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晩婚化・未婚化現象とジェンダー問題

『アジアのなかのジェンダー』より 少子社会におけるジェンダー問題--結婚というウィンドウからみる--

晩婚化・未婚化か進行しているとはいえ、若者の結婚意欲が減少したわけではない。テレビや雑誌などのメディアによる情報は、結婚に関するものであふれている。映画もドラマもアニメも恋愛の先のゴールを結婚に定め、社会もそれを違和感なく受け止めている。「婚活」なる言葉まで登場して、若者たちが真剣に結婚の途を模索している様子がよくわかる。ではなぜ結婚しない若者たちが増えているのだろうか。その理由として、最も多くあげられるのは、「適当な相手にめぐり会わない」からだとされている。その「適当な相手」とはどのような相手なのだろうか。 2010年のデータによると、男女ともに最も重視しているのは相手の「人柄」、次に「家事・育児の能力」、「仕事への理解」と続くが女性の場合は特に後者2つの値が高くなっている。この2つの条件からみて、女性は結婚後も就労意欲が高く、家庭生活と仕事の両立のために男性の協力や理解が不可欠なものと考えていることがわかる。しかしその一方で最も男女差で際立っのが、女性が相手に求める〔経済力〕の条件の比重である。相手の「職業」、「学歴」についても重視又は考慮すると回答した割合が高いことは、それがすべて〔経済力〕につながるからである。一方、男性の場合、女性の〔経済力〕には関心が低く、女性よりもこだわる条件は相手の「容姿」のみとなっている。この結果から、女性は男性と比べて結婚相手に求める条件が多岐にわたること、特に男性に〔経済力〕、さらに〔家庭生活と仕事の両立への協力や理解〕を望んでいることがわかる。では、女性は男性よりもわがまま、よくばりなのだろうか? 実はそうではない。男性との相違が目立つこの2点について、本節ではさらに詳しく検証する。

1 なぜ女性は結婚相手の男性に〔経済力〕を求めるのだろうか

 その答えは簡単である。一般に日本の女性は、男性に比べて〔経済力〕の面で劣り、また維持することが難しいからである。「男女雇用機会均等法」が誕生して四半世紀たっというのに、女性の平均賃金は未だ男性の7割程度であり、職種によってはさらにその差は大きくなる。また結婚したカップルのほとんどが夫婦共稼ぎを選択するものの、子どもができると育児に専念するために仕事を辞め専業主婦となる女性が少なくない。そのため、日本では30代前後の女性の労働力人口が減り、その後ある程度、子どもが大きくなったら再び労働市場に戻っていくM字型カーブを描く就労パターンが未だに多くの女性の間で選択されている。したがってその平均勤続年数は当然、男性より低くなる。しかもいったん家庭に入った女性の正規雇用としての門戸は狭く、ほとんどの女性はパートをはじめとした非正規雇用者として再就職することになる。平均勤続年数の短さと非正規雇用層が多いことが平均賃金の低さに反映されるのである。さらに正規雇用者であっても男性に比べて昇進などの途が狭いこと、また長らく女性が占有してきた職業の賃金が比較的低く抑えられていることによって給与間格差を生み出している。加えて雇用のシステムに家父長制の価値観が具現化され、男性の給料にのみ家族手当などがついているケースもめずらしくないこともその現象を強化している。その一方でこの価値観は、女性は家計補助者という男女の“棲み分け”も伴うから、女性の給与は低く抑えられるのである。

 このような状況は、女性たちに、結婚すれば男性に経済的に依存することになるという想像を働かせる。近年、ある有名タレントが、結婚相手には自分の年収の2倍を求めるといって周囲の顰蹙を買ったことがあるが、子どもを出産し専業主婦になるのであれば、男性の収入に喪失する自分の収入分を求めたとしても何ら不思議はない。またその後、再就職したとしても元の収入が期待できないのであれば、女性が結婚相手に〔経済力〕を求めるのは、わがままでもよくばりでもなく、ごく普通の生きる者としての防衛本能なのである。しかし若い男性の非正規雇用が社会問題となり、大卒の就職率も年々下がる傾向にあるこんにち、女性たちの希望をかなえてくれる男性に出会う確率は極めて低い。

2 なぜ〔家事・育児への協力〕的な男性が女性の結婚条件になるのか?

 現代の女性は結婚後も仕事を続けることにためらいはない。結婚相手に望む条件に「自分の仕事への理解と協力」があげられているのも、そのためである。また男性の側も、不安定な雇用状況を考えると、専業主婦を養えるだけの余裕がないことは承知している。だから以前のように、プロポーズと同時に「結婚したら仕事をやめてくれ」などと口走る種類の男性は現在ではほぼ絶滅種に近い存在である。それどころか、子どもができても働き続ける妻を求めている。最近の若い男性のほとんどには、自分の給料で3食昼寝付きの専業の妻を雇う経済力もなければ、そのような意志もない。したがって女性たちが結婚相手に特別、仕事への理解・協力を声高にいわなければならない時代は終わったはずである。

 しかしである、実際に結婚するとどうなるのか? 2011年の統計によれば、日本男性が1日平均従事する家事関連時間は42分、これは5年前の38分と比べれば前進している。興味深いことにこの状況は妻が専業主婦であっても外に職業をもっていても変わらない。これを6歳未満の子どもがいる家庭に絞ってみてみると、家事・育児時間は1時間以上に増える。しかしそのうちの40分近くは育児に費やすため、平均5時間ともいわれる妻が行う家事への負担は消えない。背景の一つには、日本の長時間労働の問題がある。日本では、過労死もめずらしくなく、働き盛りの男性が身体ばかりか心のバランスまで崩し、うつ病になるケースも増えている。リストラの恐怖に怯え、心身の不調にも耐えながら働き、帰宅時間も遅い男性に、「もっと家事を」とはいえない現実がある。未だに女性が結婚相手に、〔家事・育児への協力〕ができる男性を選ぶ理由はここにある。彼女たちは、自分の親世代をみてその現実を知っている。

3 性別役害扮業という壁

 以上みてきたように、結婚を阻む要因として、女性が求める男性の〔経済力〕に対しては若年の不安定な雇用の状況が、また結婚後の〔家事・育児への協力〕については長時間労働の日本社会がある現実をみてきた。つまり晩婚化・未婚化には、日本の経済状況が大きく影響しているのである。しかし結婚を阻むこれら2つの条件の他にもう一つの重要な要因がある。それが性別役割分業の存在である。

 例えば女性が男性の〔経済力〕に頼る背景には、女性の経済的自立の困難な状況があった。女性の家計補助的な位置づけが歴史的に女性の賃金を抑制し、また子どもが産まれると専業主婦になるというライフスタイルがその状況を促進してきたことを確認してきた。そしてこれらの状況を生み出しているのが、「男は仕事、女は家事・育児」という性別役割分業の規範なのである。男性が一家の稼ぎ手であることを前提としたこの規範では、女性の賃金は家計を援助する程度で抑制されて当然である。また育児のためにいったん仕事を辞めるというM字型就労も、女性が家事・育児の主担者であるという規範が招く結果なのである。

 そして男性が〔家事・育児への協力〕をできないのは、たしかに日本の長時間労働、現在の不安定な経済状況が影響しているからである。しかしそれにしても、欧米諸国の男性の家事・育児参加度と比べるとその違いは歴然としている。アメリカの男性の労働時間に関しては、日本とそう遜色がないデータもある。サービス残業の存在を考慮しても、この差は一体、どこから来るのだろうか。そこにはやはり「家事・育児」という家族世話係は女性であるという性別役割分業の規範が働いているのではないか。性別役割分業観について、国際比較を行ったデータがある。日本はいわゆる先進諸国と比べると、この規範への抵抗が低い。

 そのことが育児休業の取得率にもはっきりと表れている。男女ともに育児休業をとることができる「育児休業制度」(1992年)が施行されて20年近くになるというのに、利用する男性は女性の1割にもはるか届かない。もっともこれには、もう一つの要因もあると思われる。子どもを産み控える要因には、経済的理由が大きいことが明らかにされているが、日本の「育児休業制度」の所得保障は他の国に比べて万全とはいえない。2013年においても、失業保険から支給される育児休業給付は職場復帰の条件でようやく給与の50%という値であった。ただでさえ育児の経済的負担が大きいのなら、一家全体の家計で考えて賃金の高いほうがそのまま働くという選択がなされるのは当然のことであろう。そしてそれは男性なのである。また「育メン」の流行語が物語るように育児をする男性への社会的評価も高まりつつあるが、それは職場では昇進の評価にはつながらない。それどころか、30代での1年に及ぶ休暇は、出世レースからの撤退と受け止められかねない厳しい雇用の現実がある。一家の稼ぎ手として期待される男性にとって、育児休暇の取得は、生まれた子どもの将来のためにも選べない選択肢なのである。
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相互行為、組織、全体社会

『社会の道徳』より ルーマン システム理論の応用

多数の人格の諸行為が有意味に相互に結びつけられており、それによって、連関しているという点で、そこに属さない環境から区切られうる--この場合には常に、社会システムという語を用いうることにする。人々のもとでコミュニケーションが生じるや否や、社会システムが成立する。というのはどのコミュニケーションによっても、一つの歴史が始まるからである。この歴史は、それぞれのコミュニケーションが多くの可能性の中からいくつかだけを実現することにより、相互に関係づけられた諸選択を通して分出していく。環境は、システムが領有し加工しうるよりも、常により多くの可能性を与える。その点で環境は必然的に、システム自身よりも複雑である。社会システムは、自己選択の過程を通して自身を構成する--生物が自己触媒の過程を通してそうするように。したがって社会システムの形成も、またその維持も、そもそも可能なものの複雑性を〔この自己選択を通して〕縮減することを含意しているのである。

このテーゼから出発するならば、そこには同時に特別なシステム類型の形成に関する規則が存してもいるはずである。社会システムは、自己選択と境界設定の過程がどんな前提のもとで進んでいくかによって、さまざまな仕方で形成されうる。この観点のもとで、相互行為システム、組織システム、全体社会システムが区別されうる。今日の社会学研究の最大の重点は、これらの違いに対応している。相互行為における行動の理論ないしはシンボリックに媒介された相互行為の理論、組織理論、そしてまだ不十分にしか発展していないが、全体社会の理論へのアプローチである。システム理論は、社会学のこれら相異なる研究分枝を相対化するとともに、統合してきた。その結果として、これらシステム類型の一つを絶対視することは、もはや可能ではなくなっている。包括的な社会システムの理論としての全体社会理論ですら、この点からすれば独自の制限を被っているのである。この理論は確かに、包括的全体に関わるものである。しかし全体を全体的に研究することなど誰にとっても可能ではないという点を、認識しなければならないのである。

まず最初に、システム理論の三つの応用事例のそれぞれに関して論じなければならない。その後で、それらの間に成り立つ関係について、いくらかの事柄を述べうるだろう。

1 相互行為システムが成立するのは、居合わせる者たちが相互に知覚することを通してである。これは、自己-知覚の知覚を含む。その選択原理は、また同時に境界設定原理は、居合わせることである。居合わせていない者は、このシステムには属さない--その者が、他の点では〔このシステムの〕関与者への関係が緊密であろうとも、である。

相互行為システムの事例としては、家族内で昼食を共にすること(家族そのものではなく)、個々の閣議(政権そのものではなく)、劇場窓口で列に並ぶこと、スカート〔トランプのゲーム〕の集まり、群衆、殴り合い、タクシー乗車などがある。これらすべての事例において、居合わせる者には、優先的に注意が向けられる--場を乱すかもしれないし、いつでもイニシアティブを取りうるという理由だけからして、すでにそうなるのである。それと比べれば居合わせない者への顧慮は後景に退く。居合わせていない者がどんなに強力でも、あるいはどんなに愛されていようともである。このシステム境界は、居合わせる者とは話すことはできるが、居合わせる者について話せはしないということにおいて示されている。また逆に居合わせない者については話せるが、居合わせない者とは話せない。誰でも知っているように、誰と、誰について話すかは、テーマの選択の上で著しい違いを形成するのである。

言語によって、相互行為システム内で、居合わせない者を扱うことが可能になる。つまりシステム内で、環境の一定の相をテーマ化することができるのである。記号が、居合わせていることの代替となる。記号は、居合わせていない者を代理表象しうるのである。環境は言わば、象徴的に切り縮められてシステム内に引き入れられる。このようにしてシステムの環境関係は著しく濃縮され、強化されうる。とりわけ、過去へと、また未来へも、拡張されうる。かくしてシステムと環境の間の一対一対応は、もはや前提とはされなくなる。これは動物の相互行為と比べて、人間の相互行為が持つ決定的な長所なのである。

ただし、相互行為システムにおけるこの長所が獲得されうるのはただ、著しい制限のもとでのみのことである。話すことのできるのは、一度につき一人だけである。多数が同時に言葉を差し挟み、どうしても話し続けようとするならば、発言の聴き取りやすさと調整可能性は損なわれ、たちまちのうちに無に帰していく。これはすなわち、相互行為システムは内的秩序に対する高度な要求を課すのであって、共通の注意の中心となっているそのつど一つのテーマに集中しなければならない、ということである。多数のテーマは、順次にのみ取り扱われうる。関与者は自身の発言をそのつど現時的であるテーマに限定するか、あるいはテーマ変更を実現するよう試みねばならない。そこから、静かな権力闘争が、シーンの中心と他者の注意をめぐる闘争が、生じてきうるのである。顔を突き合わせての原初的な相互行為という最も根源的な水準においてもすでに、平等なチャンスを伴う社会システムなど存在しないのである。

しかし何よりもまず、テーマの集中という要件は、きわめて時間を奪う構造原理である。あらゆる発言は、順次という形式へと強制されるのであり、したがって時間を要する。さらに加えて、連続という単線的な形式は、内容の上で非常に複雑なコミュニケーションを整理するためには、不都合である。概して言えばこのような構造的条件のもとで作動するシステムは、きわめて高度な複雑性を達成することなどできない。自身の可能性においても、また環境関係においても、である。
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民間主導でまちを変えていく

『稼ぐまちが地方を変える』より 自立した「民」がまちを変える

市民「参加」から市民「実行」へ

 民間主導・行政参加のまちづくりの鍵は、そのまちの市民にあります。

 従来と異なることに対しては、多くの人が心配するものです。新しい民間会社が設立されて、銀行からお金を借りて公共の場所に商業施設を開発するなんて、本書で紹介したような事例を知らない人が聞いたら、まず不安を示すのが普通でしょう。

 「やっぱり公共施設の建設は役所がやったほうが安心ではないか」「民間がやったらサービスの質が低下したり、価格が上がったりするのではないか」「何かあったら誰が責任を取るんだ」など、心配をあげればキリがありません。誰でも新しいものは、怖いのです。本書で推奨している、数人で立ち上げて小さく稼ぐようなちっぽけなまち会社でさえ、ただ「新しい」というだけで地域の人たちから危険な団体扱いをされることもあるくらいです。

 このような背景には、市民自身が民間の力を信じられないという現実があります。今まで本当に長く、行政主導型のまちづくりが続いてきたせいで、自分たちが公的な役割を果たすなんて不可能だと思っているのではないでしょうか。「行政はダメだ」と言いながら、自分たちがそれに取って代わろうなどとは考えません。行政に「そんな仕事はやめろ。あとは俺たちがやる」なんてことを提案する人は、まだまだ希少な存在です。

 しかし、これからのまちづくりに求められるのは、市民「参加」ではなく、市民が自ら「実行」することです。単に批判やお願いをするのではなく、自分たちに必要なものは自分たちの手でっくり上げていくという自立した姿勢が必要なのです。高い公共意識と自立的な事業手法を組み合わせて、地域活性化に取り組むことが今後のまちを変革していくことにつながるのだと思います。

 人任せにして文句を言うのは簡単ですが、当事者になれば知恵を出さなくてはならない。何事も追い詰められてからが勝負。そこから知恵が生まれてきます。もちろん失敗もあるでしょうが、そこで諦めず、試行錯誤を続けていれば、絶対に結果も伴ってきます。

「ソンビ会社」のオルタナティヴをつくろう

 これまで「行政と民間の連携事業」と思われてきたものの一つに、いわゆる「第三セクター」があります。官民双方の共同出資によって設立された会社のことです。ただし、これらは我々が考えている、稼ぐまちのつくり方とは全く違います。なぜならば、民間が稼ぎ、行政をも潤す関係ではなく、行政から民間にお金が流れる仕組みになっているからです。資金の流れが逆なのです。

 「第三セクター」は全国に多数ありますが、そのほとんどは赤字です。

 我々のもとにも、しばしば第三セクタ上立て直しの相談が持ち込まれますが、改善策を明確に示しても、実行された試しがありません。本来、事業が不調で経営改善さえ出来ないのであれば、そんな会社はさっさと潰して仕切り直すべきなのですが、ズルズルと赤字を出し続けながら放置されてしまう。

 それは、行政も民間も、誰も責任を取りたくないからです。その場しのぎを続けることで、まちに稼ぎを生むどころか、損失を拡大するという負の効果を与え続けてしまいます。これではまるで、生きながら死んでいるゾンビさながらです。下手に動いて赤字を出さないように、せめて動かないミイラになってほしいのですが、なかなかそうもいきません。

 地方で困るのは、地域でまちの事業をしっかり担える民同会社があまりないため、行政も内心では「あそこはダメな会社」と思っていても、このようなゾンビ会社を使って様々な取り組みを展開してしまうことです。

 このような状況を打開できるのも、民間の力です。民間がゾンビ会社とは別の、オルタナティヴ(代替)となる取り組みを始めることです。

 今ある組織がダメだと嘆いていても、何も変わりません。ゾンビ会社を変えようなんて思っても無理。全く別の組織を地域内に立ち上げ挑戦していくのが一番です。最初は小さくとも、自立した民間が成長していけば、行政も公民連携を進めることが可能になるのは今まで述べてきたとおりです。

 私たちも、地元に第三セクターのまちづくり会社がある場合であっても、それとは別に民間出資のまち会社をつくり、自立して事業に取り組むようにしています。そうすれば、行政も余計な予算を出す必要もなくなるし、自立した民間が生まれることで、多様なやり方が可能になるからです。

 一歩間違えば、民間と行政は、すぐにユルい依存関係に陥ってしまいがちです。そういう意味では、公民連携というものは、極めて危うい関係でもあり、緊張感を持って臨まなければならないのです。でないと、自らもソンビ軍団に仲間入りしてしまいかねません。経済的に自立し続けながら、常に自らを律していくことを肝に銘じてください。
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FBには夢がない

心臓の状況

 6月1日だったのは確か。人数は増えている。

 心臓の状況は手術前と同じです。死なない保証をしてもらってはいない。

 明日から、6月1日です。つまり、3ヶ月。何を得たのか、失ったのか。

 カテーテルもやはり、おかしい。120万円の具材を使って、数ミリのワイヤーを胸に入れただけです。それが原因なのか結果なのか分からないけど。元々、痛かった原因がそれなのか。現象としてヤバいのは確かだけど。

 自然の大きさに比べたら、人間のやっていることは下らないことか、それをこの間の手術で思いました。自然の方がはるかに大きな意思を持っています。その中で、テクノロジーとして、ワイヤーを使って、自然が作った線を拡げたりしています。

FBには夢がない

 開いているドアが在れば入る。

 美味しいものを食べる。皆に認めてもらえる。一緒に動ける。それぐらいしかないのか。

 なぜ、集まってくるのか、よく分からなかった。やはり、フォローに戻しましょう。

社会のあり方

 孤立と孤独の中でいかに考える。そして、生まれてきた理由に応える。そんなものはエコットにはないですね。「さー」という名前ならば、それらはありえた。

 その意味では、環境社会と同じです。「環境」が「社会」よりも先に在ります。クルマ社会も同様に、「クルマ」が「社会」よりも先に在ります。

〈今〉から始まる時代

 朝は、フランスパンを焼くだけにしましょう。女性に対する思いだけは別にして、後は自由。何もない。

 昼はドリップコーヒーとマカダミナクッキー。帰りに、アイスを持ち帰り。Iさんの時の風習を復活。そして、何も求めない。13時前にランチを終えて、作業を再開します。

内なる世界

 自分の内なる世界に確固としたものを作り出す。孤独は憧れなのか、真理なのか。他者が存在しなければ、そこには孤独しかない。

 こういう論点が出てくるモノをどこかで見つけないものです。絶対にあるはずです。オリジナルではないのだから。

 この孤独を非難するものは、大衆という幻想の元に、見ているというカタチです。彼は人間嫌いみたいな言い方をします。これは真理なんです。単純に考えたら、そうなるというだけのものです。こういう文章を書く人は皆、同じというのが前提になっています。一人ひとりが別という思いはまるでありません。

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ソーシャルワーカーの課題と未来

『知りたい! ソーシャルワーカーの仕事』より

生活課題を抱える人たちにソーシャルワーカーをより利用してもらうためにはどうすればよいか、ソーシャルワーカーが社会の役に立つようにその仕事の幅を広げていくために、何か必要か。筆者は少なくとも二つの課題があると考えている。一つはまだあまり知られていない職業であること、もう一つは自分たちの力を発揮しきれていないことである。

ソーシャルワーカーを社会により知ってもらう必要性

 ここまで読んでくださったみなさんは、ソーシャルワーカーがどのような仕事をしている人たちか、少しは理解していただけたのではないかと思う。われわれの説明が下手でうまく伝わっていないかもしれないが、少なくともソーシャルワーカーは福祉の仕事をする人たちであること、しかし、介護の職種ではないことは理解していただけたはずだ。これまで存在があまり知られていなかったのは、ソーシャルワーカーが自分たちの仕事をきちんと社会に広報できていないことが理由であろう。

 認知度が低いことの弊害はもう一つある。職業として選んでもらえないことだ。いくら大切な職業だと一部から認められたとしても、このような職業があるということが知られていなければ、なり手が増えない。それではソーシャルワーカーという職業は衰退していくばかりだ。

 ソーシャルワーカーの力を必要とする人々によりソーシャルワーカーが活用されるようになれば、生活課題を抱える人の課題が緩和・解決されていくだろうし、また人々に生活課題を生じさせる社会的要因の原因究明、解決へとソーシャルワーカーの力が発揮されれば、みながより安心して暮らせる社会に近づくだろう。そう考えると、ソーシャルワーカーが社会の中でもっと活用されることが望ましい。そのためには、多くの人にソーシャルワーカーという職業、また何かできる専門職であるのかを知ってもらう必要がある。

ソーシャルアクション(社会活動法)の活用

 ソーシャルワーカーにはソーシャルアクションという仕事があると説明したが、実はこの実践それ自体や方法論の構築が、個別的な関わりに比べてあまり行われてきていないことも課題である。

 そもそも社会を変えようと社会に働きかける、という、言ってみれば日常にあまりないようなオオゴトは、そうそう機会があるものではない。そう考えると、ソーシャルワーカーがそういった活動をしていることが少ないのは当たり前である。ただ、必要があるにもかかわらずできていない、ということも考えられなくもない。そのように考える理由を幾つかあげよう。

 まず、ソーシャルワーカーの働き方に関係する。社会福祉士資格を有している人という限定つきのデータではあったが、雇用形態を見ると、八割以上の人が正規職員として雇用されていた。ソーシャルワーカー自身の生活が安定しているというように考えると大変心強いことであるが、ただ、社会活動を行うとなると、実はここに縛られるのではないか。つまり雇用されていると、ソーシャルワーカーは当然、雇用されている組織の一員でもある。普段は両方の顔が一致していることが多いだろうが、時折、その一致している顔が二つになってしまうこともある。ソーシャルワーカーとして優先したいことと、組織の一員として組織の利益を優先しなければならないときだ。社会活動の内容と組織の方針が真逆の場合があるかもしれない。

 例えば、行政に勤めている場合を例に挙げてみよう。日頃からソーシャルワーカーとして、生活保護を受ける権利がある人はすべて生活保護を受けるべきである、と考えていたとする。それに対して組織の方針は、できるだけ生活保護を受給する人を抑制していきたい、などといったときは、困るわけである。このようなとき、人はどうするだろう。おそらく多くの人が組織の方針に従うように振る舞うのではないか。自分自身の立場や生活を守っていくためにはそうした選択をせざるを得ないというのが現実である。ただ、そのような状況が、ソーシャルワーカーのソーシャルアクションを抑制してきたのではないだろうか。

 次が、ソーシャルワーカーの養成教育に関わる問題である。社会福祉士や精神保健福祉士の養成のカリキュラムでは、ソーシャルアクションについて学ぶこととされている。したがって、社会福祉士や精神保健福祉士になるための学校に通っていた人は、必ずその内容は学んでいる。しかし、方法についてはどうであろうか。先にも見たような署名や請願・陳情、裁判を起こしたりマスコミ報道を活用したり、チラシを配ったりすることは、練習を積み重ねたり、実習で体験したりすることが難しい。そのような理由から、生活課題を抱える人への支援と違ってなかなか教育に取り入れられていないのだろう。また、自戒の念も込めるが、教員の側も、個別な支援の経験をしたことがある人はいるが、実際に社会活動を行ってきた人はそう多くはないであろう。すると教育現場において、具体的な方法が伝えられない、ということがあるのかもしれない。

 個別的な関わりの方法の蓄積が分厚くなってきており、確実に成熟してきているので、ソーシャルワークのもう一つの醍醐味である、ソーシャルアクションを行っていけるような環境整備と教育が求められる。それにより、本来のソーシャルワークのダイナミックな取り組みが行われ、社会の課題の緩和・解決に、これまで以上に接近できるようになるのではないだろうか。

 今後は、同じ課題意識を共有したソーシャルワーカーがつながり、アクションを起こしていけるようになることが必要であろう。これは、生活課題のある人たちの状況改善策としての活動が、ソーシャルワーカーという職業があることの認知度をより高めて行くことに繋がるだろう。これまであまり積極的に取り組まれてこなかったソーシャルアクションを活用していくことが、生活課題を抱える人々や社会そのもの、またソーシャルワーカーの未来を変えていくのではないか。そのような実践者を育てられる教育システムが構築されること、またソーシャルアクションを実行できるソーシャルワーカーが少しでも増えていくことが、社会にとっても、ソーシャルワーカーにとっても、とても重要である。
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自動運転自動車と賠償制度

『なぜ科学が豊かさにつながらなのか?』より

自動運転自動車の運転手は誰か

 皆さんは、「自動運転自動車」をご存知でしょうか。飛行機のオートパイロット(自動操縦)のように、コンピュータが自動制御して自動車を運行する技術です。近未来の技術として日本でも研究が進んでいますし、高齢社会においては頼もしい技術と言えるでしょう。しかし、日常生活で利用するには、まだ克服すべき大きな問題があります。

 その一つが事故における法律上の処理方法、具体的には補償制度なのです。

 そもそも、自動運転自動車に運転手はいるのでしょうか。運転手がいるとすれば、飛行機のオートパイロットと同じようなルールが考えられます。自動操縦の場合、法律上は操縦の「補助技術」となっており、操縦の責任はあくまでパイロットにあります。現時点では、この法律を自動運転自動車に応用するのが妥当であろうと考えられています。しかし、自動運転自動車の場合は、本当に運転手がいると見なすことができるのでしょうか。運転手がいないと考えると、事故が起こったのは自動車が欠陥品だったため、つまりメーカーの責任ということになるのかもしれません。このように、技術の性質によって責任の所在や補償のあり方が変わってくるでしょう。

 自動車事故に関しては法律や保険制度が非常に発達していますので、どのような場合に誰の責任となり、どれだけ補償しなければならないか、そのためにどんな保険商品を購入しておけばよいかなど、自分のとるべき行動について、おおむね予想ができます。したがって、どれだけ安全運転を心がければよいか、道を渡るときは何に気をつければよいかなど、人々はおよそ共通した交通知識を持って行動していることになります。つまり、法律が整備され、よく機能しており、保険商品も充実しているからこそ、安心して運転ができるのです。懸案の自動運転自動車の場合、まだ法律や賠償制度が確立していないため、安心して乗ることはできません。

 同様に、アメリカなどで話題となっているドローン(小型無人飛行機)の商業利用の問題も、技術的にはどんどん進歩していますが、ドローンが人体・家屋に危害・損傷を与えた場合の責任を明確にし、補償制度を確立しないと、企業はリスクが大きすぎて導入できないでしょう。また、ドローンの機能や特性について、多くの人々が知識を共有することも、利用の普及に向けて重要になるでしょう。

 このような例が示すように、法律や賠償制度が整わなければ、せっかくの科学技術イノベーションを普及させ、活かしていくことはできません。

科学技術教育のすすめ

 以上、科学技術イノベーションと社会的制度・システム設計とのかかわりの重要性について、お話ししてきました。では、どうすれば自然科学と社会科学とを結びつけ、豊かな暮らしを作ることができるでしょうか。その一つの、しかし決定的に重要な答えが「教育」です。本書ではこの後、自然科学者が社会の要請を意識して研究を行うこと、社会科学者が科学技術をよく理解して制度を構築すること、そして文系・理系といった枠にとらわれず技術と社会の双方への関心を育むような教育制度の重要性についてお話しします。
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日記について

『考えることについて』より

自分をいいように日記の中へ書き込むことをしていた私は、逆に、自分をひどく扱うこともやっている場合がある。そして時たま、小さな、書くほどのこともないような悩みを書き出すと、それを悩みとして書くことが面白くなってしまって、悩みをふくらませ、扮飾を思う存分にほどこし、つまり日記の中で非常に悲惨な自分を創作してしまって、それを自分と合体させているようなこともある。事実、そうして、日々の生活に動きがとれなくなってしまった人が、ある心理学者のところへ訪ねて来たそうである。日記の中で、悩む自分の姿を創作していることを発見したその心理学者は、その人に、日記を書くことをやめるようにかなり厳しい命令を下した。それ以来、この命令を守った彼は、まったく見ちがえるようにさっぱりしたということである。これはその心理学者から直接聞いた話であるが、よくありそうなことだと思うし、私自身も、気がついてみれば、大袈裟に、長々と日記を書いている時こんな状態に陥ることもある。

日記の書き方ということではもっと形式的な書き方を、例を示して説明しなければいけなかったのかも知れないが、今のことが一番注意しなければならないことだと思われ、そこに陥らない自信さえあれば、書き方などはめいめい思う通りに書けばいい。詩日記を書いた人もあるし、短歌や俳句で日記をうめた人もいる。また全くの備忘録のつもりで書いていたことが、偶然長い年月を経て、貴重な資料になった場合もある。

けれども日記は本来発表されることを考えずに書かれているもので、そのために逆に発表の値打が出る。

また先程のことに戻るが、発表されることがない、他人の目にふれることがないということで、そこでは当然普段着のままでいられる筈なのに、あるいはもっと赤裸々でいられる筈なのに、たまたま読む機会のあった他人の日記を見ても、なかなかそうではなくて、自分の愚かな行為や発言の修正をしたり取り消しをしたりしている。その時の、日記を書いている人の自分に対する甘えを考えると、そこでは誰にも見られていないということで安心している訳だが、私は、私室に鍵をかけて、濃厚な化粧をしている人、そしてそれによって自分を慰めている人の姿を想像する。

アミエルは、日記を自分の友として、また慰め手として、また時には医師として大切にし、一日のうちに幾度も書き、そこで魂の沫浴をしたと言う。けれどもそういう彼さえも、そこから作文の技術を期待していない。

 「日記は話すことも、書くことも、連絡と方法を保って考えることも教えない。それは心理的な休息であり、娯楽であり、御馳走であり、怠惰な行為であり、見せかけの仕事である」

ずいぶんひどいことを言っているが、そういう感じも否定出来ない。また、

 「……私は自分を理解しようと努める。しかし私は自己を支配しないし、真面目に自己を叱責することもない」

自分を叱責する前に、叱責される自己が、どの程度の叱責に価するものかをまず見定めなければいけない。私たちは、ただ漠然と、叱責すべき自己を見付けることはある。見つけるというよりも、自分に対する苛立たしさで最初からいっぱいになっている。けれども「真面目に自己を叱責すること」は殆んど不可能に近いことである。言葉にして現わす必要のない自己への怒りは、どんどん強烈なものになって行くようでありながら、知らないうちにその色調を変え、怒っている自分の方が表に立ちふさがって、叱責を受けている自分の姿をかばい、隠してしまう。それは確かに怒り続けている風を装ってはいるけれど、自分に対してそれだけ怒りを示し得るという別の自己にいつか重心が移ってしまって、それ以外には眼を向けさせないようにしてしまう。自分で創り出す慰めは、みんなこんな風な、巧みな魔術が交っている。だまされる自分は、少しもだまされまいとする構えになる、だまされる悦びがいつも目の前にちらついている。

私はかなり時間をかけて日記をつける癖があって、書き出しである調子が出て来ると、次々に思いつくことを書いてしまわないうちは気が済まない。それで忙しい時には、日記を簡単にかくことに努力しなければならない。そうして書いたものを読みかえすと実につまらない。けれども、簡単に書かれたものでも、特別の昧の出ているものもあるし、そのための技巧もある訳で、それも心得ておく必要があろうけれど、現在の自分の願いとしては、時間が許されれば、一日の中でめぐり合った幾つかの事件のうち、一つなり二つなりを選んで、それをかなり克明に書いておくことである。それは独立した随筆なり、エッセエを書く気持で、そこに創作さえ加わっても、止むを得ないと思っている。それは先に書いたように、自己をそのままに示すことの無理を知ったからで、何も嘘の日記を書くことを望んでいる訳ではないが、我慢してあけすけな書き方をするより、そこでは面白く自分と和解し、欺くとか叱責するとか、そればかりに気を取られずに、思うことを好き勝手に書いた方がいいと思う。

というのは、私たちはそうしてみようと思うとそれが却って出来にくくて、案外正直に自分を描いてしまうものだと思うからである。
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結局、部屋でブラブラ

3週間ごとに名古屋へいく予定

 3週間ぶりに名古屋に行くつもりだったけど、今日は「お休み」だそうです。やはり、名古屋に行った方がよかった。11時まで、寝転んでいただけだった。

 明日は永作の映画を見に行きましょうか。10時に着いて、11時の上映で2時のバスで帰ってくる。ただし、土曜日のバスなので、混み具合が分からない。

ぶらぶらも疲れる

 視力の劣化を感じます。やたら、眠たい。やはり、夜に掛けましょうか。

 歩くと、重たかった。心臓はほんとに治ったのか? 120万の材料を使って、数ミリのステノトを2本入れることで、治ったのか。もっと、清々しい気分になるかと思っていたが、朝などもまだまだ、重たい。

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豊田市図書館の30冊

010.22『中世イスラムの図書館と西洋』古代の知を回帰させ、文学と書物の帝国を築き、西洋を覚醒させた人々

367.22『アジアのなかのジェンダー』シリーズ<女・あすに生きる> 多様な現実をとらえ考える

361.23『社会の道徳』ルーマン

311『政治理論』政治学叢書

332.1『なぜ科学が豊かさにつながらないのか?』

304『将来の日本 吉田松陰』徳富蘇峰

402.34『ヒトラーの科学者たち』

290.87『花の溢れる風景、心はなやぐ街』世界の写真家たちによる美の景観

319.53『困難な選択 上』ヒラリー・クリントン

319.53『困難な選択 下』ヒラリー・クリントン

361.4『友だちリクエストの返事が来ない午後』

336.42『シニア人材マネジメントの教科書』老年学による新アプローチ

192.8『イエス』

369.17『知りたい! ソーシャルワーカーの仕事』

914.6『生と死、その非凡なる平凡』西部邁

291.63『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン』よくばり裏技ガイド

582.33『Word プロ技セレクション[決定版]』もっと早く知りたかった!

010.8『図書館概論』図書館情報学 デジタル・ネットワーク社会に生きる市民の基礎知識

291『やりなおし!地理の教科書』日本人なら知っておきたい⇔この態度は大嫌い 初日の出が一番先に見られるのはどこだ!

292.35『アンコールワット・ホーチミン』

293.7『イタリアのしっぽ』

493.93『子どものネット依存』小学生からの予防と対策

740.25『キャパへの追従』沢田耕太郎

316.4『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』

773.28『世阿弥の世界』

673.83『百貨店で<趣味>を買う』大衆消費文化の近代

673.98『職業としてのアキバ・メイド』

601.1『稼ぐまちが地方を変える』

914.6『考えることについて』串田孫一

913.6『七夜物語』川上弘美
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退院予定日

退院予定日

 今日は退院予定日です。体温を下げないといけない。夜中の2時の段階で37℃です。何か、中途半端ですね。

 分かったのは、感染症の熱ではないということ。クラビットなどでは、一気に38.4℃ぐらいに上がるけど、その傾向はない。

 無事に退院できて、奥さんとは病院の出口で別れました。後はお互いにフリーです。エコットの100円コーヒーにしようかと思ったけど、やはり、スタバへの報告です。

ナースの「10分前ルール」

 ナースに「10分前ルール」は可能か。朝、どっち道、外すことになる心電図を6時につけ直していた。先生からの指示は絶対というけど、もっと、実体を知れば、自分で判断できるはず。

 スタバはスタッフの判断で、お客様が並んでいたら、10分前にオープンする。これが高度サービスの一環です。

 その為には、ナースはものすごく勉強しないといけない。なぜ、その作業をしているのか。そうでないと、機械からも一方的にこき使われる。患者のために何が有効かを知ることです。

バーチャルな手術

 昨日のカテーテル手術はバーチャルな世界です。私の胸の中で起こっているのに、私は見えないし、医者はディスプレイを見て操作している。

 イリノイの空軍基地から、アフガニスタンの無人機を操縦して、ゲリラを攻撃している様相です。

反映の仕方

 無印の日記帳を使えば、その日毎の反映を分類できます。その時に、反映済みのものは事前に削除しておきます。無印の日記帳の意味が分かってきます。

 7時の段階で36.7℃になりました。何となく、頭に膨張感をします。結局、最後の最後の最後は切り抜ける。ということで、10時に退院です。

「戦う!書店ガール」

 書店員のやることは、著者と読者をつなぐことです。気付かせることです。それをリアルでやるのが、街の本屋さんです。それが求められている。

 「考え抜く」というのは、その影響も含めて、それが正義なのかも含めて、考えることです。単なるアイデア出しと「考え抜く」ことは違います。

関係者との連絡

 シャバに出て来ると、暑くて、身体がだるい。

 朝7時半にパートナーから続きのメールが入りました。「順調のようで、安心しました」とありました。愚痴の相手が見えてきました。もっともです。

 Iさんの金曜日の勤務については「お休み」とのこと。4回目はダメでした。明日はのんびりしておきます。

 What's a nameさんともFBのメッセージで状況確認。

カテーテル診療明細書 手術時材料費だけで117万円。

 *手術時材料 ¥321,000

  ガイディンダカテーテル(冠動脈)★ 1本

  冠動脈用ステントセット(再狭窄抑制型)★ 1組

  冠動脈狭窄部貫通用カテーテル★ 1本0

 *手術時材料 ¥849,870

  血管造影用シースイントロデューサーセット(蛇行血管用)★メディキットスリットスーパーシース 5Fr 1 7cm(CRP50P17TSMTS) <JS2003> 1組        

  血管造影用ガイドワイヤー(一般用)★ラジフオーカスガイドワイヤーM .035 150cm 先端2mmJ <RF-GN3515 3> 1本                          

  血管造影用カテーテル(一般用)★キャリー5F r 1 0 0 cm JR(JR3 5-5F-S-SH2-1000) くJR355010082> 1本                      

  血管造影用カテーテル(一般用)★キャリー5Fr 100cm AL(AL01-5F一S一SH2-1000) <AL1501OOS2> 1本

  血管造影用シースイントロデューサーセット(一般用)★ゼメックスイントロデューサーセット 8.2Fr 有効長11cm Nタイプ <ISA1182ABA> 1本           

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル用ガイドワイヤー(複合・高度狭窄部位用)★ASAHI SION black 0.014インチ Lg 190cm <AP14R010P> 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル(一般型)★ASAHI D o u V a n K amuiバルーン2×9mm <DV20009K> 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル(一般型)★MINI TREK RX バルーン1.2×6mm <1012268-06> 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル(一般型)★ScoreFlexバルーンカテーテルバルーン2×1 Omm <620-103-IJ> 1本                            

  冠動脈用ステントセット(再狭窄抑制型)★Promus PREMIER ステント2・5×1 6 mm <39251-1625> 1個

  血管内超音波プローブ(標準(Ⅱ))★Navifocus WR 2.5-3.2Fr有効長1 5 4 c m 40MHz 親水性コ-ティング ユニットカバー くTU-40N25 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル用ガイドワイヤー(複合・高度狭窄部位用)★アスリー 卜EIZARD7 8 00078/0.01/0.014インチ Lg 190cmストレート <14LW78> 1本

  血管造影用マイクロカテーテル(ワイヤ・ア造影用マイクロカテーテル 有効長130cm <AMOG130s> 1本

  冠動脈カテーテル交換用カテーテル★KUSABI 有効長1 0 7 cm バルーン長10mm <KS-107> 1本

  冠動脈狭窄部貫通用カテーテル★F I NECROSS GT 1.8/2.6Fr 有効長130cm <NC-F863B> 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル用ガイドワイヤー(複合・高度狭窄部位用)★ASAHI G a i a First 0.01/0.014インチ Lg 190cm <AHI4R007P> 1本

  経皮的冠動脈形成術用カテーテル(一般型)★NC TREK バルーン3×8mm <1012449-08> 1本                 :    :

  経皮的血管形成術用穿刺部止血材料★アンジオシールSTS PLUS 8F r <610 1 2 2> 1枚  1回
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