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OCR化した5冊

『途上国社会の現在』

 補論 チエ・ゲバラの伝説

  若き日のエルネスト

  医師、エルネスト

  革命戦士、エルネスト・チエ・ゲバラ

  革命のイデオローグ、チエ・ゲバラ

  現代のチエ・ゲバラ

『アメリカ分裂』

 “合州国”を分解する

 『レッドステート ブルーステート 富裕州 貧困州』

 各州の社会的・政治的性格

  各州の社会的性格

  各州の政治的性格

  各州の社会的・政治的性格
   アラバマ
   アラスカ
   アリゾナ
   アーカンソー
   カリフォルニア
   コロラド
   デラウェア
   D.C.首都ワシントン
   フロリダ
   ジョージア
   ハワイ
   アイダホ
   イリノイ
   インディアナ
   アイオワ
   ケンタッキー
   ルイジアナ
   メイン
   メリーランド
   マサチューセッツ
   ミシガン
   ミネソタ
   ミシシッピ
   ミズーリ
   モンタナ
   ネブラスカ
   ネバダ
   ニューハンプシャー
   ニュージャージー
   ニューメキシコ
   ニューヨーク
   ノースカロライナ
   ノースダコタ
   オクラホマ
   オレゴン
   ペンシルベニア
   ロードアイランド
   サウスカロライナ
   サウスダコタ
   テネシー
   テキサス
   ユタ
   バーモント
   バージニア
   ワシントン
   ウェストバージニア
   ウィスコンシン
   ワイオミング

  人種投票の変化

『「テロとの戦い」を疑え』

 「アラブの春」のダブルスタンダード

 バーレーンにおける「アラブの春」の攻防

  立ち上がったシーア派住民

  民衆が真珠広場を奪い返した

  米軍の出撃基地の島

 「リビア革命」の激戦地を行く

  エジプト経由でリビア入国

  リビアという国

  殺害された高校生義勇兵

  激戦地ミスラタは廃墟に

  市街戦の中心地トリポリ通り

  激戦の最前線へ

 大国のダブルスタンダードに翻弄される民衆

  大国のダブルスタンダード

  真の勝者は「死の商人」

『計画化と公共性』

 家族研究と公共性

 家族研究における公共的視点

  「現場」における実践性と政策論

  家族研究における「標準家族」

 家族研究の実践的課題

 家族と公共性

  「公共家族」の構想

  公私二分論

 社会と家族の境界設定をめぐって

  親密圏と家族変動

  近代家族の変容

 あるべき家族を構想することの両義性

『排除と抵抗の郊外』

 再生事業と住民コミュニティヘの影響

 地域社会の底上げか、下層マイノリティの排除か?

 「ソーシャル・ミックス」の評価

  再生事業の目的と貧困層をめぐる処遇

  中産階級を誘致する施策

  再生地区への転入者とは誰か

 住民はどこに行ったのか?

  団地住民の移動と貧困地区の再編

   解体決定の説明会の光景

   団地住民の転居先と貧困地区の再編

  排除される世帯排除住民の抗議運動から

  「ゲットー」の社会関係資本と多様性

 「ミックス」の実情と課題

  新住民と地域

  旧住民と新住民の関係性ミックスの限界?

   企業の「ピンポイント移転」と「ゲーテッド・コミュニティ化」

   「定着者」と「部外者」の再編成「新住民寄りの政策」と旧住民の疎外感

 5 都市政策と地域社会の再編
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こんなざまを見せてどうするのか

落ち着かない

 お腹が安定していないと中々、落ち着かない。

 何となく、風邪っぽくなっている。これは奥さんが望んでいるカタチなんでしょう。

こんなざまを見せてどうするのか

 俺がいる限りは、なんでも起こるけど、こんなざまを見せてどうするつもりなのか。
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「ゲットー」の社会関係資本と多様性

『排除と抵抗の郊外』より 再生事業と住民コミュニティヘの影響 住民はどこに行ったのか? 団地住民の移動と貧困地区の再編 排除される世帯排除住民の抗議運動から 

郊外団地が地域内だけでなくマスコミなど地域外部の人間によっても「ゲットー」として否定的に表象され、自治体の関係者が再生事業によってその「ゲットー」の解体を目指していたのは先に見たとおりである。ここで言われる「ゲットー」とは荒廃した建物やその建物が地域環境において孤立しているというハード面のみを指しているわけではなく、そこに「同質的な人々」が固まって居住することで形成されるコミュニティを指していた。このようなコミュニティは人々がお互いに負の影響を及ぼしあうものとして、つまり負の社会関係資本であると否定的に理解され、そのようなコミュニティを解体することが再生事業の目標とされてきた。

さらに先行研究においても、このような団地コミュニティの社会関係資本の蓄積が及ぼす負の影響が指摘されることが多かった。たとえばイサベル・クタンはパリ郊外の少年院出所者の社会再統合過程について調査し、秀逸な分析を展開しているが、そのなかでも団地で暮らす若者が、団地内部の緊密な人間関係から抜け出せず、その影響で「段階的に非行に手を染めざるをえなくなる」過程を分析し、そのことを「歯車に巻き込まれる(engrenage)」と表現している。

しかし同時に郊外団地コミュニティは住民にとって必ずしもマイナスだけではなく、そのような社会関係資本の蓄積が住民に何らかの利益をもたらしてきたことも指摘されてきた。地域を熟知し、知りあいも多く、コミュニティ内部のネットワークを活用できることは住民にとってメリットでもあった。それはときには足かせにもなることもあるが、同時に貴重な資源でもあったのである、元住民に対するインタビューを通して具体的にみていこう。

 前の団地は入居して5年で、すべての住民と知りあいになりました。近所の人がとても親切で、よくしてくれました。クスクスを持ってきてくれて一緒に食べたり、わたしもお礼に何か持っていったり、親しくしていました。お互いに用事のあるときには子どもを預けたり預かったりして、人間的なつきあいがありました(インタビュー36)。

 私の住んでいた建物は住民が団結していました! 住民同士よく気があっていて、知らない人なんてひとりもいませんでした。みんな知りあいで、すれ違うと「元気? お子さんはどう?」と声をかけあい、とても感じがよかったんです。問題が起きることなどありませんでした。一度だけ、若者とトラブルになったことがありました。みんなで暮らしているという意識に欠けていて、大音量で深夜に音楽をかけていました。でもこの問題もみんなで協力して解決したんです(インタビュー23)。

 これほど孤独を感じるとは思ってもみなかった団地を出て、新しい建物に移れると喜んでいたのに、ここに移ってきてから何もすることがなくて気が狂いそう(笑)。なんとか適応したいけど、簡単にはいかない。何をするにもお金がかかる。(……)D団地のよさが今になってわかった。今でも近くに行ったついでに寄ると、色んな人に会うし、やることもいっぱいある。それに比べてここは何もない、砂漠同然(インタビュー22)。

 今の建物は12世帯しかいないけど、みんなお互いの名前も知らない。挨拶しても返事しない人もいる。誰とも会わないよ、驚くほど誰とも会わない(インタビュー33)。

 ここには知りあいが1人もいない。すれ違うと挨拶するだけ。D団地の時はよかった。ここでは人間関係が存在しない。こんにちはって言うだけ。だから玄関のチャイムが嗚ると、びっくりして怖くなる。いったい誰って。D団地のときは、しょっちゅう「今からちょっとあがってもいい?」と人が来ていたのに(インタビュー23)。

ヴァカンは。 1950年代までの黒人ゲットーが支配層である白人社会と被支配層である黒人社会に対してそれぞれ異なる機能をもち、黒人社会に対しては「(ゲットーの)住民を外部の支配者との接触から解放し、限定された人間関係内部での多極共存とコミュニティ形成を促す点で、住民を統合し、保護するデバイスである」と述べる。この時代の黒人ゲットーと現代ソランスの郊外団地の間には決定的な違いもあるが、コミュニティが住民に与える「統合」と「(外部社会からの)保護」という機能を果たしている点において、程度や規模の差こそあれ、共通点も見られる。

ところが団地再生事業によって住民が小規模集合住宅に分散され、団地を中心に構築されていた住民間の社会関係は分断された。そのことによって、団地コミュニティの統合・保護機能が失われた。このことは住民に一定の利点をもたらしていた団地の社会関係資本の剥奪につながり、住民に不利益をもたらし、その生活基盤の弱体化につながる可能性がある。この点について、リヨン郊外の団地再生事業の調査を行ったピエール・ジルベールも次のように述べている。

 再生事業の影響の全体的評価をするにはまだ早いかもしれませんが、これまでの調査でわかったことの1つに、政策で言われる「地区から抜け出したくても抜け出せない(captivite)」という説に反して、取り壊し団地の住民の大半が「ここに残りたいと強く願っている」ことです。そこから浮かびあがるのは、再生事業によって地区を出て行かねぱならなくなった世帯と残る世帯のどちらにとっても生活基盤を弱体化するリスクがある点です。団地に残れても、これまで関係を築いてきた隣人がいなくなり、別の人に変わることは団地内の社会ネットワークを通して得られる資源を不安定にするからです。団地で暮らす庶民にとって近所付き合いから得られる資源は生活に不可欠です。再生事業はそれを破壊する傾向にあります。

一方、住民のインタビューを通して浮かびあがるもう1つの点として、D団地が「郊外ゲットー化論」で言われているように「同質的な人々の集まり」では必ずしもなかったことである。D団地のような「大規模団地」の住民は「ゲットー住民」などとよぱれ、きわめて均質な集団として想定されがちであるが実際には職業、学歴、所得、エスニシティなどの面で看過できない多様性が存在することは、先行研究で明らかにされてきた。これとほぼ同じ指摘をD団地に居住していた住民についてもできる。たしかに同団地では失業率が26.3% (そのうち1年以上の長期失業率は61.9%、家賃滞納世帯の割合も29.9%など、オベールヴィリエ市でも貧困が集中する地区の1つであったが、その一方で、団地には一定の収入をもつ世帯もおり、なかには全国の所得中央値を超える所得のある世帯さえ、若干ではあるが存在した。世帯構成に関しても、一般に大規模団地に多いとされる大人数世帯ばかりではなかった。調査対象世帯の約3割は3人以下の世帯であった。出生地についても、外国出身者が圧倒的に多いことは確かであるが、出身国は旧植民地が中心であるものの、アジア、中東など多岐にわたり、エスニシティ面にも一定の多楡匪が存在する。また渡仏時期に関しても、長期定住者もいればニューカマーもおり、年齢層も20代から70代にまで及ぶ。さらに居住履歴にも看過できない差異が認められる。

それぞれの面で多楡l生か存在するだけでなく、さらに重要なのは、これらの変数が組み合わされることによって、より大きな多様性が生まれている点である。たとえば渡仏時期が比較的最近で、かつ世帯主の年齢が比較的低い世帯と、世帯主の失業が長期間にわたっていたり、一定の年齢に達して(再)就労の見通しがたたなかったりする世帯とでは、団地で暮らすことの意味(今後、別の住宅に移動できる見通しがあるか否か)は異なる。また同程度の収入でも世帯人員数に応じて生活水準は同じではない。さらに期間限定雇用などで収入が不安定か、年金のように安定しているかの違いもある。同じ「労働者」でも雇用形態は多様で、安定度にも差異が存在する。このようにD団地住民の生活実態にはかなりの多様性があり、一般に言われる「団地ゲットー論」とは大きく異なっていた。

ところが団地解体が決まり、住民の再入居先の調整に着手した社会住宅管理会社は民間企業を通して住民の要望とバックグラウンドを調査し、このように多様な各世帯の経済状況や家族構成を詳細に検討し、それにもとづいて審査をおこない、多様化された社会住宅に振り分けた。たとえば年金生活者のように定収入があり、しかも世帯人数の多くない層は、新しく建設され、比較的戸数の少ない集合住宅に移動した。それに対して収入が不安定だったり、多人数だったりする世帯は市内の既存の団地に再入居し、そのうち母子世帯や家賃を滞納する貧困世帯は老朽化の激しい団地への転居を余儀なくされた。そして正規の契約や滞在資格をもたぬ最も不安定な層は社会住宅から退出させられた。

このように老朽化団地を取り壊し、多様な住宅を新たに建設するというD団地地区の再生事業は、大半が市内や同地区内で居住を続けたという点で大規樅な地域間移動は引き起こさなかったが、地域内でのミクロな移動を引き起こした。このような移動は、社会住宅管理会社が収入、家族構成、生活水準などの基準をもとに団地住民を細かく分類した結果として発生した。こうして、団」也住民はより同質性の高い小集団に細分化された。こうして地域社会のミクロレベルにおいて住民の階層化が引き起こされたと考えられる。

そう考えると、再生事業はオベールヴィリエ市というメソレベルにおいては(下位)中産階級住民の誘致によって住民構成の多様化をある程度生み出したが、その一方で住民の顔が見える範囲での社会関係において多様性は減少し、隣人関係の同質性は逆説的に高まった。どのレベルで判断するかによるものの、ミクロレベルにおいては、再生事業は目的の反対、つまりソーシャル・ミックスを減らす方向に働いたとも言える。ここでもまた、政策の目標(貧困地区の住民構成の多様化)と現実に引き起こされた結果が乖離しているのがわかる。

本節では、再生事業によって団地に住んでいた人々の「その後」について、限られたデータに基づいて光をあてた。そこから見えてきたのは、オベールヴィリエ市の再生事業においては住民の大半が近隣に再入居するなど、一見すると(市長が繰り返し強調したように)ジェントリフィケーションとは全く異なるものに見える現象である。しかし非正規滞在者などの最下層は退去させられており、そのことをふまえると再生事業が(最)貧困層の排除を引き起こしたことも確かである。さらに他の社会住宅に再入居した層も家賃の上昇に悩んだり、団地コミュニティのネットワークなどの資源を失ったり、一定の不利益を被っていることもわかった。
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家族と公共性

『計画化と公共性』より 家族研究と公共性

「公共家族」の構想

 家族と公共性の関辿を考えるということは、広義にいうと社会と家族との関係性を問うということである。ここまでは、家族論に内在的な公共社会学的視点について概観したが、加えて、社会理論のなかで家族がどのように位置づけられてきたかについても見ていきたい。

 脱工業化社会に関する議論で知られるD.ベルの『資本主義の文化的矛盾』に「公共家族」というびがある。公共家族は、public householdの訳語であり、展開されているのは公財政にかかわる議論ではある。しかし、個別世帯の利害を超えて、いかに公共的レベルでの財政に関する了解を形成するかという点は、家族と公共性を考える際の示峻を含んでおり、またベルの日本理解は当時の日本社会に向けられた外からのまなざしを代表する--一つであるといえる。

 象徴的なのは巻末に収録されていると訳者である林雄二郎との対談である。

 林は、「公共」を阻む日本の家族意識を「一家意識」とし、以下のように述べる。「日本人はまず、個人としての自覚を充分に確立し、そういう個人の集まりとしての公共という概念を考えるようになる必要があります。こういう道を通ってはじめて、真の「公共家族」が日本にも実現すると考えます」

 対する著者(ベル)の見解は、「公共家族」の「創設」とは、広いコンセンサスを形成することであり、「一家意識」、「日本株式会社」ではなく、「公共の利益」や大きな社会制度の必要性を指摘する。「恩義関係の網の目「フレーム」」という中根千枝の表現を用いて日本社会を捉えている。

 さらに林の指摘をうけて「黄金の中庸」として次のように問題提起をする。「ところで林先生のご指摘は、ひとつのおもしろいパラドックスを生み出しています。私は、アメリカの市民は「あまりにも」個人主義的で、そのため政治体制が困難に直面していると申しました。あなたは、日本の市民が、まだ充分に個人主義的ではなく、これから、より大きな意味を持った、個人個人のアイデンティティーを確立しなければならないとおっしゃっています。

 多分、実際そのとおりなのでしょう。しかし、どこかこの二つの中間点に、「黄金の中庸」が存在するはずなのではないでしょうか」

 ベルと林の対談に見られるアメリカの個人主義と日本の集団主義という対比は、当時(1970年代)の日本社会論を代表するものであるといえる。これらの発想を現在社会にそのまま適応できるのかという問題はあるが、公共性にかかわる議論を先取りしている点は、示唆に富んでいる。「市民社会論」「親密圏と公共圏」「ケアの倫理」等の今日的な議論との共通性もあり、生活や生命を支える社会的連帯をどのように形成することができるのかという課題に接合するテーマである。

 対談に見られる集団主義の議論は、公共領域を家族の拡大としてみるのか、別の領域として考えるかという家族と社会の境界認識をめぐる論点とも重なる。公と私の関係、境界については、たとえば、有賀喜左衛門は、自身の日本文化論を展開するなかで、日本社会が公私の入れ子構造になっていることを指摘する。日本社会における公と私を連続するものとして位置づけるという点は、三戸公の議論にも見られる。日本社会論における一つの公私関係の捉え方と言ってもよいかもしれない。

公私二分論

 公私を連続するものとして捉え、それを日本社会の特徴とする考えと対照的であるのが、近代家族論における公私の分離という視点である。近代家族論においては、公的領域と私的領域が二分化され、家族が後者に振り分けられることを近代社会の特徴としてあげている。しかし、このことは決して家族が公的な意味を持っていないということを意味してはいない。むしろ、近代社会における一つの機関として、再生産領域、養育や介護を無償で担う領域として私的領域に振り分けられることを意味している。今日、育児や介護の社会化が叫ばれて久しいが、これは、歴史的にみれば、そもそも家族だけが担っていたことをはじめて社会化する、ということではない。共同体のなかで担われていた役割が家族へと収斂していった近代家族化の過程をへて、今改めて脱(近代)家族化、社会化が問われていると捉えるべきであろう。

 夫がサラリーマン、妻が専業主婦という近代家族の原型は、1910年代以降の都市中間層家庭に見ることができる。この層は、資本家と労働者の中間に位置するということに加え、中小規樅の地主層や商業などの自営業に従事する旧中間層と区別して新中間層とも呼ばれている。新中間層の多くは、地方から都市へ流入した人々からなり、これらの人々が俸給労働に就くことで社会層として出現した。夫がサラリーマン、妻が専業主婦という家族は、明治期にも旧士族出身の上級官吏(公務員)や大企業の会社員などの限られた層においてみられたが、大正期以降、時代を経るにともなって、教師や一般企業の会社員へと広まっていった。その主な担い手は、農村から都市へ流入してきた家産、家業をもたない次男三男であった。

 都市新中間層家族に現れてくる重要な特徴は妻が無職、すなわち専業主婦であるということであった。妻が専業主婦になり家事・育児に専念するには少なくともいくっかの条件が必要である。まず夫の収入だけで生活が成り立つこと、そして生産の場(職場)と再生産の場(家庭)が分離していることである。当時も家族総出で働いて一家の生計を賄う世帯も多く存在したし、職場と家庭が分離していない自営業や農業では、妻が仕事に一切かかわらないという状況はおこりにくかった。

 専業主婦になることは、子どもに愛情をかけ、教育するという、新しい重要な役割を担うことをも意味した。教育の場でも、明治期以降、妻が家庭に入り、良き妻また母として、夫を支え子どもの養育に専念することを求める良妻賢母主義が現れてくる。家産や家業を持だない都市新中間層が就いたのは公務員や教員、会社員といった職業で、これは、学校教育を媒介として獲得された近代的職業であった。

 戦前期の近代家族は、戦後行動経済成長期に大衆化、一般化する。落合恵美子はこの現象を「家族の戦後体制」と呼ぶ。先述した公私を連続するものとして捉える視点が注目される時代は、近代家族の大衆化の時期にあたる。お互いが見ている社会は、同時代のものである。公私の関係一つとっても枠組みによって対照的な議論が展開されている。

 社会と家族を公と私に二分する区分とは、やや位相を異にするが、親密圏と公共圏という対比も、公的なるものと私的な関係性との対比によって社会を捉えようする視点の一つであるといえよう。家族と社会との境界の設定の仕方そのものが社会的な産物であり、その境界にはさまざまな議論や財政に関する政治、そして社会的な認識がかかわっている。それらを解きほぐしていくことが、実践の場においても政策論においても家族の公共性を議論する際の課題である。
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えぷろんは値札表記と清算が異なる

えぷろんは値札表記と清算が異なる

 2パックで「398円」と表示されていたイチゴを持って、レジへ。清算金額があまりにも高いので、レシートをチェックしたら、1パック「398円」×2となっていた。

 確かめたら、値札は2パックと明記されていた。それを言ったら、誰かが書いたけど、1パック「398円」ですと言って、値札を持って行った。

 それだけで終いにさせられた。だから、買うのを止めにした。おかげで、赤ん坊にイチゴを食べさせることができなかった。

 これからは、えぷろんではレシートをレジで確かめないといけない。表示と清算金額のアンマッチは商売の基本だと思う。信頼関係で成り立っているはず。

ノブが居ると、ピザハットになる

 夜はピザハットだった。ノブが奥さんと赤ん坊を連れてきた。昨日からいる未唯と赤ん坊で大人6人、赤ん坊2人が揃った。

 ノブが居る時は奥さんの景気がいい。ピザを頼んで、テイクアウトしてきた。「半額」だそうです。

 後から、前回のレシートと比べたら、一個あたりの金額が千円アップしていた。それが半額のトリックなんでしょう。
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豊田市図書館の27冊

588.55『日本のワイナリーに行こう2018』<日本ワイン>とワイナリーのガイドブック 綴じ込み付録「山梨」ワイナリーMAP

674『宣伝担当者バイブル』

493.7『ネガティブ・ケイパビリティ』答えの出ない事態に耐える力

361.04『計画化と公共性』

007.13『文系人間のための「AI」論』

019.9『「考える人」は本を読む』

331『マクロ経済学』

209『英語で読む 高校世界史』

319.1『中国・アジア外交秘話』あるチャイナハンドの回想

302『途上国社会の現在』国家・開発・市民社会

537.09『日本自動車産業の海外生産・深層現調化とグローバル調達体制の変化』リーマンショック後の新興諸国でのサプライヤーシステム調査結果分析

318.1『地方自治法概説』

323.14『はじめて学ぶ人のための憲法』

816『人生とビジネスを変える自分メディアの育て方』~夢を叶えるブログの作り方、教えます~

141.93『個性心理学』人間関係のイライラがゼロになる! 本当の自分と相手を知れば、すべてがうまくいく!

709.27『文化遺産はだれのものか』トルコ・アナトリア諸文明の遺物をめぐる所有と保護

783.48『人を奮い立たせるリーダーの力』

316.4『「テロとの戦い」を疑え』紛争地からの最新情報

337.1『現金の呪い』紙幣はいつ廃止するか?

323.14『立憲主義と日本国憲法』

318.6『地域資源とコミュニティ・デザイン』

289.1『おふみさんに続け!女性哲学者のフロンティア』西田幾多郎の姪 高橋ふみの生涯と思想

369.26『リアリズムの老後』自分らしい介護とマイケアプラン

366.4『人手不足なのになぜ賃金は上がらないのか』

338『仮想通貨で銀行が消える日』

289.3『信念の女、ルシア・トポランスキー』ホセ・ムヒカ夫人 激動の人生

159.4『女子の働き方』男性社会を自由に歩く「自分中心」の仕事術
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バーレーンにおける「アラブの春」の攻防

『「テロとの戦い」を疑え』より 「アラブの春」のダブルスタンダード

2011年2月、湾岸諸国の一つ、ペルシヤ湾に浮かぶ島国バーレーンに入国した。バーレーンとはアラビア語でバハル(海)の双数形、つまり「2つの海」という意味だ。アラビア語には単数、複数形以外に双数形がある。例えば「タリブ」は学生という意味で、複数形の夕リバーンは「学生たち」。双数形はタリパイン(2人の学生)となる。

バーレーンは面積が淡路島くらいの小さな国で、人口は100万人くらい。イスラム教シーア派が約70%を占めていて、約20%のスンニ派は少数派なのだが、政治権力はスンニ派が握っている(イラク、シリアと同じ少数派政権)。

なぜ「2つの海」なのかというと、それは真水と海水。地下水が出る緑豊かな島が、オアシス(真水)と美しいペルシヤ湾(海水)に囲まれているというわけだ。

普段のバーレーンは観光の島で、首都マナマには5っ星ホテルが並んでいるし、F1グランプリレースが開催されるのもこの島だ。

しかし11年2月のバーレーンは普段と全く違う状況、つまり「革命」が起ころうとしていた。チュニジア、エジプトで相次いで起きた民衆蜂起。「独裁政権打倒!」を叫ぶ人々が、なんとチュニジアではベンアリ、エジプトではムバラクという大統領を打ち倒してしまったのだ。

この「アラブの春」に敏感に反応したのが、相対的に貧しく、差別されてきたシーア派住民だった。首都マナマの「真珠広場」には、「独裁者、ハマド国王を倒せ!」「ハリーフア家(王家)からこの国を取り戻せ!」。数万人もの人々が叫びながら行進していたのだ。

2011年2月19日、厳戒態勢の空港で尋問されること4時間、なんとか入国を許可された私は、「革命」の舞台となっている首都マナマの「真珠広場」を目指した。タクシーを拾って広場に向かうが、広場に通じる道のすべてを軍と警官がシャットアウト。仕方なく遠く離れた場所で、車内から戦車と兵士を隠し撮り。大量に派兵された軍隊はほとんどがサウジアラビア軍で警察官はパキスタン、UAEから。なぜか?

国王を支援する国々は全てスンニ派政権で、バーレーンが崩壊してシーア派の政権になるのを恐れているのだ。

これでは真珠広場へ行けない。デモ隊も広場から退散させられたようだ。

マナマから橋を渡って対岸のシトラという町へ。実はこの町こそ、バーレーンにおける「アラブの春」の震源地。スンニ派が多く住む首都マナマに比べて、シトラは相対的に貧しく、弾圧されてきたシーア派住民の町である。

タクシー運転手のラティーファさん(女性です!)はシトラ出身で、昨日のデモで殺された被害者と顔なじみ。「これを見て!」案内されたのが墓地。警官隊の銃撃によって殺された若者アリーさん(22)がこの地に眠っている。イスラム教では遺体はすぐに埋葬しなければならない。墓地の前で合掌、冥福を祈る。

アリーさんたちの葬儀が町のモスクで行われている。モスクの壁面には昨日殺害された5名の写真が飾られている。アリーさんの父親が息子の写真を掲げてくれた。

「アリーはいいヤツだった」「日本からか? 彼は無抵抗で、平和的にデモをしていただけなのに撃ち殺されたんだ」。参列者が私のカメラに集まってくる。

その中の一人がおもむろにポケットから携帯電話を取り出した。

「これを見ろ! アリーたちが射殺された瞬間だ」

「えっ、あなたもデモに参加してたの?」

「もちろん。だからこの瞬間を撮影できたんだ」。

携帯の画面にデモ行進が写っている。真珠広場をまたぐ橋の上。バーレーンの国旗を持って叫びながら歩く人々。デモ隊は武器を持っていない。手にしているのは、国旗と花束だけだ。突然、前方に戦車と警官隊が現れる。

パンパンパン。銃声が響き、画面が乱れる。その間数秒。「アッラー、アッラー(神よ、神よ)」デモ隊の叫び声と銃声が重なる。5名の死骸が道路に横たわっている。泣き叫ぶ仲間たち、死骸に寄り添う人々…。

「昨日のデモか?」「そうだ。俺はすぐにこの動画をYou Tubeにアップした」。

彼の撮影した動画は、その後、衛星放送アルジャジーラが放送した。この「ライブ映像」を見たアメリカのオバマ大統領が「バーレーンでも民主主義が守られることを望む」とコメント。この動画はハマド国王にとって大きな痛手となった。

「アラブの春」は、しばしば「フェイスブック革命」つまりSNSが引き起こした革命といわれる。どういうことか?

真珠広場で数万のデモ隊が民主化を要求している時、国営放送は「お元気ですか? ハリーファ国王」などという番組を流している。インターネットのない時代、国民は国営放送や政府系御用新聞でしか、情報を得ることができなかった。国営放送では、民主化を求めるデモ隊を「過激派組織」と決めつけ、「一部過激派が武器を持って襲ってきたので、治安上、鎮圧しなければならなかった」と報道することができる。しかし今は「携帯電話を持った最前線のデモ参加者」が、アルジャジーラテレビの特派員になれる。動画を見れば、「デモ隊は武器を持っていない」し、「一方的に射殺したのは国王の軍隊」だということがわかる。そしてその映像は瞬時に世界に広がり、アメリカ大統領までが独裁政権に対して「懸念(=やりすぎ)」を表明しなければならなくなるのだ。

モスクでの葬儀参列者たちは「今日も真珠広場でデモをする」と言う。昨日は5名殺されている。そんなことをすれば、また…。

「これはまたとないチャンスだ。俺たちは30年間虐げられていた。殺されるのを恐れていては、現状は変わらない。大規模デモで真珠広場を取り返す」。

確かにそうかもしれんが、あんたら殺されてしまうがな…。

不安と興奮。彼らと一緒に真珠広場へ向かう。さすがにこのままこの人たちと広場へ向かうのは危険だ。「日本人、お前はここに残って我々デモ隊が勝つか、軍隊が勝つか、そのカメラで見ておいてくれ」。

真珠広場近くのサルマニア病院で待つように指示される。驚いたことに、病院の周囲には数千人の群衆。

今日もデモがある。軍隊は撃ってくる。負傷者が多数出る。負傷者は救急車で運び込まれてくる。つまり負傷者を励ますために病院は大群衆に取り囲まれていたのだ。

各国の衛星放送も取材に来ているので、アラビア語の他に英語の看板が目立つ。

単純に「ピース」とだけ書かれた看板もあるが、「俺たちはシーアでもスンニでもない。バーレーン人だ」「私はスンニ派ですが、この革命を支持します」などメッセージ系の看板も目立つ。

やがて病院の周囲は、犠牲者の写真を持つ人、国旗を打ち振る人でいっぱいとなり、やがて「ダウン、ダウン、ハマド!」(ハマド国王を倒せ!)の大合唱となった。午後4時過ぎ、大合唱が悲鳴に変わる。サイレンを鳴らして救急車が入ってきたのだ。地鳴りのような抗議と励ましの声。圧倒されつつ、人々の表情を撮影。

私のビデオカメラを見て、医師の一人が「こっちに来い!」と病室に案内される。

病院の廊下にベッドが出され、みるみるうちに野戦病院になる。催涙ガスを吸い込んで昏睡する人、酸素吸入器で応急処置されている人、ゴム弾が左胸にあたり、苦しそうに顔をしかめている人…。

そんな負傷者の中に、一輪の花をベッドに置いて横たわる若者。20歳の学生で、本日の集会に参加。軍に対峙している時、花一輪を手渡した。その後、軍と警察は「ピース」という看板を持っている人々に、ゴム弾と催涙弾を、花のお礼として「お返し」した。

「僕たちは石さえ持っていない。武器を持っていないことをアピールするため、両手を広げていたんだ。そしたら撃ってきた」。

救急車がやってきて負傷者が担ぎ込まれるたびに、悲鳴とうなりのような抗議の声がこだまする。群衆の怒りはピークに達していた。そんな時だった。

巨大なスピーカーからのニュースとともに、一斉に大きな拍手。

「革命だ!」「勝ったぞ!」と叫ぶ人々。何があったのか?

たった今、真珠広場から軍と警官隊が退場をはじめたと言う。

広場に向かう交差点では、喜びのクラクションが鳴り響き、みんな私のカメラに向かってVサインしている。

広場へ。

鳥肌が立った。数万の群衆。中央にはトラックを並べた即席ステージ。ステージには若者たちの遺影と抗議の横断幕。参加者の居場所が男性と女性、ロープで区切られているのはいかにもイスラム圏らしいが、どの顔も喜びと興奮に包まれている。

「軍隊は逃げていった。私たちは勝利した」主催者が叫ぶ。地鳴りのような大歓声が続く。この模様はCNNやBBCなど欧米メディアでもトップで報道された。昨日のデモ隊殺害をメディアが流したので、軍は実弾を撃てなかった。ゴム弾に切り替えていたため多数の負傷者が出たが、デモ隊の真珠広場への突入を止めることができなかったのだ。人々は広場を奪い返した。この時点では「勝利は近い」と思われた。

翌日、やはり真珠広場へ。1人の兵士も1台の戦車もない広場で、人々は踊り叫び、歌っている。一昨日までの「虐殺広場」が、「お祭り広場」に変わっていた。
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“合州国”の社会的・政治的性格

『アメリカ分裂』より “合州国”を分解する

アラバマ

 白人割合は中位よりやや低く、所得は低位で、所得格差は大きい。信仰心は厚い。イデオロギー面では保守色が非常に強く、共和党員が民主党員よりもやや多く、無党派層が少ない。大統領選挙では共和党の強い典型的なレッドステート。

アラスカ

 白人割合はやや低く、世帯所得は高い。所得格差は小さく信仰心は弱い。保守色が強く、共和党員が民主党員の2倍近くに上り、無党派層が多い。1959年に州となって以降の大統領選で民主党が勝利したのはジョンソンが地滑り的勝利を収めた1964年のみである。大統領選における共和党得票率から民主党得票率を差し引いた値の1992年から2008年までの5回の平均値は20%を超える「堅固なレッドステート」。2008年には同州知事のサラ・ペイリンが共和党の副大統領候補になったが、共和党得票率は2004年からほとんど変化しなかった。

アリゾナ

 白人割合と所得ともに低位に位置する。所得格差はほぽ中位に位置し、信仰心はやや低めである。保守色がやや強く、共和党員が民主党員よりもやや多い。 1952年以降の大統領選では1969年を除いて共和党が勝利したレッドステートだが、近年の大統領選に関する世論調査では民主党と共和党が接近しており、スウィングステートに移行しつつある。

アーカンソー

 白人割合は中位に位置し、所得は低い。所得格差はほぼ中位に位置し、信仰心は高い。保守色が非常に強いが、党派心の面では民主党が共和党を若干であるが上回る。南北戦争後のレコンストラクション期から1964年までは民主党の牙城であったが、公民権法をきっかけとして、1968年には第3党候補のジョージ・ウォーレスを選出し、その後は共和党優位に移行している。アーカンソー州知事を務めたビル・クリントンが出馬した1992年と19%年には民主党が選挙人を獲得したが、2000年以降の4回の選挙では共和党が連勝しており、南部のレッドステートのひとつ。

カリフォルニア

 全米で最も人口が多く、選挙人数は全選挙人数(538人)の1割を超える55人を抱え、当選に必要な選挙人数270人の2割を占める。1972年以降では大統領選挙人が最も多い州となっている。白人割合は約4割であり、人種的マイノリティ比率はハワイ、D.C.に次いで高い。所得水準はほぼ中位に位置する。格差は大きい方であり、信仰心はやや弱い。保守、リベラルが措抗しており、党派心では民主党員が共和党員を上回る。 1952年から1988年まですべて共和党が勝利したが、1992年以降はブルースデートに移行した。

コロラド

 白人割合はほぼ中位で、所得はやや高い。格差はほぼ中位に位置し、信仰心はやや弱い。保守色が強いが、党派心では民主党と共和党が措抗している。2004年は共和党が制したが2008年は民主党が選挙人を獲得した。スウィングステートとして位置づけられる。コネチカット 白人割合はほぼ中位、所得は高く、格差も大きい。信仰心は低めである。保守、リベラルは拮抗しており、民主党員が共和党員よりもかなり多い。ブルーステート。

デラウェア

 白人割合はやや低め、所得はやや高めである。格差はやや小さめであり、信仰心はやや低い。保守、リベラルは措抗しており、民主党員が共和党員よりもかなり多い。1952年から2000年までは、デラウェアの勝者は常に全米での最多得票者であったが、2004年にそれが破られ、ケリーが選挙人を獲得した。

D.C.首都ワシントン

 住民に占める白人の割合は3分の1にとどまる。黒人住民が約半分を占め、その割合は他の50州と比較して最も高い。所得水準は最も高く、また所得格差も最も大きい。信仰心はやや低めであり、政治志向はリベラル色が非常に強く、民主党支持者が圧倒的に多い。大統領選では、選挙人が割り当てられた1964年以降、一貫して民主党が強い。2008年選挙ではオバマとマケインの得票比はじつに10対1の大差であった。

フロリダ

 白人割合はやや低く、ヒスパニック割合が高い州。所得は低い方に位置するが、格差は大きい。信仰心はほぼ中位に位置する。保守色が強く、党派心は民主・共和が拮抗している。フロリダは他の南部諸州と同様に南北戦争期から1948年選挙までは民主党が優位であった。しかし、その後は究極の接戦州という位置づけとなる。集計問題で大揺れに揺れた2000年、および2004年はともに共和党が収ったが、この州を落としていれば結果が逆転して民主党が勝っており、文字通りキーステートとして位置づけられる。共和党がやや優位だが、2008年は民主党が制した。 2012年には大統領選挙人数がニューヨークと並ぶ29人となり、カリフォルニア、テキサスに次ぐ第3位となっている。

ジョージア

 白人割合、所得は低位に位置し、格差は大きい。黒人割合が高い州である。信仰心は高く、保守色が強く、党派心は民主・共和が措抗している。南北戦争期から1960年まではブルーステートであったが、公民権問題をきっかけに民主党離れを起こした。しかし、民主党が南部の候補者を指名した1976年、1980年、1992年には民主党が選挙人を獲得している。白人割合が減少傾向にあることから将来はスウィングステートに移行する可能性があり、 2016年選挙では同州をスウィングステートに位置付けるメディアが多かった。

ハワイ

 白人割合は50州の中で最も低く、アジア系住民やネイティブハワイアンが多い。所得は高い方に位置するが、生活コストが最も高い州でもある。信仰心はやや低めで、保守、リベラルは措抗しており、民主党員が共和党員よりもかなり多い。大統領選における民主党得票率から共和党得票率を差し引いた値の1992年から2008年までの5回の平均値は20%を超える「堅固なブルーステート」。

アイダホ

 白人割合が高く、黒人割合は1%に満たない。所得は低く、格差は小さい。信仰心はほぼ中位に位置する。保守色が非常に強く、共和党員が多い。大統領選における共和党得票率から民主党得票率を差し引いた値の1992年から2008年までの5回の平均値は20%を超える「堅固なレッドステート」。

イリノイ

 白人割合はやや低めに位置する。所得、格差はやや高め、信仰心はほぼ中位に位置する。やや保守色が強いが、民主党員の割合が共和党員の割合を大きく上回る。南北戦争後から1920年代までは共和党優位であったが、その後1948年選挙まで民主党優位となり、それから再び共和党優位となる。しかし1990年代以降はブルーステートに移行している。

インディアナ

 白人割合と信仰心はやや高め。所得と格差はやや低めである。保守色が強いが、党派心の分布は拮抗している。歴史的にみれば共和党が優位であったが、 2008年は民主党が1964年のジョンソン以来の選挙人を獲得した。

アイオワ

 白人割合は高く、所得はほぼ中位。格差は比較的小さく、信仰心はやや高め。保守色が強いが、党派心の分布は措抗している。1884年以前は、アイオワは他の中西部の諸州と同様に共和党優位であったが、その後は両党が伯仲するスウィングステートに移行している。カンザス 白人割合はやや高めで、所得は中位。格差はやや小さめで、信仰心はやや高め。保守色が強く、党派心の分布は共和党が民主党を大きく上回る。1964年以降のすべての選挙で共和党が選挙人を獲得している。

ケンタッキー

 白人割合は高い。所得はやや低く、格差は大きい。信仰心は高めである。保守色が強いが、党派心の分布は民主党が共和党を上回る。地理的にはディープサウスではないが、政治色はディープサウスに類似している。第二次大戦期までは民主党優位であったが、その後は共和党優位となっている。ただし、民主党の候補が南部から出た1976年、1992年、1996年は民主党が選挙人を獲得している。レッドステート。

ルイジアナ

 白人割合、所得はやや低めで格差は大きい方である。黒人割合は、ワシントンD.C.、ミシシッピに次ぐ3番目の高さである。信仰心は高い。保守色が強いが、党派心の分布は桔抗している。第二次大戦期までは民主党優位であったが、その後は共和党優位となっている。ただし、民主党の候補が南部から出た1976年、1992年、1969年は民主党が選挙人を獲得している。
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チエ・ゲバラの伝説

『途上国社会の現在』より

革命戦士、エルネスト・チエ・ゲバラ

 反乱者たちは革命運動を再組織した。そして1956年12月2日、82名の戦士たちが小型船グランマ号から降り立ち、反乱軍を組織するためキューバ領内に入った。

 その1人が、キューバで革命運動を創り出すという理想を純粋に抱くエルネスト・ゲバラであった。彼は家族への手紙で、「最初の訓練の後、私は成功の可能性を信じるようになった。それは私がゲリラに参加した当初は存在しなかった信念であり、空想的な共感と、偽りのない理想のために異国の浜で死んでも構わないという考えの結合であった」と書いている。その頃に、彼は「チエ」という愛称を与えられた。「チェ」とは、アルゼンチンで親しい人物に形式ばらずに話しかけるときに使われている日常表現である。チエ・ゲバラは勇敢に戦った。彼はもはや遠征隊の医師にとどまらず、自らを運動の中心的存在へと変えていった。彼はアルゼンチン生まれであったが、彼の革命への献身により、他のゲリラから尊敬を集め指導的地位を固めていった。

 シエラ・マエストラでの日々で、民衆のゲリラヘの支持は増え続けた。彼らは病院や学校、小規模のタバコエ場のある「新」社会を組織し始め、農地改革にも着手した。 1959年1月1日、ついに独裁者バティスタが辞職し、国外へ逃亡した。3日後、チエ・ゲバラに率いられた部隊がキューバの首都ハバナに入り、他のグループと合流した。ここにキューバ革命は成就した。

 以後、チエ・ゲバラは、新政府の指導者の1人として重要な意思決定に参加するという責務を担った。彼の最初の仕事は、各国を訪問し革命の成功をアピールすることであった。その後、彼はキューバ国立銀行の総裁、工業大臣を歴任する。ソ連や中国をはじめとする社会主義諸国との経済協力協定について協議することが彼の重要な任務であった。また彼は、砂糖の輸出に依存しない工業化プロセスの発展に取り組んだ。

 しかし、彼がそういった役所仕事に満足することは決してなかった。ゲバラは革命を広めることを決意した行動的な人間であったのだ。彼は、アフリカやラテンアメリカ諸国を訪れ、地方の革命組織への支援に努めた。彼の人生の岐路のひとつは、彼がキューバを去ることを決意した時であった。1965年4月1日、彼は友人であるフィデル・カストロに手紙を送り、「世界の他の地で私のささやかな力が必要とされている。君がキューバでの責務のためにできないことを私はすることができる。それぞれの道を歩む時がきた」。と告げている。そして、彼は革命を広めるため仲間を率いてコンゴヘと渡った。その後、ラテンアメリカヘ戻り、数年前に彼が最初の社会経験を積んだボリビアヘと向かった。

 彼はボリビアの山中でゲリラ運動を組織したが、ボリビア共産党幹部との食い違いなどから、彼とその同志たちは当地での支援を失っていく。そして最後には、アメリカCIAの支援を受けたボリビア軍に敗れることとなる。ボリビア軍に捕えられて間もない1967年10月9日、ゲバラは射殺される。39歳の若さであった。それは彼の短い人生の終焉であると同時に、伝説の誕生であった。

革命のイデオローグ、チエ・ゲバラ

 ゲバラの行動様式は科学的方法論を有した知的実験室から生まれたわけではない。それは、現場における彼の経験によって生み出されたのもであった。実験室はラテンアメリカであり、方法論は直面した問題に対して真の解決を提供しようとする彼自身の意思によって決定づけられるのである。彼の行動の全ては、革命という理想への疑う余地のない献身によって説明できるであろう。彼は、個人は共通の目的に従属されるべきであり、革命の動力は政治的上部構造のみにではなく、人間の良心にあると確信していた。活力を失い、ゲリラ戦に敗れたことにより、たとえ革命が一時的に後退しようとも、人々の良心がより良い世界の可能性をなお信じるのであれば、真の成功はもたらされるのである。

 また、資本主義から社会主義への平和的な移行が実現可能であるとする理論は誤りであったと彼は主張する。社会主義社会の創出は、体制への持続的な闘争によってのみ可能となる。ゲリラ運動は、主体的諸条件(権力奪取を意図するプロレタリア政党の存在を含む)の創出をもたらすであろう客観的な前革命条件(窮乏や資本主義の過剰搾取)の創出過程を促進することができる。そういった闘争は、運動が発展し、敵を打ち負かすことのできる軍事力を作り上げることが可能である地方において開始されるべきなのである。マルクス主義は、政治構造を変えるには経済構造を変える必要があるという彼の思想に影響を与えた。この意味で彼は、「新しい人間」を創り出すために個人の行動を作り直すことを基礎とした、資本主義組織の原則を葬り去ろうとしたのであった。

 さらに彼は、国境の内側に存在する連帯は、国同士の関係にも同様に拡大されるべきであると考える。彼は、社会主義諸国間において、従来とは異なる様式の経済関係の構築を積極的に追及した。1965年2月にアルジエで開催された第2回アジア・アフリカ連帯会議(Seminar of Afroasiatic Solidarity)において、彼は「近年解放された国々の発展には、社会主義諸国がコストを負担すべきである。我々は社会主義諸国が従属諸国を支援する責務を負うべきであり、価格の法則に基づいた公平な貿易の発展について語るのを止めるべきであると強く信じる。真の責務は、そういった国々が自らの手で発展する助けとなるような価格を決定することであり、対外貿易は民衆に対する友好的な政策に従属するべきなのである」と宣言している。

 彼はまた、社会主義諸国による新興国における投資は、それらが自らの国においてなされるのと同等の扱いを受けるべきであると提案した。その結果として、それらの国に提供される貸付は、生産物によって無利子でなされることとなるのである。革命の間、彼は数多くの演説をし、何冊かの本を書いた。それらは、彼の思想を理解するのに不可欠なものである。重要なものとしては、次のものがある。
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物流の人手不足

物流の人手不足

 コンビニがどうなるか。トップ3との関係。その時に地域として、まとまることができるかどうか。未唯空間での課題解決としては、コミュニティで地域への宅配をカバーすると同時に、グリーン雇用につなげることを考えている。

 元々はネットで頼むこと。リアルに送ること。そういうこともテーゲットにしていく。宅配で人手不足と言っているけど、人は運ぶためにいるのか。受け手側、消費者側を大口にしてしまえば、物流は完全に変わる。そこに取りに行けばいいから。

歴史の目的

 歴史の目的は先を知る。全体を考える。その時の全体は時空間だということ。そして、<今>を知る。過去から知ると同時に未来から知る。未来を知ることは今を知ることになる。

 歴史は作られる。歴史は作られてきた。そのシナリオで未来も作る。

玲子との会話:6か月に一回の楽しみ

 生ちゃんのレミゼのコゼット役。ロンドンで2回見ている。英語の方がしっくりくる。歌舞伎を英語で上演しているようなもの。

 ベビメタルには興味がない。ソホクリスがAKBを知った経緯。

 父親のお茶と習字。定年後の暮らし。

 さちの数学。小4で連立方程式。メールでの教育。

 博子のパート。動いていないとダメ。まぐろの生態。

 ふっとした瞬間に発作が起きる。家族としてのちょっかいに疲れる。

 生まれて赤ん坊は男の子

 ソホクリスの商売。ギリシャでしかできないワインの開発。ドクター論文と添削した経緯

 『日本のワイナリーに行こう2018』という本がありました。アテネの玲子さんさんから、ギリシャワインの話、旦那のソホクリスがギリシャにしかないワインを作ろうとしていると聞いたばかりだった。本に因縁を感じることは多い。

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