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検査延期の理由

病室の機械化

 機械化することで、ナースコールが増えてます。尋ねても、ナースは「患者さんのためです」というだけでしょう。

中野の思い出

 中野とは、本当に細かいところまで、メールしていた。

検査延期の理由

 熱があると、カテーテルはリスクを負う。リスクを挙げたら、キリがない。生きていることがリスクです。だけど、全世界を支配する。

 なぜ、一週間も延びるのか。これは手術室と土日を挟まないやり方。

 なぜ、医者は高圧的なのか。それは自分の安全のためです。他人のリスクだから、気にしていない。

再度、抗生物質を注入

 抗生物質を点滴した途端に、体温が上がりました。38度です。瞬間的には39度を示していました。急遽、点滴を外して、体温は下がり始めました。やはり、日曜日の高温は抗生物質の点滴に性です。

 元々、クラビットにアレルギーがあると言っているのだから、それぐらいは考慮しなよ。

携帯ICレコーダーが見当たらない

 ICレコーダーの小型がない。不安定です。落とすはずがないから、かならずあるはずです。入院前の音声が記録されているはずです。

 高機能版のICレコーダーは偶々持ってきたので、これらの入力を行っている。

 携帯用は24時間の録音とそれからの抽出が可能です。また録音をヒアリングが平衡できます。抜け出して、探しに行きたい。奥さんに訴求しても無理です。
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入院状況

未唯空間の資料

 カントの超越論的という言葉は、経験の領域を超えているという意味にとって、十分である。

入院状況

 ベット上で安静で寝ているので、背中が痛い。腰が痛いのの薬があるそうです。痛み止めです。

 血をサラサラするのと、血管を拡張する点滴が効いて、血圧は100の50です。

 熱は37.2度です。昨日の38.4度は何だったのか。抗生物質に反応したとしか考えられない。おかげで、カテーテル検査が一週間延びて、来週の火曜日。その間は、入院状態になる。いい加減な決定をされている。3日間の入院が10日間の入院になった。

 昼前の血糖値は280です。高い。朝起きた後は120です。大体、この傾向です。

1992年からの雑記帳からブログ作成

 1996年に中野は「平松さんは分かっていない」という発言をしています

パートナーにメール

 パートナーに我慢できずにメールを出しました。心臓を圧迫を感じるので、思い切りました。

 「もうすぐ4月です。元気にやられていますか? 私は心不全で緊急入院です。寝ているだけです」「できたら、状況を教えてください」

 メールを出すと、相手の色々なことを考えてしまいます。それはそれで心臓の圧迫を与えます。

 1時間半後にメールが戻ってきました。この瞬間だけ、出して良かったと思います。自分の存在が認められたことを実感。

 「ちょうど、近々、状況を電話しなくては、と思っていたところでした」

 「心不全とは全く知らず驚きです。今は絶対安静というところでしょうか。大丈夫ですか。非常に心配です」「今は、一日も早く退院し、お元気になられることを、ただ願うだけです」

 「私は、相変わらず色々な葛藤はありますが、元気にやっています」「メールや電話で報告したいことが色々ありますよ」「しばらくはメールにしますね。また、連絡します。」

 「とにかく、無理されないよう! お大事に!」

 これで少しは、心臓も安定する。
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デカルトの情念論

『アランの情念論』より

デカルトの『情念論』はアランが自己の思想を語る際に参照し続けた著作であり、アラン自身の情念論に融合している。しかしのちに見るように、アランはデカルトの学説をすべてそのままのかたちで受容したわけではなかった。ここではデカルトの学説がフランスの情念論の歴史的展開に果たした役割を確認するに留め、デカルトによる情念の定義と動物精気論に立ち入っておくことにしよう。

デカルトは『情念論』の第二七項で情念を次のように定義する。

 動物精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強化され、我々がとくに魂に関係づけるような魂の知覚、感覚、動揺。

この定義はデカルトの心身二元論、心身の合一、知覚認識における動物精気論の役割を前提としている。思考実体としての魂と延長実体としての物体をデカルトが区別したことはよく知られている。ところで、情念を論ずる際に両者の間での能動と受動の区別が重視される。能動と受動の区別は相対的であることをデカルトは説明す起こること、あるいは再起することを、哲学者たちは一般的に、それが到来する主体から見れば受動と、またそれを到来させる主体から見て能動と呼ぶことを私はまず考慮する。したがって、能動者と受動者は著しく異なることが多いが、能動と受動はそれらを関係づけることのできる二つの主体が異なるものだという理由により二つの名を持つ同一のものである。

この区別の相対性を心身の区別に適用すると、魂にとって受動であるものは身体において能動であると言うことができる(第二項)。すなわち、

 ・魂の能動は身体の受動である。

 ・身体の能動は魂の受動である。

 ・情念とは魂の受動のことである。

このような情念の概念が成り立つ前提としてデカルトは心身の合一を認める。魂は全体的に身体に結合しており(第三〇項)、一方から他方へと働きかけることができる。双方の働きかけを可能にするのが動物精気である。動物精気は血液が変化して微細な粒状になったもので、血管や神経中にくまなく行き渡っているとされる。この微粒子が身体の内で運動し、「魂が直接的に働きかける身体の部位」である「脳中の小さな腺」(松果腺)に接触して印象を伝える(第三一項)。あるいは逆に松果腺から精気が噴射されて特定の神経を動かす(第三四、三五、三六項)。前者の場合が知覚、後者の場合が随意運動に対応する。こうした認識論によれば、情念は松果腺に衝突する精気が形成した印象を魂が認識することによって起こる。この意味で情念は知覚の一種であり、精気の粒子を能動的な作用の主体とする精神の受動である。

しかし情念を感ずる人にとって情念の原因は魂であるように思われる。情念は外部の対象の知覚とは異なり、その原因を関係づけるべき対象が魂以外に見当たらないように思われる(第二五項)。これが情念の特徴であるが、情念の実際の原因が動物精気の運動であるならば、情念についての上記の観念は情念の原因についての判断の誤りから生じていると言うことができよう。

以上見てきたように、デカルトにおいて情念とは脳中の松果腺を「魂の主要な座」とした魂の受動、身体の能動であり、その実際の原因は動物精気の運動であるが、原因を私たちが自己の魂へ関係づけることによって成立する。

後世との連続性を考えるうえでデカルトの情念概念についてもう一つ注目されてよいことに情念と病との関わりがある。一部の情念は病の原因になるとデカルトは考えていた。デカルトと文通していたエリーザべト王妃が「空咳を伴う微熱」に悩まされていたことを知り、次のような診断を書き送った。微熱の最もありふれた原因は悲しみです。

エリーザベトの父であるボヘミア王は王位を奪われ、一家は亡命中であった。こうした状況が病の原因であるとデカルトは考えた。デカルトが後に『情念論』で基本情念のうちに数えた「悲しみ」は、社会的状況の認知から生まれ、微熱という身体症状として表れていた。

アランがデカルトの『情念論』から学んだのは、魂の受動としての情念観であり、身体運動にその生成を見ることであり、またデカルトの「最後の思想」とアランが呼んだジェネロジテの思想であった。アランの著作を読めば一目瞭然であるこれらの遺産に加えて、心と体の全体的な病としての情念観をアランはデカルトから受け継いだように思われる。アランにとって、激しい情念に駆られた人は、狂気に駆られた人とほぼ同義語であった。狂気が治療可能なものであるならば、治療方法は精神的かつ身体的なアプローチによらなければならない。デカルトの情念論から派生するこの精神医学は、次節で見るように一八世紀フランスで準備され、一九世紀初頭にピネル(乎吾17乱)らが展開したいわゆる道徳療法に受け継がれるが、一九世紀後半には神経生理学に立脚した精神医学の台頭により忘れ去られていく。アランの狂気観が道徳療法のそれに似ていることは偶然ではない。フランスにおける情念論の系譜を辿り直してみると、デカルト的伝統において両者は確かに縁戚関係にあることが理解されるのである。
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ヘルスケアサービス提供者の確保

『北海道ヘルスケアサービス創造』より 稚内市をモデルとした課題対応の方向性

①現状における課題

 ・都市部に比べて人口が少ない地方部においては、医療・介護保険制度に係るサービス以外で、民間企業単独でヘルスケアサービスを展開し、採算性を確保することは難しい。

 ・一方、民間企業以外で、ヘルスケアサービスの担い手として期待される組織として、NPO法人や商店街、町内会等があげられる。

 ・このうち、事業の継続性を確保する視点からは、法人格を有する組織による主体的な参画が望ましいが、市内のNPO法人は9団体にとどまっている。さらには、「ヘルスケア」を主たる活動分野とする団体はなく、ヘルスケアサービスを提供する組織主体をいかに確保するかが課題となる。

 ・前述のとおり、稚内中央商店街振興組合は、地域住民の健康づくりが中長期的な顧客の確保に繋がるという視点から、健康づくりに係るイべント等の開催実績があり、また、NPO法人街にいき隊はこうしたイべント等の企画・実施の実働部隊として活動しているが、いずれとも人材不足等の課題から、ヘルスケアサービスの主体的な担い手となることは現状では難しい。

 ・このような現状においては、ヘルスケアサービスの担い手として、単独の組織が主体的に運営することには限界がある。

②課題解決に向けた方向性

 【既存組織の連携の素地作り】

  ・このため、地域の限られた担い手に、いかに「ヘルスケア」の視点での取組を促し、さらにこれらの組織がお互いの強みを活かし、弱みを補いながら連携してサービスを提供する仕組みが必要不可欠となる。

  ・現在、市内ではNPO法人同士が意見交換する機会がほとんどなく、法人が連携してサービスを提供する素地は見られていない。

  ・そのため、「ヘルスケアサービスの創出」を切り口に、各NPO法人等がアイディアを出し合い、人的ネットワークを共有する契機となる意見交換会を開催し、こうした場を通じて、担い手を発掘することが必要である。

  ・稚内市内では、障がい者支援を行うNPO法人が、障がい者を対象とした「たまり場」を提供しており、今回検討した「コミュニティカフエ」の運営ノウハウやネットワークを有していると考えられる。

  ・このように、一見「高齢者」「ヘルスケア」に関連性は見られなくても、団体の活動内容やノウハウ等を把握する場を創出することで、連挑nj°能性を見いだす視点が重要である。

 【個人】

  ・まずは、市の介護予防サポーター、公的機関、金融機関、医療・介護機関のOB、元教員、元管理栄養士・栄養士、元調理師等が、元気な人に生きがいや楽しみとなる交流や社会貢献の視点で、身近で気軽に関わり方を選択できる仕組みを構築する。

 【できる活動からはじめて、関心のある人を巻き込む】

  ・運営主体に加え、労働力人口が減少する中で、ヘルスケアサービスの担い手となる人材確保が重要な課題となる。

  ・人材確保の視点として、看護・介護、栄養指導、運動指導等の有資格者の市民、活動的な高齢者(アクティブシニア)等、地域に埋もれた人材の発掘が重要である。

  ・こうした人材を発掘するためには、現状の社会資源の実態を見据えて、コミュニティカフエなど、まずは取り組めることをスタートさせ、そこから各メンバーのアイディアや主体性を活かした様々な活動を展開して いくことが望ましい。

  ・そして、活動に関する情報発信を積極的に行った上で、活動に必要な担い手を募集したり、サービスの利用者を潜在的な担い手として捉えて、人的ネットワークを構築することが重要である。

  ・また、担い手としてNPO法人等の他に、学生を対象とすることも考えられる。

  ・なお、担い手となる人材のモチペーションを維持するためには、サービス提供に対する一定の対価を支払うことが求められる。(まずはクーポン等で試行)

  ・ただし、雇用するまで収益を上げることは、当面難しいことが想定されるため、有償ボランティア等の方法が考えられる。
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一日早く、緊急入院

一日早く、緊急入院

 結局、緊急入院です。あそこでもう少し、呼吸困難を我慢すればよかった。だけど、10分経っても、続いたので、奥さんに状況を告げた。勝手に、二階で亡くなった時に原因が分からないと困るから、ということを思った。

 血圧が上がったのが、どうも原因みたいです。カレーうどんがまずかった。それに未唯の関係で心理的な要因が重なったのでしょう。結局、未唯の相手の両親との席には出れなかった。同じ、11時半に緊急入院で病室に入り込みました。

カテーテル検査の間で立ち止まり

 カテーテル検査の前で止まっている。カレーテル検査の後には、バイパス手術が入っている。それで初めて、呼吸困難の現象がなくなるでしょう。それを指摘している医者があまりにものんびり過ぎる。入院となると、先が長いです。毎日が過ぎていく。

身体は外部

 元々、身体は外部です。この概念を徹底させます。

入院環境

 四人部屋に偶々、一人です。ここは短期者の病室なんでしょう。その後を見るとカテーテルの患者ばかりです。

 無線LAN環境がないので、FBもツイッターもできない。ケータイは掛かってきません。それだけで、胸を病みます。

 機械音に溢れています。押せばいいボタンは分かっているけど、勝手に押せません。ナースは人からも呼ばれ、機械から呼ばれます。機械は当然、お礼の言葉を発しません。労働過重になるはずです。

 点滴で抗生物質を入れられ、それに反応して38.4度にあり、火曜日のカテーテル検査は一週間延期。

第5章の取り組み

 第5章は会社篇ですが、比較するときは大きく構えて、循環を検討していく。そうすると、組織の制約に引っかかります。そして、組織の制約を超えていくために、現場を使っていく。

 5.4「お客様情報」。お客様情報と書いてあるけど、店舗とお客様との関係を汎用的に考えていきます。必要な機能を明確にします。

四方さんを訪問したこと

 四方さんを訪問したのは、1996年7月19日。2時から4時までの予定であったけど、結局、7時まで話し込んでいた。ここで、井上さんから問題意識で「水素の活用」を述べられた。「水素」のプロジェクトに最初にゴーを掛けたのが、井上さんだった。

 1996年という年。丁度、池田晶子さんが46歳で亡くなった年です。(年齢の辻褄が合っていない)

 四方さんとも会ったりして、色々な方向を探っていました。そこで述べていることが、さほど、今と変わりはしません。名古屋の実体が分かって、もっと、目を広げないといけないという時だった。

ムハンマドの侵略

 ムハンマドは、ペルシャ帝国を破壊し、ビザンティン帝国を封鎖し、西洋を二つに分けた。あの付近の帝国名が中々、出てこない。

 ムハンマドは啓示が本物だと主張する、妻の言葉に耳を傾けた。私の場合は全て、戯言で済まされている。

 アラブ人を一つにしている。

入院の時間の意味

 この入院の時間は何のために与えられたのか。それを考えるための時間なんでしょう。これも<今>なんです。

 入院していることで、心臓病で死ぬ可能性は朝よりも、減っているのでしょう。だけど、医者は信用できない。組織に逆らうのは、私の信条です。

未唯空間の資料

 環境都市「フリチバ」

  2014年4月13日です。一年前のフリチバという都市。早速、タントのアントニーにぶつかっています。アンチノミー。

 純粋理性批判の解説書というけど、実体の知れないものです。

親戚中からの叱責

 奥さんと子供たち、妹と姪は私をクレーマーと決めつけている。

 入院の書類にも、付添いの妹は「クレーマーだから、言われたら、家族に連絡してください」とわざわざ、書いています。

 正義は私の方にあるのに、そんなことに構わずに、おとなしくすることを強要します。
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創造力 「こんな性格に誰がした?」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

アドラーは、つぎのようにいいます。

「どの個人もみな、それぞれの性格と、その性格の形成の双方を表現しているといえる。たとえるならば、個人は絵画でもあり、自分という絵画を描く画家でもある。個人は自分の性格を描くアーティストなのである」

自分をつくりあげるのは自分しかありません。自分の行動のすべてを自分で決めることができます。もっといえば、自分しか決めることができません。私がアドラー心理学と出会って、もっとも感銘を受けたのが、この「創造力」という概念でした。創造力というと、すばらしいアイデアがひとりでに浮かぶ能力かと思われがちですが、それとは別物です。

小学生のころの私は本当によく泣いていました。いじめにあっていたわけでもないのに、ちょっと学校の友だちにからかわれるだけで、すぐ泣いてしまっていたのです。家に帰ってそのことを親に話すと、「男なんだから、そんな簡単に泣くもんじゃない!」と怒られました。自分の不幸が受けいれてもらえないと、「こんな性格になったのは、お父さん、お母さんのせいだ」と反発し、さらに泣きわめいていたのです。

アドラー心理学では、いわゆる一般的な性格のことを「ライフスタイル」といいます。このライフスタイルの形成において、3つの要因が考慮に入ります。それは、遺伝的要素、環境的要素、そして創造力です。

カウンセリングをしていますと、よく「性格は子供に遺伝するのですか」という質問を受けます。遺伝的要素と環境的要素については、あくまでライフスタイルの形成に「影響を与えるもの」であって、それじたい「決定要因ではない」と、お答えしています。つまり私たちは、それぞれに与えられた遺伝的要素や環境的要素といった限界と可能性の中で、創造力を用いて自分自身のライフスタイルを決定しています。

この創造力は、人間に「自己決定性」と「自己責任性」を与えてくれます。

そこには、選択と決定の自由意志があります。つまり人間は、遺伝的要素や環境的要素によって機械的に動かされているのではなく、それらの制限を受けながらも、自由な決断をくだし、自分をコントロールできる存在だということです。人間にとって、3つの要因の中でただひとつ、自分の意志で自由に決められるのが、この創造力なのです。

さらに、すべての人には「自分の決定に責任をともなう」という能力があるものと、私たちは信じています。

このことはまた、「自由意志論」、または「やわらかい決定論」という言葉でも説明されています。アドラーから強い影響を受けた、実存主義のヴィクトール・フランクルは、つぎのように語っています。

「刺激と反応のあいだには、少しのすき間がある。そのすき間において、人間は自分の反応を選択できるという力を持っている。そして、その反応の中には、私たちの成長と自由が眠っているのだ」

親へ責任を転嫁していた小学生の私は、社会人になっても、その呪縛から抜けだせていませんでした。大人になってからの事業者金融の営業でも、思うように成績が伸びなかったときや、会社の事業や営業の方針になじめず、納得のいかないことが起こったときにも、「自分がうまくいかないのは、社会のせいだ」と嘆いていたのです。ですが、その限られた環境の中でも、自分をコントロールでき、自由な決断ができていれば、創造力を発揮して、何らかの工夫や改善ができたはずでした。

社会心理学には、「根本的な帰属の誤り」という概念があります。これは、「人間の行為は、その人の内的要因、つまり気質や性格的なものである」というように、つい偏った見方をしてしまう誤りを示しています。

たとえば、仕事でミスをした同僚がいたとします。こういうケースでは、周囲の人は「いい人だけど、大ざっぱな性格だからなぁ」とか、「いいかげんな人だから、いつかはこうなると思っていたよ」とか、あたかもミスの原因が、その同僚の性格だけにあるかのような結論をしてしまいがちです。このとき、人間関係や状況などの外的要因は、ほとんど無視されてしまっているのです。

また、「行為者‐観察者バイアス(歪み)」という理論では、「行為者となった場合、自分自身の行為の原因は外的要因に帰属させるが、観察者となった場合には、その同じ行為の原因を行為者の内的要因に帰属させる傾向がある」と説明されています。つまり、「当事者の立場か、外野の立場か」によって、同じ行為に対しても見方が正反対になるということです。

これは、理論化されるまでもなく、誰しも心あたりがある話ではありませんか。ですから、自分自身がミスをした場合には、「パートナーがちゃんとやらなかったから」「運がなかったから」「状況が悪かったから」などと、外的要因を最初に考えてしまうわけです。

もうひとつ、似たものに「自己奉仕バイアス(歪み)」という理論もあります。これは、自分自身が何かで成功したり、うまくいったりしたときは、その内的な要因、つまり自分の能力や努力のおかげだといい、失敗したときは、外的な要因、つまり誰かほかの人や状況のせいと考えてしまう傾向です。

このような心理的なバイアス(歪み)は、成功の成果をひとりじめし、失敗の反省はしないという、私たちの悪い一面を正当化しています。

「人間のライフスタイルは6歳ごろまでに形成されるであろう」--アドラーはそういっています(現在のアドラー心理学では10歳)。形成期の子供は、試行錯誤しながらさまざまな行動を起こし、家族や学校などの環境のもと、自分の居場所、つまり「所属」を確立しようとします。そして、その行動の結果や相手との関係などから学び、つちかわれていく「創造力」を駆使して、自分や他者、そして世界観においての「信念」を形成していくのです。

しかし、形成期の子供には言語力が不足していますし、知識も十分にありません。そういった中で、彼らはいったいどうやって、それらの信念を獲得していくのでしょうか。

アドラー心理学には、「子供はすぐれた観察者ではあるが、未熟な解釈者である」という見方があります。ですから彼らは、あるできごとに対する経験や見解を感覚で理解していると考えられています。その経験や見解を表現するための言語レベルと適切な認知力が、十分に発達していないというだけなのです。

たとえば、「ボクが泣けば、いつでもお母さんが来てくれる。だから、何か嫌なことがあれば、すぐに泣いてお母さんに気づかせなきゃいけない。それでボクは安心できるんだ」などと言語的に認知しながら、泣きわめいているような子供はいないでしょう。ですが、こういった言語的な気づきと理解がなくても、この子供はそのように行動するのです。

つまり、経験というものは言語化された形で信念として獲得されるわけではなく、感覚という形で経験されるうちに信念がっくりあげられ、やがてライフスタイルを形成していくという反対の流れになります。

また、いったんこの信念が確立し、ライフスタイルの一部になると、できごとに対して選択的な注意を向けるようになります。この選択をもたらす<。色メガネ〃の役目をはたすのが「統覚・認知バイアス」です。

そして、統覚・認知バイアスにより「私的論理」の形成のプロセスが起こります。

その後は、あるできごとに遭遇したときにも、受けいれたいことには注意を向け、無視したいことには注意を向けなくなります。つまり、個人のライフスタイルに沿うように、経験やできごとは選択的に受けいれられ、「意味づけ・解釈」されるということです。さらに、そのプロセスはライフスタイルを強化する助けとなり、ある特定のできごとには、。無意識的に々そのライフスタイルにしたがって行動するようになるわけです。

この無意識も、一般的な理解とは異なります。アドラー心理学が考える無意識について、2つの視点から補足をしておきましょう。

ひとつ目は、さきほどの統覚・認知バイアスにより認識の選択がなされ、私的論理が形成されるプロセスで起こるものです。私たちは、自分のライフスタイルにしたがって、選択的にできごとをとりあげ、それに意味づけ・解釈をします。この流れが強化されると、なかば自動的ともいえる形で、いわば無意識的に行動するようになります。

もうひとつは、「暗黙的理解」です。これは、経験やできごと、状況といったものも「言語化されていない」かぎりは、それに「異論をとなえることができない」ということです。

アドラー心理学のカウンセリングの現場では、ライフスタイル診断というものがおこなわれます。その目的は、個人の「信念体系」(自己概念、世界像、自己理想)を言語化し、その誤りを見つけて修正していくことにあります。

しかし、この信念体系というものも、ライフスタイル形成期にはきちんと言語化されていません。そして、いつまでも言語化を実現できないまま成長し、成人している場合があるわけです。言語化されていなければ、その誤りに異論をとなえるどころか、それを認知することもできません。その状態が無意識のもとにあるというのが、暗黙的理解です。

これらは、フロイトがいったような〝抑圧された無意識〟ではないことをあらためて強調しておきたいと思います。
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現象学 「みんなもそういってるから」

『アドラー心理学を深く知る29のキーワード』より

人間は「主観的」な生きものです。ここでいう「現象学」とは、事実に対する主観的な印象であり、主観的な見解であって、私たちはそうやって「意味づけ・解釈」した世界に生きているにすぎないということです。

ここに、ひとつのできごとがあり、100人が同じように遭遇したとしましょう。たとえば、交差点で自動車どうしの衝突事故を目撃したとします。はたして100人は同じようにそのできごとを〝経験〟するのでしょうか。ある人は「かわいそうに!」と当事者に同情し、ある人は「なんておろかなことを」と冷めた目で見ているでしょう。また、「なんでこんな見通しのよい交差点で事故が起こったのか」「どちらにより責任があるのか」「ケガがなければいいが」「私も注意しなくては」「保険にはちゃんと入っているだろうか」などと考える人もいます。

同じできごとを見ていても、おそらく100人がそれぞれの印象を持ち、それぞれの見解を持つにちがいありません。

この本を読んで、はじめてアドラー心理学について考える人も同様です。おそらく、人によって、それぞれが異なった印象、異なった見解を持つはずです。それぞれの印象と見解が、あなたにとっての主観的現実です。このことについてアドラー心理学は、外界に対する主観的な意味づけ・解釈をし、世の中を理解しているものと考えます。

つまり人間というものは、それぞれがユニークな存在であり、その人らしいユニークなライフスタイルによって、自分と世界のあいだに個人的で創造的な関係性を見いだしています。そして、現象学的な印象や見解によって認識しているのです。

ある日私が自宅でくつろいでいると、携帯電話に1本のメールが入ってきました。「いまから電話で話せる?」-ある友人からでした。「了解!」と返信すると、まもなく電話がかかってきました。友人は私がカウンセリングを学習していることを知っていたので、ときどきこういったやりとりをしていました。

その友人は、職場の同僚と仕事上のある案件において意見がぶつかり、そのまま口論となってしまいました。そのとき同僚に自分のアイデアに対する批判をされ、「誰だってそういうに(そのアイデアに対して批判をするに)決まってる!」といわれて、大きなショックを受けたというのです。

友人は、同僚の批判に対してカッとなってしまい、激しい罵声を浴びせてしまったそうです。そして、「ねぇ、これって私のほうが間違ってる?」と私に同意を求めながら、すぐさま「私のほうが正しいって、みんなもそういってるから」と、続けました。

話をまとめると、どうやら最初の論点からは脱線してしまっているようです。すこし整理しなくてはなりません。同僚が友人のアイデアに向けた批判--これには怒りたくなる気持ちが理解できないわけでありません。そう伝えたうえで、相手に罵声を浴びせたことが正しかったのかどうか--これは、よくなかったのではないかと率直に答えました。

しかし、これだけではまだ解決していません。私の頭の中では、彼らのやりとりにあった「誰だって」「決まってる」「みんなも」という言葉の選択に強い違和感を覚えていました。そこで、「ねえ、〝みんなも〟っていっていたけど、誰のこと?」と聞きました。すると、友人は具体的に〝ふたり〟の名前をあげたので、つぎのように答えたのです。

「同僚が、〝誰だってそういうに決まっている〟といったのは、たしかにその人の勝手な考え方だよね。〝だって〟というのは、いったい誰のことだろう? そのほかの人がどう思っているかなんて、わからないのだから。ところで、キミがいっていた〝みんな〟というのも、その(たった)ふたり……なんだよね」

すると、友人はハッと何かに気づいたらしく、ほがらかに笑う声が電話越しに聞こえてきました。こうして私が〝3人目〟にされることはなかったのです。後日、友人からメールがあり、「批判されたことに対してはまったく気にならなくなった。同じように批判された場合にも、どう冷静にふるまい、対処すべきかを考えるようになった」とありました。

私の大学院時代に、こんなできごとがありました。その日のミネソタは晩から降りつづいた雪がやみませんでした。翌朝、窓から外を見ると、あたり一面が銀世界です。ちょうどその日は土曜日だったので、そのまま静かにアパートの部屋で過ごすことにしました。そのとき突然、電気が落ちたのです。

おやっと思いながら、廊下に出てみると、非常用の電灯だけがもの寂しげに光っています。ようやく事態を把握します。停電でした。冷蔵庫の電源や暖房は切れ、インターネットもできない状態となってしまったのです。

すでに午後3時。この休日には、月曜日に締めきりの課題をやらなければなりません。リサーチが不十分だったので、インターネットの接続は生命線です。しかたなくノートパソコンをつかって書けるところだけ進めることにしたのですが、まもなくバッテリー切れのサインが点灯しはじめました。

土曜日であること、さらにちょうど学期をまたぐ週だったこともあり、大学院は休みです。いぜんとして大雪はやまず、外出も困難な状態になったので、「明日になれば復旧するだろう」と、今日はあきらめ、早々とベッドにもぐりこみました。この時期、ミネソタは午後5時過ぎには暗くなるのです。しかし、そんな時間から眠りにつけるわけでもなく、ただベッドに横だわって朝が来るのをジッと待ったのを覚えています。

はたして日曜日、結局午前中までに復旧せず、アパートのマネージャーにも連絡できません。ノートパソコンと携帯電話のバッテリーもついに切れたので、もよりのスターバックスヘと出かけました。そこで、充電とインターネットの接続をして、さっそく課題にとりかかりました。3時間が過ぎ、いったん確認のためアパートに戻るも、まだ電気はつながっていません。そのとき偶然、車でテレビを見ていた同じ建物の住人がいたので、復旧のめどをたずねてみますと、今夜、もしくは明日の午前中ではないかということでした。

「ああ、閉店ギリギリまでスターバックスで課題をやって、またあの暗くて寒い部屋に戻るのか」--そう考えたとき、思わずハアと大きなため息がでました。いっそホストファミリーのスキャンロンさん宅へお邪魔して、〝一泊食事つき〟をお願いしようとも考えたのですが、それでは、あまりにも安直すぎます。自分の学問のためにアメリカにまでやってきた覚悟というものが見いだせません。私は腹をくくりました。

「こんな経験は望んでも、なかなかできないぞ。ならばいっそのこと、このひどい状況を楽しもうじゃないか!」

そう考えると、何だかサバイバーの気分になって、ワクワクしてきたのでした。

このときの私も「意味づけ・解釈」という作業をしています。できごとや状況、それじたいが意味を持っているのではありません。私たちの「知覚」を通して、主体的に意味が〝つくりあげられる〟のです。

つまり、事実に対する意味は自分が決めています。事実に対する解釈のしかた、意味づけの方向性は、人それぞれです。結果として、それが正しいかどうかではなく、それぞれの意味づけの方向性、解釈のしかたによって行動するのが、人間というものでしょう。そして、いざ不測の事態が起こったとき、それぞれの異なった意味づけの方向性、ユニークな解釈のしかたが、必要になってきます。これは、その人の「信念」というべきものです。

以上の流れを図式であらわすと、つぎのようになります。

できごと・状況-知覚-意味づけ・解釈-信念
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心を使っている限り、心を超えられない

『奇跡はいつも起きている』より 宇宙のバランスの中で、自然に身軽に生きていきましょう

ここまで、心によって湧き上がる欲望や執着、依存について、それらがひとつの幻であることをお話ししてきました。しかし、私たちがいただいた心や体は、本来素晴らしい機能を持っています。ただ、それをどう使ったらいいのかなんら説明書がありません。仕方がないので、子どものときから人のふりを見て、その真似をして行動してきました。

ヒマラヤ秘教の教えは、サマディから生まれた智慧です。この心身のしくみをつくった神の意識からのガイドです。そこには愛が盛り込まれています。愛のある生き方です。それをお伝えする前に、そうしたことを知らない心のあり方を見ておきましょう。

私たちは、過去生から、ずっと心を使い、さまざまな欲求を満たして生きてきました。感覚は、常に外側の情報を集め、それにしたがって心が動き、欲望が湧き上がり、行為を行います。こうしたサイクルは、ずっと続いていきます。もちろん必要があり、生きるためにそうなっています。

眠っているときの心は、どうでしょうか。眠っていても内側で働いています。昼間の刺激を受けて、印象に残る刺激から想像が膨らんで、夢となってさまざまな処理をしています。表面的には周囲との調和を図っていても、心は我慢して、エゴが苦しんでいます。そのぎりぎりの状態を夢にして、処理することもあります。夢を思い起こすと、気づきが深まり深層心理がわかるのは、そのためです。

心には表面の心、つまり顕在意識と、もうひとつ押し込められた潜在意識の心があります。潜在意識を浄めることで、運命が変わってきます。それがヒマラヤ秘教の恩恵です。

ディクシヤによって神につながること、それは純粋な意識につながることです。そして、サマディ瞑想やその他の瞑想を実践することで、意識が覚醒されていきます。抑圧されたエネルギーが溶けて浮き上がり、浄化されていきます。

それは、心を超えた純粋な意識です。潜在意識を浄化していくと、それを見ている純粋な意識が覚醒してきます。

また心は、常に幸福を選択しようとはしているのですが、その幸福が「みんなの幸福」でないことが多いのです。自分を少しでも守り、競争に勝つための、自分のみの幸福。セルフィッシュな幸福の追求になってしまっています。それは知らず知らずのうちにカルマを積み、人を傷つけ、自分を傷つけてしまうこともあります。

ヒマラヤの恩恵は、そうした恐れから解放し、大きな意識を持たせます。恐れや執着の心も浄化します。智慧によってそれを見ると、その矛盾が明らかになり、自然に愛が溢れ、溶かされていきます。

そして目からうろこが落ちるように、心の縛りが外されます。ふつうでは見えない心の執着や働きが外れていきます。

そのプロセスは気づきの連続で、あなたは豊かな智慧の人になっていくことができます。それが、心を超えていくという生き方です。
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ヨーロッパ・アメリカのイスラーム

『よくわかる宗教学』より

①現代世界のムスリム人口

 21世紀の現在、イスラームはもはや中東に特有の宗教ではない。ムスリムの過半数がアジア太平洋地域に居住し、ムスリム人口の上位4ヶ国はインドネシア、パキスタン、インド、バングラデシュといずれも南・東南アジアの国々である。同時に長らく非イスラーム圏の中心であったヨーロッパ・アメリカでもムスリムの人口増加とともにその社会・文化・政治的な存在感が増している。ピュー・リサーチ・センターの調査によると、2010年には世界のムスリム人口の3%がヨーロッパ・アメリカに居住しており、西欧ではキリスト教に次いで第2の、北米ではキリスト教、ユダヤ教に次ぐ第3の宗教となっている。

②西洋とイスラームの邂逅

 西洋とイスラームの大規模な接触は、イスラーム誕生時にさかのぼる。イスラームが勃興した7世紀には地中海地域に教父時代のキリスト教が存在し、またエチオピアのキリスト教国とも交流をもった。7~8世紀にイスラームの「大征服」が起きると、地中海地域のキリスト教圏は大きく後退した。11世紀末に、西欧諸国が十字軍による地中海東岸地域への遠征・植民活動を本格化させたのをきっかけにふたつの世界が衝突するようになった。この活動は、ローマ教皇の権威の下で13世紀末まで続いた。十字軍は対立だけではなく、西欧キリスト教(ローマ・カトリック)世界とイスラーム世界の文化的・学術的交流をももたらした。

 1453年、版図を拡大しつつあったオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世は、イスラーム誕生以来国境を接していたビザンツ帝国(東ローマ)の首都コンスタンティノープルを征服し、帝国を滅亡させた。その後、第10代スルタンのスレイマン大帝の治下で最盛期を迎えるまで、その勢力範囲は北アフリカ、バルカン半島、中央アジアに向かって拡大し続けた。今日のヨーロッパのイスラーム地域(アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボなど)では、オスマン朝崩壊(1922年)後にもムスリムが多数派として残存している。

 一方、ヨーロッパの西端、イベリア半島ではイスラーム時代が8世紀にわたって続いた。しかし、カスティーリャ王国やアラゴン王国などのローマ・カトリック諸国がレコンキスタ(国土回復運動)を推し進め、1492年にはナスル朝下のグラナダを陥落し、イスラーム勢力は西欧から駆逐された。

③EUへ流入するムスリム労働者と新しいイスラーム   ’

 中世に濃厚な関係をもったキリスト教圏とイスラーム圏は。コンスタンティノープル陥落(ビザンツ帝国滅亡)以降近世に入り、領土をめぐって直接的な政治的・軍事的接触を繰り返してきた。最終的に軍事的な成功を収めたのは、ヨーロッパである。17世紀から19世紀にかけて、イべリア半島やオスマン帝国の版図のみならず、ほぼすべてのイスラーム圏は西洋列強に植民地化され、諸王朝は解体された。

 近現代に入り、ヨーロッパとイスラーム諸国の関係は、旧宗主国と旧植民地、先進国と発展途上国の関係となった。イスラーム諸国から多くのムスリム移民が、経済的な機会を求めて、ヨーロッパを目指した。外国人労働者およびその家族として多くのムスリム人口を抱える国にイギリス、オランダ、ドイツ、フランスなどがあり、イギリスは総人口の約3%がムスリムで、旧植民地の南アジアからの移民が中心を占めている。オランダでは総人口のおよそ6%を占め、旧植民地(インドネシア、スリナム)とトルコ、モロッコからの労働者が多い。ドイツでは総人口の約4%で、トルコ系移民が大半である。

 フランスは全人口の5~10%のムスリムがいると言われ、その大半はアルジェリアやモロッコからの労働者とその家族である。1980年代末から2000年代にかけて、公立学校において女子生徒がイスラーム風のスカーフを着用することを、ライシテ(世俗主義)の原則に反するものとして禁止したことから、「スカーフ問題」に発展し、大規模な文化摩擦が起こった。いずれの国でも労働者一家の定住化と第2世代の誕生に伴って、ホスト社会との間に社会・経済一文化的摩擦が避けがたくなっている。

 北米において、ムスリム人口は南アジアや中東からの移民によって増加するとともに、アフリカ系アメリカ人(黒人)が自己のルーツを祖先の宗教に求めて改宗するブラック・ナショナリズム運動が起こった。1930年にデトロイトにおいて結成された「ネーション・オブ・イスラーム」は、30年代にイライジャ・ムハンマド、50年代にマルコムXなどの活動によって拡大し,現在ではアメリカ最大のイスラーム組織になっている。

 1960年代後半からのニューエイジ運動などの中で、スーフィズムを通じてイスラームに改宗する白人改宗者も出始めた。2000年代以降には、9.11事件を契機に社会全体に「イスラモフォビア」が広がっている一方,アメリカ生まれでアメリカ育ちの、アメリカ文化以外をほぼ知らない新世代のボーン・ムスリムたちが、ほかのエスニックな出自をもつ若者たちと同じ社会に暮らしており、彼らにとってはイスラームを通じたポジティブな自己認識の模索が課題となっている。
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ヘーゲル歴史哲学 自由と平等のトレードオフ

『自由という牢獄』より 資本主義における格差問題

自由と平等のトレードオフ

 最も基本的なレベルから考え直してみよう。近代社会は、伝統社会にはなかった二つの価値を見出した。そのうちのひとつは、前節にも述べたように、個人の「自由」である。これと並んで近代が追求した価値は、個人の間の「平等」である。最初のうちは、両者の間に矛盾があるとは考えられていなかった。平等とは、もともと、自由のための平等、自由の平等だったからである。

 へーゲルの歴史哲学における有名なテーゼは、このアイデアを表現している。へーゲルの考えでは、世界史は、野蛮で勝手気ままな意志が訓練されて、普遍的で主体的な自由が、つまり平等な自由が実現されるまでの論理的過程である。この尺度にそって、歴史は、ひとりが自由であることが認識されている状態(東洋的専政)から、特定の人々が自由であることが認識されている状態(ギリシア・ローマ世界)を経て、万人が自由であることが、つまりすべての人々が平等に自由であることが認識されている状態(ゲルマン世界≒西洋)へと至った、とへーゲルは論ずる。露骨なオリエンタリズムが貫かれているが、今日の観点からこれを批判することには意味がない。われわれが注目すべきことは、論理的形式を支える価値観である。へーゲルの歴史哲学は、自由の平等を至高の価値と見なしている。

 しかし、一九世紀の半ばより、(西欧では)自由と平等との間には矛盾が生じうる、ということが知られるようになる。両者を同時に達成することは困難である、と自覚されるようになるのだ。たとえば、自由が誘発する競争は、富の不平等を帰結する。富の不平等は、実質的に自由をもつ者と、形式的にのみ自由が与えられており、実質的には自由をもたない者との間の分化を意味している。

 図式的に単純化してしまえば、自由と平等の二つの主要な価値のうちどちらを優先させるかで、二つの主要な政治イデオロギーが生まれる。自由を優先させれば、リベラリズムが得られる。平等を優先させ、平等のための自由の制限を許容すれば、社会主義が得られる。

 この二つのイデオロギーの対立が、二〇世紀に冷戦を生み出した。リペラリズムに準拠する資本主義体制と、平等の実現を優先させた(ことになっている)社会主義体制との間の、戦わない戦争を、である。そして、二〇世紀の末期に、冷戦は終結した。第1章でも述べたように、冷戦において最も重要な事実は、一度も「熱戦」を経由せずに決着がついた、ということである。かくして、二〇世紀の政治の思想的教訓は、「自由」の優越である。自由を制限する根拠は、(他の)自由以外にはありえず、自由以外の価値によって、自由を制限すべきではない、と。

 ちなみに、ジョン・ロールズが『正義論』で提起した、正義の二原理は、リベラリズムの優位にそった構成になっている。第一原理は、平等な自由について規定している。つまり、自由を優越させた原理である。格差原理と呼ばれる第二原理は、第二原理に抵触しない範囲での平等化を要求している。『正義論』は、独特の設定の社会契約の思考実験から、近代を構成した二つの価値を、自由の優位のもとに配分するようなかたちで、正義の原理を導き出しているのである。

資本主義のための社会主義

 しかし、二一世紀に入ってから、現代社会は、再び、不平等の問題に、格差の問題に苦しむょうになった。人びとの間の富の格差、経済的格差の問題に、である。

 この経済のレベルでの格差の問題と手を携えるようなかたちで、政治の場面で前面に出てきたのが、資本主義と社会主義の間の奇妙なブレンドである。二〇〇八年のリーマン・ショックのときのことを思い起こすとよい。大投資会社リーマン・ブラザーズが破綻した後、アメリカ政府が採った--あるいは採ろうとした--政策は何であったか。大手金融機関や自動車等の大企業を救済するために、莫大な公的資金が投入された。考えてみると、この政策は、(一部の)大企業を半国有化することである。とすれば、こうした政策は、国家社会主義的だと言うこともできるだろう。

 ただし、現代の社会主義的政策は、本来の社会主義とは逆の方向を目指している。つまり、それは、仮に社会主義的だとしても、いわば逆立ちの社会主義である。本来の社会主義は、あるいは社会主義寄りの政策は、失業している貧困層を救済するなど、資本主義がもたらす貧富の差を是正するためにこそ採用される。しかし、現在の、二一世紀の社会主義的政策の目的は逆である。それは、富裕層や(貨幣の貸し手である)金融機関を救済するためにこそ動員されたのだ。

 かつて、資本主義に対抗する体制だった社会主義が、今では、資本主義を延命させるため、失速した資本主義にあらためてアクセルを踏むために導入されている。資本主義は、その敵である社会主義に勝った、と言われている。だが、勝利の後、資本主義は体調を崩した。資本主義の健康を回復させるために最も効果があった薬は、一服の社会主義だったのだ。

 アメリカと対照的なことが起きているのが中国である。二〇世紀末に冷戦が終結したと言うとき、われわれはしばしば、一〇億人をはるかに超える人口を抱えた大国が、未だに、社会主義の看板を掲げていることを忘れている。そのくらい中国は、今や資本主義的である。さすがに、「資本主義」を名乗るわけにはいかないので、中国政府は、自国の経済を、「社会主義市場経済」と呼んでいるが、それは、資本主義に限りなく近い社会主義という意味である。かつての東欧の社会主義諸国やソ連は、中国のように積極果敢に資本主義を取り入れることができなかったために、社会主義体制を終結させた後に本格的に資本主義化するしかなかふた。しかし、中国は、社会主義の外観を保ちながら、資本主義化することに成功したのだ。

 この現状を、中華人民共和国の歴史の中で見たときには、われわれは歴史のアイロニーのようなものを感じざるをえない。まだ資本主義化する前の「純粋社会主義」の範囲で中国が試みた最大の革命的な冒険は、文化大革命である。文革のスローガンは、日常そのものを革命と化すことであった。しかし、周知のように、文革は、数多くの悲惨な犠牲者を生んだが、革命としては大失敗であった。しかし、改革開放路線にしながらて導入された資本主義が、中国に、まさに「毎日が革命」という表現にふさわしいダイナミズムをもたらしている。資本主義が弱ってきたときに、社会主義を少しばかり食べることで元気になったのと並行的に、中国では、資本主義を大量服用することで、社会主義時代の夢を実現しつつあるのだ。

 中国の経済を見ていると、さらに大きな皮肉もある。現在、中国は、最も元気な「資本主義国」である。つまり、二一世紀の序盤である現在、中国こそが、資本主義の優等生だ。なぜ、中国の資本主義が相対的に順調なのか。少なくとも目下のところの原因は、中国が未だに社会主義的だ、という点に主として求められる。たとえば、中国に大量の廉価な労働力があることの一因は、農村戸籍/都市戸籍という区別があって、中国の労働者が移動や居住に関して完全な自由をもっていないことにある。資本主義は、一般に、資本主義化の程度が不十分な周辺部を、とくに廉価な労働力の供給源として必要とするのだが、中国の戸籍制度は、国内に、そのような周辺部を作為的に維持する装置となっている。あるいは、共産党による支配は、いわゆる「開発独裁」には明らかに有利であり、目標さえはっきりしていれば、資源の効率的な配分を可能にする。中国の社会主義的残滓が、いつまで中国の資本主義にとって有利に作用するかは、見解が分かれるだろう。しかし、少なくとも今までは、社会主義的政策の遺物(の一部)が、中国の資本主義の成長率の高さをもたらしてきた、と言うことができる。

 したがって、結論的には、こう言うことができる。今や、資本主義のためにこそ、(部分的な)社会主義は活用されているのだ、と。社会主義は、資本主義に敗れただけではなく、一部は資本主義の捕虜になり、奴隷として資本主義に奉仕しているのである。
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