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ギリシャをサービス立国に

話を聞いてくれる人

 アテネの玲ちゃん、妹相手に乃木坂のこと、生ちゃんのこと、ベビーメタルのすぅのことを話していた。まるで止まらない。聞いてくれそうだったから。人に甘えてはいけない! 12時から2時までの2時間。これから昼寝みたいです。そう言って、妹が連れ帰った。

グループの運営

 ソホクリスはAKBの良さを仲間に話しているが、理解できる連中はなかなか居ないといっていた。「運営」などにも興味があるみたいです。それなら、いっそのこと情報が仕入れやすい、「ベビーメタル」にしたらと進めておいた。

 ギリシャの蜂蜜を持ってきてくれた。それも「もみの木」蜂蜜だそうです。ギリシャ人はワイン、オリーブ、蜂蜜などを個人の生活のためには作るけど、それを産業としていないことを話題にした。

ギリシャをサービス立国に

 折角,いいものがあるのに,個人消費が主になっている。「運営」ではないけど、商品からサービスにすることができれば、立国につながるのに。

 ワインにしても、ブドウの木の世話などは,ギリシャ人の仕事ではないと思っている。アルバニア人の仕事にしている。ワインも作ることはするが売ることはできない。ワイン原酒をイタリアなどに渡して、イタリアワインでイタリア料理と共に、世界に出て行く。

 トルコが農業国から観光立国になったように、国としての方向性をつけて,国民が一緒に動けば、EUを逆手に取ることができる。工業中心からサービス中心にすれば、先頭になれる。

 ソホクリスがワインを作り、玲子が「運営」をすることで循環を考えて欲しい。いつもこういう会話ができるので楽しい。
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乃木坂は台風を乗り越えた

台風を乗り越えた

 三日間、神宮の雨雲レーダーばかり見ていた。絶対、三日間の内、一日はつぶれるかと思っていたけど、先に進んだ。生ちゃんは自信があったみたい。それに対して、ひめたんはネガティブ。この辺の差が大きいかもしれない。

違和感

 また、違和感で11時まで寝ていました。なかなか、新しい体制に入れない。「きっかけ」はいらない。

 明日までみたいです。本当にパソコンが見えない。だから、書く気になれない。これは言い訳。

玲ちゃんの昼寝

 玲ちゃんは朝寝と昼寝。電話も昼寝後になったりしている。
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読書は格闘技

読書は格闘技

 別に他人のものは取ろうとはしていない。自分のために考えてもらったものを取り入れるかどうかです。真理に向けて,色々な情報が必要です。それを他の人にやってもらっている.それを統合するのが私の役割。

ウィトゲンシュタインにおける仕事

 これは戦場においても精神的支えになっている。生きるために敬虔に仕事をせよ。内面の状態が良ければ、ウィトゲンシュタインは仕事ができる。心の平安が得られないときは仕事ができなかった。

論考の理論

 写像の理論と真理関数の理論。まるで数学。ラッセルの論理学だけでなく、トポロジーも習得して欲しかった。写像の理論は,世界の有様を文に表す。なぜ、それが可能か。言語の側と世界の側との双方に,論理形式が共通として存在するから。

 真理関数の理論については、色々な文がどのような組み合わせになると、真になったら,偽になったりするのかの理論。

 論理形式として、世界のあらゆる事実を命題との対応関係を保証する。真理関数の理論によって、複合的な文がどういう組み合わせの場合に真になり、偽になるかを判別する。それによって、文の範囲が写し取ることができる事柄の範囲が決定され,我々が語り得ることとそうでないことがハッキリする。

一年半ぶりの歯医者

 歯が痛いのは、歯医者に行かないと治らない。痛感した。歯がないところが痛んだので、骨肉腫かと思ったけど、そうではなくて、単なる虫歯だった。とりあえず、命拾いか。早くしないと!

 入社した電算部で大学の先輩の課長が骨肉腫で顔を削られた結果、死亡したことを思い出した。「愛と死を見つめて」のミコ(吉永小百合)が骨肉腫だった、映像が浮かんだ。
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生産性を高めよう ブレイクダウン:先延ばしを克服する方法

『SOFT SKILLS』より 生産性を高めよう

大きいことが必ずしもよくないのはなぜか

 タスクは、大きければ大きいほど威圧的に見えるようになる。ソフトウェアアプリケーション全体を書くのは難しい。しかし、コードを1行書くのは簡単だ。ソフトウェア開発の分野では、タスクやプロジェクトは小さいものよりも大きいものの方が増えてきている。

 しかし、私たちはずっと先の将来を見通すことができないので、こういった大きなタスク、プロジェクトは、私たちの生産性を低下させがちである。大きなタスクを全体として見てしまうと、ほとんど実現不可能なもののように見えてしまう。摩天楼や数kmも続く橋を構築するという、とてっもなく大きな仕事について考えてみよう。多くの摩天楼や橋が建築されてきたので、実現可能なことはわかっている。にもかかわらず、この種のプロジェクトを全体の形で見ると、誰もそんなことは実現できないように感じてしまう。

 私は、長年に渡ってゼロからアプリケーションを構築するような巨大プロジェクトに関わってきた。私は様々なアプリケーションを手がけたが、物事をブレイクダウンすることを学ぶまでは、どれひとつとして完成にたどり着けなかった。いつも最初はプロジェクトに情熱を注いでいるのに、すぐに細部に埋没しているような感じになった。私は、あとどれだけの仕事が残されているかを考えることに囚われていて、完成地点まで作り上げることができなかった。プロジェクトが大きければ大きいほど、失敗する傾向があったのだ。

 しかし、同じ問題を抱えるのは私だけではないようだ。ソフトウェア開発分野の様々な職務のなかでほかの開発者に仕事を任せてきたが、決まって夕スクの大きさがプロジェクトの成否の大きな指標になることを感じたのである。任せるタスクが大きければ大きいほど、彼らがそのタスクをこなせなくなる可能性が高くなるのだ。

 なぜこうなるかの理由のひとつはすでに述べた。大きなタスクの心理的な負担である。大きな問題に直面すると、私たちは問題解決の手順を進めることより、問題そのものについて考えることのために時間を費やしてしまう傾向がある。人は、もっとも抵抗の低い道を選ぶ傾向にある。大きなタスクに直面すると、ほとんど必ずメールをチェックしたり、コーヒーをもう一杯飲んだりすることの方が楽そうに見えてしまい、先延ばしが起きてしまう。

 しかし、大きなタスクがよくない理由は、先延ばしが起きることだけではない。タスクが大きければ大きいほど、しっかりと定義されていない傾向がある。店に行って卵、牛乳、パンを買ってきてほしいと頼む場合、タスクは明確に定義されており、あなたは何をすべきか正確にわかる。そのような夕スクは簡単に実行でき、あなたが正しくミッションをクリアする可能性は高い。

 それに対し、私のためにウェブサイトを作ってくれと頼むと、このタスクは先はどの例よりも相当大きい上に定義が明確でない。どこから始めるのかなど、答えられていない疑問がたくさんある。仕事を完成させるために何をしたらいいかが正確にわかる可能性は低い。私にとってウェブサイトの作成とは正確にどういう意昧なのか、私が何を期待しているのかの説明を書くことはできるが、そこまで詳しく説明すると、読んで理解するために時間がかかるし、エラーが起きる可能性が非常に高くなる。

 大きなタスクは、見積もりも非常に難しくなることが多い。リストのなかからもっとも大きい要素を見つけるアルゴリズムを書くためにどれくらいかかるかと尋ねられれば、たいていの人がかなり正確な見積もりを出せるだろう。しかし、ウェブサイトのショッピングカート機能を実装するためにどれくらい時間がかかるかと尋ねられても、出せる見積もりはほとんど当てずっぽうになってしまうはずだ。

 つまり、大きなタスクは小さなタスクと比べて精神的に負担になり、日程が遅れがちになり、一般に説明が曖昧になってエラーが起きやすく見積もりが難しくなる。

ブレイクダウンの効用

 しかし、希望を失ってはならない。解決方法はある。大きなタスクのほとんどは、小さなタスクに分解できることがわかっている。実際、ほぼすべての大きなタスクは、ほとんど無限ともいえる個数の簡単で小さなタスクに分解できるのである。

 大きなタスクを小さなタスクに分割することは、できる仕事量を増やすとともに、自分か仕事をしたときにかかる時間をより正確に見積もるために、私がいつも使っている常套手段のひとつである。

 実際、この本の構成との一致は偶然ではない。読者は、この本にはなぜ、こんなにたくさんの章があるのだろうと思われたかもしれない。本書の執筆に取り掛かったとき、少数の大きな章を書くのではなく、多くの小さな章を書き、それをいくつかの部にまとめるという方法を意図的に選んだ。これにはふたつの理由がある。

 まず第1に、この方が、読者が内容を消化しやすいだろうということである。私の場合、長い章を含む本は、章全体を読むだけの時間がない限り、取り出して読むのを避ける傾向がある。長い章を持つ本は、そうでない本よりも威圧感があるので、私はそうならないようにした。読者から見ても、千から二千ワードの章の方が、細かく分けられていない大きな章を持つ本よりも、読みやすく、威圧的に感じないのではないだろうか。

 第2に、この方が私にとって楽だからだ。私は、ほとんどの人がデスクの前に座って本を書き始めたものの、書き上げられないで終わることを知っている。私も何度か自分で本を書こうとして完成させられなかった経験がある。各章を長いブログポストくらいの小さなものにしておけば、本を書くという仕事は、はるかに管理しやすくなる。大作を書くというひとつの大きなタスクではなく、小さな章を書くという80個程度の小さなタスクに立ち向かうことにしたのである。

 タスクを小さく分割するとき、それらのタスクは取り組みやすくなり、夕スクを終わらせるために必要な時間の見積もりはずっと正確になり、正しく仕事ができる可能性が高くなる。小さなタスクで仕事を間違えても、大きなプロジェクトに深入りしたり取り掛かったりする前に修正するチャンスが見つかることが多い。私は、ほとんどの場合で、大きなタスクを小さなタスクに分割するのは正しいと考えるようになった。

どのようにして分解するか

 大きなものを分解するのはそれほど難しいことではない。ほとんどのタスクにに度に1ステップずつ進むようにすれば、簡単に小さなタスクに分解できる。象の食べ方の引用は、まさに真実だ。象を食べられる方法があるとすれば、一口ずつ食べること以外に考えられない。ほとんどすべての大規模な仕事でも同じことが当てはまる。大きなタスクを意図的に分割しなかったとしても、線形に進む時間の制約を受ける。あることを終わらせなければ、ほかのことを終わらせられない。それが延々と続くのである。

 大きなタスクがあるときに、その威圧感を抑えたいなら、まずそのタスクを完成させるために、どのようなステップを踏んでいかなければならないかを明らかにする必要がある。大きなタスクを任されたとき、私がまずしてみることは、タスクを小さい連続的な部品に分解できるかどうかを明らかにすることだ。

 最近、クライアントが持つ継続的インテグレーションシステムとデプロイの手順をクライアントのコードににとって有効なものにするというプロジェクトに取り組んだ。これはとても大きなタスクだった。当初、このタスクは圧倒的で、難しく感じたが、頭からぶつかっていくのではなく、タスクを小さなタスクに分割するところから始めた。

 最初は、コマンドラインからそのコードをビルド、コンパイルすることから始めることにした。自動ビルドを作るためには、まずこの作業が必要なのである。次のタスクとしては、ビルドサーバーにコードをチェックアウトできるようにすることが妥当なところだ。すると、ふたつのタスクを結合する新しいタスクを作れる。つまり、ビルドサーバーにコードをチェックアウトして、コマンドラインスクリプトでコードをコンパイルするというものである。

 私は、このような形でプロジェクト全体を小さなタスクに分解していった。すると、とても太刀打ちできない猛獣が小さなネズミのように見えてきた。プロジェクト全体は非常に難しい問題のように見えたが、個々の小さなタスクはばかばかしいほど単純に見えたのである。

 大きなタスクを多数の小さなタスクに分割しようとすると、自分に何をしてほしいのかについての十分かつ正確な情報が与えられていないことがわかる。大きなタスクは小さなタスクよりもしっかりと定義されていないという指摘を思い出そう。小さくて明快に定義されたタスクを作るのを防いでいる情報の欠如を明らかにすることは、大きなタスクを小さなタスクに分割するときのきわめて重要なステップのひとっだ。大きなタスクを小さなタスクに分割するために苦労しているなら、それは情報の欠如によるものかもしれない。

 しかし、これは悪いことではない。情報が足りないことがプロジェクトを始めてかなりしてからわかるくらいなら、プロジェクトの初期の段階でわかる方がはるかにいい。大きなタスクを小さなタスクに分割するときには、小さなタスクが明確な目標を持つようにしよう。そのような目標を明らかにしようとすると、本来なら、なければならない重要な情報が足りないことが明らかになることがよくある。

 アジャイルチームで仕事をするときには、私はこのテクニックを使って顧客から適切な情報を引き出そうとすることが多い。顧客は、サイトにショッピングカートを追加するなどの大きなタスクを依頼するときに、自分が望んでいることをあなたに正確に言えない場合がある。しかし、あなたが大きなタスクを小さなタスクに分割できるなら、彼らがしたいことをあなたに伝えやすくなるようにすることができる。

分解の問題点

 ブレイクダウン:分解というアプローチは、コードや問題解決にも直接応用できる。新人開発者の多くは、書くのが難しいコードとか解決するのが難しい問題と感じてしまうものを解決しようとして、問題に圧倒されてしまう。それは一度に解こうとするには大きすぎる問題にぶつかっていってしまうからだ。彼らは分解の方法を知らないのである(私自身、まだたびたびそうなるという点では同じだということを認めなければならない)。

 私たちは、自分が書くコードの複雑さを管理するために、自然のうちに分解というアプローチを部分的に行っている。私たちがすべてのコードを収めたひとつの巨大なメソッドを書かないのはそのためだ。私たちは、自分のコードをメソッド、関数、変数、クラスなどの構造に分解して、コードを単純にしている。

 プログラミングするために与えられた課題は、いかに複雑でも、必ず小さな部品に分解していくことができる。複雑なアルゴリズムを書こうとしている場合には、しゃにむに前進してコードを書こうとするより、独立に逐次的に解決できる小さな部品に問題を分割するといい。アプリケーションがいかに大きくて複雑でも、必ずコード行に煮詰めることができる。1行のコードは、どんなプログラマでも理解でき、書くことができる複雑度を決して越えない。だから、問題を十分細かく分解するつもりがあれば、わずか1行のコードを書くだけの能力だけでどんなアプリケーションだって書けるのである。
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生産性を高めよう すべては集中から始まる

『SOFT SKILLS』より 生産性を高めよう

集中とは何か

 単純に言えば、集中は散漫の逆である。問題は、私たちの住む世界が注意を逸らすものに満ちていて、本物の集中とはどんなものかを知らない人が多いということだ。一日じゅう働いても集中できなかったということは簡単に起きる。メール、電話、テキストメッセージ、気晴らし、割り込みといったものが絶えず襲ってきて、集中力を奪い、ついには集中とはどういうものかすら、わからなくなってしまう。最後に集中したときのことを思い出すのに苦労している読者のために、本物の集中というものを思い出していただこう。

 最近のできごとで、本当に難しい問題に取り組んでいたのはいつだづたろうか。おそらく、何らかのバグをフィックスしようとしていたとき、あるいは、自分のコードが動かない理由を調べていたときだろう。そのときは、仕事に必死で立ち向かっていて、寝食を忘れ、時間は飛ぶように過ぎていったはずだ。あなたの気持ちをあえて逸らそうとした人々はあなたに怒嗚られるほどだっただろう。あなたはすべての注意をひとつの仕事に注ぎ込んでいたのである。

 これが集中だ。私たちは時々このような状態を感じている。しかし、問題は、ほとんどの時間では集中していないことだ。ほとんどの時間、私たちはまったく集中とは逆のモードで仕事に向かっている。簡単に気が散って、しなければいけないことがわかっている仕事に入り込めない状態になる。集中は、人生の多くのことと同じように、勢いの問題だ。一度集中した状態に達してしまえば、集中し続けることは、集中することよりも簡単である。

集中の不思議

 私は普段、魔法の薬などを信じないが、集中が生産性向上に効く魔法の薬だということは認める。集中が買えるなら、クレジットカードの上限を使い切ってもかまわない。投資の元が取れることは、ほとんど保証されたも同然だとわかっている。集中はそれくらい大切だ。

 問題は、集中を欠くと、仕事が終わるまで非常に時間がかかってしまうことである。私たちの集中を破る(あるいは集中に達するのを邪魔する)誘惑は、実際にそれのためにかかった時間よりも、多くのコストを奪っていく。複数の仕事を並行して行うマルチタスキングを取り上げる第41章で詳しく説明するように、私たちが行う仕事の多くには、コンテキストスイッチのコストがかかる。ある仕事から別の仕事に移るときには、失った土地を奪い返すようなコストをかけなければ、新たな仕事を始めることはできない。

 集中は仕事に立ち向かおうとするときに、繰り返し繰り返し基礎を作らなくても済むようにしてくれる。そういう意味で、集中はきわめて重要だ。集中は、車を高速走行状態にするものだと言えるだろう。車が高速走行を維持するためには、それまでに何度かシフトチェンジをしなければならない。絶えず停止や発車をしなければならないとしたら、全体を通じてはるかに遅いスピードで進まざるを得ないだろう。5速にシフトアップして再び高速走行状態に達するには、かなりの時間がかかる。しかし、1度達してしまえば、ほとんど苦労せずにクルージング走行ができる。

 あなたも、とても一所懸命に働くことができたのに、それほど苦労しなかった経験があるだろう。集中した状態に達するまでには多少の時間がかかるものの、ひとたび集中状態に達してしまえば、短時間のうちに多くの仕事をこなせるのだ(捕まえどころのないバグと追いかけっこをしている場合は別だが)。

集中している時間を増やす

 集中がいかに大切かをこれ以上説明する必要はないだろう。あなたは、どうすれば集中している時間をもっと増やせるのかと考えているのではないだろうか(申し訳ないが、薬で集中を手に入れる方法はまだ私にもわかっていない。もしわかったら、あなたにもきっとお知らせしよ引。実際、集中した状態に持っていく方法を身に付けることはきわめて重要だ。集中状態になれなければ、第4部のここからの章はほとんど役に立たないだろう。私はあなたに世界じゅうに存在する生産性向上策を教えられるが、あなたが座って仕事に集中することができなければ、それらのテクニックはほとんど無力だ。

 集中する方法を実際に試すなら、今が絶好のときだ。今すぐ15~30分ほどかかる仕事を用意できるだろうか。この本には栞を挟んでおいて、すぐにやってみよう。しかし、完全に集中してその仕事に全力を注がなければならない。ほかのことは一切考えずに、仕事に向かおう。そのときに、どんな感しかするだろうか。

 先はども触れたように、集中には独特の勢いがある。集中モードに入りたいのなら、パチンと瞬間的に入るスイッチはないことを認識しよう。瞬間的に集中モードに入れるなら、あなたはちょっとした変人だ。あなたがコンピューターの前に座るやいなや、目をどんより曇らせながら一心不乱にタイピングを始めたら、人々はあなたを怖がるだろう。

 集中モードに入るためには、ひとつの仕事に向かうように頭をコントロールするという、最初の苦痛に耐え抜く必要がある。そして、その仕事があなたにとってとても楽しいものでないなら、最初のうちはかなり苦痛だ。しかし、ここがポイントである。苦痛と不快は一時的なものに過ぎず、それほど長い間続かないことを認識しよう。

 私がこの章を書くために初めて座ったとき、私はメールを見たい、トイレで小用を足したい、コーヒーを飲みたい、という燃えるような欲望を全部同時に感じた。しかし、私はもうコーヒーさえ飲んでいない。私の脳は、私が集中するのを妨げるためにあらゆる攻撃をしかけてきた。私はそれを鎮めて指に無理やりダイビングを始めさせなければならなかった。今の私は、何時間でもタイピングし続けられるようなゾーンに入っている(30分で終わるかもしれないが)。集中モードに入るためのポイントは、無理やり自分をその方向に進ませるということだ。

 私が生産性を上げるために使っているテクニックの大半は、集中モードに入るというこのバックボーンに支えられている。第38章では、あなたを強制的に椅子に座らせ、十分に長い間仕事に打ち込ませて、集中のゾーンに突入する勢いを作る「ポモドーロテクニック」について説明しよう。

話に聞くほど簡単ではない

 私の説明を読んだ読者は、集中モードヘの突入を実際よりも少し簡単に感じてしまったかもしれない。集中モードヘの突入は、キーボードの前に座ってダイビングを始めるだけで済むほど単純なものではない。シフトアップしてクルニジング走行に入るまでは、あなたに降り掛かってくる様々な誘惑と必死で戦わなければならない。誘惑と戦うためには、ちょっとした準備が必要だ。

 仕事を始める前に、あなたの内外からやってくる割り込みから自分を守るためにできることをすべてしておくようにしよう。スマホをサイレントモードに変え、気が散る元になるブラウザーウィンドウを閉じ、ホップアップを無効にし、ドアやキューピクルの入口に仕事中の札を吊るすことまで考えた方がいいかもしれない。札を吊るすという部分は冗談だろうと思われるかもしれないが、私は本気だ。同僚や上司は、最初のうちは少し抵抗するかもしれないが、あなたが一心不乱にコードを書き出したら理解してくれるはずだ。それどころか、彼らもあなたの魔法の薬を買いたいと思うかもしれない。

 これで仕事を始める準備が整った。コンピューターの前に座ってタイピングを始めよう。気が散るものは視野にはない。……ちょっと待て。誰かがあなたのFacebookに「いいね!」をしたかどうかを見なくちゃ。いやいや、こういうことは考えてはいけない。ここで仕事にしがみついていられるかどうかは、自分の意志の力を使えるかどうかにかかっている。最初のうちは強制しなければ集中できないが、いずれ弾みがついて自然に集中できるようになる。目標は、最初の5分か10分を耐えることだ。そこを過ぎれば、ちょっとした誘惑が襲ってきても、あなたの集中は破れないだろう。
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極右は全体を表していない

EUという超国家

 EUはグローバリゼーションとして、一律的な内部を求めた。これが答えにはなっては居ない。その中は国家である必要はないけど、それぞれの事情で異なるもの、分化して居るものになっていかないと統合できない。

 統合するメリットがない。全体の国家を作るだけではムリです。超国家は国家よりももっと小さな単位の上に成り立つものです。

 国家という単位は曖昧なものです。フランス人に対して,フランスはあるけど、フランスは多様なものを含んでいる。彼らを満足するためには行き来できるものが前提になる。国家という教会が邪魔になります。小さな単位にしない限り、全体主義になってしまう。

極右は全体を表していない

 国家に対して、政党というカタチで極右が出てくる。個々が小さくても、国でまとまれば大きくなる.そして、ナチのように国を乗っ取ろうとする。

 それぞれは単位の中の悩みであって、その中では小さい。個人的な要望の方が大きい。にもかかわらず、民族という単位でまとまるとお化けになっていく。

 ペテルスブルグの反乱であるものが、ロシア全体の生態が変わる。その結果、ウクライナのように,それぞれのバランスで生きてみたものが崩れる。これがクローバリズムを間違って、使ったやり方です。答えにはなっていません。

 スロヴァキアではないけど、多くの民族を抱えながら,ヨーロッパは生きてきた経験を持っている以上、それぞれが異なる単位として、一番上にEUを置けばいい。国家という縛りは生活に関係ない。

神宮の先にあるもの

 神宮三日間。台風を超えられるか! その先にあるものは何か。

 松村のバースデー集合写真のなかにキャップテンを発見、出られるんだ! 一ヶ月の体調不良から戻った? それにしても全員がカッパ姿。やり抜く意志にあふれている。

 集合写真をよく見ると、生駒らしき女性がFOXサインをしている。もしかすると、すぅの姉貴のひめたん?
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記念すべき日

ラジオ局でネットテレビ

 ラジオ局にネットテレビを持ち込むだけで、ラジオを超えます。ヘタしたら、テレビも超えます。サブ画面で色々なところにつなげていけば、立体的になります。これに360度の視点で何を見ていくかの機能が加われば、分化できます。

 個人的な関心事、あるメンバーに視点を与えることもネット放送ではできます。地上波の24時間テレビより乃木坂46時間テレビの方が発見が多い。

生産性と存在

 そろそろ、生産性を気にしないといけないけど、すべてが終わるときに対しては、すべてが有効ではない。自分の中の位置づけだけです。今みたいな怠惰なカタチでは、何か納得しないだろうという予感だけです。

最終コンタクトから結論

 最終コンタクトは5月25日。ということは3カ月を経過しました。以前と比べると、遠くになっていると言うよりも存在を感じられなくなっている。中野との別れを思い起こさせる。

 そうなると、頼れるのは未唯宇宙しかないかな。

歯が痛い

 歯がないのに,歯が痛い。これに気がついたのは、新刊書が一冊も手にできなかった瞬間。

 これは足がないのに,足が痒いのと同じです、

記念すべき日

 今日はたぶん、記念すべき日なんでしょうね。3時に豊田市図書館に行ったのに、一冊もゲットできなかった。これの意味を考えると、未唯宇宙の完成とのつながりを感じます。

 「本に頼るな!」という事なんでしょう。これをいかにアウトプットにつなげるか。自分にとってのアウトプットとは何か。誰もが存在しないと思っている私にとって、未唯宇宙を承認してもらう必要はない。

 あるとしたら、大いなる存在との関係しかない。外部との接点である、パートナーとのコンタクトがない以上、外なる世界に何もない。

 となると、内なる世界で未唯宇宙の完成を目指して、存在をなくしていく。最後の最後でどんでん返しがあるような気もしている。と言っても、一般で言うところのものでないでしょう。今週は未唯宇宙の果てを考えるには丁度いいかもしれない。
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私たちの世界 我々はヒトラーの世界の中を動き回る

『ブラックアース』より

私たちの世界

アメリカ人で戦車が砂漠で機能するのを否定する者はいまいが、アメリカ人で砂漠の面積がどんどん広がっているのを否定して止まぬ者はいる。アメリカ人で弾道学を否定する者はいまいが、アメリカ人で気候学を否定して止まぬ者はいる。ヒトラーは科学が栄養学という基本的問題を解決できることを否定したが、テクノロジーで領土を勝ち取れると決めてかかっていた。それに続くように思えたのは、研究など待っているのは無意味であり、即座に軍事行動に移ることが必要だということだった。気候変動の場合でも、科学の否定は同じように、テクノロジーヘの投資より軍事行動の方を合理的としてしまう。仮に人々が気候変動に自ら責任をとらなければ、その者たちは気候変動に伴う災厄の責任を他の者たちに転嫁することになる。気候学の否定が技術的な発展を妨げるならば、その否定は本物の災厄がやって来るのを加速するかもしれず、その災厄が今度は破局という考えをずっと真実味のあるものにしかねない。政治が生態学的なパニックに堕するという悪循環が始まりかねないの塔。

自由市場は自然なことだという一般の観念もまた、科学と政治の融合である。市場は自然ではない。自然に依存しているのだ。気候は取引される商品ではなく、経済活動そのものの前提なのだ。少数の人間のための利潤の名において世界を破壊する「権利」を主張するなどというのは、重要な概念上の破綻を露呈している。権利というのは抑制を意味するのだ。どんな人間も自身の中に目的を持っている。よって、ある人間の重要性というのは、誰か他の者がその人間に求めるものによって無に帰してしまうことはない。人々は、この惑星を舞台の謀議に荷担しているとか、消滅を運命づけられた人種である、などと定義づけられたりしない権利を持っている。人々は、彼らのホームランドを生息地と定義づけられたりしない権利を持っている。人々は、彼らの政体を破壊されない権利を持っている。

国家が不在になれば、いかなる定義にせよ「権利」は持続しえない。国家というのは、当然と見なされたり、いいように利用されたり、あるいは廃棄されたりすべき組織ではなく、長く静かな努力の賜なのだ。右翼のように嬉々として国家をばらばらにしたり、左翼のように訳知り顔でその破片を凝視するのは、そそられるが危険なことである。政治思想というのは、破壊であったり批評であったりするのでなく、歴史から学んだ複数の組織についての想像力なのだ--それでこそ、生命と品位とを将来へと維持しうる「現在」の営みとなる。多様性を示す一例は、政治と科学の間にある。政治と科学の異なった目的を認識することが、権利と国家について考えることを可能にする。政治と科学という異種を混成してしまうのは、国家社会主義のような全体主義イデオロギーヘの第一歩となる。多様性を示すもう一つの例は、秩序と自由の間にある。人は誰でも他者と異なっているが、他者に依存もしている。秩序が自由であるとか、自由が秩序であるとかいう主張は、独裁権力に行き着く。自由は秩序の不在だという主張は無政府状態に行き着くが、無政府状態は特殊な形をとった独裁権力でしかない。政治の要諦は、ナチスにせよ何にせよ、全体主義の夢に屈するのでなく、多様で単純化できない幸福を継続させることだからである。

スターリンのグラーグで苛酷な日々を過ごし、一方その弟マウルィツィはユダヤ人を匿っていたグスタフ・ヘルリンク=グルジンスキはこう記した。「人間は人間的条件の下でのみ人間たりうる」。国家の目的は、その市民が個人的に生き延びるのを唯一の目的と見なす必要がないように、そうした人間的条件を維持することである。国家は、権利を承認し、保証し、保護するためにある。裏を返せば、その条件下にあっては権利が承認され、保証され、保護されうる、そんな条件を国家は生み出さねばならない。国家は永続性の感覚を生み出すべく持続しているのだから。

最後の多様性は、よって時と関わってくる。我々が過去と将来についての感覚を欠くと、「現在」はぐらぐらする舞台、活動するには不確かな足場に感ぜられる。国家と権利とを保護するのは、仮に誰一人過去から学ばず、将来を信じていなければ、取りかかれるものではない。歴史を知ることは、イデオロギー面での罠に気づかせるし、何もかもが突然に変化したというので拙速な行動に移る必要について疑いを挟む気持ちも生じさせる。将来を信じることで、世界を、ヒトラーの言葉を借りれば「きっちりと測られる空間である地表」に留まらぬものと見せることができよう。四次元の時のおかげで、空間という三次元を閉所恐怖症的に眺めるきらいは薄れる。持続を確信することは、パニックの解毒剤になろうし、デマゴギーに対し気付け薬となろう。将来という感覚は、日常生活という三次元から構築した四次元の我々の過去についての知識から、「現在」において生み出されなければならない。

気候変動の場合には、我々は、パニックを抑え、時と折り合いをつけるために国家には何か可能かを知っている。我々は、動物よりも植物から栄養をとる方が、たやすい上に費用が安くつくことを知っている。我々は、農業生産性における改善が続いていること、海水の淡水化が可能であることを知っている。我々は、エネルギー使用効率が温室ガスの排出を減らす最も単純な方法であることを知っている。我々は、各国政府が、炭素汚染について「価格」を割り当てられること、相互に将来の排出量の減少を締約し、その締約が遵守されているかを査察できることを知っている。我々はまた、各国政府が、エネルギーについて適切なテクノロジーの発展を奨励できることを知っている。太陽光や風力によるエネルギーは、これまでになく安上がりとなっている。核融合や核分裂、潮力発電、収穫物に依存しない生物燃料は、新しいエネルギー経済にほんものの希望を与えてくれる。長い目で見ると、我々は大気中から二酸化炭素を集め貯蔵するための技術も必要とするだろう。こうしたことのすべてが、考えうるだけでなく、達成しうるものなのだ。

将来について落ち着いて考えられるように、国家は科学に投資すべきである。過去について学ぶことで、これが賢明な選択である所以が理解できよう。時が思考を支え、思考が時を支える。また、構造が多様性を支え、そして逆もまた真である。こうした論の組み立て方は、広汎な災厄を待望したり、個人的な救済を夢想するほどには、魅力的でないだろう。大量殺戮の効果的な防止はますます増加しているし、それを行う英雄は表に出ない。持続する国家という観念で、全体主義に太刀打ちできるものはない。環境保護主義の政治は、「ブラックアース」に流れる赤い血ほどわくわくさせるものには未来永劫ならない。けれども、悪に反対するには、感情を呼び覚ますような威勢の良いものでなく、健全なものが必要である。自然と政治における、秩序と自由における、そして過去と将来における多様性は、二〇世紀の全体主義的なユートピアほど人を酔わせるものではない。いかなる単一性も、イメージとしては美々しいが、論理としては循環的であり、政治となると専制的である。全体主義を求める者たちへ与える解答は無政府状態ではない。なぜなら、無政府状態は全体主義の敵ではなく、僕であるからだ。解答は、思慮に満ちた、多様性を持つ制度だ。しかり、差異を生じさせる創造を果てしなく紡ぐことである。これは、想像力、成熟、そして生き存えることの問題である。

我々は、ヒトラーと同じ惑星に住んでいるし、彼の関心事のいくつかを共有している。我々は自分で考えているほどには変わっていない。我々は自分たちの生存圏を好んでいるし、政府を破壊することを夢想しているし、科学を誹誇するし、大災厄を夢想する。仮に我々が、自分たちは何らかのグローバルな陰謀の犠牲者であると考えるなら、我々はまっすぐではないにせよヒトラーの方へとじりじりと進んでいるのだ。仮に我々が、ホロコーストは、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人、リトアニア人、ウクライナ人等々どの民族でも良いが、彼らに固有の民族性の結果だと信じたなら、その時点で我々はヒトラーの世界の中を動き回ることになるのだ。

ホロコーストを理解することは、人間性を失わないようにするための好機、たぶん最後と言ってよい好機だ。ホロコーストの犠牲者にとっては、今更及ぶところでないが。いかに膨大なものであっても善をいくら積み上げたとて、悪を取り消すことはできない。いかに成功しようとも将来の救助が、過去における一件の殺害を起きなかったことにはできない。一人の命を救うことは世界を救うことだというのはおそらく正しいのだろう。けれど、逆は真ではないのだ。世界を救うことで、失われたただ一つの命も取り戻すことはできないのだから。
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主権と生存 オランダとギリシャのユダヤ人の命運

『ブラックアース』より

オランダは西ヨーロッパにあって、国家のない状態にいちばん近かった。オランダの主権は、ヨーロッパ大陸のこの一帯においてはなじみのないいくつかの点で損なわれていた。一九四〇年五月にウィルヘルミナ女王がロンドンヘ向けて去ると、国の元首はいなくなってしまった。加えて、オランダ政府も女王を追って亡命した。実質的に指導層を失った官僚制度は、オランダ国民にいちばん役に立つように振る舞え、という指示だけ受けて残された。西ヨーロッパではきわめて珍しいことに、SSは内政を根本的に管掌しようとして、それを果たした。アルトウル・ザイス=インクグァルトは経験豊富な国家破壊者だったが、占領されたオランダの国家弁務官に任命された。ザイス=インクヴァルトは、オーストリアが消滅した日々の首相を務めた。その後、ナチスの解釈では「ポーランド国家など存在しなかった」ことになるが、ポーランドの地の一部に創られた植民地である総督府でハンス・フランクの下で副総督になった。国民がポーランド人より人種的に優れている、実際にドイツ人と同じ人種集団に属すると見なされたオランダでは、こうした論法は適応されなかった。それにもかかわらず、いなくなったオランダ政府の空白を埋めたのはSSの国家破壊者だった。

 アムステルダムは、ドイツがゲットーを造ろうと考えた西ヨーロッパでは唯一の都市だった。こうした議論さえ起こるということが、SSの度外れた支配を物語っている。ドイツ占領当局は、アムステルダム市議会と(オランダに残っていた)閣僚会議が反対したのでその計画を取り下げたが。このことは占領下オランダと占領下ポーランドの違いを露わにしている。占領下ポーランドでは、地方レペルにせよ国政レベルにせよ、内実のあるものとして当局と呼べるものが存在していなかったのだ。けれど、オランダ警察はポーランド警察と同じように、直接ドイツ占領当局の指揮下に入った。ポ圭フンドにおけると同じように、オランダ警察は粛清を受け、警察高官らは概ね追放された。およそ五〇〇〇人という大量のドイツ人警察官が、オランダ人の部下を監視していた。これまたポーランドにおけると同じように、オランダでも、戦前の国家秩序の断片--実際にかつては信教の自由を象徴していた諸機関--を絶滅の任務に向けることができた。ポーランドでは、一九三〇年代の合法的なユダヤ人の評議会が、ドイツの支配下で「ユーデンラート」(ユダヤ人評議会)に変えられた。オランダでは、それまですべての宗教・宗派が法的承認を得るために共同体に編成されていたし、すべての市民が宗教・宗派によって登録されている状況だった。このことは、予め存在していたユダヤ人市民の正確なリストをドイツ側が利用できることを意味した。オランダ市民は抗議したが、ほとんど効果はなかった。オランダの地下組織は抵抗したが、どちらかと言えば、ユダヤ人をより不利にしただけだった。ドイツとオランダの警察官たちは、地下組織が活動していると思う地区に張り付いたが、その過程で隠れているユダヤ人を見つけ出したのだ。

 オランダでのユダヤ人救助者や反体制者をめぐる状況は、ポーランドでとはまるで異なっていた。たとえば、オランダでユダヤ人を匿ったものは、罰せられないか、軽い罰を受けるかで済んだ。例を挙げれば、ライデン大学のルドルフ・クレヴェリンガ教授のように公然と反ユダヤ法に抗議する者もいたが、収容所に送られはしたが殺されはしなかった。一方、クラクフやウッチでのポーランド人の大学教授なら、「ただ教授というだけで」殺されてしまった。

 オランダ人は、ユダヤ人でないかぎり、被占領国の「市民」として扱われた。オランダには主権を支える基本的な組織がなかったし、オランダの諸機関は東ヨーロッパ型に断片化されていたので、国家のない状態の地域とまるで同じおぞましさではなかったにせよ、ユダヤ人にとって結果は似通っていた。オランダのユダヤ人の最初のアウシュヴィッツヘの移送は一九四二年七月だった。オランダには主権国家としての機能がなかったので、外交政策もなく、一九四三年になっても方向を変えることもできなかった。ドイツがユダヤ人に何が起きるかを決めたが、それはオランダからアウシュグィッツヘの列車が一九四四年を通して走り続けることを意味したのだ。

 異なった風にとはいえ、ギリシャの主権もひどく損なわれていた。ギリシャは元々一九四〇年一〇月二八日にイタリアにより侵攻されていた。ギリシャ軍はイタリア軍と戦い勝負がつかず、ムッソリーニを援けるためにヒトラーまで介入を余儀なくされた。ギリシャの独裁者は、土壇場で死亡した。ドイツは一九四一年四月六日にギリシャに侵攻した。国王と政府は、四月末までには亡命した。ドイツは、ポーランドでしたようには、ギリシャの国家を破壊しようとしなかったが、こうした異常な事態のなかで、ギリシャ傀儡政権が何の力も持だない占領体制を敷いた。ギリシャは領土を失った上、三ケ国に占領された。ドイツは、自らは北部をとり、南部はイタリアに委ね、マケドニアの一部をブルガリアに割譲した。きちんとした権限を行使しうるギリシャ政府は、戦争の間樹立されなかった。首相でさえ、大臣たちを指名するのにドイツとイタリアの占領当局の意見を求めなければならなかった。ギリシャ外相なる者は存在しなかった。ドイツもイタリアも、ギリシャ政府が、新しい国境線の中での新体制が国際的に承認されるのを求めることを許さなかった。ギリシャ政府は、食糧供給さえ管理できなかった。戦争の最初の年に、およそ五万人のギリシャ人が餓死した。

 ドイツ軍が支配していたところでは、ギリシャ・ユダヤ人の殺害が進んだ。イタリア人は、スペインから何世紀も前に逃げ出したユダヤ人の末裔、ラディーノ語を話すギリシャ・ユダヤ人のことは、自分たちと同じラテン文明に属すると見なしていた。イタリアの役人は、たくさんのそうした人間たちに、イタリア国籍であるという偽の証明書を交付した。ギリシャでもユダヤ人の居住する都市として主要な存在であるサロニカ(テッサロニキ)は、T九四一年四月からドイツ占領下にあった。ドイツ軍は「平均的なギリシャ人にとって、ユダヤ人問題など存在しない」ということを理解したが、地元の政治的エリートや専門職エリートは、法の機能しない状態やドイツの優先順位が、自分たちの欲望を満たすのに使えると諒解していた。ユダヤ人が、もはや国家の態をなしていないところの市民ですらなくなっているなら、他の人間たちは戦前の要求を履行したり、頭隠しての欲望を満たすことができるのだ。

 一九四二年夏、ドイツがどうしても労働力が欲しかったときに、地元のギリシャ当局は、ユダヤ人だけを使う方が政治的に賢明だろうと助言した。このことは、人口の一集団に熔印を押し、その脆弱さを確認するものだった。その年のもっと後のことだが、サロニカで、ドイツ当局は、ユダヤ共同墓地の所有権を市に引き渡すことで、積年の地元の要求を満足させた。そうした大規模な所有権の移転は、ドイツと地元の間の物質的共犯意識だけでなく、非ユダヤ人のギリシャ人とギリシャ・ユダヤ人の間の新たな精神的な障壁を生み出した。昔からの共同墓地を破壊し、数十万の遺骨を冒涜することは、その時点でも十分痛ましいことだったが、将来についての問題も提起したのだった。仮にサロニカのユダヤ人が生まれ故郷の市で死ぬことをもはや歓迎されないのなら、どこで死ねと言うのだろうか?

 一九四三年の年が明けて数週間のうちに、アドルフ・アイヒマンの近しい同僚たちが、アウシュヴィッツヘの迅速な移送を準備するという目標を携えて、サロニカに到着した。彼らは、イデオロギー的には公衆の共感は得られなかったようだが、ユダヤ人が他のギリシャ人から隔離されるのを利用しようという十分すぎるほどの意欲の方は見出せたように思える。サロニカのユダヤ人たちが星をつけることを強要されゲットーヘと押し込まれている間に、ユダヤ人でない者たちは、彼らの動産や時には家まで奪った。移送は一九四三年三月一五日に始まった。ユダヤ人たちはギリシャ通貨のドラクマを、偽造のポーランド通貨に交換していた。四万三八五〇人前後の老若男女が、一九四三年三月から六月にかけて、サロニカからアウシュヴィッツに移送された。タイミング的には珍しいものだった。ドイツがスターリングラードで敗北を喫した直後で、ドイツの同盟国も概ね鞍替えしようとか、連合国側への合図としてユダヤ人政策を変えようとしている時期だったからだ。けれどギリシャは、ドイツによって被占領「国家」として認識されていたが、所詮は国家のない地域に酷似していた。寝返るための戦時下の軍隊も有していなかったし、講和の合図を送れるかもしれない外相もまた端からいなかったのだ。
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人は移動しない。国が移動する

未唯へ

 1本しかない歯が痛み出した。

 また、「メンテナンス中」の張り紙が出されている。

 ちょっと、熱っぽい。36.9℃だった。

考える単位

 日本のように希なものをベースにして、世界を考えては答えにはならない。ヨーロッパはコミュニティ、ムスリムは共同体。中国は地域、アフリカは民族よりも部族でしょう。

 アラブの解決策はスンニ派とスンニ派を超えたところのカタチ、アラーは七世紀に現れて統一した。アラーの意思を持ったものが表れることで、大きく変わっていく。

人は移動しない。国が移動する

 人は移動するのではない。人はどこに居てもいいのだから、移動はしない。国が移動する。中間の場は中間の存在が変わっているだけ。一番上と一番下がつながっていく。LL=GGの世界では移動は移動ではなくなる。

 エストニアは国外に出て行く。頭脳流出。EUであることから、アイスランドとか北欧に出て行く、これは日本で言えば、秋田から東京に出ていくようなもの。

 かといって、秋田が日本から離脱するかというと、それはあまり考えられない。沖縄とか茨城なら少し考えられるが。EUも同じレベルになるほどの枠にしておけばいいだけで、むしろ、競争関係が生まれるのは当たり前。

故郷を作り上げる

 自分たちの故郷を作り上げる努力をしていく。そういった発想も当然出てくる。ラトヴィアの学生の50%は国外に出て行く。戻ってくるのは20%。これは日本の島根辺りを思い出します。

 ラトヴィアは国内にロシア語系住民が居る。それを前提とするには地域で考えるしかない。国で考えてはいけない。ロシアの地政学ではラトヴィア併合になるだけ。

字が読めなくなっている

 パソコンのホームページの字はほとんど読めません。タブレットで顔を近づけるから判別できるだけです。

移民に対する考え方

 労働力としての移民。だけど、来たのは人間だった。これがドイツの感覚。地域で考えるとそうなる。これは奴隷線の時代の感覚。いつの間にか中南米文化になっている。

 その流れの外に居る日本は,変革の最後の最後でしょう.間に合わないと思うけど。

玲ちゃんからメール

 玲ちゃんからメールが入りました。日本に来ています。本当にぶれないですね。レバノンのベイルートのスタバのマグとタンブラーを持ってきたみたいです。ソホクリスが私のために忙しい時間の中で、ベイルートで買ってきてくれた。

 安定のために家で調整中みたいです。。

 ぶれぶれのパートナーとは大違いです。だけど、ぶれぶれが好きなんですけど。
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