未唯への手紙
未唯への手紙
一人の対象から拡大する能力
4月から再スタート
今日は3月31日です。明日が区切りです。だから、すべての本を対象としていきます。これは正式です。
何しろ、午前中の時間を使わないといけない。6時半のタイマーで起きて、朝食を採っているが、その後に、乃木坂に逃げてしまっている。気づけば12時です。このアイドリング時間を使いましょう。
図書館についても、今までが前哨戦です。今からが本番です。コンテンツを活かすときです。
一人の対象から拡大する能力
Iさん一人から、高度サービス化を作り上げてきた。生田さんと乃木坂との関係から、次の時代のコミュニティと市民の分化に及んでいる。それとコミュニティのリーダーシップのあり方を得ている。皆が気づくように、アピールしないといけない。
それが回り回って、パートナーへ戻ってくる。まだまだ、途中です。接点が途切れているときこそ、仕込まないといけない。でも、なんか、つまらない。メール来ないかな。
今日は3月31日です。明日が区切りです。だから、すべての本を対象としていきます。これは正式です。
何しろ、午前中の時間を使わないといけない。6時半のタイマーで起きて、朝食を採っているが、その後に、乃木坂に逃げてしまっている。気づけば12時です。このアイドリング時間を使いましょう。
図書館についても、今までが前哨戦です。今からが本番です。コンテンツを活かすときです。
一人の対象から拡大する能力
Iさん一人から、高度サービス化を作り上げてきた。生田さんと乃木坂との関係から、次の時代のコミュニティと市民の分化に及んでいる。それとコミュニティのリーダーシップのあり方を得ている。皆が気づくように、アピールしないといけない。
それが回り回って、パートナーへ戻ってくる。まだまだ、途中です。接点が途切れているときこそ、仕込まないといけない。でも、なんか、つまらない。メール来ないかな。
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岡崎市図書館の10冊
674.2『戦争と広告』第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く
757『デザインと革新』未来をつくる50の思考
201.1『歴史哲学講義(上)』ヘーゲル ⇒ 丁度、2年前に借りている
201.1『歴史哲学講義(下)』ヘーゲル ⇒ 「自由」と「平等」のキーワードを得た
320.4『新社会人に贈る護身術としての法律講座』社会の荒波を乗り切る5つの奥義
007.6『グループワークによる情報リテラシ』情報の収集・分析から、論理的思考、課題解決、情報の表現まで
492.9『母性看護学概論』系統看護学講座 母性看護学① ⇒ μⅡのために
336.1『すごい差別化戦略』競合他社を圧倒する「違い」のつくり方
007.3『IoT時代のプラットフォーム競争戦略』ネットワーク効果のレバレッジ
336.4『新社会人の教科書』仕事のスキル&マナー
⇒ 2015年の締め(15/4/1~16/3/31) 1866冊 367万9495円
757『デザインと革新』未来をつくる50の思考
201.1『歴史哲学講義(上)』ヘーゲル ⇒ 丁度、2年前に借りている
201.1『歴史哲学講義(下)』ヘーゲル ⇒ 「自由」と「平等」のキーワードを得た
320.4『新社会人に贈る護身術としての法律講座』社会の荒波を乗り切る5つの奥義
007.6『グループワークによる情報リテラシ』情報の収集・分析から、論理的思考、課題解決、情報の表現まで
492.9『母性看護学概論』系統看護学講座 母性看護学① ⇒ μⅡのために
336.1『すごい差別化戦略』競合他社を圧倒する「違い」のつくり方
007.3『IoT時代のプラットフォーム競争戦略』ネットワーク効果のレバレッジ
336.4『新社会人の教科書』仕事のスキル&マナー
⇒ 2015年の締め(15/4/1~16/3/31) 1866冊 367万9495円
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自由の拡大が格差を生んだ
自由の拡大が格差を生んだ
歴史哲学では自由の拡大を人類は行ってきた。そのための歴史です。そこにおいて、自由が拡大すれば、格差が拡大する。平等ではなくなる。格差が大きくなる。これはジレンマとして、起こってくる。それを解決するのは、今の形では無理だということ。
そこで位相的な構造の変革を考えた。大きな単位ではだめで、小さくする。その小さなものがどういう形で機能すればいいのか。分化と統合の世界です。
歴史哲学を継承
その極端なのが、端と中核がつながること。そういう形で持ってきた。その意味では、ヘーゲルの歴史哲学を出発点にしている。彼らのものを継承して、完成させる。
歴史哲学では自由の拡大を人類は行ってきた。そのための歴史です。そこにおいて、自由が拡大すれば、格差が拡大する。平等ではなくなる。格差が大きくなる。これはジレンマとして、起こってくる。それを解決するのは、今の形では無理だということ。
そこで位相的な構造の変革を考えた。大きな単位ではだめで、小さくする。その小さなものがどういう形で機能すればいいのか。分化と統合の世界です。
歴史哲学を継承
その極端なのが、端と中核がつながること。そういう形で持ってきた。その意味では、ヘーゲルの歴史哲学を出発点にしている。彼らのものを継承して、完成させる。
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OCR化した11冊
『どちらであっても』
〈有〉と〈無〉
あるかないか
生命の起源
無に出会う
無は虚しい
〈コミュニケーション〉と〈ディスコミュニケーション〉
コミュニケーション
変わること
ムンテラ&I・C
ディスコミュニケーション
『13歳からの仏教塾』
私たちはなんのために生き、なぜ死ななくてはならないのか
生きていることに、どんな価値があるのですか?
私たちは、どこから来たのでしょうか?
どうして、死ななければならないのでしょうか?
死ぬことが怖いのは、どうしてですか?
死んだら、どうなるのですか? すべて終わりですか?
私のいのちは、私のものですか?
自殺は、どうしていけないのですか?
私は、誰かの生まれ変わりなのですか?
なるべく働かずに生きたいのですが、だめですか?
『コンビニ難民』
コンビニ難民」を減らすことはできるのか
さらにコンビニは進化する
「健康」への取り組み
「食」への取り組み
「金融」への取り組み
「不動産」への取り組み
「エネルギー」への取り組み
コンビニ難民を減らすために①--「合従連衡」による立地の多様化
コンビニ難民を減らすために②--「規制緩和」によるカバー率向上
コンビニ難民を減らすために③--「撤退リスク」を乗り越える
コンビニ難民を減らすために④--「労働力」の確保
『メディア文化研究への招待』
メディアが先か、文化・社会が先か?
出発点--形成と反映と表象とー
コミュニケーションプロセス
社会的・文化的コンテクストにおけるメディアの要素
国民的メディアの衰退--商業化・断片化・グローバリゼーション
メディアと〈公共圏〉
「想像の共同体」としての国家
公共圏の衰退
デジタル化による国民の希薄化
国民の共同体あるいは厄介払い--
メディアコミュニティー--サブカルチャーとファン・グループとアイデンティティ・グループ
はじめに
メディア対コミュニティ
モラルパニックとマスメディアによる非難
ターゲットを絞ったコミュニティ
DIYメディアとインターネット・コミュニケーション
おわりに--定義がすべて?--
『看護学概論』
看護の継続性と情報共有
事例でみる看護の継続性の実際
入院時の施設間の連携
入院中の情報伝達と共有
医療機関がかわるとき(転院時)の情報伝達
多職種チームとしての情報共有と継続的かかわり
在宅療養を可能にする連携と継続的なかかわり
『病態生理学』
病態生理学を学ぶための基礎知識
正常と病気の状態
循環障害
細胞・組織の障害
感染症
腫瘍
先天異常と遺伝子異常
老化と死
『これからのエリック・ホッファーのために』
領域を飛びわたれ
小室直樹
『タカラは足元にあり!』
想像のつかない組み合わせで成功させる
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
全国向けのネット販売
メロン栽培奨励プロジェクト
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
『生涯学習概論』
生涯学習の場としての図書館
学習を支援する図書館の役割
図書館来館へのステップ
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』
基本的な国の特徴
日本人の基本的特徴は結束
中国人の基本的特徴は個人主義
朝鮮人の基本的特徴は主観性
日本の大望
軍事力としての日本
日本の専制政治と民主政治
日本の教育
日本の朝鮮統治の特徴
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』
省察
矛盾、信用、恐慌
マルクスの構想と『資本論』
マルクスの理論化における欠落とその発展方向
反資本主義的オルタナティブに向けて
〈有〉と〈無〉
あるかないか
生命の起源
無に出会う
無は虚しい
〈コミュニケーション〉と〈ディスコミュニケーション〉
コミュニケーション
変わること
ムンテラ&I・C
ディスコミュニケーション
『13歳からの仏教塾』
私たちはなんのために生き、なぜ死ななくてはならないのか
生きていることに、どんな価値があるのですか?
私たちは、どこから来たのでしょうか?
どうして、死ななければならないのでしょうか?
死ぬことが怖いのは、どうしてですか?
死んだら、どうなるのですか? すべて終わりですか?
私のいのちは、私のものですか?
自殺は、どうしていけないのですか?
私は、誰かの生まれ変わりなのですか?
なるべく働かずに生きたいのですが、だめですか?
『コンビニ難民』
コンビニ難民」を減らすことはできるのか
さらにコンビニは進化する
「健康」への取り組み
「食」への取り組み
「金融」への取り組み
「不動産」への取り組み
「エネルギー」への取り組み
コンビニ難民を減らすために①--「合従連衡」による立地の多様化
コンビニ難民を減らすために②--「規制緩和」によるカバー率向上
コンビニ難民を減らすために③--「撤退リスク」を乗り越える
コンビニ難民を減らすために④--「労働力」の確保
『メディア文化研究への招待』
メディアが先か、文化・社会が先か?
出発点--形成と反映と表象とー
コミュニケーションプロセス
社会的・文化的コンテクストにおけるメディアの要素
国民的メディアの衰退--商業化・断片化・グローバリゼーション
メディアと〈公共圏〉
「想像の共同体」としての国家
公共圏の衰退
デジタル化による国民の希薄化
国民の共同体あるいは厄介払い--
メディアコミュニティー--サブカルチャーとファン・グループとアイデンティティ・グループ
はじめに
メディア対コミュニティ
モラルパニックとマスメディアによる非難
ターゲットを絞ったコミュニティ
DIYメディアとインターネット・コミュニケーション
おわりに--定義がすべて?--
『看護学概論』
看護の継続性と情報共有
事例でみる看護の継続性の実際
入院時の施設間の連携
入院中の情報伝達と共有
医療機関がかわるとき(転院時)の情報伝達
多職種チームとしての情報共有と継続的かかわり
在宅療養を可能にする連携と継続的なかかわり
『病態生理学』
病態生理学を学ぶための基礎知識
正常と病気の状態
循環障害
細胞・組織の障害
感染症
腫瘍
先天異常と遺伝子異常
老化と死
『これからのエリック・ホッファーのために』
領域を飛びわたれ
小室直樹
『タカラは足元にあり!』
想像のつかない組み合わせで成功させる
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
全国向けのネット販売
メロン栽培奨励プロジェクト
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
『生涯学習概論』
生涯学習の場としての図書館
学習を支援する図書館の役割
図書館来館へのステップ
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』
基本的な国の特徴
日本人の基本的特徴は結束
中国人の基本的特徴は個人主義
朝鮮人の基本的特徴は主観性
日本の大望
軍事力としての日本
日本の専制政治と民主政治
日本の教育
日本の朝鮮統治の特徴
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』
省察
矛盾、信用、恐慌
マルクスの構想と『資本論』
マルクスの理論化における欠落とその発展方向
反資本主義的オルタナティブに向けて
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マルクスの構想と『資本論』
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』より 省察 矛盾、信用、恐慌
以下の点に関して、もしかしたら、私がマルクスの議綸を、マルクスの企画を超えて私自身の関心領域へと引っ張りすぎているというもっともな非難がなされるかもしれない。弁明として、貨幣と金融に関する諸章には、マルクスの思考をラディカルに再構成するための徴候が数多くあるのだと言っておきたい。もっとも、マルクスの叙述の全体としての連関を踏まえるならば、この再構成の試みは、マルクスの当初の立場から根本的に断絶するというよりも、むしろそれをいっそう深める試みとしてとらえることができるだろう。
たとえば、私は、マルクスが物神性の概念を復活させそれを擬制資本の概念へと翻訳したことを大いに強調しておいたのだが、これもそうした試みの一環である。マルクスは、貨幣資本が生み出す種々の幻想と虚構、周期的に流入する何らかの収入を資本化することの空想性、その結果として生じる「貨幣資本の過多」(IMFがいつも決まって流動性の過剰として言及するもの)が無限に積み上げられること、こういったものを鋭く暴露している。このことにもとづいてマルクスはこう主張したのだった。
資本主義社会ではなく共産主義社会を考察の対象とするならば、まずもって貨幣資本はすっかり姿を消しているだろうし、したがってそれを通じて取引が帯びる仮装もなくなっているだろう。
貨幣資本をただちに廃絶するというこの要件は、貨幣資本がマルクスの時代に果たしはじめつつあった決定的な役割--賃労働の側の要求をますます抑圧しながら永続的蓄積を推進する上での役割--との関係でのみ理解可能なものとなる。このことがマルクスの時代にあてはまりつつあったとすれば、今では貨幣資本は間違いなくその影響力と権力の絶頂に達していると言えるだろう。
第二巻および、剰余価値の分配に関する第三巻の諸章を注意深く批判的に読み込むならば、きわめて広い範囲に及ぶさまざまなテーマ--回転期間の相違から信用供与の変動性に至るまで--を横断して、種々の触発を受け、得るところが大いにあるだろうが、それでもなお、今日の条件のもとで資本の運動法則が実際にどのように働いているのかに関して、何らかの確定的な結論を引き出すことは困難だろう。端的に言って、マルクスが一八七八年ごろまでにおおむね終えた事業を完成させ発展させるためには、そして、『要綱』が書かれた時期直前の一八五六~五七年ごろに彼が構想していた巨大な事業の全容を理解するためには、膨大な研究が必要である。それゆえここでまずもって、マルクスの当初の構想の驚くほどの幅の広さと深さとを思い起こしておくことは有益だろう。彼が『要綱』の中に書き記したいくつかのプランの一つでは、次のように書かれている。
I、(I)資本の一般的概念。(2)資本の特殊性。すなわち、流動資本、固定資本(生活手段としての、原料としての、労働用具としての資本)。(3)貨幣としての資本。Ⅱ、(1)資本の量、蓄積。(2)それ自身で測られた資本。利潤。利子。資本の価値。すなわち、利潤および利子としてそれ自身から区別された資本。(3)資本の流通。(α)資本と資本との交換。資本と収入との交換。資本と価格。(β)諸資本の競争。(γ)諸資本の集積。Ⅲ、信用としての資本。Ⅳ、株式資本としての資本。V、金融市場としての資本。Ⅵ、富の源泉としての資本。資本家。資本の後で、土地所有が論じられるべきだろう。その後で賃労働。この三つがすべて前提された後で、今や内的な総体性において規定された流通としての価格運動。他方では、生産の三つの基本形態と流通の諸前提として措定されたものとしての三つの階級。次に国家(国家とブルジョア社会。税金、あるいは不生産的階級の存在。国債。人口。外に向かっての国家、すなわち植民地。外国貿易。為替相場。国際鋳貨としての貨幣)。最後に世界市場。ブルジョア社会が国家を超えて広がること。恐慌。交換価値の上に打ち立てられた生産様式と社会形態の解体。個人的労働が社会的労働として実在的に措定すること、またその逆。
このような巨人的人乍業を完成させるには、マルクスは、メトンェラのように長生きしなければたらなかったろう。そして、このプランからも、また『要綱』で実際に用いられた表現からも明らかなように、彼の壮大な野望は、ブルジョア社会が一個の有機的総体へと生成していくことを叙述することであった。
このような背景を踏まえるなら、第二巻で彼が何をしており、なぜそうしているのかに関して批判的かつより詳しく理解するのを助けてくれるいくつかの一般的な指標を提示することができるだろう。
まず最初に、この巻でマルクスが、古典派経済学と同じ「皮相な三段論法」の枠内で作業していることは否定しがたいと思われる。彼の議論の明晰さは、普遍性・特殊性・個別性に訴えることなしに一般性のレペルで蓄積と実現のダイナミズムを再構築することに厳格に固執していることにもとづいている。第二巻は、マルクスが自分の研究を進める上で皮相な三段論法的枠組み(マルクスが古典派経済学に帰した枠組み)を採用した最もはっきりとした実例である。この枠組みにもとづいて、マルクスは、「純粋な状態」における資本主義的生産様式を理論的に解明しようとしている。この作業が終わって初めて、マルクスは、その知見を、『要綱』で大雑把に叙述されたより有機的な思考様式に組み込むことができるのである。
マルクスはこの枠組みにかなり厳格に固執する一方で、普遍性や特殊性、さらには個別性さえもが資本の運動法則に直接影響を及ぼしうる場合があることを常に認識している。たとえばマルクスは第一巻から需要と供給を排除しているのだが、他方で、総供給と総需要とのギャミフ、およびそれをどのように埋めるのかという問題が、第二巻では決定的な問題になっている。消費(および生産的消費と個人的消費との関係)は第一巻では言及されているとはいえ分析されてぱいないのに対し、第二巻の分析ではそれはますます決定的なテーマになっている。そしてまた、マルクスは第三巻では、商人資本の利得や地代の役割といったものを生産資本の必要に規律づけられたものとして扱っているとみなしているのだが、分配の第三の柱である利子と金融は必然的にこの規律権力を逃れるのであり、競争や貨幣資本の需給といった種々の状況依存性がいっさいを決定する。また資本の結合形態〔株式会社など〕が台頭すると状況が一変させるのだが、この形態から社会主義が台頭してくる、あるいは台頭してこなければならないとされている。
その結果、理論の構築が不完全なものになっている。この理論は、資本主義が取りうるあらゆる歴史的・地理的編成を横断する生命力を有しているのだ、が、他方では、現実の諸状況を具体的に解明する上では十分に有効ではない。というのも、現実の状況にあっては、純粋な資本主義的生産様式に対するさまざまな逸脱、不完全さ、政治的不純物が大いに幅を利かせているし、たとえば金融という特殊性、あるいは、消費様式という奇妙な個別性が支配的である。何よりも、一方における商業・金融恐慌と、他方におけるすでに確立された資本の矛盾した運動法則とのあいだに存在するかもしれない関係については、今なお十分に解明されていないのである。
以下の点に関して、もしかしたら、私がマルクスの議綸を、マルクスの企画を超えて私自身の関心領域へと引っ張りすぎているというもっともな非難がなされるかもしれない。弁明として、貨幣と金融に関する諸章には、マルクスの思考をラディカルに再構成するための徴候が数多くあるのだと言っておきたい。もっとも、マルクスの叙述の全体としての連関を踏まえるならば、この再構成の試みは、マルクスの当初の立場から根本的に断絶するというよりも、むしろそれをいっそう深める試みとしてとらえることができるだろう。
たとえば、私は、マルクスが物神性の概念を復活させそれを擬制資本の概念へと翻訳したことを大いに強調しておいたのだが、これもそうした試みの一環である。マルクスは、貨幣資本が生み出す種々の幻想と虚構、周期的に流入する何らかの収入を資本化することの空想性、その結果として生じる「貨幣資本の過多」(IMFがいつも決まって流動性の過剰として言及するもの)が無限に積み上げられること、こういったものを鋭く暴露している。このことにもとづいてマルクスはこう主張したのだった。
資本主義社会ではなく共産主義社会を考察の対象とするならば、まずもって貨幣資本はすっかり姿を消しているだろうし、したがってそれを通じて取引が帯びる仮装もなくなっているだろう。
貨幣資本をただちに廃絶するというこの要件は、貨幣資本がマルクスの時代に果たしはじめつつあった決定的な役割--賃労働の側の要求をますます抑圧しながら永続的蓄積を推進する上での役割--との関係でのみ理解可能なものとなる。このことがマルクスの時代にあてはまりつつあったとすれば、今では貨幣資本は間違いなくその影響力と権力の絶頂に達していると言えるだろう。
第二巻および、剰余価値の分配に関する第三巻の諸章を注意深く批判的に読み込むならば、きわめて広い範囲に及ぶさまざまなテーマ--回転期間の相違から信用供与の変動性に至るまで--を横断して、種々の触発を受け、得るところが大いにあるだろうが、それでもなお、今日の条件のもとで資本の運動法則が実際にどのように働いているのかに関して、何らかの確定的な結論を引き出すことは困難だろう。端的に言って、マルクスが一八七八年ごろまでにおおむね終えた事業を完成させ発展させるためには、そして、『要綱』が書かれた時期直前の一八五六~五七年ごろに彼が構想していた巨大な事業の全容を理解するためには、膨大な研究が必要である。それゆえここでまずもって、マルクスの当初の構想の驚くほどの幅の広さと深さとを思い起こしておくことは有益だろう。彼が『要綱』の中に書き記したいくつかのプランの一つでは、次のように書かれている。
I、(I)資本の一般的概念。(2)資本の特殊性。すなわち、流動資本、固定資本(生活手段としての、原料としての、労働用具としての資本)。(3)貨幣としての資本。Ⅱ、(1)資本の量、蓄積。(2)それ自身で測られた資本。利潤。利子。資本の価値。すなわち、利潤および利子としてそれ自身から区別された資本。(3)資本の流通。(α)資本と資本との交換。資本と収入との交換。資本と価格。(β)諸資本の競争。(γ)諸資本の集積。Ⅲ、信用としての資本。Ⅳ、株式資本としての資本。V、金融市場としての資本。Ⅵ、富の源泉としての資本。資本家。資本の後で、土地所有が論じられるべきだろう。その後で賃労働。この三つがすべて前提された後で、今や内的な総体性において規定された流通としての価格運動。他方では、生産の三つの基本形態と流通の諸前提として措定されたものとしての三つの階級。次に国家(国家とブルジョア社会。税金、あるいは不生産的階級の存在。国債。人口。外に向かっての国家、すなわち植民地。外国貿易。為替相場。国際鋳貨としての貨幣)。最後に世界市場。ブルジョア社会が国家を超えて広がること。恐慌。交換価値の上に打ち立てられた生産様式と社会形態の解体。個人的労働が社会的労働として実在的に措定すること、またその逆。
このような巨人的人乍業を完成させるには、マルクスは、メトンェラのように長生きしなければたらなかったろう。そして、このプランからも、また『要綱』で実際に用いられた表現からも明らかなように、彼の壮大な野望は、ブルジョア社会が一個の有機的総体へと生成していくことを叙述することであった。
このような背景を踏まえるなら、第二巻で彼が何をしており、なぜそうしているのかに関して批判的かつより詳しく理解するのを助けてくれるいくつかの一般的な指標を提示することができるだろう。
まず最初に、この巻でマルクスが、古典派経済学と同じ「皮相な三段論法」の枠内で作業していることは否定しがたいと思われる。彼の議論の明晰さは、普遍性・特殊性・個別性に訴えることなしに一般性のレペルで蓄積と実現のダイナミズムを再構築することに厳格に固執していることにもとづいている。第二巻は、マルクスが自分の研究を進める上で皮相な三段論法的枠組み(マルクスが古典派経済学に帰した枠組み)を採用した最もはっきりとした実例である。この枠組みにもとづいて、マルクスは、「純粋な状態」における資本主義的生産様式を理論的に解明しようとしている。この作業が終わって初めて、マルクスは、その知見を、『要綱』で大雑把に叙述されたより有機的な思考様式に組み込むことができるのである。
マルクスはこの枠組みにかなり厳格に固執する一方で、普遍性や特殊性、さらには個別性さえもが資本の運動法則に直接影響を及ぼしうる場合があることを常に認識している。たとえばマルクスは第一巻から需要と供給を排除しているのだが、他方で、総供給と総需要とのギャミフ、およびそれをどのように埋めるのかという問題が、第二巻では決定的な問題になっている。消費(および生産的消費と個人的消費との関係)は第一巻では言及されているとはいえ分析されてぱいないのに対し、第二巻の分析ではそれはますます決定的なテーマになっている。そしてまた、マルクスは第三巻では、商人資本の利得や地代の役割といったものを生産資本の必要に規律づけられたものとして扱っているとみなしているのだが、分配の第三の柱である利子と金融は必然的にこの規律権力を逃れるのであり、競争や貨幣資本の需給といった種々の状況依存性がいっさいを決定する。また資本の結合形態〔株式会社など〕が台頭すると状況が一変させるのだが、この形態から社会主義が台頭してくる、あるいは台頭してこなければならないとされている。
その結果、理論の構築が不完全なものになっている。この理論は、資本主義が取りうるあらゆる歴史的・地理的編成を横断する生命力を有しているのだ、が、他方では、現実の諸状況を具体的に解明する上では十分に有効ではない。というのも、現実の状況にあっては、純粋な資本主義的生産様式に対するさまざまな逸脱、不完全さ、政治的不純物が大いに幅を利かせているし、たとえば金融という特殊性、あるいは、消費様式という奇妙な個別性が支配的である。何よりも、一方における商業・金融恐慌と、他方におけるすでに確立された資本の矛盾した運動法則とのあいだに存在するかもしれない関係については、今なお十分に解明されていないのである。
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日本の教育
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』より
日本には古代から学校や書物があった。知的文化への最初の刺激は中国から訪れた。新時代に日本人の心が目覚めると、政治・産業的だけでなく知的な変化ももたらされ、国家全体の教育制度が要求された。1868年に天皇により公布された五箇条の御誓文には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。1871年、岩倉使節団の木戸氏は言った。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことが出来ず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」と。日本は教育面でアメリカの恩恵を受けたところが多い。アメリカ人のモルレー博士は1873年から文部省顧問を務め、日本の近代教育制度作りに貢献して歴史に名を残すほどの権威だった。私は日本で多くの公立学校を訪れたが、非常に感心した。高い出席率、時間厳守、立ち居振る舞いの素晴らしさは顕著だった。
日本の教育制度と教育勅語
記録にある最初の日本の学校は、西暦644年に建てられている。教育方法は、もし教育的と呼べるならば、西洋の宣教師が来る前に東アジアで流行っていたやり方だ。つまり、古典を単に暗記し修辞的な作文を作るのだ。現代的な意昧での教育は、1859年にやって来た宣教師によって始められた。彼らは西洋の教育方法を導入した最初の学校を日本に建てた。今日の教育基準から見ると不完全ではあったが、日本がそれまで行なっていたものに比べると非常に大きな改善だった。
新時代に日本人の心が目覚めると、政治的、産業的な変化だけでなく、新しい知的生活ももたらされるようになり、やがて国家全体の教育制度が要求されるようになった。1868年4月6日に天皇により公布された五箇条の御誓文の5番目には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。
1871年に、西洋諸国の制度や手法を学ぶために日本から派遣された使節団(註:岩倉使節団)は、木戸孝允氏と大久保利通氏という、教育を特に重視していた二人の男を含んでいた。彼らは、アメリカ国民が一般的に知的であるのに深く感心し、すぐさま、次の大久保氏の言葉にあるような結論に達した。
「我々はまず指導者を教育せねばならない。そうすれば結果はついてくるだろう」
杢戸氏は加えた。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことができず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」
文部省が設立され、1872年9月に最初の教育法令が発布された。この歴史的法令の序章は次のように宣言している。
「知識を開き、才能や技芸を仲ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由である」
日本は、アメリカが教育分野で指導したことについての恩義を心から表している。
明治学院学長の井深博士は述べた。「日本が西洋のアイディアに手を仲ばした時、イギリスから海軍を、フランスから陸軍を、ドイツから医療科学を、そしてアメリカから教育を真似た」
日本の教育発展の歴史に常に名誉ある名を残すであろう進歩的な天才は、アメリカ人のダビッド・モルレー博士で、1873~1879年の間、文部省顧問を務めた。彼は日本の近代教育制度を作り上げた真の権威だった。小学校から東京の帝国大学に至るまで、広範囲にわたる計画が策定された。西洋諸国から経験ある教育者たちが招かれ、新しい学校が自ら高い技能を有する教師を育成できるまで、重要な教授の職を受け持った。
天皇は言った。「これからの教育は、村に無知な家族が一つもないように、あるいは家族に無知な者が一人もいないように設計される」
日本の教育は、アメリカのように地方の管理下に置かれるようなことはあまりなかった。中央政府の文部省によって運営され、文部省は一般教育、特別教育、宗教の三つの局に分かれていた。華族学校(註:学習院)、海洋学校、郵便電信学校、陸海軍大学校のように他の省に属しか学校もあったが、すべて政府の監督下にあった。
道徳教育の基礎は1890年10月30日に発布された教育勅語である。教育勅語は、すべての学校に掲示され、読む限り、確かに称賛に値するものだ。
「私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をお始めになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は伸睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、すべての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行なっても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります」
教育委員会の設置
1917年9月20日に発布された詔勅には、次のように書かれていた。
「国内と国外の状況を鑑みて、また大日本帝国の将来を考慮し、内閣に臨時教育委員会を設置するのが賢明だと思われる。教育を発展させる目的で、この委員会に日本の教育に関する事柄を審議する権限を与える。ここに、臨時教育会議の基本的な規定を承認し、公布することを命ずる」
この委員会は、前内務大臣の平田来助子爵を議長とし、前文部大臣の久保田譲男爵を副議長として活発に機能した。そしてどんな改善をすればよいのかはっきりさせるため、国の教育システムのすべてを注意深く調査した。これらのことから、日本人はその教育の熱意において非常に近代的で漸進的だという事が言える。彼らは最高の方法を求め、それを開拓するのに努力を惜しまないのだ。
日本には古代から学校や書物があった。知的文化への最初の刺激は中国から訪れた。新時代に日本人の心が目覚めると、政治・産業的だけでなく知的な変化ももたらされ、国家全体の教育制度が要求された。1868年に天皇により公布された五箇条の御誓文には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。1871年、岩倉使節団の木戸氏は言った。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことが出来ず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」と。日本は教育面でアメリカの恩恵を受けたところが多い。アメリカ人のモルレー博士は1873年から文部省顧問を務め、日本の近代教育制度作りに貢献して歴史に名を残すほどの権威だった。私は日本で多くの公立学校を訪れたが、非常に感心した。高い出席率、時間厳守、立ち居振る舞いの素晴らしさは顕著だった。
日本の教育制度と教育勅語
記録にある最初の日本の学校は、西暦644年に建てられている。教育方法は、もし教育的と呼べるならば、西洋の宣教師が来る前に東アジアで流行っていたやり方だ。つまり、古典を単に暗記し修辞的な作文を作るのだ。現代的な意昧での教育は、1859年にやって来た宣教師によって始められた。彼らは西洋の教育方法を導入した最初の学校を日本に建てた。今日の教育基準から見ると不完全ではあったが、日本がそれまで行なっていたものに比べると非常に大きな改善だった。
新時代に日本人の心が目覚めると、政治的、産業的な変化だけでなく、新しい知的生活ももたらされるようになり、やがて国家全体の教育制度が要求されるようになった。1868年4月6日に天皇により公布された五箇条の御誓文の5番目には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。
1871年に、西洋諸国の制度や手法を学ぶために日本から派遣された使節団(註:岩倉使節団)は、木戸孝允氏と大久保利通氏という、教育を特に重視していた二人の男を含んでいた。彼らは、アメリカ国民が一般的に知的であるのに深く感心し、すぐさま、次の大久保氏の言葉にあるような結論に達した。
「我々はまず指導者を教育せねばならない。そうすれば結果はついてくるだろう」
杢戸氏は加えた。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことができず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」
文部省が設立され、1872年9月に最初の教育法令が発布された。この歴史的法令の序章は次のように宣言している。
「知識を開き、才能や技芸を仲ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由である」
日本は、アメリカが教育分野で指導したことについての恩義を心から表している。
明治学院学長の井深博士は述べた。「日本が西洋のアイディアに手を仲ばした時、イギリスから海軍を、フランスから陸軍を、ドイツから医療科学を、そしてアメリカから教育を真似た」
日本の教育発展の歴史に常に名誉ある名を残すであろう進歩的な天才は、アメリカ人のダビッド・モルレー博士で、1873~1879年の間、文部省顧問を務めた。彼は日本の近代教育制度を作り上げた真の権威だった。小学校から東京の帝国大学に至るまで、広範囲にわたる計画が策定された。西洋諸国から経験ある教育者たちが招かれ、新しい学校が自ら高い技能を有する教師を育成できるまで、重要な教授の職を受け持った。
天皇は言った。「これからの教育は、村に無知な家族が一つもないように、あるいは家族に無知な者が一人もいないように設計される」
日本の教育は、アメリカのように地方の管理下に置かれるようなことはあまりなかった。中央政府の文部省によって運営され、文部省は一般教育、特別教育、宗教の三つの局に分かれていた。華族学校(註:学習院)、海洋学校、郵便電信学校、陸海軍大学校のように他の省に属しか学校もあったが、すべて政府の監督下にあった。
道徳教育の基礎は1890年10月30日に発布された教育勅語である。教育勅語は、すべての学校に掲示され、読む限り、確かに称賛に値するものだ。
「私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をお始めになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は伸睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、すべての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行なっても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります」
教育委員会の設置
1917年9月20日に発布された詔勅には、次のように書かれていた。
「国内と国外の状況を鑑みて、また大日本帝国の将来を考慮し、内閣に臨時教育委員会を設置するのが賢明だと思われる。教育を発展させる目的で、この委員会に日本の教育に関する事柄を審議する権限を与える。ここに、臨時教育会議の基本的な規定を承認し、公布することを命ずる」
この委員会は、前内務大臣の平田来助子爵を議長とし、前文部大臣の久保田譲男爵を副議長として活発に機能した。そしてどんな改善をすればよいのかはっきりさせるため、国の教育システムのすべてを注意深く調査した。これらのことから、日本人はその教育の熱意において非常に近代的で漸進的だという事が言える。彼らは最高の方法を求め、それを開拓するのに努力を惜しまないのだ。
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日本人、朝鮮人、中国人の基本的特徴
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』より
日本人の基本的特徴は結束
表面的に見る人は、日本人、朝鮮人、中国人の本質的な類似点について述べることが多い。似ているところがあるのは事実だ。似たような服を着ていれば、旅行者が彼らを見分けるのは難しい。礼儀作法や慣習、宗教的信仰の一部も似ているところがある。
さらに、西洋、ヨーロッパ、アメリカに対して、東洋的、アジア的と呼ばれる全体的な精神性においても似ている。それでもやはり、この三つの国民の性格と問題を正しく理解しようとするならば、基本的な違いを知っておく必要がある。ここでは身体的な違いではなく、日本人、中国人、朝鮮人が本当に異なっている所の、精神的な違いについて述べる。
日本の基本は結束だ。個人は重要ではなく、国がすべてだ。日本人は、政治でも、戦争でも、商業でも、日々の生活の中でも、団体で動く。この性質がどれくらい昔にまで遡るのかは議論があるところだ。
京都帝国大学学長の菊池男爵は、1910年、ニューヨークでの講演で、日本は一つの皇室が25世紀もの間絶え間なく伝統的に継承されることで国が一つに強くまとまっており、人々も深い尊敬の念をもっている、と強調した。日本人は完全にこの魅力的な観念の魔法にかかっているように見える。彼らは、現代の日本と先祖代々の日本の関係、そして国民の祖先と皇室の祖先との関係は永続的であると主張する。それは単に今日の日本と祖先の関係というだけではなく、何世紀にも亘る日本人と天皇との関係で、国の結束は時代を通して存続しているのだ。
中国人の基本的特徴は個人主義
中国の基本はこれとは全く逆に個人主義だ。中国人は、個人としては、勤勉で有能、多くは優れた技能を持ち、世界のどの人種とも競い合う事ができる。しかし、協力するような事業を自発的に行なうことはない。共同作業は苦手だ。中国人は個人では強いが、集団では弱い。彼らは組織においては不十分だ。中国のどこへ行っても、この兆候は見られる。商業的に見れば、中国人はアジアで一番のビジネスマンなのだが、団結して効率の良い仕事ができる大きな中国企業を創るのは難しい。政治的には、中央集権が著しく欠如している。皇帝は伝統的には天子として崇められてきたが、今の皇帝を人々は異邦の満洲人とみなし、彼の支配下で苛立っていた。多くの、王朝に準ずるような勢力が生まれ、常に皇帝とその家系の転覆を狙っていた。革命が完了すると、大総領のもとに共和国(註一中華民国)が宣言されたが、6年も経たないうちに5人も大総領が入れ替わった。個人主義が国家の特徴なのである。村では主に長老を長とする集団ができていたが、中国全体で見ると、自分の身は自分で守らなければならない状態だった。
それ故、日本で顕著に見られる国家の結束感などと言うものは全くなかった。南の人間は北の人間についてほぼ何も知らず、気にも留めなかった。四川省の住人は福建省の住人にはほとんど共感することはなく、まるで別の国民の様だ。もし二つの省の間で戦争が起こっても、中国の多くの地域は無関心だ。それは北京の役人と攻撃された省政府の問題なのだから自分たちで処理すればいい、と。恐らく、多くの中国人が1894年に起こった日本と中国の間の戦争の事をまったく知らない。知っている者も、それを日本とドイツの間で起こる戦争ほどに気に掛けなかったのである。もし外国が日本の港を獲得したとしても、それを要塞化するため雇われようとする日本人などいないだろう。
しかし、ドイツが1897年に膠州湾を占拠した時、山来省は強く警戒したにも拘わらず、ドイツの司令長官はドイツ基地を中国人に攻め落とされないように強化するために、何の問題もなく何千もの中国人を雇うことができた。同じく、ロシア人も、中国政府から脅し取った合意で旅順を獲得した時、それを要塞化するのに6万人の中国人労働者を雇うのに困難はなかった。北京の各国公使館も、宮廷を狙おうと思えば狙えるような、小銃の弾が届くような距離でも中国人労働者の力を借りて防備を固めていた。
中国は結束した国家というよりは、いくつかの組織が緩やかに寄せ集められたものなのだ。知事や総督は実質的には独立した支配者で、自分たちの貨幣鋳造所や軍隊を持ち、北京に貢物を送っていれば好き勝手なことができた。日本政府は事業において個人を誘導し支持するのだが、中国政府は人々が自活するように放っておくのだ。恐らくこれは、一つには、人口の多さに関係している。それが存続の争いを激しくし、人情味のない身勝手さと自己依存の精神をもたらすのだ。
中国の個人主義は、なぜ、現在の中国における変化が非常に重要なのかを説明する根拠の一つだ。今働いている新しい力は、中国の生活の根本的特質に影響を与え、人々の基本となる考え方と関係性に大変革をもたらしている。鉄道と電報のお陰で、国内の他の地域と交信したり、その地域についての知識を得る事ができるようになり、以前には存在しなかった一体感が生じ始めている。そして、そこには大きな希望がある。中国の改革運動は、基本的には国民の運動だ。政府はそれを指揮しなかったし、実際問題としてかなり対応が遅れていた。このような大規模な大衆運動は、おそらくヨーロッパの似たような運動と同じ位に抑見難くなるだろう。なぜなら新しい秩序というものは、一度確立すれば、国家の同意のもとに固く築かれるからだ。
朝鮮人の基本的特徴は主観性
朝鮮の基本については、一つの言葉で言い表すのは難しいが、主観性と呼べるかもしれない。国民はあまり男らしくはなく、野心的でもなく、精神面で独立心も少ない。皇帝を普通に尊敬しているが、日本人に特徴的な、情熱的献身は全くない。どんな日本人も天皇のために喜んで命を捧げる。これは日本が非常に強い軍を持っている理由の一つだ。国が一体となって戦い、国の理想を体現する天皇のために死ぬまで戦う。
このような感情は中国人には全く異質なもので、朝鮮人はこの点では日本と中国の中間に位置する。皇帝が侮辱された時に自殺しか朝鮮の役人も何人かいたが、この精神は全国民を特徴づけるものではない。愛国心のあるほとんどの朝鮮人の感情は、皇帝に特別な愛着があったからと言うよりは、外国人に支配されたことで傷ついた国民のプライドだった。朝鮮人は長い間抑圧され、列強に挟まれ、非常に無力だったので、ほぼ無関心な諦めに悄れていた。英雄的な戦いを為した個人もいるが、国民全体としては、避けられない事に長く黙従しりぎたので、結果として、ある心理状態が身についていた。断固たる日本人のやり方は、さすがに朝鮮人を刺激し無関心ではいられなくしたのだが、いまだに諦めの傾向は顕著である。
朝鮮人は日本人がもたらした近代的改善を、たいてい嫌々ながらも受け入れるのだが、それを自分かちのものにしたり、他の改善を為そうとしたりする事はほとんどしない。彼らは単に日本人のすることに同意し、諦めるのだ。朝鮮では、キリスト教の教会であっても国家であっても、その根底には根強い固有の問題点があり、様々な場面に影響を与えている。それは、朝鮮には中流階級、製造者階級、専門職階級がなく、どの分野にも訓練された指導者がいないということだ。朝鮮にはたった二つの階級しかない。それは「貴族」と農民だ。ただし朝鮮の貴族である両班について言えば、これ以上に低い貴族などいないのである。
朝鮮人の気質は日本人や中国人よりも感情的だ。朝鮮人の心をつかみ、共感を引き起こすのは比較的簡単だ。これは、中国や日本よりも朝鮮でキリスト教が速い進展を遂げた理由の一つである。勿論、朝鮮での福音の成功の理由は他にもあり、それは他で述べることにするが、この気性は国民性に違いをもたらす要因だ。
国が熱望するものも違う。日本人の大望は、自国が世界の大国として認められることだ。中国人の大望は、個人の利益を追求することだ。朝鮮人の大望は、放っておいて欲しいという事だ。朝鮮人が救世軍の役人の周りに集まってくるのを見るのは痛ましかった。彼らは、半分子供のように、鼓笛隊や軍のイメージから、救世軍は自分かちの生活を邪魔している部外者を追い払ってくれると思っていたのだ。
私は今述べてきた三国民の違いの記述が不十分なものであることを承知している。それぞれの国について例外を挙げるのは簡単だろうが、私はここでは国民全体として考えており、既に述べたような基本的な違いは根深く、政治、商業、伝道において多くの問題に影響している。
日本人の基本的特徴は結束
表面的に見る人は、日本人、朝鮮人、中国人の本質的な類似点について述べることが多い。似ているところがあるのは事実だ。似たような服を着ていれば、旅行者が彼らを見分けるのは難しい。礼儀作法や慣習、宗教的信仰の一部も似ているところがある。
さらに、西洋、ヨーロッパ、アメリカに対して、東洋的、アジア的と呼ばれる全体的な精神性においても似ている。それでもやはり、この三つの国民の性格と問題を正しく理解しようとするならば、基本的な違いを知っておく必要がある。ここでは身体的な違いではなく、日本人、中国人、朝鮮人が本当に異なっている所の、精神的な違いについて述べる。
日本の基本は結束だ。個人は重要ではなく、国がすべてだ。日本人は、政治でも、戦争でも、商業でも、日々の生活の中でも、団体で動く。この性質がどれくらい昔にまで遡るのかは議論があるところだ。
京都帝国大学学長の菊池男爵は、1910年、ニューヨークでの講演で、日本は一つの皇室が25世紀もの間絶え間なく伝統的に継承されることで国が一つに強くまとまっており、人々も深い尊敬の念をもっている、と強調した。日本人は完全にこの魅力的な観念の魔法にかかっているように見える。彼らは、現代の日本と先祖代々の日本の関係、そして国民の祖先と皇室の祖先との関係は永続的であると主張する。それは単に今日の日本と祖先の関係というだけではなく、何世紀にも亘る日本人と天皇との関係で、国の結束は時代を通して存続しているのだ。
中国人の基本的特徴は個人主義
中国の基本はこれとは全く逆に個人主義だ。中国人は、個人としては、勤勉で有能、多くは優れた技能を持ち、世界のどの人種とも競い合う事ができる。しかし、協力するような事業を自発的に行なうことはない。共同作業は苦手だ。中国人は個人では強いが、集団では弱い。彼らは組織においては不十分だ。中国のどこへ行っても、この兆候は見られる。商業的に見れば、中国人はアジアで一番のビジネスマンなのだが、団結して効率の良い仕事ができる大きな中国企業を創るのは難しい。政治的には、中央集権が著しく欠如している。皇帝は伝統的には天子として崇められてきたが、今の皇帝を人々は異邦の満洲人とみなし、彼の支配下で苛立っていた。多くの、王朝に準ずるような勢力が生まれ、常に皇帝とその家系の転覆を狙っていた。革命が完了すると、大総領のもとに共和国(註一中華民国)が宣言されたが、6年も経たないうちに5人も大総領が入れ替わった。個人主義が国家の特徴なのである。村では主に長老を長とする集団ができていたが、中国全体で見ると、自分の身は自分で守らなければならない状態だった。
それ故、日本で顕著に見られる国家の結束感などと言うものは全くなかった。南の人間は北の人間についてほぼ何も知らず、気にも留めなかった。四川省の住人は福建省の住人にはほとんど共感することはなく、まるで別の国民の様だ。もし二つの省の間で戦争が起こっても、中国の多くの地域は無関心だ。それは北京の役人と攻撃された省政府の問題なのだから自分たちで処理すればいい、と。恐らく、多くの中国人が1894年に起こった日本と中国の間の戦争の事をまったく知らない。知っている者も、それを日本とドイツの間で起こる戦争ほどに気に掛けなかったのである。もし外国が日本の港を獲得したとしても、それを要塞化するため雇われようとする日本人などいないだろう。
しかし、ドイツが1897年に膠州湾を占拠した時、山来省は強く警戒したにも拘わらず、ドイツの司令長官はドイツ基地を中国人に攻め落とされないように強化するために、何の問題もなく何千もの中国人を雇うことができた。同じく、ロシア人も、中国政府から脅し取った合意で旅順を獲得した時、それを要塞化するのに6万人の中国人労働者を雇うのに困難はなかった。北京の各国公使館も、宮廷を狙おうと思えば狙えるような、小銃の弾が届くような距離でも中国人労働者の力を借りて防備を固めていた。
中国は結束した国家というよりは、いくつかの組織が緩やかに寄せ集められたものなのだ。知事や総督は実質的には独立した支配者で、自分たちの貨幣鋳造所や軍隊を持ち、北京に貢物を送っていれば好き勝手なことができた。日本政府は事業において個人を誘導し支持するのだが、中国政府は人々が自活するように放っておくのだ。恐らくこれは、一つには、人口の多さに関係している。それが存続の争いを激しくし、人情味のない身勝手さと自己依存の精神をもたらすのだ。
中国の個人主義は、なぜ、現在の中国における変化が非常に重要なのかを説明する根拠の一つだ。今働いている新しい力は、中国の生活の根本的特質に影響を与え、人々の基本となる考え方と関係性に大変革をもたらしている。鉄道と電報のお陰で、国内の他の地域と交信したり、その地域についての知識を得る事ができるようになり、以前には存在しなかった一体感が生じ始めている。そして、そこには大きな希望がある。中国の改革運動は、基本的には国民の運動だ。政府はそれを指揮しなかったし、実際問題としてかなり対応が遅れていた。このような大規模な大衆運動は、おそらくヨーロッパの似たような運動と同じ位に抑見難くなるだろう。なぜなら新しい秩序というものは、一度確立すれば、国家の同意のもとに固く築かれるからだ。
朝鮮人の基本的特徴は主観性
朝鮮の基本については、一つの言葉で言い表すのは難しいが、主観性と呼べるかもしれない。国民はあまり男らしくはなく、野心的でもなく、精神面で独立心も少ない。皇帝を普通に尊敬しているが、日本人に特徴的な、情熱的献身は全くない。どんな日本人も天皇のために喜んで命を捧げる。これは日本が非常に強い軍を持っている理由の一つだ。国が一体となって戦い、国の理想を体現する天皇のために死ぬまで戦う。
このような感情は中国人には全く異質なもので、朝鮮人はこの点では日本と中国の中間に位置する。皇帝が侮辱された時に自殺しか朝鮮の役人も何人かいたが、この精神は全国民を特徴づけるものではない。愛国心のあるほとんどの朝鮮人の感情は、皇帝に特別な愛着があったからと言うよりは、外国人に支配されたことで傷ついた国民のプライドだった。朝鮮人は長い間抑圧され、列強に挟まれ、非常に無力だったので、ほぼ無関心な諦めに悄れていた。英雄的な戦いを為した個人もいるが、国民全体としては、避けられない事に長く黙従しりぎたので、結果として、ある心理状態が身についていた。断固たる日本人のやり方は、さすがに朝鮮人を刺激し無関心ではいられなくしたのだが、いまだに諦めの傾向は顕著である。
朝鮮人は日本人がもたらした近代的改善を、たいてい嫌々ながらも受け入れるのだが、それを自分かちのものにしたり、他の改善を為そうとしたりする事はほとんどしない。彼らは単に日本人のすることに同意し、諦めるのだ。朝鮮では、キリスト教の教会であっても国家であっても、その根底には根強い固有の問題点があり、様々な場面に影響を与えている。それは、朝鮮には中流階級、製造者階級、専門職階級がなく、どの分野にも訓練された指導者がいないということだ。朝鮮にはたった二つの階級しかない。それは「貴族」と農民だ。ただし朝鮮の貴族である両班について言えば、これ以上に低い貴族などいないのである。
朝鮮人の気質は日本人や中国人よりも感情的だ。朝鮮人の心をつかみ、共感を引き起こすのは比較的簡単だ。これは、中国や日本よりも朝鮮でキリスト教が速い進展を遂げた理由の一つである。勿論、朝鮮での福音の成功の理由は他にもあり、それは他で述べることにするが、この気性は国民性に違いをもたらす要因だ。
国が熱望するものも違う。日本人の大望は、自国が世界の大国として認められることだ。中国人の大望は、個人の利益を追求することだ。朝鮮人の大望は、放っておいて欲しいという事だ。朝鮮人が救世軍の役人の周りに集まってくるのを見るのは痛ましかった。彼らは、半分子供のように、鼓笛隊や軍のイメージから、救世軍は自分かちの生活を邪魔している部外者を追い払ってくれると思っていたのだ。
私は今述べてきた三国民の違いの記述が不十分なものであることを承知している。それぞれの国について例外を挙げるのは簡単だろうが、私はここでは国民全体として考えており、既に述べたような基本的な違いは根深く、政治、商業、伝道において多くの問題に影響している。
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生涯学習の場としての図書館
『生涯学習概論』より ⇒ まだまだ、甘いね!
学習を支援する図書館の役割
生涯学習と比較しやすいのは学校教育であるが、現在では学校教育はほどんどすべての人々が義務制学校によってその教育活動での学習の恩恵を受けている。では、生涯学習は公的な諸制度やすべての国民にゆきわたる事業展開が確立され、学校教育のようにすべての人々がその生涯学習に関する学習支援の行政サービスの恩恵を受けているといえるのであろうか? その答えは残念ながら否といえる。これは数的な面からもその差が裏づけられている。 2014年度の学校基本調査によれば、現在義務制小学校数は公立の20,558校を数え、公立の中学校数は9,707校となっている。明治時代の学制発布以来、システムが国の隅々までゆきわたっている。離島であろうが大都市であろうが生活圏域には学校区単位という基準で学校という教育機関が日本国中の津々浦々に存在する。その一方で、生涯学習施設は社会教育調査によれば、 2011年10月1日時点で公民館が15,399館、図書館が3,274館、博物館は1,262館となっている。
公民館、図書館、博物館の3館を合計しても市町村が設置する義務制学校には数的に及ばない。また、学校教育制度は1872(明治5)年の学制発布以来の歴史を有するが、生涯学習施設が法的な裏付けを得るのは、公民館が1949年の社会教育法発布、図書館が1950年の図書館法の発布、博物館が1951年の博物館法の発布以降となる。これら社会教育施設の主要施設が始動したのは、同じ教育機関の学校が歩み始めて70数年後となる。戦後ようやく法律の後ろ盾を得た社会教育施設であるが、学校制度のように一斉に、悉皆的に全国の隅々まで浸透することはなかった。今日すでに戦後直後の社会教育施設の登場から70年を迎えようとしているが、同じく地方自治体の市町村が設置する義務制の学校の水準には数的にも質的にも到達していない。学校制度の普及速度と比較しても、生涯学習関連の整備状況は文字通り、世紀以上の遅れ感は否めない。そうした中ではあるが、文部科学省において生涯学習局が筆頭局に位置づけされたことも踏まえて、生涯学習にとっての戦略を各生涯学習関連の現場が具体的に提示する必要に追られている。また、国の施策展開の序列でいけば個人の豊かさより生活課題解決が高いポジションを得たとも解釈ができる。2012年度の図書館司書・博物館学芸員の資格科目改訂でも明らかなように、単位数が増えるなど、生涯学習施設の質的な充実の期待が高まっているのも事実である。そうした中で、従来は図書館の主たる仕事は資料提供であって学習の支援の役割としての図書館像は描かれてはいなかったが、住民の学習を積極的に支援する役割が、図書館に期待されているのである。教える人と教えられる人という関係性の学校教育スタイルとは違った、学習支援の役割が求められているのである。
1970年代に人口一人当たりの図書貸出冊数で10冊を超えて日本一の水準となって一躍有名となった北海道常呂郡置戸町立図書館では、その当時に「木と暮らしのコーナー」を館内の一角に設けて住民の学習支援に取り組んだ。この例を図書館における生涯学習を支援する具体的なイメージとしてあげることができる。北海道の道東の内陸部に位置する置戸町は木材の集積地であり、そうした事情から図書館が主産業の林業や木材加工等を中心とした木に関する深く、広がりのあるコレクションを形成した。これらが、地域課題解決につながるオケクラフトという木工品の誕生と林業の発展に対する図書館の学習支援でもあった。
図書館法第3条の「土地の事情と一般公衆の希望に沿い」という文言は、正しく地域課題を深く認識して地域の課題解決に向けた図書館活動を示すものである。全国画一的に、一律の資料収集を行うだけのものでもなければ、単なる郷土資料・地域資料を収集してコーナーを形成するだけにとどまるものでもない。地域を深く洞察したうえでの資料収集活動が前提になる。そのような活動は、資料提供という一般に流通している従来の図書館活動のイメージから大きく異なる。積極的な資料収集のイメージでありきめ細かな対応が図書館側に求められる。そうした中から、地域の課題解決に向けた個々の学習活動への図書館の役割が見えてくる。地域課題から要求される資料や潜在的な学習要求につながる資料群の形成に日々取り組むことが図書館に求められている。地方創生時代という追い風の中で個々の学習課題や地域の課題解決に向けて取り組む姿勢が、地域の信頼を勝ち取り、生涯学習の拠点施設に成り得るかどうかの重要なポイントでもある。自発的に学習するうえで、自分や地域の個別課題の解決に役立つ多様な資料群を保有し、しかも保有しない資料も図書館間相互協力システムに拠って日本中の図書館網まで利用可能な図書館は生涯学習を実現するのに欠かせない施設であることを多くの人々が認識するかが鍵でもある。あらゆるジャンルの資料を図書館サービス網によって入手することができる図書館は、個々人ごとの問題関心に対応できる他の施設にない特長を有す生涯学習施設であるといってよいのである。
図書館来館へのステップ
図書館が真に生涯学習の施設拠点となるためには、さまざまな課題を克服する必要がある。図書館の利用は利用者の自由な意思に委ねられており、どんな図書館であろうと魅力を感じなければ利用者は図書館には足を運ばない。生涯学習の拠点施設としての図書館を学校教育並みの水準に整備するためには、第一に図書館システムが機能するように図書館の整備計画を日常的に使用可能な状態に計画配置することが必要である。第二には図書館を気軽に利用できる環境整備が必要である。それぞれが実現するための課題を整理しよう。
第一に 日常的に使える存在となっているか。
図書館を使いたくても、日常生活圏内に図書館がなければ利用者には非日常施設になって、利用が遠のくのは当然のことである。1963年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』(以下中小レポートと記す)は、多くの図書館未設置自治体への図書館設置を促す働きをした。しかしながら、大都市近郊の都市のように人口密度の高い地域には図書館は浸透したが、人口密度の低い都市や農山漁村、離島地域には必ずしも身近な存在に成り得なかった。とりわけ中小レポートが想定した5万人~20万人の都市地域以外では、図書館振興の動きは半世紀以上の歳月を経ても大きな潮流になっていない。そうした地域に見合った図書館施策が待たれるところである。せめて離島地域にも日常的な生活圏域の学校区単位に図書館網の存在が見える水準になることが望まれる。
第二に図書館が身近にあってもすべての人が気軽に出入りできるか。
身近な図書館が気軽に使えるためには、①蔵書内容(図書館資料の充実度)、②開館日・開館時間、③館員のホスピタリティー、④バリアフリー、⑤プライバシー等々の要件がある。そうした観点から利用の阻害要因となっているものがあるかをチェックすることが、利用者の足を図書館に向けさせる重要な点といえる。
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
1980年代の後半以降日本の公共図書館での電算化が進み、図書館での目録作成業務が激変した。それまでは図書館の主要業務として位置づけられていた作業が、マーク導入で様相が一変した。この電算化による図書館の業務内容の変化は、同時に機械的な対応のサービスヘと導いた側面も否定できない。その変革期の図書館の当時の現場の空気としては、目録作成業務から資料的価値の追求や図書館システムの構築へと、司書の専門性の領域をより細分化し限定していく流れであった。
しかし、そのことはのちに、職務の一部のアウトソーシング化と密接につながっていった。現在では一部のみならず業務全体のアウトソーシグまでにも広がる事態に至っている。生涯学習の見地から図書館をとらえなおすことは、こうした状況への対抗策にもなる。細分化した業務のミクロ的視野からは全体を鳥瞰した学習支援は見えにくい。図書館サービスの全体を俯瞰し、どのような支援が個別に可能なのかという視点が求められているのである。それは図書館界で電子情報化を迎える以前からいわれてきた、図書館員の基本的な仕事「図書館員は人を知り、資料を知り、資料と人を結ぶ」という視点にも符合するのである。
どんなに図書館メディアが変化しようとも、この基本的なスタンスは変わらないのである。ここに未来に繋がる図書館員の役割があり、生涯学習を学ぶ理由が存在するのである。博物館学芸員も図書館司書も、自らの専門性として資料の探求に力点を置いている現況では学習支援を目指した生涯学習には到達しない。資料的価値を深く探究した成果をもって状況や水準の違う利用者の多様性にどのように向き合うか、向き合えるかが真の専門職の姿である。資料の探究だけであれば研究機関で間に合うし、保存だけであれば倉庫で間に合うことになる。諸々の資料的価値を探究したうえで、どのようにプロデュースするかを司書や生涯学習の関連施設の専門性として意識することが求められている。これらが意識されれば、細部化したミクロの代替可能な専門的職務を超えた大きな力になり得るのである。さらに図書館の場合、自館資料にとどまらず相互貸借機能を駆使すれば巨大な知識の集積の提供を後ろ盾として、すべての学習課題の糸口を支援者に提供可能な優位な立場になり得る。そのようなことから図書館は文字通り生涯学習を支援するのに最適な機関であり、その職務は極めて重要である。電子情報化を迎えて図書館不要論も存在するが、図書館の多様なメディアを考慮すれば、今後ますます発展の可能性を秘めている。その力と利用者の力を引き出す職務である司書の役割は大きいこと、そして新しい時代の図書館員としての専門性もまた今正しく問われているのである。
学習を支援する図書館の役割
生涯学習と比較しやすいのは学校教育であるが、現在では学校教育はほどんどすべての人々が義務制学校によってその教育活動での学習の恩恵を受けている。では、生涯学習は公的な諸制度やすべての国民にゆきわたる事業展開が確立され、学校教育のようにすべての人々がその生涯学習に関する学習支援の行政サービスの恩恵を受けているといえるのであろうか? その答えは残念ながら否といえる。これは数的な面からもその差が裏づけられている。 2014年度の学校基本調査によれば、現在義務制小学校数は公立の20,558校を数え、公立の中学校数は9,707校となっている。明治時代の学制発布以来、システムが国の隅々までゆきわたっている。離島であろうが大都市であろうが生活圏域には学校区単位という基準で学校という教育機関が日本国中の津々浦々に存在する。その一方で、生涯学習施設は社会教育調査によれば、 2011年10月1日時点で公民館が15,399館、図書館が3,274館、博物館は1,262館となっている。
公民館、図書館、博物館の3館を合計しても市町村が設置する義務制学校には数的に及ばない。また、学校教育制度は1872(明治5)年の学制発布以来の歴史を有するが、生涯学習施設が法的な裏付けを得るのは、公民館が1949年の社会教育法発布、図書館が1950年の図書館法の発布、博物館が1951年の博物館法の発布以降となる。これら社会教育施設の主要施設が始動したのは、同じ教育機関の学校が歩み始めて70数年後となる。戦後ようやく法律の後ろ盾を得た社会教育施設であるが、学校制度のように一斉に、悉皆的に全国の隅々まで浸透することはなかった。今日すでに戦後直後の社会教育施設の登場から70年を迎えようとしているが、同じく地方自治体の市町村が設置する義務制の学校の水準には数的にも質的にも到達していない。学校制度の普及速度と比較しても、生涯学習関連の整備状況は文字通り、世紀以上の遅れ感は否めない。そうした中ではあるが、文部科学省において生涯学習局が筆頭局に位置づけされたことも踏まえて、生涯学習にとっての戦略を各生涯学習関連の現場が具体的に提示する必要に追られている。また、国の施策展開の序列でいけば個人の豊かさより生活課題解決が高いポジションを得たとも解釈ができる。2012年度の図書館司書・博物館学芸員の資格科目改訂でも明らかなように、単位数が増えるなど、生涯学習施設の質的な充実の期待が高まっているのも事実である。そうした中で、従来は図書館の主たる仕事は資料提供であって学習の支援の役割としての図書館像は描かれてはいなかったが、住民の学習を積極的に支援する役割が、図書館に期待されているのである。教える人と教えられる人という関係性の学校教育スタイルとは違った、学習支援の役割が求められているのである。
1970年代に人口一人当たりの図書貸出冊数で10冊を超えて日本一の水準となって一躍有名となった北海道常呂郡置戸町立図書館では、その当時に「木と暮らしのコーナー」を館内の一角に設けて住民の学習支援に取り組んだ。この例を図書館における生涯学習を支援する具体的なイメージとしてあげることができる。北海道の道東の内陸部に位置する置戸町は木材の集積地であり、そうした事情から図書館が主産業の林業や木材加工等を中心とした木に関する深く、広がりのあるコレクションを形成した。これらが、地域課題解決につながるオケクラフトという木工品の誕生と林業の発展に対する図書館の学習支援でもあった。
図書館法第3条の「土地の事情と一般公衆の希望に沿い」という文言は、正しく地域課題を深く認識して地域の課題解決に向けた図書館活動を示すものである。全国画一的に、一律の資料収集を行うだけのものでもなければ、単なる郷土資料・地域資料を収集してコーナーを形成するだけにとどまるものでもない。地域を深く洞察したうえでの資料収集活動が前提になる。そのような活動は、資料提供という一般に流通している従来の図書館活動のイメージから大きく異なる。積極的な資料収集のイメージでありきめ細かな対応が図書館側に求められる。そうした中から、地域の課題解決に向けた個々の学習活動への図書館の役割が見えてくる。地域課題から要求される資料や潜在的な学習要求につながる資料群の形成に日々取り組むことが図書館に求められている。地方創生時代という追い風の中で個々の学習課題や地域の課題解決に向けて取り組む姿勢が、地域の信頼を勝ち取り、生涯学習の拠点施設に成り得るかどうかの重要なポイントでもある。自発的に学習するうえで、自分や地域の個別課題の解決に役立つ多様な資料群を保有し、しかも保有しない資料も図書館間相互協力システムに拠って日本中の図書館網まで利用可能な図書館は生涯学習を実現するのに欠かせない施設であることを多くの人々が認識するかが鍵でもある。あらゆるジャンルの資料を図書館サービス網によって入手することができる図書館は、個々人ごとの問題関心に対応できる他の施設にない特長を有す生涯学習施設であるといってよいのである。
図書館来館へのステップ
図書館が真に生涯学習の施設拠点となるためには、さまざまな課題を克服する必要がある。図書館の利用は利用者の自由な意思に委ねられており、どんな図書館であろうと魅力を感じなければ利用者は図書館には足を運ばない。生涯学習の拠点施設としての図書館を学校教育並みの水準に整備するためには、第一に図書館システムが機能するように図書館の整備計画を日常的に使用可能な状態に計画配置することが必要である。第二には図書館を気軽に利用できる環境整備が必要である。それぞれが実現するための課題を整理しよう。
第一に 日常的に使える存在となっているか。
図書館を使いたくても、日常生活圏内に図書館がなければ利用者には非日常施設になって、利用が遠のくのは当然のことである。1963年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』(以下中小レポートと記す)は、多くの図書館未設置自治体への図書館設置を促す働きをした。しかしながら、大都市近郊の都市のように人口密度の高い地域には図書館は浸透したが、人口密度の低い都市や農山漁村、離島地域には必ずしも身近な存在に成り得なかった。とりわけ中小レポートが想定した5万人~20万人の都市地域以外では、図書館振興の動きは半世紀以上の歳月を経ても大きな潮流になっていない。そうした地域に見合った図書館施策が待たれるところである。せめて離島地域にも日常的な生活圏域の学校区単位に図書館網の存在が見える水準になることが望まれる。
第二に図書館が身近にあってもすべての人が気軽に出入りできるか。
身近な図書館が気軽に使えるためには、①蔵書内容(図書館資料の充実度)、②開館日・開館時間、③館員のホスピタリティー、④バリアフリー、⑤プライバシー等々の要件がある。そうした観点から利用の阻害要因となっているものがあるかをチェックすることが、利用者の足を図書館に向けさせる重要な点といえる。
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
1980年代の後半以降日本の公共図書館での電算化が進み、図書館での目録作成業務が激変した。それまでは図書館の主要業務として位置づけられていた作業が、マーク導入で様相が一変した。この電算化による図書館の業務内容の変化は、同時に機械的な対応のサービスヘと導いた側面も否定できない。その変革期の図書館の当時の現場の空気としては、目録作成業務から資料的価値の追求や図書館システムの構築へと、司書の専門性の領域をより細分化し限定していく流れであった。
しかし、そのことはのちに、職務の一部のアウトソーシング化と密接につながっていった。現在では一部のみならず業務全体のアウトソーシグまでにも広がる事態に至っている。生涯学習の見地から図書館をとらえなおすことは、こうした状況への対抗策にもなる。細分化した業務のミクロ的視野からは全体を鳥瞰した学習支援は見えにくい。図書館サービスの全体を俯瞰し、どのような支援が個別に可能なのかという視点が求められているのである。それは図書館界で電子情報化を迎える以前からいわれてきた、図書館員の基本的な仕事「図書館員は人を知り、資料を知り、資料と人を結ぶ」という視点にも符合するのである。
どんなに図書館メディアが変化しようとも、この基本的なスタンスは変わらないのである。ここに未来に繋がる図書館員の役割があり、生涯学習を学ぶ理由が存在するのである。博物館学芸員も図書館司書も、自らの専門性として資料の探求に力点を置いている現況では学習支援を目指した生涯学習には到達しない。資料的価値を深く探究した成果をもって状況や水準の違う利用者の多様性にどのように向き合うか、向き合えるかが真の専門職の姿である。資料の探究だけであれば研究機関で間に合うし、保存だけであれば倉庫で間に合うことになる。諸々の資料的価値を探究したうえで、どのようにプロデュースするかを司書や生涯学習の関連施設の専門性として意識することが求められている。これらが意識されれば、細部化したミクロの代替可能な専門的職務を超えた大きな力になり得るのである。さらに図書館の場合、自館資料にとどまらず相互貸借機能を駆使すれば巨大な知識の集積の提供を後ろ盾として、すべての学習課題の糸口を支援者に提供可能な優位な立場になり得る。そのようなことから図書館は文字通り生涯学習を支援するのに最適な機関であり、その職務は極めて重要である。電子情報化を迎えて図書館不要論も存在するが、図書館の多様なメディアを考慮すれば、今後ますます発展の可能性を秘めている。その力と利用者の力を引き出す職務である司書の役割は大きいこと、そして新しい時代の図書館員としての専門性もまた今正しく問われているのである。
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新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」
『タカラは足元にあり!』より 想像のつかない組み合わせで成功させる
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
地域の食の振興をどうするのか、農協の活力をどう生むのか、全国の市町村で、大きな課題となっている。そんななかでもっとも注目されるのが、愛媛県今治市JAおちいまばりの直売所「さいさいきて屋」である。
JR今治駅から車で15分ほどの今治中寺の国道196号線沿い。売り場面積は562坪。駐車場は270台分と広大だ。2007年の開設以来、年々売り上げを伸ばし、今では、24億5000万円にもなる。前年比を見ても全体で3パーセントアップを実現している。参加農家は1300名。
直売所さいさいきて屋には150名が働き、そのうち120名ほどがアルバイト、パートだ。商品構成と集約が徹底している。野菜、果実、肉、米、魚、肉類など地元の生鮮品が、すべてそろう。加工品も弁当類やソーセージ、ドレッシング、豆腐など、地元の業者と連携をしてオリジナルで開発をしたものが中心の品ぞろえとなっている。
人気の秘密は、野菜、果樹、肉類、米などのほかに、漁業連携の魚売り場を設けて、生鮮3品を徹底してそろえたこと。地元中小企業との連携で、ジュース、ドレッシング、ハム、ソーセージまで、100以上のオリジナルの加工品をそろえたことだ。
JAの関連店舗が地域の食材を使ってオリジナル商品を開発し、商品構成の中心に据えるという例は、意外や少ない。JA関連の店舗や直売所には系統で商品開発をしたものが」斉に流れることが一般的だからだ。その点でもさいさいきて屋は一線を画している。
また敷地内や、売り場に自動販売機がない。そのかわり、カフェかおり、ジェラート、ジュース、かき氷のスタンドがある。地元の生産品を利用して開発した商品が敷地内に並ぶ。
注目は、店の入り口に設けられた「残留農薬分析室サイエンス・ラボ」。農産物の検査をさいさいきて屋で独自に行なっている。トレーサビリティーと安心安全を明確化させる姿勢をはっきり打ち出すということが狙いだ。
店内には食堂、クッキングスタジオかおる。クッキングスタジオでは、平日は一般向けの料理教室が開催される。定員15名。英語によるケーキ教室、魚の卸し方、調味料講座など多彩な講座が設けられている。料理教室は地域の料理家、農家などと連携して運営され、参加費用は3500円ほどだ。
上・日曜は子ども向けの料理教室が開かれるが、ユニークなのは、中学生向けの講座だ。6月に開講し、翌年3月までの9回の連続講座。プログラムは、16名の定員で、年間会費は1万円。県と市から職員が派遣されている。小学生用の講座をしたところ好評で、お母さんたちからのリクエストで開講されたと言う。
直販開発部部長の西坂文秀さんは、「モノづくりの喜びを味わい知ってもらいたい。非日常的な喜び、楽しみ、その格好よさを、厨房を使って体験させたい。とくに中学生に力を入れています。主婦には料理のプロになってもらいたい。自分でつくる喜びを知ってもらい、さいさいきて屋と農産物のファンになってほしい。そこまでやらないと食育も語れないと思っています」とその目的を話す。
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
さいさいきて屋は、さらに一歩踏み込んだ画期的な展開を始めた。それは限界集落・買い物難民と呼ばれる地域での、ネットスーパーの展開だ。
JAおちいまばりは、1997年に8つの島の農協を含む14農協が合併して作られた。この合併によって、6つの島の農家の農産物をフォローする必要が出てきた。そこで、一番遠い島で2人を雇用し、早朝、6つの島を巡って集荷し、さいさいきて屋に卸して販売するシステムを作った。6つの島は、しまなみ海道の橋でつながっているので、トラックで集荷すれば短時間で店舗に届く。
逆に、一番離れている島の41軒から注文を取り、商品を届けるシステムを作った。島を巡回する集荷スタッフが、さいさいきて屋で荷物をおろし、帰りの便で41軒の家に注文品を届けるのである。会費は高々2900円だが、配送料は無料だ。
このネットスーパーシステムはNTTドコモと今治市、JAおちいまばりが連携した社会実験今泉で、阿水庭からの注文は、無償レンタルのタブレット端末で行なう。トップベージには「お買い物」「お手紙」「ご相談」の3つの表示しかない。じつにシンプル。
「お買い物」を指でさわると、弁当、総菜、野菜、果物、肉類、魚、米、調味料、日用品などが種類別に一覧できて、それをさらにクリックし、ほしいものを買い物かごに入れて、注文をする。その日の夜の12時までに注文をすると、翌日の午後、注文の品が届く。注文は1個から可能だ。代金は、農協の口座からの引き落とし。タブレットを渡している世帯がわかっているので、注文主はすぐに把握できる。
このなかで注目は「日用品」の項目だ。トイレットペーパー、シャンプー、石鹸といった生活必需の消耗品は直売所には置いていない。さいさいきて屋は、限界集落と高齢者対応として、別棟で日用品の小さな倉庫を作り、そこにストックして、食料品と一緒に配達できるようにした。
「お手紙」もユニークだ。タッチベンや指を使い、手書きすると、端末からメールができるようになっている。送りたい人のリストを作り、登録しておく。難しければ、職員が手伝う。タブレットで子や孫から手紙が届き、返信できる。
また、「お買い物」「お手紙」「ご相談」の表示の左側には、如雨露のイラストが描かれている。これをタッチ操作すると、水やりができ、水をやると、少しずつ芽がでて、やがて花が咲く。水やりの操作はさいさいきて屋に届く。注文がなくても、花に水をやっていれば、安否確認ができるという仕組みだ。もし、2日間連絡がない場合は、直接電話を入れたり訪問するという。安否確認をして、連絡がないような場合は市の福祉政策課が対応する『見守りネットワーク』の協定書を交わしているが、実際は、毎日、なんらかの買い物をしている。タブレットが使い出した人からはありかたい、便利だと好評だという。
ネットスーパーの事業は15戸を対象に2015年4月に始まったが、まだ離島で困っている人がいる。すべての離島で実施し、今では市内全域に募集を行なっている。
農協は、地域密着と謳いながら離島にあった8つ農協を合併し、購買店を閉めてしまった。店がない限界集落では買い物ができない。農協だからこそ、地域のために、島のために地域に寄り添って事業展開をしようとしている。
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
さらに今後予定されているのが、新たな店舗設営だ。2016年2月、今治市の朝倉地区でオープンが予定されているという。直販開発室室長の西坂さんによると、朝倉は合併前は村たったところで、ここにカフエ、金融の窓口、生鮮三品のコーナーを置く。小さなコンビニのような40坪ほどの店舗だ。朝倉は米どころで、野菜も採れる。朝倉の産物をメニューに入れて、そこでしか食べられないものを作って出す。コーヒー券、ケーキ券を販売して、気軽にお茶と食事ができる。
「そこに人が集まり、交流してくれたらと思います。憩の場になり、コミュニティの場所となる。農協の生き残りの場として、私たちは中山間地に活路を見出す提案をしていきます」と、西坂さんは語った。
ここまで言い切ることができるのは、兼業農家や主婦や高齢者が担う農家を支える販路を築き上げた実績があるからだろう。一方でカフェの運営、オリジナル加工品、野菜・果物を使ったスイーツなどの、自ら作り販売するノウハウを蓄積したからにほかならない。
これからの出店計画も、確実な形で、実行されて、いい形のものとなるだろう。さいさいきて屋の地域連携と売り場の仕組みは、今後の各地の手本のIつとなるだろう。
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
地域の食の振興をどうするのか、農協の活力をどう生むのか、全国の市町村で、大きな課題となっている。そんななかでもっとも注目されるのが、愛媛県今治市JAおちいまばりの直売所「さいさいきて屋」である。
JR今治駅から車で15分ほどの今治中寺の国道196号線沿い。売り場面積は562坪。駐車場は270台分と広大だ。2007年の開設以来、年々売り上げを伸ばし、今では、24億5000万円にもなる。前年比を見ても全体で3パーセントアップを実現している。参加農家は1300名。
直売所さいさいきて屋には150名が働き、そのうち120名ほどがアルバイト、パートだ。商品構成と集約が徹底している。野菜、果実、肉、米、魚、肉類など地元の生鮮品が、すべてそろう。加工品も弁当類やソーセージ、ドレッシング、豆腐など、地元の業者と連携をしてオリジナルで開発をしたものが中心の品ぞろえとなっている。
人気の秘密は、野菜、果樹、肉類、米などのほかに、漁業連携の魚売り場を設けて、生鮮3品を徹底してそろえたこと。地元中小企業との連携で、ジュース、ドレッシング、ハム、ソーセージまで、100以上のオリジナルの加工品をそろえたことだ。
JAの関連店舗が地域の食材を使ってオリジナル商品を開発し、商品構成の中心に据えるという例は、意外や少ない。JA関連の店舗や直売所には系統で商品開発をしたものが」斉に流れることが一般的だからだ。その点でもさいさいきて屋は一線を画している。
また敷地内や、売り場に自動販売機がない。そのかわり、カフェかおり、ジェラート、ジュース、かき氷のスタンドがある。地元の生産品を利用して開発した商品が敷地内に並ぶ。
注目は、店の入り口に設けられた「残留農薬分析室サイエンス・ラボ」。農産物の検査をさいさいきて屋で独自に行なっている。トレーサビリティーと安心安全を明確化させる姿勢をはっきり打ち出すということが狙いだ。
店内には食堂、クッキングスタジオかおる。クッキングスタジオでは、平日は一般向けの料理教室が開催される。定員15名。英語によるケーキ教室、魚の卸し方、調味料講座など多彩な講座が設けられている。料理教室は地域の料理家、農家などと連携して運営され、参加費用は3500円ほどだ。
上・日曜は子ども向けの料理教室が開かれるが、ユニークなのは、中学生向けの講座だ。6月に開講し、翌年3月までの9回の連続講座。プログラムは、16名の定員で、年間会費は1万円。県と市から職員が派遣されている。小学生用の講座をしたところ好評で、お母さんたちからのリクエストで開講されたと言う。
直販開発部部長の西坂文秀さんは、「モノづくりの喜びを味わい知ってもらいたい。非日常的な喜び、楽しみ、その格好よさを、厨房を使って体験させたい。とくに中学生に力を入れています。主婦には料理のプロになってもらいたい。自分でつくる喜びを知ってもらい、さいさいきて屋と農産物のファンになってほしい。そこまでやらないと食育も語れないと思っています」とその目的を話す。
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
さいさいきて屋は、さらに一歩踏み込んだ画期的な展開を始めた。それは限界集落・買い物難民と呼ばれる地域での、ネットスーパーの展開だ。
JAおちいまばりは、1997年に8つの島の農協を含む14農協が合併して作られた。この合併によって、6つの島の農家の農産物をフォローする必要が出てきた。そこで、一番遠い島で2人を雇用し、早朝、6つの島を巡って集荷し、さいさいきて屋に卸して販売するシステムを作った。6つの島は、しまなみ海道の橋でつながっているので、トラックで集荷すれば短時間で店舗に届く。
逆に、一番離れている島の41軒から注文を取り、商品を届けるシステムを作った。島を巡回する集荷スタッフが、さいさいきて屋で荷物をおろし、帰りの便で41軒の家に注文品を届けるのである。会費は高々2900円だが、配送料は無料だ。
このネットスーパーシステムはNTTドコモと今治市、JAおちいまばりが連携した社会実験今泉で、阿水庭からの注文は、無償レンタルのタブレット端末で行なう。トップベージには「お買い物」「お手紙」「ご相談」の3つの表示しかない。じつにシンプル。
「お買い物」を指でさわると、弁当、総菜、野菜、果物、肉類、魚、米、調味料、日用品などが種類別に一覧できて、それをさらにクリックし、ほしいものを買い物かごに入れて、注文をする。その日の夜の12時までに注文をすると、翌日の午後、注文の品が届く。注文は1個から可能だ。代金は、農協の口座からの引き落とし。タブレットを渡している世帯がわかっているので、注文主はすぐに把握できる。
このなかで注目は「日用品」の項目だ。トイレットペーパー、シャンプー、石鹸といった生活必需の消耗品は直売所には置いていない。さいさいきて屋は、限界集落と高齢者対応として、別棟で日用品の小さな倉庫を作り、そこにストックして、食料品と一緒に配達できるようにした。
「お手紙」もユニークだ。タッチベンや指を使い、手書きすると、端末からメールができるようになっている。送りたい人のリストを作り、登録しておく。難しければ、職員が手伝う。タブレットで子や孫から手紙が届き、返信できる。
また、「お買い物」「お手紙」「ご相談」の表示の左側には、如雨露のイラストが描かれている。これをタッチ操作すると、水やりができ、水をやると、少しずつ芽がでて、やがて花が咲く。水やりの操作はさいさいきて屋に届く。注文がなくても、花に水をやっていれば、安否確認ができるという仕組みだ。もし、2日間連絡がない場合は、直接電話を入れたり訪問するという。安否確認をして、連絡がないような場合は市の福祉政策課が対応する『見守りネットワーク』の協定書を交わしているが、実際は、毎日、なんらかの買い物をしている。タブレットが使い出した人からはありかたい、便利だと好評だという。
ネットスーパーの事業は15戸を対象に2015年4月に始まったが、まだ離島で困っている人がいる。すべての離島で実施し、今では市内全域に募集を行なっている。
農協は、地域密着と謳いながら離島にあった8つ農協を合併し、購買店を閉めてしまった。店がない限界集落では買い物ができない。農協だからこそ、地域のために、島のために地域に寄り添って事業展開をしようとしている。
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
さらに今後予定されているのが、新たな店舗設営だ。2016年2月、今治市の朝倉地区でオープンが予定されているという。直販開発室室長の西坂さんによると、朝倉は合併前は村たったところで、ここにカフエ、金融の窓口、生鮮三品のコーナーを置く。小さなコンビニのような40坪ほどの店舗だ。朝倉は米どころで、野菜も採れる。朝倉の産物をメニューに入れて、そこでしか食べられないものを作って出す。コーヒー券、ケーキ券を販売して、気軽にお茶と食事ができる。
「そこに人が集まり、交流してくれたらと思います。憩の場になり、コミュニティの場所となる。農協の生き残りの場として、私たちは中山間地に活路を見出す提案をしていきます」と、西坂さんは語った。
ここまで言い切ることができるのは、兼業農家や主婦や高齢者が担う農家を支える販路を築き上げた実績があるからだろう。一方でカフェの運営、オリジナル加工品、野菜・果物を使ったスイーツなどの、自ら作り販売するノウハウを蓄積したからにほかならない。
これからの出店計画も、確実な形で、実行されて、いい形のものとなるだろう。さいさいきて屋の地域連携と売り場の仕組みは、今後の各地の手本のIつとなるだろう。
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領域を飛びわたれ 小室直樹
『これからのエリック・ホッファーのために』より
小室直樹
社会科学者。専門分化した諸学をマスターし、社会科学の統合的な理論構築を目指した。パーソンズの構造‐機能分析をより合理的な仕方でモデル化した。また、ソ連の崩壊を科学的に予言したことで注目を浴びた。主著に「危機の構造」、『ソビエト帝国の崩壊』など。著書多数。
各分野の学者に弟子入り
しかし、数学(物理学)志望は途中から経済学へと転向する。京大の二回生のとき、ヒックスの『価格と資本』を読んで感動し、「そう簡単に原爆を作って戦争などできるものじやないとわかって、むしろ、社会現象を理解するために、社会科学を勉強しようと思った」のだ。
そんな溢れんばかりの情熱を受け止めるに足る師が二人いた。一人は、経済学の市村真一であり、彼はヒックスの本の日本語版序文を書いていた。その文章を頼りに小室は市村の私宅を勝手に訪ね、見事、弟子入りを果たした。
京大卒業後はさらに本格的に経済学を学ぶため、市村のいる大阪大学大学院に入学する。そこで森嶋通夫や高田保馬など、一流の経済学者にしごかれた。彼らに加えて、もう一人の大きな師というのが、市村の推薦でアメリカ留学した先に待っていたマサチューセッツエ科大学のポール・サミュエルソンである。
二九歳の若さでハーバード大学の教授に就任し、難解で知られるケインズを合理的かつ平易に読み解いたことで知られるこの大学者に師事することで、小室は最新の理論経済学を学ぶことができた。
市村に弟子入りし、サミュエルソンに弟子入りし……と、もうお分かりのように、小室の勉強法の極意は、個々の分野で活躍するもっとも正統的な学者に直接師事する(私淑する)ことにあった。橋爪大三郎は次のように述べている。
「小室博士の特徴は、その分野の第一人者を見るや直接に教えを受けようと、弟子か学生となり、その学問の本質をつかみ取ろうと実行に移すこと。もしも、直接教えを受けることがかなわなければ(相手が死んでぃるなど)、その学者の書物を読み、繰り返し読み、あたかも面前で教えを受けているかのようにその内容を体得しようとつとめる」
心理学はスキナーに、帰国後、政治学は丸山眞男に、法社会学は川島武宜に、文化人類学は中根千枝に、社会学は富永健一に……と、師匠の数はハンパない。小室の領域横断的な天才は、このフットワークの軽さに由来している。
在野研究の心得その三三、羞恥心は研究者の天敵である。
領域を横断せよ
すべての学問に知悉すべきという小室が示した態度は、全てが全てに関連しているという相互連関分析に深く結びついている。これが専門分野というタコツボ化しやすい制度で成り立つ大学にうまく受け入れられなかったことは明らかだ。
「私のような一本にしぼらない学問は日本の学界では不利なんですね。狭い世界で、人脈が優先する日本の学界は世界最低なんですよ。もっと正確にいうと、日本には大学がないんじやないか。大学というのは、誰にでも自由に利用できるところでしょう。一例として、大学図書館は、学外者には自由に利用できないでしょう。こんな図書館なんてあるものか。大学じゃなくて国民学校だ」
在野研究の心得その三四、専門領域に囚われるな。在野研究者は専攻を選択して専門の論文を提出しなければならないわけではない。専門知は同時に視野狭窄につながることもある。自分の専門に執心しないでいられる自由さは在野の学者の大きな利点である。
大学の価値とは役立たない価値
ちなみに、先にも引用した「東大は解体すべきか」というシンポジウムでは興味深いやりとりが交わされている。東大解体論を唱える地質学者の生越忠にケンカを売る小室は、東大がなくなってもその権威に相当するものが代替するだけで、根本的な解決にならないと主張して孤軍奮闘している。小室は機構の改革よりも草の根的な活動の方を評価する。
曰く、「機構を変えることよりも、下からの力の積上げで盛り上がる力を一歩一歩積み上げていく、むしろそっちの努力の方に興味がある」。無論、このような関心は既に始まっていた小室ゼミの活動に直結しよう。
また、小室は学問有用論にも反対している。植木屋は仕事に役立たないから大学になど行くべきではないのか? 小室は否という。
「大学は、まったく役に立たないところに値打ちがあると思う。昔の番頭さん、小僧さん、このたたきあげの苦労人は、これが社会の慣習だとかなんだとか、あたかも自明のごとくいうでしょう。だから苦労人のお説教は決まっていて、世の中はそういうもんじやねえよとくるわけ。そこには規範と存在が無媒介的に混入しているわけ。そうじやなしに、社会に対して距離をおいて見るとか考えるとかいうことはグータラグータラむだな時間を持たなかったら絶対できない」
ルンペン哲学ここに極まる。大学は物事に対して「距離」を提供するものだ。そうでなければ、人々は有用性や喫緊の課題に追われ、規範(であるべし)と存在(である)を混同してしまう。それを回避するためには、ルンペン的「グータラ」、野村隈畔流にいえば「ゴロゴロ」が必須である。
インターディシプリナリーの条件
小室は学問のインターディシプリナリー(学際的協力)に関して、専門家同士が連帯するのではなく、ひとりで全てこなすという計画を推奨していた。
「インターディシプリナリーー(学際的)ということは、経済学の専門バカと心理学の専門バカとが協力するということではありません。〔中略〕経済学者であると同時に心理学者でもあるーそういう人であることが必要なのです。経済学で一人前の域に達した人がもういっぺん、心理学を初歩からやりなおす。そういうトレーニングがあってはじめてインターディシプリナリーが可能になるのです」
無論、これは小室自身の研究生活を振り返ったものだ。「もういっぺん」「初歩からやりなおす」。「小室百学」はその繰り返しのなかで生まれた大きな財産だ。
その「初歩」意識によって鍛えられたためだろうか。小室の文体は年を経るにつれて、アカデミックな硬さが消え、より啓蒙的に洗練されていった。とりわけ、一九九六年の『小室直樹の中国原論』以降の〈~原論〉シリーズの読みやすさは、アカデミズム時代の文体を知る者にとっては衝撃的な大変身を遂げている。
学び直しの連続のなかで小室は成長していった。いつまでもビギナーであること。それが、ひとりで全部やる、という学校制度に飼い慣らされた者にとって到底不可能に思える計画への挑戦心に転化する。
在野研究の心得その三五、簡単に自分で自分の限界を設けないこと。専門領域をより深く探究していくことはもちろん大切だ。けれども、別の領域の入門者の視点を身につけることで、自分が既知としていた専門の風景も大きくさまがわりすることがある。小室の遍歴の入門精神は、大きな武器として学問的にも実生活的にも彼の身を救った。多くの学生を引きつけたのもそのあくなき探究心に由来するのかもしれない。
ある日の小室を、宮台真司は次のように回想している。
「私が覚えているのは、ある日、小室先生が泥酔してお越しになって、ジェファーソンの独立宣言を英語で暗唱された後、玄関から出て柵から下に立小便を垂れたこと。柵の下は中庭で駐車場になっていたので、車の上に小便が降り注ぎました。橋爪先生が「こんな小室先生は嫌いだ」とおっしやって、すたすたとお帰りになったと記憶しております」
ああ、小室直樹よブ水遠なれ!
小室直樹
社会科学者。専門分化した諸学をマスターし、社会科学の統合的な理論構築を目指した。パーソンズの構造‐機能分析をより合理的な仕方でモデル化した。また、ソ連の崩壊を科学的に予言したことで注目を浴びた。主著に「危機の構造」、『ソビエト帝国の崩壊』など。著書多数。
各分野の学者に弟子入り
しかし、数学(物理学)志望は途中から経済学へと転向する。京大の二回生のとき、ヒックスの『価格と資本』を読んで感動し、「そう簡単に原爆を作って戦争などできるものじやないとわかって、むしろ、社会現象を理解するために、社会科学を勉強しようと思った」のだ。
そんな溢れんばかりの情熱を受け止めるに足る師が二人いた。一人は、経済学の市村真一であり、彼はヒックスの本の日本語版序文を書いていた。その文章を頼りに小室は市村の私宅を勝手に訪ね、見事、弟子入りを果たした。
京大卒業後はさらに本格的に経済学を学ぶため、市村のいる大阪大学大学院に入学する。そこで森嶋通夫や高田保馬など、一流の経済学者にしごかれた。彼らに加えて、もう一人の大きな師というのが、市村の推薦でアメリカ留学した先に待っていたマサチューセッツエ科大学のポール・サミュエルソンである。
二九歳の若さでハーバード大学の教授に就任し、難解で知られるケインズを合理的かつ平易に読み解いたことで知られるこの大学者に師事することで、小室は最新の理論経済学を学ぶことができた。
市村に弟子入りし、サミュエルソンに弟子入りし……と、もうお分かりのように、小室の勉強法の極意は、個々の分野で活躍するもっとも正統的な学者に直接師事する(私淑する)ことにあった。橋爪大三郎は次のように述べている。
「小室博士の特徴は、その分野の第一人者を見るや直接に教えを受けようと、弟子か学生となり、その学問の本質をつかみ取ろうと実行に移すこと。もしも、直接教えを受けることがかなわなければ(相手が死んでぃるなど)、その学者の書物を読み、繰り返し読み、あたかも面前で教えを受けているかのようにその内容を体得しようとつとめる」
心理学はスキナーに、帰国後、政治学は丸山眞男に、法社会学は川島武宜に、文化人類学は中根千枝に、社会学は富永健一に……と、師匠の数はハンパない。小室の領域横断的な天才は、このフットワークの軽さに由来している。
在野研究の心得その三三、羞恥心は研究者の天敵である。
領域を横断せよ
すべての学問に知悉すべきという小室が示した態度は、全てが全てに関連しているという相互連関分析に深く結びついている。これが専門分野というタコツボ化しやすい制度で成り立つ大学にうまく受け入れられなかったことは明らかだ。
「私のような一本にしぼらない学問は日本の学界では不利なんですね。狭い世界で、人脈が優先する日本の学界は世界最低なんですよ。もっと正確にいうと、日本には大学がないんじやないか。大学というのは、誰にでも自由に利用できるところでしょう。一例として、大学図書館は、学外者には自由に利用できないでしょう。こんな図書館なんてあるものか。大学じゃなくて国民学校だ」
在野研究の心得その三四、専門領域に囚われるな。在野研究者は専攻を選択して専門の論文を提出しなければならないわけではない。専門知は同時に視野狭窄につながることもある。自分の専門に執心しないでいられる自由さは在野の学者の大きな利点である。
大学の価値とは役立たない価値
ちなみに、先にも引用した「東大は解体すべきか」というシンポジウムでは興味深いやりとりが交わされている。東大解体論を唱える地質学者の生越忠にケンカを売る小室は、東大がなくなってもその権威に相当するものが代替するだけで、根本的な解決にならないと主張して孤軍奮闘している。小室は機構の改革よりも草の根的な活動の方を評価する。
曰く、「機構を変えることよりも、下からの力の積上げで盛り上がる力を一歩一歩積み上げていく、むしろそっちの努力の方に興味がある」。無論、このような関心は既に始まっていた小室ゼミの活動に直結しよう。
また、小室は学問有用論にも反対している。植木屋は仕事に役立たないから大学になど行くべきではないのか? 小室は否という。
「大学は、まったく役に立たないところに値打ちがあると思う。昔の番頭さん、小僧さん、このたたきあげの苦労人は、これが社会の慣習だとかなんだとか、あたかも自明のごとくいうでしょう。だから苦労人のお説教は決まっていて、世の中はそういうもんじやねえよとくるわけ。そこには規範と存在が無媒介的に混入しているわけ。そうじやなしに、社会に対して距離をおいて見るとか考えるとかいうことはグータラグータラむだな時間を持たなかったら絶対できない」
ルンペン哲学ここに極まる。大学は物事に対して「距離」を提供するものだ。そうでなければ、人々は有用性や喫緊の課題に追われ、規範(であるべし)と存在(である)を混同してしまう。それを回避するためには、ルンペン的「グータラ」、野村隈畔流にいえば「ゴロゴロ」が必須である。
インターディシプリナリーの条件
小室は学問のインターディシプリナリー(学際的協力)に関して、専門家同士が連帯するのではなく、ひとりで全てこなすという計画を推奨していた。
「インターディシプリナリーー(学際的)ということは、経済学の専門バカと心理学の専門バカとが協力するということではありません。〔中略〕経済学者であると同時に心理学者でもあるーそういう人であることが必要なのです。経済学で一人前の域に達した人がもういっぺん、心理学を初歩からやりなおす。そういうトレーニングがあってはじめてインターディシプリナリーが可能になるのです」
無論、これは小室自身の研究生活を振り返ったものだ。「もういっぺん」「初歩からやりなおす」。「小室百学」はその繰り返しのなかで生まれた大きな財産だ。
その「初歩」意識によって鍛えられたためだろうか。小室の文体は年を経るにつれて、アカデミックな硬さが消え、より啓蒙的に洗練されていった。とりわけ、一九九六年の『小室直樹の中国原論』以降の〈~原論〉シリーズの読みやすさは、アカデミズム時代の文体を知る者にとっては衝撃的な大変身を遂げている。
学び直しの連続のなかで小室は成長していった。いつまでもビギナーであること。それが、ひとりで全部やる、という学校制度に飼い慣らされた者にとって到底不可能に思える計画への挑戦心に転化する。
在野研究の心得その三五、簡単に自分で自分の限界を設けないこと。専門領域をより深く探究していくことはもちろん大切だ。けれども、別の領域の入門者の視点を身につけることで、自分が既知としていた専門の風景も大きくさまがわりすることがある。小室の遍歴の入門精神は、大きな武器として学問的にも実生活的にも彼の身を救った。多くの学生を引きつけたのもそのあくなき探究心に由来するのかもしれない。
ある日の小室を、宮台真司は次のように回想している。
「私が覚えているのは、ある日、小室先生が泥酔してお越しになって、ジェファーソンの独立宣言を英語で暗唱された後、玄関から出て柵から下に立小便を垂れたこと。柵の下は中庭で駐車場になっていたので、車の上に小便が降り注ぎました。橋爪先生が「こんな小室先生は嫌いだ」とおっしやって、すたすたとお帰りになったと記憶しております」
ああ、小室直樹よブ水遠なれ!
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