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小分類変更 2.数学

2.1 真理があるとしたら、数学にある
 2.1.1 真理とは不変である
  1.真理で不変と全体を知る
  2.数学は不変から空間をつくる
  3.楽で楽しいから数学に決めた
  4.哲学は存在と認識から真理に迫る
 2.1.2 数学は全体が見える
  1.全体が見えてくる数学への思い
  2.全てが考える対象
  3.数学は作るもの
  4.数学者の世界は実り豊か
 2.1.3 近傍から全体をつくる
  1.幾何学は独立し、数学は先に行く
  2.近傍を規定すれば、空間になる
  3.擬似空間を作って空間を解析
  4.近傍系をつなげる
 2.1.4 空間を創造する
  1.不変が空間を規定する
  2.社会は多様体構造
  3.リーマン予想から無限次元空間
  4.無限次元空間を旅する
2.2 社会内部のモデル化
 2.2.1 ゼロから空間をつくる
  1.文系は根本から考えない
  2.理系は空間認識で、構造を理解
  3.不変で接続して、空間を再構成
  4.作り上げる訓練
 2.2.2 社会モデルを考える
  1.図書館はシェア社会を先行
  2.マーケティングが変わる
  3.社会を数学の対象にする
  4.歴史を時空間で解析
 2.2.3 複雑性を入れ込む
  1.部分は全体より大
  2.マーケティングを構造化
  3.変化は周縁から起こる
  4.スパイラルを解消
 2.2.4 思考・行動のモデル
  1.思考と行動を分け、空間配置
  2.ローカル発想でグローバルを見る
  3.販売店でサファイア循環
  4.サファイア構成の四つの機能
2.3 数学の経緯から未来予測
 2.3.1 算数でモノの関係を理解
  1.モノの関係を具体的に理解
  2.アルキメデスは地面に描いた
  3.モノから離れて、抽象化
  4.三角形の相似から幾何学
 2.3.2 デカルト平面は次元の呪い
  1.幾何学原論で厳密な定義
  2.一人の発想で全体を創出
  3.デカルト平面は局所で有効
  4.次元の呪いで特異点をもつ
 2.3.3 トポロジーで数学は独立
  1.ローカルで次元の呪いを解消
  2.クラインは不変で空間を定義
  3.非ユークリッド幾何学が成立
  4.トポロジーの空間認識
 2.3.4 未来予測が可能
  1.ローカルで自由な空間
  2.多様なな空間認識
  3.情報共有する世界を示唆
  4.歴史の時空間から未来予測
2.4 空間で全体構成を見る
 2.4.1 近傍から全体が見る
  1.思考で完結させる
  2.新しい空間で未来をつくる
  3.ローカルから全体の空間を見る 
  4.組織の弱点を超える
 2.4.2 数学発想を仕事で具体化
  1.集合関係から部品構成を解析
  2.空間論で実験結果を分析する
  3.販売店構成でサファイアネット
  4.ユーザ対応には数学は使える
 2.4.3 地域社会に適用
  1.地域の近傍系はコミュニティ
  2.社会モデルで地域活性化
  3.行動モデルで人の動きを把握
  4.疑似空間で全体を把握
 2.4.4 サファイア循環でまとめ
  1.まとめるための生活規範
  2.環境社会の現象を表現
  3.持続型社会をイメージ
  4.サファイア循環を理論化
2.5 サファイア循環
 2.5.1 {思考、行動}×{地域、全体}の空間
  1.思考・部分から考え始める
  2.行動・部分で、互いにつなげる
  3.思考・全体で、全体を見る
  4.行動・全体を推進力にする
 2.5.2 対応するfireの機能
  1.ポータルでFacilitaion
  2.コラボでInterpretation
  3.ライブラリでRealization
  4.ネットワークでEmpowerment
 2.5.3 近傍が全体を規定
  1.近傍系であつまりを規定
  2.連鎖で近傍系をつなげる
  3.基本関数で連続性を定義
  4.位相空間として、挙動を分析
 2.5.4 基本空間が位相を規定
  1.基本空間で位相を規定する
  2.点と空間の間にグループを設定
  3.グループ成果をライブラリ化
  4.既存組織を特異点除去
2.6 社会は位相化する
 2.6.1 考える生活規範
  1.自分の時間を自分だけに使う
  2.いつでもどこでも考える
  3.多読で思考訓練し、社会分析
  4.内なる世界で考える
 2.6.2 社会現象を分析
  1.思いをカタチにする
  2.図書館からシェア社会を先行
  3.グローバルとローカルの社会
  4.多くの人が幸せになる社会
 2.6.3 空間として解析
  1.アナロジー思考で空間を解析
  2.疑似空間で全体の動きを把握
  3.位相空間としての制約
  4.空間を多層化し、次元を超越
 2.6.4 位相化の現象解析
  1.社会の様相を展開
  2.世界の位相化の状況
  3.考えることで見えてくる
  4.未唯宇宙で位相を表現
2.7 新しい数学をえがく
 2.7.1 多様な空間を提供
  1.特異点を除去した空間
  2.意味のある空間
  3.多様な空間の組み合わせ
  4.特異点を含めた多層な空間
 2.7.2 ローカルを活かした空間
  1.価値観でローカルを規定
  2.個人(点)の多様性を活かす
  3.ローカルで次元を構成
  4.ローカルを活かした数学
 2.7.3 点が集合で、集合が点
  1.自分自身で空間をつくる
  2.価値観でコミュニティ形成
  3.分化で自己組織化
  4.既存空間で再構成
 2.7.4 新しい数学で社会を変える
  1.ローカル起点でサファイア循環
  2.周縁から中核へ変化を波及
  3.市民から企業・行政を変える
  4.地域から国を変える
2.8 LL=GGの世界
 2.8.1 存在の力からのシナリオ
  1.存在の力で個人の分化
  2.トポロジー思考で本質を追求
  3.ローカル発想でグローバル形成
  4.国を再生する社会変革
 2.8.2 個人から地域の自律
  1.孤立と孤独から個人の自律
  2.個人の分化から行動を決定
  3.組織から社会の位相化
  4.社会の位相化で地域の自律
 2.8.3 コミュニティで位相化
  1.自分のために真理を求める
  2.考えテ、発信する生活
  3.ソーシャルウェブで共有化
  4.コミュニティの情報共有
 2.8.4 LL=GGで個人と超国家がつながる
  1.LLとGGの二極化で安定
  2.国は超国家(GG)に向かう
  3.存在の力から自由(LL)の理念
  4.数学的世界観で全体は安定
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細かい所はネグる

細かい所はネグる

 世界観にしても、数学にしても、細かい所に拘ることはやめましょう。それだけの時間はないし、さほど重要ではない。
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ポスト国民国家

ポスト国民国家を存在の力で示す

 進まないですね。

 歴史を国民国家から始めて、それが意思の力で推し進めてきたが、破綻を来している。今後の姿を求めている。その時に、存在の力がどう関わってくるのか。
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アイルランドと日本:二つの島国、二つの歴史

『人口の世界史』より

コンネルはいう。「18世紀末から19世紀初期には、あくまでも早婚を促し、それをよしとする気運があった。悲惨で希望のない生活状況、そうかといって魅力のない独身生活、それに宗教者の説得もあったかもしれない。これらがすべてその方向を後押しした」。ただ、早婚を可能とする物的条件はあったのであろうか。アイルランド島の貧しい農村人口には、ヨーロッパの多くの人口集団には一般的であった、資力を蓄積し、よりよい生活水準を獲得するために結婚を遅らすという観念がなかった。大地主は地代を調整して小作人の生活を生存ぎりぎりに押しとどめ、生活水準の改善を困難にしていた。結婚のコストは低く、新居といえばたいていは掘立小屋で、友人や親族に手伝ってもらえば2、3日でできあがり、家具も単純で粗末なものであった_87)小作人社会における真の障害は新居を構える土地をどうやって取得するかであった。これがむずかしいかぎり(たとえば、父親が死なないかぎり)、結婚は抑制された。

けれども、18世紀末にかけて状況が変化した。牧草地の耕作可能地への転換と(低湿地や山地の耕地化による)開墾地の耕作が、フランスと戦争をしていたイングランドの要求のもとアイルランド議会によって進められ、この障害を取り払った。土地の細分化はジャガイモの導入と耕作拡大によってさらに進む一方、アイルランド人の主食は瞬く間にジャガイモとなり、それが唯一というものまで現れた89)ジャガイモがウォルター・ローリー卿によって導入されたのは16世紀末といわれ、次第に拡まったものであるが、これは二つの理由で重要である。第1はその多収量性にある。人口のジャガイモ依存度が高まるにつれ、「それまでは1家族を養うのがやっとであった土地が息子たちや小作人へ分割された」。「1エーカーのジャガイモ畑があれば6人の家族と家畜を養っていくのに十分だった」からである。第2の理由は、その高い栄養価で、もともとミルクの消費割合が高いのに加えて食事の中で驚くべき比率を占めるようになったことである。アーサー・ヤングがキングズ州を旅行したとき、|食事はジャガイモとミルクで10ヵ月間、残りの2ヵ月はジャガイモと塩」という観察を残した。1人1日8ポンド(3.6キログラム)とすると、280ポンド(127キログラム)の樽一杯のジャガイモで、乳児や子どもを入れて5人の家族が1週間食べていけた。コンネルは、1780年から大飢饉まで1人当たり10ポンドの消費と推計したが、サラマンは18世紀末の大人1人当たりは12ポンドと見積もり、「次世紀にはこれを凌駕する量となった」と述べている。さらに、4キログラムのジャガイモと半リットルのミルクだけの食事は、1人の大人にとって十分以上のカロリーと栄養価とを提供するのである。したがって、ジャガイモがアイルランドの農民を貧困に追いやったと難ずることはできても、それが彼らをして高い死亡リスクにさらしたと非難することはできない。新たな土地と既存の耕地の細分化が生産的となったのはジャガイモ栽培のおかげであり、それがアイルランド人の結婚年齢引下げと結婚性向の上昇をもたらした。これらの要因が高位の自然出生力と中位の死亡率と相まって、大飢饉までの期間における高い人口増加を生み出したのである。

いかにジャガイモの導入によって生産的となったとはいっても、土地が制限要因である社会にとって人口増加(1781年から1841年の間に2倍となった)を永久に持続させることは不可能である。1841年に先立つ10年間には、すでに結婚年齢が上がり、移民が増え始めていたという証拠がある。しかし、この展開が惨劇を回避させることはなかった。1845年、胴枯病がジャガイモを襲い、不作となった。1846年にはまったく実らず、壊滅状態となった。1846-47年の冬には飢饉となり、窮乏、絶望的な大量移民、熱病とチフスの流行をもたらした。大飢饉とそれに続いた伝染病は、平常年を110万から150万人も上回る死者を出したと見積もられている99)移民は大脱出となり、1847年から54年の間に年平均20万人が国を離れた。

大飢饉は、人口学的な意味で一つの体制の終わりを告げるものであった。ジャガイモは急速な人口増加の一因となったが、人びとに栄養上の必要をそれのみに頼らせたという点で危うさをももたらした。その後の数十年間には、大土地所有者と聖職者の主導による土地利用と所有構造、そして結婚性向にかんしても(晩婚と男女ともに高い未婚率からなる)新たな体制が形成され、大量移民と相まって人口減退をさらに持続させることとなった。1831-41年には23~24歳--それ以前の水準よりはすでに高くなっていたようにみえるが--であった初婚年齢は、その世紀末には27~28歳へと上昇した。妊娠可能年齢にある女性の有配偶率は、1841年から世紀末にかけて急激な低下をみせ、50歳人口の5分の1は未婚のままとなった。アイルランド島の人口は、1841年の820万人から1901年の450万人へと急速な減少をみたのである。
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哲学とは何か? 三つの基本的な区別

『あなたを変える七日間の哲学教室』 哲学とは何か?

読 者 哲学者のように考えるとはどういうことなのか、この五日間で、僕はだいぶ理解できたような気がします。でも、まだ「哲学とはこれだ」と言えるようなものを見つけられていない気がします。つまり、哲学そのものを定義できないんです。

哲学者 ソクラテスも、君と同じように考えた。プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテスは、正義や友情といった基礎概念を説明するのにひたすら例を挙げつづける相手に「例を挙げるのではなく、それらを定義してほしい」と言い返したそうだ。

読 者 そもそも哲学を定義することなんてできるんですか?

哲学者 哲学を定義するのが難しいのは、「哲学の本質とは何か?」という問い自体が哲学の課題だからだ。だから、その答えは哲学者によって違う。

読 者 じゃあ、その中からあなたが正しいと思う答えを一つ、僕に教えてくださいよ。

哲学者 私は、哲学者の「明確な見解」のどれもが基本的には正しいと思っている。哲学の他の課題についても同じだ。どんな見解も真剣に考えられたうえでの結論であれば、多かれ少なかれ正しい。そうでなければ、誰もそんな見解を支持したりしないだろう。

読 者 あなたが言う「明確な見解」とはどういうものですか?

哲学者 それを知りたいなら、まずは哲学をするうえでとても重要な三つの区別を理解しておかなければならない。一つめは、認識の種類の区別だ。経験せずに得られる認識、つまり、先験的(先天的)な認識のことを、哲学ではカントにならって「アプリオリな認識」と呼んでいる。反対に、経験を通して得られる認識のことを「アポステリオリな認識」と呼んでいる。

読 者 例を挙げて説明してください。

哲学者 例を挙げる前に、二つめと三つめの区別も説明しておきたい。二つめはいわゆる事象の区別で、特定の状態でなければ成立しない事象を「必然的事象」と呼び、特定の状態でなくても成立する事象のことを「偶然的事象」と呼ぶ。そして、三つめは発言の区別だ。ただ意味的に正しい発言のことを「分析的に真の発言」と呼び、意味的に正しいだけではなく、総合的に正しい発言のことを「総合的に真の発言」と呼ぶ。

読 者 三つの区別についてはわかったので、例を挙げてくださいよ。

哲学者 では、三つの区別を同時に説明できる例を挙げよう。たとえば「独身男性は未婚である」という発言について考えてみよう。この発言は、意味的には正しいので「分析的に真の発言」とみなすことができる。

読 者 それは、「独身男性」が「未婚の男性」を意味するからですか?

哲学者 そうだ。「独身男性」という言葉は「未婚」という意味をすでに含んでいるから、「独身男性は未婚である」という発言は意味的には正しいことになる。また、独身男性は未婚でなければならないので「必然的事象」ということにもなる。

読 者 ところで、発言と事象の違いは何ですか?

哲学者 発言とは言葉であり、その言葉が言い表すものが特定の事象、つまり、「独身男性は未婚である」ということだ。「独身男性は未婚である」という発言は意味的に正しい、つまり。

「分析的に真」であるので、その言葉が言い表す事象は必然的ということになる。なぜ「分析的に真」であれば、事象が必然的になるかというと、未婚でない男性を「独身男性」と言い表すことはできないからだ。つまり、「独身男性」と呼ばれるものは未婚でなければならないのだ。要するに、「分析的に真」であるとは、そこに必然性がともなうということだ。

読 者 なるほど。

哲学者 また、「独身男性は未婚である」という認識は「アプリオリな認識」であると言える。なぜならこの認識は経験を通して得られるものではなく、「独身男性」と「未婚」という言葉の意味を知ってさえいれば得られるものだからだ。

読 者 でも、なぜ、それが経験を通して得られる認識ではない、と言えるんですか? だって、まずは「独身男性」と「未婚」という言葉を学ばなければそういう認識はできないわけですよね。それには、それらの言葉を学ぶという経験が必要なのでは?

哲学者 もちろんだ。だが言葉の意味を一度知ってしまいさえすれば、認識は得られる。「独身男性は未婚ですか?」という質問をされたら即答できるようになる。経験から判断する必要はないのだ。だが、「独身男性は基本的に寝るのが遅いですか?」という質問をされたらそうはいかない。それに答えるためには、独身男性についての情報を集めて分析しなくてはならないからだ。

読 者 じゃあ、「独身男性は基本的に寝るのが遅い」という認識を得られたならば、その認識は「アポステリオリな認識」とみなされるのですか?

哲学者 そうだ。それに、いろいろ分析したうえで「独身男性は基本的に寝るのが遅い」と認識し、そう発言したなら、その発言は意味的に正しいだけでなく、事実としても正しいので「総合的に真の発言」ということにもなる。だが、独身男性はみな夜更かしをしなくてはならないというわけでは決してないので、「独身男性は基本的に寝るのが遅い」ということは「偶然的事象」とみなされるのだ。独身男性だって早く寝たいときもあるだろう?

読 者 とりあえず、三つの区別については理解できました。
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「ハイブリッドの父」八重樫武久

『ハイブリッド』より

「いえ、申し訳ないんですが、お断りします」

間近に見える富士山が真冬の装束をしていた一九九六年二月、東富士研究所でエンジン開発をしていた八重樫武久は、「BRVF室に行ってくれ」と言う担当取締役の花岡正紀に、きっぱりとした口調で言った。

「そういうプロジェクトは、もっと元気のいい、若いヤッにやらせた方がいいですよ」

「そういってもな。上から、おまえをリーダーにと言ってきてるんだ」

繰り返しになるが、BRVF室はもともと先行開発を目的にしていた。しかし量産車となると、やるべき内容が変わってくる。単に性能を上げるのではなく、信頼性も重要になる。BRVF室室長の藤井はそうしたとりまとめの経験が少ないため、役員たちはシステム開発の実質的リーダーに、ベテランの八重樫をあてようとした。

八重樫が断った理由は、いくつかあった。

まず第一に、八重樫は出身大学である北海道大学の教授の薦めで、「クリーンガソリンエンジンの研究開発」をテーマにした博士論文を執筆中だった。仕事と両立しながら論文をまとめるのは、ただでさえ容易でない。そこに新規プロジェクトというのは、物理的に難しかった。

それに、ちょうど五十歳になったこともあって、伝え聞いているような無茶なプロジェクトをやる年齢でもないと思っていた。

トヨタ本社で行なった私の取材に、後に「ハイブリッドの父」と呼ばれるようになった八重樫は東富士研究所から二代目プリウスで駆けつけてくれた。すでにプリウスを二台乗りっぶしていて、今のプリウスは二年で八万キロ近く乗ったという。

そんな八重樫もこの時は、「このプロジェクトは、コケるだろうな」と思っていたと言う。

一九六九年に入社した八重樫は、最初にミッション部門に配属された。しかしもともとエンジン志望だったので、本人いわく、「ブーブー言い続けていたら」、二年後の一九七一年に車両やエンジンの新技術開発を担っている東富士研究所に異動になった。担当は、排ガス処理だった。

当時の自動車メーカーは、一九七〇年に米国で成立した一九七〇年大気浄化法、通称「マスキー法」による排ガス規制対策に躍起で、八重樫は人手不足を補うために呼ばれた。それ以来ずっと東富士で、エンジンをクリーンにするための研究開発に携わってきた。トヨタ内では「ミスター・クリーン」と呼ばれることもある、エンジン開発のベテランである。

当時から今にいたるまで八重樫たちが変わらず目指しているのは、「排ガスをクリーンにすると同時に、ドライバビリティ(運転のしやすさ)を向上させること」だった。

一九七〇年から八○年代は排ガス対策によってクルマの動力性能が落ちていたこともあり、「好きなことができた」と八重樫は言う。

「マル排(排ガス対策)っていうと、ある程度目をつぶってやらせてもらえるんです。マル排だけtやおもしろくないから、性能も走りも良くしようっていって、4バルブや過給(ターボ)もやった。「マル排デバイスをひとつ減らすからっていって、VVT(連続可変バルブタィミング機構)をクラウンに売り込んだりね」

吸排気を細かく制御することができるVVTは、後にプリウスのエンジンにも採用されている。

ドライバビリティはもちろん、それを可能にするためのコストも含めて、商品力のあるものに仕上げるのが、八重樫のような〝システム屋〟の役割だった。
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OCR化した8冊

319.1イノ『日本の外交史講義』

 日本の国際化

 1 摩擦の構造化と国際的責任

  A 新冷戦

  B 「異質な国」日本とアメリカ

  C 隣国関係の不安定化

 2 国際協調の再定義

  A 米ソ冷戦の終結

  B 湾岸戦争

  C 「国際貢献」

  D 国内政治システムの再編

 3 新しい外交理念の確立をめがして

  A 地域主義

  B 多国間協調

  C 脱「国民国家」意識

333.09ヤナ『エコ/リーガル・スタディーズのすすめ』

 「もの」を所有する権利とは~知的財産法~

  1 所有権制度・概要とその意義

  2 知的財産法

  3 特許制度・経済分析

  4 分析

 セーフティー・ネットの公平と効率とは~社会保障法~

  1 社会保障制度の意義と概要

  2 社会保険の原理と役割

  3 現行制度の仕組みと課題

  4 おわりに

 環境を守るためのルールとは~環境法~

331.6マル『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』 マルクス

 われわれは各方面から、現在の階級闘争と民族闘争の物質的基盤をなしている経済的諸関係について論じていないと非難されてきた。われわれはこれまであえて、この諸関係が政治的衝突の中で直接われわれに押しつけられる場合にのみそれらに言及してきた。

235フ『フランスの肖像』

 フランス国民はフランスの存続を望んでいるか

 アテネのコンプレックス

 移民の地フランス

 結論

007.3コバ『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』「シェア」が生み出す新しい資本主義

 グーグルが無料で利便性を提供する理由

 「スマイル○円」というマニュアル化の極致

 人間中心主義時代に販売すべきは。体験ゃである

 シェアリング・エコノミーが生み出す新たなる富

 「エアピーアンドビー」はライフスタイルのシェア

 共感者がパトロンになるクラウドファンディング

 所有ではなくモノの「価値」にアクセスする時代

 参加者が「何者か」が問われる世界

 三・一一がもたらした大きなシェアのうねり

 会社という形態は「二十世紀の遺物」なのか

 「くまモン」に活かされるオープンソースの思考

 インターネットのOSとは「オープン」だ

 IT企業に求められる「ノブレスーオブリージュ」

C12.1キノ『ハイブリッド』八重樫さんを知りたくて

 「ハイブリッドの父」八重樫武久

 見切り発車の連続

 毎週開かれたトップミーティング                            

 シンプルな機構のTHS

104エル『あなたを変える七日間の哲学教室』

 哲学とは何か?

 三つの基本的な区別

 哲学者に概念を解明する哲学

 三つの大ざっぱな区別?

 概念をつくりあげる哲学

 体系の構築と謎解き

334.2リヴ『人口の世界史』 2014/04/27 10:39 午後

 アイルランドと日本:二つの島国、二つの歴史

 現代世界の入口で:中国とヨーロッパ
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グーグルが無料で利便性を提供する理由

『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』より 「シェア」が生み出す新しい資本主義

前章で述べたソーシャルメディアの出現と浸透で、人間力を活用するサービスが次々に登場するようになった。先に述べたように情報流通に関することだけではなく、それはライフスタイル全般に及びつつある。たとえば「クラウドファンディング」といった、他者のプロジェクトを支援するためにインターネット経由で小口投資ができるサービスや、「スキルシェアリング」といった、自身の経験やノウハウを他者と共有できるサービスの数々だ。これらはウェブによって可視化され、知らない者同士のギブ・アンド・テイクを推し進める。たとえば「ホスピタリティ・エクスチェンジ」。これは、「おもてなしの交換」という意味だ。エストニア発のソーシャルメディア「幸福銀行」は、よいことを行なうと「感謝の星」という名の仮想通貨が付与される。誰かが犬の散歩、道の清掃などをしたいと思ったら、そのニーズを満たしてあげることで「感謝の星」が増える。これらは人間が本質的な欲求として内包していたものを利用している。

人間同士が接続されたネットワーク内では、その人のもつリソース(資源)へのアクセスが可能になる。それは時にお金であったり、所有物、労力、経験、あるいは知恵などになる。こうした資源へのアクセスは、供給者と需要者が明確に分かれ、貨幣がそれを媒介する資本主義経済のなかだけにあるわけではない。あるコミュニティをつくりその一員となって、無償で自己のもつ資源を提供することもある。そのコミュニティとは趣味、関心、思想などを介するバーチャルな場合もあるが、そうしたバーチャルコミュニティがリアル社会へと次第に影響を及ぼしつつある。

評判経済、注目資本主義という言葉がある。これはビジネスにおいて、何よりも先に評判や注目を集めることで、それがあとの換金化につながるという考え方だ。グーグルを筆頭に、多くのウェブサービスは無料で利便性を提供するものが少なくない。ここでいう評判や注目とは、ウェブヘのアクセス数やアクティブユーザー数と言い換えてもいい。誰に頼まれたわけでもなく、個人でコンテンツを発信して注目を集めるブログや動画配信、ツイート、まとめサイトなどもこれに当たる。

コンテンツばかりではなく、プログラムを無料で公開してしまう人々もいる。それらはオープンソースライセンス、あるいはクリエイティブコモンズという方法に委ねられる。一定の約束事を守れば自由に頒布したり、改良してもいいというネット上のルールに基づいているのだ。リアル社会では、著作権は非常に厳密だ。放棄か、完全な管理下に置かれるかの二者択一しかない。しかしウェブ上では、たとえば著作者にわざわざ断りを入れなくとも、りンク先に指定のウェブサイトのアドレスと著者の名前を入れることで、使用許諾を認めるものもある。あるいは著作の改変についても商用利用でないかぎり許容するなど、著作者が幅広く決めることができる。

そうしたルールのもとでつくられたプログラムの一部が、多くの会社のウェブサーバやインターネットを介したサービスの裏側を支えている。最近でいえばインテルがオープンソースで開発を行なうスマートフォンやノート型PC上で稼働する「タイゼン」というOSもそうだ。自動車の燃料噴射装置なども無料で公開されている。電気自動車の設計図をオープンソース化するOSカーという潮流もあり、OSビークルという会社は自社製品の設計図をダウンロード可能にしている。

リアル社会では、なかなかすべてがオープン化されるわけではない。それがリアルな物質であるために、希少性があるからだ。希少性のあるものを配分すれば、所有者に損失が生じてしまう。しかし、それがウェブで無限に複製可能なものであれば、初期の労力にだけ目をつぶればよい。

こうしてコンピュータのOS、ブラウザ、プログラム、コンテンツ、アイデアなどが世に登場し、世界中の人々によって日々改良され、私たちを含め多くの人間が「シェア」の恩恵に与っている。最近話題の低価格3Dプリンタも、一部の技術の特許が切れ、オープン化され、さらに開発者のコミュティがオープンソースにしたから開発が進み、低廉な価格設定が可能になったのだ。

北米インディアンのポトラッチという儀式では、所有物を贈与することが最上の名誉であり、歓びとされた。所有することよりも分け与えることで自身の力を誇示したり、歓びを感じるという社会は、現在のウェブの世界で相似を見出すことになる。
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アテネのコンプレックス

『フランスの肖像』より

フランスはその過去と文化を誇りにしているか、「米国世界」の中にあってその力は相対的に低下している。これは、アテネの運命を思わせるものだ。すでに第二帝政下で、プレヴォ=パラドルはフランスの人々が「生まれた土地に頑固に執着」し、「きわめてゆっくりとしか人口が増えない」が、さらには「横ばいか減少する」ならばフランスの未来はアテネと同様のものになると考えていた。そうなれば、「アングロ・サクソンが支配する世界における我々の重みは、相対的には、かつてのアテネがローマ世界の中で持っていた重みと同じものになろう。我々は、ヨーロッパの社会で最も魅力的で、最も人気がある存在であり続げるだろう。我々は、この古くなった国家の集合体においてますます生きいきとした光をもって輝くだろう。かって衰退したギリシャの諸都市の中で、アテネが輝いていたように」。

人口が科学的に研究されるようになる前に、ナポレオン三世時代のこの自由主義思想家は、人口の減少がフランスの衰退を招くと考え、それによって世界の情勢に関与することができなくなるのではないかと恐れたのである。彼の著書『新しきフランス』は、一八六八年に出版された。彼が、その三〇年後か四〇年後を見たら何と言っただろうか。人口の問題が重大なものと思われるようになったのは、一九世紀末のことである。エミール・ゾラは、この問題をめぐる小説を書く必要を感じて、『豊穣』という作品を出版したほどだ。これは、信心深く出産奨励的な物語である。

口の悪い人々は、ゾラがこの小説を、中年を惑わす愛欲の影響下で書いたという悪意ある説を流布させた。彼は、最愛の女性である二八歳年下のジャンヌ・ロズロと出会ったのち、やや年をとってから二人の子供をもうけていた。しかし、彼の私生活に関連した説明には意味がない。実際に、これは当時注目されていたテーマなのである。その一〇年ほど前から、生まれたばかりの人口学はある警告を発しており、ゾラはその中から人に不安を与える一つの単語を取り上げた。それは、「人口減」だった。

この単語は、よく講演会や学会などで使われていた。社会学者、人類学者、医師らが専門誌などの論文で用いていたのである。ゾラは、世論に警告を発したいと考えた。彼はブルジョワ的モラルを、存在よりも財産を選んだとして批判した。彼は豊穣なる女性、「多くの子を持つ女性」の美学を唱えた。彼は処女性と「死の宗教」を非難した。彼は、「フランスの出生率の向上」を求めて戦ったのだ。

このゾラの宣言文的な小説は、深刻な人口減少という状況下で書かれたものだった。第一次大戦が甚大な被害をもたらす以前でも、一八九〇年から一九二四年の間には、死亡数が出生数を上回っていた。移民だけが、人口増加の要因だった。識者の目に危機的と見えたのは、これが欧州の中でフランスに限られた現象だったためだ。世界中で、フランス人だけが子供を作らなくなったのである。先祖代々の敵は、ライン河の向こう岸で、毎年人口を五〇万人増やしていた。

いまでは、私たちはこの出生数の減少が「フランス的例外」によるものではなかったことを知っている。欧州の中でも外でも、すべての国で出生数の減少はやがて起きたからだ。ただし、フランスの場合はそれが最も早く訪れたのである。どの国よりも先に、フランスは人口学者の言う「人口転換」を経験した。それは、多死多産の古い形態から、死亡率の減少に伴う出生率の減少という新たな形態への転換だった。他の国では、死亡率が減少してもすぐには「妊娠ストライキ」、すなわち出生率の減少にはつながらなかった。その結果、ドイツでは人口が増えていたのである。しかし、フランスでは死亡率が低下するのと並行して出生数も低下した。ときとして、死亡数以上に出生数が減少することもあった。これが、人口減の原因だった。

なぜこうした不幸な事態に立ちいたったのか、人々は理解しようとし、皆競って誇張された理由を挙げた。「フランスの人種としての脆弱化」だと言う人もいた。戦争によって、最も健康で頑健な者が死んだためだというのだ。「洗練されすぎた」文化に原因がある、とする人もいた。そのためにフランス人の神経系統に狂いが生じ、子供が作れなくなったのだという。人口減少が確認されると、「フランス人種」の退化という恐ろしい説明がなされた。ヴァシエード・ラプージュのような大胆な思想家は、これらすべての始まりは、ゴビノーがかつて糾弾した人種の混合だと見た。これに対して、アルセーヌ・デュモンは、「ブルドッグとグレーハウンドとプードルとニューファウンドランド犬の雑種」はきわめて多産だと反論した。女性を休耕地のようにするのは、新マルサス主義者の「犯罪的プロパガンダ」によるものだと主張する者もあった。最後にたどり着いた結論は、はっきりしたものだった。フランス人の作る子供の数が減っている、あるいは場合によっては子供を全然作らないのは、子供を作りたくないか、子供の数を減らしたいからだ、というのである。これによって説明の最初の部分は片付いたか、問題はわき道にそれてしまった。それでも、なぜ個々人の望むことか、他の国の人たちの多産主義とこれほど対照的なのか、という疑問は残っていた。
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一八四八年の二月と三月の革命

『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』より マルクス

われわれは各方面から、現在の階級闘争と民族闘争の物質的基盤をなしている経済的諸関係について論じていないと非難されてきた。われわれはこれまであえて、この諸関係が政治的衝突の中で直接われわれに押しつけられる場合にのみそれらに言及してきた。

何よりも必要だったのは、日々の歴史のうちに階級闘争を跡づけることであり、眼前で日々新たに形成されている歴史的素材によって以下のことを経験的に証明することであった。[一八四八年の]二月と三月[の革命]を遂行した労働者階級が屈服させられ、それととともに、この階級の対立者たち--フランスのブルジョア共和派、ヨーロッパ大陸全土で封建的絶対主義と闘っていた市民階級[小ブルジョア]と農民階級--も制圧されてしまったことであり、フランスにおける「清廉な共和制」[ブルジョア共和制]の勝利が同時にまた、二月革命に呼応して英雄的な独立戦争に立ち上がった諸民族の敗北でもあったことであり、最後に、革命的労働者の制圧とともに。ヨーロッパがその旧来の二重の奴隷制--すなわちイギリスとロシアの奴隷制--に舞い戻ったこと、である。パリの六月闘争、ウィーンの陥落、一一月のベルリンの悲喜劇、ポーランド、イタリア、ハンガリーの絶望的努力、飢饉によるアイルランドの屈服、これらは、ヨーロッパにおけるブルジョアジーと労働者階級との階級闘争を総括する主要な契機であり、われわれはこのことから次のことを明らかにした。どの革命的蜂起も、たとえその目的がいかに階級闘争から遠いように見えても、革命的労働者階級が勝利するまでは失敗せざるをえないこと、プロレタリア革命と封建的反革命とが世界戦争の中で武器をもって勝敗を決するまでは、いかなる社会改良もユートピアにとどまるということである。ペルギーとスイスとは、われわれの叙述においても現実においても、偉大な歴史の絵画における悲喜劇的な戯画の部類に属する。一方はブルジョア君主制の模範国であり、他方はブルジョア共和制の模範国だが、どちらも階級闘争からもヨーロッパ革命からも無関係でいられると思い込んでいるのである。

しかし、一八四八年の階級闘争が巨大な政治的形態にまで発展するのを読者諸君が目の当たりにした今となっては、労働者の隷属状態のみならずブルジョアジーとその階級支配の存在が拠って立つ経済的諸関係それ自体を、より詳細に検討するべき時であろう。

三つの大きな部門に分けて問題を論じよう。一、賃労働と資本との関係、労働者の隷属状態、資本家の支配。二、現在のシステムのもとでは中間的市民階級と農民層の没落が不可避であること。三、さまざまなヨーロッパ諸国民のブルジョア諸階級が世界市場の専制君主であるイギリスに商業的に従属し搾取されていること。

われわれはこのことをできるだけ単純でわかりやすく叙述するように心がけ、経済学の最も初歩的な概念さえ前提しないようにしよう。われわれは労働者に理解してもらいたいからである。かてて加えて、ドイツでは、現状の公認の弁護論者たちから社会主義的魔術師や世間に認められない政治的天才に至るまで--こうした人材にかけては、細分化したドイツでは小君主の数よりもずっと豊富である--、最も単純な経済関係に関しても最も驚くべき無知と概念の混乱とがあふれかえっているからである。

それでは最初の問題から検討することにしよう。賃金とは何か? それはどのように規定されているのか?

労働者に「君の賃金はいくらか?」と尋ねるなら、ある者は「俺は自分のブルジョアから一労働日あたり一フランもらっている」と答え、また別の者は「私は二フランもらっている」等々と答える。労働者が属している種々の労働部門に応じて、一定の労働時間ないし一定の仕事--たとえば一エレの布を織るとか、一ボーゲンの植字をするとか--に対する報酬として各々のブルジョアから得ている種々の金額を口にするだろう。だが、彼らの言うところがいかに多様であっても、労働者は次の一点には同意するだろう。賃金とは、ブルジョアが一定の労働時間ないし一定量の労働提供に対して支払う貨幣額だ、ということである。

したがって、ブルジョアは貨幣でもって労働者の労働を買う。労働者は貨幣と引き換えに自分の労働を売る。ブルジョアが労働者の労働を買ったのと同じ貨幣額、たとえば二フランでもって、二ポンドの砂糖や一定額の何か他の商品を買うこともできたろう。彼がニポンドの砂糖を買うのに用いたニフランは、この二ポンドの砂糖の価許である。彼が一二時間分の労働を買った二フランは、一二時間労働の価格である。したがって労働は一個の商品であり、砂糖がそうであるのと何ら変わらない。ただ前者は時計で測られ、後者は秤で測られるだけである。
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