ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より
いま「超越論的(transcendental)」という小難しい言葉が出てきましたが、これはもともとカントが「経験を可能にする条件」という意味で用いた哲学用語です。ここでは世界の内部にある「偶然的(経験的)事実を可能にする条件」という意味で理解しておけばよいでしょう。実は『論考』のなかで、もう一箇所[超越論的]という言葉が用いられているところがあります。それは「6.13論理は学説ではない。世界の鏡像である。論理は、超越論的である」という箇所です。ここでも「超越論的」という言葉は、偶然的事実を可能にする条件という意味で用いられていることは、「6.3 論理の探求は、すべでの洗岬埋の探求のことである。そして論理の外側では、すべてが偶然である」という文言からも明らかでしょう。つまり、倫理と論理はともに「超越論的」であることによって、世界の境界条件を形作っているのであり、それによって「語りえないもの」と境界を接しているのです。
倫理は善と悪に関する言説ですが、それが世界の境界条件であることは、「6.43 善意または悪意が世界を変えるなら、変えることのできるのは、世界の限界だけである。事実を変えることはできない」という形で述べられています。したがって、われわれは倫理的問題、すなわち「生の謎」を世界の内部で解決することはできません。「時間と空問のなかにある生の謎を解くことは、時間と空間の外側にある(6.4312)」と言われているのは、まさにそのことです。世界(時間と空間)の内部で解決可能1なのは、ただ自然科学の問題だけですが、それが解決したからといって、生の問題に決着がっいたわけではありません。しかし、そこにはもはや問われるべきことは何一つ残されていないのです(6.52)。それゆえ「生の謎」について、ヴィトゲンシュタインは「6.521 生の問題が解決したことに気づくのは、その問題が消えたことによってである」と何やら禅問答のような断案をくだしています。
これまで見てきましたように、『論考』は全体の6分の5を占める論理的考察の部分と6分の1にすぎない最後の倫理的考察という二つの部分かち成り立っています。おそらく、前半の論理的考察の部分だけが独立して刊行されたとするならば、『論考』は優れた論理学書ではあっても、20世紀を代表する哲学書にはなりえなかったに違いありません。『論考』の魅力は一にかかって前半と後半のアンバランスさにあります。またその不均衡が、統一的な解釈を模索する研究者の挑戦意欲をかき立てているのです。
実際、ヴィトゲンシュタインは『論考』の出版を依頼する編集者のフィッカー宛ての手紙の中で、「はじめに」の中に書かれなかった文章として、次のような一節を挙げています。すなわち「私はこう書くつもりでした。私の著作は二つの部分から成っている、一つはここに提示されているもの、いま一つは私が書かなかったことのすべてである、と。そして重要なのはじつにこの第二の部分なのです」というものです。また、それに続けて「私の本は、倫理的なものごとをいわば内側から限界づけており、私はこれこそが倫理の限界を定める、まさしく唯一の方法であると確信しています」と付け加えています(黒田亘[編]『ウィトゲンシュタイン・セレクション』による)。
だとすれば、『論考』において彼は、「語りえるもの」の境界を定めることによって、「語りえないもの」の境界を内側から限界づけようとしたのだ、と言えるでしょう。本書の「はじめに」においても、ヴィトゲンシュタインは「つまりこの本は、思考に境界線を引こうとしているのです。いや、むしろ一思考にではなく、思想の表現に、境界線を引こうとしているのです」とその目標を述べていました。もちろん、「思想の表現」とは言語を意味しますから、「思考可能なもの」とは「語りえるもの」にほかなりません。そしてその境界設定を通じてはじめて、倫理的価値に代表される「語りえないもの」がその向こう側に示されるわけです。
しかしながら、この境界線を引く作業そのものは、自然科学の営みには属しません。つまり、世界内部の事実について語る有意味な命題ではありません。それゆえヴィトゲンシュタインは『論考』を終えるにあたって、「6.54 私の文章は、っぎのような仕掛けで説明をしている。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り-私の文章に乗り-私の文章を越えて上ってしまってから、最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわば、ハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)」というどんでん返しを用意します。この哲学の自己否定ともいえる反哲学的結論は、ある意味で哲学を「学説」ではなく「活動」と規定したことからの当然の帰結とも言えます。内側から境界線を引き終えたとき、そこで哲学の活動も停止するのです。おそらくはその境界線上に立ちつくしたまま、ヴィトゲンシュタインは「7 語ることができないことについては、沈黙するしかない」とつぶやいて本書を締めくくります。語ることのできないものを前にした彼の深い沈黙は、まさに世界の重さと釣り合っているのです。
いま「超越論的(transcendental)」という小難しい言葉が出てきましたが、これはもともとカントが「経験を可能にする条件」という意味で用いた哲学用語です。ここでは世界の内部にある「偶然的(経験的)事実を可能にする条件」という意味で理解しておけばよいでしょう。実は『論考』のなかで、もう一箇所[超越論的]という言葉が用いられているところがあります。それは「6.13論理は学説ではない。世界の鏡像である。論理は、超越論的である」という箇所です。ここでも「超越論的」という言葉は、偶然的事実を可能にする条件という意味で用いられていることは、「6.3 論理の探求は、すべでの洗岬埋の探求のことである。そして論理の外側では、すべてが偶然である」という文言からも明らかでしょう。つまり、倫理と論理はともに「超越論的」であることによって、世界の境界条件を形作っているのであり、それによって「語りえないもの」と境界を接しているのです。
倫理は善と悪に関する言説ですが、それが世界の境界条件であることは、「6.43 善意または悪意が世界を変えるなら、変えることのできるのは、世界の限界だけである。事実を変えることはできない」という形で述べられています。したがって、われわれは倫理的問題、すなわち「生の謎」を世界の内部で解決することはできません。「時間と空問のなかにある生の謎を解くことは、時間と空間の外側にある(6.4312)」と言われているのは、まさにそのことです。世界(時間と空間)の内部で解決可能1なのは、ただ自然科学の問題だけですが、それが解決したからといって、生の問題に決着がっいたわけではありません。しかし、そこにはもはや問われるべきことは何一つ残されていないのです(6.52)。それゆえ「生の謎」について、ヴィトゲンシュタインは「6.521 生の問題が解決したことに気づくのは、その問題が消えたことによってである」と何やら禅問答のような断案をくだしています。
これまで見てきましたように、『論考』は全体の6分の5を占める論理的考察の部分と6分の1にすぎない最後の倫理的考察という二つの部分かち成り立っています。おそらく、前半の論理的考察の部分だけが独立して刊行されたとするならば、『論考』は優れた論理学書ではあっても、20世紀を代表する哲学書にはなりえなかったに違いありません。『論考』の魅力は一にかかって前半と後半のアンバランスさにあります。またその不均衡が、統一的な解釈を模索する研究者の挑戦意欲をかき立てているのです。
実際、ヴィトゲンシュタインは『論考』の出版を依頼する編集者のフィッカー宛ての手紙の中で、「はじめに」の中に書かれなかった文章として、次のような一節を挙げています。すなわち「私はこう書くつもりでした。私の著作は二つの部分から成っている、一つはここに提示されているもの、いま一つは私が書かなかったことのすべてである、と。そして重要なのはじつにこの第二の部分なのです」というものです。また、それに続けて「私の本は、倫理的なものごとをいわば内側から限界づけており、私はこれこそが倫理の限界を定める、まさしく唯一の方法であると確信しています」と付け加えています(黒田亘[編]『ウィトゲンシュタイン・セレクション』による)。
だとすれば、『論考』において彼は、「語りえるもの」の境界を定めることによって、「語りえないもの」の境界を内側から限界づけようとしたのだ、と言えるでしょう。本書の「はじめに」においても、ヴィトゲンシュタインは「つまりこの本は、思考に境界線を引こうとしているのです。いや、むしろ一思考にではなく、思想の表現に、境界線を引こうとしているのです」とその目標を述べていました。もちろん、「思想の表現」とは言語を意味しますから、「思考可能なもの」とは「語りえるもの」にほかなりません。そしてその境界設定を通じてはじめて、倫理的価値に代表される「語りえないもの」がその向こう側に示されるわけです。
しかしながら、この境界線を引く作業そのものは、自然科学の営みには属しません。つまり、世界内部の事実について語る有意味な命題ではありません。それゆえヴィトゲンシュタインは『論考』を終えるにあたって、「6.54 私の文章は、っぎのような仕掛けで説明をしている。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り-私の文章に乗り-私の文章を越えて上ってしまってから、最後に、私の文章がノンセンスであることに気づくのである。(いわば、ハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるにちがいない)」というどんでん返しを用意します。この哲学の自己否定ともいえる反哲学的結論は、ある意味で哲学を「学説」ではなく「活動」と規定したことからの当然の帰結とも言えます。内側から境界線を引き終えたとき、そこで哲学の活動も停止するのです。おそらくはその境界線上に立ちつくしたまま、ヴィトゲンシュタインは「7 語ることができないことについては、沈黙するしかない」とつぶやいて本書を締めくくります。語ることのできないものを前にした彼の深い沈黙は、まさに世界の重さと釣り合っているのです。