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公共から知の世界


市民と地域の融合

 4.7と4.8は革命じゃないか。ヨコの関係とタテの関係が揺さぶられていく。資本主義と民主主義の安定した動きを崩していく。下克上のような簡単な関係でなく、それぞれの関係が揺さぶられて、連鎖的につながって変わっていく。コレは誰も見えていない状況です。

 最初に起こるのは市民と地域の融合。家族ではなく、市民の単位で覚醒していく。グローバル化に応えて、企業がモノつくりからサービスに変わっていく。

宇宙レベルの革命

 国家は移民などを含めて、意味を持たなくなっていく。その代わりに超国家が出てくる.その超国家はあくまでも調整役に過ぎない。その上で、市民と国家、地域と超国家というつながりが出来、最終的に市民と超国家がつながっていく。それぞれが目的が異なり、自由で平等な世界を作り出して、統合していく。

 コレは宇宙レベルでの革命です。マーケティングなどはその中にすべて吸収されてしまう。

第5章仕事編の答

 仕事編は3つのことを教えてくれた.まずはインフラの強さ、データベースの作り方。二番目は技術者の発想。ハイアラキーではなく、それぞれが目的を持つ世界。三つ目はサファイアの世界。今のハイアラキーの世界での中間の役割。それぞれがヒントになって、新しい世界を考えろということなんでしょう。それを教えるために、この会社は作られた。

 もう一つは循環ですね。それでタテの関係、ヨコの関係の動きをつなげていくための統合のための循環。そして、未来に向けて、情報共有が起こっている。それで市民がつながっていく。それは配置の世界。作る世界から使う世界。

 そこにおける中間の機能としてのパートナー。これは思い入れがかなりを締めている。そこからの答えとして、地域のインフラがどうなっていくのか、そして企業はどういう役割を果たすのか。これが第5章での答えになります。

第6章「知の世界」

 第6章は「本と図書館」という題名であったが、その目的に合わせて、「知の世界」にしてきた。家族とか教育を含めて、原動力を買えていくためのヒントを行なっていく。コンテンツとしての本、それを皆に提供する図書館という媒体。その二つが絡み合う。

本をバラバラに

 個々に生まれてきた人間がつながっていくために本は生まれてきた。本は一つの塊でなくて,バラバラで伝播されて、それぞれの人間で増殖されていく。それがまた、一つのカタチになっていく。というイメージで作り出してきた。そのアナロジーは多くの世界にある。音楽でも皆、バラバラにされて、それで影響力を持ってつながっていく。

 全てを受入れるのではなく、その中から選んで,自分の世界を作り出していく。今は宗教がその傾向にある。そして、コンテンツをいかに結びつけるかというところで、図書館。公共という概念を体現している。

公共から知の世界

 その考え方そのものが未来を創り出していく。所有するのではなく、あくまでも公共として、その中に放り込んでいく。これで知の世界、その入口としての公共図書館。それを共有するための空間。それは未唯空間であり、ザナドゥ空間でもある。先の世界としての知の未来。

 これは数学的世界ともつながる。というよりも、数学的世界そのものです。

第7章は私の世界

 第7章はかなり、特殊です。第1章と合わせて、あくまでも私の世界、内なる世界を表わします。生きていくことから何を探し出すのか。外の世界と交流せずに生きていく。その元は,この世界に放り込まれた存在として、考えているから。意味を全て尋ねること。

第7章の答は全てを知ること

 そこで4つの側面を作り出した。考えること、存在すること、生活すること、そして生きること。その4つから、毎日を送っていく。先への思いは女性と知の世界。目的は放り込まれた,この世界の全てを知ること。存在と無から存在の無を導き出すこと。内なる世界の答えです。あまりにもディスクリートなこの世界。

 そして、この時代。なぜ、この時代なのか。役割はあるのか。そのために準備されたものは膨大です。

他者の世界の変革

 第8章、第9章はいかに外なる世界の変革を見ていくのかというところです。第8章は小さな変革で、第9章は大きな変革です。第8章と第9章の違いは何なのか。第8章は色々なところで起こっているイベント、第9章はそれらを大きく捉えたときの動き。つまりヘッドの部分の下の部分と上の部分を表わしている。

 それは販売店のような中間の存在の役割をヘッドと捉えます。クルマというコンテンツをターゲットにしたモノが第8章です。ヘッドの上下で、それぞれの出来事と、インフラのことを分けて考えます。全体が一つのことで起こるのではなく、それぞれが小さな揺れを起こして、その揺れが大きくなっていく、また、大きな揺れにシンクロしていく。だから、配置なんです。

 だから、それぞれが主人公。それぞれが無限次元の中の三次元を所有している世界です。

食パンと味噌煮込みとひめたん

 月曜日にえぷろんで 食パン 128円 味噌煮込みうどん 298 円を購入した。5日分の朝飯昼飯を充足。いいでしょう

 それとひめたんの ラストナンバー あれば 十分でしょう
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OCR化した10冊

140.18ナカ 『自信過剰な私たち』 2017/10/28 2:52 午後

 なぜ哲学が必要か?

  人間は理性をもつ動物である

  カギとなる「実践理性」

 「生きる」とはどのようなことか?

  自分が欲しいものはなんだ?

  今の価値観の「外」に「生きる意味」を探してみる

980.2デイ 『トルストイ 新しい肖像』 2017/10/28 4:15 午後

 トルストイはなぜ家出をしたのか

335.22ナカ 『現代アジアの企業経営』 2017/10/28 5:18 午後

 中国:新たな重層構造を読み解く

  中国のビジネスモデル:「新たな重層構造」とは何か

   中国企業のイメージ

   重層構造としてのビジネスモデル

   中国の国情に関わる三つの時代区分

   複眼思考による立体映像

   本章におけるビジネスモデルの提起

  「中国のビジネスモデル」を組み立てる構成要素

   所有制形態への視点

   企業のガバナンス改革

  急速な社会変化に対応しうるビジネスモデルを探る

   変わる社会環境、変わらない中国的バランス感覚

   「関係」と「面子」:その背景をどう理解するか

   現在進行形の中国式ビジネスモデル・イノベーション

323.01クラ 『右も左も誤解だらけの立憲主義』 2017/10/28 6:07 午後

 ドイツの憲法

  ビスマルクがようやくドイツをまとめた

  なぜヴァイマール憲法からナチスが誕生したのか

  憲法観の合意が日本の課題

518.8ニシ 『まちを読み解く』 2017/10/28 8:47 午後

 豊田市足助 歴史的環境が切り拓く交流型まちづくりの可能性

  足助の地域性と空間構造

   地形と街道が形づくる空間軸

   「縦軸」が補完する生活空間

  足助の歩みを映し出すまち並み

   まちの機能と生業の変化

   まち並みの表情をとらえる

  まち並みと交流型観光

   通年型観光を目指す取り組み

   地域資源としての生活空間

   「うちめぐり」を通じた交流型まちづくりの検証

   交流を手がかりとした町場の再生

165ハシ 『世界は四大文明でできている』 2017/10/28 8:47 午後

 聖典

 預言者

 イスラム法学

 家族の価値

332.4ナカ 『有資源国の経済学』 2017/10/28 10:18 午後

 資源の有効活用を妨げている要因とは何か

  理論的考察

   資源の呪い

   レント・シーキング

  経験的考察

   ここからは各国の具体例を見ていくが、そのとき参考になるのが前述の理論的考察である。つまり、理論的考察の結果として、失敗の要因をいっくかの類型に分類することが可能であるが、各国の例をこの類型に当てはめていくと、失敗の本質がより鮮明に浮き彫りになるのである。

   人口

   レントの奪い合いと紛争の発生

   ガバナンスの欠如がもたらす弊害

   経済政策の失敗

326シマ 『たのしい刑法Ⅱ各論』 2017/10/29 1:11 午後

 自由に対する罪

  総説

  脅迫・強要罪

   脅迫罪

   強要罪

  逮捕・監禁罪

   逮捕・監禁罪とは

   逮捕・監禁の概念

   致死傷罪

  略取・誘拐罪

   略取・誘拐罪とは

   未成年者略取・誘拐罪

   営利目的等略取・誘拐罪

   身代金目的略取・誘拐罪および身代金要求罪

   人身売買罪

   解放減軽・親告罪

  強制性交・強制わいせつ罪

   性的自由に対する罪とは

   強制わいせつ罪・強制性交等罪

   準強制わいせつ罪・準強制性交等罪

   監護者わいせつ罪・監護者性交等罪

   致死傷罪

  住居侵入罪

   住居侵入罪とは

   保護法益

   客体

   侵入

227.4ロガ 『オスマン帝国の崩壊』 2017/10/29 3:35 午後

 アルメニア人の虐殺
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オスマン帝国の崩壊 アルメニア人の虐殺

『オスマン帝国の崩壊』より

アルメニア人にとって、四月二十四日のイスタンブルにおける政治的そして文化的指導者の逮捕は、アナトリアのアルメニア人コミュニティの組織的破壊の始まりだった。この日は「アルメニア人虐殺記念日」として国際的に認知されている。だが、オスマン人にとってのアルメニア人との戦いは四日前に、アナトリア東部の町ヴァンでのアルメニア人蜂起で始まっていた。

ヴァンは大きな市場町で、アルメニア人地区とムスジム地区に分かれていた。ヴァン湖の畔にあるこの町は、四つの門がある城壁に囲まれ、平原から二〇〇メートルの高さに突き出た大きな岩を背に建てられた古い町である。スレイマン大帝時代に建設されたこの城砦都市は、湖面に突き出た岬のてっぺんにあり、町を見下ろすかたちになっている。二階建ての建物が並ぶ細く曲がりくねった街路は、マーケット、モスク、教会に通じている。町の南東部には、警察署や憲兵隊などの政府系の建物もたくさんあった。

十九世紀に、ヴァンは旧市街地の城壁を越え、東の肥沃な土地へと広がった。「田園地区」には果樹園と高い日干し煉瓦の塀に囲まれた家々があった。多くの外国領事館--英国、フランス、イタリア、ロシア--のほかに、カトリック、プロテスタントの宣教師館も「田園地区」に立ち並んでいた。地方の町としては、かなりのコスモポリタン都市であり、あるフランス人口統計学者の推定によれば、一八九〇年代の人口は三万人にすぎず、ムスジムは一万六〇〇〇人、アルメニア人は一万三五〇〇人、ュダヤ人は五〇〇人であった。町の人たちはこの都市に強い誇りを持っており、この町生まれの作家グルゲン・マハリは古典的著作『燃える園』の中で、ヴァンを「おとぎ話に出てくる不思議な緑の毛の魔法使いの女」と呼んでいる。

ヴァンと、その周辺のアルメニア人コミュニティは大きく、政治的にも活発だった。ペルシアとロシアとの二つの国境に近い戦略的に重要な位置を考えれば、ヴァンはいずれオスマン帝国国家とそのアルメニア人市民の間の発火点になることは避けがたかった。

ヴァン州の総督を務めるジェヴデト・パシャは生え抜きの「統一派」で、エンヴェル・パシャの義兄弟であった。一九一五年三月、ジェヴデトは憲兵隊に命じ、隠された武器を探すため、アルメニア人村を捜査し、オスマン帝国に対抗するための武器所有容疑者を逮捕させた。こうした捜査が、ヴァン周辺の村々でのアルメニア人に対する集団虐殺につながった。アルメニア人コミュニティの指導者層を排除するために、ジェヴデトはヴァンのアルメニア人民族主義政党「ダシュナク」の三人の指導者の殺害を命じたといわれている。アルメニア人指導者の二人、別名イシュハーン(アルメニア語で「プリンス」の意)として知られるニコガヨス・ミカエジヤンとオスマン帝国議会議員のアルシャク・ウラミヤンは殺害された。三番目のリーダー、アラム・マヌキヤンはジェヴデトを信用していなかったので、総督の執務室に来るようにとの招待に応じなかった。彼は二人の同志の失踪と殺害を知り、ヴァンのアルメニア人たちの差し迫った殺戮に備えて、これに抵抗する地下組織づくりに努めた。

ヴェネズエラ出身の兵士ラファエル・デーノガレスは、信念からでなく、冒険心からオスマン軍に加わった。エンヴェル・パシャはイスタンブルでノガレスに会い、サルカムシュの敗戦の直後、兵士が減った第三軍に参加しないかと誘った。三月、このヴェネズエラ人はエルズルムの第三軍司令部に到着した。ここでは、士官たちはロシア軍と戦うよりも、チフスとの戦いに関心があった。デ・ノガレスは、実戦を見たくて、ロシア前線で唯一積極的に戦闘活動をしているヴァンの憲兵隊に志願した。彼はエルズルムからヴァンに行く途中、オスマン帝国とアルメニア人の対立がいちばん激しい地域を通った。彼がヴァンに到着したのはアルメニア人がオスマン帝国支配に対して蜂起した日だった。

四月二十日、デ・ノガレスと護衛官はヴァン湖の北西部に延びる道で、「アルメニア人のばらばら死体」が散らばっているのに遭遇した。湖の南岸の村からはいく筋もの煙が立ち上っているのが見えた。「それでわかった」と、彼はのちにこのような出来事をずっと前から予想していたかのように書いている。「賽は投げられた。アルメニア『革命』は始まっていた」

翌朝、デ・ノガレスはヴァン湖の北岸にあるアディルジェヴァズ村のアルメニア人地区で残忍な殺戮が行なわれているのを目撃した。オスマン帝国の役人たちは、クルド人と地元の野次馬の手を借りて家屋や商店を徹底的に捜索して所持品を奪い、アルメニア人男性すべてを殺害したという。オスマン軍将校の制服を着ていたデ・ノガレスは一人の将校に近寄り、殺戮をやめるように要求したとき、その男は「十二歳以上のアルメニア人男性すべてを殺せ……というはっきりした総督[すなわちジェヴデト・パシャ]の命令に従っているだけだ」と答えたので仰天した。デ・ノガレスは総督の命令を覆す権限はないので、この殺戮から身を引いたが、殺戮はさらに九〇分も続いた。

デ・ノガレスは、アディルジェヴァズからモーターボートでヴァン湖を横断し、日が暮れてからヴァンの郊外のエドレミット村に着いた。「燃える村は空を赤く染め」、岸辺を照らしていた。エドレミットはまさに戦場で、家や教会が炎に包まれ、人体の焼け焦げるにおいが立ち込めて、銃声の響きが、破壊音と混じり合っていた。彼はエドレミット村で夜を過ごし、クルド人とトルコ人非正規兵と、どう見ても劣勢のアルメニア人との間の銃撃戦を目撃した。

正午に、デ・ノガレスは護衛官に守られてエドレミットからヴァンに向かって出発した。彼の回想によれば、「道の左右で、ハゲワシの群れが鳴きながら舞っており、あらゆるところに投げ捨てられたアルメニア人の遺体を貪る野犬の群れと争っていた」という。ヴァンに入ったときには、蜂起は二日目で、旧市街はアルメニア人反徒が掌中にしていた。旧市街を見下ろす城塞はまだオスマン軍の支配下に残されており、この高所からトルコ軍は日夜を通して、アルメニア人陣地を砲撃した。砲兵将校であるノガレスにこの仕事が与えられた。彼は城塞のモスクに司令部を設け、砲撃の正確さを観察するため高いミナレットに登った。

二一日間にわたり、デ・ノガレスはヴァンのアルメニア人に対するオスマン軍作戦に従事した。「ヴァンの包囲期間中に、このようなすさまじい戦いを見ることはめったになかった」と彼は回想している。「誰も自分の持ち場を譲ろうとはしないし、それを取ろうと思う者もいなかった」。戦いが進むにつれて、彼はアルメニア人もオスマン人も同じように残虐な行為をしているのを見た。彼のヴァンの包囲戦の回想録は、両者に対する同情と反発の間を揺れ動いている。

ロシア軍はヴァンのアルメニア人防衛隊を助けるため、ペルシアとの国境方面からゆっくり進撃してきて、オスマン軍を撃退しつつあった。ロシア軍にとって、アルメニア人の蜂起は、戦略的に重要なオスマン帝国領土を占領しやすくした。ロシア軍が接近してきたので、ジェヴデト・パシャは五月十二日、仕方なくヴァンにいるムスリムに避難命令を出した。最後のオスマン兵が城砦から撤退したのは五月十七日である。旧市街と「田園地区」のアルメニア人はようやく合流できた。五月十九日にロシア兵が進駐してくる前に、彼らは一緒にムスジム居住区とすべての政府関係の建物を焼き払った。

ロシア軍は「ダシュナク」のリーダー、アラムーマヌキヤンをヴァン州の総督に任命した。マヌキヤンはこの町に民兵や警察を含むアルメニア行政府を設立した。これらの出来事は、アルメニア人歴史家の言葉を借りれば、「アルメニア人の政治意識を刺激し、ロシアの保護の下に解放され、自立したアルメニアを求める人たちの自信を強めた」。どちらもオスマン帝国がもっとも恐れていたものだった。

トルコ軍のほうは、ヴァンをやすやすと手放すつもりはなかったので、ロシア軍とアルメニア軍の陣営を執拗に攻撃した。戦線を広げ過ぎていたロシア軍は撤退を余儀なくされた。七月三十一日、アルメニア人は所持品を持って家を出るように勧告された。約一〇万人のアルメニア人がロシア軍とともに撤退した。これは「大退却」と呼ばれている。ロシア軍がヴァンの町を完全に占領するまでに、トルコ軍との三度の激しい攻防戦があり、一九一五年秋、ようやくロシア軍統治下になったときには、建物の大半は残っておらず、アナトジア東部で生き残ったアルメニア人はほとんどいなかった。

ヴァン地区を統治する権利の見返りに、ロシア軍にヴァンの占領をしやすくさせたことによって、アルメニア人はスパイであり、オスマン帝国の領土保全の脅威であるという「青年トルコ人」の疑念はいっそう強まった。さらに、彼らの蜂起の時期が、連合国軍のガリポリ半島上陸作戦に非常に近かったことから、アルメニア人は協商国と連携して蜂起したと「青年トルコ人」は確信するようになった。ジェマル・パシャの回想によれば、「ダーダネルス戦が危機的にあるまさにそのときに、英・仏の東地中海部隊総司令官がアルメニア人に蜂起せよと命じたことは、反駁の余地のない事実である」という。ジェマルの主張を支持する証拠は残っていないが、「統一派」はアルメニア人が連合国と連携していると信じ込んだ。ヴァンの陥落以後、オスマン帝国政府はアナトリア東部の六州だけではなく、アナトリア全土からアルメニア人の存在を除去する措置をとり始めた。

アルメニア人の強制移住は、政府命令によって大っぴらに行なわれた。「青年トルコ人」政権は、一九一五年三月一日にオスマン帝国議会を休会にしてしまっていたので、内相タラートーパシャは議会での討議なしに自由に法を制定することができた。一九一五年五月二十六日、ロシア軍のヴァン侵攻の一週間前、タラートはオスマン閣僚会議に一つの法案を提出した。政府はタラートの「強制移住法」を速やかに承認し、アナトジア東部六州のアルメニア人をロシア戦線から離れた秘密の場所への全面的移住を許可した。

五月末、内務省は州および地区総督宛に、すべてのアルメニア人を直ちに追放せよと呼びかけるタラートの署名入りの命令書を送った。強制移住の告知は、戦時中の一時的疎開という理由で、わずか三日から五日間、アルメニア人居住区の大通りに告知されただけで実行に移された。アルメニア人は携行できない所持品は政府の金庫に預けるように指示された。

このような強制移住の公示と並行して、「青年トルコ人」は残ったアルメニア人被追放者の集団殺戮の秘密命令も発令していた。絶滅命令は文書ではなく、「統一と進歩委員会」中央委員会メンバーのバ(エッディン・シャキル博士、もしくはほかの役人により口頭で州総督に伝えられた。非武装の市民を殺害することに反対したり、文書による命令書を要求したりした総督は、免職もしくは暗殺されたりするケースもあった。あるディヤルバクル州の総督が、自分の州のアルメニア人を殺戮する前に文書による告知を要求したとき、彼は解雇され、ディヤルバクルに出頭を命じられ、その途中で殺害された。

もっと迎合的な総督たちは、当然の仕事として、被追放者を殺害するために武装ギャングを集めた。彼らはエンヴェルの特務機関の助けを借りて、刑務所を出所した暴力犯、アルメニア人と長い間、対抗してきたクルド人ギャング、最近、バルカンやロシア領コーカサスから来たムスリム移民などを殺戮に利用した。普通の平均的トルコ村民たちでさえ、アルメニア人被追放者の殺戮に協力した。彼らのある者たちは、被追放者が亡命先で暮らしをつなぐため、大事に所持してきた衣服、現金、宝石などを奪った。アルメニア人を殺すことは、協商国に対するオスマン人のジハードであると政府役人に説得されて、こうした行為に加担した人たちもいた。アルメニア人司祭グリゴリス・バラキヤンがあるトルコ軍大尉との会話を記録している。彼によると、「政府役人は周囲のトルコ人村のすべてに憲兵隊を送り込み、アルメニア人を殺戮することはジハードであるとして、ムスリム民衆を扇動した」という。

強制移住命令と秘密絶滅命令の「二本立ての措置」の証拠は、戦後の政府役人の証言により明るみに出された。一九一八年、オスマン帝国閣僚会議のあるメンバーがこう証言した。「私はいくつかの秘密を知り、興味深いことに遭遇した。強制移住命令はタラート内相の公式チャンネルを通して地方の州に送られた。この命令の後で、『統一と進歩委員会』の中央委員会は、邪悪な仕事の遂行をギャングにやらせる縁起の悪い命令を関係部署に回覧した。これによって、ギャングは野に放たれ、いつでも残忍な殺戮に取りかかれる態勢になった」

殺戮はアナトリア全土で、決まった手順で行なわれた。強制移住の公示後、アルメニア人は、決められた日に、銃剣を持った憲兵隊に家から追い出された。十二歳以上の男子は家族と引き離されて殺された。小さな村では婦女子の目の前や、叫び声が聞こえるところで殺された。大きな町からの男子は、とくに外国人の目撃を避けるために、人目に付かない遠方に連れて行って殺された。男子と別にされた後で、婦女子は武装兵によって町から連れ出された。生存者の話によると、このような隊列のいくつかは、盗賊に襲われたり、殺戮されたりした。また、町から町へと連れ回され、途中、病人、弱い者、老人たちは殺されるか、置き去りにされた。最終目的地はシリアやイラクの茫漠とした砂漠を越える危険な旅をしてたどり着くダイルーアッザウル(トルコ語ではデリプール)や、モスルなどの収容所であった。
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自由に対する罪 略取・誘拐罪

『たのしい刑法Ⅱ各論』より 自由に対する罪 脅迫・強要罪 逮捕・監禁罪 略取・誘拐罪 強制性交・強制わいせつ罪 住居侵入罪

(1)略取・誘拐罪とは

 略取・誘拐罪(224条以下)は人身の自由に対する罪である。保護法益は、逮捕・監禁罪が保護する移動の自由と重なるところもあるが、それよりも広く、人が現に保護されている状態それ自体も含む。行為態様として、暴行・脅迫等により被害者の意思を制圧する場合が「略取」、偽計や誘惑等による場合が「誘拐」といわれる。本罪を規定している刑法第33章「略取、誘拐及び人身売買の罪」は、人身売買罪を設けた2005年の刑法改正によって大幅に変更されたほか、2017年の刑法改正では親告罪規定が変更された。これらの罪(224条から228条まで)についても、逮捕・監禁罪と同じく、国民の国外犯および国民に対する国外犯が処罰される(3条11号、3条の2第5号)。

 (a)類型

  略取・誘拐は一般的に処罰されているわけではない。処罰の類型としては、未成年者略取・誘拐罪(224条)、営利目的等略取・誘拐罪(225条)、身代金目的略取・誘拐罪(225条の2)、所在国外移送目的略取・誘拐罪(226条)がある。さらに、人身売買罪(226条の2)、被略取者等所在国外移送罪(226条の3)、被略取者引渡し等の罪(227条)も処罰される。人身売買罪は、アジア諸国などから連れて来られた女性が風俗産業などで多数不法就労させられていたにもかかわらず、取締りが十分でなかったことから、国際的な批判もあって、国際条約への対応として設けられたものである。同じ機会に、従来の国外移送目的略取・誘拐罪は「所在国外」移送目的略取・誘拐罪に改められた。

 (b)犯罪の終了時期

  略取・誘拐罪は、逮捕・監禁罪の前に行われる場合が多い。逮捕・監禁罪は継続犯だとされるが、本罪が状態犯なのか継続犯なのかについて争いがある。判例は必ずしも明確ではないが、両者の罪が併合罪になるとした例があり、状態犯説に立っているようである。この立場からは、事後的に関与した者には略取・誘拐罪の共犯は成立せず、被略取者引渡し等の罪(227条)のみが成立すること、また、公訴時効の起算点は略取・誘拐が行われた時点となることが導かれる。

(2)未成年者略取・誘拐罪

 未成年者を略取し、または誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処される。未成年者とは20歳未満の者をいうが、民法753条により婚姻によって成年に達したものとみなされる場合を除く見解もある。

 (a)保護法益

  未成年者には20歳に近い者も含まれることから、未成年者が自分の意思で移動している場合に、保護者の「監護権」に対する侵害を根拠として犯罪の成立を認めることができるかどうかが問題となる。民法820条は、親権の内容として、監護・教育権を定めており、判例は伝統的に、監護権を中心として本罪の保護法益を理解してきた。たとえば、17歳の少女を連れ出した事案で、「監督権を侵害」しかことにより犯罪が成立するとしている。また、監護権者は親告罪における告訴権者であることが認められている。

  これに対し、近年の学説では、監護権とともに、あるいは監護権に代えて、未成年者の自由もしくは安全またはその両方が保護法益だとする立場が有力になっている。監護権が独立の保護法益でないとすれば、成年に近い者が自己の意思で移動した場合には犯罪の成立を否定することができる。しかし、子どもが欲しいとの動機で赤の他人が乳児を奪取したような場合には、生命・身体に対する危険がなくとも犯罪の成立が認められるべきであるから、保護法益を未成年者の「安全」のみに限定することはできない。保護されている状態としての「自由」を保護法益として考えるべきであろう(なお、未成年者自身のみが被害者であるとしても、法定代理人は告訴権を有する)。

 (b)親権者による子の奪取

  保護法益にも関連して近年問題化しているのが、親等の親族による子の連れ去りである。最高裁は、母親に養育され入院中であった2歳の女児を、別居していた父親がオランダに出国させる目的で奪取した事案において、国外移送(現在は所在国外移送)目的略取罪の成立を認めた。また、母親に養育されていた2歳の男児を、保育園からの帰宅中に、離婚係争中で別居中の父親が連れ去った事案でも、未成年者略取罪が成立するとされている。後者の決定には、情愛に基づく行為は子の安全を害さないし、両親は親権者として対等な立場にあるとする反対意見も付されている。子の養育権は最終的には家庭裁判所によって判断される問題であり、決着前に親権者の一方から他方へと子を移動させる行為を刑法上どのように評価すべきかは、民事と刑事との関係をどのように調整するかの問題を含んでいる

(3)営利目的等略取・誘拐罪

 営利、わいせつ、結婚または生命もしくは身体に対する加害の目的での略取・誘拐は、1年以上10年以下の懲役で処罰される(225条)。未成年者が客体である場合も、より重い本罪が適用される。2005年の刑法改正で、目的要件の中に「生命若しくは身体に対する加害」が加えられた。

 本罪の目的が違法要素か責任要素かについては、特に「営利目的」をめぐって争いがある。違法要素だと理解した場合には、被害者を搾取してさらなる法益侵害を加える危険性を基礎づけるような目的に限定されることになるが、責任要素だとした場合には、利益を得る動機を広く一般に含ませうることになる。判例は、利益が「被誘拐者自身の負担によって得られるものに限ら」ないとし、後者の立場をとっている。しかし、「わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害」は被害者自身の負担であることが明らかであるから、「営利」目的も同様に違法要素として限定的に理解することが可能だろう。これにあたらない行為については、人身売買罪で処罰しうる範囲が拡大したことにも留意すべきである。

(4)身代金目的略取・誘拐罪および身代金要求罪

 本罪は、この種の事件が多発したことから、1964年に設けられた。本罪の成立には、「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じて」その財物を①交付させる目的で略取・誘拐をすること、②交付させること、または③要求することが必要である。法定刑は無期または3年以上の懲役である(225条の2)。交付の対象が「財物」に限定されていることに注意を要する。

 (a)安否を憂慮する者

  どこまでの人が「近親者その他」「安否を憂慮する者」にあたるかは争われている。婚約者などが該当するとすることには問題がないと考えられるが、他方、およそ誰かが誘拐されていれば、誰でも安否を気づかうのではないかともいえる。最高裁は、銀行の社長を誘拐し、取締役に身代金を要求した場合でも「安否を憂慮する者」の要件にあてはまるとしているが、「近親者その他」と同等の関係が必要ではないかとの批判もある。

 (b)予備と自首減免

  身代金目的略取・誘拐罪は未遂も可罰的である(228条)。228条の3では、身代金目的略取等予備罪と、自首による刑の必要的減免とが規定されている。中止犯と異なり、実行の着手前に関するものである。

(5)人身売買罪

 2005年に創設され、行為類型によって刑の程度に差が設けられている。人を買い受けた者は、3月以上5年以下の懲役に処する(226条の2第1項)。未成年者が客体の場合、上限が7年に加重される(2項)。営利、わいせつ、結婚または生命もしくは身体に対する加害の目的の場合は刑が1年以上10年以下の懲役である(3項)。人を売り渡した者も3項と同じ法定刑で処罰される(4項)。所在国外移送目的売買罪は2年以上の有期懲役で処罰される(5項)。本罪の創設とともに他の条文も改正され、「国外移送」が「所在国外移送」へと改められたことにより、外国から日本への移送も国外移送と同様に扱われることになった。また、目的要件の中に「生命若しくは身体に対する加害」が加えられたのは、臓器の取得を想定したものだといわれる。なお、児童買春・児童ポルノ処罰法に加重類型がある。

(6)解放減軽・親告罪

 身代金目的略取・誘拐罪等に関して、公訴が提起される前に被害者を安全な場所に解放したときは、刑の必要的減軽を受ける(228条の2)。中止犯に類似するが、既遂に達した後でも被害者の保護のために政策的に優遇することを定めたものである。立法事実として、被害者が殺害されるケースの多かったことが背景にある。

 本章の一部の罪は親告罪である(229条)。「未成年者の両親、後見人等に代り事実上の監護権を有する監督者は、告訴権を有する」とされる。監護権を保護法益としない立場からは、監護権者は被害者たる未成年者の法定代理人として告訴権をもつとされる場合が多いことになろう(刑訴230条・231条参照)。
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資源の有効活用を妨げている要因 経済政策の失敗 コーヒー豆の場合

『有資源国の経済学』より 資源の有効活用を妨げている要因とは何か 理論的考察 経験的考察

資源を有効活用できなかった理由としてレンティア国家におけるレント追求活動を集中的に取り上げてきたが、鉱産物資源国と農産物資源国では鉱産物資源国のレントの方が大きくなりがちなため、そこでの分析はどうしても鉱産物資源国が中心となる傾向が強かった。他方、農産物資源国においても資源を有効活用できなかった事例は多く存在するが、その失敗の多くはレントよりもむしろ経済政策の失敗によるところが大きい。そこで、以下では経済政策の失敗がもたらす資源活用の失敗例をコーヒー豆を例に取りながら説明していくこととした。

以下ではタンザにアを例にとりながら、コーヒー豆の生産について如何なる政策的失敗があったかを見ていくこととした。

独立後のタンザュアは大別してウジャマー社会主義時代と構造調整時代という2つの時代を経験した。「ウジャマー」とは家族的連帯感を指す言葉で、この「ウジャマー」を冠することでタンザュアの現地事情に根ざした社会主義社会の構築を目指したが、目標達成のために農業部門とりわけコーヒー産業で実施した政策が国家による流通部門の独占である。そこで、この国家による流通部門の独占がコーヒー産業に如何なる影響を及ぼしたかをまず考察することとする。

タンザェア産のコーヒー豆と言えば、日本では「キリマンジャロ」というブランド名で知られているが、この「キリマンジャロ」は日本では「ブルーマウンテン」、「モカ」と並ぶ三大高級ブランドの1つである。この「キリマンジャロ」の起源は1901年に遡ることができる。というのは、この年にフランスのカトリック伝道団がアフリカ最高峰キリマンジャロ山南麓にある伝道団が運営する複数の小学校でアラビカ種のコーヒーの木の栽培を始めたからである。当時のタンザュアはドイツの植民地時代であるが、ドイツは現地小農民にコーヒー生産を奨励した。第一次大戦の敗戦によってタンザニアはイギリスの植民地となるが、イギリスもドイツの政策を継承し、現地小農民にコーヒー生産を奨励した。そして、1942年以降、コーヒーの国際価格の上昇傾向の中で現地小農民によるコーヒー生産が自主的に急拡大していく。

第二次大戦後の1947年からイギリスは5年間の長期契約制度を導入するとともに、ニューヨーク市場における南米コロンビア産豆の現物価格を基準として1ポンド当たり125~150ポンドの範囲で変動させる価格設定方式を採用した。第二次大戦後、需要面では需要の回復と急増が影響し、また、供給面では世界最大の産地であるブラジルにおける霜害による生産減が影響し、コーヒー豆の国際価格が上昇したが、この国際価格上昇が1950年代にはタンザュアにおける現地小農民によるコーヒー木の植え付け面積の拡大を惹起し、それが1960年代前半の大増産に結びついた。ところが、ニエレレ政権がウジャマー社会主義政策を実施した結果、コーヒー豆の生産はむしろ低下してしまったが、その理由として指摘されるのが国家による流通独占の弊害である。

一般的に言えば、輸出用商品作物の価格は変動しやすく、第10章の図10-9が示す通り、コーヒー豆の価格もその例外ではない。ところが、コーヒー豆の場合、コーヒーの木から摘み取られた果実は生産国で加工されて生豆となり、その生豆が貿易業者によって消費国へ輸出され、消費国においては商社か問屋を経由して焙煎業者の手に渡って焙煎豆となり、その焙煎豆が最終的に消費者の手に渡るという具合に、流通経路がやたらと長いだけに、生産者に不利な価格が設定されやすい。というのは、価格は流通段階ごとに決まっていくが、その決め方は、生産者が流通業者に売り渡す段階で決まった価格に順次利益が上乗せされて、最終的に消費者への売り渡し価格が決まるというやり方ではなく、むしろ消費国における需給関係によって消費者への売り渡し価格が先に決まって、そこから順次仲介業者の利益が差し引かれながら、最終的に生産者の売り渡し価格が決まるというやり方をとるからである。ちなみに、コーヒー豆の場合、スイスのネスレなどの多国籍企業の4社が世界市場を支配していて、価格の97~99%が多国籍企業、流通業者、焙煎業者、小売業者の取り分になるから、生産国の農家の取り分は価格のわずか1~3%ということになる46.これは大いなる矛盾である。というのは、消費者がコーヒーに認める価値は香味によって決まるが、その香味は一般的に7割が生豆、2割が焙煎、1割が抽出によって引き出されるからである。つまり、生産国で7割の使用価値が付加されるにもかかわらず、生産国の取り分は前述の通り全体の1~3%にすぎないのである。

もちろん、生産国側もこうした状況に手を洪いていたばかりではなく、1963年末には生産国と輸入国との経済力の格差による不公平を是正し、価格や供給の安定を図る目的で1963年末にはIC0も設立したが、ICOをもってしても生産者の売り渡し価格を高値安定に導くことはできなかった。加えて、タンザェアの場合は国家による流通独占が生産者にとっては不利に作用した。というのは、価格の決定権をもたない生産国の当局が流通を独占しても生産者に有利な価格を設定することはできないからである。その結果、対外的には、当局は強い交渉力を発揮して高めの輸出価格を勝ち取る存在というよりはむしろ国外で決まった輸出価格を甘受するだけの存在となったし、国内的には、当局自身が組織の存続を維持するためにも、それなりのマージンを中間搾取する必要があったから、生産者からの買取価格もそのマージンを差し引いた分だけ低めに設定せざるを得ないから、生産者の利益もその分圧縮される。他方、当局には生産者が被った不利益を補助金などで補填するだけの財政余力もなかったから、農家の生産意欲は減退し、実際の生産量も徐々に低下していった。なお、こうした生産減は単にコーヒー豆にとどまらず、他の商品作物、食糧作物にも波及し、タンザニア経済は大きく落ち込んだので、ニエレレはその責任をとって、1985年に大統領を辞任した。

ニエレレ退陣後、タンザェアは180度方針転換して世界銀行やIMFの主張する構造調整政策の名の下に自由化政策に踏み切り、コーヒー産業においても国家による流通独占制度は廃止され、民間流通業者が村落レペルでのコーヒー豆買い付けに参入できるようになった。この結果として、生産者は生産物の半分を従来通り当局公認の組合に売り渡し、残り半分を民間業者に売り渡すようになったと言われているが、この民間業者参入という流通自由化後も、現実のコーヒー豆売り渡し価格は一向に改善しなかった。というのは、民閣買付業者はニューヨーク先物価格を基準に決定した上限価格から諸経費を差し引いた上に、今後の価格下落の可能性、流通過程における消耗、品質リスクといったいくっかの条件を加味して、低めの買取価格を設定するからである。これ以外にも自由化が生産者に不利に作用した面がある。その一例が自由化によって輸入に頼る肥料などの投入財価格が上昇したことであり、それが生産コスト増を惹起することによって農家経営はますます苦しくなってしまった。この結果を具体的数字で追跡すると、労働者1人当たり、労働日当たり・畑lha当たりで得られるコーヒー豆生産農家の実質所得は1985年には856シリングであったものが、1995年には554シリングに低下しているが、これは米やバナナという食糧作物を生産している農家の所得の方が高いことを意味している。これではコーヒー豆生産農家は子供の学費や家族の医療費なども満足に賄うことができないから、農家の生産意欲の減退になかなか歯止めがかからないというのが厳しい現実である。

結局、ウジャマー社会主義政策も構造調整政策もコーヒー生産農家にとってマイナスに作用する面が大きく、その結果として全輸出額に占めるコーヒー豆の割合は1976~1980年平均で30%余、1991~1995年平均で20%余、1996年で18.8%、1997年で16.4%という具合に大きく減少しているが、それでも依然として輸出品第1位の地位を守っているし、1991年時点で人口の7.1%を占める約178万人が直接的にコーヒー産業に従事している事実が示しているように、コーヒー産業はタンザニア経済に引き続き大きな貢献をしている。
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一神教の聖典と預言者

『世界は四大文明でできている』より

聖典

 一神教で重要なのは、神の言葉をまとめた聖典です。ユダヤ教の聖典は、タナハ。ヘブライ語で書いてあり、なかみは旧約聖書と一緒です。タナハは、一世紀に、ユダヤ教の学者たちが編纂しました。キリスト教はそれをそのまま、自分たちの聖書にして、旧約聖書とよんだのです。

 キリスト教の聖典は、聖書。旧約聖書と新約聖書からなる。新約聖書は、福音書/使徒言行録/書簡/黙示録、からなる。

 イスラム教の聖典は、クルアーン(コーラン)。ム(ンマドの受けた啓示をまとめたもの。クルアーンには、タナ(や福音書からの引用が多くあり、ユダヤ教、キリスト教の聖典を前提としています。

 ユダヤ教の聖典タナハは、ヘブライ語で書かれている。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の中央に安置されていて、毎週、ヘブライ語の本文を朗読する。そのため、ユダヤ人はある程度、ヘブライ語を解することになります。

 キリスト教の聖典は、聖書。聖書は、翻訳しても聖書である。東方のギリシャ正教会はギリシャ語を、西方のカトリック教会はラテン語を、教会で礼拝に用いた。今日では、英語/フランス語/ドイツ語/ロシア語/……と、聖書は各国の言語に翻訳されている。

 イスラム教の聖典は、クルアーン。クルアーンは、アラビア語で書かれている。これを翻訳すると、神の言葉でなくなる。礼拝で用いることはできない。翻訳は、人間の解釈なので、神の言葉でなくなってしまうから、です。

 クルアーンの翻訳ができないことは、どのような効果があるのか。

 イスラム教は、アラビア語圏をはみ出して、トルコ語、ペルシャ語、中央アジア、インド、東南アジア、北アフリカ、の地域に拡大した。そうした社会では、一部の人びとが、アラビア語の読み書きを学習し、クルアーンを理解するようになる。そして、アラビア語でクルアーンを解釈できるその地域社会の知識人が、指導者として、人びとを指導するようになるのです。王侯貴族や大商人や軍人も、彼らを無視して勝手なまねはできない。

 この、指導的な知識人が、イラスム法学者です。法学者が、高い社会的地位をうる。

 もうひとつの効果は、人類規模のイスラム共同体(ウンマ)の、コミュニケーションを保証すること。イスラム教徒は、毎日そろってメッカの方向に礼拝する。そして、生涯にコ度はメッカを巡礼で訪れることを奨励される。

 メッカは毎年、世界各地からの巡礼者で溢れかえる。彼らは、母国語もまちまちだが、同じムスリムとして、アラビア語で交流できる。白分たちが一体であることを、体感できる。キリスト教にはない交流の仕組みですね。

 聖典は、このように重要な役割を果たす。聖典をもたらしたのは、預言者である。そこでつぎに、預言者について考えてみます。

預言者

 預言者は、一神教に不可欠な存在です。

 そして、一神教にしか、ありえない存在でもある。

 預言者という存在を理解すると、一神教の成り立ちが根本から理解できます。

 預言者。英語では、Prophet。その定義は、「神の言葉を聞く人」です。

 預言者は、人です。神でない。よって、預言者を拝んだり、あがめたりしてはならない。一神教は、ただひとりの神を拝み、それ以外のものを拝んではならないのですね。

 イスラム教は、この点を特に強調します。預言者ムハンマドの像をつくってはならない。ほかのどんな像もつくってはならない。像をつくると、つい拝みたくなるから。

 預言者は、神の言葉を聞く。そして、語る。預言者の伝える神の言葉が重要で、預言者は重要ではない。この考え方を、よく理解しなければならない。

 さて、どんな社会にも、霊と交流したり、将来を予見したりする、超能力をそなえた人びとがいるものです。彼らを、予言者(fortune teller)と総称します。

 予言者は、人びとの求めに応じて、必要なことがらを告げます。行方不明のヒツジは、どこそこにいますよ。亡くなった親は、幸せにしていますよ。いま戦争すれば、勝ちます。

 相手が満足することを告げるので、報酬がもらえる。つまり、職業にできる。そして、多くの報酬を払える王宮には、たいていこうした予言者が雇われています。

 預言者は、こうした予言者と違う。

 まず、相手が満足するどころか、耳に痛いことを言う。神の命令に背いていると、ひどい目にあいますよ。当然、報酬をもらえない。よって、職業にできない。しばしば、殺されてしまったりする。ムハンマドも殺されかけた。

 では、誰が預言者になるか。皆さん、預言者になりたいですか。

 なりたくてなるわけではないんですね。神に選ばれる。突然、神の声が聞こえてくる。特別な知識や、訓練や、社会的地位や資産は必要ない。預言者に選ばれるのは、危険で迷惑なことなのです。

 一神教の預言者の、社会的機能を確認しておきましょう。

 一神教は、唯一の神(以下、God)に、人びとが従うことである。

 Godに従うためには、Godが何を考えているか、知らなければならない。Godの意思する通りに考え、行動するのが、人びとのつとめだから。

 けれども、ふつうの人びとは、Godの意思を知ることができない。Godは、その辺りを歩いていない。連絡も取れないからです。

 ところが、なかには、神の声を聞くひとがいる。ふつうの人びととはちょっと変わっていて、アルバイトに羊飼いをしていたりする。モーセも、砂漠で羊を飼っていました。羊飼いは、非正規労働で、時間も不規則で、人里離れた場所にいる。神の声を聞きやすいのかもしれない。

 そんな彼が、神の声を聞きます。わたしはGodである。人びとのところに行き、Godがこれこれ、このように言っていると伝えなさい。神の命令なので否応なく、言われた通りに、人びとに伝えに行く。人びとが、それを信じれば、神を信じる一神教の集団のできあがりです。

 預言者は最初、口頭で、神の言葉を伝えていた。

 そのうち、預言者は、神の言葉を文字に書き記すようになる。預言者は、文字が書けるとは限りませんが、助手が預言を筆記する場合もある。そうやって、預言者ごとに、一人一冊、預言書がまとめられる。イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書、みたいに。

 モーセは預言者として別格で、一人で五冊も預言書がある。旧約聖書の冒頭にある、モーセ五書。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、の五つの書物です。
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リーマン予想は無限次元空間を可能にした

平等は定義できるのか

 全員が別の目的を持つことが平等。其れが今まで考えが及ばなかったのか。三次元で考えるから出来なかった。無限次元で考えれば、それぞれが自分の三次元を持ちうる。目標が持てる。インバリアントが持てる。それでもって可能になる。それならば、バラバラではないか。というものに対しては、分化に対する統合の考えで、統合していく。素すれば、全てが平等の世界が出来る。

 この社会に生まれてきたのではなく、この社会を創り出す。その人がいなくなっても、その人の空間がなくなるだけ。全体の統合した世界は別の世界になっていくだけのこと。それを三次元から見ているから、お互いが干渉して、差別が起こる。独我論の世界はそんな世界でしょう。

足が浮腫んでいる

 足が浮腫んでいますね。動いていないから。今日は朝から動きましょう。今日は趣向を変えてthinkします。そのために歩きます

リーマン予想は無限次元空間を可能にした

 リーマン予想は無限次元空間を可能にしている。それぞれの人間、何百億人、過去にいた人間も含めて、3次元空間をあてがうことが出来る。

 イスラムにしてもキリスト教にしても、最後に清算することになる。そこではそれぞれが生きている。

 そのイメージを人間のなかに埋め込んである。それが無限次元のなかの3次元。そうでないと、ディスクリートであることが理解できない。それを感じたのは、組織でありながら、各人がヘッドを持つ世界、技術者の世界。そこでは自由であり、平等である。

 組織として目的を一つにしても、それぞれがバラバラで動くことは今までは出来なかった。コレを成り立たせるのが新しい数学。

家族は目的ではない

 その意味では家族は目的ではナイ。移動する単位かもしれないけど、ある時期を過ごさせるためのモノであって、決して、親は親ではない。池田晶子さんが言うとおりに。

数学の可能性は無限

 数学編を感想ではなくて、新しい数学のための手順にしましょう。数学は全てのインフラであることで証明できる。その数学をもとにした哲学。その結論である独我論。独我論が全てに成り立つこと。その上でディスクリートであることをいかに証明するか。

2.4「空間から宇宙」

 2.4の「空間から宇宙」の意味は、本来、宇宙から空間が創られて、そして、空間から宇宙を説明するという最低限のこと。つまり、諸々のことから位相空間が創られて、そして、位相空間で諸々のことを何となく定義する。

2.5「数学史」

 そう考えると2.5「数学史」は、無秩序の状態からハイアラキーの世界を経て、部分から全体の構成を作り出し、分化と統合の世界、最後に集合が点になるという世界。ディスクリートなものが空間になっていく。社会に適用するというのはフィードバックです。モデルを作って、それを数学者が拡大して、社会を再定義していく。

 そして、全体は数学で配置されたモノが意味を持つ。全体が一つのシナリオになっている。バラバラなところから構図を規定して、構造そのものを作り出す。数学が全てのインフラであることの証明。数学は全てであることを表わすのが位相空間。そして、部分から空間を作り、空間から宇宙に発展させる。

 数学史においてもトポロジーの世界に来て、新しい数学に向かう。そして、全体を定義する。新しい、生き生きした社会を創り出す.それは数学的な世界。

第3章「他者の世界」

 第3章は突き放して、社会編ではなく「他者の世界」にすると分かりやすい。

3.1「内からみる」

 3.1は内なる世界から他者の世界を観て、課題を見つけて、どうなっているかのモデルを作り出す。そこから二つのキーワード、循環していることと配置すること、を見出す。コレは従来のハイアラキーという単純な構造ではなく、配置されたところから循環していく、つまり、次元を超えていく。

 重要なのは端と中核の間の中間の存在。それを作り出すインフラがどうなっていくのか。彼らの新しい世界のベースを作り出す。これはあくまでも観察記です。

第4章「歴史編」

 第4章の歴史編はまだまだ未消化です。時空間としてみても、全体を表わすことが出来ていない。やっと、階層みたいなところに辿りついたが、配置に構図になっていない。階層を配置から見ていかないといけない。平等な関係として、集合を点としていく。それの新しいカタチ、トポロジーで言うところのカタチになっていく。

 4.7と4.8はもう少し工夫が必要です。

ブログの御音声入力検索

 未唯空間もスマホの音声入力で、自由に検索できるようになりました。ちなみに、「ムハンマド」は270件。

 蓄積したデータベースの検索はアイデア次第です。この検索機能がいいのはテキストの中身まで対象に出来ることです。

平日なのに、スタバが満杯

 月曜日なのに、この時間なのに、駅前のスタバは満席です。駅前の北側に新しいスタバを作って欲しい。

 ハイアラキーの世界での平等はあり得ない。なのに、アレは何を言っているのか。

 早く、結論付けて、次の世界に行かないと、間に合わない。そんな気がしている。
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豊田市足助 まち並みと交流型観光

『まちを読み解く』より 豊田市足助 歴史的環境が切り拓く交流型まちづくりの可能性

通年型観光を目指す取り組み

 1970年代から独自のまち並み保存を進めてきた足助であるが、戦前から現在に至るまで、多くの観光客を集めるのは、巴川沿いの景勝地・香嵐渓である。その一角には、1980 (昭和55)年に三州足助屋敷が整備され、カタクリの群生地や体験宿泊施設「足助村」など、通年で来訪者を受け入れる環境も整備されている。とはいえ、入り込み客数のピークは秋の紅葉シーズンであり、「香嵐渓もみじまっり」が開催される11月の週末には、国道が渋滞するほどの観光客が訪れる。一方で、巴川を挟んで宮町と西町の国道沿いに設けられた香嵐渓の入口は、豊田市中心部や名古屋方面からみてまち並みの手前に位置するため、香嵐渓からまち並みへの人の流れを生み出しにくい。

 こうした状況に対し、秋の香嵐渓を中心とした季節型の観光から、まち並みを取り込んだ通年型観光に転換するための仕掛けとして、2000(平成12)年前後から、まち並みを歩いて楽しむイベントが開催されている。2月から3月上旬にかけて、街道沿いの町家に雛人形を飾る[中馬のおひなさん]、手作りの籠型の行灯(たんころ)を軒先に並べ、夕暮れから夜にかけてのまち並みを演出する「たんころりん」、町家に展示された若手作家の作品を鑑賞しながら歩く「足助の町並み芸術さんぽ」などである。なかでも1999 (平成11)年から開始された「中馬のおひなさん」は多くのひとびとが訪れ、春の風物詩として定着しつつある。しかしこの場合も、まち並みを訪れるひとびとはイペント期間に集中し、持続的なまち並み観光をいかに展開するかが課題となる。

地域資源としての生活空間

 すでに述べたように、足助のまちは、表情豊かな街道沿いのまち並みとともに、「縦軸」となる奥行き方向の空間構成に特色がみられる。地形の起伏に応じながら密度高く構築された生活空間の豊かさは、街道筋を歩くだけでは実感しにくいものであるが、路地や川沿いの遊歩道、裏道などに足を向け、さらには町家の敷地内部へ足を踏み入れることで、より深く体感することができる。

 足助には、奥行きのある建物の内部を来訪者に公開し、その魅力を伝える店舗や家屋が存在する。足助のまち並みのみどころの一つとなっているマンリン小路の名前は、角地に佇むマンリン書店に由来する。坂をなす小路に沿った敷地は、手前の店舗から奥に向かって傾斜し、古い蔵を活用した「蔵の中ギャラリー」の魅力的な展示作品と相まって、足助の暮らしの豊かさを伝えている。このほかにも、足助のまちなかには、通りに面する座敷や土間、川沿いの裏庭を自主的に開放する店舗や旧商家などもみられる。歴史の趣がありながらも普段着の生活空間の価値を、自らが発見しながら磨き上げることで、来訪者を惹きつける魅力的な場が育まれている。こうした地域の人々の心配りに接することで、足助のまち並み体験はより印象深いものになる。

「うちめぐり」を通じた交流型まちづくりの検証

 2005(平成17)年の合併以降、豊田市の観光施策のなかでも、香嵐渓と歴史的まち並みを有する足助は重要な観光拠点として位置づけられている。2009 (平成21)年には豊田市景観計画が策定され、重伝建地区の選定に向けて舵が切られることとなった。

 合併を機に足助地区のまちづくりの推進母体として「足助まちづくり推進協議会」が設立され、その住民部会の一つである「まちづくり部会」では、足助で調査を重ねてきた東京大学都市デザイン研究室とともに、重伝建地区の選定後のまちの将来像に関する検討をおこなった。そのなかで、歴史ある生活空間を活かした観光客の受け入れが一つの柱になることが確認され、それを実現するための試みとして、町家などの生活空間の一部を公開し、住民自身が案内する社会実験「あすけうちめぐり」が企画された。

 これは、まち並みの「うちがわ」にある土間や座敷、中庭などの生活空間に光を当て、その公開・案内を通じた来訪者との交流の創出を意図したものであり、単なるイベントではなく、交流型まちづくりの可能性を検証するための「社会実験」として位置づけられた。なるべく多くの参加者を得るため、紅葉シーズンの香嵐渓からの観光客をまち並みに誘導することとし、11月中旬の土日の2日間が実施期間となった。

 公開する店舗や家屋については、街道沿いを中心に計25軒の協力が得られ、西町の足助交流館前に案内所(受付)を設けて出発点とし、田町の小出邸を終着点とするメインルートが設定された。4軒の公開建物にも受付を設けるとともにそのうち本町の田口邸と終着点の小出邸では、足助の歴史やまちづくりに関するパネル展示も行い、うちめぐりの拠点として位置づけた。

 さらに生活空間を不特定多数の観光客に公開するさいの対策として、受付で参加者にルールを説明するとともに説明を受けた参加者を判別できるよう、パスポートを携帯して巡ってもらうなどの工夫をおこなった。こうした仕組みのもとで、参加者は、公開建物や路地などのみどころが掲載されたマップを片手に「うちめぐり」へと出発することとなる。

 企画・準備はまちづくり部会と大学研究室メンバーが中心となったが、公開協力者の募集は自治区を通じておこなわれ、さらに豊田市足助支所、足助公社、商工会、商店街組合、観光協会からも、場所の提供やテント設置、宣伝、マップ配布などの協力を得ることができ、生活サイドと観光・商エサイドの主体が連携する体制がっくられた。当日の運営には観光ボランティアや中学校の生徒たちも加わっている。

 結果として、2日間で700人もの参加者があり、そのうち8割近くからアンケートの回答が得られた。大半の参加者から好評を得る結果となり、住民らの説明に耳を傾けながら、生活空間の魅力に触れる観光スタイルが成立しうることが確認された。参加者の滞在時間は平均1時間40分であり、半数以上がまち並みの東端に位置する小出邸まで足を運んだことも明らかとなり、四町全体での回遊行動が促されたことも大きな成果となった。

 一方、地元協力者に対するアンケートからは、地域内での周知や、準備・運営時の負担といった課題がみられるものの、観光客のマナーのよさや、観光客との会話を楽しめたという声も多く聞かれ、好意的に受け止めていることも確認された。

 こうした結果を受けて、2011(平成23)年以降、「あすけうちめぐり」は観光協会が主催し、地元中学生が案内する秋の催しとして受け継がれた。他のイベントとの同時開催となるなどの変化もみられるが、地域の身の丈にあった運営により継続することで、生活空間を通じた交流のあり方が少しずつ地域に浸透していくことが期待される。

交流を手がかりとした町場の再生

 中馬街道とともに成立した足助のまちは、他地域との交流によって発展してきた。近世に由来する歴史的環境を受け継ぎながらも、大正期には行楽・歓楽型の観光を導入し、昭和40年代以降は「山里」の生活文化を活かすなど、「交流」のあり方や舞台は、地域を取り巻く社会状況に応じて、内発的に変化している。まちに受け継がれる生活空間を舞台とした新たな観光は、かっての宿駅・在郷町を支えた交流機能を現代の文脈のもとで再構築することにつながる。歴史に培われた生活・生業と空間体験を通じた来訪者との交流は、足助のまちなかを暮らしの場として持続させる上でも重要な手がかりとなるだろう。
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なぜヴァイマール憲法からナチスが誕生したのか

『右も左も誤解だらけの立憲主義』より ドイツの憲法

ヴァイマール憲法は、「世界一民主的な憲法」などと言われました。今でも信じている日本人がいるので不思議ですが、ヴァイマール憲法の一部は日本国憲法の母法なので、ありがたがっているのでしょう。

 ヴァイマール憲法第一五一条

  経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的を持つ正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は確保されなければならない。

 日本国憲法第二十五条

  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ヴァイマール憲法は、世界で初めて社会権を明記した憲法として高く評価されがちです。日本の護憲派に。社会権とは人間らしく生活する権利のことです。生命・自由・財産が何の理由も無く奪われないだけでは、単に家畜を脱しただけであって、人間らしいとは言えない。ヴァイマール憲法では「人間たるに値する生活」を高らかに謳っています。ヴァイマール憲法は、それを経済的に裏付けよ、と政府に対して命令しているのです。

では、ヴァイマール共和国の経済状態はどんなものだったか。ざっくり言うと、「敗戦後のハイパーインフレ→シャハ卜中央銀行総裁の神業的手腕で収拾、『相対的安定期』と呼ばれる束の間の安定→世界恐慌による大デフレ→ヒトラーが再びシャハ卜を連れて来て奇跡の景気回復」という状態です。最後の、ヒトラーが奇跡的な景気回復を果たしたことで、国民の熱狂的な支持を得てヴァイマール共和国はナチスの独裁に取って代わられるのですが、それは後の話。

憲法典の条文で「政府は人間らしい生活を保障せよ」と命令したところで、経済的裏付けが無ければ不可能です。では、ヴァイマール共和国の憲法学者は、理想と現実の乖離をどう説明したか。「プログラム規定」と解釈しました。直訳すると「綱領規定」ですが、要するに「努力目標」です。できなくてもいい「目標」のことを、プログラムと言うのだとか。

こんな非立憲的な解釈はないと思うのですが、どうやら日本国憲法の制定過程でも、ヴァイマール共和国の苦い教訓は意識されたようです。二十五条は日本側(社会党系の憲法学者の発案と言われる)の主導で挿入された条文ですが、第一項で国民全体の権利として「健康で文化的な最低限度の生活」を求め、第二項で国に対し「努めなければならない」と強調しています。「金が無いのを言い訳にするなよ」と言うつもりでしょう。しかし、現実の二十五条の運用は「努力目標」です。

書くだけ書いて実行しないことこそ、憲法への冒涜であり立憲主義に反するはずです。しかし、日本国憲法の条文と運用が真逆であるという矛盾を指摘した護憲派を知りません。ちなみに私は日本国憲法の人権規定がまるで守られていない問題を、デビュー作から指摘しています(小著『誰が殺した? 日本国憲法!』講談社、二〇一一年ご

もう一つ、「世界で一番民主的」な憲法を持つヴァイマール共和国の実態はどのようなものだったか。無能な政党内閣が短命の連立内閣を繰り返すのに、国民はあきれ果てていました。国民は強い指導者を求めるようになります。

一九二五年、第一次大戦でロシア軍を撃破した英雄であるヒンデンブルクが大統領に当選します。この人は、亡くなる一九三四年まで務めます。しかし、ヒンデンブルクは、政治家としては凡庸かつ有害でした。そもそも、大統領と首相の権限分掌もよく分かりません。日頃は議会で選ばれた首相が政権を担うのですが、大統領が非常事態を宣言すれば独裁権を行使できますし、首相の任免も思いのままです。

そして、世界恐慌に誰も対処できない中で政治家と軍部が入り乱れた、くんずほぐれつの政争の中、共産党かナチスかという究極の選択の末に、ヒンデンブルクはナチス党首のヒトラーを首相に任命しました。

以後の悲劇は、ご存じの通りです。ユダヤ人の大量虐殺は有名すぎますが、敵対民族は片っ端から虐殺していきました。ドイツ国民でも、身体障害者や同性愛者は「生きるに値しない命」などと殺戮していきました。第二次世界大戦で全世界を不幸にしたのは、言うまでもありません。

では、ヒトラーはどのような手続きで独裁者になったのか。ヴァイマール憲法の手続きに従い首相に任命され、全会一致で全権委任法という独裁権を議会から委任され、大統領を兼任しました。見事、「世界一民主的なヴァイマール憲法」の手続きに従い、最も非民主的なことをしたのです。

だから、繰り返します。ヴァイ了Iル共和国に何のいいことがあったのか。ヴァイマール憲法のどこがいいのか。憲法典の条文に如何なる綺麗事を書いても、守る気が無ければ何の意味も無いのです。

一九四五年、ドイツは敗戦の憂き目を見ます。しかも、東西に国家が分裂されるという悲惨さです。

ヴァイマール共和国とナチス独裁は、西ドイツに大きな反省をもたらしました。

一つは、「民主的手続きにより民主主義を否定してはならない」です。これをドイツ人は、「戦う民主主義」と呼んでいます。もちろん、全会一致でヒトラーを独裁者にした反省です。

ヴァイマール共和国は極端に憲法観の異なる政党の政争が激しく、ナチスや伝統右翼と共産党は街中で殺し合いをしていました。だから、もう一つは、主要政党の間に憲法観の合意がなければならないと考えるようになったのです。

いずれも、憲法の精神です。二度の世界大戦の敗北により、憲法など無いかのように扱っていたドイツ人が、極めて真面目な立憲主義を身に着けたのです。

西ドイツは復興に際し、「ドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)」を制定します。「憲法」でないのは「西ドイツ」が暫定的な国だったからです。いずれ統一した暁には「憲法」を作るつもりだったようですが、統一した現在のドイツ連邦共和国もこの「基本法」を踏襲しています。この点は、どういう意図かは不明だとだけ言っておきます。

それはさておき、「基本法」と言うだけあって、日本の財政法や国会法のような「~基本法シリーズ」をまとめたものが「憲法のようなもの」として運用されていると考えてもいいでしょう。

その「基本法」改正には上院と下院の両方で三分の二の賛成が必要なのですが、すでに五十回以上も改正されています。

戦後ドイツは、事実上、極右のナチスと極左の共産党を非合法化しています。特に、ナチスの排除は国際公約でもあります。戦後、西ドイツが独立国として生き残る条件です。どさくさに紛れて、共産党の禁止も入れてしまいました。「戦う民主主義」を看板に、「民主主義を否定する政党は許さない」としたのです。

そのように極右と極左を切り捨てているので、圧倒的多数が常識人であり、主要政党間で憲法観の合意ができているため、しばしば改正が可能なのです。

基本法では治安維持法と同じ内容を書いています。第二十一条第二項「政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは違憲である」。

ドイツにしても、先のフランスにしても国体護持を憲法に明記しています。日本の治安維持法はただの法律です。

帝国憲法にこれに相当する条文がなかったのは、当時、本気で皇室を滅ぼそうとする勢力などなかったからです。最初にそれが現れるのが明治四十四年の大逆事件です。帝国憲法が発布されたのは明治二十二年ですが、この頃は「皇室を滅ぼしてはいけません」などと書かなくてよかったのです。そんなことは当たり前で、誰もそういう発想がない。これも言い換えると、憲法観の合意があったということですが。

ヴァイマール共和国の苦い教訓から、政党のあり方にも神経質です。「基本法」で政党の存在を定義づけるのみならず、厳密な政党法で近代政党を育てています。面白いのは、政党助成金の明朗会計を要求するのは当然として、一定額をシンクタンクにかけるように法律で定めていることです。

政党というものは、発生した当初は時の権力者に無視され、あるいは敵対しますが、そのうち取り込まれて体制化し、最後の段階が憲法編入です。ドイツのやっていることは、成文法による憲法編入です。憲法というルールのプレーヤーを、ルールで規定しようというのです。日本でこれをやろうとしたら、まずまとまらないでしょうが。

ちなみに、日本共産党は政党助成金の受け取りを拒否しています。口では色々理屈をつけていますが、本音は明らかです。憲法編入されるのを恐れているのです。

はっきり言いますが、共産党はファシズム政党です。かつてのソ連も、今の中国や北朝鮮も、一党独裁です。ファシズムとは二国一党のことです。一国一党では、独裁党は、国家の上位に位置します。国家から金を受け取ってしまったら、永遠に下位です。日本共産党は、これを避けようとしているに決まっています。
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「中国のビジネスモデル」を組み立てる構成要素

『現代アジアの企業経営』より 中国:新たな重層構造を読み解く

1 所有制形態への視点:「独自の道」を理解する出発点

 はじめに、「独自の道」を理解する出発点として、中国企業の所有と経営をめぐる担い手に着目してみよう。1949年に中華人民共和国が建国され、社会主義建設が目指される過程で、企業は公有化され、1978年には統計上100%の企業が公有制企業となった。しかし、改革・開放政策が開始し、先進資本主義国との経済格差を解消するべく、公有制企業以外の所有制形態を認める動きが現れ始める。 2015年になると、表3-1 、表3-2、表3-3が示すように有限責任会社や私営企業などが大きな役割を果たすまでに至っている。

 ここでいう所有制形態を一覧表にまとめたのが表3-4である。表中における国有企業、集団所有制企業、株式合作企業は公有制企業に分類され、私営企業、自営業者、外資系企業は非公有制企業に分類される。また、有限責任会社と株式会社は株式制企業と総称されるが、非公有制企業であるとは限らない。

 2008年に採択された「企業国有資産法」の第5条によれば、「国家出資企業」として次の四つが規定される。すなわち、①国家全額出資で非株式制の「国有独資企業」、②国家全額出資で株式制の「国有独資会社」、③国家が株式の過半数を保有する「国有持株会社」(中国語で「国有資本控股公司」)、④国家出資による「国有資本参加会社」(中国語で「国有資本参股公司」)がこれである。ここから、有限責任会社に分類される国有独資会社や、国が出資して支配的地位を占める株式制企業などは、公有制企業として扱われる。更に国有企業には、中央政府ないし中央政府が権限を授与した国有資産監督管理委員会(略称「国資委」)などの機関が出資者の職責を果たす「中央企業」と、地方政府が管理する「地方国有企業」の区別がある。

 ところで、自営業者や私営企業に加え、活発な経営メカニズムを有する株式制企業や集団所有制企業などを含めて、民営企業と呼ぶことがある。改革・開放政策が始まってから約40年が経過し、民営企業が中国経済の中に占める割合が増加したことは、「改革・開放の中国」を特徴づける一つの大きな動きである。そこでの企業経営の特徴については、本節3の中で考察したい。

2 企業のガバナンス改革:それでもなぜ「社会主義の中国」なのか 続いて、現在なお「社会主義の中国」であることを理解するため、従来の公有制企業に焦点を当て、その運営方式がどう変遷してきたのか、瞥見したい。

 従来の公有制企業では、行政機関が企業経営に介入し、市場におけるニーズよりも行政命令が重視される感があった。しかし、これでは非効率な経営に陥ることが分かり、1979年からの「放権譲利」(上部機関の持つ権限の一部を企業側に移管する)、 1984年からの「利改税」(利潤上納制から租税制に切り替える。1987年からの「承包制」(上部機関と企業との間であらかじめ利益分配の仕方などの請負契約を行う)などの企業改革が行われてきた。その後、今日の中国企業のガバナンスを理解する手がかりになる法令が提出されている。

 一つめは、1988年施行の「工業企業法」(中国語で「中華人民共和国全民所有制工業企業法」)である。これに先立ち、1979年7月「国営工業企業経営管理自主権の拡大に関する若干の規定」、1984年5月「国営工業企業の自主権を一層拡大することに関する暫定規定」などが公布・実施されている。

 工業企業法では、国有企業が、法律に基づいて自主的に経営意思決定を行う権限を有し、独立の企業体として損益の自己責任を負う経済組織であることがうたわれ、従業員代表大会、企業内党委員会、工会が支える企業内ガバナンスが表3-5のように規定される。これら三つの会は「老三会」と総称される(中国語の「老」は「古い」の意味)。企業内党委員会のトップである「党委書記」(企業内の党委員会書記)は、かつて社長以上の権力を発揮することもあったが、工業企業法では社長が生産経営の長であると明記されている。

 二つめは、 1992年施行の「経営メカニズム転換条例」(中国語で「全民所有制工業企業転換経営機制条例」)であり、企業財産に対する占有・使用と法に基づく処分をめぐり、以下の14の自主権が、政府側でなく、企業側の持つ経営権として明示された。すなわち、①生産経営決定権、②価格決定権、③製品販売権、④物資購入権、⑤輸出入権、⑥投資決定権、⑦留保利潤支配権、⑧資産処分権、⑨連合・合併権、⑩労働雇用権、⑩人事管理権、⑩賃金・ボーナス分配権、⑩内部機構設置権、⑩分担金拒否権、がこれである。

 例をあげて考えよう。社長のあなたが上部機関である政府から「貴工場では○○型の自転車を年間5000台生産しなさい。原材料は全て△△工場から調達し、販売価格300元で誰々に売りなさい。機械設備は従来通り口口社のラインを用い、従業員は300名、役員は○O氏ら4名です。勝手にデザインを変えないように。付近に歩道橋を建設するので30万元の寄付も忘れないように」等々と指令を受けた場合、どれだけ消費者のニーズに応えうるだろうか。がんじがらめの行政命令方式では真の企業経営はありえないーこうした問題意識から、中国企業を活性化するため、工業企業法で社長責任制が明記され、経営メカニズム転換条例で14の企業経営権が具体的に示されたわけである。

 三つめの法令は、1993年公布(1994年施行)の「会社法」(中国語は「中華人民共和国公司法」)である。株式制企業を法人と位置づけ、国有企業から転換する道筋が示された。ここでうたわれる会社機関(株主総会、取締役会、監査役会)は表3-6の通りであり、「新三会」と総称される。 2005年の改正会社法(2006年施行)では、会社設立に関する規制緩和、株主代表訴訟の明文化、外資系企業に関する法律との関連の明記などが盛り込まれた。

 それでは、「新三会」の役割に加え、独特な存在としての企業内党組織が、今日いかなる「保証・監督」の役割を果たしているのだろうか。その内実は時代により変化してきた。そして、改正会社法には工会の組織(第18条)と企業内党組織(第19条)の存続に関わる規定があり、旧来からの発想が非公有制企業において準用される可能性もある。例えば、ある日系中国企業での工会の設置について、あなたはどんなイメージを持つだろうか。会社機関が外形上で海外のそれと同じでも、党委書記と社長との間の力関係は依然として見落とせない事柄である。「社会主義の中国」の側面をこうした点で垣間見ることができる。

 中国ビジネスに見る元気の由来:農村部への視点と民営企業の活力

 さて、ここで改革・開放政策以降に出現した郷鎮企業と呼ばれる農村部の経済組織に焦点を当て、その担い手たちのバイタリティーに注目したい。元気のよい中国企業の原風景を、農村企業家からハイテク企業家へ、さらにグローバル企業家へ、という展開の中に見出すのが、本項での目的である。

 2015年の中国農村部の人口は6億346万人に達する(中国国家統計局ホームページ「総人口」2017年2月27日閲覧)。これは日本の人口の約5倍に相当する。それだけに農村・農業・農民に関する諸問題(=三農問題)の解決は、建国当初から今日に至るまで、中国社会の発展にとって重要な課題として考えられてきた。

 冲国では農村で暮らす人々が都市に流入するのを制限するため、農村部に住む「農業人口」と都市部に住む「非農業人口」を戸籍上で分けてきた経緯がある。かつて「非農業人口」の住民は、食糧や油などの生活必需品の計画的な配給制度、統一的な就業制度、医療・教育などの各種福利制度の下における権利と保障を享受できたが、「農業人口」の人々は享受することができず、また「農業人口」かち「非農業人口」に戸籍を変更することがきわめて難しかった。

 建国当初、農村部では集団で農業を営み、都市部では国営工場で工業生産を行うのが合理的と考えられたため、 1950年代末に農村部の地区の行政と経済を一体化した人民公社が組織され、その下に生産大隊や生産隊が置かれた。人民公社では若干の簡単な手工業品を製造することも許され、こうした場は社隊企業と呼ぱれていた。これが前身となり、のちに郷鎮企業が生まれたのである。

 郷鎮企業は、 1997年施行の郷鎮企業法で「農村の集団所有制経済組織あるいは農民による投資を主として、郷鎮(所轄の村を含む)で活動を行い、農業支援の義務を負う各種企業を指す」と規定されている。この条件を充たせば、社隊企業を前身としない自営業者・私営企業や合弁企業なども郷鎮企業に含まれる。中には大企業に発展した郷鎮企業もあり、読者の皆さんが日常使用する多くの工業製品が、郷鎮企業で作られた可能性があることに留意されたい。

 このような経緯で誕生した郷鎮企業の意義は、中国に数多くの企業家を輩出し、農村部の雇用の受け皿となり、中国経済の成長に貢献したことにある。1980年代以降に中国経済の成長に乗ってビジネスチャンスを掴もうとする自営業者の旺盛な意欲が刺激され、彼らが郷鎮企業として成長した意義が大きい。

 彼らの起業当初は、資金・設備・物資・技術・人材・知識などの経営資源が国有企業に比べて圧倒的に劣り、地元政府や家族・友人などの人脈を活用して敏速で柔軟な資源調達をし、簡単な製品を作る傾向が強かった。しかし、「作れば売れる」という追い風を背景に規模を拡大し、市場機会志向の「技術無関連的な多角化」を展開する企業も見られた。筆者がかつて調査したある社長は、「3ヵ月前まで自転車を作り、現在(=当時)はフランスパンを手がけ、3ヵ月後には健康器具の製造を手がける」と語っていたほどである。

 郷鎮企業が急成長したのは、改革・開放政策初期のモノ不足、国有企業に比べて小回りの利いた利潤動機に基づく企業行動*、低賃金労働を前提とする国際分業の潮流などがあげられよう。郷鎮企業で働く労働者は、土地の住民だけでなく、低所得の内陸部から出稼ぎに来る農民工が担うことが多かった。名目として地元政府に「管理費」を支払い、私営企業と同様の経営自主権を獲得して積極的な運営を実現した集団所有制企業もある。

 郷鎮企業のモデルとしては、①外資導入と委託加工貿易に依拠した広東省の珠江デルタモデル、②地方政府の主導の下に経済発展を遂げた江蘇省蘇州・無錫などの蘇南モデル、③地方政府の関与なしに自営業者が活発なビジネスを展開して成長を遂げた浙江省温州の温州モデルなどが知られている。

 このような郷鎮企業の経営方式を観察すると、その後に注目を集める民営企業に通じる共通点が見出される。表3-7は、90年代初頭にビッグビジネスに成長した二つの郷鎮企業グループの経営方式を描写したものである。これらは、大規模に成長したのち、地方政府主導の経営から脱して、独自の社内ルールの構築と執行を特徴とする経営活動を展開した。表3-7から分かるのは、第1に従業員に対するインセンティブをめぐって明確なシステムを確立した点である。現場作業員、管理職、外部から招聘する専門家のいずれに対する報酬の提示も、大胆な考え方と手法を導入している。第2に、高度な人材と技術に対する投資を惜しまず、品質とブランドカの向上に努めている点である。第3に トップに立つ企業家の先見の明と剛腕な手法が際立つ点である。

 郷鎮ビッグビジネスにせよ、技術志向で成長した私営企業にせよ、損益自己責任を前提とし、政府の介入を受けずに自主的な意思決定を行う元気のよい中国企業のマネジメント・スタイルには、「企業トップの強いリーダーシップによる経営システムの構築とその執行」という特徴を見出すことができる。

 一つの事例として、ハイアール・グループ(海爾集団:Haier Group)に着目したい。グループを率いる張瑞敏(Zhang Ruimin)は、「道徳経」、「論語」、「孫子兵法」を愛読し、松下幸之助、本田宗一郎、ジャック・ウェルチから先進的な管理手法を学び、CEO(最高経営責任者)制を導入したが、それだけではない。品質管理の精神を社内で徹底するため、従業員の眼前で76台の欠陥冷蔵庫をハンマーで叩き壊した。そして、発生した損失に対して管理者が80%の責任を引き受ける(ハイアール独自の)「80 : 20 の法則」、業務プロセスを行政命令でなく水平的取引関係として処理する「市場連鎖」、日々の仕事を当日中に済ませて達成度を点検・公表する「OEC管理法」などを次々に導入した。

 張瑞敏は、従業員一人ひとりの能力を発揮できる舞台の創造に努めたというが、そこに業務遂行への関心が強く現れていることが垣間見られる。
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