未唯への手紙

未唯への手紙

ハイデガーの哲学--『存在と時間』とは?

2012年03月25日 | 2.数学
134.9ナカ『現代ドイツ思想講座』より

ハイデガーはご存知のように、『存在と時間』(一九二七)で、「現存在 Dasein」と「存在 Sein」の関係をめぐる分析を行ない、それによって当時のドイツの若者に大きな影響を与えたとされています。漢字で「現存在」と書くと、いかにも概念概念した硬い感じになりますが、ドイツ語の〈Dasein)は、日常的にも使われる言葉で、「そこにあること」、あるいは単に「あること」「存在すること」という意味です。「存在すること」と訳してしまうと、「存在」を意味する〈Sein〉と区別が付かないので、「現存在」という硬い訳語を使っているわけです。

ドイツ語の授業のような話を少ししておきましょう。〈?F〉の頭文字の〈S〉を小文字で書いて、〈SF〉とすると、英語のF動詞に相当する動詞になります。「~がある」とか「~である」という意味です。〈Sein〉は、それを名詞化した言葉です。英語だと〈Being〉に当たります。

〈Dasein〉の〈da〉というのは、日本語では説明しにくいですが、英語の〈there〉に相当すると思って下さい。「あそこ」という意味ではなくて、〈There is an apple on the table.)とか、〈Is somebody there?)というような場合の、〈there〉です。強いて言うと、「現にある」とか、「そこにある」と言う時の「現に」とか「そこ」に当たる言葉です。「現に」というのは、「今此処に」と言い換えることもできますね。そういう意味合いを持っている〈da〉と、〈Sein〉が合わさって、「現にあること」とか「そこにあること」という意味の〈Dasein)という言葉が出来上がっているわけです。

〈Sein〉も〈Dasein)も、わりと普通に使われる言葉ですが、いろいろと哲学的にひねった解釈を加えることができそうですね。例えば、〈Sein〉それ自体は無規定で曖昧模糊としているけど、〈手(そこに)〉という限定を付けてやると、規定(限定)された存在になる、とか。その場合の「規定された」、というのは、具体的な内容を持ち、概念的に把握することが可能になるということです。ヘーゲルは、〈Dasein)を、弁証法的な過程を通して規定された「存在」という意味で使っています。ヘーゲル用語としての〈Dasein)は、「定在」とか「定有」と訳されます。

ハイデガーの場合、〈手〉に、「今、此処に(有る)」という意味を読み込んで使っています。「今、此処」性の究極の形態は、「私」自身です。私自身が、「今、此処に=現に」あるというのは、最も確実なことでしょう。大雑把に言えば、「現存在-私」、と考えてもいいでしょう。

それだったら、普通の哲学のように、「自我 das Ich」と言ってもよさそうなものですが、敢えて「自我」と言わないところがミソです。「自我」と言ってしまうと、「私」という〝もの〟が実在していることが、前提になっているかのような話になります。デカルト以来の近代哲学では、「我、有り」という命題から出発しますが、ハイデガーは、「私」とは言わないで、「現にあること=現存在」という言い方をし、「あること」という部分に意味を持たせようとします。「(私が)現に有る」と言う時の「有る」とは、そもそもどういうことなのか? デカルト以降の哲学は、「有ること=存在」の意味を深く掘り下げて考えず、「私」が存在することを自明の理としてきたけど、「存在」の意味を堀り下げて考えてこなかったので、「私」と「存在」との繋がりが分からなくなり、あたかも、「私」がこの世界の中に単独で〝ある〟かのような、独我論的な話になってしまう。ハイデガーは、「現存在」が「存在」するとはどういうことか、という問いを起点として、「存在」の意味の解明を行なおうとしたわけです。

ハイデガーに言わせると、「現存在」というのは、自分自身の「存在」について問いを発するという意味で、特別な「存在者 das Seiende」です。特権的な地位にある「現存在」には、自らの「存在」について問うことを通して、「存在」それ自体を探求するよう定められている……。こういう言い方をすると、いかにも意味ありげに聞こえますね。

「存在者」というのは文字通り、個々の「存在しているもの」のことです。英語だと、「存在している(個々の)もの」も、それら個々の存在者の根底に〝ある〟「存在」それ自体も、同じ〈being〉という言葉になってしまうので区別しにくい。ドイツ語も基本的にはそうなのですが、〈sein〉の現在分詞形である〈seiened〉を名詞化した、〈das Seiende)という言葉が、哲学用語として一応あります。ハイデガーは、その〈das Seiende〉と、〈Sein〉を対置する表現を多用して、個々の「存在者」の単なる寄せ集めではない、「存在」それ自体が〝ある〟ことを強調します。

「存在」それ自体というと、抽象的でピンと来にくいかもしれませんが、「存在」というのは、神に繋がる言葉です。旧約聖書の出エジプト記で、神がモーゼに対して、「私は有って有るもの」だと宣言したという話が出てくるのは有名ですね。他の何かによって、「有らしめられている」のではなくて、神自身が神の存在の根拠になっている、という話です。英語だと、〈I Am Then I Am.)もしくは〈I Am the Being.)と表現します。ドイツ語だと、〈Ich Bin, der ich Bin.)とか〈Ich Bin, was ich Bin.)などとなります。ドイツ人が、〈Sein〉そのものについて問う、というような表現を見ると、すぐに神を連想するはずです。ただハイデガーは、「神」という言葉はなかなか使いません。「神」と言ってしまうと、キリスト教などの、特定の神のイメージに限定してしまうことになるので、慎重に避けているわけです。

ハイデガーは、日常的に使われている言葉をいろいろいじって、変形・造語したり、意味の深読みをしたりしながら、独自の哲学を展開するのを得意とする人です。言葉から「哲学」を引き出す達人であるわけですが、悪く言えば、ドイツ語じゃないとできないような議論をこじつけているように見えなくもない。

ただ、ダテに言葉遊びをしているわけでもありません。「私=自我」を、「現存在」と言い換えることによって、哲学的思考の軸がシフトします。分かりやすく言うと、それまでの近代哲学では、世界の中心に「私」が〝存在〟していて、その「私」が様々な「私」と同じくらい確実に存在していると言えるかどうか曖昧な--対象を認識し、それらに働きかけ、関係を持つという形で展開していたわけです。その『私』の代わりに「現存在」と言うことで、「私」自身ではなく、「私」を「有らしめている」もの、「存在」に魚点をシフトさせ、自我中心ではない形で、哲学を展開しようとしたわけです。「存在」への遡及という形で、自我中心主義から離脱しようとするハイデガーの戦略は、不安の中で、「私自身の内に、私の生きる意味を見出すことはできない。私の生の意味を教えてほしい、与えてほしい」、という〝実存的〟な願望を抱いているドイツ人たちの心情にフィットし、大きな影響を発揮することになったわけです。

『存在と時間』の論理展開はかなり複雑で、デカルト、カントだけでなく、現象学などの基礎知識も必要なので、そんなに多くの人がちゃんと理解できたとは思えませんが、「現存在」の自己自身の「存在」についての問いかけとか、「存在」それ自体が問題である、というようなキーセンテンス的な部分は、文学プラス哲学的な表現にある程度慣れている人たちには、ピンと来やすかったのではないかと思います。哲学書って、そういうところがあるでしょう。全体の論理構造が難しいし、ヘンテコな用語も多いので、なかなか全体像が頭に入ってこないけど、何かインスパイアしてくれるような、文学的で高尚な感じのキーセンスが随所に出てくると、そこだけで分かった気になれる。分からなさと、かっこよさそうな専門用語のバランスが絶妙なのが、ベストセラーになるわけです。

うつ病患者に「頑張れ」と励ましてはいけない根拠は?

2012年03月25日 | 7.生活
492.9『ケアの根拠』より

私は「頑張れ」という言葉は好きで、気持ちを鼓舞する言葉として自分自身に向けて使っています。「こんなことでくじけてどうする。頑張れ、頑張れ!」というふうに。また精神を病んで入院されている患者さんに対してもよく使っています。「頑張っているね。この調子だと元の生活に早く戻れそうだね」「ちょっと頑張りすぎだね。休み休みやったほうがいいよ。からだもこころも疲れちゃうからね」など。私が患者さんに使う「頑張れ」には、これ以上無理しないでリラックスしてという願いが込められています。言うなれば“期待"ではなぐ労い"とでもいうべきでしょうか。ただこれは自分自身に向けて使う「頑張れ」とは異なり、私と患者さんとの関係ができているから言えることであって、初対面の人にいきなり「頑張れ」とは言えません。「いったい何を頑張れというのだろう」とマイナスの印象を与えてしまうことになってしまいます。「頑張れ」という言葉はややつき放したような印象があるため、っらい思いをしている人には「頑張れ」ではなく「頑張ろう」と言ったほうがいい、と1995年に発生した阪神淡路大震災以後、いわれるようになりました。「頑張ろう」には「共に」という意味が含まれており、「頑張れ」よりは柔らかな表現であるために、っらい状況にある人や被災者を応援する言葉として使われるようになっています。うつ病患者に対して「頑張れ」という言葉を使ってはいけないといわれます。他に「絶対治るよ」「大丈夫」「元気だして」「大変だね皿代わってあげたい」という言葉も使ってはいけないといわれています。何とか励まそうという思いが、多くの言葉を使わせてしまうのでしょう。そのように精神科領域のみならず一般診療科においても、落ち込んでいる人を励ます言葉としで頑張れ"は使ってはいけないと広く浸透しています。それは「頑張れ」という言葉に過度のプレッシャーが含まれるからなのです。

実際にうつ病の患者さんに聞くと、「落ち込んでいるときの頑張れは、さすがにきついね。まだ頑張れというのかって感じだね。まあ、頑張れって言いたい気持ちはわかるけど」なんて返ってきます。では、「頑張れ」ではなく「頑張ろう」ならいいのでしょうか。「頑張ろう」ならば、回復してほしい思いが患者さんのこころに届くのでしょうか。実は「頑張れ」でも「頑張ろう」でもうっ病患者にとっては同じなのです。「頑張れ」という言葉が禁句なのではなく、「週度の励まし」がやってはいけない行為なのだと考えてください。うつ病はちょっと落ち込んでいる程度の状態ではありません。脳の機能が低下して、こころもからだもすべてのパワーを使い果たしている状態です。何もしないでゆっくりと休ませることが治療では優先とされます。しかしそこでの励ましは休ませることを阻害させてしまいます。だから「頑張れ」という励ましの言葉を使ってはいけないのです。

私が落ち込んでいるときに、どんなふうにされたいかと考えてみると、「頑張れ」と励まされるよりも、ニコッと笑顔で接してもらえるほうが、何十倍も気持ちいいです。笑顔は緊張をほぐし、こころを安定させる効果があります。そして接してもらえるということは、関心を寄せられていることにつながり、決して1人ではないことを意識づけてくれます。人とつながっている、誰かが関心を寄せている、そう思うことで安心感が生まれます。その安心感が最大の励ましになるのではないでしょうか。

マクドナルドの責任

2012年03月25日 | 7.生活
マクドナルドの責任

 テレビでマクドナルド戦略を放映していた。1500億円増えたことで、何が社会から減ったのか。16万人のアルバイトは幸せになれたのか。そのアルバイトの存在が社会に与えた影響をどこまで感じているのか。

 大きなパティにすることで日本のエネルギーはどうなったのか。栄養はどうなったのか。

 「業績を上げることが一番の目的」それでトップ企業は成り立つのか。エネルギー問題、環境問題、幸せの問題とか、本当に考えているのか。

 OT38秒を30秒に縮めることで、人間とのつながりができるのか。アルバイトのモチベーションは効率だけになってしまう。スタバのバリスタは忙しそうにしながらも、話をしてくれるし、寄ってきてくれる。マクドナルドのコーヒーとの争いから生まれた、シュルツの答がサードプレイスに戻ることであった。

 マクドナルドの環境で育った、16万人をどういう環境に持っていくのか、その社会的な責任の方が気になります。

パートナーの持っているもの

 パートナーはあなたたちが持っていないものを持っている。それを知っているのは、私だけです。それを活かしていくのが私の役割です。

マクドナルドと吉野家は似ている

 ロッテリアも単品で630円のバーガーを売り出している。高い商品を出したのはロッテリアの方が早かった。マクドナルドはそれを真似て、やってみるとうまくいくと、あたかも、自分のところがやったことで、社会が変わったと言う宣伝を行う。

 吉野家は松屋などの戦略を真似ている。その点でよく似ている。吉野家の方向は見えなくなっています。ユーザーの好みの多様化を捉えられなくなっている。「これが牛丼だ」というようなことしか言えない。そんなものは見れば分かるでしょう。それを言うなら、牛鍋丼はなくすことですね。

 それにしても、テリたまのセットで630円とか650円なんですね。月見バーガーはもっと安かった。夕食でしか食べられない値段です。今後はワンコインの攻防戦になると思います。

世界は自分のなかにある

 ゲームをやっている連中は、世界は自分の中にあると思っている。それに気付きました。私の概念はそれを実世界に適用しているだけです。決して、突飛ではない。

レジ袋問題は終わっていない

 アピタの100円ショップで210円に対して、袋をよこすのに、スーパーで袋をよこさない理由が分からない。納豆とダノンという液状のものを買ったのに。液がこぼれた時の損害に対して、スーパーは保証する体制はあるのでしょうか。自分たちの商品に対して、責任は取れるのでしょうか。

銀河宇宙

 銀河宇宙には何千億の銀河がある。我々の住む地球も一千億以上ある銀河の内の一つです。これは、天文学のロマンに過ぎない。

 そう聞いても、私の中の内なる世界は変わらない。「私たちの住む天の川銀河」という言い方はかなり間違っている。同じところに住んでいると言う証拠はない。

サードプレイス

 元町のスタバで将棋板を置いて、将棋を行っている男女。もっと色々なモノをスタバですればいい。

 四人で麻雀をやることも可能。何しろ、サードプレイス。