538.9『ロシア宇宙開発史』より
グルシコはガス発生器で、コロリョフはロケット・プレーンで苦闘していたとき、第三研究所(反動推進研究所はすでに第三研究所と改名していた)は激震に見舞われた。大テロルである。一九三二―一九三四年の大飢饉を農村の統制強化で何とか乗り切った共産党書記長ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンは政界のみならず広範な分野にわたる大粛清に乗り出した。
一九三四年一二月一日、スターリンの後継者の最右翼と見られていた共産党書記、党組織局・政治局委員セルゲイ・キーロフが暗殺された。暗殺実行犯の背後にジノヴィエフ派がいたとして(冤罪であった)、かつてのスターリンの盟友ジノヅィエフ、カーメネフなどが逮捕され、一九三五年一月、裁判で懲役刑の判決を受けた。これはまだ序の口で、一九三六年七月の党中央委員会秘密書簡は、「反革命テロリスト行為」を企画している反革命破壊分子(トロツキストなど)と戦うことを呼びかけたが、この書簡が大テロルの直接の引き金となった。ジノヴィエフ、カーメネフが再び逮捕され、八月、裁判にかけられて死刑の判決を受け(第一次モスクワ裁判)処刑された。九月、内務人民委員(内務大臣にあたる)に二コライ・イワァノヅィチ・エジョフが就任し、一一月には対象が「反革命テロリスト行為」に加えて「サボタージュ・妨害行為」にまで拡大される。一二月には第八回ソヴィエト大会で大テロルの理由づけを行ったと言われる新憲法(スターリン憲法)が採択された(一二月五日)。田中・倉持・和田の『ロシア史』は次のように述べている。新憲法の眼目の一つは、社会主義建設の基本的完了と無階級社会(厳密にいえば敵対的勢力の存在しない社会)の成立を宣言する点にあった。(中略)もはや敵対階級は消滅したとされている以上、そのようなものの存在は国内の社会的構造からは説明できず、(そのようなものが発見された場合)外から送りこまれた『帝国主義のスパイ』=『人民の敵』として説明するしかない。ここに敵対階級消滅論は、一方では国民統合のイデオロギーとして、他方では異端者を『人民の敵』と説明するイデオロギーとして二重の機能をもつことになる。(中略)スターリン憲法による『民主化』と大量テロルとは表裏一体のものだったのである。
一九三七年一月の第二次モスクワ裁判で重工業人民委員代理ピャタコーフが逮捕され裁判にかけられ、彼の逮捕に抵抗した重工業人民委員オルジョニキーゼは自らへの波及は避けられないと観念して二月に自殺した。
二月二三日から三月五日にかけての党中央委員会総会でスターリンが、「面従腹背者」の摘発を呼び掛ける大演説を行って、これを契機に大テロルは拡大し、エジョフの指揮する内務人民委員部は「人民の敵」の逮捕・粛清に着手する。
大テロルは、当初は政治家、高級官僚が対象であったが、やがて軍部にも波及し、第三研究所(旧反動推進研究所)生みの親であるトゥハチェフスキー元帥をはじめとする上級将校八名が一九三七年五月二六日逮捕され、拷問と非公開軍事裁判の結果ドイツのスパイの容疑で「人民の敵」であるとの判決を受け処刑(銃殺)された。処刑が新聞第一面で報道されたのは六月一二日であった。これを皮切りに軍の幹部が大量に逮捕・銃殺された。五人の元帥のうち三人、一五人の軍司令官のうち一三人、五七人の軍団長のうち五〇人が処刑されたという(五人の第二ランクの将官(元帥)のうち三人、第二ランク(大将格)の二〇人全員、六七人の軍団長のうち六〇人、一九九人の師団長のうち一三三人、三九七人の旅団長のうち二I二人が消えたと述べている文献もある)。スターリン独裁を脅かしそうな軍人を粛清したにしては数が多く、軍粛清の真の原因はいまだに明らかではない。ただ、スターリンはスマートかつ有能で人望があり、自分の言うことをきかないこともあるトゥハチェフスキーを忌み嫌っていたことは事実のようである。
その後大テロルは、軍のみならず社会のさまざまな層に及び、密告が奨励され、とくに組織の幹部クラスが続々と逮捕された。逮捕された人々は、ほとんどが身に覚えのない罪状で拘留された。そして、同僚、友人たちを共犯者として白白することを強いられ、その結果、芋づる式に、多くの人々が「人民の敵」として逮捕されることとなった。
逮捕者たちは、逮捕されるとロシア刑法法典第五八条第七項と第一一項で起訴された。法律の条項は長文であるが敢えて要約すると、前者は「国家の正常な活動の破壊・妨害行為」、後者は「犯罪行為の準備と実行を目指す組織への参加」となり、これらの一方でも適合すると判断されると「人民の敵」となる。取り調べが予審判事によって行われるが、逮捕者の供述書は、逮捕者の所属する組織内の共産党員があらかじめ作成し、取り調べ時に、殴る、蹴る、眠らせない、座らせない、身長より短い檻に入れる、逆さに吊るして棒でたたくなどの肉体的拷問や、妻子の逮捕(妻は矯正労働収容所送り、子供は「子供の家」と呼ばれる孤児養護施設送り)をほのめかす精神的拷問を加えて無理矢理被告に署名させるのである。大テロルと呼ばれた一九三〇年代後半のテロルの犠牲者(処刑と強制労働収容所での死者)の数は一五〇万~三〇〇万人と推定されている。
二〇〇二年に国際歴史透明化ならびに権利擁護協会「メモリアール」は「スターリン粛清者リスト」を公開し、それによって、次のようなことがわかった。このリストは逮捕者中の要人リストで、内務人民委員部で作成され、スターリン、モロトフ、カガノヅィチ、ウォロシーロフ、ミコヤン、コシール、ジダノフ、エジョフらより構成される委員会に提出され、委員(全員出席ではなく、彼らのうちから四人がその時々で選ばれた)によりカテゴリー、2のマークが付けられた。カテゴリーは銃殺刑にしてよいことを意味した。リストは最高裁判所軍参与会に送られ、一五~二〇分の短い裁判ののち判決が言い渡され、カテゴリーは八○~九〇%が銃殺刑が宣告され、早ければその日のうちに、遅くとも数日内に刑を執行された。そして、そのほとんどは外部に発表されず、家族にも知らされなかった。
グルシコはガス発生器で、コロリョフはロケット・プレーンで苦闘していたとき、第三研究所(反動推進研究所はすでに第三研究所と改名していた)は激震に見舞われた。大テロルである。一九三二―一九三四年の大飢饉を農村の統制強化で何とか乗り切った共産党書記長ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンは政界のみならず広範な分野にわたる大粛清に乗り出した。
一九三四年一二月一日、スターリンの後継者の最右翼と見られていた共産党書記、党組織局・政治局委員セルゲイ・キーロフが暗殺された。暗殺実行犯の背後にジノヴィエフ派がいたとして(冤罪であった)、かつてのスターリンの盟友ジノヅィエフ、カーメネフなどが逮捕され、一九三五年一月、裁判で懲役刑の判決を受けた。これはまだ序の口で、一九三六年七月の党中央委員会秘密書簡は、「反革命テロリスト行為」を企画している反革命破壊分子(トロツキストなど)と戦うことを呼びかけたが、この書簡が大テロルの直接の引き金となった。ジノヴィエフ、カーメネフが再び逮捕され、八月、裁判にかけられて死刑の判決を受け(第一次モスクワ裁判)処刑された。九月、内務人民委員(内務大臣にあたる)に二コライ・イワァノヅィチ・エジョフが就任し、一一月には対象が「反革命テロリスト行為」に加えて「サボタージュ・妨害行為」にまで拡大される。一二月には第八回ソヴィエト大会で大テロルの理由づけを行ったと言われる新憲法(スターリン憲法)が採択された(一二月五日)。田中・倉持・和田の『ロシア史』は次のように述べている。新憲法の眼目の一つは、社会主義建設の基本的完了と無階級社会(厳密にいえば敵対的勢力の存在しない社会)の成立を宣言する点にあった。(中略)もはや敵対階級は消滅したとされている以上、そのようなものの存在は国内の社会的構造からは説明できず、(そのようなものが発見された場合)外から送りこまれた『帝国主義のスパイ』=『人民の敵』として説明するしかない。ここに敵対階級消滅論は、一方では国民統合のイデオロギーとして、他方では異端者を『人民の敵』と説明するイデオロギーとして二重の機能をもつことになる。(中略)スターリン憲法による『民主化』と大量テロルとは表裏一体のものだったのである。
一九三七年一月の第二次モスクワ裁判で重工業人民委員代理ピャタコーフが逮捕され裁判にかけられ、彼の逮捕に抵抗した重工業人民委員オルジョニキーゼは自らへの波及は避けられないと観念して二月に自殺した。
二月二三日から三月五日にかけての党中央委員会総会でスターリンが、「面従腹背者」の摘発を呼び掛ける大演説を行って、これを契機に大テロルは拡大し、エジョフの指揮する内務人民委員部は「人民の敵」の逮捕・粛清に着手する。
大テロルは、当初は政治家、高級官僚が対象であったが、やがて軍部にも波及し、第三研究所(旧反動推進研究所)生みの親であるトゥハチェフスキー元帥をはじめとする上級将校八名が一九三七年五月二六日逮捕され、拷問と非公開軍事裁判の結果ドイツのスパイの容疑で「人民の敵」であるとの判決を受け処刑(銃殺)された。処刑が新聞第一面で報道されたのは六月一二日であった。これを皮切りに軍の幹部が大量に逮捕・銃殺された。五人の元帥のうち三人、一五人の軍司令官のうち一三人、五七人の軍団長のうち五〇人が処刑されたという(五人の第二ランクの将官(元帥)のうち三人、第二ランク(大将格)の二〇人全員、六七人の軍団長のうち六〇人、一九九人の師団長のうち一三三人、三九七人の旅団長のうち二I二人が消えたと述べている文献もある)。スターリン独裁を脅かしそうな軍人を粛清したにしては数が多く、軍粛清の真の原因はいまだに明らかではない。ただ、スターリンはスマートかつ有能で人望があり、自分の言うことをきかないこともあるトゥハチェフスキーを忌み嫌っていたことは事実のようである。
その後大テロルは、軍のみならず社会のさまざまな層に及び、密告が奨励され、とくに組織の幹部クラスが続々と逮捕された。逮捕された人々は、ほとんどが身に覚えのない罪状で拘留された。そして、同僚、友人たちを共犯者として白白することを強いられ、その結果、芋づる式に、多くの人々が「人民の敵」として逮捕されることとなった。
逮捕者たちは、逮捕されるとロシア刑法法典第五八条第七項と第一一項で起訴された。法律の条項は長文であるが敢えて要約すると、前者は「国家の正常な活動の破壊・妨害行為」、後者は「犯罪行為の準備と実行を目指す組織への参加」となり、これらの一方でも適合すると判断されると「人民の敵」となる。取り調べが予審判事によって行われるが、逮捕者の供述書は、逮捕者の所属する組織内の共産党員があらかじめ作成し、取り調べ時に、殴る、蹴る、眠らせない、座らせない、身長より短い檻に入れる、逆さに吊るして棒でたたくなどの肉体的拷問や、妻子の逮捕(妻は矯正労働収容所送り、子供は「子供の家」と呼ばれる孤児養護施設送り)をほのめかす精神的拷問を加えて無理矢理被告に署名させるのである。大テロルと呼ばれた一九三〇年代後半のテロルの犠牲者(処刑と強制労働収容所での死者)の数は一五〇万~三〇〇万人と推定されている。
二〇〇二年に国際歴史透明化ならびに権利擁護協会「メモリアール」は「スターリン粛清者リスト」を公開し、それによって、次のようなことがわかった。このリストは逮捕者中の要人リストで、内務人民委員部で作成され、スターリン、モロトフ、カガノヅィチ、ウォロシーロフ、ミコヤン、コシール、ジダノフ、エジョフらより構成される委員会に提出され、委員(全員出席ではなく、彼らのうちから四人がその時々で選ばれた)によりカテゴリー、2のマークが付けられた。カテゴリーは銃殺刑にしてよいことを意味した。リストは最高裁判所軍参与会に送られ、一五~二〇分の短い裁判ののち判決が言い渡され、カテゴリーは八○~九〇%が銃殺刑が宣告され、早ければその日のうちに、遅くとも数日内に刑を執行された。そして、そのほとんどは外部に発表されず、家族にも知らされなかった。
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