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全体は部分の総和にすぎないのか

『哲学がわかる形而上学』より 全体は部分の総和にすぎないのか

部分のなかにまた部分

 そもそも、単純なものが存在しなければならないと考える理由はなんだろうか。多くの場合、部分のなかにはさらに部分を見いだせる。たとえば自動車のエンジンがそうである。では、そのようなパターンがいつまでも続いていて、どんな部分のなかにも必ず部分がある、と考えてはならない理由はなにかあるのだろうか。

 部分のなかに部分があるという系列は、ともかくどこかで終わらなければならない、と強く主張されることがある。複合的なものはいずれも、複合的でないものを拠りどころにしていなければならない、というわけだ。すでに確認したように、観察から得られる証拠によってこの主張を裏づけることはできない。小さすぎて観察できないような隠れた部分があるかもしれないからである。他方で、理屈だけの力によってこの考え方が強制されることもないようにみえる。つまり、この世界には無限の複雑性が備わっていて、部分はどこまでも果てしなく小さくなっていくと仮定しても、矛盾は生じないように思われる。無限の複雑性がありえないことを示す決定的な論証は、存在しないように思われるのだ。したがって、単純なものがなければならないと信じている人は、なんらかの別の考えを基礎にしてそう信じているはずである。

 原子論と呼ばれる哲学的立場がある。問題の主張の基礎になっているのはひょっとするとこの立場かもしれない。原子論に与するということは、原子ないし原子的部分が存在すると信じる、ということである。ここで「原子」という言葉は、その元来の意味で用いられている。つまり、ありうるもっとも小さなもの、それゆえ分割不可能であるもののことだ。化学の理論に現れる原子は、この意味で原子的であるわけではない。周期表に示されている原子の数々には、それぞれ陽子・中性子・電子が部分として含まれている。哲学的な意味での原子論者とは、ありうる最小の構成単位がどのようなものであれ、すべてはその最小単位から形成されている、と信じる人である。原子論者の考えによれば、少なくとも理論的には、各々の原子がどこに位置しているのか、そしてそれらがそれぞれどのようなあり方をしているのかを述べることだけによって、世界の完全な記述が手に入れられる。そうすること「だけ」によって、という言い方をしたが、もちろんその作業は膨大なものになるはずだ。それは、人類史上これまで成し遂げられた他のどんな作業よりも巨大だろう。とはいえ、その作業は原理的には遂行可能だろうし、多くの場合、哲学者にとって重要なのはその点だけなのである。

 前述のことから明らかなように、どのような形態の原子論であれ、それをとくに強く支持するような証拠は存在しない。原子論は証拠によって強制されたものというよりむしろ、すぐれて哲学的な立場なのである。自らの立場は科学的な精神に則ったものだと信じているような原子論者がいたとしても、それは同じである。いかなる意味でも、決定的な仕方で原子論が証明されているわけではないが、それでも、原子論は説得力のある仮説だと考える余地はおそらくあるだろう。

 さて以上は、この章で本来論じるべき問題のいわば前置きのようなものである。ここで論じるべき当の問題とは、本章の冒頭で述べた、全体とその部分とのあいだの関係をめぐる問題である。全体は、なんらかの意味で、部分の総和以上のものだろうか。それとも、全体は部分の総和にすぎないだろうか。この問いはもしかすると奇妙なものにみえるかもしれない。しかし以下で明らかになる--と私は願うが--ように、実際のところこうした問いは、重大な哲学的意義をもっているのである。

 たしかに、全体が部分の総和にすぎないようにみえる事例はたくさんある。例として、積み上げられた石の山を考えよう。一〇〇個ほどの石がその山に含まれていると想定してよい。その石の山は、一つの全体として捉えることができる。このときその山は、一〇〇個の別々の石を寄せ集めたものにすぎないようにみえる。しかしこの場合でも、全体がもつ諸々の性質のなかには、部分がもっている性質ではないものがある、ということがわかる。その石の山の高さが一メートルであると仮定しよう。山そのものとは異なり、その山に含まれている個々の石はいずれも、高さ一メートルではない。各々の石の高さは、それよりもかなり小さいわけである。だがこのような全体と部分の違いには、とくに驚くべきところはないと考えられるだろう。石の山の全体は、でこぼこしたピラミッド状の構造物として形成されている。個々の石の高さはどれもそれほど大きくないが、ある石が別の石のおおよそてっぺんに乗せられるということがくりかえされ、それぞれの高さが合わさって全体として個々の石のいずれよりも大きな高さの山ができるように、それらの石が配列されている。それぞれの石の高さは、適切な配列があれば、全体の高さが生じる要因になりうるのである。こうして、石の山という全体に、その部分のもっていない性質が備わっているということは、部分とその配列によって完全に説明することができる。

 ここまでのところは順調だが、もう少し複雑にみえる事例もある。もう一度、携帯電話について考えよう。携帯電話は、石の山と同じ特徴をいくつかもっている。たとえばその全長は、ひとえに部分の配列によって生じたものである。しかし、携帯電話がもっている性質のなかには、説明がそれほどかんたんではないものもあるように思われる。実際、携帯電話の諸々の機能は、説明するのがたいへん難しいものを含んでいる。たとえば音響信号の送受信という機能があり、それによって、距離を隔てて会話することが可能になっている。現行の携帯電話の大半は、その他にも広範囲にわたるさまざまな機能を備えている。たとえば、インターネットヘのアクセス、写真の撮影と保存、音楽の再生などができる。

 実に驚くべきこのような機能の数々は、長さの場合とは異なる種類の事例であるようにみえる。長さの場合には、全体の性質は部分がすでにもっているものであり、全体のほうがその量が大きいというだけだった。各々の部分がもつ長さが合わさって、全体の長さが生じたのである。それに対して、携帯電話がもっているはたらきのいくつかに関しては、当該の機能をほんの少しでももっているものが個々の部分のなかに含まれているようには思われない。それゆえ、そうした事例と長さの事例とのあいだには類比が成り立たないところがある。携帯電話の下半分の下半分は、おそらく全体の四分の一の長さをもっているだろう。それに対して、その部分によって四分の一の通話ができる、などということはない。こうした類比の不成立が示唆しているのは、次のことである。あるケースでは、性質は程度の違いを許容するものであり、全体のほうがそれをより多くもつという点だけで全体と部分が異なっている。しかし他のケースでは、部分がまったくもっていないような性質を全体が備えている。このような違いは、私たちの語り方に反映されることがある。たとえば、電話機は全体としてのみ「電話機」と呼ばれるのであって、電話機の部分はいずれも電話機ではない。それに対して、積み上げられた石の山の場合には、全体に帰属させられている性質のいくつか--その高さなど--は、全体より小さな程度においてではあるが部分にも帰属させることができるものである。

基礎を求めてなにがそんなに楽しいのか

 世界はどのように成り立っているのか。そして、世界について探究するさまざまな科学はそれぞれ互いにどのような関係にあるのか。こうした問いへの答えとして提示しうる描像には、二つのものがある。一つは、世界を逆ピラミッドのように捉えるものである。その最下層には一つの科学があり、他のすべてはそれに基づいているとされる。大半の還元主義者の考えでは、最下層にあるのは物理科学である。とくに、素粒子とそれを支配する法則とを扱う基礎物理学がその位置にあるとされるだろう。物理学の上には化学のような他の諸科学が置かれ、それらの上には生物学が置かれるはずだ。さらにその上には、心理学、経済学、社会学、人類学といった「科学」があるだろう。しかし究極的には、すべては物理学に基づいており、どんなことも物理学によって説明される--還元主義者はそう考える。いかなる真理についても、それがまさに真であるのは、基礎的な粒子の特定の配列と物理学の法則があるからだ、というわけである。

 これと対立する描像においては、少なくともいくつかの科学は互いにある程度の独立性をもっている。例として生物学を考えよう。ただし、生命は右でみたような意味での創発的性質であるとしておく。一部の人々は、あらゆる生物学的真理を生化学的真理に還元しようとしてきた。そうした人々によれば、生物学が問題にしているのは結局のところDNA以外のなにものでもない。そして、DNA〔についての真理〕は化学的真理へと、また究極的には物理学的真理へと還元することができる、とされる。しかし、このような主張に反して、部分の総和には尽きない全体として生物を説明しなければならないことを示す、説得力のある根拠がいくつか存在する。たとえば進化論の自然選択説において、選択がはたらく対象はかなり高次の性質である。キリンに対して、食べ物を得るときに競争相手よりも有利になるという状況を生みだすのは、キリンが長い首をもつということであって、キリンのDNAに直接的に関係していることではまったくない。

 ある見方をすれば、一つの全体としての生物は、全体のレベルで必要となるものを得る手段として自らのDNAを利用しているように思われる。それが正しければ、キリンという全体に備わる観察可能な巨視的性質が、キリンについての微視的な物理学的事実によって決定されている、ということはないはずであり、それどころか実際は逆のはずである。生物は、生き死にや捕食や飢えをくりかえし、ときには生殖を行うが、それらが起こるのは生物の全体においてなのであって、その遺伝子やそれを構成する分子においてではない。ある人の遺伝子が散歩に出かけた、などというのは混乱した言い方に聞こえる。歩くのは人に他ならないからだ。同様に、ものを見るのは人に他ならない。目でさえも、なにかを見ているわけではない。目は、私たちがものを見るのに使う器官にすぎないからである。また、私たちの体のさまざまな部分は、それ自身が生きているとか有機体であるとか言われることもあるが、いずれも一つの生物ではないし、全体から切り離されてしまえばそう長くないうちに壊死してしまうだろう。手が体から切り離されたときにどれだけ長く壊死せずにいられるかを考えてみればよい(そういえば、一九四六年公開の『五本指の野獣』という映画を観たことがある。しかしあの映画はただの空想にすぎない)。

 これらの考察は決定的なものではないが、ある考え方に少なくとも一定の魅力があることを示していると言えるかもしれない。その考え方は、全体論と呼ばれている。全体はある意味で、部分に対して先行性をもっている--これが全体論のアイディアだ。先行性という概念は、多様な仕方で説明することができる。全体は部分に先行しているという考えがどのように還元主義者によって否定されることになるかは、すでにこれまでの議論で確認している。還元主義者は、部分についての事実によって全体についての事実が決定されると主張するのだった。全体論者はこの主張にさまざまな仕方で応答することができるが、それもすでに確認している。一つのやり方は、進化における選択のような事例を引きあいに出す、というものだった。そうした事例においては、全体についての事実が部分についての事実を決定しているようにみえる。還元主義を拒否する方法としてはさらに、本章の標題になっている問いに否定的に答える、というのもあった。つまり、全体は実際のところ、たんなる部分の総和と配列には尽きないものだと主張するのである。

 心の哲学と生物学の哲学では、どちらにおいても、還元主義と創発主義をめぐる問題が現在の論争の中心部に位置している。この問題領域で形而上学が果たすべき役割は、創発主義が正しいとすればそれはなにを意味するのか、ということの明確化だ。私たちはまだその内容を明確にできてはおらず、この点に関するさらなる進歩は、未来の形而上学者たちによってもたらされることが望まれる。あるものがその部分以上のものであるとはどのようなことか--それは今後さらに探究しなければならない問題なのである。
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数の言葉と言葉の意味の獲得 (三文字(i e π)寄れば文殊のヒフミヨ)
2023-10-21 07:34:14
 ≪…全体は部分の総和にすぎないのか…≫を、数の言葉ヒフミヨ(1234)の『刀札』からの『幻のマスキングテープ』の10までの物差しは、その両端に数の進む向きと物差しの裏表も持ち合わせさせる。
 数の進む自然数の素数模様が、数が右に進んだ素数と左に進んだ素数とでジグザグの『刀札』模様が完成する。

 部分の[1]と全体[10]が融合し、言葉の世界の[右][左][表][裏]の意味を創るのを10までの『幻のマスキングテープ』で知る。。
 
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