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エッセイ4 歴史

どうにか、今日、間に合った。内容はブログと本で補完する。肝心なのは具体的な実現のための4.6をどうまとめるかです。

4.1 歴史への関心

 4.1.1 ナチ成立の疑問

  4.1.1.1 ナチが成立した理由
  4.1.1.2 ドイツ歴史教科書
  4.1.1.3 沈黙の螺旋
  4.1.1.4 個人の発想が世界を支配

 4.1.2 全体主義の実態
  4.1.2.1 ロシアの独裁者
  4.1.2.2 現代中国の輝ける星
  4.1.2.3 現代中国は分裂寸前
  4.1.2.4 中国の将来を描く

 4.1.3 グローバリズム
  4.1.3.1 日本のグローバル化
  4.1.3.2 グローバル化の過程
  4.1.3.3 米・露・中の関係は微妙
  4.1.3.4 アメリカ支配

 4.1.4 テロの世界
  4.1.4.1 イスラム原理主義
  4.1.4.2 ジハードとテロリズム
  4.1.4.3 ローカルの反発
  4.1.4.4 根本的な解決策はGmL

4.2 歴史の分析

 4.2.1 歴史を学ぶ
  4.2.1.1 ローカル・グローバルの歴史
  4.2.1.2 サファイア循環で考える
  4.2.1.3 『21世紀の歴史』
  4.2.1.4 『ヨーロッパの100年』

 4.2.2 国の歴史
  4.2.2.1 フィンランドの歴史
  4.2.2.2 トルコの歴史
  4.2.2.3 ギリシャの歴史
  4.2.2.4 韓国の歴史

 4.2.3 歴史の捉え方
  4.2.3.1 歴史は案外、簡単かも
  4.2.3.2 歴史で予測する
  4.2.3.3 歴史の中の偶然
  4.2.3.4 歴史観

 4.2.4 将来から見る
  4.2.4.1 未来予想
  4.2.4.2 地球規模で考える
  4.2.4.3 未来は作るもの
  4.2.4.3 グローバルという見方

4.3 歴史の行方

 4.3.1 歴史の中の個人
  4.3.1.1 個人が考えること
  4.3.1.2 革命家チェの場合
  4.3.1.3 グループと歴史
  4.3.1.4 マスメディアの威力

 4.3.2 国というまとまり
  4.3.2.1 国の変遷は多様
  4.3.2.2 日本という国のイメージ
  4.3.2.3 大国の論理と小国の勇気
  4.3.2.4 連携の論理

 4.3.3 グローバリズムの限界
  4.3.3.1 LmGからGmLへの過渡期
  4.3.3.2 TLAGは独裁の始まり
  4.3.3.3 LmGからGmLはローカル発想次第
  4.3.3.4 グローバルの先は破壊のみ

 4.3.4 グローバリズムの突破口
  4.3.4.1 アメリカの中間層
  4.3.4.2 歴史の変節点
  4.3.4.3 新しい政治原理
  4.3.4.4 サファイアは戦争がない世界を創る

4.4 平和への道

 4.4.1 歴史の中の役割
  4.4.1.1 私は循環を見ていく
  4.4.1.2 日本は平和を目指す
  4.4.1.3 世界はバランスをとる
  4.4.1.4 ライブラリをイメージする

 4.4.2 サファイア循環で解明
  4.4.2.1 サファイア循環で解明
  4.4.2.2 欧米の変革
  4.4.2.3 自動車産業の変革
  4.4.2.4 新しいインフラ構築

 4.4.3 未来の歴史
  4.4.3.1 歴史の新しいシナリオ
  4.4.3.2 北欧モデル
  4.4.3.3 理数系で歴史をつくる
  4.4.3.4 数学で歴史をつくる

 4.4.4 平和のための循環
  4.4.4.1 平和のための循環
  4.4.4.2 アピール
  4.4.4.3 変革
  4.4.4.4 歴史は動くのか
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ドラッカーにみるマーケティング

675『ドラッカーのマーケティング思考法』より

※ 「自分たちがもっとも顧客を知っている」という誤解

会社の寿命は30年といわれています。なぜ、30年しかもたないのでしょうか。

実際に、30年存続する会社は全体の中のごくわずかです。ほとんどの会社は、創業から数年で消えていきます。創業から10年以上存続できる会社は2~3%にすぎないのです。

10年続かない会社は、「市場や顧客を理解できなかった」「理解していても、それに応える商品を提供することができなかった」と考えることはできます。しかし、10年以上続いている会社には、この理由はあてはまりません。

あなたは、「いや、私は顧客ニーズを知っている。低価格だ。中国・韓国などの商品が入ってきて、コストの高い日本企業ではそれに対応できないから売れないのだ」と反論するかもしれません。

そこで質問です。今、業績がよい会社は低価格が「売り」の会社だけでしょうか。もうひとつ、お酒を飲みに行く人にお尋ねします。あなたは、立ち飲みなどの「もっとも安い居酒屋」にばかり行っていますか。そうでなければ、それはなぜですか?


※ 産業と市場の構造変化はビッグチャンス

自動車業界が面白くなりそうです。これまで同業界は10社前後の寡占(少数の会社で市場シェアを独占すること)状態でした。唯一の例外は、マニアックな自動車を少数製造する光岡自動車(本社一富山県)ぐらいです。

しかし、電気自動車という新しい技術が導入されたおかげで、さまざまなベンチャー企業の参入か可能になりました。

かりに完成車への参入は無理でも、モーターや周辺機器・部品などでの参入は可能になります。とくにこれまで自動車産業にあまり縁のなかった電気系の会社にとっては、自動車産業はすそ野が広いので、ビッグチャンスの到来といえるでしょう。

車の核がボディやデザインなのか、動力(エンジンか、モーターか)なのか、あるいは足回りなのかによって、どこか主導権をにぎるかが変わってきます。

販売網をもつ現在の自動車会社か有利に思えますが、エネルギー供給(充電)という面から電力会社も有力になる可能性を秘めています。このように産業と市場に構造変化か起こると、携帯電話の市場のようにすべてが変わる可能性かあるのです。


※ ノウハウとは顧客に貢献できる「何か」

貢献できるノウハウとは、顧客ニーズに応えることかできる「何か」です。あるいは、顧客ニーズをつくり出すことかできる「何か」です。iPadのように「魅力的な商品そのもの」の場合もあれば、アマゾンのように「他の会社より上手に商品を提供するシステム」の場合もあります。

貢献できるノウハウは、市場での地位(シェア)を維持し、伸ばし、あるいは開拓するためのノウハウなのです。

そのノウハウは、新しいことを学ぶ必要、かあるものかもしれません。または、ノウハウの重点を市場志向に変えるだけですむかもしれません。

さらには、これまでコア・コンピタンスとなっていたものを、補助的なものに変えなければならないかもしれません。たとえば、衣類の場合、実用品では縫製技術がコア・コンピタンスですか、ファッションになるとデザインが主(コア・コンピタンス)になり、縫製技術は従(サブ・コンピタンス)になります。

なお、何をどのように変えなければならないかぱマーケティングしだいです。


※ ノウハウは共有しなけれぱもったいない

いくつかの事業部や部門に分かれている会社では、社内のノウハウを共有できていないところか多くあります。

たとえば、A部門で創意工夫したコスト削減方法や市場開拓のノウハウが、A部門内にとどまっていることかあります。とくに事業所が分かれている場合には、まったく別の会社であるかのように、ノウハウについての情報交換がされていません。

また、モノづくりの技能や営業担当者の販売ノウハウ、サービス業の接客力や顧客情報などは、もっとも重要なノウハウといえるのですか、個人のノウハウにとどまっています。

ですから、本人以外の社員にはそのノウハウが伝わりません。あるいは、その人が退職すると、ノウハウも一緒に会社を去ってしまうので、せっかくのノウハウが蓄積していきません。

ドラッカーは「顧客が事業であるのと同様に、ノウハウが事業である」と言っています。買ってでも手に入れたいノウハウを共有しないのはもったいない話です。
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ヘーゲルの「哲学」

2010年12月31日(金)  134.4『ヘーゲル』より

哲学は、芸術と宗教を統一したものである。形式的に外へと広がる芸術のものの見かたと、実体となる内容を主観的に造形し分解して、多くの独立の形態を作りだす芸術活動が、、いったんは宗教のもとで全体的なまとまりをあたえられる。が、宗教的に展開される内容は、イメージのなかでばらばらになり、またたがいに媒介されてもいって、最後には一つの全体にまとめあげられるのだが、そこからさらに、単一の精神的な統一体として直観され、さらに自覚的な思考へと高められて、ここに哲学の登場となる。だから、哲学的な知は、芸術と宗教の真理を思考によって概念的に認識するものであり、そこでは、内容の多様性が必然的なものとして認識され、必然的なものが自由な運動として認識されるのである。

かくも、哲学は絶対的な内容をもつイメージの必然性を認識するとともに、芸術と宗教という二つの形式の必然性を認識するのでなければならない。二つの形式とは、一つは、自然のままの直観や、それを詩的に表現したものや、客観的・外的に啓示されるものの前段となるイメージの形式であり、もう一つは、主観的に内面へと還っていき、前提となるイメージと信仰とが一体化していく主観的運動の形式である。とすると、哲学的認識は真理の内容とその形式を承認する行為であり、形式の一面性から解放されて絶対の形式へと上昇していく行為である。ここに絶対の形式とは、内容と結びつき、内容との一体性を保ち、真琴のもつ絶対的な必然性を認識する働きである。この運動がそのまま哲学なのだが、運動は最後に来て自分の概念をとらえ、自分の知を振り返るときに完結するのである。

哲学の概念とは、理念がおのれを思考することであり、真理がおのれを知ることであって了ふ)、論理的なものが、現実にある具体的な内容のもとで、その一般性を確証されることである。こうして哲学ははじまりへと還ってきたわけで、論理的なものは結果として精神的なものになっている。前提を必要とする判断のなかでは、概念は潜在しているにすぎず、はじまりは直接の存在だったのだが、いまや、論理的なものはその判断をぬけだし、したがってまた、判断のもとで所持していた現象形態をぬけだして、自分の純粋な原理を展開できる自分本来の場に登場している。

この現象がさらなる発展の土台となる。最初の現象は三項関係をなしていて、「論理」が土台ないし出発点をなし、「自然」が中間項で、最後の「精神」が自然を介して論理と一体化する。論理が自然になり、自然が精神となる。精神と精神の本質(論理)とのあいだに立つのが自然だが、それは、精神と論理を有限で抽象的な両極へと分割するものではないし、自分が上の二つから自立し、他なるものとして二つを統一させるものでもない。というのも、三項関係は理念のうちにあるもので、自然はその本質からして通過点ないし否定的要素として規定されるほかなく、潜在的に理念といえるにすぎないからである。しかし、概念の媒介活動は外的な移行の形式をとり、哲学は必然の歩みという形式をとるから、概念の自由は、一方の極においてのみ概念の自己統一として設定される。

この現象形態は、第二の三項関係のうちで屯服されるが、第一。の。(頂関係とは、すでにして精神の立場に立つもので、自然を前提とし、自然を論理と統一するような媒介活動である。それは、理念のなかで精神が自分へと還っていく三項関係である。哲学は白山を日的とするh観的な認識活動としてあらわれ、認識自体が自由をうみだす歩みとなる。

第三の三項関係は哲学の理念を示すものである。自己を知る絶対的・普遍的な理性が中間項となり、それが精神と自然とにわかれ、精神は理念の主観的活動の過程として前提され、自然はそれ自体で客観的に存在する理念の過程として普遍の極をなすとされる。理念がみずからを分割して二つの現象形態をとるとき(§575,576)、二つの形態は理念を(自己を知る理性を)啓示するものとされる。理念における統一が実現したときには、前へと進み、発展していくのは、事柄の本件をなす概念であり、この運動はまた認識の活動でもある。絶対的に存在する水遠の理念は、絶対精神として永遠にみずから活動し、みずから生産し、みずから享受するのである。
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価値観のポジティブな面の活用

309.4『日本の新たな「第三の道」』

獲得型個人主義の影響力の拡大は、環境問題にとっては複雑な含意を持つ。すなわち、獲得型個人主義が権利主張主義と結合し、個人の利益が最優先される社会では、将来を見据えて地球環境保全のために欲望を抑えるという行動を個々人に期待するのが難しくなる。こうした観点からも、人々はこれまで第一義的な行動規範としてきた獲得型個人主義を改変することを求められる。

つまり、人々は政府に権利や保護を要求するだけではなく、権利に伴う責任も自覚しなければならない。新しい社会契約においては、市民は、社会や共同体から利益を得るだけでなく、社会や共同体に貢献することを求められることになる。

ここまでに挙げた四つの性向、すなわち「脱物質主義」「自然共生主義」「自己実現主義」「反権威主義」は相互に関連し合っており、実際の人間行動は、これらの要因の複雑な複合体として理解することができる。また、脱物質主義、自然共生主義、自己実現主義は、これまで主として物質的側面からのみ意味づけられていた個人の利益や望ましい生活の定義が変化し、精神的、文化的、またより本質的な側面に重点が置かれるようになったことと関連している。

さらに環境と健康(単に病気でないという消極的な意味ではなく、より積極的な意味での健康)が、望ましい生活の中心的な部分を占めるようになった。すなわち脱物質主義、自然共生主義、自己実現主義は新しい社会モデルに適合するものであり、「第三の道」改革、ライフスタイル変革にとって本質的にポジティブな意味を持つ。反権威主義も、個人が社会的権威から独立して自らの判断を下すという主体性に結び付くので、新しい社会モデルにとってポジティブに作用するであろう。これらの性向はこうした改革を推進する上で力になると考えられる。

本章ですでに述べたように、獲得型個人主義と権利主張主義の拡大は、新しい社会モデルを実現するうえでは、障害となる面が大きい。環境保全のためのライフスタイル変革は、個人の利益と欲望を最優先する傾向を抑え、権利に伴う責任を明確にする倫理的個人主義と原初的民主主義に立ち戻ることを前提とする。

アメリカの社会学者ロバート・ペラーは、アメリカ社会で拡大し続ける獲得型個人主義に強い懸念を示している。個人主義の行き過ぎにより、個人は共同体や社会とのつながりを失ってばらばらになり、その結果、社会の凝集性と統合が危機に瀕しつつあるというのである。この懸念は今や多くの国にとって共通のものとなっている。獲得型個人主義と権利主張主義の拡大の結果、我々がしばしば目にすることになったのは、政府支出の分配をめぐって争う無数の利益集団のエゴイズムである。

このように、ポストモダン的価値観は、新しい社会モデルに向けたライフスタイル変革にとってポジティブな面とネガティブな面を合わせ持つ。人々の持つ価値観のなかで、ライフスタイル変革にとってポジティブな面に訴える必要がある。同時に、ネガティブな面については、それらが環境問題と社会問題の解決にとって障害となることを認識し、個々人が自制していくことが求められる。
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セブン-イレブンの手羽先をお土産にしたかった

未唯へ。セブン-イレブンも堕落しています。言っていることとやっていることが違います。まあ、販売店も同様です。こうなる前に、販売店にサファイア循環のシナリオを入れないと。

歩いて、セブン-イレブンに行ったところ、またしてもフライものがありません。フライアーを掃除しているからできません、とのこと。昨日は10分でできると言われたので、どのくらいかかるのかと聞いたところ、昼までかかるということ。

昨日は10分で今日は昼までというのはどうなっているかを聞いた時点で、店主がでてきた。昨日の10分は嘘で、この時間帯はフライアーの掃除で手羽先はできません、それがこの店のルールだそうです。それがルールで手羽先が提供できないなら、それを店頭に明示すべきだし、昨日の時点で、それを伝えるべきでしょう。それに対しては、店員によく徹底しておきます、とのこと。これはセブン-イレブンとは思えない。店のフライアーの掃除が優先で、手羽を買いにきた、お客様のことは考えていない。

この件に関して、OFCはどういう認識かを聞いてみた。2時間も掃除に時間がかかるフライアー、買いにきたお客を掃除の性にして、逃がしている現状を確認しようとした。セブン-イレブンなら、フライアーを掃除している間の客数を予測して、作り置きして、お客様に迷惑をかけないぐらいのことは基本でしょう。売れ残ることよりも、買えなかったお客様の心を優先するはずです。

店主がOFCを呼ぶという話になった。来るのに20分かかるということで、ケータイ番号を教えて、外にでた。外は雪が降り始めている。寒いです。歩いていると、3分ぐらいで電話がかかってきた。店主から言われたので掛けてきたそうです。立ち止まって、7分ぐらいケータイしていた。店主と協議するとのこと。個々の店よりもセブン-イレブン自体の問題だと思うけど。

OFCには、本部と協議してもらいたい。フライアーの掃除と商品の提供は分けること、フライアーは改善して、30分で完了できるようにすること。チェーンの間で時間帯を分けて、必ず、商品がある店を紹介させる、といったこと。改善項目はいくらでもあります。

店主に、「昨日は油をこぼして大変だった」というようなことをお客に云わせるような機械を提供していてはダメです。中途半端に機械化すは手間がかかります。そのあとに寄った、ファミマは手動で揚げていた。

結局、30分以上、費やしてしまった。平均27歳の子供たちに、手羽先をお土産にして、話題提供することができずに、そのまま、部屋に引き籠もった。バラバラの大晦日。

そんなことよりも、未唯空間の歴史編です。
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歴史にサファイアを入れたい

未唯へ。寒い。足が凍えた。靴にカイロを突っ込んでいた。

スタバのアンケートに当たった。これで5度目です。豊田市駅前は初めてです。フリーチケットになる。

今日は歴史編です。ナチ成立過程を考えている。翻弄される個人と集まって行進したがるグループ(左右政党)、そして方向を失っている組織(国家)だけがあった。ライブラリがなかった。考えるのではなく、行動する世界であった。あとはサイコロが決めていった。それと「個人の意志」であった。もう一つ、挙げると、「思惑」です。左になると困る。右なら懐柔できる。

ナチは右でも左でもなかった。政権を取れるなら、何でも構わなかった。組織を確保して、グループをつぶした。議論をつぶした。そして、ライブラリをつぶした。組織と個人の関係にした。

戦後にナチの反省からでた「沈黙の螺旋」は気に入っています。組織がよく使う手です。ある提案したときに、反駁がなければ、「了解」とみなし、あとから文句言うものは不正と見なす。それをスパイラルさせていく。その究極の形がナチの戦法。重要なのは、市民間の議論です。それとベースとなる、ライブラリです。その時点でダメなものはダメです。初期かどうか、小さいかどうかは関係ないです。ダメなものはダメです。個人レベルから吸い上げていく仕組みが民主主義です。

歴史は難しい。本からの見識も体系化しないといけない。来年のテーマにしよう。特に不明なのはグループの役割とライブラリの存在です。偶然に対しての風当たりも強い。歴史のifがないので、偶然にしたがる。SFの中の歴史ものはすべて、ifから成り立ちます。

歴史にサファイアを入れることが、未来の歴史の主眼です。これは意図になります。意図通りになることは、第2のナチになる懸念があります。歴史は偶発でないといけない気がします。

日本の中で歴史に責任を持っている人はいない。だから、サファイア亜必要な気がします。特に、ライブラリは全体を見たところから生まれる。歴史の中のライブラリの形は様々です。広島原爆記念館、アリゾナ記念館、史記、ヘロドトスの歴史、アレキサンドリア図書館、グランドゼロ、オリーブの木などです。肝心なのは、それらが“次に”つながっていない。ベースとなる循環が見えていないことです。「竜馬伝」が孫さんの「光の道」につながるかもしれない。それを歴史の中の循環として、全体を位置づける存在がいる。それを目指そうか。

未唯空間のシートを3日までに作り替えたら、ブログの内容は常にどの項目に適用できるかを明確にします。

それにしても、この窓際の席は寒い。自分の部屋で布団に潜り込んで考えようか。帰りにセブン-イレブンの手羽先を子どもたちのお土産に買っていこう。
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建築計画のポイント

525.1『世界で一番やさしい建築計画[住宅編]』より

アプローチはできるだけ長く:門と玄関の位置をずらすことで、アプローチの距離が延び、期待感が高まる。

道路から玄関へ至るアプローチは、その家の第一印象を決めてしまう。建物を配置したら、外部はほとんど残らないという場合でも、アプローチの長さや眺めを工夫することで、家の中に入るまでの気分はかなり違ってくる。

居心地のよい住宅をつくってきた吉村順三は、「門と玄関はI直線におかないこと」を旨としたと、吉村が設計した住宅の所有者から伺ったことがある。門から玄関の位置をずらすことで、アプローチの距離が延び、心の準備や期待感を高めることができることを、吉村はいくつもの住宅を設計しながら確信したのだろう。

たとえ狭い敷地でも、設計次第で豊かなアプローチをつくることができる。たとえば、約30坪のほぼ四角い敷地で、北側に道路がある場合、道路に接する足下にツル性植物を植えて、足下と上部を開けた塀を設けて建物との間を露地のようにする。塀の西の端から入って露地の東端に坪庭をつくり、その手前に玄関を設けると、足下の緑と正面の坪庭の緑が目に入り、長いアプローチを楽しみながら玄関にたどりっくことができる。どうしても長いアプローチがとれない場合は、動線上に沖縄の魔除けにもなっているヒンプン(59頁参照)のような自立壁を配置したり、樹木を植えて気持ちが切り替わるようにすることもできる。

どの方向にアプローチを設けるかによって、外観デザインも影響を受ける。アプローチを通りながら最初に目に入るのが外観だからだ。南入りなら、庭や建物を眺めながら玄関に向かうことになるので、庭との調和も考えながら南側の外観を計画することになる。

道路と敷地との境界には、防犯上、門や塀を設けることになるが、できるだけ閉鎖的にならないように、理想をいえば目線の高さくらいの生垣等で囲って、風通しをよくしておきたい。


階段の楽しみ:階段は位置をどこにするかによって、家全体の構成が決まる特別な場所。

都市圏では2階建て、3階建ての家が多くなっている。そのぶん階段の重要性は高くなっている。最低限の安全性を確保するため、建築基準法では、幅、踏み板、蹴上げ、踊り場などの規定数値は決められているが、直行、折れ曲がり、螺旋など形態は自由だ。

階段は垂直移動という運動を起こさせる。そこに、風景や光の変化を取り入れることによって、ダイナミックな空間をつくることができる。床、壁が垂直に構成されている中で、階段は斜めの構成要素だ。段板、手摺の形状を工夫して斜めの構成要素を強調するのか、消し去るのか、デザインカが問われるところだ。手摺の存在も大きい。パイプを曲げた螺旋階段でも、独立した階段でも、手摺のデザインは、階段が設置される空間の雰囲気をつくるといっても過言ではない。

階段の位置をどこにするかによって、家全体の構成が決まってくる。玄関ホールやリビングの中にオープンに取り込むのか、廊下の奥に独立して設けるのかによっても、間取りは影響を受ける。さらに2階にどのような部屋を持っていくかによって、オープンか独立かも考慮しなくてはならない。

1階をLDKにするなら、2階は寝室や子供室になるので、独立した階段という選択もあるが、子供室がLDKから気配を感じられるようにするなら、オープンな階段にしたほうがよい。限られた床面積だと、立体的に部屋を重ねることになるので、一室空間にして上下移動する階段が、空間の質を決める重要なデザイン要素になる。

オープンな階段は、上り下りすることで、視界が変化する楽しみを持つが、温熱環境や音と相反することになる。建て主には、階段をオープンにする空間的な魅力を伝えるとともに、温熱環境や音の面で弱点があることを十分に説明しておいたほうがよい。
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エッセイ3 社会

3.1 社会観察

 3.1.1 コンビニ・ケータイの世界
  3.1.1.1 ファーストフードでの観察
  3.1.1.2 コンビニの限界
  3.1.1.3 ケータイへの期待
  3.1.1.4 提案

 3.1.2 マスメディアをチェック
  3.1.2.1 観察する視点
  3.1.2.2 デパートを観察する
  3.1.2.3 マスメディアを観察
3.1.2.4 意見を吸い上げて
 3.1.3 女性と情報の出会い
  3.1.3.1 女性との出会い
  3.1.3.2 未来が見えてくる
  3.1.3.3 本の情報
  3.1.3.4 会社の情報

 3.1.4 社会全体を把
  3.1.4.1 GlobalとLocal
  3.1.4.2 ThinkとAct
  3.1.4.3 複雑性の考え方
  3.1.4.4 複雑性で捉える

3.2 社会の問題

 3.2.1 グローバルとローカルでの接点
  3.2.1.1 グローバルとローカルの接点
  3.2.1.2 疎と密のつながり
  3.2.1.3 考える
  3.2.1.4 行動して、つながる

 3.2.2 さまざまな問題
  3.2.2.1 食糧・人口問題
  3.2.2.2 環境問題
  3.2.2.3 エネルギー問題
  3.2.2.4 グローバリズムの課題

 3.2.3 ボランティア
  3.2.3.1 図書館ボランティア
  3.2.3.2 愛知万博ボランティア
  3.2.3.3 ボランティアで得たもの
  3.2.3.4 市民参画の条件

 3.2.4 市役所解析
  3.2.4.1 環境行動計画
  3.2.4.2 パブリックコメント
  3.2.4.3 市役所の格差
  3.2.4.4 組織の条件

3.3 ファシリテーション

 3.3.1 ローカルでの活動
  3.3.1.1 T-GALs設立
  3.3.1.2 「さあ!」の企画
  3.3.1.3 レジ袋の考察
  3.3.1.4 子どもへのアピール

 3.3.2 グローバルからの支援
  3.3.2.1 アピール・アンケート
  3.3.2.2 市民との情報共有
  3.3.2.3 専門家の存在
  3.3.2.4 グループとしてのNPO

 3.3.3 サファイア社会
  3.3.3.1 サファイア構造
  3.3.3.2 Global meets Local
  3.3.3.3 Local meets Global
  3.3.3.4 持続可能性社会

 3.3.4 市民参画
  3.3.4.1 市民グループ
  3.3.4.2 エコット
  3.3.4.3 市民参画
  3.3.4.4 市役所

3.4 インタープリテーション

 3.4.1 グローバリズムの限界
  3.4.1.1 環境問題の捉え方
  3.4.1.2 環境問題活動はまやかし
  3.4.1.3 「作る」ことから「使う」へ
  3.4.1.4 政治へ意見吸い上げ

 3.4.2 ローカルの思いを生かす
  3.4.2.1 偶然を生かす
  3.4.2.2 思いを集約
  3.4.2.3 新LmG
  3.4.2.4 仕事を与える

 3.4.3 サファイア事務局
  3.4.3.1 サファイア循環
  3.4.3.2 グランド・セオリー
  3.4.3.3 社会への提案
  3.4.3.4 事例を集めて、展開

 3.4.4 サファイア循環社会への道筋
  3.4.4.1 市民の参画
  3.4.4.2 市民活動の推進役
  3.4.4.3 地域の活性化
  3.4.4.4 個人を生かす
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ジハードとテロリズム

167『1冊で知るムスリム』より

どのムスリムもジハード(奮闘努力)をしなければならない。大半はしている。この言葉の文字どおりの意味にしたかい、ムスリムはイスラーム五行を遵守し、よい人間になるよう努めることによって、神の道を歩みなから戦ってゆく。

預言者ムハンマドは、ある戦争から帰還する途中で、こう言った。これで小ジハードは終わったのだから、大ジハードに向かわねばならない」。その意味を尋ねられて、彼は答えた。「自分自身に対するジハードのことだ」。

ジハードという言葉は、西洋に恐怖をおぼえさせる。戦争という意味だけで理解しているからだが、ほとんどのムスリムにとっては、もっとよい意味を持つ言葉だ。ムスリムの場合、筆頭にあげられるジハードは自我との戦いである。その次に、悪魔とのジハードがある。また、イスラームの教えを広めるための言葉のジハードがある。慈善のジハードがある。知識を広めるためのペンのジハードもある。ありとあらゆる個別の事柄にジハードがある。

またムスリムは、ごく日常的な問題について、やはり平和的に、しかし共同でジハードにあたったりする。たとえば、以前にエジプト政府が宣言した清潔のためのジハード。チュニジア政府か導入した識字教育のためのジハード。ほとんど効果はあからないものの、パキスタソ政府か周期的に公布する汚職追放のためのジハード。熱帯の国々で、定期的に呼びかけられる水管理のためのジハード、などだ。

しかし西洋では、とくに9・11以降、ジハードという言葉の熱度は非常に高く、よく似たふたつの方法で語られてきた。イスラームをおとしめたいと願っている人々は、イスラームはもともと暴力的な宗教なのだと主張する。「ほら、コーランのここに書いてあるじゃないか」と彼らは言う。ウサマービンーラディンなどのテロリストは、テロリズムを正当化するためにコーランの同じ箇所を引用する。だか、大半のムスリムと多くの非ムスリムは、イスラームは平和の宗教だと述べ、イスラーム嫌悪者と好戦的ムスリムの両方か、それぞれ正反対の主張の都合のいいように教義を曲解していることに怒りをおぼえている。

聖戦に関する西側メディアの論調は、どうも中立的ではない。とくにアメリカのメディアの扱い方はくるくる変わる。イスラームの旗印のもとにイラン人が集結した1979年革命で、アメリカ寄りの独裁者だった国王か打ち負かされたとき、彼らは非常に批判的だった。ところか、ソヴィエトのアフガュスタソ侵攻に反対する1980~89年の聖戦ではアメリカも応援にまわり、43か国のムスリム国家から雇い入れて中央情報局(CIA)が給料を支払った3万5000人のムジャーヒディーン(聖戦士)を、メディアはほめたたえた。時の大統領ロナルドーレーガンは、彼らの高潔さはアメリカ建国の父たちに等しいと言ったものだ。CBSテレビニュース番組のアンカーマン、ダンーラザーは、長いシャツにパソタロソという民族衣装に身を包み、まるで彼自身かジハードに参戦しているかのように意気揚々とアフガン前線でポーズをとった。
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コミュニティ情報サービス

015『図書館サービス論』より

地域生活にかかわる情報のことを、特に欧米では「コミュニティ情報(community information)」と称し、そうした情報を収集して組織化し、適宜提供するサービスを、「コミュニティ情報サービス」と呼んでいる。ただし、「コミュニティ情報」といった場合、地域に関係する一般的な情報というよりは、生活上の課題や問題の解決に直結する情報のことを指す場合が多い。例えば、「街路樹が嵐で倒れてしまったときに、どうすれば撤去してもらえるか」「新種のスポーツを指導してくれる人や機関が近くで見つけられるか」といった問題に対して、それを解決することができる情報を提供するのである。それゆえ、このサービスを展開するには、地域における種々の団体、企業、機関に関する情報をあらかじめ収集し、対応できる体制を整えておかなくてはならない。

日本では、こうした問題については、行政機関(市役所や役場など)が、問い合わせの窓口として意識されるのが一般的であるが、欧米では図書館が対応していることが多い。しかし、日本においても、地域の情報を取り扱う機関として、図書館が積極的にかかわっていくことが望まれる。

なお、コミュニティ情報サービスは、個人の家庭生活に関係するものだけを対象にしているのではない。地域における企業活動や起業を支援する図書館活動を「ビジネス支援」と呼び、近年着目されている。しかし、こうした名称こそ用いられていないものの、企業活動や起業を支援することは、レファレンスサービスの中で以前から行われてきていた。そこで提供される多くの情報は、「コミュニティ情報」と位置付けることができるものである。

また、生涯学習を支援する行政機関が、図書館とは別に設置され、「学習情報提供」と呼ばれるサービスを実施していることがある。「学習情報」には、学習の機会に関する情報、学習団体に関する情報、学習教材に関する情報、講師に関する情報などが含まれるが、地域住民が学習する場は、基本的には地域であることから、これらの多くは「コミュニティ情報」と重なるのである。 したがって、図書館が「コミュニティ情報サービス」を提供する場合には、こうした他機関で実施されている情報サービスとの競合に配慮し、調整していくことが求められる。

現在、図書館においても独自のウェブページが作成され、様々な情報が発信されている。ただし、発信されている情報は、利用の案内(開館日、開館時間、来館手段など)、行事の案内、0PACが主流を占めており、地域資料や地域情報を扱ったものは多いとは言えない。

しかし、中には、地域資料・情報を掲載している図書館もある。すなわち, OPACとは別に、データベース化した独自の地域情報を検索できるようにしたり、デジタル化した地域資料を画像ファイルで閲覧できるようにしたりしている。また、地域機関が作成しているウェブページヘのリンク集を作成している例もある。地域資料や地域情報は、どのようなものが作成され、存在しているか、他の地域からはわかりにくいものであることから、ウェブページを活用して遠隔地からも閲覧したり、検索したりできることは、効果的と考えられている。
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