような検索エンジンが独占傾向をもつのは、直接には、検索技術の卓越性によるものであろう。ユーザーの数が多いのはその結果である。そしてユ-ザーの数の多さが検索連動型広告事業において成功を生み出している。

デジタル・プラットフォームにおける排除行為

 プラットフォーム事業は、ユーザーが増えても、サービスを提供するのに追加的費用がかからないことが多い(経済学に言う「限界費用ゼロ」)。そこで、一方の市場でサービス料を無償としてユーザーを増やし、プラットフォームのユーザー規模を大きくすれば、他方の市場の様々なサービス業者が高い料金を支払ってもプラットフォームに加盟することが期待できる。ユーザーを獲得するための競争は激しく、独占企業でも厳しい競争にさらされる。そのプロセスで破綻し、他の企業に買収される独占企業も少なくない。

 無償で提供される検索サービスは、独禁法上の不当廉売に該当するとはされない。双方向市場の一方でサービスを無償としても、他方の市場で利益を得ており、これは不合理な競争行為ではないとみなされる。無償サービスに、ポイント制を付加して、限界費用以下でサービスを提供する行為もある。このような行為が排除効果をもつとしても、「正常な競争手段の範囲を逸脱するような人為性」を有するかの否かの判定は難しく、独禁法が過剰な規制とならないような配慮が求められる。

 そのようななかで、競争当局は、支配的な検索エンジンが独占力を濫用した疑いのある行為に対しては、独禁法の積極的な適用を行っている。欧州委員会は, Googleが、商品・サービスの価格比較サイトの検索結果の表示順位において, Google系のサイトを上位に表示させるプログラムを組んでいるという疑いで、市場支配的地位の濫用の調査を始めている。
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ポーランド 絶滅政策の記憶

『多文化社会読本』より ポーランドにおける多文化社会の再構築の試み

第二次世界大戦前のポーランドには、総人口約3、000万人のうち、ユダヤ人(ユダヤ教徒、「民族的帰属」としてユダヤ人を選んだ人)は約300万人が暮らしていたが、絶滅政策の結果、戦後のポーランドに帰還したのは20万人にすぎなかった。その多くもすぐにパレスチナや北米に移住したため、その数はさらに少なくなった。普通、移住には主体的な選択が伴うが、ユダヤ人たちにとっては、戦後、ポーランド人民共和国に残る、という選択もまた主体的なものでなければならなかった。親類や友人も、地域のコミュニティも、宗教的コミュニティも、何もかも失っていたからであり、そのうえ、そこは忌まわしい虐殺の地であり、ナチズムは、ポーランド社会に強い反ユダヤ主義さえ刻印して去ったからでもある。熱心なユダヤ教徒の目には、社会主義のポーランドより、北米のユダヤ人社会か、イスラエルのほうが、宗教生活にははるかに恵まれた条件を備えているようにみえただろう。

ポーランドに残ったユダヤ人は、戦時中の経験にもかかわらず「ポーランド人」としての自己認識を保っていた人か、社会主義社会の未来に期待をかけた人々であった。そのため、彼らにはユダヤ人・ユダヤ教徒としての社会的・文化的実践を行う理由も、ましてや絶滅政策の過去を想起する積極的理由もあまりなかった。また戦後のポーランド社会では、現代史は、ナチ・ドイツの苛酷な占領という「受難の物語」と、占領に対する抵抗という「英雄譚」を軸として構成されたので、絶滅政策への関わりという問いに結び付くユダヤ人の存在は、集合的記憶のなかから排除された。冷戦状況のなかで、北米やイスラエルに移住した人々もポーランドという故郷から切り離され、残ったのは虐殺と裏切りの記憶であり、度し難い反ユダヤ主義に刻印された、最果ての「東ヨーロッパ」というイメージだけであった。こうして戦後のポーランドでは、ユダヤ人の姿のあった長い歴史も、絶滅政策の経験も、語られることはなかった。

このような状況に変化が訪れるのは、ようやく1980年代末のことである。1987年には、記念碑的論文が、カトリック・リベラル系の雑誌に発表された。ヤン・ブウォンスキの「哀れなポーランド人がゲットーを見つめている」である。ブウォンスキは、ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩、「哀れなキリスト教徒がゲットーを見つめている」に寄せて、こう書いている。

チェスワフ・ミウォシュは、ポーランドの詩に重くのしかかっている浄めの義務について、独特のことばで何度も書いている。「重荷を背負わされ、血で礦された祖国」を浄めることを。機れをもたらすのは他人の血である。自ら流した血、犠牲者の血は、悲しみにせよ、共感にせよ、あるいは敬意にせよ、追想をかきたてる。記憶、祈り、正義を求める。それはまた、いかに容易ではないにしても、赦しを許容する。ところが他人の血はそうではない、正義の戦いで流された血にしても。私たちには正当防衛の権利がある、しかし、それはすでに妥協でしかない。イエスはペトロに剣をおさめるよう言われた……。流された血には、省察、つぐないが必要だ。そして、他人の血はどのようなものであれ、祖国を機し、重荷を背負わせるものだとは言うことはできない。

ミウォシュが考えているのは、自分たちの血のことでも、侵略者たちの血のことでもない。彼が考えているのは、ユダヤ人の血のことであり、大量虐殺のことである。それは、たしかにポーランド国民にその責任はないが、この地で行われ、いわばこの地に永遠の刻印を残している。詩、文学、あるいはもっと一般的に、記憶や集合意識は、この血にまみれた、おぞましい徴を忘却することはできない。あたかも何事もなかったかのように振る舞うことはできない。…時として(特に若い人だちから)、この徴は何の関係もないという声を聞く。連帯責任を負うのはやめようじゃないか、と。取り返しのつかない過去にかかわる必要はないのだ。ほかのどのような不正な行為や野卑な行為を裁くのと同じように、犯罪は全体として裁けば十分なのだ、と。それに対して、私はこう答えよう。祖国というのは、その時々にやってくる客が汚したあとを掃除すれば済むような、ホテルではない、と。祖国は何よりも記憶からなっている。別の言い方をすれば、私たちは過去についての記憶によってのみ、自分自身なのだ。この過去は好きなようにつくり変えることはできない。たとえ、個々人としては、私たちはこの過去に直接の責任を負っていないにせよ。私たちは、それがどんなに不快で苦痛に満ちたものであっても、過去をみずからの中に携えていかなければならない。そして過去を浄めることに尽くさなければならない。

ブウォンスキは、ポーランドの歴史に、ポーランド社会の集合的記憶のなかに絶滅政策という過去を正当に位置づけることを求めたのだが、それだけでも、当時は大きな論議を巻き起こした。ある人々の目には、ブウォンスキの呼びかけが、ポーランド人を道徳的に非難するものと映ったからである。しかし、1989年の体制転換を経て、絶滅政策とポーランド社会の関係を問う議論は、ますます広がりと深まりを増していった。その頂点がイェドヴァブネのユダヤ人虐殺をめぐる議論である。

1941年7月、ドイツが占領分割線を破ってソ連占領地域に進撃した直後、占領分割線のすぐ東にあった小さな町、イェドヴァブネで、ユダヤ人の虐殺事件があった。犠牲者は納屋に押し込まれ、火をかけられたのである。この事件は、1999年に出版されたポーランド出身の歴史家、ヤン・トマーシュ・グロスの著作、『隣人たち』で一躍有名になり、ポーランド社会を二分する議論を巻き起こした。グロスは、ポーランド社会にある反ユダヤ主義を告発し、絶滅政策への積極的な加担を論じることになったからである。生存者の証言からグロスが明らかにしたのは、ドイツ軍による占領の直後ではあったが、この虐殺を主導したのは占領軍ではなく、同じ町に住むポーランド人、すなわち「隣人たち」であったという事実であった。

その後の共同研究の結果、グロスの著作にはさまざまに一面的な部分があることがわかった。グロスが推測した犠牲者数1、500人に対して、400人という数字があげられ、また、事件の原因をポーランド人の反ユダヤ主義に帰して単純化した見方に対しては、イェドヴァブネ周辺地域の政治・文化や、ソ連占領下での地域社会の変化、独ソ戦開戦後の地域秩序の崩壊などを要因として考えなければならない、という意見が提出された。こうして事件を歴史的に理解する道が開かれだのは、全体として、専門家の間で、事件についての「隣人たち」の関与そのものについて、広くこれを認める見解が共有されていたからである。2004年7月、事件の60周年を記念する追悼式典で当時の大統領、アレクサンデル・クファシニェフスキは次のように述べている。

当時、60年前、1941年7月10日、この地で、当時、ヒトラー・ドイツに征服され、占領されていたこの地で、ユダヤ人に対する犯罪が行われました。それはおぞましい日でした。(中略)私たちは確かに知っています。犯罪者、実行者のなかにはポーランド人がいたことを。ここイェドヴァブネで、ポーランド共和国市民が、ほかの共和国市民の手にかかって死んだことは、疑いがありません。このような運命を、人々が人々に対して、隣人が隣人に対して、準備したのです。

60年前、ポーランドをヨーロッパの地図から消し去ろうとする者がいました。(中略)しかし、ポーランド共和国は、ポーランド人の心に生き続けるべきでした。そしてポーランド共和国市民は、文明国家の規範に従う義務がありましたし、そうであるべきでした。ポーランドは、数世紀にわたる寛容と、多様な諸民族、諸宗教の平和的共存の伝統のある国家なのです。人々を狩り集め、殴り、殺し、炎をつけた人々は、ユダヤ人という隣人に対する犯罪を行ったばかりではありません。彼らは、共和国に対して、その偉大な歴史と輝かしい伝統に対する犯罪を行ったのです。

ポーランドにおける絶滅政策については、まだまだ明らかにしなければならないことが多い。その研究は、社会主義時代から存在するユダヤ歴史研究所(かdowski Instytut Historyczny)や、2003年に設立されたユダヤ人絶滅研究センター(Centrum Badari nad Zaglada Zydow)などを中心に着実に進められている。重要なことは、ポーランド史、ポーランド社会の集合的記憶のなかに、絶滅政策の過去が、ポーランド社会の負の関与も含めて、有機的に組み込まれつつあるということであろう。上の演説にみるように、それは同時に失われたものへの関心、失われた多文化社会への志向と表裏一体に進んでいった。
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フランス 「移民」という不安

『多文化社会読本』より フランス共和主義とイスラーム嫌悪

1989年と1994年には、国論を二分するほどに大きな議論となった公立学校のスカーフ問題だが、公立学校における女子生徒のスカーフ着用それ自体は1980年代には広くみられていたといわれ、ことさらに社会問題視されることはなかった。つまり、スカーフが問題視される契機は、ムスリム女子生徒のスカーフ着用それ自体にあるのではなく、それを問題視するようになった社会の側にあることになる。言い換えれば、「移民」の子女であることの表徴でしかなかったスカーフが、ムスリム系住民によるライシテの侵犯にしてフランス社会への同化拒否の象徴と見なされるようになった転機が、1980年代終盤から90年代にかけてあったわけである。

この時期のフランスといえば、戦後の高度成長が1970年代のオイルショックによって終わって以降、経済の低迷が続くなか、内外で大きな社会変化に向き合わねばならなかった。 1981年から始まったミッテランの社会党政権は、経済を立て直すべく種々の社民主義的政策を試みたが、ことごとく失敗して経済の停滞は慢性化した。一方で、東西冷戦は終焉して国際状況が激変するなかフランスの対外的なプレゼンスは低下し、国内では非ヨーロッパ系移民の流入および定住に伴って社会の多文化化が進んだ。他方で、国際的にはEUの創設によって超国家的な地域統合が行われて国家の自律性は低下した。このため「一にして不可分」という固有性を標榜してきた先進的文明国フランスの威信とアイデンティティはゆらぎ、社会不安が高じたのだった。実際、移民排斥と反EUを訴える極右政党「国民戦線」が選挙で得票数を伸ばして一定の政治勢力となり、既存政党も、人気を集める国民戦線のポピュリズムを看過できず、ときに追従すらしていくようになるのがこの時期である。

ここで考えてみたいのは、なぜこうした社会不安がマグレブ系住民というエスニック・マイノリティの排除に転化するのかということである。主流社会と異なる文化をもつとはいえ、居住それ自体が社会的な素乱になるわけでもなく、そもそも政治的な力を発揮できるほどの資格を与えられておらず、多くが社会の底辺で暮らすがゆえに周縁化され、不可視化されてきたマグレブ系住民が、蔑視や差別の対象であることを超えて、フランス(的価値)を毀損するがゆえに駆逐すべき存在と見なされ、公然と社会的暴力を振るわれて排除されるようになる理由はいかなるものなのか。ここに関わるのは、失敗した植民地支配のトラウマと、1980年代終盤から90年代にかけて進展したグローバリゼーションとによって毀損されたナショナル・アイデンティティに対する憐潤的かつ攻撃的な自己防衛であるといえる。

今日ではあまり意識されなくなっているが、往時のフランスは英国に次ぐ版図をもつ帝国であり、アジア、アフリカの所々に植民地をもっていた(海外県はその名残である)。なかでも注力していたのが地中海対岸にあるマグレブ地域(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)で、とりわけ1830年に占領が始まり、1847年には抵抗運動を制圧して完全なフランス支配下におかれたアルジェリアは、フランス人をはじめとする多くのヨーロッパ人が入植し、フランスの一部として本土同様の行政単位である県がおかれるほど(モロッコ、チュニジアは保護領)、重要な支配地として位置づけられた。しかし、第二次世界大戦後は独立運動が再燃して激化し、1954年にアルジェリア戦争が勃発して、1962年のアルジェリア独立までに100万人以上の死者を出す壮絶な戦闘が行われた。文明の下賜の名のもとで「善意」として合理化され、推進されてきたアルジェリア支配が被植民地人に根本から否定され、宗主国としての威光や自尊心は粉砕されたわけである。

と同時に、この戦争はアルジェリアだけでなく、フランス本土にもさまざまな内乱を引き起こしてフランス人同士が殺し合うまでになり、深い亀裂を生み出すことになった。フランス国内のアルジェリア独立運動が社会を紛擾させ、在仏アルジェリア人が官憲によって虐殺される事件が生じる一方、極右民族主義者の武装地下組織OAS(Organisation de l'Armee Secrete : 秘密軍事組織)はアルジェリア独立の承認を阻止すべく政権に対してクーデターを企て、政治家やフランス軍・警察に武装闘争やテロを行った。対する政権側も徹底的にOASを取り締まった(OASのメンバーには拘禁刑はもとより、死刑、地位の剥脱、公職追放の判決が下され、海外逃亡する者も出た)。ピエ・ノワールと呼ばれるアルジェリアからのフランス人引揚者は家と財産を失い、父祖の地を追われながらも本国では疎んじられた。アルジェリア戦争でフランス軍に参加したアルキと呼ばれるアルジェリア人は、戦後に渡仏してもフランス社会で隔離されてほとんど顧みられることがなかった。しかもこうした「汚点」と亀裂の総体は、当局によるメディア統制や隠蔽、何よりフランス人自身の否認もあって可視化されることがなく、そのトラウマだけが深く社会に沈潜することとなったのだった。

他方で、フランスの戦後復興を下支えすべく低廉な単純労働力として移入されていたアルジェリア人労働者は、アルジェリア独立によってフランスとアルジェリアどちらの国籍を選択するのか迫られることを皮切りに、変転するアルジェリアとの外交関係にその身分は翻弄された。フランス定住を選んだものたちは、アルジェリアから家族を呼び寄せることは認められたものの、経済の停滞によって真っ先に解雇されて失業が常態化し、市民としての社会的救済を十分に受けることのないまま、高度成長期に建設されて、1970年代の経済低迷後はスラム化していく大都市郊外の低所得者用集合住宅に集住し続けることになった(今日“郊外”と呼ばれているのはこうした地域である)。職場と家庭におおむね生活空間が限定されていたために社会から暮らしが隔離されていた移民1世たちと異なり、フランス生まれの移民2世たちは、生活が地域に深く関わるがゆえに否応なしに社会を多文化化していったが、アルジェリア戦争をめぐる歴史は抑圧され、移民が移入された経緯は等閑視されることで、移民の抱える問題は移民それ自体のせいにされ、移民の居住地域である“郊外”は「移民」--マグレブ地域に出自をもつことや、ムスリムであること、移民であることが渾然と一体化した「他者」の表象である--の流入によって引き起こされる社会問題の温床と一方的に見なされることになったのである(社会問題のエスニック化)。

こうしたなか進展したのが、グローバリゼーションである。グローバリゼーションは、諸国家に経済と流通の徹底的な開放を求め、国境を越えて産業、文化、市場を統合することで、国家から経済を中心とする諸活動の自律的な統制機能を奪っていく。いきおい、グローバリゼーション下で国力を確保しようとする国家は、富力を増大させる企業に好適なプラットフォームと化す経済政策を採ることになる。そして、国家がその経済基盤を国民ではなく企業に重点をおくとき、国家を持続的に成長させるためのリソースであった国民全般の労働生産性の維持と向上は顧みられなくなり、イノヴェイティヴと見なされない大半の国民はコストと見なされて、景気の調整弁にその存在価値を縮減されてしまう。しかも「職」は一般国民にとって経済活動のみならず社会関係の基盤でもあるため、雇用が常態的に不安定化することは、国民に生活不安を抱かせるだけに終わらず、自らが社会から落伍する不安、すなわち、社会的に否定されることへの恐れを生み出すことになる。

こうしたことから、1980年代終盤まではマイノリティでしかなかった移民が、社会の不穏分子に見なされるようになった事態を理解することができる。国家の政治と経済の主体性が外部の力(グローバリゼーションやEUといった超地域的統合)によって脆弱化するとき、先進国の国民であれば市民権(国民権)という社会に存在するための特権--難民を思い浮かべれば、これが特権であることは理解できよう--を平等かつ無条件に与え、保証してくれるという国家の擬制的な超越性を内面化している人々は国家に同一化して、国家の脆弱化とそれに伴う市民権の質の低下をアイデンティティの崩落と感じて不安を抱くことになる。現実に、経済、雇用、治安、社会福祉などの劣化を目にすることで、そうした不安には根拠が与えられてしまう。こうしたとき、移民の流入が地域社会で可視的な(負のイメージの)変化をもたらすと、そうした社会変化は「外圧」による国家の変化とないまぜになり、「移民」は社会を悪化させる「汚染」の象徴となる。と同時に、マグレブ系移民の存在は、フランスの文明国としての威信を失墜させた植民地支配の挫折/戦争の敗北という忌まわしい過去とその責任を突きつけるものでもあったため、二重にその存在は否定されることになった。しかも1991年に、アルジェリアでイスラーム原理主義政党のイスラーム救国戦線が選挙で勝利すると、世俗主義を標榜する軍部がクーデターを起こしてアルジェリアは内乱状態となったが、フランスはこの軍部政権を支持したため、内乱がフランス国内に飛び火し、アルジェリア戦争時を彷彿させる爆弾テロが起きて、「移民」に対する不安・敵視は増幅されることになったのである。

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数学科を語ろう

『数学ガイダンス2016』より

飯高 現在フリーアナウンサーとして活躍されている神田さんですが、大学ではどうして数学科を志望したのですか。

神田 中学生のころから数学が好きでした。勉強していていちばん夢中になれたのが数字と向き合うことだったので、大学では数学科を選びました。ただ、小学生の頃からアナウンサーになりたいという夢を持っていたので、そのためには文系に行ったほうがいいかなとも思い、少し迷いましたが。

飯高 数学科に入りたいという人は、考え方がきりっとしているように思います。数学をやりたいという決意をもっていて、他の人とはちょっと違うところがある。

神田 私の場合は、ほかの人と違うという意識まではなかったかもしれません。

飯高 学習院大学で日本史を専門とする教授から、歴史学で大事なのは論理的な分析力だと聞きました。実は歴史学にも数学をきちんとやってきた人が必要。本物の考える力を持った学生に来てほしいけれど、数学が受験科目に入っていても選択なのでとる学生が少ないのがとても残念、と言っていました。

神田 それをいいますと、基本的にはすべての分野で、数学的思考力があったほうが役に立ちますね。

飯高 でも、実際に数学科に入ってみると授業が全然わからないという学生の話をよく聞きます。これもある先生が言っていたのですが、化学を勉強したいと思って大学に入ると、高校で習った化学とは違って、結局、物理を一所懸命にやらされている。物理学科の人は、高校までの物理とは全然違って数学をすごく使うから、もっと数学を勉強しておけばよかったと気づく。数学科の人は、わけのわからないことをやらされて、これは哲学ではないかと思う(笑)。

神田 そうですね。高校までの数学とは違って、偉大な数学者が見つけ出した公式をひたすら証明していくというのを4年間ずっとやっていた気がします。数学科がこういうところなんだということは、高校では教わっていなかったな、と感じたこともあります。高校までに習っていたあの楽しい数学はとこへ行ったのかと思いました。

飯高 教えている立場からすると、高校と大学の数学にギャップがあることにすら気がつかなかったりするんです。

「数学女子」の学生生活

 飯高 『数学女子』(竹書房、全5巻)という漫画があるのをご存じですか?

 神田 知っています。

 飯高 ある大学の数学科を舞台に、1学年でたった4人しかいない女子学生のキャンパスライフを描いています。作者の安田まさえさんとは、以前『数学セミナー』で対談をしたことがあります(2012年9月号)。ご自身も数学科出身で、実体験をもとにして作品を描かれているそうです。僕が講義をしているときには、学生が何を考えているか全然わからなかったけれど、『数学女子』を読んで数学科の女子学生の心理状況がはじめてよくわかりました。

 神田 先生から見て、学習院大学数学科の学生はどういう特徴がありましたか。

 飯高 女子学生でいうと、美人が多いということでしょうか(笑)。

 神田 そうなんですか。たしかに、女子の割合は多かったですね。私の学年は、70人くらいいるなかで、女子が30人でした。これから数学科に入る女子の方に、これは気をつけたほうがいいと思っていることがあります。数学科の女子は考え方が論理的すぎて、男性と口論しても負けないんです。

 飯高 なるほど。高校でも習うけれど、数学で背理法というのがありますね。一般の会話で背理法的論理で追いつめられると、ダメージが大きいようです(笑)。

 神田 そういった「プライベートで使う数学」のようなものを、一年生の講義で話してもらえるとありかたいです。論理的な考え方ができると、仕事では説得力が出ますし、話し合いでもきっちりとした意見が言えるので、数学科での経験がとても役に立つと思います。

 飯高 そういうふうに数学が役立っている話をきくと、僕もすごくうれしいです。

 神田 大学生活を振り返ってみると、いろいろな講義を受けたなかで、飯高先生がいちばん楽しそうに授業をしていらしたんです。数学と接していると笑顔になれるということなんですか。

 飯高 なんにも考えていないね(笑)。たぶん自然にそうなっているんですね。

 神田 私が先生のゼミを選んだのも、笑顔に惹かれたからです。先生の持っておられる雰囲気が柔らかく明るいので、アットホームななかで卒業研究ができました。

 飯高 卒業論文は、連分数の研究に関するプログラミングでしたね。

 神田 そう、プログラミングをやっていました。先生のゼミでは、学生が二人組で研究発表をしました。

 飯高 一人ではわからないことも、二人や三人で考えるとアイデアが出てくることがある。講義のときも、よくできる学生一人に問題を解かせると、それで終わってしまう。それでは他の人にはよくないと思って、三人で一つの問題を考えてもらうやり方にしたら、話し合って議論をするなかで解けたりする。そして、ほかの学生にもわかるように説明してくれる。実は、学生は先生よりも教育力があって、輪講のとき払他の学生が黒板で説明をすると先生の説明より関心を持って聞いてくれる。

 神田 学生のころの輪講を思い出しました。

 飯高 いまでも同級生たちと会ったりしますか?

 神田 私の学年はとくに仲が良かったようで、よく集まります。就職してそれぞれの道に進みましたが、実業家になった人、SEでステップアップしている人など、幅広く才能を発揮しています。就職活動をしていた頃,SEの仕事を選ぶ人が多いなかで、自分だけ違う道に進むことに少し罪悪感も感じていました。せっかく4年間も数学に時間を費やしたのに、お世話になった先生にも申し訳ない気がして。先生は、教え子が数学の道で活躍するのを望んでいるとか、そういう考えはありますか?

 飯高 いいえ、それは全く思ったことがないです。教え子たちがそれぞれ自分の良いところを生かして幸せになる。そのために、何かお役に立てればいいな、といつも思っています。その人が自分のキャリアを生かして幸せな人生を送るのが、私の最大の願いです。

数学科での経験は役立つ

 神田 大学時代には、数学科出身であることがこんなに汎用性が高いとは、正直思いませんでした。就活の面接では、「どうして数学科を出てアナウンサーを選んだの?」と毎回聞かれたのですが、返事は決まっていて、こう答えていました。「高校のときに、文系に進むか数学科に進むか悩んだけれど、アナウンサーは狭き門で必ずなれるという保証もない。もし明日、交通事故で死んでしまって、たとえアナウンサーになる前に人生が終わったとしても後悔がないようにと考えて、勉強していていちばん幸せを感じる数学を選びました」.

 飯高 それはうまい言い方ですね。僕でも言えません。

 神田 NHKのアナウンサーになってみると、文系出身の人に比べて文章を読んだ量が少ないので、表現力が劣ってしまうこともありました。でも、アナウンサーの仕事はそればかりではない。たとえば口ボットコンテストのMC(司会)をすると、理系の学生の気持ちもとてもよくわかるし、物理で回路の勉勉強したことも役に立つ。理系の知識は幅広く使えることを実感しています。以前、経済の番組のキャスターを1年やっていましたが、数字に抵抗がないこともあって、経済の話題もすんなり頭に入ってきます。番組の提案書を書くときにも、順序立てて説得力あるものが書けます.

 飯高 いま神田さんが担当している番組ではどうです。

 神田 世界情勢に関してジャーナリストの方とお話するんですが、生放送で時間が限られているので、お互いに論理的に話していかなければなりません。コマーシャル中に相手の方から「神田さんは理論派ですね」と言われたりします。数学科を出たことがアナウンサーの仕事に生きている、いまそう感じています。

 飯高 そのように言ってもらえると、数学の先生としてすごくうれしい。

 神田 最近ようやく「数学科っぼい発想をするね」などといわれるようになりました。とくにこの1~2年、NHKを退職してフリーアナウンサーになってから、自分の特徴かそこにあると気づいたんです。これからはその技をもっと磨いて、どんな分野であっても話を深めていけるように究めていきたいと思っています。
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アーレント 異郷の政治哲学に向けて

『逆行の政治哲学』より 全体主義的思考を超えて アーレント:国家への問いかけ

アーレントの豊饒で複雑な政治哲学をくまなく見渡すことは、もとより不可能であるのはいうまでもない。ここでは、必ずしも著作に即すかたちではないにせよ、それ以後の彼女の探究が分け入ってゆく問題群のいくつかを取り上げて、読者がみずからアーレントの思索の跡をたどる際の手がかりとなるよう、そのごく大まかな見取り図をスケッチしておくことにしよう。

アーレントの思考が政治哲学へ向かう動機は、一言でいうならば、反ユダヤ主義がいかにして成立し、最終的に人類史上空前の破局へと至りえたのかを理論的に解明することだった。この課題は最初の大著『全体主義の起原』(1951年)でとりあえず果たされる。ナチズムとスターリニズムに代表される全体主義が成立するには、これまで述べてきた国民国家のパラドックスに加えて、19世紀には揺るぎない存在だった階級社会が次第に解体し、流動化した原子化した個人から成る大衆社会の成立が不可欠だった。物質的利害はもちろん、価値観、世界観などの共有によって統合されることのなくなった個人は、かつてない孤立した状況に追いやられることになる。なるほど大衆のなかにあっても、人間は物理的には他者とともに生活し世界を形づくっていることに変わりない。あるいは、独房のなかでひとり孤独に時を過ごしているとしても、他者と連帯感を分かち合い、世界と強くかかわっていることもありえるだろう。しかし20世紀以後、日常的に意識のなかに他者も世界も存在しないほど孤立し、見捨てられている人びとが大量に出現するようになったことも確かなのだ。ユダヤ人とはまた異なる要因によってではあるが、非ユダヤ人も同様に無世界性のうちに投げ出されるようになったわけである。そこでは、私のアイデンティティも危機に瀕することになる。

私は私であるというアイデンティティをもつことができるのは、他者によって承認される私と、そこからはみ出している私が私のなかで絡まり合って存在し、しかもそのような私と他者が共有する世界が存在することに支えられているはずである。そうした自己、そして自己と他者の関係はいかにして存在しうるのか、世界はいかなる構造をもち、その現実性が確保されうるのはいかにしてか。アーレントは生涯この問題を追求し続けることになる。

人間の様々な行為のあり方の解明を主題とし、アーレントの主著とみなされることも多い『人間の条件』(1958年)は、世界について論じた作品でもある。世界には、「仕事」を通じて産出される物によって形成される層だけでなく、物を介すことなく人間と人間のあいだに成立する「共通世界」という層も存在する。この共通世界は、「活動」、具体的には主に言語によるコミュニケーションを通じて、私と他者がそれぞれの個人の問題からは切り離された共通の事柄をめぐってかかわり合う世界の次元であり、それを公的空間と呼ぶこともできる。「活動」は、私が私であるためには他者が不可欠であるということ、すなわち複数性に条件づけられている。複数性は人間が人間であるための条件であり、何より優れて政治の条件でもある。

ところで、『人間の条件』では、この公的空間が古代ギリシアのポリスを範例として論じられている。そのため、複数性を同質的な共同性と同一視したり、失われた政治の黄金時代への郷愁をそこから読み取ろうとする向きもあるかもしれない。しかし、それは当を失している。暴力によってではなく言葉と約束によって国家を創設するアメリカ革命を主題とし、共和主義的な政治観がいっそう前面にせり出してくる『革命について』(1963年)でも、事情は変わらない。市民の同質性とその基礎となる共通善によって特徴づけられる古典的な共和主義とアーレントの政治的思考とのあいだには深い溝がある。国民国家すら終焉を迎えている時代に、帰るべき「故郷」などどこにもない。政治体の構成員が同質的ではなく多種多様であること、単一ではなく複数であることは、アーレントが政治哲学を展開するにあたって、暗黙の、そして最大の前提条件である。それは、若きアーレントの経験と思考の軌跡を想い起こせばむしろ当然のことだろう。「アーレント的政治哲学」なるものがもしあるとすれば、それはこうした多種多様な人びとの共生を可能にする条件を探究する、いわば異郷の政治哲学以外ではありえない。

ユダヤ人等の絶滅計画は、もちろんそれを立案し主導した一握りのナチ高官の働きだけで現実のものとなることはない。その計画に賛同しているにせよ、たんに異を唱えないだけにせよ、とにかく命令を忠実に遂行する多くの人員がいなければ実現不可能なことである。また、たとえ直接そうした職務にかかわりはないにせよ、あるいはナチのイデオロギーに強く共鳴しているわけではないにせよ、巨大な犯罪計画の実行をそのままやり過ごしている大衆の存在があって初めて成り立つことである。そうした大衆は、先にふれたようにすでに意識のなかに他者や世界への関心を失っている。自己と他者のあいだへの関心、すなわち世界への関心の代わりに大衆の関心を占めているのは、疑似科学的なイデオロギーを除けば、自分の内部にある生命と生活にまつわる問題である。ここにいる膨大な人びとは、個人として見るかぎり、おそらく大部分はとくに悪人などではないに違いない。彼らは、自分と家族の生活やそれとかかわる自分の仕事や出世に没頭しており、そうした私的な幸福と安全を守るためであれば、いかなる職務でも異を唱えることなく遂行することにさして疑念を抱かない。このような無思考性の集積が生み出す悪という、優れて現代的な問題の解明も、アーレントの生涯にわたる課題のひとつとなる。

絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任者だったナチ官僚アイヒマンをこうした無思考性の範例として、アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で検討する。そこでアーレントは、共生する他者は本来だれにも選択できないはずであるにもかかわらず、それを選択する権利があるかのように振る舞うことによって他者の複数性を守る義務に反したという理由で、アイヒマンを断罪する。しかし、善悪の判断がつかず思考不能に陥っているのがアイヒマンだけではないことはいうまでもない。権威や伝統のような思考にとって手摺りの役割を果たすものは、失われてすでに久しい。それでは、私たちがみずから思考することができるためにはどうすればよいのか。世界で生じている出来事を想起し、他者に聞かれる言葉に換え、記憶され、物語にすること、とアーレントは示唆している。人類史上最も暗い時代を生き抜いたアーレントは、苦難のなかで人間とその行為のかけがえのなさを確かに終生物語ったのである。

20世紀の秩序の全面的な解体を描ききり、その廃墟から建ち上がるべき政治を構想しようとしたアーレントの試みは、当然のことながら、断片的なものに終わり、無数のひびが入っている。しかし、その瓦篠のそこかしこに未来を切り拓くかけらが見いだせることも明らかだろう。
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「行政の専制」 「民主」と「専制」

『逆行の政治哲学』より 自由のないデモクラシー トクヴィル:「行政の専制」

かつてドイツの法・政治理論家のカール・シュミットは、19世紀の政治思想史は1つの標語で概観できると言いきった。すなわち、「民主主義の勝利の行進」である。近代革命後、西洋のすべての国家で、「進歩は、まさしく民主主義の伝播と同義であり、反民主主義的な抵抗は、単なる防衛であり、過去の遺物の弁護であり、新しいものに対する古いものの闘争であった」。民主主義が、人類の進歩を意味すると同時に、現実的な政治目標になったのが19世紀の特徴だったということができる。

しかし、民主主義が現実的な政治原理となるにつれて、その形態は一義的ではないことが明らかになってきた。「それは、その最も重要な敵対者である君主主義的原理が消滅したとき、内容の明確さをおのずと失い、あらゆる論争的概念と同じ運命をわかつことになった」。つまり、「民主」主義は別の政治原理(主義)と対抗するなかでは積極的な意味をもちえたが、他の主義が消滅すると、それ自体としては明確な内容をもちえなくなったとされる。事実、フランス革命後の第二共和政における〈人民投票型〉「独裁者」の登場は、民主主義が「保守的でも反動的でもありうる」ことを示した。

こうして民主主義が勝利に向かうなかで露呈したディレンマを初めて体系的に論じた政治思想家が、アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville、1805~59年)である。確かに、彼の生きた19世紀前半のフランスの政治体制は(短期間の共和政を除けば)帝政か王政で、身分制は廃止されたとはいえ基本的に制限選挙制度が採用されていた。しかしトクヴィルは、ヨーロッパに比べて民主主義の勝利が確定的となったジャクソン時代のアメリカを訪れ,民主主義の利点と欠点をつぶさに観察した。また、彼は民主主義を、すでに完了したいわぱ静的な概念ではなく、ヨーロッパ諸国で現在進行中の動的な概念としてとらえることで、その行く末を占うことができたのである。トクヴィルの観察した民主主義は、平等を実現した政治・社会である以上に、平等化する政治・社会だった(その意味で、文脈において民主主義よりは「民主化」、あるいは政治体制を越えた社会状況を指すものとして「デモクラシー」と表記したほうが適当だろう)。シュミットの『現代議会主義の精神史的状況』(1923年)の議論に引きつけていえば、トクヴィルは民主主義に対抗する原理がなお根強く存在する時代に、それが消滅した後の「民主」的時代の問題の輪郭を描いたのである。

ところで、日本国内でも明治時代から、トクヴィルの主著『アメリカにおけるデモクラシー』(以下、「デモクラシー」と略す)は、福部諭吉などによって注目されてきたことはよく知られている。 1873(明治6)年には、福部の弟子である小幡篤次郎によって抄訳(邦題「上木自由之論」)が出版されている。それは『デモクラシー』第1巻の一部を英訳版(ヘンリー・リーグ訳)から翻訳したものだが、福部はその部分に依拠しながら分権論・民権論を主張した(「分権論J 1877〔明治10〕年刊)。たとえば『デモクラシー』第1巻第5章では、中央・地方の権限に関して「政治の集権」と「行政の集権」という概念が登場し,前者は全国一般にかかわる事柄(たとえば外交・安全保障)、後者は全国各地方の必要・便宜に従う事柄の集権というように区別されるが、福部はこれらを「政権」と「治権」と表し、トクヴィルに従うかたちで前者は自由にとって必要だが後者は不必要、むしろ危険であると論じた。と同時に福部は、「デモクラシー」第1巻で描かれた政府から自立した社会(「私立」)の必要を強調した。それ以後、明治の議論がどこまで影響したかはともかく、日本ではトクヴィルのデモクラシー論といえば分権論や政治参加が連想され、また「公」とは異なる市民の団体活動(今日ではNPOやNGO)の意義を論じる場合にしばしば参照されてきた。

確かに、トクヴィルの「デモクラシー」第1巻(1835年)では、アメリカにおける地域自治をはじめ自由の諸制度の存在が評価される一方、「行政の集権」の不在が指摘されている。だが、「デモクラシー」第2巻(1840年)では、「行政の集権」が現実的な脅威、すなわち民主主義において自由を脅かす最大の脅威として論じられる。直接的には、両巻の5年のあいだにヨーロッパで進んだ産業化と、それに伴う行政の役割拡大の観察が彼の問題関心を移行させたが、しかしトクヴィルによれば、デモクラシーそれ自体に「専制」を招来する原因が内在しているという。つまり、民主主義にとって自然なのは自由よりは専制なのだ。言い換えれば、それは放っておけば専制に至るおそれがある。そこで、従来のように弥縫策として自治を素朴に論じる前に、専制といういわば不正義の性格をまずは見定める必要があるのではないだろうか。

トクヴィルは、自由になった人間が自由を放棄するという民主的社会の矛盾を新しい専制として指摘した。確かに、新しい脅威を示す言葉として「専制」は古いと自覚しながらも、トクヴィルが同概念を用いたことにはそれなりの意味がある。つまり、そうすることで、彼の専制論は自由と専制という問題をめぐって格闘してきた西洋政治理論の伝統に連なることになったのである。専制の概念は、暴政や独裁に比べると政治思想史でそれほど注目されないが。その概念史は暴政と同様に長い歴史をもつ。また、必ずしも暴力的ではない--むしろ(後述するように)被治者の「同意」(民意?)を前提とするような--専制のほうが、近代以降の抑圧的体制を表現するのに都合のよいものとして浮上するだろう。それは、人類が文明化と民主化を同時に進展させた世紀の行進をいわば裏側から照射する概念として再注目されるのである。

本講義では、まず、西洋思想における「専制」の概念史の変遷を、主にメルヴィン・リクターの議論(Richter 1973)に依拠しながら概観する。そして次にその歴史を踏まえてトクヴィルの指摘する民主的専制である「行政の専制」の特質を明らかにする。最後に、彼がそれに抗して構想した民主主義の別の形態、自由のあるデモクラシーの条件を考察する。それは、冷戦体制崩壊で勝利した西側諸国の政治体制としての「リペラル・デモクラシー」ないしそのイデオロギーとは必ずしも同義ではない。むしろ、そのズレ自体がトクヴィル思想を今日意味あるものにすることを示したい。
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身辺整理しないと

明日は5月の最終日。身辺整理しないと

 明日は身辺整理をしよう。6月1日からの活動に向けて。特別な存在と知りながら、痛いモノは痛いです。どうにかしてよ。面倒くさいから。一番やらないといけないのはデータでしょう。環境でしょう。

 だるさから抜け出せるか。未唯が6月から実家帰省する。やりがいにしようか
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原発依存の温暖化対策の破綻で「国民総環境疲れ」、「CO2増加」

大キャンペーンにもかかわらず省エネ行動は減退

 次に、省エネ意識の変化、省エネ取り組みの動向を見る。

 旧総理府・内閣府の「省エネルギーに関する世論調査」を見ると「省エネルギーに非常に関心がある」は、第二次石油危機時の1979年12月に36.4%であり、1981年12月には18.0%に下がったが、湾岸戦争時の1990年12月には26.9%に上昇し、以降、1991年7月25.3%、1992年6月22.2%、1996年2月18.9%、1999年2月14.9%と着実に下がった。

 省エネ意識は、当然のことながら、石油危機の際には高い。なお、1990年代初頭から地球温暖化問題が世界的に騒がれ始め、また、1997年には京都でCOP3が開催され、これが大いに報道されたが、なぜか、省エネ意識はこれに反比例して、1990年代を通して低下していったのである。

 その後、2005年12月の同世論調査では「省エネルギーに非常に関心がある」ではなく「生活スタイルを大きく変えてでも省エネ」であるが、24.8%とかなり高くなっている。この調査は、「クールビズ」などの政府主導の地球温暖化防止の「国民運動」のキャンペーンが始まった直後の世論調査である。「国民運動」のキャンペーンの効果は石油危機並みに大きいということか。

 その後、省エネ意識に関する内閣府の世論調査はないが、省エネの取組状況などに関する調査の結果は以下のとおりである。

 まず、名古屋市民の暮らしの中での取組状況を見ると、省エネ行動関連の取り組み(「無駄な照明をこまめに消す」、「待機電力に気を付ける」、「冷暖房の温度設定に気を付ける」)について2015年と2006年とを比較すると、照明は同レベル、待機電力は2015年が減少、冷暖房温度設定は2015年が増加となっており、全体としては大きな変化はない。このように、名古屋市民の例では、「クールビズ」などの地球温暖化防止のキャンペーン、「国民運動」があったが、市民の省エネ行動は大きく高まったわけではない。

 また、「環境にやさしいライフスタイル実態調査」(平成26年度)によると、「日常生活において節電などの省エネに努める」を「実施している人の割合」は、2009年度の88.7%から2014年度の82.0%へと7.7ポイント低下し、「実施したい人の割合」は同じく94.1%から86.2%へと7.9ポイント低下している。それぞれ、この間年々着実に低下してきているのである。地球温暖化防止のキャンペーン、「国民運動」が展開され、2011年には福島第一原発事故があり、関東などでは節電が強く要請されたにもかかわらず、全国的には、省エネを「実施している人」の割合も「実施したい人」の割合も、2009年度から着実に低下しているのである。

 いったい、なぜ、大規模なキャンペーン、「国民運動」が行われてきたにもかかわらず、また、福島第一原発事故があったにもかかわらず、全国的には省エネの実施やその意向が低下してきたのか。

原発に依存した温暖化対策の破綻が原因

 2005年頃から、日本人は極度な「省エネ疲れ」、「CO2疲れ」に苛まれるようになった。その背景には、原発に過度に依存した日本のCO2削減政策の失敗がある。

 エネルギー・環境と国民生活とのかかわりを少し遡って見てみる。

 公害、特に大気汚染は、戦前からの京浜、中京、阪神、北九州の工業地帯、そして、国土総合開発計画の一環として指定された瀬戸内海沿岸地域などの新産業都市などに立地する発電所や工場における石油、石炭といったエネルギーの消費に伴って発生する硫黄酸化物などによって人の健康が蝕まれた問題である。1960年代、70年代には、公害をめぐって、世界に類を見ない住民運動、地域闘争が展開された。

 1970年代の1973年と1979年の2度にわたる石油危機を契機に、家庭・職場や工場では「省エネ・省資源」が叫ばれ、政府主導の「国民会議」もできた。高騰したエネルギーコストを軽減することによって日本企業の競争力を回復・向上させ、また、不安定な石油供給先となった中東からの石油依存度を下げることが目的だった。国民生活にとっては、一過性の「我慢」の省エネ・省資源であった。2度目の石油危機の後には、発電所や工場での石炭(安い海外炭)の利用拡大が目指された。当時、CO2問題は認識されていなかったが、この石炭シフトは、のちのCO2排出量の増加に大きく寄与した。

 さて、1990年前後に主要な先進国では2000年のCO2削減の自主目標を設定するようになった。日本も1990年10月に、2000年には1990年と同レベルにするとの安定化目標の下に、都市・地域構造、エネルギー需給構造、交通体系、ライフタイルなどの「構造変革」を行うことによって、目標を達成するとした「地球温暖化防止行動計画」を策定した。日本の2000年安定化目標は、翌年からの国連による温暖化条約づくりに弾みを付けた。

 1997年の京都でのCOP3の際に、橋本総理は「2010年までに原発を21基増設する予定であるので90年比マイナス6%は達成できる」との通産省の進言をもとに京都議定書における日本の削減目標としてマイナス6%を受け入れた。当時の総排出量は90年よりフ%近く多い。原発の21基増設だけで1990年総排出量の14%分の削減が見込まれるため、産業界は原発増設の大合唱となった。

 その後、原発大増設の目論見が外れそうであることが次第に明らかになり、政府は、1998年に立てた2010年までに21基増設という計画を、2002年には13基に、2005年には5基にそれぞれ縮小した。これで、原発増設によるCO2削減量は1990年総排出量の3~4%分しか見込めなくなった。

 その上、2003年からは、東電シュラウド問題に伴う同型原子炉の点検、中越地震などの地震に伴う停止などが頻発し、全国の原発の平均的な稼働率は大幅に下がるようになり、その分は火力発電所を焚き増しするので、予想外のCO2排出量の増大となった。環境省は、毎年のCO2排出量を発表する際に、「原発が通常の稼働率だとした場合」の排出量も併せて出した。

 このように、「原発依存路線」は2重の意味で破綻したのであるが、目論まれたCO2削減量は、どこかがこれを引き受けなければ、マイナス6%の目標達成ができない。

 そこで、政府や産業界が目を付けたのが、家庭や学校・オフィスなどの部門であり、こうした部門でのさらなるCO2削減のため、政府は巨大な税金を投じて「クールビズ」、「チーム・マイナス6%」などの「国民運動」を開始したのである。役所や企業などの職場では昼の時間帯の消灯、冷暖房温度の設定などを徹底した。お堅い国会までもクールビズになった。「見える化」と称して、個々の商品へのCO2排出量の表示の動きも出た。生産・販売などの現場でも、CO2削減のため、あらん限りの努力が傾注されてきた。自治体では、子どもたちのためにCO2の歌や踊りをつくるところも現れた。家庭生活においても「夕方、家族はひとつの部屋に集まって団楽し、他の部屋は消灯する」、「ガソリンは満タンにすると重たいので、少しずつ給油する」など「余計なお世話!」と言いたくなるようなことが一杯。いわば「箸の上げ下げ」にまで「ご指導」がなされるようになった……。「欲しがりません、京都議定書の目標達成までは」と言わんばかりの何か「CO2ファッショ」とも言うべき違和感を覚える風潮がこの国を支配した。

 さらに、2008年秋のりーマンショックを契機に、燃費のいい自動車、グリーン家電などへの買替促進のため、大規模な補助金、税制優遇の措置が講じられ、「節約」と「消費拡大」が同居するという何とも不思議な様相を呈するようになった。

 こうした取り組みは、今年や来年の気温上昇を抑えるためではないことはわかっているのだが、近年の夏の厳しい暑さは、人々に「無力感」を与えたのかもしれない。

 「国民総省エネ疲れ」、「国民総CO2疲れ」であり、こうして、省エネを実施する人、実施しようとする人は年々減少してきているのである。

 さらに、そこに福島第一原発事故が起き、すべての原発が定期点検のため順次停止となり、CO2の大幅増大をもたらしたのである。

 「風が吹けば桶屋がもうかる」式に言うと、次の回路になる。

  原子力21基増設によるCO2マイナス6%削減計画

  →増設の目論見はずれ+既存原子力の稼働率低下

  →CO2排出量増大

  →原子力増設で減る予定だったCO2を家庭・職場での取り組みでカバー

  →省エネ・CO2削減の大キャンペーン・「国民運動」

  →「国民総省エネ疲れ」、「国民総CO2疲れ」

  →国民・市民の省エネ行動の減退、そこに福島第一原発事故

  →すべての原発が順次停止

  →CO2大幅増大

 京都議定書の削減目標である2010年に1990年比マイナス6%の達成は大いに危ぶまれたが、2008年秋からのリーマンショックによる世界的な実物経済の停滞のお陰で、なんとか達成できた。

 安倍政権は、2015年7月の長期エネルギー需給見通しの中で、電源構成における原子力の比率を2030年には20~22%とし、その際、原子力の稼働率を70%とした。そして、これを前提として、この国の温室効果ガス排出量を2030年には2013年比でマイナス26%にするとの約束草案を国連に提出した。またもや、原子力に依存したCO2削減策である。その破綻のしわ寄せが国民生活に来ないようにしなくてはならない。電力部門の課題は、電力の中で完結してもらいたい。そのためにも、再生可能エネルギー(以下、「再エネ」)、コジェネといった分散型の電源の大幅拡充が不可欠である。これについては、のちに述べる。
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