goo

現代社会論

『政治哲学入門』より

最近の思潮のなかで、農業社会から産業社会、そして情報化社会の到来がさかんに議論されている。いわゆる、ポスト・モダン論である。農業社会にあって労働集約性と勤勉性とが産業活動のメルクマールであった。これに対して、産業社会の特色である資本集約性と生産性は飽和状態化しており、脱近代的思考による社会像が理論的に求められているのである。ポスト・モダンの社会は情報化社会であり、知識集約性と付加価値性が顕著になっていくであろうと考えられている。また、自己組織性やオート・ポイエシス(自己生産・自己創出)論などが、社会学プロパーで論議されている。近代化は過去の歴史をふりかえってみると三段階を経過してきたといえる。第一の近代化は、一七・一八世紀の絶対主義なり重商主義の時代であった。つづいて、第二の近代化は、一九・二〇世紀の資本主義社会の到来、帝国主義の時代であった。そして、いままさに、第三の近代化、つまりテクノ=エコノミー体制の到来というシェーマとしてえがかれている。ところで、トゥレーヌにしたがえば、ポスト・産業社会とはプログラム社会であるという。また、彼はその社会をテクノクラシー社会であると指摘しか゜さらに`ベルは、「脱工業化社会は、同時に共同体的な社会である。この社会においては、社会の構成単位はむしろ共同体の組織であって、個人ではない。そこでは種々の決定は市場を通して行なわれるのではなく、むしろ、政治的経済的、その他さまざまのグループ相互間の話し合いといった形の政治によって行なわれる」、とのべている。

前近代社会と対比した意昧での現代社会を資本主義社会(産業社会)ととらえた場合、その社会のもつ特色としては以下の諸点があげられよう。

 ①経済成長と生活水準の向上が目的である。
 ②インフレーションは経済成長と完全雇用との必然的結果である。
 ③資本主義社会において、経済は国家の規制や計画化、指導により発展する。
 ④目的合理性と生産性をあげていくために、官僚機構が発展する。

資本主義社会にあって、国家主導による経済の拡張と、国家管理社会が出現してきたのである。国家主導により経済の発展をめざしていくのであれば、中央集権化が論理必然的に帰結してくる。経済成長が成し遂げられ豊かな社会になれば、社会的資源の配分をおこなうことを通して国家による社会の管理化が推進されてくる。資本主義社会の結果、新中央集権化が顕著になってきたわけである。そして、これらのことによって、

 ①すべての問題を個人ではなく団体間で解決していこうとするネオ・コーポラティズム論の台頭。
 ②労働の疎外現象。
 ③市場原理・競争原理による道徳性・連帯性の喪失現象、

 などのあらたな政治的社会的現象を生み出すことになったのである。つまり、①については個々人の政治的有効感覚の喪失という政治的疎外感、②については経済的疎外感、③については社会的疎外感、をひとびとがもちはじめているのである。

それでは、これらの問題をどのように解決すればよいのであろうか。第一に、政治的疎外感の治癒策としては、分権化・地方政府の強化が必要となる。これにより、市民の政治参加を促進し政治的有効感覚を充たすことが実現できるであろう。第二に、経済的疎外感の治癒策としては、シティズンシップ論の再生が必要である。生産に従事するものはあらたな面で人権抑圧に直面する例が多くでてきている。たとえば、過労死やサービス残業、企業のリストラに伴う人員整理、などである。労働条件の厳守や雇用の確保などを労働権・生存権として積極的にこれをみとめ、産業従事者の生活権の確保にあたらなければならないのである。また、ナショナル・ミニマムの確立もはかられなければならないであろう。第三に、社会的疎外感の治癒策としては、市民意識・公共意識の覚醒が必要である。つまり、結果としての平等(本書12平等参照)に甘んじていたひとびとも、経済の低成長のもといままでのような社会サービスを享受できなくなってきた。しかし、既得の社会サービスの受給を求めていくのであれば、当然負担と受益の考え方が再認識されてくる。このことをとおして、自己と社会、自己と国家、個々人間の相互扶助などをひとびとはいま一度認識し直すであろう。その結果として、パブリックな考え方が叢生してくることであろう。また、コミュニティーの再生として近隣社会(生活圏)の連帯感を強化していかねばならない。第四として、議会システムの機能化である。つまり、オンブズマン制度の導入、法制局の充実、議員定数の是正などにより、行政監視システムを充実させていくのも必要であろう。第五として、国民の政治へのアクセス権の確保である。情報公開法の制定と国民投票制度の導入により、政治の活性化をはかる必要がある。以上のような現行制度の矯正をおこなうことで、現代にひそむ政治社会の限界性を払拭していくことができるであろう。原石にさらに磨きをかけていくことで、人権や政治参加の保障という輝きをはなちっづけていくことができるものと思われる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

哲学が独断論的なものとなる理由

『純粋理性批判1』解説より

カントはこれまでの哲学が、このアプリオリな概念を適切に処理してこなかったために、独断論的なものとなってきたと考えている。このカントによる伝統的な哲学への批判は、哲学がごく自然にこのような独断論に陥った理由を考察するという形で展開される。

第一に哲学は、数学のアプリオリな原理のもつ力に誘惑されたのだった。アプリオリな認識の一つである「数学的な認識が、昔から確実なものとして信頼されてきたために、その他のアプリオリな認識までもが、[数学的な認識とは]まったく異なる性質のものでありうるにもかかわらず」確実なものと思い込まれたのである。しかし哲学は数学とは異なる原則に依拠するものであり、数学のアプリオリ性を利用することはできないのである。

第二に哲学が展開するさまざまな理念、たとえば神、自由、魂の不死などの理念は、経験を超越したものである。「ひとたび経験の圏域から超出してしまえば、経験によって反駁される心配はなくなる。自分の認識を拡張することの魅力は非常に大きなものであり、はっきりとした矛盾に直面しないかぎり、その拡張の営みを妨げうるものはない」(同)のである。哲学は野放図に、神学の概念までを利用しながら、自由に理論を構築することができ、それを反駁する論拠は哲学のうちには存在しなくなるのである。これはもはや哲学の営みとは言えないものになってしまう。

第三に、数学においてアプリオリな原理の威力が示されたために、哲学もまたこの数学の分野で示された理性の「威力に鼓舞される」のである。思えばプラトンは幾何学との類比のうちにイデアの概念を構築することができた。そしてこのイデアの世界のうちに、哲学の本務があると考えたのである。

鳩は空を飛びながら、重力のない世界であればどれほど楽に、楽しく飛翔できるだろうかと空想するかもしれない。しかし重力がない世界では、ただ漂うことができるだけであり、飛ぶことはできない。同じようにプラトンも「イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の〈彼岸〉へと、純粋な知性の真空の中へと、飛びさったのだった」。そしてこの飛翔が哲学の仕事にまったく役立たないものであることに気づかなかったのである。

第四に、この誤謬のもたらす一つの帰結として、数学、とくに幾何学で示される直観のもつアプリオリ性と、哲学の領域でとりあつかう概念のアプリオリ性が混同されたことがあげられる。幾何学は対象と認識が理念的な直観のうちに与えられるかぎりで妥当なものであるのに、哲学はこの「快楽」に心を奪われて、この直観に依拠する幾何学と、「たんなる純粋な概念」の違いを区別できなくなってしまい、哲学の概念にもこのようなアプリオリな真理が通用すると考えてしまうのである。

第五に、分析的な真理と、経験に依拠した総合的な真理の違いが理解されなかったために誤謬がしのびこむことになった。概念を分析することでは、「真の意味でアプリオリな認識」がえられるのである。これは「確実で有益な進捗をもたらすものであるために、理性はみずから気づくことなく、まったく別の種類の主張をこっそりと持ち込むのである。そして理性はすでに与えられている概念に、まったく無縁なアプリオリな概念をつけ加える」。これは分析的なみかけをもつ総合的な命題に、分析的な命題のアプリオリ性を適用するという誤謬である。この誤謬のありかを明らかにするために、ここでカントは節を改めて、第二節の最後でとりあげるはずだった分析命題と総合命題の違いを考察する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )