『イギリス近現代史』より
ナチスの領土的野心とイギリスの対応
公然と侵略を企て、国際秩序をかく乱しようとする国家や侵略者に対して力で反撃し、これを食い止めるのではなく、侵略を企てる国家や勢力の野望を「ある程度」受け入れる。そうすることで侵略者を宥め、それ以上の侵略を抑え込み、国際秩序全体の動揺や崩壊を回避する外交のあり方を一般的に宥和政策と呼ぶ。こうした外交様式は近代国際関係において、しばしば大国の行動にみられるものであったが、特に歴史の中で注目されるようになったのは、1930年代のイギリスの対ドイツ政策においてであった。
戦わずに危機を収めることが可能であることから、当時までの国際関係では宥和政策は平和政策の一種であるとの見方もあった。しかし1930年代に展開された宥和政策は国際秩序全体の維持にっながらず、最終的に第二次世界大戦をまねいてしまったことから、以後、批判的に捉えられるようになった。
1933年にナチス政権が成立すると、イギリスを含めた周辺国は、ドイツが対外侵略行動を展開し、第一次世界大戦後の国際秩序の根幹とみなされていたヴエルサイユ条約を履行しなくなることを懸念した。特にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーは、以前からヴェルサイユ条約に対する不満や敵意をあらわにし、国境線の変更を含む要求を繰り返していた。これに対してイギリスの中でも特に宥和主義者として知られていたネヴィル・チェンバレンは、1937年に首相に就任すると、同様に宥和主義者であったハリファクスをヒトラーのもとに派遣し、次のようにドイツの領土的野心を「ある程度」認めると受け取れる言質を与えた。ハリファクスは、オーストリア、ダンツィヒ(ポーランド領)。ズデーテン(チェコスロヴァキア領)など具体的地名に言及し、「これらの地における問題は現状のままでは止まり得ないだろう」として、ヒトラーが望んできた主要な「領土問題の解決」を事実上、認めた。これに加えてハリファクスは、「イギリスの関心は、これらについての現状が変更されるかどうかにあるのではなく、現状変更がなされる場合、これが平和的になされるかどうかにある」と伝えたのである。これはドイツにとっては、イギリスから事実上、領土的野心を認めてもらえたも同然と受け取れるものであった。のちにドイツはオーストリアを併合し、ズデーテン地方を併合し、チェコスロヴァキアを解体するという領土的侵略を行い、最終的にポーランドヘ軍事侵攻することで、第二次世界大戦勃発のきっかけをつくることになる。オーストリアやチェコスロヴァキアの侵略と異なり、ポーランド侵攻は明白に戦争というかたちをとったことで、ドイツはハリファクスの言質を踏み外したわけである。
イギリスのドイツに対する宥和政策は、このハリファクスーヒトラー会談以前にも展開されている。たとえばボールドウィンは首相に就任してまもなく、ドイツと単独で英独海軍協定を成立させ、ドイツ海軍力の一定の拡大を容認しイギリス海軍との住み分けを図った。これは前首相マクドナルドがフランス、イタリアとともにドイツの再軍備に対抗することを目的とした結束を約束したストレーザ戦線宣言のわずか3ヵ月後のことであった。
ミュンヘン会談
イギリスはドイツによるオーストリア併合についても事実上黙認したばかりか、かつてのドイツのアフリカ植民地をドイッヘ復帰させることさえ提案している。さらに宥和政策の頂点としてのちに語られることになるのがミュンヘン会談とそこで調印に至ったミュンヘン協定である。チェコスロヴァキア領ズデーテンをドイッヘ併合しようとするヒトラーの桐喝に直面し、英仏は連携してチェコスロヴァキア政府に圧力をかけ併合反対の動きを抑圧し、ドイツが望んだ「領土問題の解決」を取り付けることに外交努力を注ぐ。こうしてミュンヘン会談で、チェコスロヴァキア政府の意に反して、イギリス、フランス、イタリアも合意するかたちでズデーテンのドイッヘの割譲を承認する議定書が発効することになった。ただしミュンヘン協定と引き換えに、以後、ヨーロッパにおける領土的野心をもたないとの確約をドイツから取り付けた。このことから戦争も辞さない構えだったドイツを宥め、戦わずしてヨーロッパの平和を達成したということでイギリスの宥和政策は成功したかに見えた。宥和政策への反対論は当時のイギリス政府内でも少なくなかったものの主流ではなく、宥和政策は侵略者に対する譲歩というよりは、「平和政策」として捉えられる向きが強かった。
しかし結局、その後のドイツの対外膨張行動を抑えることはできず、第二次世界大戦を導いてしまうことになる。このことからイギリスが中心となって展開した宥和政策は、侵略者に譲歩し、国際秩序を崩壊に至らしめた悪しき外交であったとの含意が置かれるようになった。
第一次世界大戦後、すっかり疲弊したイギリスは、大きな軍事力をもつことをたとえ希望しても叶わなかったという事情があった。挑戦国を抑えるに十分な軍事力がもてない状況においては、イギリスの宥和政策は時代との親和性が高かったのである。
ナチスの領土的野心とイギリスの対応
公然と侵略を企て、国際秩序をかく乱しようとする国家や侵略者に対して力で反撃し、これを食い止めるのではなく、侵略を企てる国家や勢力の野望を「ある程度」受け入れる。そうすることで侵略者を宥め、それ以上の侵略を抑え込み、国際秩序全体の動揺や崩壊を回避する外交のあり方を一般的に宥和政策と呼ぶ。こうした外交様式は近代国際関係において、しばしば大国の行動にみられるものであったが、特に歴史の中で注目されるようになったのは、1930年代のイギリスの対ドイツ政策においてであった。
戦わずに危機を収めることが可能であることから、当時までの国際関係では宥和政策は平和政策の一種であるとの見方もあった。しかし1930年代に展開された宥和政策は国際秩序全体の維持にっながらず、最終的に第二次世界大戦をまねいてしまったことから、以後、批判的に捉えられるようになった。
1933年にナチス政権が成立すると、イギリスを含めた周辺国は、ドイツが対外侵略行動を展開し、第一次世界大戦後の国際秩序の根幹とみなされていたヴエルサイユ条約を履行しなくなることを懸念した。特にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーは、以前からヴェルサイユ条約に対する不満や敵意をあらわにし、国境線の変更を含む要求を繰り返していた。これに対してイギリスの中でも特に宥和主義者として知られていたネヴィル・チェンバレンは、1937年に首相に就任すると、同様に宥和主義者であったハリファクスをヒトラーのもとに派遣し、次のようにドイツの領土的野心を「ある程度」認めると受け取れる言質を与えた。ハリファクスは、オーストリア、ダンツィヒ(ポーランド領)。ズデーテン(チェコスロヴァキア領)など具体的地名に言及し、「これらの地における問題は現状のままでは止まり得ないだろう」として、ヒトラーが望んできた主要な「領土問題の解決」を事実上、認めた。これに加えてハリファクスは、「イギリスの関心は、これらについての現状が変更されるかどうかにあるのではなく、現状変更がなされる場合、これが平和的になされるかどうかにある」と伝えたのである。これはドイツにとっては、イギリスから事実上、領土的野心を認めてもらえたも同然と受け取れるものであった。のちにドイツはオーストリアを併合し、ズデーテン地方を併合し、チェコスロヴァキアを解体するという領土的侵略を行い、最終的にポーランドヘ軍事侵攻することで、第二次世界大戦勃発のきっかけをつくることになる。オーストリアやチェコスロヴァキアの侵略と異なり、ポーランド侵攻は明白に戦争というかたちをとったことで、ドイツはハリファクスの言質を踏み外したわけである。
イギリスのドイツに対する宥和政策は、このハリファクスーヒトラー会談以前にも展開されている。たとえばボールドウィンは首相に就任してまもなく、ドイツと単独で英独海軍協定を成立させ、ドイツ海軍力の一定の拡大を容認しイギリス海軍との住み分けを図った。これは前首相マクドナルドがフランス、イタリアとともにドイツの再軍備に対抗することを目的とした結束を約束したストレーザ戦線宣言のわずか3ヵ月後のことであった。
ミュンヘン会談
イギリスはドイツによるオーストリア併合についても事実上黙認したばかりか、かつてのドイツのアフリカ植民地をドイッヘ復帰させることさえ提案している。さらに宥和政策の頂点としてのちに語られることになるのがミュンヘン会談とそこで調印に至ったミュンヘン協定である。チェコスロヴァキア領ズデーテンをドイッヘ併合しようとするヒトラーの桐喝に直面し、英仏は連携してチェコスロヴァキア政府に圧力をかけ併合反対の動きを抑圧し、ドイツが望んだ「領土問題の解決」を取り付けることに外交努力を注ぐ。こうしてミュンヘン会談で、チェコスロヴァキア政府の意に反して、イギリス、フランス、イタリアも合意するかたちでズデーテンのドイッヘの割譲を承認する議定書が発効することになった。ただしミュンヘン協定と引き換えに、以後、ヨーロッパにおける領土的野心をもたないとの確約をドイツから取り付けた。このことから戦争も辞さない構えだったドイツを宥め、戦わずしてヨーロッパの平和を達成したということでイギリスの宥和政策は成功したかに見えた。宥和政策への反対論は当時のイギリス政府内でも少なくなかったものの主流ではなく、宥和政策は侵略者に対する譲歩というよりは、「平和政策」として捉えられる向きが強かった。
しかし結局、その後のドイツの対外膨張行動を抑えることはできず、第二次世界大戦を導いてしまうことになる。このことからイギリスが中心となって展開した宥和政策は、侵略者に譲歩し、国際秩序を崩壊に至らしめた悪しき外交であったとの含意が置かれるようになった。
第一次世界大戦後、すっかり疲弊したイギリスは、大きな軍事力をもつことをたとえ希望しても叶わなかったという事情があった。挑戦国を抑えるに十分な軍事力がもてない状況においては、イギリスの宥和政策は時代との親和性が高かったのである。