未唯への手紙

未唯への手紙

音声の書き起しから社会の革命

2012年03月27日 | 7.生活
電算部のシナリオ

 それらに比べて、電算部のシナリオはプアです。販売店とは関係ないところでの工数削減です。インパクトがありません。世の中から置いていかれます。主戦場はネットワークです。お互いが変わっていくしかない。そこに何を供給して、店舗の活性化をするのかという発想が一番分かりやすい。

音声の書き起し

 音声とデータの本当の融合はいつ始まるのか。インターネットの世界にもありません。機能が足りない。お互いの世界に入り込むための技術が中途半端になっている。

 iCloudでデータとしての音声、音声のデータ化が考えられる。それを自分のデバイスで自由に活用できる世界です。音声がデータになって、データが音声になる。チャッターにしても、それがあれば、本当のつぶやくが簡易に広がり、反応されます。

 ICレコーダーの書き起し技術の延長線上にあるのかもしれません。これはアナログとデジタルの完全な変換となります。世の中はどこのレベルであればいいのかにより、答が異なります。

 昔から、この分野を個人的にやってきました。雑記帳では15年前からICレコーダーの書き起しを行っています。しゃべったことを書き起して、安心してきた。音声のままでは役に立ちません。自分のアイデアを残すために、膨大な工数を使ってきました。

 販売店ヒアリングをすべて、ICレコーダーで録音したが、書き起さないと、集約ができなかった。10倍ぐらいの工数が係りました。音声認識のソフトも2度ほど、買ったけど、役に立たない。聞いている本人が分からないものが機械で分かるはずがない。

 変換技術をクラウドで作り出すことになるでしょう。通訳のクラウドがあるし、印刷依頼に応えるものもあります。そうすれば、データと音声とクラウドがつながります。老人ホームでの口述筆記になれば、人生論もできます。もしかすると、世の中に出ることになります。これが発信の元です。チャッターをそのレベルまで上げたものが勝利者になるでしょう。

 なぜ、クラウド化というと、変換には膨大なデータベースと解析技術が必要になります。全ての素材が備わっています。後は商売のやり方と意味付けだけです。図書館クラウド辺りがやれば、商売になるし、知の入口という公平感も保たれます。

ECU解析の場合

 必要な機能としては、人工知能ですね。ECU解析の時に、データから、意味合いを探りました。技術者の仮説をLispで表現して、マッチングを行いました。できることは分かりました。プロトタイプは作りました。

 クルマがしゃべるといっても現象を話すだけではダメです。対策まで遡ることです。膨大な仮説とのマッチングです。これはコンビニでのデータ処理と同じです。どう並べたらいいのか、おでんの終了日をどの地区はいつにするのかを判定します。

 今後、エネルギーに関することも、スマートセンサーからは一杯集まってきます。ビッグデータ処理を行うのが、スマートセンターとかクラウドになります。

 研究開発部署の時には、問題意識が先にありました。その空間をどのように作るのかを考えていた。EUC解析用につけた名前がμ空間でした。そういう技術を汎用化するだけです。

パートナーの役割

 パートナーは跳べないから、実績を上げて、皆から認められることで、そこから派生できるようにしていきます。これは、以前考えた、空中戦と地上戦の役割分担です。

つながるの概念

 つながるも新しい概念で変えていきます。かれらはまだまだ狭いし。先が見えていない。システムを作るのではなく、使うことという点では、やっと、追いついたという感じです。

 徹底までのプロセスを目的に合わせて、変えていかないといけない。その中で、食べていく人のために作るのではなく、それを使っていく人のために作るという原点です。

 最終的に、販売店をなくすことを、つながるは狙っています。全てをつかみたいから。よほどのことと販売店システムで提案しない限り、販売店は外されます。その危機感が販売店にはない。

 使うことを中心にしたら、本来、全国レベルです。売ることなら、ローカルです。地域コミュニティが必要なように、地域での店舗が必要です。環境社会の概念をどう入れていくかです。そのためには、店舗がそれだけの役割を地域に対して、働きかけないといけない。売るだけなら、その地域にある必要はない。中国からでも売れるのだから。

シェア社会のクルマのあり方

 壊れた時に、直すサービスしかない。それも部品の共有化を図っていくことになります。シェア社会における車は会社を超えて、同一仕様です。カタチも部品も一緒です。共有化することで、サービスの部品は少なくて済みます。

 これは格安航空会社の戦略です。機種を同一にすれば、パイロットも部品も少なくて済みます。画一サービスで安く、移動することができます。使うことを中心にすれば、クルマも同様になっていきます。

歴史と哲学を自分の中に

2012年03月27日 | 1.私
未唯へ

 夕食の楽しみがないのは苦しいですね。間食したくなります。

 この北極圏仕様のコートで正解です。フードがないと本当に寒い。

 月を挟んで惑星が二つ並んでいます。

 やはり、時計機能が欲しいですね。ケータイはかさばるので、持たなくしたが、時計部分だけが欲しい。100円ショップでさがしましょう。

2年前に設計は終わっている

 次期のポータルもライブラリも2年前に設計は終わっています。ジワジワとパートナーの中に染み込んでいけば良いです。考えていない・見てないGMに頼ってもどうしようもないのに。

 第8章は地域活性から始まっています。これが終着点です。次期システムの全てがあります。パートナーの言っていたポータルの答もそこにあります。2年前に出した答の因数分解を行っています。それよりも、低いレベルでも、答を出してもらえば、当分の要求には応えられます。あとは社会の進化に依存します。

 中身は循環パターンが多いです。①→②、③→④です。この意味は、ローカルで行うことと、グローバルで行うことをハッキリさせるということです。

歴史と哲学を自分の中に入れる

 歴史と哲学は自分の中に入れ込まないとダメです。今日の資料はOCRするだけでなく、キッチリと理解させましょう。ギリシャとドイツとの戦争も両方の立場から見てします。ついでのムッソリーニのイタリアの立場とトルコも見ることができました。

やかましい車

 本当に車がやかましい。私の精神が持ちそうもない。こんな世界を作った覚えがない。研究開発部署は何をやっているのか。車の根本的な部分は何も変わっていない。快適に移動する手段を作るのであれば、キッチリと作りなさい。車は場所を取りすぎます。自転車ぐらいで十分です。

社会のモデル化をゲーム化

 社会をモデル化して、ゲームのように、内なる世界に入れないとイメージはつかめないでしょう。早く社会をモデル化します。それが未唯空間の役割です。

人間関係

 思いを伝えたり、聞いたりするために販売店には行くけど、それ以外は不要です。人間関係はいらない。システム担当者に意思がないことは、先進販売店へのヒアリングで判断しました。彼らの仕事は助けるのはどうでもいいです。そんなことよりも店舗の活性化です。

あるはずがない

 銀河宇宙はあるはずがない。あったとしても、小さなものです。グランド・ツアーもないです。あると思いたいだけです。今とか将来から発想しないとダメです。過去から積み上げてここに来たわけではない。

 人間原理というのを使うのは止めましょう。これは真理です。原理ではない。観察するものと被写体が同一である限り、観察するものが優位でないとダメです。観察するものがなくなれば、被写体は全てなくなるのだから。終わりとは何かというと、終わりです。

電話と通信

 電話と通信はもっと重ね合わせないといけない。その仲介をするのはスマホとかタブレットでしょう。iPadでいうところのiCloudです。それと音声です。データベースを多様化して、音声と文章の融合を始めます。

 話し言葉の世界とテキストの世界を自由に行き来できるようにすることです。チャッターにしても、今までは噂というカタチで音声でやってきているはずです。言葉になった所から、ライブラリが始まります。

 ICレコーダーとテキストとブログのような関係です。それに対して、人はどのようにして、コメントが付けられるのか。私の場合はコメントはありません。

 YES/Noボタンのような形で部分的にやるしかないです。発信者の人格に対して、どのように、コメントできるのか。非難しかできない。そういう個人の戯言とどのようにつなげていくのか。それがお客様との接点です。

 マクドナルドも一緒です。そのレベルでくっつけないといけない。本も皆、そんな形で来ます。大学に関する本、就職に関する本も読まれない限り一緒だし、コメントがない状態では勝手なことです。勝手なことをどう見るのか、自分の世界として見るのか、外なる世界と見るのかです。

 世界にアプローチして、どう変えていくのか、その部分です。クレーマーだけではダメです。そこから、スマートセンターの役割が出てきます。言葉を音声情報にして、データベースにして、世界とどう関わらせるのか。

映像の使い方

 次期ネットのターゲットは映像です。この5年間で、YouTubeなどで変わってしまった、映像をいかに自分たちのモノにしていくのか。と言っても、商売というよりも、YouTubeなどの安易さとか双方向性の世界で映像をもっと使っていきます。

 お客様との関係では、映像を仲介させます。これはかなり膨大な世界です。クレームもその中に入れれば、初めてお互いがつながると同時に、関係者に的確に伝わります。文章での表現力の比ではない。メーカーからのプロモーション情報をどうするかというレベルではない。

 方向としては、逆が主流になります。それに耐えられる仕組みが持つところが、お客様ニーズとタイアップできます。そこから、お互いの道具を作り上げていきます。単なるクレームよりも写真とか映像の方がインパクトがあります。全ての人が発信者になる時代に手を打つことになります。

「ヨーロッパ合衆国」への道筋

2012年03月27日 | 4.歴史
『世界の歴史』より ヨーロッパ世界の統合

二〇〇四年六月、ヨーロッパ連合傘下の二五ケ国国民がそれぞれの国で有権者として「統一憲法」導入の可否に関する総選挙に臨みました。しかし、その結果全有権者中わずか四三パーセントが賛成を表明したにすぎず、ヨーロッパ憲法の新規制定にかかわる案件は見事に否定されてしまったのです。

しかも、その際注目すべき現象が見られました。新たに加盟した右記一〇ケ国の有権者は、結果的に他の古参組加盟諸国との力関係において明らかに不利な状況に置かれていたという事実でした。さらには、加盟国のほぼすべての有権者に見聞された事態だったのですが、この憲法草案に積極的対応をした国内の与党・政府以上に、ヨーロッパ連合の動きを最初から批判してきた野党勢力の方が国民からより多くの支持を獲得するという驚くべき結果が出現したのです。

域内選挙から数日も経たぬうちに、事態を重く見た加盟二五力国の元首・政府関係者たちは急ぎ参集し、起草委員会から提出されていた憲法草案を再度徹底的に検証しました。長時間にわたり白熱した議論が続きました。その後に、彼らは参加二五ケ国全員の意思として最小限の共通理解を確認し合い一定の合意に達したのです。不名誉な挫折をこれ以上繰り返すことなく、破綻を何とか回避することに成功しました。ここで確認された合意と一致によって、ヨーロッパ現代史上初めて“人間理解に関する共通の前提”が承認され、確立したわけです。少なくとも、ヨーロッパ連合に加盟する二五ケ国における人権理解の共有化がなされたといってよいでしょう。

首脳会議で合意された諸事項を詳細に見るならば、先ずより強力な権限がヨーロッパ議会に付与されたという事実が理解できます。けれども、これは以前も同様だったのですが、この議会がヨーロッパ委員会を組織する権限まで掌握しているわけではありません。“ヨーロッパ政府”でもあるこのヨーロッパ委員会の議長(委員長)と構成メンバー(委員)の選任は、ヨーロッパ議会によってではなく、どこまでも連合加盟国の政府・議会によってなされなければならないという規約です。

これらと並んで、白熱の議論が続いた案件は「議事の進行と議決手続き」をめぐる平等と公平性の問題でした。加盟国の中で、大国といわれる国々はやはり自国のより強い影響力を議会で行使したいと考えがちです。また、小国とされている国々はヨーロッパ連合内での議事の審議と決定を単に“承認する”役割だけではなく、自分たちも対等に審議と決定に“参加する”権利を強く要求するに至ったのです。錯綜した利害関係の調整努力の結果として、連合内議事の審議と決定に関する手続きは、文字通り複雑多岐に及ぶ内容になってしまいました。それが後日域内各国で、人々が“一重多数決の原理”と揶揄しながら呼ぶに至った難解な審議・議決プロセスです。すなわち、正式な議決には加盟諸国の五五パーセント、あるいはそれ以上の賛成が要求される。と同時に、そこには最少一五ケ国の同意が伴わなければならない。さらには、その案件に関して加盟諸国で最少六五パーセントを超える賛成が前提とされなければならないと同時に、議決に反対意思を正式表明するには、加盟国の中に最少四ケ国の支持を獲得しなければならない--こういった、まさに複雑、かつ難解な議決プロセスが導入されたわけです。

組織面を見ると、新しく導入された「外務大臣」の職責と権限が注目に値するでしょう。彼(または、彼女)は、ヨーロッパ連合全体の外交、および安全保障にかかわる政策を統括し、同時に実行に移すという重い責任を担います。同時に、この外相職は、ヨーロッパ委員会の中で副議長を兼任します。換言すれば、この新設外相職は、ヨーロッパ連合における第二位の立場に身を置くことになるわけです。

ヨーロッパ憲法の導入の可否に関して、加盟国は二〇〇七年末までにそれぞれの国で国民投票を通して結論を出さなければなりません。しかも、この案件にも以前同様全会一致の原則が貫徹されなければならないでしょう。それ以外の有効な法的拘束力はないからです。しかし、そうした手続きがはたして順調に進展するのでしょうか。すでに、その成果に関して多くの人々が疑念と批判を投げかけています。そうした声は、最初の段階から存在していました。

二〇〇五年五月以降のヨーロッパ連合の情勢を見る限り、疑念と批判は確かに的中しています。フランスとオランダは、国民投票を通してこの「ヨーロッパ憲法」草案を全的に拒否したのです。まさに、国民の不安心理がそこに具体的な形を取って現出したわけです。とりわけ、そこで人々が抱いた共通の懸念と危惧は、今や肥大化し過ぎた(といわれる)ヨーロッパ連合の機構の官僚化と、この間増加した加盟国のさらなる増大化現象に対して向けられました。すなわち、これらの不安や心配は、かつてヨーロッパの国民が素朴に抱いていた“ヨーロッパ全体の統合化”(ヨーロッパの家の建設)という懐かしいアイデンティティが、連合機構の官僚化や加盟国の急激な増加によって消滅してしまうのではないかという深層心理だったのです。フランスとオランダにおける国民投票の否定的結果が、今後他の加盟諸国にどのような影響を与えることになるのか--それは、もちろん明確ではありません。しかし、今確かなことは、“ヨーロッパ合衆国”の建設に邁進してきた域内関係国や指導者たちが、確固たる信念を抱いて大陸ヨーロッパの統合と一体化に向けた真摯な努力を今後とも重ねていかなければならないであろうということです。

イスラム教の共同体

2012年03月27日 | 4.歴史
209『世界の歴史』より 世界宗教の出現--キリスト教とイスラム教

ムハンマドの教え、換言すればアラー神への信仰と信者の生活は、コーランと呼ばれる宗教文書にまとめられています。イスラム教は、この“聖なる書物”の教えを絶対的真理として受容する位相から出発した宗教であると考えてよいでしょう。イスラームという言葉には、“神への恭順へ”“神のための献身”といった意味があります。また、コーランの別名が聖なる文書であることは先に触れた通りです。このコーランにはイスラム教徒の遵守すべき信仰生活が、非常に厳格、同時に詳細に記されています。それは具体的な毎日の生活に関するきわめて詳細な規定や規則を含んでいるのです。例えば、信者は「日に五回、メッカに向かって拝礼をすること」や、「食事の際、許される肉類と忌むべきそれとを峻別しなければならない」などといった具体的指示まで明記されています。行動や言葉における禁止事項、違反が決して許されない倫理的・道徳的規範の明示と処罰規定の記載などがここには具体的に記されているわけです。

ユダヤ教とキリスト教、そしてイスラム教の間には、共通点がいくつか存在すると同時に、三宗教間の質的な相違も当然あります。例えば、顕著な相違点として考えられるのは、共同体理解に関する決定的相違です。イスラム教では、宗教の概念の中に単なる信徒同士の共同体生活を越えて、現世の世俗的世界(国家・社会・政治・経済・文学など)も明確に位置づけられているのです。コーランは単なる宗教生活だけではなく、社会的・政治的領域に関する厳格な規定をも明示しているということです。換言すれば、キリスト教世界でしばしば問題とされる「宗教と政治」、「教会と国家」、あるいは「信仰生活と世俗的・一般的社会生活」などは、イスラム教の場合すべてアラーの神への信仰と関連づけて考察しなければならないわけです。ヨーロッパ中世に出現した「政治と宗教」の分離、関係の明確化といったテーマは、イスラム教では最初から存在しません。コーランのこういった教説は、中世初期の七世紀だけではなく、二一世紀の現代においても通用する真理だと、考えられているのです。まさに、ここに他の二宗教とは異なるイスラム教の際立った特徴があるというべきでしょう。社会にせよ、国家にせよ、すべての領域がアラー神信仰の下位に位置づけられている--これがイスラム教の世界です。

元来、イスラム教にはきわめて寛容な精神がそこに存在していました。また、現在でもその寛容性は存在しているはずです。しかし同時にこの宗教には権威主義的・非寛容な思想が並存しているといわざるをえません。

ムハンマドの死後、すでに言及したカリフが後継者として信徒集団の指導の任を引き受けます。彼に続くその後の数百年間に、アラブ系イスラム教徒は、現代の中・近東(西アジア)地域へ勢力を拡大していきます。アフリカ北部に位置するエジプトと地中海沿岸地域から始まり、イスラム勢力は大陸ヨーロッパ南西部のスペインやポルトガル、あるいはフランスにまで進攻していきました。そうした激しい行動に彼らを駆り立て、外敵勢力を壊滅させようとする動機は、ただ一つです。すなわち、唯一神アラーに対する絶対的な、堅忍不抜の信仰と服従の結果なのです。この神の意思に心服して、彼らは信奉するイスラム教の拡大に努めたわけです。しかも、そこには戦闘の最中に落命した信徒は必ずやパラダイスに迎え入れられるのだという堅固な確信が支配していました。ですから、戦争はジハード、すなわちアラーの神のための“聖戦”になりうるのです。