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ヴィトゲンシュタインの語りえないもの

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より

いま「超越論的(transcendental)」という小難しい言葉が出てきましたが、これはもともとカントが「経験を可能にする条件」という意味で用いた哲学用語です。ここでは世界の内部にある「偶然的(経験的)事実を可能にする条件」という意味で理解しておけばよいでしょう。実は『論考』のなかで、もう一箇所[超越論的]という言葉が用いられているところがあります。それは「6.13論理は学説ではない。世界の鏡像である。論理は、超越論的である」という箇所です。ここでも「超越論的」という言葉は、偶然的事実を可能にする条件という意味で用いられていることは、「6.3 論理の探求は、すべでの洗岬埋の探求のことである。そして論理の外側では、すべてが偶然である」という文言からも明らかでしょう。つまり、倫理と論理はともに「超越論的」であることによって、世界の境界条件を形作っているのであり、それによって「語りえないもの」と境界を接しているのです。

倫理は善と悪に関する言説ですが、それが世界の境界条件であることは、「6.43 善意または悪意が世界を変えるなら、変えることのできるのは、世界の限界だけである。事実を変えることはできない」という形で述べられています。したがって、われわれは倫理的問題、すなわち「生の謎」を世界の内部で解決することはできません。「時間と空問のなかにある生の謎を解くことは、時間と空間の外側にある(6.4312)」と言われているのは、まさにそのことです。世界(時間と空間)の内部で解決可能1なのは、ただ自然科学の問題だけですが、それが解決したからといって、生の問題に決着がっいたわけではありません。しかし、そこにはもはや問われるべきことは何一つ残されていないのです(6.52)。それゆえ「生の謎」について、ヴィトゲンシュタインは「6.521 生の問題が解決したことに気づくのは、その問題が消えたことによってである」と何やら禅問答のような断案をくだしています。

これまで見てきましたように、『論考』は全体の6分の5を占める論理的考察の部分と6分の1にすぎない最後の倫理的考察という二つの部分かち成り立っています。おそらく、前半の論理的考察の部分だけが独立して刊行されたとするならば、『論考』は優れた論理学書ではあっても、20世紀を代表する哲学書にはなりえなかったに違いありません。『論考』の魅力は一にかかって前半と後半のアンバランスさにあります。またその不均衡が、統一的な解釈を模索する研究者の挑戦意欲をかき立てているのです。

実際、ヴィトゲンシュタインは『論考』の出版を依頼する編集者のフィッカー宛ての手紙の中で、「はじめに」の中に書かれなかった文章として、次のような一節を挙げています。すなわち「私はこう書くつもりでした。私の著作は二つの部分から成っている、一つはここに提示されているもの、いま一つは私が書かなかったことのすべてである、と。そして重要なのはじつにこの第二の部分なのです」というものです。また、それに続けて「私の本は、倫理的なものごとをいわば内側から限界づけており、私はこれこそが倫理の限界を定める、まさしく唯一の方法であると確信しています」と付け加えています(黒田亘[編]『ウィトゲンシュタイン・セレクション』による)。

だとすれば、『論考』において彼は、「語りえるもの」の境界を定めることによって、「語りえないもの」の境界を内側から限界づけようとしたのだ、と言えるでしょう。本書の「はじめに」においても、ヴィトゲンシュタインは「つまりこの本は、思考に境界線を引こうとしているのです。いや、むしろ一思考にではなく、思想の表現に、境界線を引こうとしているのです」とその目標を述べていました。もちろん、「思想の表現」とは言語を意味しますから、「思考可能なもの」とは「語りえるもの」にほかなりません。そしてその境界設定を通じてはじめて、倫理的価値に代表される「語りえないもの」がその向こう側に示されるわけです。

しかしながら、この境界線を引く作業そのものは、自然科学の営みには属しません。つまり、世界内部の事実について語る有意味な命題ではありません。それゆえヴィトゲンシュタインは『論考』を終えるにあたって、「6.54 私の文章は、っぎのような仕掛けで説明をしている。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り-私の文章に乗り-私の文章を越えて上ってしまってから、最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわば、ハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)」というどんでん返しを用意します。この哲学の自己否定ともいえる反哲学的結論は、ある意味で哲学を「学説」ではなく「活動」と規定したことからの当然の帰結とも言えます。内側から境界線を引き終えたとき、そこで哲学の活動も停止するのです。おそらくはその境界線上に立ちつくしたまま、ヴィトゲンシュタインは「7 語ることができないことについては、沈黙するしかない」とつぶやいて本書を締めくくります。語ることのできないものを前にした彼の深い沈黙は、まさに世界の重さと釣り合っているのです。
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「語る/示す」の区別と独我論

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より

『論考』に戻りますと、語りえないものの一方は「論理形式」でした。これについては「4.12 命題は、現実全体を描くことができる。けれども描くことのできないものがある。それは、現実を描くことができるために、命題が現実と共有する必要のあるもの一つまり、論理形式である」と述べられています。その理由は簡単で「論理形式を描くことができるためには、命題といっしょに私たちは、論理の外側に、つまり世界の外側に、立つことができなければならないだろう(同前)」というわけです。したがって「命題は、現実の論理形式をしめす(4.121)」と言われます。

ただし、抜け道がないわけではありません。それは「メタ言語」を用いることです。これは『論考』の影響を受けたウィーン学団というグループの哲学者たちが採用した戦略でもありました。メタ言語とは言語について語る言語のことで、たとえばみなさんがお使いの英和辞典は、英単語の意味を日本語で説明しているのですから、日本語がメタ言語の役割を果たしています。同様に、論理形式を説明するためにはワンランク上の解説言語を導入すればよいわけです。しかし、これも本質的解決にはなりません。メタ言語自体が論理形式を前提し、それに則って形作られているわけですから、そこには循環が含まれており、問題は「先送り」されたにすぎません。そのためヴィトゲンシュタインは、メタ言語の使用を拒否し、風景写真のなかにカメラマンやカメラの位置が示されているように、論理形式は命題のなかに端的に示されていると考えたわけです。

この「語る/示す」の区別は、独我論(ソリプシズム)の問題圏と密接な関わりがあります。独我論とは、この世界に実在するのは私一人であり、ほかはすべて私の意識内容にすぎない、とする考え方のことです。それをめぐる議論は「5.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」という断章をもって始まります。これに対する注釈は「5.61 論理は世界を満たしている。世界の限界は、論理の限界でもある」と展開されますが、同じ「世界の限界」が話題でもここには「私の」という限定はついていません。また、それに続く文章はすべて「私たち」という一人称複数形が主語になっています。そして次の5.62は改めて「(前略)世界が君の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味する、ということにしめされている」と締めくくられています。

この箇所の解釈はヴィトゲンシュタイン研究者の間でもさまざまに分かれています。私自身も確固たる解釈を提示できるわけではありません。ただ、私はこの「私だけが理解する言語」という表現をごく素直に読んでみたいと考えています。つまり、自分が駆使できるレパートリーとしての言語です。たいていの人にとっては母語でしょうし、バイリンガルの人にとっては複数の言語がそれに当たります。つまりは、それぞれの人に特有の「個人言語(idiolect)」ということです。われわれはそれぞれが文化や風土のなかで身に着けた個人言語によって世界を分節化し、理解しています。この個人言語によって分節化された世界は、いわぱクオリアによって満たされた世界であり、他人には窺い知れない「私の世界」以外の何ものでもありません。

ただし、これは意識内容の独我論(現象主義)ではなく、言語論的独我論とでも呼ぶべきものです。付け加えておけば、言語に「個人言語」がありうるのに対し、論理には「個人論理」なるもの、すなわち「私の論理」は存在しません。いわば論理が骨格であるとすれば、言語は肉体や衣装に相当します。それは「6.12論理学の命題はトートロジーである。これは、言語の、つまり世界の、形式的な--論理的な--特性をしめしている」という箇所からも明らかです。トートロジーは経験的内容をもたないがゆえに、世界の普遍的骨組みを形式的に示すことができます。それに対して、言語は経験的内容を語りうるがゆえに、個別的でしかありえません。とはいえ、その経験は生まの感覚的経験ではなく、あくまでも言語と論理によって媒介された経験であることに注意すべきでしょう。『論考』でヴィトゲンシュタインが一方で「私の言語」と言いながら、他方で論理を考察する際には「私たち」という一人称複数形を用いたゆえんだと思われます。

このように論理と言語の立脚点を区別し、「私の言語」を個人言語と見なすことによって初めて、「5.62 つまり、ソリプシズムが思っていることは、まったく正しい。ただしそれは、言うことができず、しめされるだけである」あるいは「5.64 ここでわかるのだが、ソリプシズムを徹底すると、純粋な実在論と一致する」という主張が理解可能となるのではないかと私は考えています。つまり、すべての経験的内容に「私の」というラベルを貼りつけてしまえば、それはラペルを貼らないのと同じになる、ということです。
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豊田市図書館の21冊

223.8『ミャンマーの黎明』国際関係と内発的変革の現代史

209.75『1971年』市場化とネット化の紀元

493.12『糖尿病のABC』医者にかかる前に知っておきたい、これだけのこと

913.6『とまどい本能寺の変』

019.53『絵本の記憶、子供の気持ち』

336.1『マクロウィキノミクス』フラット化・オープン化・ネットワーク化する社会をいかに生きるか

295.32『ニューヨーク』

913.6『東京ピーターパン』

909『子どもと悪』<子どもとファンタジー>コレクション

913.6『蠅の帝国』軍医の黙示録

015『図書館サービス概論』ライブラリー図書館情報学

289.3『皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下』

689.5『ディズニーの現場力』

404『科学をいまどう語るか』啓蒙から批評へ

673.36『ネットショップのやさしい作りかた』楽しく、かんたんに! インターネットでお店をはじめてみませんか?

293.4『ドイツ』

159『宇宙からのサイン』運がよくなる あなたにもサインは来ている

146.1『河合隼雄』永久保存版 こころの処方箋を求めて

317.3『公務員の教養力』「新書」から学ぶ 公共の仕事の流儀を変える力

539.09『日本の社会主義』原爆反対・原発推進の論理

493.7『苦悩力』精神科医が明かす 空海の生と死
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ヴィトゲンシュタイン『探究』はじめに

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』より

この本で発表する考えは、この16年間、私がやってきた哲学探究の結果である。たくさんのテーマについて考えた。意味の概念、理解の概念、文の概念、論理の概念、数学の基礎、意識の状態などなど。これらについての考えはすべて、コメントとして、短いパラグラフとして書きつけた。おなじテーマについて、コメントが長めにつながっていることもあれば、ひとつの領域から別の領域へ突然ジャンプしていることもある。--最初は、すべてを一冊の本にまとめてしまうつもりだった。どんな形の本にするか、いろんな時期にいろいろ思い描いた。しかし基本方針にゆらぎはなく、考えというものは、ひとつのテーマから別のテーマヘ、自然に破綻なくつながって、すすんでいくべきものだと思っていた。

16年間の成果をまとめようとしては何度か失敗して、気がついた。この方針では絶対にうまくいかないだろう。もしも、私の考えたことを、自然の傾向に逆らって、一つの方向に無理やりすすめていこうとすれば、私が書くことのできた最上のものでさえ、哲学的なコメントにとどまるだけではなのの性質と関係があった。つまり探究をはじめれば、どうしても、ひろい思考領域をあちこちあらゆる方向に旅して回らざるをえなくなるのだから。--この本の哲学的なコメントは、いわば、長くて錯綜したその旅で描かれた、たくさんの風景スケッチのようなものである。

おなじ場所、またはほとんどおなじ場所について、いろんな方向からいつもあらためて言及され、つねに新しいスケッチが描かれる。それらのうち数多くのスケッチは、描きそこないであったり、特徴のないものであったりで、へっぽこ画家のあらゆる欠点をそなえていた。できそこないのスケッチを捨てると、なんとかましなスケッチが何枚か残ったので、ともかくそれらの配置を考えたり、なんども切りそろえたりして、1枚の風景画に見えるようにした。--というわけで、この本はじつはアルバムにすぎない。

生きているあいだに自分の仕事を本にすることは、つい最近まで、じつはあきらめていた。しかし、本にしたいという思いが、ときどき頭をもたげてきた。そのおもな理由は、講義や口述ノートやディスカッションで私が伝えた仕事の成果が、さまざまに誤解され、程度の差はあれ薄められたり、切り刻まれたまま、流布しているのを見聞きするようになったからである。おかげで私は自分の考えをきちんと伝えたいと思うようになり、その気持ちを静めるのに苦労した。

4年前に、私の最初の本(『論理哲学論考』)を読みなおし、『論考』の考えを説明する機会があった。そのとき突然ひらめいた。以前の『論考』の考えと新しい考えとをひとつの本として出すべきではないか。新しい考えは、以前の私の考え方と対比され、それを背景にしてはじめて、正しい光のもとでながめられるのではないか。

というのも、16年前にふたたび哲学と取り組みはじめてから、私は、あの最初の本に書きつけたことに、たいへんなまちがいがあることに気づかざるをえなかったからだ。まちがいに気づいたのは、フランク・ラムジーが私のアイデアを批判してくれたおかげである。--その批判にどれくらい助けられたのか、私自身はほとんど判断することができないが--ラムジーとは、彼の死ぬ前の2年間、『論考』のアイデアについて何度も何度も議論を重ねたものだ。ラムジーはいつも強力で確かな批判をしてくれたが、ラムジー以上に私を助けてくれたのが、ここケンブリッジ大学の教員、P・スラッフアさんである。長年にわたって、たえず『論考』の考えを批判してくれた。その批判に刺激されて、この本のなかでもっとも実り豊かなアイデアが生まれたのである。

私がこの本で書いていることは、ほかの人がいま書いていることと重なるだろうが、その理由は、ひとつだけではない。--私のコメントで、私のものだというスタンプが押されていないものについては、--これからも私のオリジナルだと主張するつもりはない。

私の考えたことをここに公表するわけだが、あまり自信がない。私の仕事はみすぼらしく、この時代は暗い。誰かの脳に光を投げかけたいのだが、それは不可能ではないにしても、もちろん、なかなかむずかしい。

私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてすむようになることは望まない。できることなら、読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい。

いい本をつくりたかった。けれどもそうならなかった。だが私には手を入れる時間が、もうない。

1945年1月、ケンブリッジ
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ヴィトゲンシュタイン『論考』はじめに

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より

この本を理解してくれる人は、ここで表現されている思想を--または似たような思想を--すでに自分で考えたことがある人だけかもしれません。--つまりこの本は、教科書ではありません。--この本を読んで理解して、おもしろいと思ってくれる人がひとりでもいれば、この本の目的は達成されたことになるでしょう。

この本は、哲学の問題を扱っています。そして、哲学の問題が問題にされるのは、私たちの言語の論理が誤解されているからなのだ、ということを、この本はしめしている--と私は思っています。この本の意味をまとめて言うとすれば、つぎのような言葉になるかもしれません。言うことができることは、クリアに言うことができる。そして語ることができないことについては、沈黙するしかない。

つまりこの本は、思考に境界線を引こうとしているのです。いや、むしろ--思考にではなく、思想の表現に、境界線を引こうとしているのです。というのも、思考に境界線を引くためには、その境界線の両側のことを考えることができなければならないでしょうから(もしもかりにそんなことが可能なら、私たちは、考えられないことを考えることができなければならないでしょう)。

というわけで、その境界線を引くことができるのは、言語においてでしかないでしょう。そして、その境界線の向こう側にあるものは、ノンセンスでしかないでしょう。

私の努力の成果がほかの哲学者たちの努力の成果とどれくらい重なるのか、私は判断するつもりはありません。もちろん、私がこの本に書いたことは、個々の点においてその新しさを主張したりするものではありません。そういうわけで出典も明記していません。私の考えたことを、ほかの誰かが私より前に考えたかどうかなど、私にはどうでもいいことですから。

ただ、ひとつ言っておきたいことがあります。私の思想は、フレーゲのすばらしい著作と、私の友人バートランド・ラッセルの仕事から、大きな刺激を受けています。

この本の仕事に価値があるとすれば、ふたつの意味においてです。ひとつは、この仕事のなかに思想が表現されていること。そしてその価値は、その思想がうまく表現されていればいるほど、大きなものであるでしょう。核心をついていれぱいるほど、大きなものであるでしょう。--しかしここで私は、それがほとんど実現できなかったことに気づいています。ともかく私には、そういう課題を克服するには力がなさすぎるからです。--誰かがあらわれて、もっとうまくやってくれることを願います。

それとは逆に私には、この本で伝えている思想が真実であることは、決定的で疑いの余地がないように思えます。つまり私は、哲学の問題を本質的な点において最終的に解決したと考えています。そしてこの点で私が勘違いしていなければ、この本の仕事の価値の、もうひとつの意味は、哲学の問題が解決されたとしても、ほとんどなにもなされたことにはならない、ということをしめしている点にあります。

L・W 1918年、ウィーン
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研究開発部署のプロの力

知識は存在の力なり

 産業社会から知識社会に変わって、知恵が必要になったけど、一番変わったのは、産業は意志の力であり、知恵は生まれてきた理由を求める、存在の力です。その部分をなくすと、単に勉強するだけでおしまいです。

 勉強は目的がなければいけない。目的には二つあります。「なぜ」「なぜ」を繰り返すことと「それでどうなったのか」を見ることです。その二つがつながる時に答が出てきます。

研究開発部署のプロの力

 だから、今後のプロとか個人主導型と言われるのは、何のためにそれをしているのかというところです。それが自分が一番底辺のところから出てくるかどうかで違ってきます。存在の力が自発的な意思につながってきます。組織の設計思想には成り立ちません。

 プロの世界を見たから、その辺が分かるんです。研究開発部署の技術者たちは24時間考えています。それぞれが専門領域を持ちながら、幅広く求めます。一つのエンジンの基本設計をすると、それの号口まで彼らは絡みます。

 アイデアを求められると、自分の持っている、全てのポインターで吟味して、こんなものがありますのではなく、情報を与えるのではなく、答を与えます。

 偽のプロは、高くていいものがあります、安くて悪いものがあります。どちらにしましょうかとなります。これでは答えではありません。安くていいものを作り出すことです。個人的な野心とか野望も存在の力に置き換えると分かりやすい。生まれてきた理由そのものです。

 私の中のベースにあるのは、F3Eです。それぞれのプロが、自分を分化させながら、チームによって、行動していく。結論に出れば、次へ行く。これを実体験をしたから。あの生産性、テーマの達成度は抜群だった。号口化率が非常に高かった。

 私が赴任した時には、これで「数学者が揃った。あとは人間工学と宗教だ」と井上さんに言われた。プロを目的に沿って、組み合わせた。

 これを同質性に基づくチームワークから、異質性に基づくチームワークという名前が付けられている。そして、トポロジーに戻ります。ある点から発想して、近傍を作り、全体をカバーする。それは存在の力そのものです。

 意思の力である、デカルト座標系にはなじみません。それは特異点でぶつかるからです。特異点をうまく使うことができない。特異点こそがイノベーションに必要な部分です。そして、分化というのが、個々とは違っています。個人を分化する、組織を分化させる。要するに多様化させるということです。

組織とは何か

 では、組織とは何なのか。要するにつながるだけです。お客様のニーズを図ったり、全体をうまく回るようにしたり、余分なことを考えなくてもできるようにして、それぞれの領域で自分で発揮すればいいのです。それをつなげていくこと。

 元々は農業などで一つであったものを効率を求めて、より多くの人が参画できるように分化したものだったが、それが固定化されてしまった。歯車的に組み合わせでグローバル化に対応できなくなった。

 それを統合というのか、支援というのかよく分からないけど、私としては支援です。その中に、お客様のニーズ、というよりもマーケティングというのか、全体として、どちらの方向に行くのか、どのように生き残るのか、どのようにして、日本という国のあり方を述べていくのか。

集合は点で、点は集合です

 そういうものとつながる部分も、一つの点です。だから、今回のところで、集合は点であり、点は集合であるということに無図日着いたのは大きな成果です。

 これは大学の時に感じたことだけど、色々な次元があった時に、集合を一つの次元にしてしまう、次元を集合にしてしまうことの有効性を感じました。それがクローズなのか、オープンなのかで全体の位相が異なります。

 その中にまた、コンパクト性が出てきます。今後の社会において、コンパクトの意味を明確にしないといけない。コンパクトは、あくまでも集合を点にすることです。そして、それをつなげていき、それらを点にしていく。そのために、コンパクト性は閉であり、開であるという、特殊は集合になります。

 本田総一郎の言葉に、会社に働きに来るのであれば、自分自身のために働きに来い。そういう人間が会社の発展を図ってくれる。会社のためにと言ったら、そんなものはいらない。そう考えると、F3Eというのは、すごい組織だった。このメーカーの中では奇跡的な組織です。
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要旨編集 2.数学 1

2.1 真理があるとしたら、数学にある

 2.1.1 真理は不変で全体をつくる:真理があるとしたら、数学にあると感じた。真理とは不変であり、全体を作るものです。数学は絶対的な孤独に居た私にとっては楽で、楽しいものだった。数学は不変から空間を作り出せ、自在に対象を設定できた。哲学も存在と認識から真理に迫る。数学的発想が生きてくる。

 2.1.2 全体が見えてくる数学を習った:数学のすばらしさは全体が見えてくることです。全てのモノが数学の対象になる。空間は考える手段を与えてくれる。そして、四方教授からは数学は自分でつくるモノと教わった。解析概論には証明の後に感嘆符があった。実り豊かな世界です。数学者になりたかった。

 2.1.3 近傍から全体を見る多様体を発見:数学は物理などに従属していたが、幾何学は独立し、リーマンはアインシュタインに先行した。位相幾何学でローカルの概念が生まれた。近傍を規定すれば、位相空間ができ、疑似空間を使って、空間を解析できる。ローカルからグローバルを設定する考えはチャレンジだった。

 2.1.4 多様体から社会モデルをつくる:多様体の考え方は画期的です。インバリアントで空間が規定で来、ローカルとグローバルの構造にすることで、柔軟な発想をカタチに変えることができます。リーマン予想から無限次元空間を手に入れた。存在の無から私の居場所ができ、自由を手に入れることができた。

2.2 トポロジーの空間配置と関係性

 2.2.1 社会を集合として多様体モデル:多様体モデルはローカルとグローバルの先行きを表している。社会の様相に当てはめてみた。図書館はシェア社会を先行している。消費者から生活者がマーケティング中心になるカタチも示している。社会を多様体モデルで対象にする。歴史も時空間とすると、解析が可能です。

 2.2.2 ゼロから空間を作り上げる訓練:空間配置のためには、根本から考えないと無理です。理系は空間認識で、ローカルから考えて、全体の構造を積み上げた解析ができる。空間の連続性を保ちながら、不変なもので再構成していく。それらを全てを対象に行い、シンプルな解を求める訓練をしている。

 2.2.3 複雑性の考えで社会現象を理解:部分は全体よりも大きいは、部品表で見つけた。マーケティングを対象とした時に、複雑な要素を中に入れ込むと、簡単にすることができる。複雑性の性質から、変化は周縁から起こるとして、地域を重点的に見ている。現象への対応ではなく、原因からの対策に心がけている。

 2.2.4 店舗・本社を空間配置でモデル化:Think Globally, Act Locallyを考え進めて、仮説を立てた。 {Think、Act}と{Local、Global}に分解し、組み立てた。店舗から発想して、全体を循環で見ていく。狙いは持続可能性を保証することです。それをサファイア(Sa-fire)循環とした。

2.3 トポロジーは変革の先駆け

 2.3.1 算数はモノの関係を理解する:中学の時の算数は具体的です。ものと一体になっている。具体的なリンゴを揃えて説明することから、図形にリンゴの絵を描くようになった。そのうちに数字が発明され、抽象化が始まった。三角形の合同・相似から幾何学ができてきた。大学3年生の主要テーマだった。

 2.3.2 デカルト平面幾何の次元の呪い:ユークリッドの幾何学原論では、厳密な定義で、緻密に組み立てられた。デカルトは方法序説で、二元論に基づき、一人の発想で全体を構築した。デカルト平面は有効だったけど、局所だけで有効だった。次元の呪いで汎用性を欠くものだった。連続性が保証されない。

 2.3.3 空間を自由に規定し、数学は独立:次元の呪いは、全体の座標系を決めようとすることで起こった。ローカルで次元を確定して、全体をカバーすれば、連続性は保証される。幾何学はルールから空間を定義することにした。それは非ユークリッドで有効な武器になった。数学者は自由な空間が作れるようになった。

 2.3.4 多様体で自由な空間認識が可能:連続性と近傍系という、要素で空間を定義することで、数学はステージに突入した。数学は歴史・社会の変化に先行した。近傍での挙動をグループでの情報共有に置き換えれば、販売店システムの構造解析になりうる。歴史の時空間に適用すれば、未来予測も可能になる。
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要旨編集 8.販売店 3

8.7 スタッフが位相化の概念を具体化

 8.7.1 存在の力をポータルで位相化する:販売店の情報共有の最終ターゲットは社会コミュニティとなる。存在の力を市民が発揮することで、社会の位相化ができる。情報共有からコミュニティを体現し、店舗コミュニティで位相化を具体化する。店舗からサファイア循環を回し、お客様(市民)に範囲を広げる。

 8.7.2 店舗から企業と生活者につながる:メーカーを代表して、店舗から市民とつながり、信頼関係を作り出す。お客様ポータルでスタッフとの双方向通信を可能にすると同時に、店舗コミュニティの情報共有のベースの販売店リソースを拡大する。ソーシャルネットの一環として、お客様を支援する。

 8.7.3 発信でマーケティングを変える:店舗のメッセージ系・コンテンツ系からの発信で市民を変え、マーケティングを変えていく。メーカーからは車を使うための情報を発信、マーケティングの改革を理解してもらう。クルマ・お客様・メーカー・販売店でのコラボ環境を作り、コンテンツとして、蓄積する。

 8.7.4 スタッフに位相化プロセスを示す:店舗の位相化の為のプロセスを再確認する。コンテンツ系はタブレット活用で、新しい紙でのコミュニケーション、メッセージ系はモバイル・ライブラリでのリアルタイムでのコラボレーションと見なす。スタッフの意識をソーシャルネットでお客様に向け、社会に参画する。

8.8 企業が社会の位相化に参画

 8.8.1 ポータルでつながる世界を作る:ポータルで本部の情報、メーカーの情報と連携して、知識を備える。店舗でのコラボで討議して、意識を明確にする。本社・店舗間のポータル連携と、お客様からのフロー情報をグループで共有して、展開する。クルマを使う、多様なケースで市民との有機的につながる。

 8.8.2 個人の分化が組織の分化を促す:店舗をコミュニティと捉え、知識と意識をまとめて、スタッフの分化でマーケティングの変化に対応する。ソーシャルウェブで社会と接続し、グループ活動で限界を超えて、組織の分化を促す。その過程で、サファイア循環の四つの機能の意味合いを明確にする。

 8.8.3 企業は地域から環境社会に対応:2015年のインフレーションなどを想定すると、地域コミュニティが前提となる社会になる。コンパクト化、シェア社会、ローコスト・ローエネルギーに対応していく。変革は地域主体になるが、企業は先行して、社会改革を行い、ゆるやかな環境社会へ変えていく。

 8.8.4 企業を変え、地域・社会を変える:店舗コミュニティは市民コミュニティと一緒に使うための社会をめざす。カーシェアリング支援、新しい概念の車つくり。地域のテーマとしては、いい町・いい社会のために、新しい交通体系とか、地域エネルギーの地産地消を一緒に作り上げる。エネルギーも同様に対応する。
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要旨編集 8.販売店 2

8.4 いい町・いい社会を実現する

 8.4.1 店舗を知識と意識の場にする:店舗コミュニティの狙って、店舗を知識と意識の場にしていく。同一構成の環境の高速ネットワークの上に、ソーシャルウェブで新ポータルを配置する。従来の基幹系・情報系に加えて、メッセージ系でコラボし、発信でき、コンテンツ系のライブラリで情報共有できる。

 8.4.2 スタッフ分化で店舗が変わる:スタッフがお客様がクルマを使うことを広範囲に支援できるように分化することです。店舗コミュニティの知識と意識の環境で、ソーシャルウェブのポータルで武装化させていく。その上で、地域にシェア社会でのインフラを提案し、組織の分化と社会の位相化を進めていく。

 8.4.3 お客様からのコラボ循環を提言:お客様とのコラボのために、まずはお客様の声を聞き、まとめるために、お客様接点の仕組みを作り上げる。スタッフ全てを情報を集約して、コラボで共有して、三段ループでメーカーを含めて、情報を流通させる。メーカー中心に全域でのクルマの活用状況を把握して、展開。

 8.4.4 ソーシャルで地域とつながる:いい町・いい社会への検討に販売店が加わるためには、地域を支援して、横展開するファシリテーターと地域の思いを吸い上げるインタープリターを店舗・スタッフ事が主体的に行うことです。ソーシャルネットを活用して、メーカーのバックアップでコンパクト化に参画すする。

8.5 ポータルで店舗コミュニティを構築

 8.5.1 メッセージとライブラリをつなぐ:新ポータル開発を通じて、店舗コミュニティをイメージしていく。開発機能としては、入口としてのポータル画面、メッセージでのフロー処理(掲示板・お知らせ)、ライブラリでのストック処理、本社との情報処理のアピール・アンケート(コンテンツ表示・Web表示)です。

 8.5.2 チャッターで店舗コミュニティ:今どきの操作性で、ポータルを進化させます。ポータル管理のレベルアップ、モバイル対応、ダッシュボードでの編集、コラボ機能(チャッター)、ライブラリのナレッジ化と検索エンジン、多様なデータ取込みの汎用化を可能にして、販売店毎のニーズに対応させる。

 8.5.3 データ活用とメーカーとの接続:ポータルを単なる入り口だけではなく、スタッフの武器にするために、データ活用を可能にする。基幹系・情報系のデータをクラウドに外付けして、販売店単位での機能開発、お客様の声をフロー情報として吸い上げ、スタッフ単位での活用、メーカー情報をプル型で提供する。

 8.5.4 ソーシャルウェブで柔軟な開発:ソーシャルウェブ開発の良さを活かす。開発要件はユーザー主導にする。新機能での拡張性がポイントになる。作ることよりも活用する人をイメージし、情報共有基盤を開発して、販売店で容易に加工できる。ファシリテーターは販売店に任せるカタチになる。

8.6 情報共有で知識と意識の蓄積

 8.6.1 店舗での知識と意識の蓄積:店舗コミュニティでの情報共有環境での知識と意識の蓄積方法を考える。店舗のシステム配置を変えていく。サービスの基幹系システムとお客様の情報系システムは更新中心にして、ポータルで活用する。メッセージ系で意識を蓄積して、コンテンツ系で知識を蓄積していく。

 8.6.2 メッセージ共有でお客様状況把握:サーバのメッセージはポータル個人認証で選択する。スタッフとして、チャッターでフローを含め、チームの状況を把握して、行動する。メーカーおよびスマートサーバとリアルタイムでつながる。それらのバックアップで、スタッフ当り、300人のお客様とつながる。

 8.6.3 テーマでコラボ、グループで行動:店舗コミュニティのスタッフの意識づけを行えるようにする。本社・店舗間の双方向通信をアイデアボックス、チャッターコミュニケーションで可能にする。スタッフの分化の為に、スタッフが安心して発信できる環境を作り出し、三層構造のライブラリでナレッジ化を可能にする。

 8.6.4 ソーシャルウェブでスタッフ分化:スタッフの分化のために、ソーシャルウェブのポータルを使って、ゲーム化からコミュニティ化をはかる。ツールとコンテンツをクラウドでスタッフ環境を作る。ソーシャルウェブを活用することで、お客様・社会の変化に対応できる。組織の分化で変化に対応する。
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要旨編集 8.販売店 1

8.1 販売店要望を店舗に反映

 8.1.1 店舗内をコミュニティ化:販売店店舗のコミュニティ化はスタッフの意識を変えて、スタッフ間のコミュニケーションを気温にする。お客様要望を知無で絞り込んで、事例として収集して、ノウハウとして蓄える。そのために、mカーからのストック情報、お客様からの風呂情報を集約する。

 8.1.2 簡単に使える武器を与える:スタッフの意思を変える為に、武器を用意する。ソーシャルウェブでシステムの柔軟性を上げて、お客様情報をスタッフ単位で扱えるものにする。お客様の状況を把握して、新しいつながりを作り出す。そのために、モバイルを含めて、メッセージを把握するようにする。

 8.1.3 スタッフがお客様状況を把握:スタッフがお客様状況を把握することが活動の原点になる。従来の固定な情報に加えて、リアルタイムに知ることになる。スタッフの思いをお客様へアピールし、メーカーと共にお客様の要望に取り囲むことで、情報共有していく。市民コミュニティ時にも、適用できる。

 8.1.4 B-B-Cの販売店システム:メーカーと一緒にお客様を取り囲むには、お客様要望をスタッフがまとめて、発信する。メーカーの思いを映像データで提供する。常日頃からメーカー・スタッフ・お客様のコラボ環境でつながりを持ち、災害時には、店舗を拠点として、お客様への支援を可能にする。

8.2 スタッフ環境を直接支援する

 8.2.1 安心して発信できる環境を提供:スタッフがお客様を代表して、発信することで、販売店経営者の意識を変えていく。ポータルでスタッフに各種情報を集約させる。内外メッセージを一元化し、スタッフが意思決定できるようにする。お客様とのつながりをナレッジに変え、経営者のお客様への思いにつなげる。

 8.2.2 コミュニティ系を支援する:販売店のシステムは基幹系と情報系に分かれている。存在の力を発揮できるように、コミュニティ系とメッセージ系を作り出す。スタッフ間のコミュニティ化をソーシャルウェブで作り出す。タブレットを使い、コンテンツをネット上で共有する。各社ニーズに適応させる。

 8.2.3 メッセージ系を支援する:メッセージ系は非定型で、リアルタイム性のソーシャルでのやり取りも対象にする。デバイスには依存せずに活用する。ソーシャル活用することでお客様とかちいきともつながる。インターネット中心になるので、企業としてはセキュアな通信と認証が必要になる。

 8.2.4 基幹系・情報系は軽くする:従来の基幹系・情報系のシステムも様相が異なってくる。基幹系はデータベースの更新作業が中心になり、システムをウェブ化して、ソーシャルウェブの活用の柔軟性を保証する。全体効率のために、共有インフラでのコスト低減とコンテンツ系・メッセージ系につなげる。

8.3 メーカーとお客様とのつながり

 8.3.1 お客様・クルマの発信に対応する:メーカーとして、お客様とつながることを画策している。お客様のクルマをセンサーとして、発信を捉えることはできるが、どう対応が課題です。販売店とメーカーとの関係を通じて、クルマとお客様との関係を作り上げる。お客様ポータルで信頼関係を作り、情報共有する。

 8.3.2 クルマを使うことを支援する:車を売るだけでは先行きがない。クルマを使うことでお客様のニーズを収集し、解析する。交通体系への提案も行い、環境社会に対応していく。個々のお客様ではなく、地域コミュニティを創出して、支援するカタチをとる。行政と一体化して、地域インフラを構築する。

 8.3.3 お客様・メーカー・販売店の循環:新しいものと従来のバラバラなものをお客様とメーカーの関係で再構築する。お客様とつながるために、多様な関係者が参画してきた。インターネットを活用した次世代商品戦略では車中心の情報サービスが必要になる。お客様・メーカーに販売店を加え、センター中心で循環する。

 8.3.4 メーカー施策を販売店で現実化:メーカー・販売店との関係が変わってくる。販売店をレベルアップして、自立できるようにする。メーカーは支援に徹する。メーカー施策をお客様に展開するために、販売店の知恵を活かしていく。一方的な情報提供ではなく、販売店コミュニティでの情報共有を絡ませる。
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