『生涯学習概論』より ⇒ まだまだ、甘いね!
学習を支援する図書館の役割
生涯学習と比較しやすいのは学校教育であるが、現在では学校教育はほどんどすべての人々が義務制学校によってその教育活動での学習の恩恵を受けている。では、生涯学習は公的な諸制度やすべての国民にゆきわたる事業展開が確立され、学校教育のようにすべての人々がその生涯学習に関する学習支援の行政サービスの恩恵を受けているといえるのであろうか? その答えは残念ながら否といえる。これは数的な面からもその差が裏づけられている。 2014年度の学校基本調査によれば、現在義務制小学校数は公立の20,558校を数え、公立の中学校数は9,707校となっている。明治時代の学制発布以来、システムが国の隅々までゆきわたっている。離島であろうが大都市であろうが生活圏域には学校区単位という基準で学校という教育機関が日本国中の津々浦々に存在する。その一方で、生涯学習施設は社会教育調査によれば、 2011年10月1日時点で公民館が15,399館、図書館が3,274館、博物館は1,262館となっている。
公民館、図書館、博物館の3館を合計しても市町村が設置する義務制学校には数的に及ばない。また、学校教育制度は1872(明治5)年の学制発布以来の歴史を有するが、生涯学習施設が法的な裏付けを得るのは、公民館が1949年の社会教育法発布、図書館が1950年の図書館法の発布、博物館が1951年の博物館法の発布以降となる。これら社会教育施設の主要施設が始動したのは、同じ教育機関の学校が歩み始めて70数年後となる。戦後ようやく法律の後ろ盾を得た社会教育施設であるが、学校制度のように一斉に、悉皆的に全国の隅々まで浸透することはなかった。今日すでに戦後直後の社会教育施設の登場から70年を迎えようとしているが、同じく地方自治体の市町村が設置する義務制の学校の水準には数的にも質的にも到達していない。学校制度の普及速度と比較しても、生涯学習関連の整備状況は文字通り、世紀以上の遅れ感は否めない。そうした中ではあるが、文部科学省において生涯学習局が筆頭局に位置づけされたことも踏まえて、生涯学習にとっての戦略を各生涯学習関連の現場が具体的に提示する必要に追られている。また、国の施策展開の序列でいけば個人の豊かさより生活課題解決が高いポジションを得たとも解釈ができる。2012年度の図書館司書・博物館学芸員の資格科目改訂でも明らかなように、単位数が増えるなど、生涯学習施設の質的な充実の期待が高まっているのも事実である。そうした中で、従来は図書館の主たる仕事は資料提供であって学習の支援の役割としての図書館像は描かれてはいなかったが、住民の学習を積極的に支援する役割が、図書館に期待されているのである。教える人と教えられる人という関係性の学校教育スタイルとは違った、学習支援の役割が求められているのである。
1970年代に人口一人当たりの図書貸出冊数で10冊を超えて日本一の水準となって一躍有名となった北海道常呂郡置戸町立図書館では、その当時に「木と暮らしのコーナー」を館内の一角に設けて住民の学習支援に取り組んだ。この例を図書館における生涯学習を支援する具体的なイメージとしてあげることができる。北海道の道東の内陸部に位置する置戸町は木材の集積地であり、そうした事情から図書館が主産業の林業や木材加工等を中心とした木に関する深く、広がりのあるコレクションを形成した。これらが、地域課題解決につながるオケクラフトという木工品の誕生と林業の発展に対する図書館の学習支援でもあった。
図書館法第3条の「土地の事情と一般公衆の希望に沿い」という文言は、正しく地域課題を深く認識して地域の課題解決に向けた図書館活動を示すものである。全国画一的に、一律の資料収集を行うだけのものでもなければ、単なる郷土資料・地域資料を収集してコーナーを形成するだけにとどまるものでもない。地域を深く洞察したうえでの資料収集活動が前提になる。そのような活動は、資料提供という一般に流通している従来の図書館活動のイメージから大きく異なる。積極的な資料収集のイメージでありきめ細かな対応が図書館側に求められる。そうした中から、地域の課題解決に向けた個々の学習活動への図書館の役割が見えてくる。地域課題から要求される資料や潜在的な学習要求につながる資料群の形成に日々取り組むことが図書館に求められている。地方創生時代という追い風の中で個々の学習課題や地域の課題解決に向けて取り組む姿勢が、地域の信頼を勝ち取り、生涯学習の拠点施設に成り得るかどうかの重要なポイントでもある。自発的に学習するうえで、自分や地域の個別課題の解決に役立つ多様な資料群を保有し、しかも保有しない資料も図書館間相互協力システムに拠って日本中の図書館網まで利用可能な図書館は生涯学習を実現するのに欠かせない施設であることを多くの人々が認識するかが鍵でもある。あらゆるジャンルの資料を図書館サービス網によって入手することができる図書館は、個々人ごとの問題関心に対応できる他の施設にない特長を有す生涯学習施設であるといってよいのである。
図書館来館へのステップ
図書館が真に生涯学習の施設拠点となるためには、さまざまな課題を克服する必要がある。図書館の利用は利用者の自由な意思に委ねられており、どんな図書館であろうと魅力を感じなければ利用者は図書館には足を運ばない。生涯学習の拠点施設としての図書館を学校教育並みの水準に整備するためには、第一に図書館システムが機能するように図書館の整備計画を日常的に使用可能な状態に計画配置することが必要である。第二には図書館を気軽に利用できる環境整備が必要である。それぞれが実現するための課題を整理しよう。
第一に 日常的に使える存在となっているか。
図書館を使いたくても、日常生活圏内に図書館がなければ利用者には非日常施設になって、利用が遠のくのは当然のことである。1963年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』(以下中小レポートと記す)は、多くの図書館未設置自治体への図書館設置を促す働きをした。しかしながら、大都市近郊の都市のように人口密度の高い地域には図書館は浸透したが、人口密度の低い都市や農山漁村、離島地域には必ずしも身近な存在に成り得なかった。とりわけ中小レポートが想定した5万人~20万人の都市地域以外では、図書館振興の動きは半世紀以上の歳月を経ても大きな潮流になっていない。そうした地域に見合った図書館施策が待たれるところである。せめて離島地域にも日常的な生活圏域の学校区単位に図書館網の存在が見える水準になることが望まれる。
第二に図書館が身近にあってもすべての人が気軽に出入りできるか。
身近な図書館が気軽に使えるためには、①蔵書内容(図書館資料の充実度)、②開館日・開館時間、③館員のホスピタリティー、④バリアフリー、⑤プライバシー等々の要件がある。そうした観点から利用の阻害要因となっているものがあるかをチェックすることが、利用者の足を図書館に向けさせる重要な点といえる。
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
1980年代の後半以降日本の公共図書館での電算化が進み、図書館での目録作成業務が激変した。それまでは図書館の主要業務として位置づけられていた作業が、マーク導入で様相が一変した。この電算化による図書館の業務内容の変化は、同時に機械的な対応のサービスヘと導いた側面も否定できない。その変革期の図書館の当時の現場の空気としては、目録作成業務から資料的価値の追求や図書館システムの構築へと、司書の専門性の領域をより細分化し限定していく流れであった。
しかし、そのことはのちに、職務の一部のアウトソーシング化と密接につながっていった。現在では一部のみならず業務全体のアウトソーシグまでにも広がる事態に至っている。生涯学習の見地から図書館をとらえなおすことは、こうした状況への対抗策にもなる。細分化した業務のミクロ的視野からは全体を鳥瞰した学習支援は見えにくい。図書館サービスの全体を俯瞰し、どのような支援が個別に可能なのかという視点が求められているのである。それは図書館界で電子情報化を迎える以前からいわれてきた、図書館員の基本的な仕事「図書館員は人を知り、資料を知り、資料と人を結ぶ」という視点にも符合するのである。
どんなに図書館メディアが変化しようとも、この基本的なスタンスは変わらないのである。ここに未来に繋がる図書館員の役割があり、生涯学習を学ぶ理由が存在するのである。博物館学芸員も図書館司書も、自らの専門性として資料の探求に力点を置いている現況では学習支援を目指した生涯学習には到達しない。資料的価値を深く探究した成果をもって状況や水準の違う利用者の多様性にどのように向き合うか、向き合えるかが真の専門職の姿である。資料の探究だけであれば研究機関で間に合うし、保存だけであれば倉庫で間に合うことになる。諸々の資料的価値を探究したうえで、どのようにプロデュースするかを司書や生涯学習の関連施設の専門性として意識することが求められている。これらが意識されれば、細部化したミクロの代替可能な専門的職務を超えた大きな力になり得るのである。さらに図書館の場合、自館資料にとどまらず相互貸借機能を駆使すれば巨大な知識の集積の提供を後ろ盾として、すべての学習課題の糸口を支援者に提供可能な優位な立場になり得る。そのようなことから図書館は文字通り生涯学習を支援するのに最適な機関であり、その職務は極めて重要である。電子情報化を迎えて図書館不要論も存在するが、図書館の多様なメディアを考慮すれば、今後ますます発展の可能性を秘めている。その力と利用者の力を引き出す職務である司書の役割は大きいこと、そして新しい時代の図書館員としての専門性もまた今正しく問われているのである。