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知の未来のカタチ

Iさんへのレス

 1週間経ってのIさんへのレス。フラペチーノを「食べた」ことを告げました。

6.8「知の未来」

 第6章の最後で「知の未来」を述べている。それはどんな未来なのか。各自の持つ「本棚システム」が融合していく世界。今の常識を新しい常識に変えていくもの。新しい常識(インバリアント)をどう作り上げるのか。

 全体のことを知った上で、自分のことをする。自分のことを知った上で、全体のことをする。個と全体がつながった世界。それが知の未来でしょう。

 そこでは教育の変革、家族の変革、そして、仕事そのものの変革。それらが一緒になっていく。この知識を有効に働かせる世界。教育はさらに変わっていく.目的指向になります。

 そして、余分なことはしない。自分の分野をしっかり作り上げる。その上で全体に寄与する。余分なこととは、現在、地上波で流されているコンテンツを指している。All for One、One for All の新しいカタチとして、個と全体がつながる。

歴史に真理があるのか

 歴史に真理があるかどうか。多分、ないでしょう。歴史には、選ばれなかった多くのもの、選ばれたものがあるだけです。残りの人にとっては、単に過ぎていく時間。そして、上から見ている人にとっては、多重世界です。

 数学にとってはインバリアント。不変なものがあるだけです。
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次はどうしよう

次はどうしよう

 とりあえず、片づけよう。何をいつまでに片づけようか。

ヘーゲルはナポレオンと同時代

 ヘーゲルは1800年なんですね。ナポレオンと同じ時代なんですね。

 1700年と1800年は感覚的に大きく違います。
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OCR化した11冊

『たこ焼繁盛法』

 現代人が飽きない昧を基本に。

 高原価のたこ焼は売れるわけではない。

 焼き立てを売るのを基本に。

 たこ焼は、一口で食べたときの旨さを追求。

 昧を見直すことも、大切な基本。

 プロなら、お金は「味」にかける!

 売れるたこ焼ソースは、お好み焼用とは別もの。

 たこ焼ソースの味見は、焼き立てでする。

 たこ焼店は、焼そばにも手を抜くな!

 たこ焼のタコは、どう選ぶか。

 たこ焼のバリエーションの考え方。

『都市の景観地理』

 サブカランカ--フランス保護領時代の遺産をめぐって--

  モロッコにおけるフランス統治の名残

  保護領時代の都市計画

  植民地遺産と観光化

  都市基盤の整備の先にあるもの

『教科書では学べない世界史のディープな人々』

 ローマを撃破した完璧な一戦

  「悪いことをするとハンニバルに連れてかれちゃうよ」

  戦史に残る完璧な包囲殲滅戦

  地中海をめぐるカルタゴとローマの宿命

  カルタゴ将軍の長男として誕生

  初冬のピレネー山脈を踏み越え、イタリアヘ

  前216年8月、カンネーの野で激突

  見事な戦術でローマ軍に圧勝

  2130年後のーカンネーの戦い々

 封印列車の旅

  「群衆は『ウラー(万歳)』の歓呼で迎えた」

  亡命地チューリッヒでの無為な日々

  三月革命の勃発

  ボリシェヴィキとメンシェヴィキの対立

  レーニンの帰国を誰が許すのか

  ドイツが通行許可を与える

  午後3時10分、列車は動きはじめた

  ペテログラードに降り立つレーニン

 スパルタ王レオニダスの気骨

  「自分の死は避けられない」

  ギリシャ世界を救った男

  古代ギリシャの成立

  アケメネス朝ペルシャとギリシャの戦い

  全ギリシャの期待を背負ったスパルタ王レオニダス1世

  わずか300人による決死の出陣

  テルモピレーの戦いに散る

  レオニダスの死がギリシャ世界を救った

『ジェンダーとわたし』

 「家族」とジェンダー

  結婚って何?

   問題だらけの婚姻制度

   夫婦別姓はなぜ認められないのか?

   セイフティネットとしての結婚と性別役割分業

   恋愛結婚と日本特有の母性主義

  日本は「少子化対策」、欧米は「家族政策」?

   合計特殊出生率

   「少子化」は女性のせい?

   なぜ「少子化対策」なのか

   「少子化」は女性の責任?

  育休とハラスメント

『警察官のための刑事訴訟法講義』

 秘聴、秘密録音

 おとり捜査

  おとり捜査の意義

  法的根拠

  判例

 通信傍受

  通信傍受法の制定

  定義

  傍受が許される犯罪類型

  傍受令状発付の要件

  傍受令状の請求手続

  傍受の実施

  記録の保管等

  通信の当事者に対する通知

『家庭教育は誰のもの?』

 家庭教育支援法案とは

 自民党による家庭教育支援法案を読む(二〇一七年二月時点)

 家庭教育支援法案(仮称、平成二八年一〇月二〇日時点素案)

 家庭教育支援が必要なのは、家族に問題があるから?

 「待機児童」問題--子どもが安心して育つ環境の貧しさ

 国民に対する「責務」

 家庭とは誰のものか

  子育て支援は必要--すでに多くの努力がひとびとを助けている

  国家のための家庭教育支援ではなく、私たち市民のための支援を

『現代中国入門』

 中華世界

 一帯一路

  西を目指す戦略、一帯一路

  ユーラシア統合

  世界の多極化

  中国の知識人たちの受け止め方

『地域資源とコミュニティ・デザイン』

 コミュニティ・デザインとコミュニティ・ディベロップメント

  コミュニティ・デザインとは何か

   コミュニティ・デザインの定義

   コミュニティ・デザインの歴史

   コミュニティ・デザインの目指ずものQ71ザイン・マニフェスト)

   コミュニティ・デザインの日本での展開

  コミュニティ・デザインを包摂するコミュニティ・ディペロップメントの知見

   コミュニティ・ディベロップメントの歴史

   コミュニティ・デザインとコミュニティ・ディベロップメント

   コミュニティのとらえ方

   地域資源のとらえ方

『女性と労働』

 女性がおかれている労働現場の実態

 女性労働者の就労実態

 (1)シングルマザーの就労実態

  1)はじめに

  2)シングルマザーに関する経済状況の概観

  3)シングルマザー世帯間における格差

  4)シングルマザー自身の意識

  5)まとめ

 (2)福祉職(介護・保育)

  1)介護労働者

  2)保育士

 (3)教員(小・中学校)

 (4)婦人相談員

 (5)看護職員(保健師・助産師・看護師・准看護師)

 (6)サービス業について

  1)サービス業の概況

  2)サービス業従事者における女性の数、割合

  3)サービス業に関する賃金格差について

  4)サービス業に就業する女性の状況

 (7)性産業

  1)性産業とは

  2)性産業に従事している労働者

  3)売春防止法の問題点

  4)まとめ

『日本の人口動向とこれからの社会』

 人口動向と社会保障

  問題の設定

  人口構造の変化と将来の社会保障給付

  情報の見える化・使える化について

  社会保障制度の持続可能性

  社会保障政策による人口動向への影響

  世代間の負担の公平性と結婚・出産選択

 世界の人口と開発--人口転換論を通して--

  「人口問題」から「人口と開発」へ

  近代化と人口転換

  21世紀の人口と開発課題

『地獄の淵から ヨーロッパ史1914-1949』

 生き地獄

 無間地獄

 それぞれの生き地獄

 銃後
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ヨーロッパ史1914-1949 戦いの目的

『地獄の淵から ヨーロッパ史1914-1949』より

ドイツ兵士が考える戦いの目的は、漠然とした将来のユートピア像につながっていた。すなわち、粉砕された敵に対するドイツ人の人種的優越と支配が、彼らの家族と子孫に平和と繁栄を保障するであろう「新秩序」である。一九四四~一九四五年までには、そうしたあいまいな希望は消滅していた。だが、それでも戦争は意味をもっていた。戦争がそれほど粘り強く最後まで戦われるのは、いまや「帝国の防衛」という主として別のイデオロギー上の義務のためだった。この文句は単に抽象的な政治的、地理的存在ばかりか、家族、家、財産、そして文化的ルーツの防衛を含んでいる。そして、彼らと同僚兵士がとりわけ東部で、どんな罪を犯したかを知っているので、戦い続けることは、赤軍に対し、何か何でも持ちこたえることだった。復讐心に満ちた赤軍が勝利すれば、彼らの大切なものすべてが間違いなく破壊されるのだ。戦争のイデオロギー的意味は、規律、訓練、すぐれた指導と並んで、ドイツ国防軍の極めて高度な戦闘士気を事実上最後まで維持することに与った。

ドイツの軍事同盟諸国にとって、戦争の意味ははるかに不鮮明で、士気の維持ははるかに困難だった。ルーマニア軍を中心にドイツ以外の約六九万の軍が、一九四一年のソ連侵攻に加わっている。スターリングラードで破局的結末を迎える攻勢には、ルーマニア軍、ハンガリー軍、クロアチア軍、スロヴァキア軍、それにイタリア軍がすべて参加した。約三〇万の非ドイツ系枢軸軍部隊が、ソ連の反転攻勢で捕われた。ヒトラーは彼らの闘争心のなさに対し、怒り交じりの軽蔑しか抱かなかった。事実、こちらの闘争心はドイツ軍のそれより立ち遅れており、それにはもっともな理由があった。ソ連に対する憎悪は広がっていたが、それだけではドイツ軍自身の場合のように、ドイツの同盟軍に動機となる意味を与えるには十分ではなかった。ドイツの同盟軍は、そのために戦い、命を落とす価値があると思えるような社会ないし体制の明確な未来像をもってはいない。脱走は日常茶飯事、士気の欠如が蔓延し、指導力は惨惜たるものだった。ルーマニア軍将校は、装備貧弱で兵員不足の下級兵士の部隊を犬並みに扱った。彼らの多くがただ脅迫下でのみ戦ったのは、驚くに値しない。「ルーマニア人は真の目標をもっていない--彼らは何のために戦っているのだ?」というのは、ルーマニア軍と対峙し、戦闘力としての彼らの弱さを見て取った元赤軍兵が投げかけたもっともな疑問である。ドン川流域で戦うイタリア軍部隊も、自分たちがそこで何をしているのか、しばしば思案した。はるか遠く故郷を離れ、自分にはほとんど無意味な戦争で、最悪の環境下にいるのだ。彼らが戦う士気を欠いていたのは、もっともなことである。あるイタリア軍軍曹は、彼の大隊はなぜ一発も撃たずに降伏したのかとソ連軍通訳に問われ、こう答えた。「われわれはそれが間違いだと思ったから応射しなかったのだ」

大方のイタリア兵は戦いたいとは思っていなかった。ムッソリーニが、憎たらしいドイツのためにしかならない戦争に自分たちを引きずり込んだ、彼らはますますこう感じていた。広く浸透した分かりやすいイデオロギー上の意味がないため、この戦争は彼らにとって、強力に動機づける目的をまるで欠いていた。彼らが見込みのない戦いを続けるより、降伏と生存を望むのはまったく合理的であった。だが、イタリアが一九四三年九月に戦争を離脱すると、祖国の北部をドイツ軍に、南部を連合国軍に占領され、イタリア人は自らと家族・家庭に直接影響するイデオロギー上の目的のために--占領軍に対し、またイタリア人同士で--頑強に戦う覚悟を示した。すなわち、イタリアがどのような戦後国家になろうとするのか、再びファシスト国家なのか、それとも社会主義国家なのか? これである。

巨大な多民族戦闘集団である赤軍の兵士には、戦争はまったく違った意味をもっていた。大方は教育のない素性の者たちで、未開に近い環境下で暮らしてきていた。歩兵の四人に三人は農民。僻村出身の若者の中には、軍隊に入営するまで電燈を見たことがない者もいた。彼らのほとんどにとっては、自分が戦っている戦争のより深い意味を省察することなど、直ちには思いつかなかっただろう。多くの兵士が戦ったのは、疑いなく、そうしなければならなかったからであり、他に選択肢がなかったからであり、さもなければ確実な死を意味したからである。しかし、恐怖心だけでは、一九四一年の破局の淵から四年後の完全勝利まで、赤軍のあのような驚くべき戦闘力と士気を維持できなかっただろう。

実は一九四一年の夏、一見止めようのないドイツ軍の前進が勝利に次ぐ勝利を重ねていたとき、赤軍の士気はあわや完全に崩壊しそうになった。脱走の比率は高かった。脱走兵に対する残虐な懲罰の比率も高かった。だが、止むことのない政治宣伝の集中砲火と、ドイツ人による被征服民に対する果てしない虐殺談、そして、最後はモスクワ直前で赤軍が勝利した際の英雄物語が、ついにその腐敗を止めた。ソ連兵士たちはドイツ国防軍の兵士と同様、たとえそれを表現できないにせよ、戦争に意義を見ていた。彼らの意欲のなかでイデオロギーが果たす役割を過小評価するのは誤りだろう。それは必ずしも体制の公式イデオロギーではない。もっとも、これがいまや愛国主義の強調と調和していた。後のスターリングラードの勝利につながる一九四二年一一月のドン川流域での赤軍大攻勢の朝、スターリンは軍に対する演説で、攻勢を愛国的言辞でこう表現した。「親愛なる将兵諸君、わたしはわが兄弟たる諸君に呼びかける。本日、諸君は攻勢を開始し、諸君の行動が、国が独立国家であり続けるか滅ぶか、その命運を決めるのだ」と。目撃者の一人がその日の感動を回想している。「それらの言葉は本当にわたしの心にまで響いた。……涙が出そうだった。……わたしは本物の興奮、精神的興奮を感じた」

しかし、それは単なる愛国主義ではなかった。愛国主義とマルクス・レーニン主義イデオロギーは互いを補強しあった。軍隊はボリシェヴィズム教育を受けていた。モスクワの入り口と、スターリングラード、クルスクで戦った将兵は、ほかに何も知らなかった。彼らは幼少期から、万人のための新しい、より良き社会という構想を吸収してきている。スターリンを「父親のように」夢に見ることを認め、彼の声を聞くのを「神の声に」なぞらえる赤軍古参兵の一人は、抑圧がどうであれ、「スターリンは未来を体現していたし、われわれはみんなそれを信じた」と語っている。共産主義の祖国という、この未来のュートピアがいまや、差し迫った脅威にさらされている。そのユートピアはまだ実現する可能性がある--ただしそれは、ハイエナの如く襲いかかってソ連本土を揉願し、市民を殺害し、町村を荒廃させるヒトラーのファシストたちを粉砕することが条件なのだ。それは、いったん形勢が逆転し、赤軍がドイツ帝国国境を視野に入れたとき、復讐という要素が加わることで一段と効果を増した力強いメッセージであった。赤軍兵士にとって、彼らが戦っているのは防衛戦争、正義の戦争だった--いかなる人的犠牲を払っても戦い、勝だなければならない戦争だった。それは強力な動機づけだった。戦争は現実的な意義をもっていたのである。

西欧連合国の戦闘部隊にとっては、戦争をただ一つの意味に矮小化することはできない。英国とフランス、ポーランドによる当初の西欧連合国に、戦争勃発後、速やかに英自治領諸国が合流した。英仏両国の植民地は膨大な数の兵士を供給した。インドだけで二五〇万人で、これは主として日本との戦いに配置され、植民地北アフリカは一九四二年以降、フランス軍事力の再建基地となるに至った。戦争の初期段階から英国と並んで、フランス、ーランドとともに戦ったその他多くのヨーロッパ諸国の中には、チェコ、ベルギー、オランダ、ノルウェーがある。米国とその他多くの国がのちに、連合国側に立って参戦した。一九四二年、枢軸諸国に対する同盟は二六力国から成り、「連合国」を自称した。ヨーロッパばかりか、日本の参戦後は極東で、また海と空で軍務に就いたこのようにまったく異なった戦闘部隊の男女にとって、戦争はさまざまな意味を帯びた。また、連合国兵士の方がその他の兵士に比べ、自分が考える戦争目的を表現することに巧みだったわけではない。本国宛ての手紙はたいてい、軍隊勤務のより日常的な生活面を扱っており、多くの場合、兵士が耐えなければならない困難や苦痛、恐怖、そしてトラウマのもっとも不快な部分を、愛する人びとには隠している。戦友意識は極めて重要で、故郷と家族の元への帰還を切望する気持はほぼ全員に共通している。つまり、究極的には、自分個人が生き延びることが問題だったのだ。しかしながら、多くの場合言葉に出されないまでも、士気を維持し、この戦争を戦う価値あるものにした文化的価値観と動機づけになる意識下の信念があった。

英国に拠点を置く亡命ポーランド政府と自由フランスにとって、また、連合国軍に加わったその他のヨーロッパ諸国の国民にとって、目的ははっきりしたものだった。ドイツの占領からの祖国解放である。だが、自由フランスの指導者シャルル・ドゴールは長い間、大多数のフランス国民を代表してはいなかった。フランス内外にいる国民にとって、戦争の意義はただ一つではなかった。亡命ポーランド人にとっても、戦争の意味は一つ以上あった。目的はドイツのくびきからの自由だけでなく、戦争の進展とともにこちらが重要性を増すのだが、戦後のポーランドが隷属の形を取り換えただけでソ連の支配下に入ることがないように努めることだった。

ポーランド軍最高司令官でポーランド亡命政府首相、ヴワジスワフ・シコルスキ将軍の下、約コカ九〇〇〇のポーランド陸・空軍兵が一九四〇年、フランスから英国へ退避していた。もっとも、フランス領内で戦ったポーランド兵の四分の三は戦死するか、捕虜になっていた。ポーランド人パイロットは次いで、「英本土航空決戦」に例外的な貢献をする。あまり知られていないことだが、ポーランド人の暗号専門家たちも、英仏専門家と協力してエニグマ暗号--彼らはすでに一九三〇年代に、初期タイプのエニグマを解読していた--の解読に功があり、これで連合国軍がドイツ軍の通信を読むことが可能になった。それは大西洋の戦いに最終的に勝利する上で、極めて重要な要因だった。
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「人口問題」から「人口と開発」へ

『日本の人口動向とこれからの社会』より 世界の人口と開発--人口転換論を通して

「人口」という言葉が最初に日本の公的統計に現れるのは1893年のことで、欧米におけるPopulation,もしくはDemographyという用語の翻訳として用いられたようである。それ以前は「戸口」や「民口」という言葉が用いられており、古来から戸籍による戸口統計を取りまとめていた中国においても、人口という言葉自体は近代化しつっあった日本で用いられていたものをそのまま使用したのである。「人口」という漢字で示されるPopulationという概念は、ある国、地域、あるいは世界全体など、地理的範囲における動物や人間の集団、もしくは性別や年齢別、国籍など、ある特定の属性を持つ集団、またその数のことであり, DemographyとはPopulationを分析する科学であるという。Populationという言葉が最初に使われたのは1752年に刊行されたヒュームの著作において、Demographyという言葉が最初に使われたのは1855年に刊行されたギヤールの著作においてであった。つまり, Populationであれ、Demographyであれ、近代以降の新しい概念なのである。

近代とともに生まれた「人口」という概念は、19世紀から20世紀にかけて、「人口問題」として認識され、それを解決する政策が発展する。「人口」を有名にしたのはマルサスであるが、その中で問題とされたのは、指数的に増加する人口に対する食料不足であった。「過剰人口」という認識は、しかとヨーロッパ社会に根付き、アメリカ大陸や植民地への大量の人口移動が促進された。次に人口が問題と認識されるのは、19世紀末のフランスであり、このときは逆に人口不足が問題であった。1870年に起こった普仏戦争でフランスが敗北したのは、低い出生率による弱い人口増加によるとされ、人口増加策がその後しばらくフランスの国策となった。回の世界大戦期には、優生学が発達し、人口の質を向上させることが国策となったのは、ヨーロッパのみならず、日本でも同様であった。しかし同時期、共産主義はロシア革命を成功させ、社会政策は世界に花開き、貧困対策や年金・医療保険といった社会保障制度もその萌芽を見た。

第二次世界大戦後は、戦中期の人口増強策や優生学は否定され、個人の自由と人権を重視する政策が主流となり、1948年に国連総会で「世界人権宣言」が採択された。植民地は1960年前後に相次いで独立し、西側諸国は自由と人権に基づいた、戦後復興と経済開発策が進められた。欧米と日本は戦後のベビーブームにより大きく出生数が増えたが、独立した直後の国々でも出生率は高騰し、1960年代には、未曾有の世界規模の人口増加が認識されるようになった。ここで再び、「過剰人口」が問題とされたのである。この人口爆発に対して西側の国際社会は迅速に反応し、1967年に国連人口活動基金(UNFPA)が設立され、1974年には国連主催となる第1回世界人口会議が開催された。以来、家族計画を通じた人口抑制施策は各国の政策・国際援助に組み込まれ、実施された。出生率は低下し、人口爆発の危機は免れたかに思われた頃、1994年にカイロ国際人口開発会議が開催され、人口抑制に代わり、リプロダクティブ・ヘルスノライツと女性のエンパワメントが主要な課題となる.

「人口と開発」とは、まさにこのカイロ会議が有名にした用語である。世界規模の人口会議は1927年から行われていたが、人口会議が人口開発会議となったのはこの1994年のカイロ会議からであり、国連社会経済理事会の人口委員会も、カイロ会議以降人口開発委員会と名称を変えた。カイロ会議以前は、人口に関わる国際会議は学識経験者が集合する学術会議の色彩が強かったが、カイロ会議以降は「人口と開発」がODAという重要性を増しつっあった外交政策に組み入れられ、NGOの積極的な参画もあり、研究から実践へとシフトした。これは、グローバリゼーションの進行と「国際社会」の拡大と無関係ではない。そして目指されたものは家族計画による人口抑制から、女性の選択とエンパワメントが優先されることへと変わった。

カイロ会議で採択された行動計画は20年後の2014年に履行期限を迎えた。1994年から2014年までの20年間、「人口と開発」には大きな進歩があったであろうか。行動計画には、①持続可能性、②ジェンダー、③家族、④高齢化も含む人口構造、⑤リプロダクティブ・ヘルス/ライツ、⑥疾病・死亡、⑦国内人口移動と都市化、⑧国際人口移動、⑨教育、⑩データ収集と研究、といった幅広い人口に関する項目が盛り込まれている。それぞれの項目は、保健や衛生、教育、環境分野の開発目標、特に2000年に採択されたミレニアム開発目標と連動しており、一定の目標は達成された。しかし、「人口と開発」の中心部分とも言える、リプロダクティブ・ヘルス/ライツに関しては、20年間右往左往しただけで、結局20年前と何も変わっていないという意見もある。これは、中絶および同性愛の是非に関する議論に起因する。それらを許容すべきか、そうでないかで、人口開発に関する会議は常に決裂し、現在に至っても解決を見ていない。この議論の行く末は不透明であり、今後人口開発問題は、ミレニアム開発目標(MDGs)に代わる新たな持続可能な開発目標(SDGs)に統合される流れになっている。

世界規模の人口爆発が解消された現在、低出生・人口減少で悩む国がある一方、高い人口増加が経済成長を阻んでいる国もあり、正反対の人口問題を抱えた国が共存しているなか、リプロダクティブ・ヘルス/ライツは価値観の違いで平行線のまま、という現在の状況を考えると、「人口と開発」という課題は1つの転換点に来ているように思われる。本章では、「人口と開発」を再考するために、開発という言葉に内在される、「近代化」がもたらしたとされた人口転換論を軸として、近代以降の人口変化を吟味し、そこから引き出される今後の人口に関する課題について考察する。
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社会保障制度の持続可能性

『日本の人口動向とこれからの社会』より 人口動向と社会保障

2013年8月の「社会保障制度改革国民会議」の報告書とともに、会長の清家篤は「国民へのメッセージ」を公表している。社会保障制度の持続可能性と関係する部分を抜粋しよう。

「日本はいま、世界に類を見ない人口の少子高齢化を経験しています。65歳以上の高齢人口の比率は既に総人口の4分の1となりました。これに伴って年金、医療、介護などの社会保障給付は、既に年間100兆円を超える水準に達しています。

この給付を賄うため、現役世代の保険料や税負担は増大し、またそのかなりの部分は国債などによって賄われるため、将来世代の負担となっています。

そのこともあり、日本の公的債務残高はGDPの2倍を超える水準に達しており、社会保障制度自体の持続可能性も問われているのです。

社会保障制度の持続可能性を高め、その機能が更に高度に発揮されるようにする。そのためには、社会保険料と並ぶ主要な財源として国・地方の消費税収をしっかりと確保し、能力に応じた負担の仕組みを整備すると同時に、社会保障がそれを必要としている人たちにしっかりと給付されるような改革を行う必要があります。

また何よりも社会保障制度を支える現役世代、特に若い世代の活力を高めることが重要です。子育て支援などの取組は、社会保障制度の持続可能性を高めるためだけではなく、日本の社会全体の発展のためにも不可欠です。全世代型の社会保障が求められる所以であり、納得性の高い社会保障制度のもとで、国民がそれぞれの時点でのニーズに合った給付を受けられるようにしていくことが大切です。」

ここではまず、社会保障給付費の増大と保険料と税の負担、すなわち国民負担率の上昇が問題とされている。この点については財務省による図4-10などが参考になるだろう。これと関連して、小塩は世代間のリスク分散の仕組みとしての社会保障という考えに触れつつ、少子化適応型の政策に力点を置くべきとし、「公」への依存は将来世代への依存を意味するという。さらに、少子化の下では(その時点に存在する人々の政治的な意思を集約する仕組みである)民主主義も機能不全となる危険性があるとし、社会保障改革は民主主義の成熟度を試す、最も重要な試金石という。

こうした見方に対し、武川は国民負担率の指標としての妥当性について、自己負担、機会費用、シャドウ・ワークなどの存在と、それらが国民負担率とトレード・オフの関係にあることを指摘するとともに、国民負担率の小さい国が必ずしも経済的成果のよい国であるとは限らないこと、財政赤字を加えた潜在的国民負担率で見ても欧州諸国よりは相当低い水準にあることを主張する。その上で、高齢化の度合いに応じた社会保障政策の費用の負担を回避してきたとして、これまでのような増分主義(インクレメンタリズム)の考え方による資源配分ではなく、社会保障諸分野の中での優先順位(プライオリティ)についても真剣に考えなければならないという。これについては厚生労働省作成の図が参考になるだろう。

社会保障制度の持続可能性を考える上で、どちらの見方がより将来の指針となるのだろうか。国民負担率が指標として必ずしも妥当ではないという武川の見方には、清家のメッセージにもあったように見かけ上のフローの問題に目を奪われてはならない、巨額の公債残高、特に509兆円の赤字国債(特例公債)がストックとしてあるのだという反論があるだろう。すなわち、2013年度のGDPが530兆円なのでこれにほぼ匹敵する規模であり、1990年には65兆円だったから、その分を毎年フローの租税などで賄っていれば国民負担率は既に相当程度の水準になっていたはずではないか。それを怠り、先送りしすることで将来世代に負担を強いているのではないか。井堀は「なぜ年金改革が先送りされるのか」という命題について検討を加えている。先送りの理由として、政策当局や国民といったプレイヤーの非合理性あるいは近視眼的傾向かあること。世代間公平に合致したよい改革案がないこと。改革の道筋、方法での戦略がないこと。政策当局が事態や経済環境がよくなるのを待つこと。有権者が情報を持っていない、または情報を信用していないこと、などを挙げている。

公債残高の問題と関連して、国民資産の問題についても触れておきたい。日本銀行の資金循環統計によると個人金融資産は1,645兆円にのぼる、これには個人事業主の保有する事業性の決済資金などが含まれるので一般家庭がこれだけの資産を保有しているわけではないが、いずれにしても家計の261兆円の証券の中に国債は直接、あるいは投資信託のような商品によって間接的に組み込まれている。かつ、「全国消費実態調査」によれば1人当たり家計資産は70歳以上が最も多く、2人以上の世帯の場合5,024万円で、そのうち金融資産は1,860万円である。

これらのことから、次のように考えられないだろうか。今後しばらくは資産を多く持つ高齢者が増え続けるから、国内市場に大きく依存している国債の消化に心配はないが、総人口が現在の8害q程度になり、高齢者さえも減少に転じる2040年以降はこれが困難となり、国債価格の構造的な下落(利回りの上昇)が懸念されるのではないか。すなわち、労働力人口の減少は生産力、引いては国民所得の減少を招くという人ロオーナスの先の問題として、やがて来る高齢者人口の減少が資産オーナスをもたらすのではないか。

また、人口減少が1人当たり所得に与える影響については種々の議論があるが、山口は、1880年からの超長期の観察に基づき、3つのパターンを設定して2100年まで推計を行っている。そのうちの労働人口が総人口に先行して減少するパターンでは、2030年代で毎年3.24%もの国民1人当たり所得の減少を招くと計測している。女性、高齢者、外国人の雇用促進によって労働人口の減少を総人口の減少程度にとどめられたとしても、毎年2.31%程度のマイナスになるという。

以上のように社会保障制度の持続性について議論する際には、人口減少をはじめとした人口構造の変化が、社会保障制度の依って立つ基盤である経済社会全体にどのような影響を与えるのか、様々な角度から見ていく必要があるだろう。
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乃木坂SHOWROOM

未婚が当たり前の世界

 独占できないものはシェアしよう。生ちゃんのように。お互いがシェアできる世界。

 未婚率から、新しい家族制度に変わっていく。

 豊田市は碌でもない。ムダに人間がいる。

乃木坂SHOWROOM

 さすがにまいやんです。最初から2万人を超えている。ネット放送の視聴回数は伸びていない。

 生ちゃん×ひめたんが最高です。ちなみに私は1日10回以上見ています。本当にホッとする。

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女性労働者の就労実態 サービス業について

『女性と労働』より 女性がおかれている労働現場の実態 女性労働者の就労実態

サービス業の概況

 厚労省「平成26年版労働経済の分析」(2014年)10頁によれば、2013年の産業別・職業別雇用者数の前年比は、産業別にみると、宿泊業、飲食サービス業での増加が顕著とされている。また同分析によれば、円安方向への動きを背景に外国人観光客が増加したこと等を背景とする増加とされているが、これら増加は主に非正規雇用労働者によるものである。これを職業別にみると、介護サービスや飲食物調理といったサービス職業従事者数が増えている、とされる。

 では、これらサービス業に就く者の生活不安がないかというと、そうではない。

 そこで、サービス業カテゴリー内の典型例として「宿泊業・飲食サービス業」「生活関連サービス業、娯楽業」を取り上げて、サービス業に関する状況分析として以下論じる。

 まず、賃金については、厚労省「平成26年賃金構造基本統計調査の概況」第8表によれば、男女計・産業計の正社員平均賃金が317.7 (千円)、正社員・正社員以外の平均賃金が200.3 (千円)であるのに対し、「宿泊業・飲食サービス業」の男女計、正社員平均賃金は263.6 (千円)、正社員・正社員以外の平均賃金は179.6 (千円)であり、「生活関連サービス業、娯楽業」の男女計、正社員平均賃金は278.9 (千円)、正社員・正社員以外の平均賃金は198.8 (千円)と、相対的に低い。「宿泊業・飲食サービス業」の男女計平均賃金は、統計表中、他の産業に比して最下位の数字である。

 これらサービス業については、産業別にみた場合の、非正規職員の割合の高さが各統計から指摘されている。厚労省「平成20年度版労働経済の分析」(175頁)によれば、1982年以降、非正規職員の割合は右肩上がりであり、2002年時点において35.6%を示し、その後もその割合は上昇を続け、2007年時点では約4割となっている。

 また、総務省統計局「平成24年就業構造基本調査 結果の概要」によれば、産業大分類、雇用形態別の割合をみるに、「正規の職員・従業員」の割合は、「宿泊業、飲食サービス業」が26.7%と、もっとも低い数字となっている。

 同統計中、「パート」の割合を産業別にみると「宿泊業、飲食サービス業」35、1%、「卸売業、小売業」28.1%、「生活関連サービス業、娯楽業」26.9%の順となっており、サービス業においてパート雇用の割合が高いことが示されている。

 さらに、同統計中「アルバイト」について同じく産業別にみると、「宿泊業、飲食サービス業」31.2%、「生活関連サービス業、娯楽業」17.8%となっており、やはりサービス業においてアルバイト雇用の割合が高いことが示されている。

 このような状況を反映して、サービス業においては全般的に、離職率、入職率いずれも他産業に比べて高い。厚労省「平成25年雇用動向調査の概要」(2013年)中の統計によれば、「宿泊業、飲食サービス業」における入職率、離職率の割合は各31.8%、30.4%、「生活関連サービス業、娯楽業」における入職率、離職率の割合は各24.9%、23.7%、「サービス業(他に分類されないもの)」の入職率、離職率の割合は各25.4%、23.2%となっており、分析対象の他産業がいずれも10~15%であるのに比して、高い割合であることを示している。

 なお、同統計内付属統計表3によれば、全体統計として一般労働者のうち12.6%、パートタイム労働者の15.0%の者が、契約期間の満了を離職理由に挙げている。

 以上の統計を基にすると、男女問わずサービス産業従事者のうち相当数が、非正規職員等の不安定な立場で労働せざるを得ない等の事情から、職場において安定して働き続けることが難しい状況にあることが推測される。

サービス業従事者における女性の数、割合

 前記総務省統計局「平成24年就業構造基本調査」(2012年)8頁によれば、2012年時点で、「宿泊業、飲食サービス業」に就業する女性はおよそ231万2000人(女性有業者総数中8.4%)、「生活関連サービス業、娯楽業」に就業する女性はおよそ141万人(女性有業者数中5.1%)とみられている。

 これらサービス業については、厚労省「平成25年版働く女性の実情」(2013年)の統計分析によれば、「宿泊業、飲食サービス業」64.1%「生活関連サービス業、娯楽業」58、6%と、「医療、福祉」77.3%に次いで、他職業と異なり女性のほうが割合の多い職業である。

 2003年4月に総務省統計局が行なった分析によれば、女性の「サービス職業従事者」では20~24歳が一つのピークとなっており、その後、30~34歳が谷となり、年齢が高くなるにしたがって就業者数が増加し、50~54歳が最も多いという、顕著なM字型を示している(総務省統計局統計トピックスNo. 1「女性が多い『サービス職業従事者』、平均年齢の若い『専門的・技術的職業従事者』(平成12年国勢調査の結果から)」(2003年4月)参照)。

サービス業に関する賃金格差について

 当該業種における男女間の賃金格差についてみるに、厚労省「平成26年賃金構造基本統計調査(全国)の概況」中の統計によれば、「宿泊業・飲食サービス業」に関する男性賃金・年齢計は272.3 (千円)、女性賃金・年齢計は195.4 (千円)とされる。また「生活関連サービス業・娯楽業」の男性賃金・年齢計は291.2 (千円)、女性賃金・年齢計は213.7 (千円)となっており、いずれの業種においても、女性平均賃金は男性平均賃金の7割程度の数字にとどまり、男女間における賃金格差があることが分かる。

 次に、女性における正規、非正規労働者間の賃金格差についてみるに、同統計によれば「宿泊業・飲食サービス業」につき、正社員・正職員の平均賃金額に対し、それ以外の雇用形態の者の平均賃金額は78%、「生活関連サービス業・娯楽業」については同じく86%となっている。

 これら統計からすれば、正社員・正職員以外の雇用形態にっく女性の場合、IE社員・正職員雇用形態に就く男性と場合と比べて、相当程度の賃金格差があると推測できる。

サービス業に就業する女性の状況

 サービス業については、求人誌等をみても女性にとって比較的求人を探しやすい分野であるが、上記のとおり、有業者女性のうち、約1割の者がサービス業に従事しており、主なサービス業従事者の過半は女性労働者である。

 しかし、前述のとおり、サービス業に従事する女性の大半は、正社員雇用ではなく、非正規雇用であり、労働者として不安定な地位におかれている。また、そもそもサービス業の賃金自体が低いうえ、男女間、正規・非正規雇用間においても賃金格差は存在しており、結果、非正規雇用の女性の賃金は、非常に低い結果となっている。

 これに加え、たとえば小売販売業のうちアパレル産業について、若年層のアルバイト店員や契約社員への労働時間、販売ノルマ等の厳しさから、労働者を経済的にも精神的にも追い詰めることがあると指摘されることがある等、上記に挙げた各種統計だけからは読み取れない問題もあるものと推測される。

 低賃金をめぐる状況については、日弁連としても2014年7月24日付け「最低賃金額の大幅な引上げを求める会長声明」を出すなどしているが、これを含め、女性をとりまく上記状況の速やかな改善が望まれる。
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コミュニティ・デザインとは何か

『地域資源とコミュニティ・デザイン』より コミュニティ・デザインとコミュニティ・ディベロップメント

コミュニティ・デザインの定義

 まず、デザインとは何かについて見てみる。広辞苑第六版にはデザインとは、(一)下絵、素描、図案、(二)意匠計画、製品の材質・機能および美的造形性などの諸要素と、技術・生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画」とある。また、ブリタニカ国際大百科事典では「企画立案を含んだ設計あるいは意匠」とある。デザインは指示する、表示するという意味のラテン語のdesignareから派生した言葉で、アーバン・デザイン、建築デザイン、グラフィック・デザイン、工業デザインなど、それぞれの分野の言葉と結合させて使われている。つまり、デザインとはある分野における工夫をこらした設計や計画ということができる。もともとは、建物、庭園、工業製品などハードな形のあるものを作り上げていくための設計や計画ということだが、組織形態、ネットワークなどソフトな物も含まれるようになった。

 コミュニティとは何かについては本章の中心論題となるので詳しくはあとに譲るが、広辞苑では(一)一定の地域に居住し、共同感情を持つ人々の集団、地域社会、共同体、(二)アメリカの社会学者マッキーバー(一八八二-一九七〇)の設定した社会集団の類型、個人を全面的に吸収する社会集団、家族、村落など」と説明している。

 上記、二つの概念の定義をつなげただけではコミュニティ・デザインの定義は生まれてこない。ここで必要とされるのは目的である。二つの言葉をつなげるとコミュニティをデザインするということになるが、何の為、もしくは何故コミュニティをデザインするのかが重要となってくる。この問いが生まれてきた経緯については、後ほど述べるコミュニティ・デザインとコミュニティ・ディペロップメントの歴史で明らかにしていく。この目的とは端的に言えば住んでいるコミュニティを生活しやすい地域にしていこうということである。また、一般的なデザインは建築物や製品を作り上げるまでの過程が重要視されていて、ハードの完成後はあまり注目されないが、コミュニティ・デザインはソフトの面も重視されている。さらに、完成形というものはなく継続的な実行が求められている。したがって、本章では、コミュニティ・デザインとは「ある地域に居住して、その地域に対して共通の所属意識を持つ人々が、地域の生活環境をより良いものにしようとして、工夫をこらした計画をたてて、それを継続的に実行していくこと」とする。

 この定義とこれまで研究者が提示した定義を比較してみると、それぞれの研究者の学問領域の影響が見てとれる。まず、ヘスター・土肥はコミュニティ・デザインを「地域の生活環境の創造であり計画である。地域、公園、地域の施設、小規模の雇用周旋センターそして時には町全体を、より公平な環境的資源の再配分のために創造し計画する」ものと定義している。先の定義とこのヘスター・土肥の定義を比べると、後者ではハード面と公平さが重視されていて、造園学や建築学からの視点であると理解できる。次に、三好はコミュニティ・デザインを「コミュニティに所属する人々がよりよい生活を送れるように、社会システムとしてのコミュニティの基盤である制度と活動を構築していく継続的な作業」と定義している。ここでいう制度は制定された法律、規則だけではなく、規範、業務方法、組織体制を含む広義の概念として捉えられている。先の定義とこの三好の定義を比べると、共にソフトの面が前面に出ており、社会学及び政策科学的な視点を持っている。

コミュニティ・デザインの歴史

 コミュニティ・デザインという概念は一九六〇年代にアメリカで生まれた。一九六〇年代のアメリカの都市部ではコミュニティの衰退が起こっていた。背景には大量の南部のアフリカ系アメリカ人が農村から北部の工業都市へ工。場労働片として移動していったことと、それに伴う白人の都市中心部から郊外への移動、そして、郊外化に伴う都市叫‥開発があった。

 背景を順に説していくと、まず、アフリカ系アメリカ人は、南北戦争(一八六一-一八六五)後から一九六〇年代まで南部の農村から北部の都市へ移動を続けているが、T几二〇年代から急速にその数が増えていった。アメリカの急速な製造業の発展はシカゴ、クリーブランド、ニューヨーク、デトロイトなどアメリカ北東部の工業都市を発展させていき、大量の労働力を必要とした。それまでは、ヨーロッパからの移民がその役割を果たしてきたが、第二次世界大戦により、その供給が途絶えることになった。一九一〇年代以降アフリカ系アメリカ人の移動の数が急速に増加したのはまずこのように北部工業都市にその需要が開けたことによる。もう一つ、アフリカ系アメリカ人が北部に移動する要因となったのが、南部における人種分離政策である。南北戦争での北軍の勝利で、奴隷制廃止が成し遂げられたが、南部諸州ではアフリカ系アメリカ人を差別するジム・クロウ法(アラバマ州、フロリダ州、ジョージア州など南部の州における人種分離政策の根拠となる州法)を一八七六年に制定している。病院バス、学校などで分離が行なわれ、アフリカ系アメリカ人は二流市民として扱われ、例えば、フロリダ州では白人との結婚や交際まで禁止された。このような制度として正当化された構造的差別を嫌ってアフリカ系アメリカ人は自由な北部の都市に移住した。この北部への流れはその後も継続し、第二次世界大戦後のアメリカの経済成長は、それまでよりも更に多くのアフリカ系アメリカ人を労働力として都市部に吸収させていった。これにより、アフリカ系アメリカ人の都市人口率は一九〇〇年の二二・六パーセントから一九六〇年には七三・ニパーセントにまで上昇した。

 このアフリカ系アメリカ人の農村から都市への移動は白人の郊外化をもたらした。白人は自分たちが居住しているコミュニティで労働者階級のアフリカ系アメリカ人が増加していくのを嫌って、都市中心部から出て行った。アフリカ系アメリカ人と一緒のコミュニティには住みたくないという白人感情には根強いものがある。一九七六年のデトロイトの白人に対する調査では、地域に八パーセントのアフリカ系アメリカ人がいた場合、二四パーセントの回答者がその地域に不快感を持ち、七パーセントがその地域から出て行こうとし、二七パーセントがその地域には引っ越して来たくないという。さらに、地域でのアフリカ系アメリカ人の居住割合が五七パーセントに達すると、その地域に不快感を持つ白人は七二パーセントに達する。そして、六四八Iセントがその地域から出て行こうと考え、八四パーセントがその地域には移って来たくないと考える。これは一九七六年の調査であり、一九五〇年代の公民権運動以前のアフリカ系アメリカ人に対する差別感情はもっと強かったと推測されるので、アフリカ系アメリカ人と同じコミュニティに住むことに対する嫌悪感はさらに強かったと考えられる。白人の郊外への移動は、第二次世界大戦後の自動車の著しい普及もそれを加速させた。

 この白人の郊外への移動は、それに伴う都市の再開発をもたらした。郊外住宅地と中心市街地のビジネス地区を結ぶはイウェイの建設などで多くの住宅が破壊された。また、一九四九年からの連邦政府の政策である都市再開発計画はインナーシティのスラムクリアランスを目指したが、これはアフリカ系アメリカ人のコミュニティを破壊することでもあった。一九五〇年から六八年の間に公共事業の名の下に、二三八万戸の低所得者の住宅が破壊された。このような一連の社会の変化を通して、アフリカ系アメリカ人が多数を占める都市中心部はコミュニティとしての機能が衰退し、低学力、失業、貧困、非行、犯罪などの問題が深刻さを増すアンダークラスのゲットーとして認識されるようになった。

 都市再開発がもたらしたこのような状況に疑問を持った都市計画、造園、建築の専門家たちは、これまでの都市計画がコミュニティをどう捉えてその計画に組み込んでいくのか、また、地域の様々な社会問題にどのように対処するのかということに関心を持ってこなかったことが問題であることを明らかにした。弁護士も加わったこれらの専門家は、は、ボランティアとして、再開発の過程で立ち退きを迫られているアフリカ系アメリカ人などを支援した。これら専門家の一連の活動をp-ル・ディビドフはアドボカシー・プランニングとして提唱した。ヂィピドフ[一九六五]によると、アドボカシー・プランニングとは「社会もろもろの利益集団が計画過程に参加し、そこに多元主義が実現されなければならず、プランナーは諸集団による計画の作成を助け、自らも彼らの価値観を擁護し、主張していく弁護活動」である。つまり、コミュニティを顧客としてその利益を代表するのがアドボカシー・プランニングである。この考えは、全米各地に民間のコミュニティ・デザイン・セーンターの設置と政府の都市計画においてはコミュニティ・ミーティングヘのプランナーの参加を義務付けることにつながった。コミュニティ・デザイン・センターは一九六八年のアメリカ建築家協会の一〇〇周年記念集会で、全国都市同盟のホイットニー・ヤング代表が演説をおこなったことがその発展の原動力となった。彼は、都市開発において建築家やプランナーはアフリカ系アメリカ人などの貧しい人たちの利益を代表すべきだとして、その為のコミュニティ・デザインーセンタヽ‐‐‘の役割を強調した。この演説は参加者に多大な影響を与え、全米各地でコミュニティ・デザインーセンターの設立が相次いだ。一九七五年には八〇のコミュニティ・デザイン・センターがあったが、その内の五七件が一九六八年から一九七二年の間に設立されている。

 このように、コミュニティ・デザインは、アメリカのアフリカ系アメリカ人が、都市再開発の過程で都市中心部において社会的剥奪状況に追いやられていったことに対して、良識のある建築や都市計画などの専門家がその克服を目指そうとしたのが始まりである。したがって、コミュニティ・デザインは社会的公正を目指していくことが前提にあり、受益者は社会的弱者の人々(少数民族、貧しぃ人々、高齢者、子供など)ということになる。
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中華世界 西を目指す戦略、一帯一路

『現代中国入門』より 中華世界 一帯一路

二〇一三年一一月、中国美術館で「西部に行く(Go to the West)」と題する展覧会があった。すっかり中国美術館のファンになった私は早速行ってみることにした。中国の西部、とりわけそこに暮らすチベット族、ウイグル族など少数民族の様子、風景などを描いた絵画が展示されていた。こういった絵画が描かれ始めたのは日中戦争期に始まる。中国美術館の説明をまとめればこうなる。「一九三〇年代、抗日戦争が激しくなり国民党政府が重慶に首都を移したことにより、西南地域が戦略的に重要な地域となった。四〇年代、太平洋戦争の勃発によって、西南の雲南とミャンマー、ベトナム間の交通が遮断され、西北地域の国際的地位は高まり、重要視されるようになった。多くの芸術家ははるか西北部に行き、絵を描き、調査した。新中国成立後もこの動きは続き、二〇世紀中国美術史の重要な出来事となった」。

私が絵を眺めているちょうどその時期、習近平は「一帯一路」という新たな国家戦略を発表した。今でこそ知られるようになった「一帯一路」という言葉だが、そのときはまったく何のことかわからなかった。同時にこのプロジェクトは新シルクロード戦略とも言われ、古のシルクロードの路に沿った中国の貿易、投資、外交戦略のコンセプトを示したものだった。「一帯一路」については以下多少詳しく説明するが、この国家プロジェクトとささやかな美術展が連動しているものであるとは、リアルタイムでは知るよしもなかったが、中国の情報宣伝戦略の一端を示したものであったのだ。

美術館の説明では抗日期からの歴史の連続が取り上げられているが、改革開放以来の中国は主に海に面した沿海部の都市がまず対象となり、深せんなどを初めとして大規模な投資と開発が行われ、その後の中国の経済成長の原動力となった。しかしその過程で、中国内部に決して少なくない格差が生まれ、都市と農村そして沿海部と内陸部の格差が大きくなったことはかなり報道され、よく知られたことだ。その後二〇〇〇年前後、政府は西部大開発プロジェクトを打ち出し、西部地域への投資と開発を大々的に行うようになった。西部地域とは四川省、貴州省、浹西省、青海省、甘粛省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区などを指す。そして経済成長に伴うエネルギー需要に応えて、油田地帯からのパイプライン網も完備するようになった。その延長に一帯一路はあることになる。しかし今度は国境をまたぐことになるわけで、そう簡単に延長というわけにはいかない。

一帯一路は英語で“One Belt One Road”と表記される、中国の今後の対外投資、貿易の大きなコンセプトである。中国国内の新疆、あるいは上記の西部の都市を起点として、中央アジア、東南アジア、南アジア、中東、ロシアを通り大消費地であるヨーロッパに至る陸路を通商路として設け、さらに中国の沿海の港から東南アジア南アジアを通ってインド洋に至る海の道を設けるという構想である。それは東アジア経済圏、ASEANとヨーロッパを結び、さらにはアフリカ大陸までに至り、その中間地帯にある中央アジア、中東などの潜在的力を掘り起こそうとする。投資総額は言い方によってまちまちであるが、数兆円、総取引額はさらに数十兆円が見込まれている。陸路がそのまま古のシルクロードのルートと重なるため、新シルクロード戦略とも呼ばれ、そのイメージは大いに活用されている。

ジェトロの指摘によれば、この戦略の特徴は、援助と市場取引による貿易、投資が三位一体で連動していくところに特徴があるという。「一帯一路」の「帯」とは鉄道、石油、天然ガスなどのパイプライン、道路などの複合的な交通路を指し、「路」とは中国の沿岸の港からマラッカ海峡、インド洋を通る海路を指している。道路はすでにアジア中を通っているが所々切れているため、それを改めて繋ぎ合わせ、鉄道もすでに走っている路線をさらに延長して、中国国内からヨーロッパまでを乗り継ぎなしでつなげようというものである。新たな鉄道の敷設もある。カザフスタンから中国までの天然ガスのパイプラインとトルクメニスタンから中国までの石油パイプラインもすでに開通している。そこにさらに東南アジアのミャンマーに至るルート、パキスタンを通るルートなどを新たに作る。また世界がイランに経済制裁を果たしている最中に、テヘラン市内のバス、地下鉄などはすべて中国が請け負い完成させている。

このように既存のインフラを存分に活用するところに、あるいは今まで点であったものを繋ぎ合わせるコンセプトを持つところにこのプロジェクトの特徴がある。また陸の「帯」と海のシルクロードとも呼ばれる海の「路」とが二対になっていることも重要である。

中国は長らく世界の工場と言われてきた。安価な労働力を利用するために、世界のメーカーは競って中国国内に工場を建て製品を製造してきた。そして今や中国は過剰生産となった。その過剰な製品の売り場を求めて、ヨーロッパと直接結び、かつ中間地帯を新たな消費地として開拓することが必要となる。そして国内の高まるエネルギー源の確保と、資源を求めるために、中東、さらにはアフリカとの輸送ルートの確保が必要となった。古のシルクロードだけではなく、アフリカ各地にも積極的に鉄道、道路などのインフラ投資は現在ものすごい勢いで進んでいる。

中国はここ数年、GDPの伸びの鈍化が指摘されているが、それを中国の構造改革の挺子とすること、つまり世界の工場から転換して、国内需要を高めるための構造改革を目標としている。そのため、より消費者を増やすために、農村をさらに分解させる政策をとり、しばしば指摘されている農村戸籍と都市戸籍の改革を行い、都市人口を増やそうとしている。従来ならば農村に農地を残して都市に出稼ぎに出ていた人々が、実質的に土地を売り、農村には戻れないようになり都市に出てくるのだ。現在一部で議論されている新工人(新しぃ労働者)の問題の一端はここにある。
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