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平和を求めるなら個の自立

 平和を求めるなら個の自立しかない 存在の有限が故に個の目的を全体の目的よりも優先する
奥さんへの買い物依頼
ジョージアボトルコーヒー          98
みかん         398
食パン8枚   139
まぐろ          387
うどんスープ  98
マーガリン    198
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サーモンづくし           528
鍋野菜         258
テリヤキチキン           198
家族の潤いアップル    108
カマンベールチーズ    297
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第7章 生活を「生きる」 にする

 第7章 生活を「生きる」 にする
存在の力から独我論を見い出した
考える時間とツールを得る
宇宙に一人の感覚で生きる
孤立と孤独から家族を捉える
女性は家族制度からの自立
個の目的のために自立する
個と超の間の全てを知る
新たな数学から社会を変革する

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『「家庭」の誕生』

『「家庭」の誕生』

 『「家庭」の誕生』

理想と現実の歴史を追う

理念と実態の乖離――むき出しになる「家庭」

1「家庭」の飽和

個人化の時代

二〇二一年の「こども家庭庁」の名称変更の問題に際して、自民党内からは、「子どもは家庭を基盤に成長する」、「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」といった発言が相次いだという[『朝日新聞デジタル』二〇二〇年一二月二〇日]。こうした発言について、作家の山崎ナオコーラは、自身の子育ての体験を踏まえて次のように述べている。

「子育ての基盤が家庭」という言葉には「家庭」と「社会」を切り離し、閉じた場所であるかのようなニュアンスがあります。でも私には、この二つは地続きです。子育ては家庭で完結しないし、社会人が多様であるように、子どもや親、家庭も多様です。(…..)集団でなく、個として子どもや親をとらえられる社会は、小さな声が聞き届けられ、結果的に少数派も堂々と生きられる社会につながるはずです。生まれた瞬間から、人は個として存在している。そのことを忘れないでほしいです。

本書を通読してきた読者にとっては、「子育ての基盤が家庭」という観念は、歴史的に形成されたものであるということは自明であろう。この観念は、明治期に欧米社会の「家庭(Home)」のあり方に影響を受けた知識人たちが広めはじめたものだった。

明治初期であれば、「子どもは家庭を基盤に成長する」、「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」という発言は進歩的にも聞こえたかもしれない。「家庭」ではなく、「家」が社会の基盤であった時代では、母親の存在感は大きいものではなかったからである。

「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」という観念は、かつては女性の主体性の獲得とも結びついていた。「家庭」では「家」と異なり、夫に単に従属するのではなく、家事や育児を通して自律的に動く主婦になることが求められていた。

もっとも現在では、「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」という発言は、ある種の押しつけにも聞こえるだろう。「こども家庭庁」の名称変更に際しても、女性からの反対の声が多くみられた。山崎ナオコーラはこの点について、「女性からの声が目立ったのは、『家庭』は母親に向けられる言葉、という側面があるからでしょう。(…)『母親』は実際は自分の子や家庭の中だけを見ているわけではなく、社会を支える側でもある。(…)甘く見ないでほしいです」と述べている『『朝日新聞デジタル』二〇二二年二月二二日』。

実際に近年では、結婚、出産後も仕事を継続する女性は増加傾向にある。国立社会保障・人口問題研究所「第一六回出生動向基本調査」によれば、二〇一五(平成二七)~二〇一九年に第一子出産後に就業継続した妻の割合は五三・八%であり、二〇一〇(平成二二)~二〇一四(平成二六)年より約一一ポイント上昇した。

女性だけでなく、男性の意識も変化している。同調査によれば、男性がパートナーの女性に望むライフコースの理想像は、仕事と子育ての両立コース」が最多であり、「再就職コース」や「専業主婦コース」よりも高かった[国立社会保障・人口問題研究所二〇二二]。

また各々の家族の姿もさまざまである。昭和期のような三世帯同居や専業主婦世帯もあれば、夫婦ともに総合職に就いていたり、妻がパートで働いていたりするケースもある。あるいはひとり親世帯として暮らすことや、そもそも結婚しないという選択肢も珍しくなくない。現在は、画一的な「家庭」が営まれている時代ではないのである。

社会で共有されてきた生き方のモデルがゆらぎ、個人の選択可能性が高まることを、社会学では「個人化」と呼ぶ。現代日本においては、どのような「家庭」を営むか、あるいは営まないかということは、個人の選択の問題とみなされるようになってきている。

個人化は、社会の近代化にともなう現象であり、人びとが自分勝手やわがままになったことを意味するわけではない。また一方で、人びとが本当に生き方を選択できているのかという問題もある。たとえば非正規雇用で経済的に安定せず、結婚したくてもできないというケースや、近隣に子どもを預けることができる環境がなく、仕事と育児の両立を諦めるケースは珍しくない。これらは個人の選択というより、社会構造の問題である。

昭和が終わり、平成、そして令和の時代を迎えた。この道のりは、高度経済成長期に成立した「家庭」のあり方が、理念としても実態としても大きくゆらいだ時期にあたる。かつての「家庭」を支えていた企業や地域社会の安定が失われ、それまでのような家族生活を営むことが困難になる人びとが増える一方で、新しい生活モデルが目指されたり、あるいは特定の「家庭」像が声高に唱えられたりしている。

あらためて現在は、これまでの生き方のモデルがゆらぐなかで、「個人」と「家庭」の関係が問い直されている時代なのではないだろうか。「個人」としてどのような生活を営むのか、あるいはどのような相手とともに暮らすのか、そして多様な「家庭」や共同生活を社会がどのように包摂していくのか。

本章では、これらの問題を考える前提となる、一九七〇年代後半以降の「家庭」の状況をみていく。

辛口ホームドラマの時代

第四章でもみたように、日本における「近代家族」的な「家庭」の最盛期は、専業主婦の割合を基準にすれば、一九七五(昭和五〇)年前後である。だがこの時期には、「家庭」の解体を予感させる表現も、メディア上に多くあらわれはじめていた。

「家庭」の解体の予兆のひとつは、テレビドラマにおける家族関係の描かれ方にみることができる。一九七七(昭和五二)に放映された、山田太一脚本の『岸辺のアルバム』は、その代表的な作品のひとつである。

『岸辺のアルバム』は、一九六〇年代のホームドラマと同様に、東京郊外に住むサラリーマンと専業主婦、そして二人の子どもという、典型的な中流家族を描いた作品であった。しかし六〇年代のホームドラマが明るくハッピーエンドに終わる家族の姿を描いていたのに対して、この作品の基調となっていたのは家族の不和であった。

仕事人間の夫は家族とコミニケーション不足気味であり、勤めている会社も倒産寸前。妻は良妻賢母的な専業主婦だが、心の穴を埋めるために浮気に走る。大学生の娘は家族に対して心を閉ざしがちで、受験生の息子はバラバラになっていく家族の姿に葛藤を抱えている。
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『図書館員の未来』

『図書館員の未来』

 『図書館員の未来』

デジタルネットワーク時代の著作権法

―未来の図書館員の意識改革のために

村井麻衣子

はじめに

デジタル技術やネットワークの進展に伴い、著作権法の改革が求められている。近年は頻繁な改正がおこなわれていて、二〇二一年には図書館関係の権利制限規定である第三十一条が改正され、インターネットを通じた図書館資料の利用可能性が拡大した。

図書館と著作権法の関わりについて、従来は、現行の著作権法を前提とし、どのようにして著作権法を順守して図書館サービスや業務をおこなうかということに焦点が当てられることが多かった。社会的にコンプライアンス(法令順守)が求められる以上、著作権法に抵触しない方法で図書館サ―ビスを提供しなければならないのは当然のことではある。しかし、未来の図書館を視野に入れるならば、従来の著作権法を所与のものとせず、望ましい図書館のあり方を実現するために著作権法がどうあるべきなのかということを、図書館の側から提示していくことも必要になってくるだろう。デジタルネットワーク時代の現在、著作権法が変化しつづけているなかで、図書館員の著作権法に対する姿勢や認識もアップデートしていくことが求められる。本章では、現在様々な側面から指摘されている著作権法の課題を共有し、図書館と著作権法をめぐる問題を整理することで、未来の図書館員が時代に適した図書館の実現に向けて著作権法の課題を解決していくために、何が必要とされるかを考える。

1背景著作権法の課題

技術的環境の変化

デジタル技術やインターネットの発達によって、著作権法をめぐる状況は大きく変化した。「著作権法の第三の波論」では、著作権制度の歴史的変遷を三つの波に例えている。第一の波は著作権制度の成立を促した印刷技術の普及(十六世紀以降)であり、第二の波である複製技術の普及(二十世紀半ば以降)は、著作権を私人の活動を規制する権利に変容させた。さらに、インターネットの普及(二十世紀末)という第三の波によって、誰もが情報を公に送信することができるようになり、私的領域と公的領域が混然一体として分かちがってきた。著作物の利用がきわめて容易になり、その機会も増加している。

このようにデジタル化が進みインターネットが普及した現在は、著作権法にとっての「憂鬱の時代」であるともいわれる。著作権制度のあり方そのものを根本的に改革すべきだとして、パラダイム転換の必要性やリフォーム論も唱えられてきた。

デジタル技術やインターネットの発展は、社会を豊かにし、図書館サービスやデジタルアーカイブをより便利で充実したものにする可能性をもたらす。著作権制度が足かせになって、技術による恩恵の享受に失敗することがあってはならないと指摘されているように、現代の技術的環境に応じた著作権法のあり方を模索していく必要がある。

少数派バイアス――利用者の利益が法に反映されにくいという構造的課題

著作権法の政策形成は、少数派バイアスの問題に大きく影響されることが、近時、指摘されるようになっている。一般に、立法プロセスはロビイング活動の影響を受けやすく、組織化された利益は反映されやすいが、組織化されない利益は反映されにくい。特に著作権制度は、有体物のような物理的な歯止めが存在しないため、少数に集中した権利者側の利益が法に反映されやすく、広く拡散した利用者側の利益は、総体としては大きな利益であっても法に反映されにくいという、構造的なゆがみが生じやすい。

このような構造的なバイアスを矯正するためには、利用者側の利益を十分に汲み取った著作権法の立法・運用がなされることが必要になる。著作権法の目的として、権利者の保護と利用者の利用の自由のバランスをとりながら、最終的に「文化の発展」に寄与することが掲げられているように(第一条)、権利者の利益とともに利用者の利益にも十分配慮することが求められる。

2図書館と著作権法第三十一条

著作権法第三十一条

著作権法は、第三十一条に図書館に関する権利制限規定を置いている。著作権の存続期間が過ぎていない著作物については、原則として複製(コピーなど。第二十一条、第二条第一項第十五号を参照)や公衆送信(インターネット上へのアップロードなど。第二十三条、第二条第一項第七の二号を参照)など、著作権法が定める一定の行為に著作権が及ぶが、第三十条以下に規定される著作権の制限規定に定められている行為は、著作権者の許諾なく自由におこなうことができる。

第三十一条は、いわゆる「複写サービス」(第三十一条第一項第一号)や、「保存のための複製」(同項第二号)、「他の図書館等の求めに応じた複製」(同項第三号)などを図書館がおこなうことができる旨を定めてきた。

第三十一条に基づいた複写サービスとして、図書館等は調査研究をおこなう利用者の求めに応じ、公表された著作物の一部分を一人につき一部、図書館資料を複製して提供することができる。従来、複製と複製物の提供だけが認められていて、紙に複写したものを郵送することはできるが、ファクスやメールなどで送信すること(公衆送信)はできないという課題があった。

二〇〇九年には、現在の第三十一条第六項が新設され、国立国会図書館は納本と同時に図書館資料を電子化(デジタル化)することが可能になった。さらに一二年に現在の第三十一条第七項が追加され、絶版等資料(絶版などの理由によって一般に入手することが困難な図書館資料)に限って、ほかの図書館などヘインターネット送信することが可能になった。しかし、入手困難資料のデータの送信先は図書館などに限定されていて、利用者が電子化資料を閲覧するためには図書館などに赴かなくてはならないという課題があった。

二〇二年著作権法改正

二〇二一年、新型コロナウイルス感染症の流行でインターネットを通じた図書館資料へのアクセスのニーズが顕在化したことなどを背景に、第三十一条が改正された。①国立国会図書館によって電子化された資料のうち、絶版などの理由によって一般に入手することが困難な図書館資料をインターネットを通じて個人向けに送信することが可能になるとともに、利用者の調査研究の用に供するため、図書館資料である著作物の一部分を公衆送信することが可能になった。

「国立国会図書館による絶版等資料の個人向けインターネット送信」は、絶版等資料を利用者に直接インターネット送信することを可能とするものであり(第三十一条第八項)、二〇二二年五月十九日からサービスの提供が開始された。対象になる資料は、絶版等資料のうち三ヵ月以内に復刻などの予定があるものを除いた「特定絶版等資料」(第三十一条第十項)である。

②「図書館等による図書館資料の公衆送信」は、従来のいわゆる複写サービスについてインタ―ネット送信など(公衆送信)を可能とするものである(第三十一条第二項)。公衆送信が可能な範囲は、従来の「著作物の一部分」という原則を維持しながら、複写サービスを含めて、著作物の全部を複製もしくは公衆送信できる場合として、「国等の周知目的資料その他の著作物の全部の公衆送信が著作権者の利益を不当に害しないと認められる特別な事情があるものとして政令で定めるもの」が規定された(第三十一条第一項第一号かっこ書き、同条第二項かっこ書き)。「政令で定めるもの」としては、改正前に著作物全部の複製が認められていた「発行後相当期間を経過した定期刊行物に掲載された個々の著作物」などが定められた(著作権法施行令第一条の四、同法第一条の五)。また、「著作物の種類(略)及び用途並びに当該特定図書館等が行う公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合」には、公衆送信をおこなうことができないと定めるただし書きが設けられた(第三十一条第二項ただし書き)。絶版等資料に限らず一般に入手可能な資料対象になるため、権利者の利益に配慮して補償金の支払いが義務づけられている(第三十一条第五項)。

11月28日(火) 『「家庭」の誕生』

 『「家庭」の誕生』

理想と現実の歴史を追う

理念と実態の乖離――むき出しになる「家庭」
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『国際社会学・超入門』

『国際社会学・超入門』

 『国際社会学・超入門』

移民問題から考える社会学

「ヨーロッパ難民危機」はなぜ「危機」だったのか?

Quizクイズ

Q4.12015年、シリアなどから「難民」と呼ばれる人々が多数ヨーロッパ連合(EU)の領域に流入し、社会問題になりました。その1年間で何人が流入したでしょうか。A.1万2000人以上6.12万人以上c.120万人以上d.1200万人以上

Q4.22015年、EUに流入した「難民」と呼ばれる人々は、EUの加盟国のうち、どの国をめざしていたでしょう。最も多くの難民申請がなされた国を答えてください。A.ノルウェーb.スイスc.ウクライナd.ドイツ

Q4.3「難民」は国際法で定義された存在です。次のうち、国際法上、「難民」と見なされる可能性が最も高いのはどれでしょう。A.環境難民b.条約難民c.経済難民d.ネットカフェ難民

Q4.4道徳的に劣っているとして社会的に確立した体制、それを代表する人々や諸集団を敵対視し、自分たちだけが人民を代表すると主張して他の考えを持つ人々を認めない政治的な考え方、または政治手法は、次のうちどれでしょう。A.ネオリベラリズムb.グローバリズムc.ポピュリズムd.アナキズム

Answerクイズの答え

A4.1C.120万人以上

シリア以外にも、アフガニスタン、イラク、コソボ、アルバニアなどからEUへと移動していきました。

A4.2d.ドイツ

ちなみに、a、ノルウェー、b.スイス、c.ウクライナは2015年時点でEUの加盟国ではなく、2023年7月時点でも加盟していません。

A4.3b.条約難民

条約難民は、1951年難民の地位に関する条約(難民条約)の定義に当てはまると判断された人々のことで、「政治難民」とほぼ同じ意味で使われています。A.環境難民は環境破壊によって、b.経済難民は経済的に困窮することで、住むところを失った人々を指すことが多いです。しかし、いまだ法的な定義はなく、「難民」として保護される対象ではありません。D.ネットカフェ難民は、住居がなくネットカフェで寝泊まりする人々を指すことが多いようですが、これも国際法上の「難民」ではありません。

A4.4C.ポピュリズム(populism)

  1. ネオリベラリズム(neoliberalism)とは、経済や社会保障などへの国家の介入を最小限にし、公的領域に市場原理を貫徹することを望ましいとし、個人の自己責任を強調する政治的な考え方とその手法のことです。B.グロハーバリズム(globalism)とは、個々の国家やローカルな地域の独自性、個々人の生活などよりも、モノ、資金、人、文化・情報などの国境を越えた移動と、それにともなう制度や規範の世界規模での画一化を望ましいものだとする考え方です。D.アナキズム(anarchism)とは、国家や宗教などの権力や権威を否定し、対等な個人がその自由を最大限発揮しつつ社会をつくり上げるべきだとする考え方のことです。

Chapterstructure本章の構成

EUへの庇護申請者の殺到

なぜ、人々は移動したのか?
「難民危機」はなぜ「危機」だったのか?
解決策は妥当か?
「難民危機」が生み出したもの

「難民危機」をめぐる問い

2015年のことです。「ヨーロッパ難民危機」と呼ばれる出来事(以降では、「難民危機」とも表記します)が、日本においてもメディアによって大々的に報道されました。報道されたからには、よく知られているかと思いきや、意外にも何が起きていたのかを理解されていないようです。その理由は、第1に複雑で奥の深い現象であり、第2に比較的新しい事件であり、最後にある意味、現在(2023年)も継続している出来事だからといえます。

しかし「難民危機」は、なぜ危機だったのでしょう。この問いを国際社会学的に検討することで、難民および移民という存在がもたらす社会的影響を明らかにしましょう。

後に見るように、「難民」(refugee)とは国際条約に基づいて受け入れ国が認定してはじめて得られる法的な地位のことです。難民になることを希望して移動する人のことは、「庇護希望者」(asylumseeker)と呼ばれます。難民の要件を満たさなかったり、そもそも難民になるつもりがないような「移民」も少なからず国境を越えていきます。そこで、本章では国境を越えて移動する人々のことを「難民・移民」という表記で示しておきましょう。そして、次の3つの問いを導き手として「難民危機」に検討を加えていきましょう。1つめに、「難民危機」という名称の下でいったい何が起こったのでしょうか。2つめに、国際社会学的に見て、「難民危機」はなぜ「危機」だったのでしょうか。最後に、解決策といわれるいくつかの方策は有効なのでしょうか。

1「難民危機」において何が起こったのか?

EUへの庇護希望者の殺到

難民申請の急増

1つめの問いから見ていきましょう。「難民危機」において何が起こったのでしょうか。まずは事実の確認からです。図4.1は、ヨ―ロッパ連合(EU)加盟国全体において2015年の1年間に行われた難民申請数を示したものです。

これを3カ月ごとに区切ると、まず1月から3月までは18万9690件の申請があり、コソボ(26%)、シリア(16%)、アフガニスタン(7%)の出身者からの申請が多くありました。次に4月から6月には21万7455件と増え、出身国は頻繁に報道されたシリア(21%)を先頭に、アフガニスタン(13%)、アルバニア(8%)、イラク(6%)、コソボ(5%)などが占めました。7月から9月になると、難民申請数は42万2880件に跳ね上がり、シリア出身者(33%)とアフガニスタン出身者(14%)が多くなりました。10月から12月になると、難民申請数は落ち着きをみせ始め、39万245件に減少します。しかし、合計すると、2015年の難民申請数は、122万270件を数え、過去最多となったのです。

EU領域内への人の大量移動

翌2016年に難民申請数はさらに減少し落ち着きをみせたものの、海路でやってきた者に着目すると同年1月1日から2月11日までだけで8万3201件に上りました。このように、まず「難民危機」において何が起こったのかという問いへの1つめの答えは、難民・移民が大量にEU領域内に移動したという事実になります。そしてその筆頭はシリア出身者だったのです。

新しいルートの開発

バルカンルート

「難民危機」という名称の下で起こったことの2つめは、「新しいルートの開発」でした。

難民・移民がEU領域内へ入るルートとして2000年代に入ったあたりから注目されてきたのは、「中央地中海ルート」です。アフリカ大陸の北に位置するリビアなどから、海路でイタリアへ向かう船が多数現れるようになったのです。とくに、地中海に浮かぶイタリアの領土であるランペドゥーサ島は、イタリアのシチリアからだと220キロメートルなのに、チュニジアからは113キロメートルしかありません。イタリアからよりもアフリカ大陸からのほうが近いのです。それゆえ、EU領域へ入る「入口」として利用すべく多数の船が到着しました。

中央地中海ルートは2023年現在も難民・移民を乗せた船が少なからず移動しており、右派ポピュリスト政党の「イタリアの同胞」や「同盟」、左派ポピュリスト政党の「五つ星運動」などが渦巻くイタリアの政界が、厳しい態度をとっています。
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『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』

『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』

 『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』

ファシズムの胎動――国家は道具か主体か

「大衆もまた哀願するものより、支配するものをいっそう好み、そして自由主義的な自由を是認するよりも、他の教説の併存を許容しない教説によって、内心いっそう満足に感じるものである」(ヒトラー『我が闘争』第1巻1925年、平野一郎・将積茂訳角川文庫上巻、1973年、15ページ)

「今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてのアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。(中略)ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはない」(前掲書、414〜415ページ)

ナショナリズムからファシズムへ

なぜ戦争は起こるか?

第二次大戦とはいかなるものであったのでしょうか。それを知るために、ただ戦争の始まりから終わりまでの事実を追っても、おそらくなにも出てこないでしょう。

同じことは、第一次大戦に関しても言えます。たんに事件の発端から戦争の経緯を追っても、そこに出てくるものは政治であり、作戦であるにすぎません。そこに歴史をどう読み込むかという問題があるわけです。

レーニンが『帝国主義論』(1917年)で述べたように、第一次大戦は帝国主義による再分割の戦争であるという見方は、まさに歴史の読み方のひとつを示しています。帝国主義列強が植民地の争奪戦を展開した。なるほど、そうとも言えます。しかし、それもまたひとつの見方にすぎません。

ナポレオン体制崩壊後の復古体制の転覆という見方もできます。勃興する国民国家が、帝国を押しのけたということです。それによって王政が崩壊し、オーストリア帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、オスマン帝国などが消滅し、民族を主体とする国民国家がヴェルサイユ体制によってもたらされました。

いずれにしろ、こうした展開を必然化したものこそ、資本主義経済の発展であったわけで、資本主義社会の市場拡大が帝国主義戦争をもたらし、資本主義が国民国家と結びついたことが、帝国の崩壊をもたらしたということです。

そして資本主義経済は、やがてアメリカを世界の強国に押し上げ、ロシアに社会主義体制をもたらします。結果として、旧ヨーロッパ的国民国家が、この2つに挟まれるかたちとなり、第一次大戦後のヨーロッパは形成されました。そこでの原理は合理主義的であり、国際均衡、不戦条約、国際連盟、民族自決といったきわめて合理的な思想がありました。一方での民主主義と資本主義の繁栄であり、他方での社会主義とマルクス主義の興隆だったわけです。

しかし、その2つの間に挟まれたヨーロッパ地域は、こうした合理主義とは裏腹に第一次大戦後の復興がままならず、1920年代に困難な戦後を迎えたのです。戦勝国のイギリスやフランスは別として、ドイツ、スペイン、イタリア、そして東欧地域の戦後は決して楽なものではなかったわけです。ドイツやオーストリアのハイパーインフレーションだけでなく、戦後復興の遅れが、こうした国で不満を蓄積させていきます。

こうした状況を決定的に悪化させるものが、アメリカとソ連から押し寄せてきます。アメリカからは2年に始まる世界恐慌が、ソ連からは社会主義の影響力の増大と政権奪取への圧力がもたらされます。

そうした脅威が、それぞれの国民国家で不満の爆発を引き起こしたのですが、それがナショナリズムに向かっていったわけです。第一次大戦で生まれた、きわめて合理的な近代主義が、階級の崩壊をもたらし、人民に政治的解放をもたらしたのですが、それが労働者階級の団結という組織化に向かわない場合、ナショナリズムに向かい、経済的不満が合理的な経済発展へと向かわない場合、保守的な権力構造と結びつき、自国礼賛の愛国主義に向かったのです。その中心となったのが大衆(Masses)です。「マルチチュード」とも呼んでいいものですが、これは「はっきりわからない塊」という意味です。この大衆を扇動し、国家主義を打ち出したのがファシズムでした。

ファシズムの台頭―大衆による合理主義の否定

第一次大戦後、最も早く国家主義的政策を採ったのが、イタリアでした。ファシズムの語源、「Fascio」という言葉自体がイタリア語であり、「塊」を意味するこの言葉は、集団・国家を意味するものとして、国家主義という様相をとって出現します。

ドイツの社会学者エミール・レーデラー(1882~1939)は、『大衆の国家』(青井和夫ほか訳、東京創元社、1961年)のなかで、ファシズムを生み出した最初の実験であるフィウメのクーデタを取り上げています。この町は、今はクロアチアの港湾都市リエカですが、この地域にはイタリア系住民が多い。

第一次大戦の見返りとして、この地をイタリアは要求し、1924年にリエカは正式にイタリアに編入されましたが、この地で1年に起こった運動は、まさにファシズムの原型になったとレーデラーは言うのです。

ガブリエーレ・ダヌンツィオは軍人であり、詩人でもあるのですが、自軍を率い、弁舌によって大衆を煽り、フィウメの政権を奪取し、独裁を布きました。
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『ハイデガーの超政治』

『ハイデガーの超政治』

 『ハイデガーの超政治』

轟孝夫

ナチズムとの对诀/存在·技術·国家への問い

学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」

学問の必然性

以上で見たように、超政治は既存の哲学や学問に取って代わるものとして位置づけられていた。それゆえ超政治に初めて言及される覚書二九でも、それは「学問の変貌」と結びつけられていたのである。ハイデガーはさらに、覚書四八で「知の変貌の準備」について語っている。十年を必要とするこの準備は「現実の教師のうちに、また教育共同体のうちに現れる知の育成(Wissenserziehung)のある様式を要求する」(GA94,122)。そして彼は覚書五一で、このような「知の育成」の役割を大学に課している。「大学がわが民族に今後もなお属するべきならば、知の育成というその任務は今なお、まったく別の仕方で、根源的に根を下ろし、明瞭にされ、鋭くされる必要がある――わが民族の存在の根本様式としての知の苦難から」(GA94,123)。すなわち、大学は今や、存在者全体を耐え抜くという知の根源的なあり方に根差した教育を展開すべきだと言うのである。

ハイデガーは大学をこうした「知の育成」の場にすることを目標として、フライブルク大学の学長に就任するのである。あの悪名高い学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」(以下「自己主張」と略)で示されているのは、まさにこの知の育成の構想であり、結局これこそ「黒ノート」ではほとんどその名前が言及されるにすぎなかった超政治の具体的な内容を示している。それゆえ彼は第二次世界大戦後に自身のナチス加担について釈明するときも、自分が学長職を引き受けた理由は学長就任演説に示されていると述べ、つねにその参照を促すのである(GA16,430,654)。本節では以下で、この学長演説「自己主張」に示された新たな知の構想と、それに基づいたナチズムに対する彼の姿勢を明らかにしたい。

この演説の冒頭でハイデガーは、「ドイツ大学の自己主張」を「ドイツ大学の本質への根源的で「共同的な意志」と規定する(GA16,108)。そうだとすれば、この「自己主張」の意味を明らかにするには、まず「ドイツ大学の本質」を解明する必要がある。彼によると、ドイツ大学は「学問に基づいて、また学問によってドイツ民族の運命の指導者かつ守護者を教育し、陶治する上級学府を意味する」(GA16,108)。したがってドイツ大学の本質への意志は、まずは「学問への意志」として、また同時に「ドイツ民族の歴史的、精神的課題への意志」として規定される。つまりドイツ大学の本質への意志は、学問とドイツ民族の運命を同時に意志するものでなければならないのである。

ハイデガーによると、このことが達成されるのは、「われわれ――教師と学生が、一方で学問を自身のもっとも内的な必然性に晒すときであり、また他方でドイツの運命をまさにその究極の苦難において耐え抜くときである」(GA16,108)。ここで学問を内的な必然性に晒し出すこととドイツの運命を究極の苦難において耐え抜くことという二つの課題が提示されている。大学がおのれの本質を意志するということは、この二つの課題を担うことを意味するのである。前節で見たように、ハイデガー的意味での真の学問、すなわち形而上学が民族の歴史的存在をあらわにするものである限り、学問の必然性を取り戻すこととドイツ民族の運命を担うことという二つの課題は結局のところ、こうした形而上学の遂行に収斂していく。実際、以下でも示されるように「自己主張」では、学問の本質が民族の精神的世界の開示として規定されることになる。

ハイデガーが学問の必然性について問うとき、この問いの背景には、今日の学問からはその必然性が失われているという現状認識がある。つまり現代において学問は何のために存在し、また何のためになされているのかが見失われていると言うのである。しかしこうした学問の必然性を取り戻すには、当時、ナチスが喧伝していた「新しい学問概念」のように「あまりに今日的な学問〔自由主義的な学問〕に対して、その自律性と無前提性を疑ってかかる」だけでは不十分である(GA16.108)。この新しい学問概念は、すでに前節でも触れた政治的学問概念を指している。これは「価値判断からの自由」という自由主義的な学問理念に反対し、学問は決して自律的で無前提的な営みではなく、民族にとって有用なものでなければならないと主張する!である(GA16,656)。

ここでハイデガーは、「単に否定するだけで、ここ数十年間を越えて振り返ることもしない、こういったふるまいは、まさしく学問の本質を求める本物の努力を装うだけのものになってしまう」と批判する(GA16,108)。つまり政治的学問概念は、ここ数十年のあいだに学問がすっかり細分化、専門化されてしまい、その意味が見失われつつある状況を批判的に捉え、学問に対して民族への貢献という意味で政治的であることを求めるものだが、ハイデガーはそうしたやり方によっては学問の真の必然性を取り戻すことはできないと言うのである。

ギリシア的原初への回帰

さて、そうだとすれば、われは学問の必然性をいかにして取り戻すべきだろうか。ハイデガーがここで問うているのは、学問の意義とは何なのか、そもそもそれは何のために存在するのかという問いである。この問いに対して、ハイデガーは学問が真に存在しうるのは、「われわれがふたたび、われわれの精神的歴史的現存在の原初(Anfang)の力に服するとき」だけだと答えている。そして彼はこの「原初」を次のように説明する。

この原初はギリシア哲学の勃興です。このときに西洋の人間は民族性に基づいて、自分の言葉によって、はじめて存在者全体に反抗し、存在者全体をそれが実際にそのようなものとしてあるような存在者として問い尋ね、把握します。あらゆる学問は哲学です。(……)あらゆる学問は哲学のかの原初にしっかりと結びつけられています。学問はこの原初から、学問の本質の力を汲み取るのです(……..)。(GA16108f.)

つまり学問は哲学というその原初に立ち返るときのみ、その意義を取り戻すことができると言うのである。この哲学は今の引用箇所では、自分の言葉によって存在者全体に反抗し、それを把握することと規定されている。つまりここでもハイデガーが一九二〇年代終わり以降、形而上学として論じてきた存在者全体を捉える学が問題になっていることがわかるだろう。

ハイデガーはこれに続く箇所で、原初における学間の本質を明らかにするために、伝説上、最古の哲学者とされるギリシアの神ブロメテウスが、古代ギリシアの代表的な悲劇作家アイスキュロス前五二五前四五六)の悲劇「縛られたプロメテウス」のなかで語っている「しかし、知は必然よりもはるかに無力である」という言葉を参照している。これはプロメテウスが人間に火を与えたためゼウスの怒りを買い、罰として山頂に縛り付けられている状態で述べたという設定になっている。ハイデガーはまず、この言葉が「事物についてのいかなる知も、あらかじめ運命の圧倒的力に委ねられていて、この圧倒的力の前では無力である」ことを述べていると解釈する。

しかし如は単にこのような無力に甘んじているだけではない。まさにこの無力ゆえに「知は自分に能う限りの反抗を展開せざるをえず、その反抗に対してはじめて存在者の隠蔽性の総力が立ちはだかり、知は実際に無力をさらけ出す。かくしてまさに存在者はそのなぞめいた揺るぎなさにおいておのれを示し、知におのれの真理を委ね渡す」(GA16,109)。つまり原初の知とは「運命の圧倒的力に委ねられ」つつ、それをあらわにすること、すなわちおのれの意のままにできない存在者の存在を開示し、そのことにおいて自分の無力をあらためて自覚することを意味するのである。

すでに前節でハイデガーが超政治を原初への還帰として捉えていることを指摘した。彼が「自己「主張」で求めているのも、ギリシア哲学という学問の原初への還帰である。しかもこの原初は存在者全体を問い、把握することとして規定されている。つまりここで問題となっているのは、前節ですでに形而上学、超政治として論じられた知そのものである。学問の必然性は存在者全体に圧倒されながらも、それに対して問うという仕方で立ち向かわざるをえない点に存するのである。
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岩波講座『世界歷史16』

岩波講座『世界歷史16』

 岩波講座『世界歷史16』

国民国家と帝国一九世紀

一八四八年革命論

中澤達哉

はじめに

一八四八年革命は、一七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命やアメリカ独立革命、二〇世紀のロシア革命と異なり、革命という語の前に国名を冠しない。名称自体が単に勃発の年を表し、なおかつ、諸地域の革命の集合(revolutionsof1848/49)であることから分かるように、全容は実に捉えがたい。実際にこの革命は、一八四八年の上半期に瞬く間にヨロッパ全域に伝播し、大海原を越え、いとも容易にブラジルやコロンビアなど大西洋の対岸に達した。E・ホブズボームによれば、この革命は、「潜在的には最初のグローバルな革命」であったが、他の革命に比して「最も成功しなかった」(ホブズボーム一九八一:一二-一三頁)。同年二月のパリでの華々しい初発と、翌年八月のハンガリー独立戦争の敗北による失望感との間にある、あまりにかけ離れた落差をみれば、「諸民族の春」とは手放しに形容することができなくなる。この革命ほど評価しがたいものはない。

自由・平等・同胞愛を掲げたフランス革命から約六〇年の歳月が経っていた。すでに大革命を肌で知る世代はほぼいない。人びとはメッテルニヒ(KlemensvonMetternich)の復古主義をむしろ肌で体験していた。このような中で、ともすると神話化されていた市民革命の成果を自国にも実現しようとした(特にドイツ系)知識人にとっては、一八四八年の変革は「予告された革命」であった(マルクス、エンゲルス一九七一九七頁)。一八一五年のウィーン体制成立以降の約三〇年が、本体の到来を想定する「三月前期」(Vormärz)と称されたのはそのためである。つまり、予告されるほどに革命は思想的に周到に準備されてきたし、期待の的でもあった。その帰結として、革命運動はしばしばイデオロギー的に統一されているかのように描かれた。実際には、諸地域の革命運動は相互に協調もすれば、逆に早くから激しく対立もしていたのだが。一八四八年革命が「不成功」だったと言われるのは、対立の側面が重視されるからであるが、一方で、この革命は新たな変革主体を登場させたという意味において、まぎれもなく「近代世界の転換点」であったとの把握も存在する(増谷一九七九:七頁)。さらに近年は、亡命者たちの活動にも視野を広げ、一八四八年革命の長期的な余波を指摘し、失敗像の転換を迫る研究も現れている(Clark2023)。

このように、研究史を一瞥しただけでも、一八四八年革命の多面性は明らかである。では、なぜ、これほどまでにこの革命の評価が分かれるのだろうか。同一の出来事が異なる解釈へと帰着するのは、なぜだろうか。史料の制約であろうか。あるいは、後世の国別の国民史の記述ゆえに、異なる姿をみせてしまうのであろうか。もちろん革命の多様性は、今日のフランス革命研究やロシア革命研究でも次々と明らかにされており、一八四八年革命だけを特別視することはできない。むしろ本稿のアプローチは、近世のウェストファリア期から近代後期までの長期変動の中間に一八四八年革命を位置づけ、その実態と構造を明らかにすることである。これにより、一国に限定されないグバル革命としての性質が詳らかになるのではなかろうか。この小論では、近代史研究のほか、近世史研究の成果も踏まえた上で、従来とは幾分異なる革命理解を提示してみたい。

一、「長い近世」と「長い一九世紀」

近世史研究の変貌

一八四八年革命は今日、近世史学の巨大な地殻変動を抜きにして語ることはできない。近世史研究の変貌は、古くは一九六〇年代のポスト工業社会の到来に対応したポストモダニズムによる方法論上の問題提起に端を発する。近代の相対化の機運に対して、近世の独自性を強調することで、近代の既存認識に修正を促そうとすることに特徴がある。近世史研究では、一九七〇一九〇年代に以下の国家論・政治社会論の二つの分野で変容が生じた。それは、かつてのアナール学派に勝るとも劣らない活況ぶりであった。①K・ケーニヒスバーガ、エリオットらの複合国家論と複合君主政論、②J・ポーコック、Q・スキナーらの市民的人文主義に基づく共和主義論である。特に、①の複合国家・複合君主政論は、九〇年代末に「礫岩国家」(conglomeratestate)論へと歩を進め、近世国家史・国制史・政体史研究は一変した。つまり、君主権のもと税制・軍制・官僚制によって中央集権化を進め、対内的に排他的な管轄権を有し、対外的には独立性を保持した主権国家群が成立したとする、従来の絶対主義的な近世国家像は批判の俎上に載せられたのである。こうした把握が人口に膾炙すると、二〇〇〇年にS・ボーラック、〇四年にはA・オジィアンダーによって、国際関係史におけるいわゆる「ウェストファリア神話」さえ提起されることになる。

ここで「礫岩的主権国家」論に言及しよう。スウェーデンの歴史家H・グスタフソンによれば、近世国家を構成する各地域(礫)は、中世以来の独自の法と権利を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集塊していた(グスタフソン二〇一六八六頁)。Conglomerateとは無数の礫(さまざまな色・形・大きさの小石)を含有する堆積岩であり、非均質かつ可塑的な集塊を指す。現代の国際複合企業群もまたconglomerateと呼ばれるのはその文脈においてである。ゆえにこの国家論は、国家を構成する地域の組替・離脱・変形を常に前提とする、緩やかな可塑的主権国家論といえる。その典型は、スペイン王国、スウェーデン王国、神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国、ポーランド=リトアニア共和国であった。より高度な接合の事例としては、フランス王国やイングランド王国を挙げている(グスタフソン二〇一六一〇四一一〇五頁)。絶対王政の中央集権とは異なる、ヨーロッパ全域に及ぶ国家形態として想定されていることを重視しなければならな一方でそれは、一六世紀以降の世界の商業化に適合的な国家形態とも言えるのであろう。

なお、筆者はこれまで、ヨーロッパにおける礫岩的主権国家の編成原理が第一次世界大戦直後まで持続したことを指摘したうえで、主権分有の動態を軸に、近世帝国と近代国民国家の相互浸潤を問題にしてきた(中澤二〇二一:一七五一一七八頁)。その際この状況を「長い近世」と形容し、一八四八年革命から六七年のアウスグライヒまでをハプスブルク帝国史における主権再編の第四期とした(中澤二〇一四:一三五一一六五頁)。本稿においても適宜、主権分有の動態を、一八四八年革命を検証する際の参照軸としたい。

近代史研究の相対化

近世の絶対主義的な主権国家像の相対化は、やがて近代の国民主義的な主権国家像にも修正を迫ることになる。かでも近代史研究の認識に抜本的な変化を及ぼしたのが、一九八〇年代にE・ゲルナー、アンダーソン、Eホブズボームを中心に形成された構築主義である。これは、国民国家研究に以下の三つの基盤を提供した。ネイションは近代において社会的に構築された①人工物であり、また、②想像の共同体である。この集団概念の形成は、③資本主義化・工業化に起因する。

特にホブズボームは、そうした新たに構築されたネイションにあたかも永続的実体であるかのうな装いをもたせるべく、ナショナリストが試みたネイションに都合の良い伝統の創造プロセスを解明した。彼によれば、一八四八年の諸革命は、ネイションを政治的な主体とするための運動であるナショナリズムを中産階級、自由主義、政治的民主主義、そして労働者階級と同様に政治の世界の恒常的なプレーヤーに昇華させた(ホブズボーム一九八一:三六頁)。それゆえ、特権階級や富裕層はもはや旧来のやり方では社会秩序を維持できなくなったと言う。プロイセンの封建領主たるユンカーは世論の重要性にようやく気付き、政治に無関心な南イタリアの農民でさえ君主を軽々に擁護しなくなった。ナポレオン三世(NapoléonIII一八〇八一七三年、在位一八五二七〇年)など革命後の君主は、国民とともに歩む道を選択せざるをえなくなった。
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『貧困とはなにか』

 【新版】『貧困とはなにか』

概念・言説・ポリティクス

ジェンダー

ジェンダーはもっとも大きく異なった区分を構成している。貧困をジェンダー的に分析すると、(多くの国で顕著ではなくなってきているとはいえ)その発生率が不平等であることが明らかになる。しかしそれ以上に、より重要なのは、貧困の原因と結果の両方が深くジェンダー化されていることが明らかになることである。言い換えれば、「貧困そのものがジェンダー化されている」。すなわち概念的にも方法論的にも、単に「見失われていた女性を加える」ことをはるかに超える意味がある、貧困とジェンダーに関するエビデンスをレビューしたある論文には、「ジェンダーのレンズを通して貧困を見るには、社会的・経済的関係、そして制度を検討する必要がある」と説明があるが、それは「貧困に至る過程が本質的にジェンダー化されており、そこからぬけだす可能性を持った道筋も同様に本質的にジェンダー化されている」ためである。タウンゼンドも「[一九九〇年代のジェンダーと貧困をめぐる議論の]影響は根本的なものであった」と認めている。またこれだけでなく、ジェンダー視点での分析は、女性と貧困の関係だけでなく男性と貧困の関係にも光をあてることができる。ゆっくりとではあるが、これも認識されるようになってきている。とくに、伝統的なジェンダー観によるアイデンティティは、貧困の社会的関係に浸透していることがある。たとえば、「稼ぎ手」としての役割を自分自身のアイデンティティとする男性は、家族を十分に支えられなければ恥や罪悪感を感じる可能性が高い。一方、母親は、消費社会におけるスティグマから子どもを守ることができない場合、あるいは子どものために福祉機関とかかわりを持ったりする場合、その結果として恥辱を受ける傾向が高い。

「貧困の女性化」?

典型的には、女性は男性よりも大きな貧困リスクに直面している。その事実が注目されはじめたころにEUとアメリカで集積されたエビデンスは、程度の差こそあれ(スウェーデンの明確な例外を除いて)、そう示していた。しかし、ジェンダーに関して生のかたちで目に見える貧困格差は近年狭まり、いまでは必ずしも見分けがつかなくなっている。より目につくのは、女性世帯主の家庭、とくにひとり親家庭や年金受給単身者に分類される世帯の貧困である。イギリスの分析では、子どもの存在によって家計が貧困に陥る可能性は、男性の場合よりも女性の場合の方が高いことが示唆されている。たとえばケアをする人(とくに要介護度の高い人の介護者)のような女性が多数を占める集団もリスクが高い。対象者を長期にわたって追跡する縦断的な分析では、

女性が慢性的な貧困、反復的な貧困に陥りやすいことが示されている。

「貧困の女性化」という用語は、そうしたパターンを捉えるために広く使われてきた。(一九七八年にダイアナ・ピアースによって)アメリカでリスクの高い女性世帯主の世帯数が増加していたことに対して使われるようになった当初、そのレトリックには、アメリカをはじめ世界的に女性の貧困を覆い隠していた霧を吹き払う力があった。しかし、それは多くの点で誤解を招くものであった。意味論的には難点がふたつある。まずひとつ、典型的にこれは、「プロセスではなく状態」を指すのに使われ、それによって両者が混同され、混乱することである。ふたつめには、これが新しい現象であることを暗示してしまうことである。シルヴィア・チャントによれば、「理論的にも、解説のためにも、説明にもほとんど役に立たない無骨な用語」であることが次第に認識されつつある。それゆえ、貧困を「ジェンダー化されたもの」として捉える考え方が好まれるようになってきている。

「貧困の女性化」という命題に関する問題のひとつは、それが典型的には世帯内の個人ではなく世帯主に基づいた統計に頼らざるを得ないことである。あるいは別の手段をとるなら、個人についての大まかな「当て推量」に頼らざるを得ない。その代表的な例が、広く引用される「世界の貧困の七〇%は女性」という国連の主張であり、これは「事実というより〈事実のようなもの〉」と評されている。女性が世帯主である世帯の貧困リスクにばかり目を向けることは、この集団内がそもそも均質ではないことを覆い隠す。さらに、生活様式が国によって異なることの影響(たとえば、該当する世帯が統計上は拡大家族世帯の一部であるためカントされない場合)も見えなくなる。そしてさらに重要なことには、男性世帯主の世帯における女性の貧困を覆い隠してしまう。個人をカウントするといいながら、実際には、世帯収入が公平に分配されているというヒーローまがいの前提のもとで世帯収入から貧困の推計をすることは、女性の貧困を過小評価する可能性が高い。

隠された貧困

ギータ・センは、「世帯内の不平等を認識しなければ、だ当に貧しいのか理解できない」と論じている。家庭内での所得と消費の不平等な分配は、隠れた貧困を意味することがある。男性パートナーが貧困でないが女性が貧困である場合、貧困が女性により強くのしかかる場合がそうである。家計管理に関するイギリスの研究には、所得が家庭内で必ずしも公平に分かち合われないこと、女性の方が男性より「個人的なことにお金を使うこと」が少ないことを示しているものが多数ある。こうした調査の大半は小規模で質的なものだが、量的な調査群によっても、その主な結論は支持されている。EUレベルの分析では、資源を十分に共有していると想定される世帯の三分の一近くが実際にはそうしていないことが示されている。

消費と剥奪に関していえば、質的な調査は、やはり男性の方が食糧のような日常の商品についても、自動車のような耐久消費財についても「特権的な消費者」である傾向を強く示している。しかもミラーとグレンディニングが指摘するように、「それぞれが与える利益と自由という観点から見れば、『彼の』車と『彼女の』洗濯機はとうてい等価物だとはいえない」。PSEIUK調査は、限定的な範囲ではあるものの世帯内の不平等の測定が可能になるように設定されてきた。それによれば、一九九九年以降、男女の剝奪格差は縮小しているが、子どもがいる場合にはより顕著な格差があることがわかった。カラギアンナキとバーチャードは、ヨーロッパの幅広い文献の簡単なヒューに基づいて、女性の不利益になる不平等な世帯内剝奪のエビデンスはたしかに存在するが、その程度は文化的な文脈、経済的な文脈(とくに福祉国家では)政策の文脈によって一様ではなく、また、家族・世帯の形態によって異なる、と結論づけている。とくに、「各個人が家庭にもたらす収入の配分は、資源に対するコントロールと関連している可能性があるのだが、カップル内では女性の収入比率が男性よりも小さい傾向がある」ことが示されている。カラギアンナキとバーチャードがEUISILCデータ(第2章参照)を分析した結果、「ヨーロッパの成人の属する世帯のかなりの割合が、成人した世帯員間で不平等な剝奪結果をもたらしている」。これはとくに、複数の家族単位からなる「複合世帯」において顕著である。さらに、明らかに「世帯内の困窮の不平等の程度は、すべての国の全体的な困窮の水準にかなりの影響を与えている」。
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『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

 『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

現代のコンピューターの誕生を巡る込み入った事情

エニアックからアップルまで

未来のコンピューターに真空管は1000本しか要さないかもしれず、もしかすると重量はわずか1・5トンほどかもしれない。

――『ポピュラーメカニクス』誌、1949年3月号

ロスアラモスの爆弾の投下先となる日本の最終候補地を選ぶのに忙しかった1945年春のある朝、メサから帰宅したフォン・ノイマンはベッドに直行して12時間寝続けた。このときのことをクラリが回想録にこう記している。「ジョニーが何をやらかそうと、2食飛ばしたことよりも私が心配になりそうなことは思いつかない。彼が一度にあれほど長いこと寝続けることなどもちろん知らなかった」

その晩遅くに目をさましたフォンノイマンはかなりの早口で、重圧を感じているときのようにどもりながら、こんな予言を語りだした。

僕らが今つくっているのは怪物で、その影響力は間違いなく歴史を変えく。歴史というものが何かしら残るならね。でも、完成を見ないことなんかありえないだろう。その理由は軍事的なものだけじゃない。科学者の立場から言って非倫理的だからだよ、科学者が自分たちにできるとわかっていることをやらないのは、それがどんなに恐ろしい成り行きを招きかねないとしても。それに、これは始まりでしかないんだ!今まさに使えるようになりつつあるこのエネルギー源によって、科学者はどこの国でもいちばん嫌われると同時にいちばん求められる市民になるだろう。

ここでフォン・ノイマンは唐突に、話題を原子の力から自分が「この先、重要性が増すうえに欠かせなくなる」と思っていた機械の力へと転じた。

「人類は月のはるか先の宇宙まで行けるようになるだろうけれど、それはみずからの創造物の進歩についていけた場合に限られる」。そして、人類がついていけなかった場合には、自分が当時その開発を手伝っていた爆弾よりもその機械のほうが危険な存在になりかねないと心配した。

「未来の技術の可能性についてあれこれ考えているうち、彼がかなり動揺してきたので、私はとうとう睡眠薬を何錠か、そしてとても強いお酒を飲んではどうかと勧めた。彼を現実に引き戻し、避けがたい破滅という自分の予測を気に病むのをやめて少々リラックスさせるためである」

あの晩に彼の心を捉えて放さなかったビジョンがどのようなものだったにしろ、フォンイマンは純粋数学とすっぱり手を切り、自分が恐れる機械の実現に集中した。「このとき、来るべき未来の姿がジョニーの興味を強くひいて頭から離れなくなり、以来ずっとそのままだった」

計算処理に対するフォン・ノイマンの関心は1930年代までさかのぼれる。彼は最初に陸軍の仕事をしていた頃から、爆発のモデル化に必要となる計算量が急速に膨らんで、当時の卓上計算機の能力では手に負えなくなると見込んでいた。ジャーナリストのノーマン・マクレイによると、フォン・ノイマンは「計算機が進歩して、その一部は脳と同じように機能するようになり」、さらには「そうした機械があらゆる通信系、送電網、大工場といった大規模システムに接続されるようになる」と予想していた。1960年代と70年代にコンピューターが相互接続されてARPANETが構築されるのだが、インターネットはそれ以前から何度となく思い描かれていたのだ。

フォン・ノイマンがコンピューターに関心を抱いたのは、戦時中にチューリングに触発されてのことだったのか?この2人が互いを探し求めていたという話はありえそうだ。イギリスの国立研究開発公社(NRDC)の初代代表を務めた科学者トニジファードは実際にそうだったと主張しており、1971年に計算機科学者で歴史家のブライアン・ランデル相手にこう語っている。「彼らは出会い、互いを刺激しました。言ってみれば、それぞれが頭の中に絵の半分を持っていたのが、会って話をするなかでこの2枚がひとつにまとまったのです」



1943年のイギリスでフォン・ノイマンに何が起こったにせよ(その痕跡は今やすっかり失われているようだが)、帰国後の彼はロスアラモスで誰よりも熱く計算技術の重要性を説くようになった。そして1944年1月にはOSRDで応用数学部門を率いていたウォーレン・ウィーヴァーに宛てて手紙を書き、国内最速クラスのコンピューターを探すための支援を要請した。爆縮型爆弾の計算が手に負えなくなりつつあったのだ。ウラムが次のように回想している。

フォン・ノイマンとの議論では、私は手間暇かけて1段階ずつ力まかせに計算することを提案したり、その構想を披露したりした。膨大な量の計算を要し、時間もはるかにかかるが、このほうが信頼性の高い結果が得られる。フォンノイマンが「その兆しが見えてきた」新しい計算機を使おうと決めたのはこのときだった。

ウィーヴァーはフォン・ノイマンをハワード・エイケンに引き合わせた。エイケンはハーバード大学の物理学者で、自身が設計を手がけた電子機械式のコンピューターがIBMから届くのを待っていた。ASCC(自動逐次制御計算機AutomaticSequenceControlledCalculator)と呼ばれていたそのコンピュターは、のちにハーバード・マークⅠと名を変える。フォン・ノイマンはエイケンを訪ね、ロスアラモスに戻ると、機密扱いの問題のひとつを修正して本来の目的を示唆する内容を削除してはどうかと提案した。エイケンは知らなかったが、彼のコンピューターで最初に実行された計算のなかには、爆弾開発のための衝撃波シミュレーションの数々が含まれていた。だが、ハーバード・マークⅠはロスアラモスのパンチカード式計算機よりも処理が遅かったうえ(精度は勝っていた)、そもそも海軍用に押さえられていた。フォン・ノイマンは長年にわたって計算能力を求めて国内を精力的に飛び回り続けた。

「戦後数年は、最新式のメインフレーム計算機を擁するどの施設を訪ねても、必ず誰かが衝撃波問題の計算を実行していたものです」と語るのは、研究に電子式のコンピューターを初めて用いた天文学者のひとり、マーティン・シュヴァルツシルトだ。「なんでまたその処理をと尋ねると、決まってフォン・ノイマンに頼まれてのことでした。こうした処理が、最新式コンピューターの現場を歩き回っていたフォン・ノイマンの足あとと化していたのです」

妙な話だが、ティーヴァーはペンシルベニア大学ムーア校(電気工学科)で開発中だった電子式装置のことをフォン・ノイマンに話していなかった。1943年4月にこのプロジェクトの予算を承認していたフォン・ノイマンの後ろ盾、オズワルド・ヴェブレンしてもそうだった。ハーバード大学のマークIや、ドイツでコンラート・ツーゼが開発していたZ3など、初期の装置では数字を表すのに歯車機構と歯車の歯、そしてリレースイッチが用いられていたのに対し、ムーア校のENIAC(エニアック。電子式数値積分器・計算機ElectronicNumericalIntegratorandComputer)には可動部品がなかった。真空管と電気回路しかなく、設計者は自分たちの計算機は従来型より何千倍も速く計算できると豪語していた。

もしかするとウィ–ヴァーもヴェブレンも、ENIAC

の開発チームは経験不足で、完成にこぎ着けられないと踏んでいたのかもしれない。あるいは、フォン・ノイマンはコンピューターをすぐにでも必要としていたところへ、ENIACは使えるようになるまであと2年と見込まれていたからかもしれない。いずれにしても、フォン・ノイマンはこの装置のことを偶然知った。アバディーンのBRL(弾道研究所)での会合を終えて、帰りの列車を待っていたときだった。

ハーマン・ゴールドスタインはミシガン大学の数学者だったが、第二次世界大戦中は米国陸軍に入隊していた。彼がこれから太平洋に送られるというタイミングで、BRL付きの科学者を集めていたヴェブレンが割って入り、より良い条件を提示した。ゴールドスタインへの渡航命令は、アバディーン性能試験場に出向くよう指示する命令と同じ日に届いた。ゴールドスタインは賢明にもヴェブレンとアバディーンを取り、そこで大砲の射表の計算チームに配属された。ヴェブレンは第一次世界大戦中にも発射体の軌道に関する同様の計算の監督者として雇われていた。

1944年のある夏の日の夕刻、アバディーン駅のホームで、ゴールドスタインは見覚えのある人物を見かけた。今やアメリカでアインシュタインに次いで有名な科学者となていたその人物の講義を、ゴールドスタインは聴講したことがあったのだ。ゴールドスタインがフォン・ノイマンに自己紹介すると、列車を待ちながらの談笑が始まった。ゴールドスタインは、自分が任務のひとつとしてフィラデルフィアのムーア校との連絡将校として働いていることを説明し、共同で取り組んでいたあるプロジェクトについて触れた。それが毎秒300回を超える乗算が可能な電子式のコンピューターだった。

その途端、ゴールドスインによれば、「会話の雰囲気がユーモアを交えた気取らないものから数学の学位審査の口頭試問のようなものへと一変した」

ゴールドスタインによると、この出会いからまもない8月7日、フォン・ノイマンはムーア校で開発中だったコンピューターをゴールドスタインの手配で視察した。そこでフォン・ノイマンが見たものが、「彼のその後の人生を変えました」とゴールドスタインは語っている。

ENIACは170平方メートルほどの床面積があり、部屋いっぱいを占めていた。1万8000本の真空管と大量の配線やスイッチからなる内部構造が、壁に沿ってむきだしでずらりと並んでいた。

「今の私たちはパソコンを持ち運びできるものと思っています」とこのプロジェクトに1950年に加わった数学者ハリー・リードは言う。「ENIACはその中に住めるような代物でした」

ENIACの生みの親はジョン・W・モークリーという、研究者になる夢を大恐慌で絶たれた物理学教員だった。彼は奨学金を得てメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で勉強し、学部の卒業など気にせず1932年に同大で物理学の博士号を取った。しばらく研究助手として働いていたのだが、運悪く、大学のポストを探し始めた時期が近代史上有数の長い経済停滞期と重なり、モークリーの研究職探しは頓挫し、彼はアーサイナス大学という、ペンシルベニア州にある小規模のリベラルアーツ・カレッジの職で妥協せざるをえなくなった。彼はそこで物理学科の長だったが、実は教員はほかにいなかった。彼は開戦時にもまだ同校に籍を置いていた。世界を襲った惨事には、モーリーの望みを断ったものもあれば、将来の見通しを好転させたものもあった。1941年、科学者が戦時協力のために再教育を受けていたムーア校で、彼は電子工学の講座を受講した。34歳だったモークリーはそこで22歳のJ・プレスバー・エッカートと出会う。彼は地元の不動産王の息子だったが、電子工学に精通していたことから、モークリーが受講した実習講座を任されていたのだった。この2人が、大砲の射表を計算するための装置を製作するという野心的な構想を一緒に考えた。当時のムーア校では、射表の計算に人員をどんどん取られていた。

特定の大砲の射表には、さまざま条件下でさまざまな高度から発射された砲弾の射程を示す弾道が何百と記載されていた。大砲と弾薬の組み合わせそれぞれに専用の射表が必要だった。ムーア校での計算の元になるのはBRLの試験場からのデータで、異なる高度で10発ほど発射された各砲弾の射程距離の測定結果が記録されていた。ムーア校はこのデータをもとに、砲弾の高度や速度に応じて違ってくる風の抵抗を考慮しながら、ほかの軌道を計算しなければならなかった。射表の1行分を計算するのに、1人が卓上計算機を使って最大2日かかった。1930年代になると、マサチューセッツ工科大学(MIT)のヴァネヴァー・ブッシュらが発明した微分解析機を使って、同じ作業を20分とかからずできるようになった。微分解析機は部屋いっぱいになるような大きさの装置で、妙に大きなテーブルサッカー台を何台もボルトでつないだような見た目だったが、問題に即したシャフト、ギア、ホイールを設定すると、ある棒を使って入力の曲線をなぞることで、その動きが求める出力へと機械的に変換された。だが安くはなかった。陸軍はムーア校の解析機の費用を出したが、戦争勃発のおそれが生じた場合にはBRLが徴発できることが条件だった。1940年にそれが現実となり、BRLは連絡将校としてゴールドスタイン少尉を送り込んだ。

1942年終盤のムーア校では、解析機を使うグループと、卓上計算機を使う100人の女性チームに、週6日で弾道計算をさせていた。どちらのチームも射表をひとつ仕上げるのに1カ月ほどかかっていた。だが、女性チームのほうでは、奮闘むなしく、スケジュールの遅れが大きくなるばかりだった。

モークリーはこの遅れを把握していた。彼の最初の妻だった数学者メアリー・オーガスタ・ワルズルがチ―ムの一員だったからだ。モークリーは、ムーア校から191年9月に助教として採用されると、解析機を間近で観察して動作原理の把握に努めるとともに、同じ作業をもっと高速にこなせるその電子版について考え始めた。彼は暫定的なアイデアを「計算を目的とした高速真空管の使用」と題して書き起こした。1943年春のこと、ゴールドスタインがこの覚書をたまたま目にした。彼はモークリーが説明していた方針は追求に値すると確信し、BRLの高官にその重要性を説いた。ENIACの契約は6月に署名され、BRLが用意した15万ドルを元手に1.5ヵ月での完成を目指した。最終的には50万ドルを優に超える費用(今日の800万ドル)がかかっている。

ENIACの開発が「プロジェクトPX」というコード名で本格的に始まった。電気技術者のジョン・ブレイナードがこのプロジェクトの責任者に任命されて予算管理を担当し、エッカ―トが主任技術者となった。このプロジェクトのそもそもの考案者であるモークリーは、顧問という非常勤の役割に格下げとなった。戦争関連の作業に教職員を大勢取られていたムーア校には、彼に引き続き教鞭を執ってもらう必要があったのである。

エッカートは当初、技術者十数名という小振りなチームを率いて、回路の設計やテストを行っていた。だが、1944年に組み立てが始まると人員が急増した。「配線士」と呼ばれた3人の組立工や技師からなる製造チームが引き入れられ、コンピューターの部品を取り付け、それらをケーブルでつなぎ、50万か所ほどもあった接点をはんだ付けして、装置をこの世に出現させた。ここで、ENIACを設計したのは男性だったが、現物の組み立てという手間暇かかる厳しい作業を担当したのはほぼすべて女性で、彼女たちは夜間や週末も働いて完成させた。このプロジの賃金支払票には50人近くの女性の名前が埋もれていたが、ひょっとするとイニシャルしか記載されていない大勢もそうした女性たちだったのかもしれない。

こうした尽力にもかかわらず、戦時中は部品――真空管に限らず、抵抗器、スイッチ、ソケット、長さ何キロ分にもなる配線材のような普通の部品――の調達が難しく、プロジェクトの完成は遅れに遅れて、陸軍の上層部はいらだちを露わにしていた。「ENIACが完成まであと3カ月から進まなかった期間が1ヵ月近くあった」と歴史家のトーマス・ヘイグは語っている。

そんな現場にフォン・ノイマンが登場したのは1944年8月という、ENIAC完成の1年以上前のことだった。このプロジェクトに対する初期の貢献のひとつは、資金が途絶えないようにしたことだ。科学界の重鎮だったフォン・ノイマンは、その頃には政府筋や軍関係に絶大な影響力を持っていた。その彼が、この装置の有用性は当初の設計目的をはるかに超えるだろうと説得力を持って主張したのである。1945年

12月にいよいよ完成すると、彼の予言どおりとなった。ENIACが最初に計算したのは射表どころか、ロスアラモスから依頼された水素爆弾の問題だった。

ロスアラモスは2人の物理学者ニコラス・メトロポリスとスタンフランケルを送り込んでこの新装置の働きぶりを調べさせ、その持てる計算能力をロスアラモスが余すところなく使えるようにした。2人には補助要員として、ハーマン・ゴールドスタインの妻でのちにENIACの取扱説明書を執筆する数学者アデル・ゴールドスタインと、新たにトレーニングを受けた6人のオペレーター――全員女性で、うち4人が数学科卒――が同行した。計算の本来の目的を知っていたのは2人の物理学者だけだった。その目的とは、テラーの「スーパー」の起爆に必要となる貴重なトリチウムの量を決定するために、3本の連立偏微分方程式を解くことである。アメリカによる初期の爆弾研究の大半と同様、詳細は今なお機密扱いだが、ハーマン・ゴールドスタインによると、数週間にわたって100万枚のパンチカードがムーア校へ送られた。テラーは得られた結果をもとにあの爆弾の採用を求め、1946年4月にロスアラモスで行われた極秘の会議では”コンピューターが自分の主張を裏付けた、自分のスーパーはうまくいく”と主張した。フォン・ノイマンとフックスが特許について協力することになったのもこの会議だ。そして、フックスがその詳細をロシアに流すのである。

ENIACに向けられたフォン・ノイマンの関心は、より良い爆弾をつくるための道具としての有用性をはるかに超えていた。彼はENIACを初めて見たときから、まったく違う類いのコンピューターについて考えていた。

ENIACの欠点の多くは、その設計者たちにプロジェクトの当初から認識されていた。150キロワットという消費電力は、半分以上が真空管の加熱や冷却に使われていた。その真空管にしても、新たな入荷分をストレステストにかけて不合格品をはじくという徹底した手続きを踏んでいたにもかかわらず、数日に1本は壊れていた。不良品や接点不良によるダウンの時間を最小限に抑えられるよう、ENIACの部品は標準化された差し込み式ユニットとして用意され、簡単に取り外して交換できるようになっていた。そこまでしても、ダウンしていた時間は稼働時間よりも長かった。『ニューヨークタイムズ』紙の記事によると、契約上の義務によってBRLに移設済みだった1947年12月の段階で、時間の1%は準備とテストに、4%は問題のトラブルシューティングと解決に費やされており、実稼働時間はわずか5%――週に約2時間――だった。

ENIACは戦争用の装置として生まれ、用途はひとつだった。だが戦争が終わり、射表の計算が別の切迫した問題と使用時間を争うようになると、ENIACの存在理由がその最大のハンディキャップとなった。フォン・ノイマンはこのことをプロジェクトに携わる誰よりも、ひょっとすると世界中の誰よりもはっきり認識していた。さらに重要なこととして、ENIACよりも柔軟性がはるかに高くて再プログラムの容易な後継機をどう設計したら良いか、彼は具体的に把握していた。ENIACチームはこの装置の欠点についてかねて議論を続けていた。そこへフォン・ノイマンが加わると、後継機製作の提案書がすみやかに用意され、BRLの上層部による審査にかかった。8月25日、ゴールドスタインとフォン・ノイマンも出席した上層部の委員会が計画を承認した。ムーア校ではすぐさま、この新装置の開発に「プロジェクトPY」というコド名が付けられ、その設計を巡って真剣な議論が始まった。翌年3月、開発チームは彼らの考えをフォン・ノイマンが取りまとめることに同意した。フォン・ノイマンが取りまとめたのはそれどころではない内容の文書だった。

この頃のフォン・イマンは、電子工学という萌芽期の分野にすでに精通していた。各種真空管の優劣にいて彼なりの考えを持っており、新装置の回路をぜひとも設計したいと思っていた。だが、彼は技術者ではなかった――数学者であり、うわべは複雑に見える問題を解きほぐして最も基本的な形で描いてみせる、という特筆すべき能力を持ち合わせていた。そして今、彼はその才腕をENIACチームの雑然としたアイデアに対して振るおうとしていた。ヘイグと共著者らは次のように見ている。「ジョン・オン・ノイマンが審美眼の持ち主だったというわけではないが、ENIACに対する彼の知性の反応は、けばけばしい大聖堂を委ねられた熱心なカルヴァン主義者よろしく、フレスコ画を漆喰で白塗りし、不要な装飾を切り落とすことにたとえられるかもしれない」。この衝動が新装置の設計として実を結び、それに刺激された何世代にわたる技術者や科学者がコンピューターをそのイメーていくことになるのだ。

意外なことに、計算処理の最先端を行くこの貢献に向けたフォン・ノイマンの頭の準備は、20世紀前半に数学界を引き裂いていた根源的な危機との関わりを通じて整えられていた。歴史の思わぬ展開が、現代のコンピューターの知的起源を、数学は完全で、無矛盾で、決定可能であることを証明するというヒルベルトの挑戦と結び付けたのだ。ヒルベルトが彼の挑戦を公にしてほどなく、知的には活発だったが精神的にはもろかったオーストリアの論理学者クルト・ゲーデルが、数学は完全だという証明も無矛盾だという証明も不可能であることを示した。そしてゲーデルがこの偉業を成し遂げて5年後、23歳のチューリングがヒルベルトの「決定問題」に挑み、仮想機械を持ち出すという、論理学者の誰も予想だにしなかったやり方で、数学は決定可能ではないことを証明した。この2人の論理学者による形式主義の成果が、フォン・ノイマンが現代のコンピューターの構造を具体化する際に活かされるのだ。彼の考えをまとめた「EDVACに関する報告の第1草稿」は、やがて計算処理史上最大の影響力をもつ文書となる。計算機科学者のヴォルフガンク・コイによれば、「今日ではこれが現代のコンピューターの出生証明書とみなされている」

 宇宙
空間の外延 内なる空間から全体を超え宇宙に出る
全体を再配置 個を分化し 全体に統合させる
宇宙から見る 超として全体を見る
知の世界 個の目的を生かし 思考中心の世界

 全てを知る
私がすべて 私の核から宇宙の端までが私です
無を知る 全てを知ることで存在の無に至る
私がいる 個の覚醒で存在の意味を納得する
有限を知る 有限の意識から共有する世界をめざす
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