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イギリス近現代史 宥和政策

『イギリス近現代史』より

ナチスの領土的野心とイギリスの対応

 公然と侵略を企て、国際秩序をかく乱しようとする国家や侵略者に対して力で反撃し、これを食い止めるのではなく、侵略を企てる国家や勢力の野望を「ある程度」受け入れる。そうすることで侵略者を宥め、それ以上の侵略を抑え込み、国際秩序全体の動揺や崩壊を回避する外交のあり方を一般的に宥和政策と呼ぶ。こうした外交様式は近代国際関係において、しばしば大国の行動にみられるものであったが、特に歴史の中で注目されるようになったのは、1930年代のイギリスの対ドイツ政策においてであった。

 戦わずに危機を収めることが可能であることから、当時までの国際関係では宥和政策は平和政策の一種であるとの見方もあった。しかし1930年代に展開された宥和政策は国際秩序全体の維持にっながらず、最終的に第二次世界大戦をまねいてしまったことから、以後、批判的に捉えられるようになった。

 1933年にナチス政権が成立すると、イギリスを含めた周辺国は、ドイツが対外侵略行動を展開し、第一次世界大戦後の国際秩序の根幹とみなされていたヴエルサイユ条約を履行しなくなることを懸念した。特にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーは、以前からヴェルサイユ条約に対する不満や敵意をあらわにし、国境線の変更を含む要求を繰り返していた。これに対してイギリスの中でも特に宥和主義者として知られていたネヴィル・チェンバレンは、1937年に首相に就任すると、同様に宥和主義者であったハリファクスをヒトラーのもとに派遣し、次のようにドイツの領土的野心を「ある程度」認めると受け取れる言質を与えた。ハリファクスは、オーストリア、ダンツィヒ(ポーランド領)。ズデーテン(チェコスロヴァキア領)など具体的地名に言及し、「これらの地における問題は現状のままでは止まり得ないだろう」として、ヒトラーが望んできた主要な「領土問題の解決」を事実上、認めた。これに加えてハリファクスは、「イギリスの関心は、これらについての現状が変更されるかどうかにあるのではなく、現状変更がなされる場合、これが平和的になされるかどうかにある」と伝えたのである。これはドイツにとっては、イギリスから事実上、領土的野心を認めてもらえたも同然と受け取れるものであった。のちにドイツはオーストリアを併合し、ズデーテン地方を併合し、チェコスロヴァキアを解体するという領土的侵略を行い、最終的にポーランドヘ軍事侵攻することで、第二次世界大戦勃発のきっかけをつくることになる。オーストリアやチェコスロヴァキアの侵略と異なり、ポーランド侵攻は明白に戦争というかたちをとったことで、ドイツはハリファクスの言質を踏み外したわけである。

 イギリスのドイツに対する宥和政策は、このハリファクスーヒトラー会談以前にも展開されている。たとえばボールドウィンは首相に就任してまもなく、ドイツと単独で英独海軍協定を成立させ、ドイツ海軍力の一定の拡大を容認しイギリス海軍との住み分けを図った。これは前首相マクドナルドがフランス、イタリアとともにドイツの再軍備に対抗することを目的とした結束を約束したストレーザ戦線宣言のわずか3ヵ月後のことであった。

ミュンヘン会談

 イギリスはドイツによるオーストリア併合についても事実上黙認したばかりか、かつてのドイツのアフリカ植民地をドイッヘ復帰させることさえ提案している。さらに宥和政策の頂点としてのちに語られることになるのがミュンヘン会談とそこで調印に至ったミュンヘン協定である。チェコスロヴァキア領ズデーテンをドイッヘ併合しようとするヒトラーの桐喝に直面し、英仏は連携してチェコスロヴァキア政府に圧力をかけ併合反対の動きを抑圧し、ドイツが望んだ「領土問題の解決」を取り付けることに外交努力を注ぐ。こうしてミュンヘン会談で、チェコスロヴァキア政府の意に反して、イギリス、フランス、イタリアも合意するかたちでズデーテンのドイッヘの割譲を承認する議定書が発効することになった。ただしミュンヘン協定と引き換えに、以後、ヨーロッパにおける領土的野心をもたないとの確約をドイツから取り付けた。このことから戦争も辞さない構えだったドイツを宥め、戦わずしてヨーロッパの平和を達成したということでイギリスの宥和政策は成功したかに見えた。宥和政策への反対論は当時のイギリス政府内でも少なくなかったものの主流ではなく、宥和政策は侵略者に対する譲歩というよりは、「平和政策」として捉えられる向きが強かった。

 しかし結局、その後のドイツの対外膨張行動を抑えることはできず、第二次世界大戦を導いてしまうことになる。このことからイギリスが中心となって展開した宥和政策は、侵略者に譲歩し、国際秩序を崩壊に至らしめた悪しき外交であったとの含意が置かれるようになった。

 第一次世界大戦後、すっかり疲弊したイギリスは、大きな軍事力をもつことをたとえ希望しても叶わなかったという事情があった。挑戦国を抑えるに十分な軍事力がもてない状況においては、イギリスの宥和政策は時代との親和性が高かったのである。
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イギリス近現代史 日英同盟の盛衰

『イギリス近現代史』より

同盟までの道のり

 日英同盟は、1902年1月、ロシアが清(中国)と朝鮮半島へ進出する事態に備えて、イギリスと日本の間で締結された軍事同盟であった。同盟は、帝国主義の時代を迎えた東アジアをめぐる列強外交の重要な局面をなした。

 イギリスは、アヘン戦争(1840~42年)とアロー戦争(1856~60年)を通して、清に対して開港を迫り、領事裁判権など数々の不平等条約を突き付け、さらには香港島など国土の割譲や租借を強要した。こうして清を半植民地状態においたイギリスは、その東アジア貿易の量を拡大させたが、経済的・軍事的外圧は清国内で大きな反発を引き起こし、政治的不安定を招くことになった。イギリスは、そうした状況に付け込んで権益拡張を目論む他の列強をけん制し、さらには自国の商業権益を保護するために、次第に介入の度を深めていった。

 日清戦争における清の敗北は、東アジア情勢に風雲急を告げる変化をもたらした。1895年の下関講和条約によって、日本は遼東半島や台湾などの領土割譲を清に認めさせたが、ロシアがこれに強く反発した。ロシアは、フランスとドイツを誘って領土割譲に反対し(三国干渉)、さらには多額の賠償金支払いにあえぐ清に接近し、フランスとともに借款を決定し、その見返りとして数々の権益を要求した。ロシアはさらに、1898年には遼東半島を租借地とし、1900年の義和団事件に乗じては満州を占領し、朝鮮半島をも窺う姿勢をみせた。

 こうして清か次第に列強の草刈り場へと化していく中で、ボーア戦争の長期化によって余分な戦力を避けなかったイギリスは、ロシアのさらなる膨張を食い止めるために、同様に強い警戒心を抱く日本との同盟を模索し始めた。

同盟の内容

 日英同盟は、1902年に締結された。そこで日英両国は、第三国が清と朝鮮に対して侵略的行為に及び、戦争に発展した際の中立を約した。日本は、これを背景に日露戦争を戦い、イギリスも忠実に中立的立場を守った。そればかりか、イギリスはスエズ運河をはじめ植民地各地の主要港の立ち入りを制限し、ロシアのバルチック艦隊の極東回航を妨害して、日本の軍事的優勢に貢献した。

 日露戦争終結間際の1905年8月に改定された第二次日英同盟は、適用範囲をイギリスのインド権益にまで拡大し、さらに第三国からの攻撃に対する相互の参戦義務を約するなど、いっそう踏み込んだ軍事同盟の性格を帯びた。

 日英同盟は、1911年7月に再び改定された。第三次日英同盟では、日露戦争後の日本の満州侵出をめぐって悪化した日米関係を懸念するイギリスが、アメリカを交戦対象国から除外することを希望し、その趣旨が盛り込まれた。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は同盟に基づき連合国側として参戦し、膠州湾租借地と南洋諸島にあるドイツの軍事拠点を攻略した。

 日本はさらに、インド洋、地中海、南太平洋に艦隊を派遣し、各地で護衛任務に従事した。

同盟の解消

 イギリスは、大戦中に日本が「二十一力条の要求」を通して極東権益を強硬に主張し始めると、同盟相手でありながらも日本に警戒心を抱くようになった。日本の満州侵出に危機感を抱いてきたアメリカも、日英同盟の破棄を望むようになっていた。1921年、こうしたアメリカの意向を背景に開催されたワシントン(軍縮)会議は、アメリカ、イギリス、フランス、日本の4カ国条約の締結をもたらし、アジア太平洋地域における植民地領土と権益の相互承認を取り決めた。このとき、日英同盟はちょうど満期を迎えていたが、この新条約の締結によって拡大解消されるものとし、更新はされなかった。1923年8月17日、日英同盟は正式に失効し、およそ20年間の歴史に幕を閉じることとなる。

 このように日英同盟は、20世紀初頭の帝国主義の時代にあって、アジアにおける日英両国の植民地権益を支え続けた。イギリスにとって日英同盟は、「光栄ある孤立」の外交姿勢を改める軍事同盟であった。他方、日本は欧米列強との初の軍事同盟を結ぶことにより、新興帝国主義国としての立場向上をはかる機会を得た。同盟は、日露戦争における日本の勝利にも貢献し、さらには第一次世界大戦への日本の参戦を促す重要な役割を担った。要するに日英同盟は、ワシントン会議によってアジア太平洋の国際秩序に一定のレールが敷かれるまで、東アジアの帝国主義秩序を支える重要な歴史的意義を有したのである。
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感情日記の書き方Q&A

『日記を書くと血圧が下がる』 感情日記の書き方Q&A

Q&A:なにを書けばいいのか、よくわかりません

 心が揺れたことを探してみましよう

 やはりテーマ選びに悩むこともあれば、書くべきことがなにもないような気がする場合もあるかもしれません。

 感情日記に最適のテーマは、ストレスを感じたこと、心の傷になっているような出来事などです。それは、過去に起きたことでも、最近の出来事でもかまいません。

 テーマがうまく思い浮かばないときは、はじめは「気持ちが少しでも高ぶった出来事」や「落ち込んでしまった出来事」という視点で探してみてください。

 大きな出来事でなくても、だれかとの会話の中でふと心が揺れた、仕事や人間関係の中でなぜか苛立ってしまったなど此細なことでもかまいません。小さなことでも心が動いた出来事なら、感情や洞察の記述もふくらみやすいのです。

Q&A:感情といわれても、よくわからないのですが

 ワンワードで表現できるのが感情

 この質問は多くの人からいただきます。とくによ〝感情〟と〝思考〟の区別がつかないという人が多いようです。

 〝感情〟は〝気分〟と言い換えることもできます。うれしい、悲しい、好き、嫌い、楽しい、イライラする、ホッとする、不安だ、困った、情けないといったもので、そのほとんどは一つの言葉(ワンワード)で表現することができます。

 それに対し〝思考〟は、一緒にいたい、理由が知りたい、ここにいてもいいのかといったようにいくつかの単語をつなげないと表現することができません。自分が書いたことが感情と思考のどちらなのかがわからなくなったときは、この「ワンワードで言えているかどうか」でチェックしてみてください。

 また、がまん強い人や、感情を外に出すことに恥ずかしさや嫌悪感のある人は、日記においても感情表現にブレーキがかかりがちです。

 日ごろから感情を出さない人の中には、自分の中にそんな感情があることに気づいていない場合もあります。すると、書いているつもりでも、感情の記述が不十分になりがちなので、「感情について書いているか」としばしば確認しながら進めていくといいでしょう。

 反対に、うれしかった、いやだったなど、感情的なことがつい先に出てきてしまうという人もいますが、出来事・感情・洞察(考え)の3要素が含まれていれば、日記の入口はどこでもかまいませんし、文章の順序がどのようになってもかまいません。洞察から入ると書きやすいという人は、それでもちろんけっこうです。あなたはどのタイプでしょうか。左記を参考にしてください。

Q&A:いやな出来事についても、書かなければいけないのですか?

 よいことも、悪いことも、バランスよく

 よいことも、悪いことも、バランスよく、なるべく書いてください。感情日記の研究では、多くの場合はハートの奥に痛みを感じるようなネガティブな感情をあらためて感じとることで、それを解消し、心身のストレスを和らげていくという報告がなされています。

 一次感情にふれるときは苦痛を伴いますし、一時的にはつらさも生まれますが、そのあとは浄化されたようなスッキリとした気持ちになれます。ただし、しっかりと一次感情に向き合わないと、かえって苦痛だけを中途半端に感じることとなり、またネガティブな感情から回避している状態に戻ってしまいます。すると、表面的ないやな二次感情を感じるだけになり、「日記なんか、書かなければよかった」ということになってしまうことも少なくありません。

 なかにはポジティブな感情を感じられないという人もいますが、これも一次感情を十分に感じていないときに見られる現象です。ネガティブな一次感情に向き合わないために、ポジティブな一次感情を感じとることもできないというマヒした状態になってしまうのです。

 入は、ネガティブな感情だけを感じるようにはできていません。悲しみなどネガティブな感情をしっかりと感じることが可能になると、一方では喜びなどのポジティブな感情も自然に感じることができるようになってきます。その逆に、ポジティブな感情を少しずつでも感じることで、悲しみなどのネガティブな感情も、より深く、より自然に感じられるようになるのです。

 実際の日記研究でも、「ネガティブな話題について書いているときに、肯定的な感情を多く感じることができたとしたら、それはネガティブな一次感情により深くふれることにつながり、結果、日記の効果を多く得ることができる」と報告されています。

 つまり、日記には、楽しいこと、うれしいことのみならず、落ち込んだ出来事、怒りを感じた出来事などもバランスよく出てくることが大切なのです。

 時間があれば、1週間の日記を見返して、いいこと、悪いことをどんなバランスで書いているかをチェックしてみてください。そして、どちらかに偏っているようでしたら、その後のテーマ選びの際に少しずつ修正していくよう努力してみましょう。

Q&A:昔の思い出が湧いてきたら、それを書いてもいいですか?

 古い出来事を書くと、大きな効果が期待できる

 日記に書く内容は、その日の出来事にかぎる必要はありません。なにかのテーマについて書いていて、昔のことが思い出されるというのはごく自然なことです。小さいころの夢の話、古い失恋のこと、会社の新人時代の思い出、母親に理不尽に怒られたことなど、振り返ればいろいろあるでしょう。

 じつは多くの日記研究から、昔話を書くことは、最近のことについて書くこと以上に大きな効果が期待できることがわかっています。

 第2章でもお話ししたように、とくにつらい経験をした場合は、長年にわたってさまざまな感情が蓄積していたり、そのときに感じた不安や恐怖がいまだにその人を苦しめたりしていることがあります。

 それらの出来事に日記を通じて向き合うことは、一次感情を感じきり、浄化することに結びつきます。それによって、心身の不調の要因となる二次反応も自然に消えていくことが期待できるのです。

Q&A:感情は湧いてこないのに、体に反応が出てしまいます

 体のほてりもドキドキも、正常な反応

 日記を書いていると、体に反応が出ることもあります。カッカカッカと体が熱くなるとか、興奮してドキドキするとか、吐き気がするとか、なかなか寝つけないなどといったものです。こんな反応があると不安になる人もいるかと思いますが、これも一つの正常な反応ですから、心配することはありません。

 怒り・怖さといった感情がなかなか表現できないという人も、よく見ると体には反応が出ていることはよくあります。

 どんな人でも崖の上に立たされればドキドキしてふるえるように、T沢感情を強く感じているときは、体の症状も強まりますし、体の反応が強く出れば、一次感情も高まるように人はできています。ところが、一次感情に向き合わないでいると、身体感覚が鈍くなったり、感じ方が歪んだりすることも多いのです。

 心身が蝕まれているときは、本来感じるべき一次身体感覚を感じられなくなる〝失体感症〟を抱えている場合も少なくありません。たとえば、過労慣れした人がいくら働いても感じるべき疲労を感じないということは多く、そんなとき歪んだ疲労反応として頭痛や耳鳴り、めまいといった病的な二次身体反応に苦しむといったことはよく見られる現象です。

 治療の場面では、そうした人々にはまず身体感覚を適切に感じる練習をしてもらい、その後、徐々に自分の一次感情に迫るトレーニングを行ったりもします。

 逆に、この質問の場合のように、体の反応ばかりが出てくるという実感をもつ人は、「身体感覚は感じられるけど、それが深い感情には結びついていかない」というパターンといえます。

 これに気づいたときは、一次感情に向き合ういい機会ともいえます。身体感覚は一次感情に迫る重要な手がかりともいわれますので、その感覚の訪れとともに、自分の中でどのような深い感情が呼びさまされてくるかを意識してみてください。繰り返し日記を書いていくことで、自分でも気づいていなかった一次感情や洞察が深まってくることでしょう。

 感情に向き合っているときは、自分の呼吸や心臓の鼓動に注意深く耳を傾け、小さなさざ波を拾うかのように体の声を聞いてあげることも大切です。そして、もし、なんらかの身体反応が起こっていたら、それもぜひ日記に記録するとよいでしょう。
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目標としての生涯学習社会の実現

『教育と比較の眼』より 学校と生涯学習体系の再構築に向けて

日本における政府の生涯学習政策の動向をたどってみると、生涯学習社会の実現は道半ばで、いまだに目標あるいは理念の段階にとどまっているといってよいだろう。生涯学習という言葉には文脈に応じてさまざまな意味がこめられて使われ、実際の政策でも驚くほど多様で雑多ともいえる施策が次々に推進されてきた。また日本の生涯学習は学校教育と切り離されて拡大してきたところがあり、学習の内容も健康・スポーツや趣味的なもの、教養的なものが多く、仕事に関係のある知識の習得や資格の取得などはそれほど多くないのが特徴である。学習の場も公民館や生涯学習センターなどの公的な機関や、カルチャーセンターやスポーツクラブなどの民間の講座や教室が多いのに対して、職場の教育や研修とか、図書館や博物館、美術館などの利用者は相対的に少なく、大学や大学院、短期大学、専門学校などの学校で学び直す社会人の数もけっして多くない。

ところで、日本社会にふさわしい生涯学習のあり方を考える際には、なによりもまず目標としての生涯学習社会の具体的なイメージをある程度明確に描いてみる必要がある。教育基本法第三条の生涯学習の理念にならえば、生涯学習社会とは、一人ひとりが自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって能動的に学び続けることができ、その成果を適切に生かしていくことができる社会を意味する言葉である。それはこれからの日本の社会像として、知識基盤社会や成熟社会などといった特定の社会を想定するよりも、これからの時代を予測困難な時代ととらえ、どのような社会でもよりよく生きることができる人間像を重視する社会を想定している。

近未来の日本社会と教育改革

 実際に一九八〇年代以降の日本の歩みをふりかえってみても、社会の動きは予想以上に速く、その見通しはきわめて不鮮明だったから、それぞれの時点で、将来の社会像を具体的なレベルでどのように詳細に描いたとしても、そうした社会にふさわしい生涯学習を鮮明に構想することはできなかったように思われる。しかしこの本では、現在世界各国で行われている教育改革、とりわけ「小さな政府」の教育政策の動向を国際比較の観点から批判的にたどり、それらを手がかりにして日本の教育改革のあり方を探ってきたので、この三〇年ほどの社会や教育の動向をふまえて、近未来の日本社会と教育改革の特徴を、次のように大まかにとらえておきたい。

 結論から先にいえば、近未来の日本社会でも、「小さな政府」が社会のグローバル化に対応した国家政策を主導し、教育政策も「小さな政府」の考え方にもとづいて進められる。そしてその結果、さまざまな予想外の課題や問題が噴出してますます混迷の度を深め、教育改革の大幅な軌道修正を求める動きが加速されていくと予想される。

 教育改革を左右する社会的背景のなかで近年、最も影響力があったのは社会のグローバル化である。この社会のグローバル化はまず経済の領域で顕著にみられるようになり、続いて政治や文化の領域もグローバル化してきた。教育改革との関連でとくに重要なのは、教育が国民国家や国民の将来の経済的繁栄にとって重要だとみなす、国際的な合意が生まれたことである。日本でも他の国ぐにと同様に、人的資本論や教育投資論が華やかだった六〇年代に劣らず、あるいはそれ以上に教育の充実による国家の経済的生産性の維持・向上が求められるようになった。それは基礎的な教科を中心とした認知的教育を改革して、国民の知的文化的基盤をいっそう充実・向上させ、人的資源の全体的な底上げをはかるとともに、先端的な学術研究の推進と科学技術の発展を目指すものであまた(日本では注目されにくいが)、非認知的な教育である価値教育を通じて、多文化社会にふさわしい、ゆるやかな国民的アイデンティティを若い世代に身につけてもらうことも求められている。どの国も民族的構成や文化などの多様化が進んで、多文化社会としての特徴をもつようになったため、そうした社会にふさわしい国民国家として国家統合をはかる必要があるからだ。

 教育改革を左右する二つ目の社会的背景は、世界各国の政府の役割が一九八〇年代以降、「大きな政府」から「小さな政府」に変わったことである。「小さな政府」とは、政府の権限を縮小し、国民のやる気や競争心、進取の気性を活用することが国民国家の発展にとって役に立つという立場から、国民の自助努力を社会発展の原動力として積極的に評価するとともに、市場競争の原理を重視して政府による市場への過度の介入を抑制し、政府規制の緩和や税制改革などにより競争促進を目指す政府である。日本では、この「小さな政府」による国家政策は中曽根内閣によってはじめられ、小泉内閣を経て安倍内閣まで、その間にたとえ政権政党の構成が変わることがあっても、引き続き実施されてきている。

 このような社会の傾向は今後も当分の間継続すると予想される。そのため近未来の教育政策も引き続き、「小さな政府」の考え方にもとづいて行われていくと考えられる。その特徴は、①教育の規制緩和や自助努力、市場競争の原理の導入、②アカウンタビリティ(説明責任)や学校評価、事後チェックの強化、③経済的な国際競争力の強化と高学歴人材の育成の三つにまとめて整理することができるだろう(本書の第一章2「社会変動と教育改革」を参照)。日本の教育政策ではこうした立場から、多種多様な改革がこれまでも試みられてきた。私はこうした社会のグローバル化に対応して「小さな政府」が主導してきた教育改革を全面的に否定するつもりはない。

 しかしこの日本を含めて世界規模で進展した教育改革によって、日本の教育制度は時代や社会の変化に適切に対応するとともに、教育の本質に適ったものに改善されてきたのだろうか。とくに生涯学習政策では、学校教育だけでなく、教育機会の均等をはじめ、家庭教育や幼児期の教育、社会教育、さらに学校や家庭、地域住民などの相互の連携協力などを含めた非常に包括的な教育政策として位置づけることも謳われているが、そうした方向性が具体的な方策としてどの程度実現しているのかは大いに疑問であり、将来の見通しも不鮮明なままである。

豊かな生涯学習社会の条件

 こうした教育政策に対する批判的な見方に共通するポイントの一つは、人的資本論や教育投資論にもとづく教育政策は、教育の充実による国家の経済的生産性の維持・向上を過度に強調するため、学習社会の構想の内容が貧しく、戦略的展望も単純化されたものになりやすいことである。たとえば個人の経済的な社会生活にとって必要な知識や技能、態度の学習はもちろん重要なことだが、それ以外にも学ぶこと自体が楽しい学習も数多くある。また同じ職場で同じ条件の下に働く従業員でも、あるいは同じ退職した高齢者でも、その生き方や学習にとりくむ姿勢は彼らの生育歴や職歴、地域社会などの条件によって多様なことに配慮しなければ、豊かな生涯学習社会のイメージを描くことはできないのである。

 その意味では、生涯学習政策は個人の要望と社会の要請をともに考慮して立案し、実施する必要がある。具体的にはさまざまな方策が考えられるが、たとえば日本の生涯学習政策では、民間のカルチャーセンターの奨励など、個人の要望に関連した政策として実施されてきた、個人の自己実現とか個人の趣味や教養を豊かにするための施策には実践の長い歴史と実績がそれなりにあるので、そうした従来の蓄積を活用して再検討し、生涯学習の内容を個人の要望と社会の要請の両面でいっそう豊かなものにするのは、一つの有用な方向かもしれない。

 第二に、近未来の日本社会は、次のような特徴や仕組みを備えた社会であることが望まれる。政治や社会のあり方で望ましいのは(平凡かもしれないが)、民主主義が尊重され、議会制民主主義を基本にしながら参加型民主主義の要素を加味した意思決定の仕組みを備え、社会を構成する人びとが人間の基本的権利の承認や、社会活動や私的生活、職業選択における個人的な意思決定の尊重、機会均等の重視などの価値観を共有している社会である。

 また近未来の日本社会も他の先進諸国と同様に、複数の価値の共存を前提にした多文化社会の特徴をもつ国民国家として存続することを考えると、多文化社会にふさわしい知識や技能、態度を、その国に住む人びとが共有することも重要な条件である。それはたとえば国内の文化的多様性を積極的に評価する多文化主義の考え方を承認することであり、その立場から文化的共同体の構築を目指す考え方を是認することである。それから言語教育をはじめ、そのほかの基礎的な教科の教育の充実は個人の成長だけでなく、多文化社会の発展にとっても不可欠だという認識も、この共通の価値のなかには含まれる。日本という近代社会でスムーズに自立的な社会生活を送るには、日本社会で生活する人は誰でも、日本語をはじめ、それなりの基礎的な学力を身につけておく必要があるからだ。

 さらにこのような特徴をもつ社会の仕組みや人びとを有する生涯学習社会を実現する上で、学校制度の役割、とりわけ国民国家や地方自治体などが管理運営し、公的に支援する公教育制度の役割は非常に重要である。「小さな政府」の教育政策が今後さらに進められても、政府が学校制度への関与を放棄することはないから、政府の教育政策が将来も学校制度のあり方を大きく左右することに変わりはない。また基本的に非営利組織である学校制度は、公的支援がなければ存続したり発展したりすることはできないので、政府は日本社会にふさわしい生涯学習社会の実現を目指して、自らが果たすべき役割の範囲と責任を明確にした生涯学習政策を立案し、着実に実施していくことを強く要請されるのである。

 こうした西欧生まれの近代社会をベースにした近未来の日本の社会像や人間像が課題や矛盾に満ち、先行きが不透明で、それらの解決の見通しも定かでないのは容易に想像されることである。しかし将来の社会をどのように描くにしても、近代社会が長い時間をかけてその実現を目指してきた望ましい社会のあり方、つまり平等や公正の度合いを最大限に高め、民主主義を進め、人びとの想像力を解放することは非常に大切なことだと思われる。そして教育はそうした社会の形成に正面からかかわることができるはずである。
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未唯宇宙7.4.1~7.4.4

7.4.1「孤立と孤独」

 生活の孤立は惨めに見られる。それは「孤立死」という言葉に代表される。自分の周辺から見るのではなく、宇宙全体から見ると、孤立が正解です。孤立から宇宙全体が見れる。

 孤立を楽しむことは、周りの社会を宇宙とサンドイッチにして観察する。自分という眼がなければ全てが暗黒の中にある。孤立であるためには、自らは発信しない。内なる世界にある。問われたら応える。孤立であることから啓示を得る。それだけは伝えます。

7.4.2「独我論」

 自分なりの独我論を生き方の中心におくことを決めたのは、入院していた時。その宣言をメールで奥さんに送ったけど、戻ってきたのは「独我論って何?」だけだった。それで十分でしょう。「宇宙の旅人」という言葉を池田晶子さんからもらったと思っているけど、その言葉自体は見当たらない。雰囲気から作ったのかもしれない。

 宇宙に漂う心を表わした。それを難しい言葉で表わしたのがハイデガー「存在と時間」です。私の描く「宇宙」は、宇宙空間ではなく、無限次元空間そのものです。その中の任意の三次元に住むモノは自由です。

7.4.3「他者の関係」

 他者は存在していないから干渉しないし、干渉されない。死を紛れるために、あることを感じるために観察するだけです。内なる世界での感想を他者に伝えることはしておきます。それに反応するかどうかは私の問題ではない。

 私が渡せる最大の武器は数学モデルです。今の世界の次の次の世界の様相を示している。人類がそれをわかることを期待しています。

7.4.4「発信する日々」

 他者が居ないのに、誰に発信するというのか。今の感覚は宇宙の果てに向けて発信する。そこに拡がる、もう一人の私とつながるために。ソーシャルツールを使うのは、それらが自分が使うために用意されたから。使うのは私の役割。ある種の「蜘蛛の糸」です。本来の目的がわかるために使っていきます。

 感じたこと、考えたことを言葉にする。言葉にならないものを言葉にする。トルストイの日記、ウィトゲンシュタインの日記には感銘を受けない。雑記帳とはそんなモノです。思考をトレースすることは可能です。言葉は何となくわかった気にさせてくれます。先から見ていけばいい。「未唯への手紙」に全てを置きます。
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ゲッペルス、ゲーリング、レーム

『ジークムント・フロイト伝』より ヒトラーに直面して

ヒトラーが権力を奪取した三ヵ月後、ナチスは性科学研究所のビルを荒らしまくり、文書類、記録類、著作、備品と、マグヌス・ヒルシュフェルトがマイノリティのさまざまな形式のセクシュアリテについて収集したすべてのイコノグラフィを散逸させた。突撃隊幕僚長で評判の同性愛者エルンスト・レーム[一八八七-一九三四、ドイツの軍人、政治家]は、ヒトラーの決定で謀殺される一年まえに政権に参加したばかりだったが、かれらはこうして何十年もかけた仕事と研究を破壊した。

当時、ヒルシュフェルトはスイスで療養中だったので、この日、ベルリンにいなかったが、パリとついで二ースに亡命する決意をした。生涯を賭けた仕事が消え去ったのを知ったかれは、絶望のうちにニースで亡くなった。一九二〇年代に、ベルリンを東ヨーロッパでもっとも繁栄した都市にし、同性愛にもっとも開放的な都市にしていたカフェ、キャバレー、出会いの場所とそのほかの施設が、占拠、閉鎖、略奪、破壊活動のせいで、たちまちのうちに姿を消した。

一九三三年五月一〇日、ゲッペルスは「ユダヤ人関連の」二万冊以上の著作の焼却を命じた。ペルリンのオペラ座のまえで一晩中かかって展開されたこの光景に、教授たち、学生たち、SS[ナチ党の親衛隊]隊員、SA[ナチ党の準軍事組織]隊員が結集した。全員が愉快そうに卜ーチを振りかざし、愛国的な賛歌を歌い、口々に文言を唱えた。「階級闘争と唯物論に対抗してマルクスとカウツキー[一八五四-一九三八、ドイツの政治理論家、哲学者、経済学者」の著書を炎にゆだね、本能の高まりに対抗して人間の魂を向上させるためにジークムント・フロイトの著作を炎にゆだねます」。フロイトはウィーンから反論した。「われわれはなんという進歩をとげていることか。中世だったら、かれらはわたしを火刑にしたでしょう。現在では、わたしの著作を燃やすことで満ちたりています」

なんという表現だろう! かれはユダヤ人の著作を焼却することが著作の執筆者だけでなく、ユダヤ人自身と「劣等」といわれる「人種」のほかの代表者を焼却することになるというほうがよかっただろう。フロイトはまだナチズムが回帰性の反ユダヤ主義の表現にすぎないと考えていた。この時代のかれは一九三〇年に自己破壊に向かう人間の適性について書いたことが、こんなに早く実現されるとは、どうして想像できただろうか。当時のかれはアメリカ流の生き方について考えたが、ヨーロッパ流の生き方については考えたととがなかった。

一九三三年九月、あるナチのジャーナリストが愚劣な戯画つきの記事で、「ユダヤ人ジークムント・フロイト」はドイツ人種を壊滅させる「アジア風な」方法を考えついたと主張した。かれは人間を破壊衝動にしたがわせ、つまり「死の恐怖をつうじて性的快楽を味わう」よう強制しているというのだった。ジャーナリストはフロイトが若者にたいして、自慰、倒錯、姦通のようなあらゆる種類の性的に違反する慣行を広めたがっていると非難した。かれはこの害悪を一掃すべきだと考えたのだった。つまりこのようなものが、ゲーリングが盲従していた「ユダヤ人学説」の破壊プログラムだった。

当時のゲーリングは『わが闘争』が精神衛生に関する自分の政策を実行するときのガイドとして役だつだろうと宣言したあと、体制との協力を望むフロイト派の好意をひきつける特別の配慮をした。フェリックス・ベーム[一八八一-一九五八、ドイツの精神分析家]とカール・ミュラー=ブラウンシュヴァイク[一八八一-一九五八、ドイツの哲学者、精神分析家]が最初の同調者で、ハラルド・シュルツ=ヘンケ[一八九二-一九五三、ドイツの精神分析家]とヴェルナー・ケンパー[一八九九-一九七六、ドイツの医師、精神分析家]があとにつづいた。四人はドイツ精神分析協会(DPG)とベルリン精神分析研究所(BPI)のメンバーで、ユダヤ人の同業者を嫉妬する凡庸な人物たちだった。かれらにとって国家社会主義の到来は名まえを高める僥倖だった。支配者とみていた人たちに劣ると感じていたかれらは、死刑執行人の従僕になった。

一九三〇年、九〇名の会員を擁していたDPGの大半はユダヤ人だったが、かれらは一九三三年から亡命しはじめた。この時代、マックス・アイティンゴンとフロイトの文通はコ-ド化された言語を使っていただけに緊張感があり、ふたりの手紙は検閲を受けた。BPIのなかで孤立していたアイティンゴンはほどなく辞任させられたが、ジョーンズのほうはドイツのフロイト左派--オットー・フェニケルやエルンスト・ジンメルなど--に敵意をもち、英米の権力強化に配慮して、ベームを支えとした新体制との協力政策を推進した。協力政策というのは、ナチズムのもとに精神分析のいわゆる「中立的」実務を維持し、「アーリア化した」BPIの内部に導入された精神療法各派のあらゆる悪影響から自派をまもることだった。

この路線に敵対したマックス・アイティンゴンは、態度を決定するまえにフロイトに文書でかれ自身の方針を説明してほしいと要請した。フロイト一九三三年三月二一日の手紙でそれに応え、以下の三つの解決策のうちから選択するよう力説した。(1)BPIの活動中止に努める、(2)ベームの指図を受けてBPIの維持に協力し、「思わしくない時。代を生きのびる」、(3)ユング派やアドラー派に宝玉を横どりされる危険をおかして下船し、IPV〈国際精神分析協会〉に信用を失墜せざるをえないようにする。フロイトはこの時点で第二の解決策をとっていたが、それはジョーンズから強く勧められた「中立主義的」解決策だった。その二年後、この解決策はゲーリングに改編されたBPIの全面的なナチ化にたどりついた。それでもフロイトは半面でオーストリアがヒトラーの脅威を受けないと--誤って--信じていたので、アイティンゴンにこの選択肢を強制しなかった。かれはオーストリアがオーストリア・ファシズムにまもられていると考えていた。

四月一七日、憎たらしく思っていたライヒを、ベームがBPIから追いだしたことをよろこんだ。そのあとIPVからも締めだされたライヒは、ノルウェーとアメリカに移住した。ナチのアドラー派だったハラルド・シュルツ=ヘンケは、早々とBPIに再編入された。それでもアイティンゴンは、精神分析がナチズムのもとで生きのびられると信じるこのような無分別をまえにしても、フロイト思想とシオニズムに忠実でありつづけようと決意した。かれはフロイトを少しも非難しないでドイツを離れ、一九三四年四月にイスラエルに定住した。そしてアルノルト・ツヴァイクと再会し、精神分析協会とベルリンをモデルにした研究所を設立した。つまり未来のイスラエル精神分析運動の基礎をきずいた。

フロイト・マルクス派を敵と見誤って闘ったジョーンズは、こんどはナチスとの協力関係を受けいれ、ドイツを離れて英語圏に移住するユダヤ人を支援した。一九三五年、かれはDPGの会議を公式に主宰し、その期間中にも九人のユダヤ人会員が退任せざるをえなかった。ただひとりの非ユダヤ人がこの偽善行為に反対した。かれはベルンハルト・カムという名で、除名された人だちと連帯してDPGを離れた。ただちに亡命の途についたカムはカンザス州のトピカに移住し、高名なカール・メニンガー[一八九三-一九九〇、アメリカの医学者、精神分析家]の病院に落ちついた。そこはヨーロッパから亡命したあらゆる精神療法家たちの本物の中心地だった。フロイトはこうした出来事のすべてを「悲しい議論」と形容した。それ以後、ゲーリングに同意したフロイト派は手紙の末尾に「ハイル・ヒトラー」と書くようになったらしかった。

ナチスがベルリンで精神分析を壊滅させているあいだも、フロイトはウィーンで患者を受けいれつづけていた。患者のなかにはエズラ・パウンド[一八八五-一九七二、アメリカの詩人、音楽家]とアニー・ウィニフレッド・エラーマン(通称ブラィヤー)[一八九四-一九八三、ィギリスの小説家、詩人]の愛人だったアメリカの女性詩人ヒルダ・ドゥリトルがいた。彼女はすでにロンドンで、クライン派の女性から慢性抑うつ症の分析を受けていた。のちに一一年の間隔をおいた二度にわたるフロイトの治療(一九四五年と一九五六年)について語るだろう。ひとつは逐語的な報告書で、もうひとつは物語形式の再解釈だった。彼女は二冊の著作で、夢に集中するフロイトの発言を明快に語ったが、ベルクガッセの日常生活と、大多数が精神分析家だったほかの患者だちとの出会いも証言した。彼女はこの経験のあとも、ずっとべつの精神療法家との分析作業をつづけた。ヒルダ・ドゥリトル(HD)の著作、生活、分析日記は、英語圏でレズビアンとこの種の研究にあたった多様な仕事の起源になった。

一九三四年、ユダヤ人の社会主義・知識人階級出身のアメリカの精神科医ジョセフ・ウォルティス[一九〇六-九五、アメリカの精神分析家]もアドルフ・マイヤーの勧めを受け、ハヴロック・エリスの推薦状をもってフロイトに会いにウィーンにやってきた。かれは同性愛の研究家だった。かれはあらゆる形式の転移による服従に反抗して治療計画を拒否したが、フロイトはそのような研究を実施するには精神分析の臨床実験を経験する必要があると考え、少なくとも四ヵ月間の治療を強制した。そこでウォルティスは本物の探偵のように行動し、エリスと大量の文通をして、かれを大いによろこばせた。

結局のところ分析は実施されなかったが、ふたりの人間は激しく知的にとりくんだ。その結果、ウォルティスは徹底的な反フロイト派になり、生涯をつうじてウィーンの指導者の亡霊にとりつかれた。それでもかれはフロイトの私的な話から、私生活、弟子、友人、世界観を収集するという難業に成功し、歴史家たちの大きな関心をひく記録をつくりあげた。この時代のフロイトは病気と口をきく辛さに見舞われていたが、敵対者に強烈な無慈悲さで対応することができた。最後がきたと感じたかれはライバルのまえだろうと、ほかの時代なら隠そうとしたかもしれない判断を、ためらわずにむきだしにしたかのようだった。

ユングはフロイト派とおなじくチューリヒからゲーリングに協力し、ドイツ一般医学精神療法学会(AAGP)を指導していたエルンスト・クレッチマー[一八八八-一九六四、ドイツの医学者、精神科医]の後任になった。一九二六年に設立されたこの学会の目的は、医学知識を後ろ盾にして、ヨーロッパの精神療法のさまざまな流派を連携させることだった。一九三〇年に創刊された『精神療法中央誌』は、AAGPの普及機関誌として役だっていた。
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フロイト、ヒトラー、トーマス・マン

『ジークムント・フロイト伝』より ヒトラーに直面して


二〇〇七年、アメリカの大学教授マーク・エドマンドソンはフロイトの生涯の晩年にささげたすぐれた著作で、歴史家に--同時にトマス・マンにも--身近だったある着想をふたたびとりあげ、ベル・エポックのウィーン人のふたつの生活を対比した。ふたつの生活とは。一九○九年に二〇歳だった青年アドルフ・ヒトラーの卑劣な生活と、栄光をめざして上昇中だったジークムント・フロイトの輝かしい生活のことだった。ヒトラーはあらゆる時代をつうじて最大の殺戮者、ドイツの破壊者、ユダヤ人の民族大虐殺者になり、本質的には人類の集団虐殺者になった。フロイトは二〇世紀でもっとも高名な、もっとも論争の的になる思想家になった。「ふたりはほぼあらゆる点で、詩人ウィリアム・ブレイク[一七五七-一八二七、イギリスの詩人、画家]が『精神的敵対者』と呼んだ存在だった」とエドマンドソンは書いていた。

青年ヒトラーは落ちぶれた農民たちの住む環境で生まれ、若い不幸ないとこと結婚した愚鈍で暴力的な父親に虐待された。かれは世界全体とそれ以上にオーストリアを憎み、オーストリアがいつかヴィルヘルムのドイツの支配下に屈することを夢みていた。かれはリンツで連続的な挫折をしるす就学期間をつづけた。そこはのちに有名な哲学者になる若いユダヤ人ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「一八八九-一九五ベオーストリア出身のイギリスで活動した哲学者」も通学していた施設そのものだった。ヒトラーはすでにしてユダヤ人を憎悪していた。非常に早くから汎ゲルマン主義というナショナリズムの象徴と具象化の姿に魅了されたが、少しのちには反ユダヤ人闘争の先兵になった。つまり、ハプスブルク帝国の栄光に強く執着した父親のナショナリズムに対立した。

ヒトラーは両親の死後、画家か建築家として成功しようと考えてウィーンにきたが、美術アカデミーに二度にわたって落第した。このため文化や美術や知性の世界に憎しみを増幅させた。自分の才能を信じ、ダンディななりをしてオペラ座にたびたびかよい、ワーグナー[一八一三-八三、ドイツの作曲家]の音楽に熱中して聞きいった。それでも死の急迫という感覚が宿る「不変の」この都市を蔑視し、いわゆる「瘴気」[昔は伝染病の原因とされた大気中の病毒]から距離をとっていた。それは売春、奔放なセクシュアリテ、ヒステリー、不道徳な文学、同性愛、退廃的な絵画と建築のことだった。

要するにヒトラーはウィーンが生みだすより革新的なすべてのものを拒否し、そこから締めだされていた。無精で才能がなく、考えることより感情におぼれるほうを好み、人間を憎んだ分だけ動物を熱愛した。肉を食べたことがなく、ワインもアルコール類も飲まなかった。夕バコが民衆の健康にとって最大の害毒になると信じていた。極貧のさなかにいながら自分を注目すべきヒューマニストで、すぐれた詩人だと考え、ウィーンを再設計して、生まれ変わる人間にふさわしい楽園に変えようと考えた。かれはまたドイツの衛生医学にとりつかれ、ついには人種隔離という考えにたどりついた。

つまり、ひとことでいえばヒトラーはあらゆる病理学の知識を積み重ね、自分を理想的なウィーン病の患者にできたのかもしれない。それは『快原理の彼岸』に照合して見直され、修正されたクラフト=エービングの用語体系に直結する症例だった。エドマンドソンはさらに書いている。「一九〇九年のあるうすら寒い秋の午後、ヒトラーとフロイトが通りですれちがっていたとしたら、ふたりはなにを感じただろうか。フロイトはヒトラーのなかにとるに足りない人間、ドブネズミのような人間をみたのだろうか(かれはまだポピュリズムの政治家ではなかった)。しかしまたこの不運な人間にたいして、きっとひどく悲しい思いをしたかもしれない。ヒトラーのほうはフロイトをウィーンのブルジョワとみて(かれは並みの上流階級を蔑視した)、たぶんユダヤ人と見ぬいたかもしれない。擦り切れた外套を着て、穴のあいた靴をはいていることを恥じ、たじろいだかもしれない。かれの状況がとりわけみじめだったとすれば、物どいの手をさしだすことができただろう。フロイトがなにかをあたえたかどうかということ--かれは思いやりがあったので、なにかをあたえることはできただろう--は大きな違いを生みださなかっただろう。若いアドルフ・ヒトラーはこの出会いから激怒の状態をひきずっただろう」

一九二五年、『わが闘争』(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』上下、平野一郎、将積茂訳、角川書店)を発表したヒトラーは憎しみの目標を定めた。それはユダヤ人、マルクス主義者、ヴェルサイユ条約、およびいわゆる劣等人種だった。かれはまた野望を主張した。いわゆる変質のあらゆる庫気から純化された新ドイツ帝国の指導者になり、ドイツを侮辱した第一次大戦の戦勝国側に報復できる指導者になることだった。この時代のかれはフロイトが『集団心理学と自我分析』で書いたような指導者像のすべてを身につけていた。つまり、だれも愛する必要を感じない指導者であり、ナルシシズム的精神異常と他性の否認と孤立主義の究極的バージョンだった。ヨーロッパの政治的・社会的・経済的状況がどれほどまでに悪化していれば--ドイツ語圏世界の状況はさらに悪化していた--、こうした個性の持ち主の出現を可能にするに十分だった。フロイトはそれを抽象的に考え、とりあえずはこのような個性の持ち主が二二年後のドイツで、権力を強奪する人間の姿をとって存在できるとは想像もしなかった。

エドマンドソンのすばらしいこの論評がでる六八年前の一九三九年、アメリカ西海岸に亡命していたトマス・マンは、すでに怪物と有識者というふたつの並行する人生の問題を熟慮し、フロイトの影響を受けた風変わりなエッセイ『わが兄弟ヒトラー』(トーマス・マン『ヒトラー君』高田淑訳、新潮社『トーマス・マン全集』Mに収録)を発表して、おびただしい論争をかきたてた。かれは当時のフロイトが家族にかとまれてロンドンに住みつき、あと数カ月しか生きそうにないことを知っていた。

マンはベルトルト・ブレヒトや亡命したほかのドイツ人に反して、啓蒙のドイツとヒトラーの残忍性のドイツを全面的には対比しなかった。たしかにゲーテのドイツがナチスのドイツと大きくちがうことを完全に承知していたが、この「怪物」に本物の臨床的興味をもっていた。そしてヨーロッパでもっとも文明化された国のひとつで、このような価値の逆転がどのようにして生じることができたのかを考えた。知識、能力、科学、哲学、進歩というドイツ文化の伝統が最高に尊重してきたものの正反対の現象が、どのようにして政権に--またワイマール共和国とビスマルクの旧ヨーロッパのすべての決定機関に--出現することができたのだろうか。マンはヒトラーのことを人生の落伍者、「収容施設のホームレス」、道を踏みはずした人間、自分をハクチョウだと思っている「醜いアヒルの子」「台所わきの小部屋のローエングリン[ワーグナーの同名の楽劇の主役の白鳥の騎士]だと書いていた。要するにヒトラーはプロテスタントの倫理が何十年もかけて形成したものの正反対、啓蒙の精神がより文明化したと考えたものの正反対だった。かれはこうして社会民主主義が挫折した地点で民衆を征服することに成功した。マンはすでに一九三三年に書いていた。「ヒトラーを追放しよう、このみじめったらしいもの、このヒステリックなペテン師、この素性のいやしい非ドイツ人、この権力の詐欺師を追放しよう。かれのすべての技巧は吐き気をもよおすような霊媒の才能を使って民衆の感じやすい心情を探り、信じがたい低劣な弁士の才で民衆を胸が悪くなるようなトランス状態に投げこみ、感動させることにあるのだ」。

マンはまた当然のことながら、ナポレオンとヒトラーのどんな比較にも同調しなかった。「そんなことは道理にあわないので、おなじ口調でふたりの名を口にしてはいけない。戦争の偉人ナポレオンと、たいへんな臆病者で、本物の戦争の初日から役にたたないような平和主義のゆすり屋ヒトラー、またヘーゲルが馬上の『世界精神』と呼んだ存在[イェーナを占領したナポレオンをこのように表現した]、すべてを支配する巨大な頭脳、もっともすばらしい活動能力、大革命の権化、地中海の古典主義のブロンズの立像のように姿が永遠に人間の記憶に刻みこまれる自由の圧制的な使者と、この悲しい無精者、この落伍者、この五流の夢想家、社会革命を憎むこの愚か者、このサディストの陰謀家、この栄誉なき執念深い人間を同列に論じるべきではないのである」

トマス・マンが強調したのは、なにもないところからでてきたひとりの怪物をゲルマン世界の新秩序の独裁者に変えた逆転現象を説明するには、かれを倒置された「ひとりの兄弟」とみなければならないということだった。つまりドイツ文化の無意識の部分、闇の部分、フロイトが「欲動」という語句で説明したものとおなじかもしれない非合理な部分とみなければならないというわけであり、それは現実にたいする無意識の驚くべき投射だった。マンはまた同時代人に愚劣な兄弟をまえにして目を閉じるより、かれを合理性により対置するために幻想をすてて悪を正視しようと呼びかけた。そしてつけくわえた。「かれのような人間は精神分析を憎むにちがいない! わたしはがれがある首都に向かっていったときの怒りは、じっさいにはそこに住んでいた老齢の分析家、かれの本物の本質的な敵対者、神経症の正体を暴いた哲学者、大いなる幻想からの覚醒者、なにに満足するかを知り、天分についてくわしく知る者に向けられていたとひそかに疑っている」

マンがフロイトの用語を使ってたくみに説明したヒトラーという相手は、このような人間だった。かれはすぐれた覚醒者と、精神分析の発祥地ウィーンという都市の最悪の敵になった。

フロイトはトマス・マンとちがって、またしても新しいタイプの戦争を相手にしていることを理解するのに時間がかかった。それは国家間の戦争でなく、破壊原理の表現そのものとしてのなにかだった。いわゆるひとつの「人種」(「セム族」)の絶滅を介した人類の消滅と、地球上で存在を認められた唯一のもうひとつべつの「人種」「デーリア人」)による交替をめざす破壊原理だった。一九一五年、フロイトはナショナリズムと大量破壊技術の進歩をきっかけとして生じた第一次大戦が、人類に根づく死の欲望の本質を表現すると主張しなかっただろうか。いまやドイツのナチズムの台頭に直面したかれは、まだ国家社会主義が実行に移した死のマシーンの性質に気づかなかった。それはがれだけの事例ではなかった。

いずれにせよ一九二九年七月、かれは『錯覚の未来』につづく新しい著作『文化のなかの居心地の悪さ』(ジークムント・フロイト『文化の中の居心地悪さ』嶺秀樹、高田珠樹訳、岩波書店『フロイト全集』20に収録)を書きあげたばかりだった。しかし、もっとも広く読まれ、もっとも翻訳され、たぶんもっとも陰うつであると同時にもっとも明るく、もっとも抒情的でもっとも政治的な著作の一冊を書いたとは予想しなかった。この仕事にとりくんだときのかれは、バイエルンアルプスのベルヒテスガーデンという保養地に滞在していた。それはザクセン=マイニングン公国のマリア・エリーザベト公女が好んだ逗留地だったが、彼女はドイツ君主政の崩壊まで生きのびなかった。そのすぐ近くのオーバーザルツベルクの高地に一軒の家があり、ヒトラーは一九二七年から、そこで国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の代表をひきうけていた。
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豊田市図書館の30冊

201『歴史の見方・考え方』大学で学ぶ「考える歴史」

730『津久井智子の消しゴムはんこ。教室』超人気教室のテクを大公開!

233.05『よくわかるイギリス近現代史』

332.1『岩波講座 日本経済の歴史6 現代2』安定成長期から構造改革期(1973-2010)

222.04『文房具が語る古代東アジア』ものが語る歴史38

140『進化心理学を学びたいあなたへ』パイオニアからのメッセージ

311.4『保守主義の精神 下』

010.21『すてきな司書の図書館めぐり』~しゃっぴツアーのたまてばこ~

410『北欧式 眠くならない数学の本』

311.04『デモクラシーとセキュリティ』グローバル化時代の政治を問い直す

673.7『リアル店舗の逆襲』対アマゾンのAI戦略

980.2『トルストイの肖像画』

947『リヒテンベルクの雑記帳』

673.7『マーケットでまちを変える』人が集まる公共空間のつくり方

950.27『ボーヴォワール』

373.1『教育と比較の眼』

726.6『絵本の冒険』「絵」と「ことば」で楽しむ

318.1『基礎から学ぶ 入門 地方自治法』

673.97『外食業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』業界人、就職、転職に役立つ情報満載

501.8『アールトからはじめるデザイン基礎』北欧の巨匠二学ぶ図法

375.85『夏目漱石 こころの授業 Kの自殺の真相』

361.5『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』

382.51『カナダ 北西海岸域の先住民』

312.35『革命』仏大統領マクロンの思想と政策

335.1『経営のロジック』謎が大井から面白い経営学の世界

501.6『エネルギー業界の破壊的イノベーション』

493.09『日記を書くと血圧が下がる』体と心が健康になる「感情日記」のつけ方

582.3『現場主義を貫いた富士ゼロックスの“経営革新”』品質管理、品質工学、信頼性工学、IEの実践論

394『海軍カレー伝説』

146.13『ジークムント・フロイト伝』同時代のフロント、現代のフロイト
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貧しい教養部時代に岩波講座『世界歴史』を買っていた

ハイアラキーの世界は嫌い

 「くそ試合」がトレンド入り。

『乃木撮』購入

 久しぶりに本『乃木撮』1800円を購入。他に比べると割安! 図書館にも置いてほしい。本は宣伝不足。著者はショールームで良さを語ってほしい。売るための努力不足。

貧しい教養部時代に岩波講座『世界歴史』を買っていた

 今回借りた本のなかに岩波講座『日本経済の歴史』6があった。岩波講座はまだ続いているんだ。大学時代に岩波講座『世界歴史』を定期で全巻購入していたのを思いだした。調べたら、1969年-1971年にわたり、31卷。

 1日100円ですごしていた時代に専門でもないシリーズ本を買えたな! ブルバキ『数学史』3500円を買うために3日間、段ボール工場で働いたぐらいなのに。古川図書館を思い出した。教養部が閉鎖されて、毎日 2時間かけて、古川図書館まで通っていた。エアコンがなくても、風が通るので気持ちよかった。そこでも戦間期の本を探っていた。専門は数学教室の図書室。無料でコピーし、製本できた。

 新版(1997年-2000年)を図書館で借りてこよう。テーマ編が面白そう。一冊の本はいろんなことを思い出させる。
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未唯宇宙6.3.4~6.4.4

子供をシェアする考え方

 子供を所有と考えるから話はややこしい。その反対に 子供は国の宝、産まないのは身勝手という論理がある。人にとって子供はどういう形なのかその定義さえもされていない

 子供に対する一つの歴史的な話。子どもを都市国家がシェアしたスパルタ。大多数を占める奴隷を支配するために。その軍事力で侵攻してきたペルシャにテレモピレーで対抗した。後に都市国家アテネを攻めた。

 ギリシャが衰退すると、スパルタ人はペルシャの傭兵になった。それに対し、アレキサンドロスが侵攻してきた。それに負けて、テレモピレーの戦いにちなんで、300人が奴隷としてマケドニアに送られた。歴史は戻っていった。スパルタが子供をシェアしたのは正しかったのか。歴史には正解はないけど。

 子供という個人の意識とそれに対する特定の人達の意識 、その間はどういう関係持たせるか。この関係は近いうちに変わらざるを得ない。家族愛では片付かない。150年の呪縛から解放される時が近づいている。

映像と本の世界

 レンタルビデオ-DVD が主なのにビデオ-とYouTube との違いは You Tuber、つまり受け手に合わせて変えられる世界。本の世界は図書館しかない。You Tuber に相当するのは著者しか居ない。著者が作るのは本であり、著者と出版社で決まる世界。これでは対応できない。

 LINE Cloveはどう進化するのか? 答えが一般的でなく、知的であることがポイント。ECHOがBabymetalがこたえさせたようにする。「ロシア」に対して、真夏の「ピロシキ」は正しい。連想をつなげていく。

道具に関する見解

 私が必要と思ったものが 現れる。私のために準備される。それ故に、現れたものは私のために用意されたモノと思って使い切る。パソコンの出現で、この考えに至った。こんなものがあるといいとイメージした時に マックペイントに出会った。そして、インスピレーションソフト。

 部品表でIBM360から始まって、ソーシャルツールも全てそのタイミングで現れた。

 視力は弱まってくると、身近で入力できるもの、見えるもの、検索できるものがすべて、集まってきた。乃木坂のも同様に役割を持っていると思っています。

6.3.4「存在を生かす」

 本で新しい世界を作るためには、個人の存在を生かせるようにしないいけない。個人と全体の循環を作り出していく。

 生きている理由を考えるだけで容易に存在を起点にできる。その割には状況は変わらない。その要因は教育のあり方でしょう。「社会」に役立つという定義を国が決め、それに合った人間にしていく。

 そんなことを教えられる人はどこにも居ないのに。個人の意識に沿った教育の姿勢があって、はじめて個人の意識が育つ。自己同形のカタチ。

 個人と全体の関係が明確になれば、社会は変わる。それ以外に社会を変える方法はない。

6.4.1「私のライブラリ」

 図書館はあくまでもバックヤード。内なる世界のためにマイ・ライブラリを作っていく。パソコンからネットにコンテンツを提供することで、心の拠り所になる。

 本はバラバラにして、自分としての本質を求めて、体系化していく。これは値の共有がなければムリです。

 豊田市図書館が新築されて以来、新刊書フリークを行なっている。各自がマイライブラリを持つことで、図書館そのものを救っていける。行動に結びつく。

 図書館があるということがいかに幸せなのかを味わうことです。それが文化のあり方です。

6.4.2「場を提供」

 図書館は場を提供する。土日も開いている公共設備、サービスを目的とする設備は少ない。その上、図書館法で守られている。

 本を守るのだけが図書館ではない。知の世界で市民を変えるのが役割です。

 そのためにさまざまな企画を可能にする。本で考えられる環境を作り出す。賛否両論の本棚の前でさまざまな読み方ができる。

 私が薦めたいのは本をバラすこと。本からDNAを抽出する感覚を養う。速読も熟読も可能になる。くれぐれも名古屋の猫のように格好付けずに本質を追究してほしい。

6.4.3「市民と図書館」

 図書館の形態は変わりつつある。元々は三つのタイプ。滞在型、貸出型、研究調査型がある。日本の公共図書館はどうにか貸出型ができてきた感じ。

 フィンランドのヘルシンキ市図書館OODI(2018.11オープン)は生活のバリエーションになっていく。「白夜の国の図書館」のロヴァニエミ図書館は生活の拠点になっている。それを進化させていく。

 図書館が地域をカバーしていく。振り返って、豊田市図書館はこの20年あまり、さほど進化していない。TRCが入ってきて、新刊書が増えたのは確かだが、市民に対するアピールがされていない。彼らの狙いの先がわからない。

6.4.4「図書館を守る」

 図書館戦争のテーマは本を守るために図書館を守る。その為の図書館防衛隊。映画の最期で争う場面に市民が割り込んでくることを期待したが、単なる戦争物で終わってしまった。

 戦争を防ぐには、どんな社会を作っていくのかの市民の意識しかない。図書館は市民のためにある。図書館から地域を活性化していく。

 そのために図書館という奇跡の産物をどう生かすか。本が変わろうとしている時に図書館がどういう役割を果たすのか。公共図書館の内部の意識が他の市との比較しかない。あまりにも先を見ていない。

 図書館に対する攻勢も強まっている。本を読まない人はアテにできない。市民とつながるしかない。
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