向井千秋さんが、再び宇宙へ旅立った。
「宇宙が仕事場になる時代がやってきた」とは、やはり宇宙飛行士の毛利衛さんの言葉である。
ところで、私もまた、もうずっと宇宙が仕事場である。スペースシャトルにこそ乗ったことはないが、地球を天空から眺めているような感じは常にあるし、もっと言うと、全銀河、全宇宙、ビッグバンから、その他いまだ知られぬ宇宙の在り方まで全部ひっくるめて、「我が脳中に」、あるような感じがしているのである。
妄想と言ってしまえば、まあ妄想には違いないが、しかし、宇宙そのものが、そもそも妄想だとしたなら、このような妄想こそ、じつはきわめて正常ということでもあり得る。
誰がそんなこと判定できるのだ、と言われれば、医者にはできない、自分にできる、としか言いようがない。正確には、宇宙について考えている自分の考えが、妄想か正常かを判定できるか否かというところまで、各自で考えていただくしかない。
少なくとも私の場合には、宇宙についての自分の考えによって、日常生活に支障をきたしたことはこれまでのところないし、変わっているとは言われても、医者へ行けと言われたことはないので、ああやっぱりこれでいいんだな、と密かな確信はもっている。
前回私は、死について考えるのが人生最高の美味だと言ったが、これを広げると、宇宙について考えることこそ、人間精神至上の醍醐味と言えるのである。生死について考え始めれば、当然、そこにおいて自分が生き死ぬとされている、物質と宇宙とその認識の仕方について、考えざるを得なくなるからである。たとえば、死ねば無になると人は思っているが、しかし、死んでも宇宙は在るではないか。それを在ると認識しているのは、それでは、何か。
私に言わせれば、現代科学のほうこそ、明らかに半端な妄想である。物質が存在するとは考えても、その物質が「存在する」とはどういうことかと考えたことがない。物質宇宙は「自分の」外部に存在すると信じ込んでいるから、宇宙船を飛ばして調べに行こうということにもなるのだが、しかし、宇宙を宇宙と認識しているのは自分でしかないのだから、いかなる宇宙も、じつは「自分の」内部に存在するのである。バカ高い宇宙船を仕立てて、わざわざ出かけるほどのこともない。「自分が」宇宙だからである。
その「自分」というのを、物質としての脳と、これもまた深く信じ込んでいるから、つじつまが合わなくなるだけであって、そういうときの「自分」というのは、もはや物質ではないと考えれば、話はきわめて単純である。なるほど確かに、自分の脳味噌を切って開けても、地球も月も出て来ない限り、それはそう考えるのが最も素直であって、いかなる支障もきたさない。私は医者へ行く必要を覚えていない。
とはいえ、宇宙のこととか、生死とか、ひいては避け難く「神」のこと、「うまく」考えるのはやはりなかなか難しいようで、うまく考え損ねた人は医者へ行くはめにもなろうし、オウムの事件なども記憶に新しい。さっき私は、自分の考えを「妄想」と言ったが、じつはこれは謙遜であって、私は自分の考えの首尾一貫した現実性から逃れられない。
なべてこの種の事柄の真偽判定は、その考えによって現実生活に支障をきたさないか否かにある。物質は存在しないと信じ込んで車にぶつかれば、死ぬであろうし、自分は神と信じ込んでお説教を始めれば、お定まりのパターンである。気の毒に、そういう人たちは、自分は「考えている」と思いつつ、じつは夢想か空想していたにすぎないのである。
私とて、「宇宙」と「自分」と「神」とは、どうもうまく分けられないということに気づいた時には、それなりに当惑はしたけれども、理性の筋目に沿ってきちんと考えている限り落ち度はない、変なのは私ではなく宇宙のほうだと居直っている。この奇妙奇天烈な宇宙を、溺れずに泳ぎ渡ってゆくためには、「考える」という理性の作用は、堅固な一本の命綱のようなものなのだ。
これに対して、「信仰」というのは、一面では必要だが、反面ではやはり安直で、「考えられていない」神への信仰は宗教になるし、「考えられていない」物質への信仰が、科学になる。科学は宗教を否定するが、どちらも信じられているということでは、まあ似たようなものである。
宇宙を認識したいという科学の欲求は、むろん私も共有するところだが、その欲求の仕方が、じつは最初から的をはずしているという可能性をも、これからは考えに入れてもらいたいと思う。宇宙を飛んでいる向井さんは、自分は宇宙を飛んでいると思っているに違いないが、しかし、あれはそうではなく、自分を飛んでいるのである。彼女は自分を飛んでいるのである。「無重力」ということなら、私なんか、毎日そうである。
明日香村のキトラ古墳の壁面に、星座を描いたものが見つかったそうだが、私にはどちらかと言えば、こちらの話のほうが興味深い。
日本人は花鳥風月は愛でても、地水火風は観察しない、だから日本で科学は生まれなかったと、通説通りに思っていたからである。しかし、人間にとって宇宙のことを考えるのは、言ってみれば、自分の家に帰るようなものだ。星空を見上げた古代人が、いったいそれを「何」と思ったのか、その瞬間を思い出そうと私は努める。夜になると空に光り出すあれらを、「別の天体」と、考えるよりも先に教え込んできたのは、ずっとのちになってからの科学である。おかげで、われわれの想像力は、いかほど痩せたものになったか。
「宇宙が仕事場になる時代がやってきた」とは、やはり宇宙飛行士の毛利衛さんの言葉である。
ところで、私もまた、もうずっと宇宙が仕事場である。スペースシャトルにこそ乗ったことはないが、地球を天空から眺めているような感じは常にあるし、もっと言うと、全銀河、全宇宙、ビッグバンから、その他いまだ知られぬ宇宙の在り方まで全部ひっくるめて、「我が脳中に」、あるような感じがしているのである。
妄想と言ってしまえば、まあ妄想には違いないが、しかし、宇宙そのものが、そもそも妄想だとしたなら、このような妄想こそ、じつはきわめて正常ということでもあり得る。
誰がそんなこと判定できるのだ、と言われれば、医者にはできない、自分にできる、としか言いようがない。正確には、宇宙について考えている自分の考えが、妄想か正常かを判定できるか否かというところまで、各自で考えていただくしかない。
少なくとも私の場合には、宇宙についての自分の考えによって、日常生活に支障をきたしたことはこれまでのところないし、変わっているとは言われても、医者へ行けと言われたことはないので、ああやっぱりこれでいいんだな、と密かな確信はもっている。
前回私は、死について考えるのが人生最高の美味だと言ったが、これを広げると、宇宙について考えることこそ、人間精神至上の醍醐味と言えるのである。生死について考え始めれば、当然、そこにおいて自分が生き死ぬとされている、物質と宇宙とその認識の仕方について、考えざるを得なくなるからである。たとえば、死ねば無になると人は思っているが、しかし、死んでも宇宙は在るではないか。それを在ると認識しているのは、それでは、何か。
私に言わせれば、現代科学のほうこそ、明らかに半端な妄想である。物質が存在するとは考えても、その物質が「存在する」とはどういうことかと考えたことがない。物質宇宙は「自分の」外部に存在すると信じ込んでいるから、宇宙船を飛ばして調べに行こうということにもなるのだが、しかし、宇宙を宇宙と認識しているのは自分でしかないのだから、いかなる宇宙も、じつは「自分の」内部に存在するのである。バカ高い宇宙船を仕立てて、わざわざ出かけるほどのこともない。「自分が」宇宙だからである。
その「自分」というのを、物質としての脳と、これもまた深く信じ込んでいるから、つじつまが合わなくなるだけであって、そういうときの「自分」というのは、もはや物質ではないと考えれば、話はきわめて単純である。なるほど確かに、自分の脳味噌を切って開けても、地球も月も出て来ない限り、それはそう考えるのが最も素直であって、いかなる支障もきたさない。私は医者へ行く必要を覚えていない。
とはいえ、宇宙のこととか、生死とか、ひいては避け難く「神」のこと、「うまく」考えるのはやはりなかなか難しいようで、うまく考え損ねた人は医者へ行くはめにもなろうし、オウムの事件なども記憶に新しい。さっき私は、自分の考えを「妄想」と言ったが、じつはこれは謙遜であって、私は自分の考えの首尾一貫した現実性から逃れられない。
なべてこの種の事柄の真偽判定は、その考えによって現実生活に支障をきたさないか否かにある。物質は存在しないと信じ込んで車にぶつかれば、死ぬであろうし、自分は神と信じ込んでお説教を始めれば、お定まりのパターンである。気の毒に、そういう人たちは、自分は「考えている」と思いつつ、じつは夢想か空想していたにすぎないのである。
私とて、「宇宙」と「自分」と「神」とは、どうもうまく分けられないということに気づいた時には、それなりに当惑はしたけれども、理性の筋目に沿ってきちんと考えている限り落ち度はない、変なのは私ではなく宇宙のほうだと居直っている。この奇妙奇天烈な宇宙を、溺れずに泳ぎ渡ってゆくためには、「考える」という理性の作用は、堅固な一本の命綱のようなものなのだ。
これに対して、「信仰」というのは、一面では必要だが、反面ではやはり安直で、「考えられていない」神への信仰は宗教になるし、「考えられていない」物質への信仰が、科学になる。科学は宗教を否定するが、どちらも信じられているということでは、まあ似たようなものである。
宇宙を認識したいという科学の欲求は、むろん私も共有するところだが、その欲求の仕方が、じつは最初から的をはずしているという可能性をも、これからは考えに入れてもらいたいと思う。宇宙を飛んでいる向井さんは、自分は宇宙を飛んでいると思っているに違いないが、しかし、あれはそうではなく、自分を飛んでいるのである。彼女は自分を飛んでいるのである。「無重力」ということなら、私なんか、毎日そうである。
明日香村のキトラ古墳の壁面に、星座を描いたものが見つかったそうだが、私にはどちらかと言えば、こちらの話のほうが興味深い。
日本人は花鳥風月は愛でても、地水火風は観察しない、だから日本で科学は生まれなかったと、通説通りに思っていたからである。しかし、人間にとって宇宙のことを考えるのは、言ってみれば、自分の家に帰るようなものだ。星空を見上げた古代人が、いったいそれを「何」と思ったのか、その瞬間を思い出そうと私は努める。夜になると空に光り出すあれらを、「別の天体」と、考えるよりも先に教え込んできたのは、ずっとのちになってからの科学である。おかげで、われわれの想像力は、いかほど痩せたものになったか。