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本を読みながらのつぶやき

未唯へ

 未唯は台所に居るだけで、邪魔だと言っていた。パートナーとよく似ている。ともに、絶対的な存在だから、文句は言えない。

 これだけあると、読んでいる時間がない。帰ってから、ずっと、OCRを行っています.かなりの冊数です。

 500円で済ました。自分がいやらしくならないように。

新しいICレコーダー

 ほとんど、雑音がないです。聞きやすいのは確かです。入力を短めにすれば、書き起しできそうです。新しいレコーダーだけで、出掛けました。持ち運びのシーンから使い方を考えていきます。

 呟きとか話したことを全て入れます。新しいゾーンに入り込みます。まずは、書き起こしは考えない。これは完全な記録です。シートベルトにくっつけてみたけど、納まりが悪い。操作によっては落っこちます。

 このレコーダーを契機に何かを変えることができるのか。できるとしたら、それは何か。ランプをオフにします。どうしても、手持で入力しているので、録音中は分かります。

 USBアダプターのケーブルが複数必要です。エイデンで見てみます。以前のICレコーダー付属とは若干形状が異なります。フォルダーでファイルがいくつできるか、そんなことがどこにも書かれていない。気にするなと言うことなんでしょう。ソニーもアップル並になってきた。メモリー分だけ大丈夫そうです。

 この際、全て、素直な表現にしましょう。どこまで貫けるか。人への理解よりも瞬間のイメージです。このレコーダーはあまりにも小さくて、薄いので、落としそうです。場所を決めておきましょう。

トイレ

 さっきの牛乳の性でトイレに行きたくなったので、急遽、家にユーターン。外出していても、1時間ごとに小便です。名古屋へのバスがどうなるか心配です。

 なぜ、外車で農協に買い物に来るのか? 軽と普通車以外はダメにしましょう。次はコンビニですね。

本を読みながらのつぶやき

 「旅する力」は深夜特急のイメージです。バスではなく、列車でヨーロッパをいく計画を立てましょう。

 「辞めていく技術」よりも、そこにいることによる技術。こんなことが可能な人間は少ない。人との接点がないのが特徴です。それでも生きている。人をチラッと見ただけで反応しました。

 ハンガリー語の単語辞典を借りたけど、理解するためではない。ヨーロッパ旅行の時に思い出した時のチェーン付けです。

未唯空間仕事編

 仕事というのは、何だったのか。皆は「仕事」に縛られている。縛られたがっている。私は自由にやってきた。今も自由です。といっても、やりたいこととやるべき事をやっているだけです。最初から、誰からも求められていない。

 仕事が生きていく手段でないことが幸いしています。なぜ、起業することを考えるのか。生きていくことよりも、自分が生まれてきたことの理由、それだけで十分です。何を期待しているのか。

無印のふきんは結局は、高い

 無印でふきんを買おうとしたが、12枚組みです。これでは忘れてしまいます。それにしても、大きいもの小さいものを含めて、全て500円です。決め付けですね。無印のカウンターは一人です。これは寂しいです。人の配置が間違っている。

カーシェアリングのクルマ

 カーシェアリングの時には、クルマの種類をシンプルにします。

サイデリアでの読書環境

 出かけに持ってきた本の半分しか、読んでないので、昼食は近所のサイデリアにしました。期待していた、ジンジャエールがなくなっていた。折角、飲み放題にしたのに。禁煙席は満杯なのに、喫煙席には誰もいない。ファミリーの時間帯なのでしょうか。

 隣に三人組の学生が居ます。食事が終わって、ドリンクバーだけです。内容がない会話を延々とつづけています。赤ん坊が泣いているけど、放置されている。誰も居ない喫煙席に移るぐらい考えて。

 一応、サイゼリアで8冊、片付けました。あとはOCRすれば、25冊の対応の見込みができてきた。
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米国経済の変化のベクトルはどこに向かうのか?

『アメリカ経済がわかる本』より

経済自由主義と経済民主主義のリバランシング展開する多国籍企業との利益相反など難問を抱えています。そしてG20をはじめ、アジア諸国、今後の経済発展に必要不可欠な資源を保有する国などが成長軌道を維持し、21世紀の経済は、グローバル経済の新たな段階を反映して変化しつつあります。

オバマ政権とオバマ以後の米国

 21世紀米国病克服への道を、期待されたオバマ政権ですが、米国経済再生への青写真の提示とそのための施策実行については、不十分な実績に留まっています。

グローバル経済の潮流変化

 90年代米国一極覇権を可能にしたニューエコノミー、グローバル市場経済は、同時に国際経済の供給力拡大/高度化を果たし、グローバル生産拠点ネットワーク上で不可欠となり、マーケットとしても重要度を増した中国・インド・ブラジル・東南アジア等の経済が一段と飛躍することを支えました。

 そうしたなかで、先進国群は、21世紀米国病からの回復に苦闘する米国、国内需要が停滞しデフレに脅かされる低成長国日本、ギリシャ問題の対応が後手に回り、今やユーロ圏全体の危機に発展したEUなどそれぞれ苦境に立っており、いずれも、財政赤字と雇用問題、グローバルに機管理政策への期待もさることながら、今後の米国経済の変化への期待があり、これは同時に米国が抱える「長期構造課題」に本格的に取り組む政権としての期待も存在したわけです。しかし巨額の財政赤字を抱え、「テロとの戦い」シンドローム後遺症にも悩むオバマ政権は確かに改革的政策の導入(医療保険改革法、金融規制改革法)には成功しましたが、これまでのところ、国民が求める[チェンジ!」にふさわしい有効なメッセージを送れない状況です。むしろ「大きな政府への逆戻り・介入主義・妥協路線以外難しい」といった批判も高まっています。とはいえ、同政権が米国にとって解決すべきとして提起している、重要な課題へのアプローチ=解決すべき「市場」に対する新たな規範・制度の確立への試行、長期構造課題への非「市場型」アプローチの模索、内外での統合型リーダーシップによる米国への信認再構築などは、引続き今後の米国政治経済の軸となっていくことが予想されます。

2012年政権の課題

 それでは2012年以降の新政権は、はたして有効にリーダーシップを発揮できるのでしょうか?

 共和党政権ではもちろん、オバマ政権にしても、その支持基盤や既得権益層の利害調整、グローバルに変動する市場経済、財政再建という枠組みのなかで改革命題に取り組み、短期間に成果を出すことは容易ではありません。そして雇用や所得を安定的に拡大する成長戦略が見えにくいなかで、米国は政治的・経済的閉塞状況に陥るリスクは依然として高いといえます。

 しかしこうした危機を米国はこれまでも幾度か経験し切り抜けてきた実績があります。

 何よりも19世紀の南北戦争時、現オバマ大統領の尊敬して止まない16代リンカーン大統領こそ、「二つに割れた家」という未曾有の困難と厳しい環境に直面したなかで、政敵でも優れた人材なら適所に活用するなど、優れた「統合的リーダーシップ」を発揮して米国の未来につながる改革を実現させた先駆者といえましょう。

 今日米国にとって必要なのはグローバル時代のニューエコノミー経済下、米国の改革命題を粘り強く推し進めること、「危機に対する過小評価や希望的観測への依存、解決の先送りや、既に限界を露呈している処方能の安易な繰り返しは『政策危機』に陥る」という教訓を生かし、強いリーダーシップを発揮することが求められます。

 バブルおよびグローバル市場の失敗や、テロとの戦いなどで発生した負の遺産を改善・解消するためのコストを国民に今後も負担させることについては、諸問題の解決に向かう改革の実行が条件となるでしょう。

中期的に期待されるパラダイムシフト
 当面米国は景気回復・経済再生が軌道に乗ることが喫緊の課題でしょうが、果たして中長期的な「米国経済の変化のベクトル」はどこに向かうのでしょうか? 大きな政府による様々な格差の縮小への試みは、非効率と高コストに至ったことで大きな抵抗があり、かといって「小さな政府」のまま市場原理に委ねた結果は21世紀米国病をもたらしてしまいました。
 21世紀の米国は、「経済自由主義」と「経済民主主義」の新たな高次元でのリ・バランシングが求められています。
 改革のスピード・内容は米国経済の回復度、国民の支持に左右されるとしても、長期的視点からは、米国経済社会もこれまでの、「市場原理」による過剰な呪縛を解きつつ、①ニューエコノミーが深化するなか、イノベーションによる成長戦略を維持・発展させ、②G20諸国等、経済発展・拡大する経済を活用しつつ、③米国自らのダイナミズムにより、米国が真に必要とする「改革」に本格的に取組む時期に至ったとも考えられます。そのためにも、④アメリカンドリームを再び可能とするアメリカンコンセンサスの再生が不可欠といえましょう。今後米国の政権は、改革についての説明責任を十分果たし、米国の長期構造課題・21世紀米国病の克服に正面から取り組むこと、内外での統合型リーダーシップを発揮して、いわゆるワシントンへの根強い不信を粘り強く解消しながら、内外における米国への信認を再構築することが求められます。
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電子書籍サービス

『アップル、アマゾン、グーグルの競争戦略』より

電子書籍サービスでもまた、3社のし烈な争いが展開されている。このサービス分野で、リーダーとして競合他社の追随を許していないのがアマゾンである。現在、アマソンはキンドルストアで、95万冊以上の書籍タイトルを揃えることに成功している。アマゾンの顧客価値の創造はキンドル本体以外では電子書籍の価格設定にある。キンドルストアではベストセラー新刊の小売価格を通常米国の書店で販売されている価格の5割前後に設定している。こうしたアマゾンの低価格戦略は確実にキンドルを優位な地位に押し上げており、実際、米国市場でのキンドルのシェアは60%に達している。米国ではキンドルがあれば、書店で書籍を買わなくてもいいといえるほど環境が整いつつある。

一方、アップルは2010年1月よりアイブックストアによる電子書籍サービスを開始している。アイブックストアの電子書籍はiPhoneにダウンロードして利用できるが、これらの端末にはあらかじめ専用アプリのアイブックスをインストールしなければならない。このように、アイブックストアで提供される電子書籍の販売チャネルはアップルのデバイスに限定されているが、既にアイブックストアを通じてダウンロードされた電子書籍数は2011年3月のアップルの発表では1億冊を超えている。電子書籍サービスで成功する重要な要因のひとつは、いかに多くの書籍をデジタル化して書籍タイトル数を増やせるかである。実際、米国の新刊書籍の約9割が電子化されており、雑誌や主要紙の定期配信も進みつつある。この点アップルは2011年3月に、米国の6大出版社全てがアイブックストアでの電子書籍販売を開始することを発表している。6大出版社のこうした意向は間違いなくアップルにとって追い風であり、アップルはこれでアマソンに攻勢をかける環境を整えたといえる。

これら2社の後塵を拝していたグーグルは、2010年12月にようやく電子書籍ストアをオープンする。グーグルが開設した電子書籍ストアはグーグル・イーブックス、イーブックストアで、これまではグーグル・エディションの名称で呼ばれていた。イーブックスのビジネスモデルの特徴は2つある。1つ目の特徴は、イーブックスがクラウドを利用している点である。イーブックスではグーグルのサーバーにある自分専用の本棚から電子書籍を取り出して読むことができるため、PCなどのデバイスにソフトをインストールして電子書籍をダウンロードする必要がない。もう1つの特筆すべき大きな特徴は何といっても、イーブックストアが分散型の電子書籍ストアである点にある。約300万のタイトル書籍が集まるイーブックストアは所定のURLに存在するが、グーグルの電子書籍ストアは所定のURL以外にもさまざまな場所に現れる。その一例がグーグルの検索結果のページである。検索中に検索対象に関連する電子書籍が表示され、そこからイーブックストアヘリンクされているので、ユーザーは検索中に関心を持った電子書籍を読みに行くことができる。グーグルはこの仕組みを提携する出版社や書店に持込みビジネスモデルを構築している。すなわち、イーブックストアの電子書籍を出版社や書店のホームページに表示し、ユーザーがリンク先のイーブックストアで書籍を購入すると、出版社や書店が売上の一部を受け取れる仕組みである。

今後、電子書籍サービス市場で3社が考えていかなければならないことは、出版社や書店といったコンテンツ・プロバイダーが書籍の提供にあたり電子書籍のサプライヤー毎に系列化する場合と、系列化せず全てのサプライヤーに公平に書籍を提供する場合のそれぞれの戦略シナリオであるが、グーグルは既に出版社や書店といったコンテンツ・プロバイダーとこうしたビジネスモデルを構築し、アマゾンやアップルに先駆けてWIN-WINの関係を築き上げることができているため、どちらの場合においてもコンテンツ・プロバイダーを取り込める可能性は高い。このビジネスモデルによるグーグルの狙いは、コンテンツ・プロバイダーを囲い込み独占的な書籍の配給を目指す点にあるわけではなく、全てのコンテンツ・プロバイダーから書籍を配信してもらえれば、グーグルが書籍の配給を受ける--サプライヤーに過ぎなくても問題はないという点にある。つまり、グーグルとしては、コンテンツ・プロバイダーが書籍の提供にあたり、電子書籍のサプライヤー毎に系列化せず全てのサプライヤーに公平に書籍を提供する場合でも、既にこうしたビジネスモデルが構築できていることや、クラウドなどにより電子書籍を顧客に提供するシステムにおいて、アマゾンやアップルとの差別化が十分に図られていることなどから、最終的には、顧客をイーブックスに取り込める競争力を十分にもっているといえる。よって、今後、イーブックスはアマゾンの優位性を揺るがす大きな脅威になることが予想されるため、アマソンとしては対抗すべき戦略シナリオの構築に迫られるであろう。
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世界は空なり

NHK「ブッダ 真理のことば」より

「空」が分かれ目

欧米だけでなく日本でも、仏教に対して知的興味を持つ人は、昔にくらべればずいぶん増えています。しかし実際に仏教の教義、とくに宗派による教えの違いなど肝心なところを理解している人はあまり多くないようです。本書は「釈迦の仏教」を紹介するのが目的なので、そういった宗派の違いにまで話を広げることはできませんでしたが、最後にポイントだけ触れておきましょう。

仏教の枝分かれについては、第1回でざっと述べました。すなわち、釈迦の没後四、五百年たった紀元前後頃、インド内部で大きな変革が起こって、大乗仏教が登場したという話です。この「大乗仏教」と「釈迦の仏教」の大きな相違点の一つは、大乗仏教の場合、出家して特別な修行生活を送らなくても、心がけをよくして普段の生活に励むなら、それが仏になるためのエネルギーとして利用可能だとする点です(ただしそのためには、ある程度の神秘パワーを信じなければなりません)。このゆるやかさが、信者の間口を広げました。

大乗仏教は上座部系の仏教とともに中国に流入しましたが、中国ではもっぱら大乗仏教が選びとられ、日本仏教はその中国から仏教を輸入したので、日本も大乗仏教一辺倒になったのです。

このように日本の仏教は、おおもとの「釈迦の仏教」からはるかに遠い、枝分かれの先端に位置しているのですが、さらにその後、日本国内でも多様化が進んで、極端に考え方の異なる宗派が多数できました。たとえば親鸞の作った浄土真宗は、「自力で苦しみから逃れようとしても、愚かなわれわれには無理だ。そんな私たちを哀れに思った阿弥陀というありがたい仏が、極楽という世界から救いの手をさしのべて下さっている。われわれがなすべきことは、その阿弥陀の力にすがって身を任すことだけだ」と説きます。親鸞の教えは間違いなく宗教としてすぐれていますし、自力で努力することのできない状態にある人にとっては非常にありかたい支えとなるのですが、「釈迦の仏教」とは全く別ものです。

教義の土台が根本的に違っている「釈迦の仏教」と「大乗仏教」の間では、同じ言葉を使っていながら、その解釈や位置づけが全く異なるというケースがたくさんあります。たとえば、「空」などが典型的な例です。「空」は『般若心経』の一節「色即是空、空即是色」などの文句で知られ、「仏教の神髄は空の思想にある」といった見解もしばしば見受けられます。たしかにこの「空」という単語は、「釈迦の仏教」でも用いられています。しかし、「釈迦の仏教」で言うところの「空」は、大乗仏教におけるほど重要視される概念ではありません。

たとえば、『ダンマパダ』には次のような言葉があります。

物を蓄えることなく、食べ物に関して正しく理解し、「空にして無相なる解脱」を境地とする人びとの向かう先は、空飛ぶ鳥の向かう先と同じく、追跡することが難しい。(92)

「空にして無相」というのは、この世の事物には固定した本質はなく、永続的な現れは何一つないという意味です。その「空」と「無相」を体得し、解脱した者は、空飛ぶ鳥が一切の行跡を残さないように、誰も追跡できない特別な境地へと向かう、という意味です。

同じように「釈迦の仏教」で用いられた「空」の例としては、先に一番古いお経として紹介した『スッタニパータ』に「「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」(闘)というものがあります。これらの「空」は、先に説明した「諸行無常」が語る、「すべてのものごとに永遠の実体はない」という真理を別の言い方で表現したような言葉であり、大変重要な概念です。しかしそれも、この世の正しい有り様を見るための様々な視点の一つにすぎないのであって、「空」だけがなにか特別重要な原理として別格扱いされているわけではありません。

ところが、後の大乗仏教になると、「空」は俄然存在感が増してきて、教えの主役になってきます。

何度も繰り返しになりますが、「釈迦の仏教」では、この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果関係にもとづいて動きます。自分がなしたことの結果は必ず自分に返ってきます。因果関係を無視してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在せず、人は自分の行為に対して、一〇〇八‐‐セントその責任を負わねばならないのです。

ところが大乗仏教においては、人が救われるかどうかは、必ずしも原因と結果の法則によりません。その因果則を超えて、われわれを不思議なパワーで仏の境地へと導いてくれる、特別な何かがあると考えるからです。「特別な何か」というのは、「別の世界にいる仏」であったり「一般の因果則を超えた(イパー因果関係」であったり、様々なかたちが考案されましたが、いずれにしろ、「釈迦の仏教」が言う因果則では説明できない、神秘的な作用を想定しているのです。

しかしながら、この理論を根拠づけるためには、それまでの因果則をどこかで崩さねばなりません。そこで大乗仏教では、「私たちが普通に想定しているものごとの関係性はたんなる錯覚であり、その背後には、凡人には理解困難な、より高次な世界がある」と主張するようになります。これが「世界の本質は、きわめて深淵にして理解の難しい原理にもとづいている」という主張になり、「空」の思想を形成していくのです。

「釈迦の仏教」と「大乗仏教」、どちらが優れている、どちらが劣っているという判断は無用です。「釈迦の仏教」を頼りにして生きていく人もいれば、「大乗仏教」で救われる人もいる。宗教の目的が「人の一生を支える杖」であるなら、どの杖を使うかは、人それぞれの状況が決めること。他人の杖にあれこれ口をはさむのは、いらぬおせっかいです。

ただ一つ大切なことは、選ぶべき杖がたくさんあるという事実を知っていること。この世にどのような教えがあるのか、それを知らないと選はうにも選べません。そういう意味で、日本の仏教と「釈迦の仏教」の違いを知っておけば、生き方の幅がずいぶん広がることになるのです。
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