未唯への手紙

未唯への手紙

OCR化した5冊

2019年06月29日 | 6.本

『人口減少時代の論点90』
 結婚
  結婚しない若者が増えているというが、 その現状は?
  晩婚化が進んでいるが、何が問題なのか?
 孤立化
  「孤独死」が問題にされる理由は何か?
  「核家族化」が何を引き起こしたか?
 社会インフラ
  道路や橋などのインフラの再生整備が必要な理由は?
  墓地や火葬場の不足の現況は?
  書店激減の実態は?
『ベストセラー全史【現代篇】』
 史上一位のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』
 『Santa Fe』旋風 
『米中ハイテク覇権のゆくえ』
 躍進する中国--AIを制するものが世界を制す
  1 次々と躍進する中国系自動運転ベンチャー
   グローバル企業を目指す〝中国系〟企業
   米中のはざまで悩むポニー・ai
  2「国ぐるみ」で狙うアメリカ超え
   中国政府が打ち出す「中国製造2025」
   「製造大国」から「製造強国」へ
   「中国製造2025」は何が問題なのか
   圧力を受ける中国。産業政策はどこに向かうのか?
   「製造強国」へのもう一つの課題
  3 勃興する人材獲得ビジネス
   海亀を狙うヘッドハンターたち
   急増する海亀への需要
   トランプ大統領が生んだ? 海亀ブーム
   アメリカVS.中国〝人材獲得競争〟
  4 滴滴の衝撃
   北京を変えた「ライドシェア」
   AIで都市を管理する「交通大脳」プロジェクト
  5 日本に上陸した〝中国の巨人〟
   自動車産業への危機感
   予想を超えるスピードで日本上陸
   「凄いですね、中国のAIは」
『超訳 ヨーロッパの歴史』
 政治の第一形態--民主主義
『旅、国境と向き合う』
 北欧の入り組む国境線--バイキングの末裔が探る融合への道
 スカンジナビア諸国
 北欧三国とフィンランド
 絶えざる侵略と征服
 北欧諸国の国情と実態
 スカンジナビアヘの旅、始まりはコペンハーゲン
 マーブル教会とアマリエンボー宮殿
 クロンボー城への旅
 平和の誓い、フレデリックスボー城
 クヌート・ハムソンの世界に惹かれて
 白夜が開けて、ヘルシンキでの一〇日間
 いよいよクヌートの世界、ノルウェーヘ
 オスロからフィヨルドめぐりの旅ヘ
 最大級のフィヨルド、ソグネフィヨルド
 クヌートの世界を追って
 北欧最後の町、ベルゲンで
 北欧の旅を振り返れば


北欧の入り組む国境線

2019年06月29日 | 4.歴史

『旅、国境と向き合う』より 北欧の入り組む国境線--バイキングの末裔が探る融合への道
国境は、日本やイギリスのように、島国なればこそ海洋によって仕切られ、一方、ヨーロッパなど大陸では、地続きであるがゆえに複数の国々と国境を交える。国境のありようはさまざまである。その中で北欧諸国は、海と地続きの両様で国境線を持ち、多くの場合、その国境線は限られた国々の間で絶えず奪いあっては、また奪回されていった。
北欧諸国の中でも特に北欧三国と呼ばれるデンマーク、スウェーデン、ノルウェーは、王国初期にあっては、それぞれが海洋を制する北方の巨人として古くから威力を発揮した。海に囲まれてきた地の利から、彼らは否応なしに近海での漁業のみならず遠洋に船を駆り、国威を外に向けて命運を賭してきた。ことに八世紀から一一世紀にかけて、デンマークを始めとする北方領域に住むようになったノルマン人はヨーロッパの各所で侵略を行い、海洋では貿易以外にも他国の船を襲う行為を繰り返したとして、北欧のバイキングと恐れられるようになった。
彼らにとってみれば、おそらくは国威というよりも、単に生計をたてるための船出であったろう。だが、荒々しい北海を乗りきる船乗りたちの猛々しさは、事実、彼らが財宝を積む貿易船を襲っては富を略奪する海賊行為を行うことで、北海の暴れ者といったイメージを北欧諸国全体に色濃く残してしまった。
北欧バイキングたちの活動範囲は広範囲で、財宝を求め海洋に乗り出すうち、やがて北米大陸にも到着した。およそ一一世紀中頃のことである。現在のカナダを流れるオリノコ川を下って、彼らはマサチューセッツ周辺にヴィニヤードと呼ばれる植民地を築いた。アメリカ大陸を最初に発見したのは、のちに来る大航海時代のスペインやポルトガルではなく、それより四世紀も前に遡る北欧バイキングたちであったと伝えられている。その足跡はノルウェーの叙事詩にも謳われ、新開地の発見は、レイフ・エリクソン率いるノルウェー・バイキングの偉業だと讃えられてきた。
バイキングが支配した植民地は持続的に開発されなかったため、やがて海賊たちの拠点は失われてしまう。しかし一九七〇年代に、かつてバイキングがアメリカ大陸を移動したとされる古地図がエール大学図書館で発見され、真偽はともあれ全米の話題をさらったことがあった。
スカンジナビア諸国
 バイキングの祖国となる北欧三国は、フィンランドやアイスランドとともに、しばしばスカンジナビア諸国と呼ばれている。それはスウェーデンやノルウェーが北ヨーロッパのスカンジナビア半島にあるからだが、三国のうち今一つの国デンマークは、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島にあり、スカンジナビア半島には位置していない。しかもデンマークは南でドイツと陸続きとなり、この陸地と周辺の島々--大きな島では、首都のあるシェラン島やフェラン島--を併せて領土を構成し、肝心のスカンジナビア半島とは境界線で接しているに過ぎないのである。一方、スウェーデンに隣接するフィンランドも、同じくスカンジナビア半島には存在しない。
 つまり、これらの国々の位置関係を改めて整理すれば、まずスカンジナビア半島の西半分にノルウェーが、東側にスウェーデンがある。さらにスウェーデンを真ん中にして、その東隣、つまりボスニア湾・バルト海を挟んで、半島の外側にフィンランドがロシアと国境を接している。これに対し、デンマークはそれら三国とは向き合う形で、カテガット海峡を挟んで南にあるユトランド半島に存在する。さらにスカンジナビア諸国の今一つの国アイスランドに至っては、これらいずれの半島上にもなく、西に離れた北海洋上に位置しているのである。したがってスカンジナビア諸国とは、スカンジナビア半島にある諸国という意味ではなく、スカンジナビア地方にある国々から成るということであろう。そこでここでは、洋上にあるアイスランドを除き、ごく近隣で国境を競り合う北欧三国とフィンランドに照準を当て、北欧諸国としての形成をみていきたい。
北欧三国とフィンランド
 北欧三国やフィンランドの成り立ちは著しく古く、有史前から人類が居住していた。一時、氷河期に人類はこの地を追われたが、やがて一万二千年前くらいから、ノルウェーやデンマーク一帯に再び人々が住みつくようになったという。石器時代の遺跡の発掘は今でも行われ、かつてフィンランドの歴史都市サロに旅した際、考古学専攻の学生たちが台地に浅く掘られた畔の間で発掘跡の砂を丹念に掬いながら、粛々と検分を試みていたのを見たことがある。
 北欧三国はいずれも今は立憲王国で、古くから王朝を築いて国を発展させていった。およそ一一世紀から一三世紀にかけてのことである。なかにはデンマークのように、一一世紀初期にはイングランドのクヌート王により「北海帝国」として統治されていたのが、やがて自ら王朝を堅固にし、一四世紀後半にはマルグレーテー世のもと、カルマル同盟を提唱してスウェーデンやノルウェーをも支配下に置くようになった。
 これら王国に対してフィンランドは共和国を形成する。しかし、フィンランドはある時はスウェーデンの、ある時は帝政ロシアのもとに統治され、広い国土を持ちながら国家造りが進まず、他国の支配を受けることが多かった。その意味で、フィンランドはスカンジナビア諸国の中では後進国であり、近代的発展にも遅れをとった。加えてフィンランドは、紀元前期の民族大移動期にヴォルガ川周辺にいたウラル語族のフィン人やサーミ人が移住してきたため、ゲルマン文化を主流とする北欧三国とは別の言語や文化体系を移入した。
 スカンジナビア地方でフィンランド語を公用語とするのはフィンランドのみであるが、その言語には特徴があり、母音を語尾に持つ言葉で構成され、どこか日本語とも似ている。町を歩いて頻繁に見かけるbankiとは英語のbankに当たる銀行のことだが、固有名詞をつけてOsaki Bankiといった表現を見ると、何か懐かしい響きを感じたりもする。一方、スウェーデン、ノルウェー、デンマークにはフィンランド語と異なる原語体系の公用語がそれぞれにあるが、いずれもゲルマン諸語として類縁関係を持ち、ある程度は相互に通じるという。
 このように異文化の国フィンランドが、北欧三国と異なり他国の侵略を受けた長い歴史があることはある程度推察できるが、実は、文化的・民族的にも類縁関係にあるとされるノルウェー、スウェーデン、デンマークの間でも侵略と征服は頻繁に繰り返され、お互いの主権争いが一種恒常化していたところがあった。したがって、これらスカンジナビア諸国における国境の変更、あるいは国境を巡る紛争が絶え問なく起こるのは当然で、現在もなお国境に関する係争が未解決のまま続いている。カナダとの係争問題を抱えるアイスランドもまた同じである。
絶えざる侵略と征服
 北欧三国で王朝国家が築かれたのはほぼ一一世紀頃と述べたが、なかでもデンマークはユトランド半島を中心に、のちに首都が置かれるシェラン島やスウェーデン南部にも勢力を広げていった。一方、スウェーデンは一三世紀頃になって王朝の力がようやく安定し、フィンランドを含むスウェーデン地帯を制圧する。さらに、今一つの北欧国家ノルウェーも一一世紀のバイキング時代に王朝を築いたが、その後一二世紀から一三世紀にかけ王位継承を巡る内乱が続いたうえ、黒死病が蔓延して王家は途絶えてしまった。そのため一四世紀から一五世紀にかけてはデンマークの配下に置かれるようになった。そのデンマークはと言えば、さらに勢力を拡大させ、すでにみたとおり、マルグレーテ一世のもとで形成されたカルマル同盟により、ノルウェーのみならずスウェーデンをもその傘下に治めるようになっていく。
 カルマル同盟は、その後一五世紀になってスウェーデンが脱退した結果崩壊したが、それにより、デンマークとスウェーデンの間では戦闘を免れ得なくなった。その間、スウェーデンはバルト海への進出を果たし、一七世紀にバルト帝国を建設する。しかし北欧三国は、一七世紀から一九世紀にかけても宗教改革に端を発した三〇年戦争・北方戦争・大北方戦争や、フランス革命に続くナポレオン戦争などに激しく翻弄され、それぞれの国の命運は左右されていく。三〇年戦争でも、北方戦争でも、スウェーデンに大敗したデンマークは衰退の一途を辿ったが、さらにナポレオン戦争でも、フランスに加担したことで敗戦し、その結果ノルウェーをもスウェーデンに奪われてしまう。そして、そのスウェーデンは一八一五年のパリ条約でフィンランドを失った。
 スウェーデンによるフィンランド支配は、もともと十字軍遠征への大義名分で一二世紀半ば頃から行われていたが、北方戦争でスウェーデンが帝政ロシアに大敗してその一部を失い、さらにパリ条約に先立つ一八○九年に敗戦が色濃くなると、フィンランドは帝政ロシアの支配下に移譲されることが決定的となった。
 以後、一九一七年に至るまで、フィンランドは大公国としてロシアの統治下に置かれ、大公はロシア皇帝が兼任した。この時期フィンランドの本格的な開発が進み、やがてロシア革命の混乱に乗じて独立を得たフィンランドは共和国として誕生する。しかし、独立後の政情が不安定であったため、スウェーデンとは領土問題での紛争が絶えなかった。そのうえ、革命を成したソ連から再び政治的支配を受けるようになった。
 第一次大戦、第二次大戦下では、北欧三国はいずれも中立を保つが、第二次大戦ではデンマークはドイツに進軍されて支配下に置かれ、ドイツの敗戦で解放されるまで独立を失った。同じく侵略を受けたノルウェーは連合国によって解放され、大戦末期には対日交戦を宣言したが実戦を交えることはなかった。


ギリシャの民主主義の根源は軍隊

2019年06月29日 | 4.歴史

『超訳 ヨーロッパの歴史』より 政治の第一形態--民主主義
古代ギリシャ人は民主主義国家を発明した。これに伴って彼らは「政治 politics」という言葉も発明したのだが、これは彼らの「都市でoF」に由来するものだった。長い歴史においてさまざまな種類の政治形態が生まれてきたが、ギリシャ人が生み出したのは、全市民が話し合い、最終決着は投票による多数決で決定するというものだった。これは、すべての市民が一か所に集まり、案件を討議し、最終決議にかける形式で、これを直接民主制と呼ぶ。ただし、ギリシャのすべての都市国家が民主主義を実践していたわけではないし、またその民主主義は常に不安定なものだった。すべての民主主義を奉ずる小国家(とりわけアテネが有名だが)では、何度かの中断はあったものの、一七○年間にわたって民主主義の政治が行われた。アテネでは、この町に生まれた男子は全員政治に参加する権利を持っていたが、女性と奴隷はこの権利を持てなかった。
現代の我々の政治も民主主義なのだが、これはアテネの人々の民主主義とは大きく異なっており、我々の行っているものは間接民主制と呼ばれる。我々は定期的に政治のプロセスに関与することはなく、何年かに一度投票をするだけである。我々は現行の政治に不満を表明するためにデモを行ったり、意見書を提出したりすることはできる。しかし、議会で審議される個々の案件すべてに対して投票することはできない。
人々が民主主義政治に直接関わろうとしたとしても、現行のシステムとは大きくかけ離れたものになることは目に見えている。膨大な数の人々が一か所に集まることは不可能だが、ギリシャの直接民主制を再現することはできる。特定の案件について、インターネットを使って国民投票が実施された経験はすでにある。このようなシステムを使った世論調査によって、私はオーストラリア国民が次のように考えていることを知っている。つまり、オーストラリアはイギリス以外の国からの移住者を受け入れるべきではない(間違いなくアジア系移民を減らすことができる)、犯罪者はすべて絞首刑にすべきである、海外援助は不要である、シングルマザーに年金を支給すべきではない、学生が受けている恩恵も今後は廃止すべきである……といった具合である。これらの意見について、なんたる無知、人々の偏見には抑制がきかないのか、と読者が思うのも無理はない。
そう思ったとしたら、いま、あなたはソクラテス、プラトン、アリストテレスといった偉大なるアテネの哲学者たちの視点に近づいている。彼らならオーストラリアの民主主義に厳しい疑いの目を向けるだろうし、彼らの批判は我々の行動を理解するのに役立つことだろう。彼らは人々が常に揺れていて、優柔不断で、無知で、簡単に他人の意見に影響されてしまうことを嘆いている。政治は知恵と判断力が求められる、きわめて精妙な技術であり、国民のすべてがその技術に長けているとはとうてい言い難い。アテネの哲学者たちは今日の間接民主制のシステムを知ったらきっと喜ぶことだろう。私たちが選んだ政治家に対して何を言うのも自由だが、彼らは一般的に言って高い教育を受け、情報量も豊かである。政治家は公務員の指導を受けていて、公務員の中には非常に有能な人がいる。国民は政府から直接支配されることはなく、政府の事業全般については訓練された人々が協力している。しかし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、我々の民主主義とは呼ばないだろう。
ギリシャの民主主義の根源は軍隊にある。さまざまな政治形態を検討してきたなかで、我々は軍事力の性質と国家の性質との間に深いつながりがあることに気がつく。古代アテネには正規のフルタイムの軍隊はなかった。つまり、兵舎に常駐し、いついかなる時でも戦いへ出動できる常備軍を持っていなかった。アテネの兵士たちは全員が「パートタイムの兵士」だった。しかし彼らは密集陣形を組む歩兵として戦うために厳しい訓練を受けていた。開戦が宣言されると、商人や農民といった市民たちは普段の仕事をやめて、ただちに軍隊を結成した。民主主義的な集会〔民会〕は、市民兵が参集し、指導者から行進命令を受けるといったことからスタートしたものだった。戦争や和平、さらに個々の戦術などに関する最終判断は、部族の上層階級にあたる長老たちの評議会によってすでに決められていた。長老たちは兵士の集団の前に位置していた。目の前に長老たちの姿を見ることによって、兵士たちは戦う心構えができた。兵士たちは集会を開いたが、その目的は何かを討論したり、新たな問題を提案したりすることではなく、全員で戦争を承認し、戦争の歌を歌うことだった。
しかしこのような集会は大きな力を持つようになり、最終的に完全な支配力を有するようになった。どうしてこのような経緯に至ったのかはよくわからない。しかし、都市国家が市民兵の参加を不可欠のものとし始め、さらに、このような集会が度重なっていけば、兵士たちがより強固な力を得るのは当然のことである。つまり民主主義は、戦う者たちの「連帯」として始まったものだった。しかし、それは同時に部族的な性質を帯びていた。アテネにはもともと四つの部族があり、戦争の際は部族ごとに集まって敵と戦った。各部族は政務にあたる職員を選出したが、この部族の縛りはアテネが民主主義をさらに高めて選挙区制度を作るようになってもなお続いていて、ある人間が別の場所に移り住んだとしても、その男は自分の生まれた選挙区民として昔の選挙区で投票していた。つまりアテネ市民は、現在住んでいる場所とは関係なく、自分が生まれ育った選挙区と一生涯結びつけられていたのである。
直接民主制には人々が積極的に加担することが求められていたが、それだけ人々はこの制度に大きな信頼を寄せていた。アテネの民主主義の理想は、アテネの指導者ペリクレスの演説に示されている。これはスパルタとの戦いで死んだ兵士たちの葬儀における弔辞だった。その内容はトゥキディデスの『戦史』〔ペロポネソス戦争の歴史〕に記録されている。トゥキディデスは歴史を客観的かつ公平な目で記そうと試みた最初の歴史家だった。トゥキディデスの歴史書の原稿はコンスタンティノープルに保存されていた。この書物が書かれてから一八〇〇年後のルネサンス期に、その原稿がイタリアに持ち込まれ、ラテン語に翻訳され、ここからさらに現代のヨーロッパのさまざまな言語に翻訳された。リンカーンのゲティスバーグの演説が登場するまで、ペリクレスの演説は政治家が墓地で行った最も有名な演説とされていた。ペリクレスの演説はリンカーンのものよりかなり長いので、以下に示すのはその抜粋である。
 我々の政体は民主政治と呼ばれる。なぜならそれが少数者の独占するものではなく、すべての人々のものだからである。個人間に紛争が生じた場合、法律の前にはすべての人々が平等である。社会的責任のある個人という場合でも、重要なのはその人がいかなる階級に属しているかではなく、その人が本当の才能を持っているか否かということである。
 人はその仕事を終えれば、魂を休めるために、ありとあらゆる種類の娯楽を享受することができる。一年を通じて、定期的に競技会や犠牲の祭りが行われる。各人はその家庭において美しく良い趣味をもつことができる。それは日々の暮らしを明るくし、心配事を振り払うものである。
 各個人は、日頃の家計のみならず、同様に国の政治にも大きな関心を抱く。ほとんどすべてを自身の生業に費やす者にはとくに詳しく国政の情報が伝えられている。これこそが我々の特性である。政治に関心を示さない人間のことを、我々は、自身の仕事しか興味のない人間とは呼ばず、「為すべき仕事を持だない人間」と呼ぶ。
仕事に従事しつつ社会参画意識の高い人々による、文化的で開かれた社会……、これこそ現在の民主主義のあり方を模索する人々にとって魅力的かつ理想的な姿だろう。もちろん、アテネの娯楽や美が奴隷制をもとに成り立っていたこと、さらに時として、市民は集会に強制的にでも参加しなければならなかった、という特殊な事情もあった。とはいえ、ペリクレスの演説が良い影響を長く及ぼし続けたのは事実だった。数世紀にわたって、ヨーロッパのエリートたちは民主主義にただ興味を示すばかりではなく、民主主義を警戒するための教育も行ってきた。なぜなら彼らが読んだ古代の著作家たちの大半は民主主義に敵意を持っていたからである。一九世紀初頭のイギリスの急進的な学者ジョージ・グロートは民主主義を論ずるために、ギリシャに関する新しい研究を行い、民主主義と高等教育は互いに関連し合っていて、一方を非難し、別の一方を受け入れることは不可能であると説いた。これはイギリスの民主主義の根源に関わる彼の大きな貢献だった。
現代の我々にとっても、ギリシャの民主主義には我々の理想とは相反する側面がいくつかある。それはあまりにも共同体への参加意識が強調され、なかば強制的ですらあって、個人の権利という意識がほとんど見られないことである。アテネ市民の特権は、その一員であるということであり、ペリクレスが言ったように、政治に興味がない人間はここで仕事をしてはならない、ということでもあった。我々が関心を持つ個人の権利は、アテネとは別のところに起源があるようだ。
アテネをはじめとするギリシャの小都市国家は、前四世紀初頭にギリシャの北のマケドニアの支配者アレクサンドロス大王によって独立を奪われた。民主主義は失われたが、アテネで育まれたギリシャ文化は相変わらず繁栄を続けていた。それがさらに、アレクサンドロスの帝国内で広がった。その帝国は東地中海から中東にまで拡張された。アレクサンドロスがギリシャ世界にもたらしたものは、後世のローマがこの地を征服し、それがギリシャ語を話す帝国の東半分〔東ローマ帝国〕になった時にもなお残っていた。


躍進する中国 滴滴の衝撃

2019年06月28日 | 5.その他

『米中ハイテク覇権のゆくえ』より 躍進する中国--AIを制するものが世界を制す
北京を変えた「ライドシェア」
 たった1秒間に300以上の注文が入る脅威のアプリ。中国の「滴滴」をご存知だろうか。スマホで車両と乗客を結ぶ配車サービスで、5億人を超える利用者を持つ巨大ユニコーン企業。この分野の先駆者であるアメリカのウーバーと肩を並べる。2018年9月には日本にも上陸。私たちの生活にも無縁とはいえない存在だ。
 2018年12月、吐く息が真っ白になるほどの極寒の北京のショッピングモールの前で目にしたのが、ひっきりなしに横付けされる滴滴の車だった。次々に降りてくる人たちの多さに圧倒されるが、その光景は家族や友人に車で送ってもらっているように見える。なぜならほとんどの車両がタクシーではなく、一般の乗用車だったからだ。
 この一般のドライバーが自分の車に乗客を乗せる仕組みを「ライドシェア」という。日本では法律で禁じられている「白タク営業」と呼ばれ、ネガティブな印象が先行する。しかし、乗客たちに話を聞くと「毎日使っている」「これがないと生活できない」と口々に評価する。実際、滴滴の利用者は世界1000都市・5億5000万人にまで広がっているのだ。
 ライドシェアがここまで広がった最大の理由は、〝タクシーがつかまらない〟というストレスを解消したことだろう。ただ、滴滴のサービスを実際に使ってみると、さらに多くの理由があることがわかってくる。まずアプリをタップすると、乗車場所と目的地を入力するようになっている。また、高級車、普通車、タクシーなどから好きな車両を選択できる。呼び出しをクリックすると近くの車と瞬時にマッチング。「到着まで3分」といった待ち時間が表示される。
 料金支払いの工夫も細かい。乗る前にアプリ上に基本料金や距離料金まで掲載される。そして降車時に支払い行為がない。降りたあとにアプリに支払い金額が通知され、承認すれば決済完了。
 さらに、料金も安い。中国の都市部の物価は、日本とそう変わらないレベルになってきたが、北京の中心部から空港までの35キロで124元(日本円で2000円程度)。交通状況は違うが、東京でこの距離を移動すると1万円は超える。
 また、乗り心地が良かったかどうかをアプリから評価できる仕組みがある。この評価は滴滴にすぐに届く。過去の事件やトラブルの教訓も踏まえ、ドライバーにサービス向上の意識を植え付けさせている。
 さらに、ARの技術を使った新たなサービスの導入も始めていた。ARとは、実在の風景にバーチャルの情報を重ねて表示する「拡張現実」と呼ばれるテクノロジーだ。滴滴が始めたサービスは、敷地が広大な場所でスマートフォンをかざすと、画面に青い矢印が出てきて滴滴の車両の乗り場まで案内してくれる。空港やショッピングセンターで、1メートル刻みで案内の矢印を表示してくれるため、呼んだ車がどこに到着するかを心配するストレスを解消する仕組みだ。技術担当者は「建物の基礎データと利用者の位置情報を独自のアルゴリズムで計算している」と胸を張る。中国企業がここまで〝かゆいところに手が届く〟サービスを実現していることに驚かされた。
AIで都市を管理する「交通大脳」プロジェクト
 利用の現場を取材したあと滴滴の本社を訪ねた。滴滴は創業7年で中国のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)に次ぐ注目企業にまで成長した。今回、技術部門トップの張博CTOが、会社の心臓部を見せてくれた。
 案内された部屋に入ると、暗闇の中から大きな液晶画面が現れた。そこには、無数の光がうごめいている。聞くと、滴滴が管理している車の動きをリアルタイムで把握しているという。滴滴には、毎日3000万もの車の移動データ、いわゆるビッグデータが入ってくる。7年間積み上げた膨大なデータにより、車と乗客をさらに効率的に結びつけるだけでなく、いつどこでどれだけの利用需要が発生するかまでわかるようになっている。
 すでに15分後の予測は85%の精度まで上がっているという。これを実現しているのが膨大なデータを人間の能力を超えたスピードと精度で解析しているAI=人工知能だ。産業界では、この〝ビッグデータ〟と〝AI〟を制するものが世界を制するとまで言われる。
 滴滴の優位は明らかだ。滴滴は利用者の待ち時間だけでなく、ドライバーにとって最も悩ましい空車時間も減らした。ライドシェアはタクシー会社の客を奪うと見られることもあるが、滴滴は多くのタクシー会社に配車管理システムを提供。仲間に引き入れた。600人のドライバーがいる北京のタクシー会社の経営者は「滴滴と組んでから空車率が改善し、売り上げがアップした」と話した。
 滴滴は膨大な移動データを学習し続けるAIを活用した「交通大脳」というプロジェクトも進める。言葉のとおりの壮大な構想で、AIによって都市全体の交通をコントロールしようというものだ。
 滴滴が収集できるのは、登録された車の移動データだけだが、「交通大脳」では、政府の協力のもと一般の自家用車、バスや鉄道のデータも一つのクラウドに収集する。都市ごとに設置されたAIが、道路上のあらゆる移動ビッグデータをリアルタイムで吸い上げ、分析。道路の信号や電子標識を自動操作して、最も効率的な都市交通を生み出そうとしている。
 すでに中国の20都市でトライアルを開始し、渋滞が減って車のスピードが1・4倍に上がった交差点もあるという。
 張CTOは、このプロジェクトが軌道に乗れば、最適な道路や地下鉄の建設計画を提案できるようにもなると胸を張る。
 個人が車を持たなくなる!?
  そして、自動車業界を揺るがす計画もある。ライドシェア(相乗り)を〝席単位〟にまで拡大するというのだ。滴滴は今は1台の車に1組の客を乗せているが、残っている空席を活用し、同じ方向に移動する人たちを集めて運ぶ手法だ。これが広がれば必要な車は減る。道路の交通量が半分になれば、渋滞や事故も減り、環境まで改善できるという。
  今の車の空間で想像すると、他人と席をシェアするのは抵抗があるが、空間を広げた箱型の車が出てきたり、車両にもビジネスクラスのような仕切りができたりすれば、それも可能かと思えてくる。
  こうした構想への布石は、アメリカ・シリコンバレーにもあった。2年前に設立された開発拠点だ。関係者以外立ち入り禁止・撮影NGの扉の先にあったのが、試験中の自動運転車だった。2018年5月にカリフォルニア州の許可を取得し、すでに公道の走行も開始。滴滴は、ロボットカーが街を走る未来までをも見据えていた。スマホをタップして家の前まで無人の車が迎えに来るサービスが生まれれば、個人が車を所有する必要はなくなるのかもしれない。
  滴滴には、日本の自動車メーカーも関心を示している。2018年10月、日本を代表するトヨタ自動車とソフトバンクの2社が、後述するMaaSの展開を見据え、移動サービスの確立に向けて共同で新会社を設立するという衝撃の提携を発表した。実はソフトバンクは滴滴に6000億円近くを出資する大株主。トヨタはソフトバンクを通じて、ライドシェアサービスのノウハウを取り込もうとしているのだ。
 想像をはるかに超える中国
  最後に、滴滴の創業者で経営トップの程維CEO(35)に会った。程CEOには尊敬してやまない経営者がいる。米アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏だ。滴滴のシンボルカラーが「オレンジ」なのは「アップル」を意識してのこと。程CEOも、人々がワクワクするような大きな変革を起こしたいと、熱く語った。
  「自動車は100年前にドイツ人が発明し、その後、アメリカ人が普及させた。しかし今日では自動車と交通産業はシェア、電気自動車、スマート化の方向へと変革を遂げようとしている。この時代にイノベーションを起こし続け、人々の移動と生活に変革をもたらすのが滴滴の使命と未来図だ」
  私たちが中国で見たものは、想像をはるかに超える中国のテクノロジーの成長だった。新しいサービスを積極的に生活に取り入れる国民。優秀な人材の獲得や技術開発に貪欲な若き経営者たち。彼らの成長を強力に後押しする国家。これらが重なり合った猛烈な勢いが、アメリカの焦りをかき立てているのかもしれない。


ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』

2019年06月28日 | 6.本

『ベストセラー全史【現代篇】』より 記憶に残っている2冊
史上一位のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』
 出版科学研究所は二〇一四年一〇月、戦後ベストセラーの累計調査をおこなった。対象書籍は単行本と新書本である(四七〇頁)。ベストセラーのなかのベストセラーを確認する調査だが、その結果、全体で一位になったのは黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』(一九八一年〔昭和五六〕三月刊)で、五八一万部だった。刊行から四〇年以上経った二〇一〇年代でも絶えず重版が掛かっている。二位『道をひらく』(松下幸之助著)との間が七〇万部開いているので、この地位はしばらく変わらないだろう。日本の出版史上最大のベストセラーだといってよい。しかもこの本は、廉価本(新書)ではないし映像化がなされたものでもない。
 著者の黒柳は刊行当時、テレビの売れっ子タレントだった。講談社が黒柳に本の出版を持ちかけたのは二〇年前。その特異なキャラクターに目をつけたからだという。しかし、黒柳が多忙で実現しないままとなった。
 黒柳徹子は一九三三年(昭和八)、いまの乃木坂で生まれ、大田区北千束町で育つ。父親は音楽家で、バイオリニスト、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めている。母黒柳朝はエッセイストで、著書『チョッちゃんが行くわよ』(一九八四年、主婦と生活社)は一九八七年、NHK連続テレビ小説「チョッちゃん」としてドラマ化された。徹子は長女であり、弟にバイオリニストの黒柳紀明、妹にバレリーナでエッセイストの黒柳薦理がいる。
 黒柳徹子は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科を卒業し、NHK放送劇団、文学座研究所を経て、一九五三年(昭和二八)、NHK専属テレビ女優の第一号になった。テレビの発展とともにマルチタレントとして活動を続け、紅白歌合戦の司会も務めている(一九五八年、一九八○年、紅組)。テレビ朝日での「徹子の部屋」は一万回以上続き、長寿番組としてギネスに認定された。
 黒柳はテレビ朝日の「モーニングショー」に出ていたとき、出身の私立トモエ学園の話をした。すると、番組の直後から電話が鳴り止まなかったという。その経験からトモエ学園のときのことを、いつかは書きたいと思っていた。講談社は二〇年前に執筆依頼をしていたが、出版部の岩本敬子がちょうど新たに話を持ち出していた。岩本は元々、劇作家の飯沢匡に、いわさきちひろの評伝を頼んでいたが、原稿が進捗せず、飯沢はその代わりに黒柳を紹介したという経緯がある。黒柳にはトモエ学園を書く希望が生じていて、講談社から改めて依頼を受けたとき、このテーマで書こうと決心したのだった。トモエ学園は自由が丘にかつてあった幼稚園と小学校(旧制)の学校。自由が丘の名はこの学園の前身、自由ケ丘学園から来ている。
 まもなく執筆がはじまった。タイトルにある「トットちゃん」とは、本人が舌足らずだったため、自身の名前徹子を「トット」と発音していたことにちなんでいる。また当時、リストラ予備軍のサラリーマンを窓際族と呼ぶようになった。黒柳徹子自身、最初に登校していた私立小学校を一年間で退学になっている。そこから「窓ぎわ」(辞めさせられる人間)という言葉のイメージを重ねてタイトルにした。
 『窓ぎわのトットちゃん』のキャッチコピーはこうである。
  〈「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ!」。小林宗作先生は、トットちゃんを見かけると、いつもそういった。「そうです。私は、いい子です!」そのたびにトットちゃんは、ニッコリして、とびはねながら答えた。--トモエ学園のユニークな教育と、そこに学ぶ子供たちを、いきいきと描いた感動の名作。〉
 刊行は新学期を前にした三月一〇日。知名度抜群の黒柳だったが、講談社は初版二万部でスタートした。一〇万部まで行けばいいと思っていた。タレント本は当たり外れが大きいからだ。実際、『窓ぎわのトットちゃん』は当初、売れ行きが良くなかった。しかし、刊行翌月の四月から売れ出した。学校の話なので、新学期の時期に注目され出したのだ。また当時、偏差値教育への批判が起きており、偏差値にとらわれない自由な学校の物語は受けたといわれる。
 『窓ぎわのトットちゃん』はテレビ、新聞、週刊誌とマスコミ全体で取りあげられ、その都度、部数の上昇をもたらした。刊行後、売れ行きが落ちてくるたびに、タイミングよく本や著者に関する話題が登場し、それをパブリシティに生かして再上昇のエネルギーとした。マスコミが話題を提供したほか、著者のNHK紅白歌合戦の紅組司会決定、教科書への採用、著者の皇居園遊会への招待、英語版の出版などトピックが続く。これらを機に部数の再上昇を繰り返すことで、同書は八か月後にそれまでの歴代一位『日米会話手帳』を抜き、一年後には五〇〇万部へと達した。一九八一年のベストセラーランク首位は文句なしである。
 一冊の厚みは約二センチなので、五〇〇万部というのは、積み上げると一〇万メートル、富士山の約三〇倍の高さに達する。単行本以外に文庫と英訳本があるので、それらを合わせると途方もない数字に至る。一九八八年段階で合わせて七〇〇万部といわれ、二〇一六年で七五〇万部とのことである(「徹子の部屋」三月三一日での黒柳発言)。累計八〇〇万部としているところもある(「トットてれび」HP)。
『Santa Fe』旋風 
 続く一九九一年(平成三)はバブル崩壊がはっきりあらわれた年だが、ベストセラーの上位にはそれを背景とした本は見当たらない。代わりにこの年の出版界を特徴づけ、社会現象にさえなった書籍にタレントのヌード写真集がある。
 口火を切ったのは、一月刊の樋口可南子/篠山紀信撮影『water fruit』(朝日出版社)だった。大物女優のオールヌードということでマスコミに大々的に取りあげられ、話題を集めた結果、初版二万部は即品切れになるほどであった。樋口可南子がちょうどNHK大河ドラマ「太平記」に出演していたことも効果があった。一か月余りでて一〇万部を突破し、その後も重版が続いて四二万部に至っている。なお、所謂ヘア問題については、「全体としては芸術的でわいせつに当たらない」と取締当局の見解が出されて決着した。これで類書のヌード写真集が出しやすくなった。
 写真集のヒットは販売面での貢献度が大きい。価格が高いことが主たる理由だが、『water fruit』も三二〇〇円の本であり、高額本が売れたのだから書店や取次関係者はかなり潤った。その『water fruit』は帯上部に「不測の事態」と大きく打ち、下部に「accidents 1」と記している。第一弾というわけで、次作が示唆された。
 そして同年一一月一三日、同じ朝日出版社刊、篠山紀信撮影で『Santa Fe』が登場する。モデルはタレントの宮沢りえであった。『Santa Fe』刊行にさいして、版元は徹底的な情報管理をおこなう。そのうえで刊行一か月前の一〇月一三日、読売新聞に、翌一四日、朝日新聞に写真入りの全面広告を出したのだ。不意打ちのような宣伝作戦は功を奏した。人気絶頂の宮沢を起用したことで、マスコミも大騒ぎとなる。
 連日さまざまなメディアが発売前の『Santa Fe』を取りあげた。反響は大きく、刊行前受注は数十万部に達した。発売日には初版と重版が一緒に出るという珍事も起きた。一一月一三日の発売だが、同月下旬には一二○万部突破となり、年内で一六〇万部まで伸びていく。四五〇〇円の高額本であり、それがミリオンセラーとなったのだから、出版界全体の売上げ数字にも影響を与えるほどであった。これまでにない異常な現象というしかなく、『出版指標年報』は〈出版界にとどまらず、九一年の日本の事件〉とまで記している。
 『Santa Fe』の大成功(部数と販売額)はヌード写真集への期待をさらに大きくした。各社から類書が陸続と刊行されるようになる。翌一九九二年には年間で二〇点が刊行され、突出した売れ行きがあったのは『島田陽子写真集Kir Royal』(竹書房)で三八万部だった。
 次の一九九三年は八〇点を超え出版ラッシュの様相となる。売れ行きのベストスリーは『SEX by MADONNA』(同朋舎出版)の三六万部、『川島なお美写真集WOMAN』(ワニブックス)の三一万部、『石原真理子写真集 Marie!』(竹書房)の二七万部。他に二〇万部クラスが三点、一〇万部クラスが三点あった。どれも三二〇〇円から六〇〇〇円(『SEX by MADONNA』)という高額本ばかりで、同ジャンルの市場規模は一五〇億円といわれるようになった。
 ヌード写真集は翌一九九四年も出版ラッシュが続き、ついに二〇〇点を超える。さすがにこれだけ刊行されると、小粒化するのは否めない。版元はパブリシティということで、写真集の発売に併せて週刊誌のグラビアに一部の写真を流す作戦を展開したが、それも新鮮味をなくした一因となった。一冊あたり一〇万部を突破するものは少なく、ジャンルはあっという間に氾濫から衰退への道を辿りだす。一九九五年になるとついに、〈一世を風靡したヘア・ヌード写真集は鎮静した〉のである。ヌード写真集の「フィーバー」現象から氾濫、鎮静への経緯は、多点数化時代の書籍出版の問題を直截に表出した点で、きわめて特徴的といえよう。


結婚しない若者が増えているというが、その現状は?

2019年06月28日 | 7.生活

『人口減少時代の論点90』より 結婚 孤立
結婚しない若者が増えているというが、その現状は?
 ポイント
  A 男性では4人に1人が50歳の時点で未婚。
  B 女性では7人に1人が50歳の時点で未婚。
  C 生涯未婚率は上昇している。
 1 生涯未婚率の現状と今後の予測
  生涯未婚率の現状は、男性は1980年(2・6%)以降、上昇が続き、2015年に13・4%となり、4人に一人が50歳の時点で未婚、結婚しない人生を歩んでいます。一方、女性は1980年に4・4%から、95年までは男性と比較して穏やかに上昇傾向となりましたが、2015年に14・1%まで上昇し、7人に一人が50歳の時点で未婚ということになります。
  生涯未婚率は、2035年まで上昇傾向が続くと推察され、男性の生涯未婚率は、20年には26・6%と上昇し、35年には29%になります。女性の生涯未婚率は、20年には17・8%に上昇し、35年には19・2%と推察されます。
 2 生涯未婚率の上昇による問題
  1980年から90年前後、男性の上昇率が高くなったのは、おそらく、バブル時代、好調であった景気が不況の影響を受け、給料の減少、安定した職場の損失などが原因と思われます。90年代終身雇用が崩れ、非正規雇用の増大による低賃金、長時間労働に身を置く人は多く、自分の収入で家族を養えるのか、という不安を抱いた人が多いと推察されます。
  近年、人々の婚姻に対する意識や行動も変わりつつあります。「男女共同参画に関する調査(内閣府)」によると、「どちらかといえば賛成」を含めると70%が「結婚は個人の自由である」と考えています。1992年(62・7%)時点と比較すると、7ポイント上昇しました。特に、20から30歳代では9割近くが結婚は自由であるという考え方に賛成しています。このことから、結婚するか、しないかについての自由度は高まり、趣味を楽しむ、自由を謳歌するなど、婚姻意識の変化が伺えます。
  少子化による若者の減少と未婚率の上昇などを背景に、婚姻件数は減少傾向にあります。2012年の婚姻件数は年間約67万組で、最も多かった1972年の約110万組と比べると、約43万組少ない6割程度となっています。
  生涯未婚率の上昇による問題は、①生涯未婚率の出生率に影響をおよぼす少子化要因。②共に暮らす人がいないことは、健康への自己管理能力が低下し、未婚者と既婚者を比較すると、未婚者の死亡率リスクが高い。③自立が困難になり介護や福祉、医療需要が増加し、社会がその役割を担うことになるなど、様々問題が生じます。
 3 家族機能が変化する社会
  婚姻に関する変化には女性の経済的な自立と非正規雇用の拡大による就労環境の悪化が挙げられます。都市部において独身生活を快適にする条件が整い、自分の多様な可能性を発揮できる柔軟性を保つため、結婚を避ける「結婚のモラトリアム化」の心理も晩婚化の要因といえます。
  世代分離、非婚化、晩婚化、離婚率の上昇など、家族のあり方は、伝統的な家族萌範から抜け出し、個人の主体的な選択にゆだねられつつあります。まさに家族機能は大きく変化し、その影響が懸念されます。
「核家族化」が何を引き起こしたか?
 ポイント
  A 家事などの女性・主婦への過重な負担。
  B 家庭内相互扶助力の低下。
  C 家族介護の困難。
 1 核家族化の進行~本当か。
  核家族の進行とよく言われます。一般に核家族とは、夫婦のみの世帯、夫婦と子どもから成る世帯、男・女親と子どもから成る世帯と言われています。特に、高度経済成長の過程で都市部への人口集中が進み、核家族化に向かったと言われており、祖父母・父母・子の3世代家族等の大家族が減少したことによるものです。
  統計上の動きを見ると、第1回国勢調査の1920(大正9)年時点で、核家族が全世帯の半数を超える結果となっていました。その後も含め、出生率が高い時代であっても、同一住居で同居できる夫婦及び世帯は限られ、長子以外の子どもたちは結婚すると実家を出て、自分の家を持つという背景もあって、戦前から核家族が多かったようです。直系家族世帯等の大家族世帯の割合が4割弱で減少傾向にあることからもそのことがうかがえます。近年においても50%台後半で減少傾向を示しながらも推移していますが、内訳を見ると「夫婦のみ」世帯と「ひとり親と未婚の子」世帯の割合が増加傾向にあり、核家族内でさらに小さい家族への変化が起こっています。
 2 核家族を生んだ背景~産業構造の変化、都市部への流出、単独世帯の増加
  さらに戦後の核家族化の大きな理由として挙げられるのは、産業構造の変化です。それは第一次産業から第二・三次産業へのシフトです。農林漁業から、都市部における雇用力のある製造業や小売、サービス業への雇用構造の変化です。それは、その後の進学率の高まりや生産年齢人口の増加とあいまって、都市部への転出と定着という形で核家族化を促進・維持することになりました。また、企業の全国展開によって転勤族が増えたこと。さらに、プライバシー重視の生活感の高まりなども、核家族化に繋がったと考えられます。
  また、核家放化は、世帯数の増加と世帯人員の減少という形で表れてきました。時系列でみると、世帯数は増加している一方、平均世帯人員数は、60年の4人から減少を続け、90年に3人を割って以降も減少、直近の2015年では2・33人となっています。こうした世帯人員の減少にあわせて、若者や高齢者の単独世帯の増加によって核家族化か進行しています。
 3 核家族化、世帯人員減少が引き起こした問題~家庭内相互扶助力の低下
  核家族化の結果、大家族世帯では家事などを多くの世帯人員で分担できましたが、核家族世帯では難しくなり、例えば、女性・主婦への過重な負担となることが多い現状となっています。さらに、世帯人員の一層の減少も加わり、親、特に母親対子だけの閉鎖された環境における育児ストレス、共稼ぎの増加による下校後の子ども(小中学生)の居場所の問題などが挙げられています。
  祖父母等の世代間、兄弟・姉妹間の助け合いや役割分担等の家庭内相互扶助力の低下や家庭内孤立に繋がりやすい家族構成になってきました。こうした状況が少子化や児童虐待を誘引しているとも言われています。さらに、核家族化は、家族介護の困難さの問題にも繋がります。
 4 今後の取組み~子育て、コミュニティ、福祉等幅広い取組み
  核家族化は、様々な要因が絡んで発生してきました。そのためにも、幅広い総合的な取り組みが必要です。当面は、地域雇用や子育て対策、女性の社会進出を踏まえた男性の育児・家事への参加、さらに、親世帯と子世帯がお互いサポートしあえるよう近い位置で暮らす「近居」という取組みも求められるでしょう。また、地域コミュニティの充実により核家族世帯に新しいつながりの場を提供していくこと。あるいは、高齢化する核家族への対応などの取組みが求められます。


こんなことをしていていいのか

2019年06月28日 | 7.生活

 こんなことをしていていいのか、の気分。
 孤立と孤独は気にならない。そのように生まれてきたのだから。自分しかないのは分かっている。
 第8章はキーワードの説明。以前出てきたことの繰り返し。付録的な扱い医師用。
 豊田市から「ラグビー色」が消えている。やり過ごせるか?
 ラグビーは検査一色になるでしょう。大変だね。
 ラクビー選手はダメですね。忘れ物を2日間も取りに行かない。仲間が捕まっても、証拠になるものをそのままにしておく。
 知の世界って、何か? それぞれが内なる世界を持つこと。


豊田市図書館の27冊

2019年06月28日 | 6.本

914.6『アメリカ紀行』
493.12『完全図解 糖尿病のすべて』血糖値を下げるおいしいレシピ110
230『超訳 ヨーロッパの歴史』
159『極上の孤独』
332.22『米中ハイテク覇権のゆくえ』
210.1『忘れてしまった高校の日本史を復習する本』
361.85『新たなマイノリティの誕生』声を奪われた白人労働者たち
334.31『人口減少時代の論点90』
915.6『鴎外・ドイツ青春日記』
589.79『ナイキ・シューズ革命』“厚底”が世界にかけた魔法
673.97『飲食店の好感接客サービス教本』基本+αで身につける
740.21『台風一過』
140.75『「かわいい」のちから』実験で探るその心理
159『悩む人 人生相談のフィロソフィー』
290.9『旅、国境と向かい合う』
206『越境する歴史家たちへ』「近代社会史研究会」(1985-2018)からのオマージュ
121.5『東アジア遭遇する知と日本』トランスナショナルな思想史の試み
210.6『日本近現代史を読む』
146.8『誰もわかってくれない「孤独」がすぐ消える本』
318.6『持続可能なまちづくり データで見る豊かさ』
023.1『ベストセラー全史【現代篇】』
312.27『シリーズ・中東政治研究の最前線① トルコ』
914.6『これからはソファーに寝ころんで』還暦男の歩く、見る、聞く、知る
943.7『ペーター・カーメンツィント』
302.38『フィンランドを知るためのキーワード AtoZ』
367.68『「宿命」を生きる若者たち--格差と幸福をつなぐもの』
498.59『60歳を超えたら「やせるな危険」』