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哲学は、ある意味で、私の生命でした

289.3『ニールス・ボーアの時代』より ボーアと哲学

新しい物理学の創設者、研究指導者、研究所創立者、基金調達者、難民救援者、実験科学の指揮者、そして世界一周旅行者としてのボーアを見てきたが、次に、われわれは20世紀の重要な哲学者の一人としての彼に出会うことになる。ボーアは1920年の後半から、この領域で本領を発揮した。この頃、彼は物理学における相補性の精密化を開始し、別の分野への拡張に足を踏み入れていった。しかし、彼は、それよりずっと早く、学生時代から哲学的問題に強い関心を抱いていたことがわかる。

哲学者とは何か?『ブリタニカ百科事典』によると、哲学は一般名辞であって、使用する人と使用された時代によってその意味と範囲がかなり大きく変化した。『オクスフォード英語辞典』に書かれている哲学者の九つの明確な定義を読めば啓発されるところもあるが、これからの話に必要というわけではない。哲学に対するボーアの考え方そのものに沿ってこの章を進めよう。

まず、ボーアが哲学を全体としてどう捉えていたか見てみよう。

ボーアの相補性に関する最初の論文になる1927年のコモ講演でいくつかの草稿に、「量子論の哲学的基礎」という表題が付けられていることにはすでに触れた。また彼は、1957年11月の最初のカール・テイラー・コンプトン講座のためにマサチューセッツ工科大学(MIT)へ行ったときには、6回の講演全体に対して、「原子物理学の哲学的教程」という表題を選んだ.

この講座の冒頭で、ボーアはあらかじめ聴衆にことわっている。「私は哲学に対して十分な学識をもち合わせておりません。したがって、皆さんは、この演題からアカデミックな哲学的内容を期待しないでいただきたい。

こうした演題を掲げながら、すぐそれを否定するという対比の仕方ほど、ボーアの哲学全般に対する姿勢を見事に表現した事例を私は他に知らない。私の考えでは、ボーアは何よりもまず物理学者であった。しかし、彼のある考えが哲学的であるといわれたとしても、それが彼を哲学の専門家とみなしていることにならなければ、彼は決して反論しなかったであろう。

ボーアの哲学に対する考え方と哲学者に対する態度とは区別しないといけない。彼がとくに敬愛されたデンマークにおいてさえ、ボーアの貢献に対して哲学者の間から皮肉を込めた批判的な論評が多く現われた。ファウルフォルトは、2人の哲学教授が書いたテキストを私に見せてくれた。その2人は1950年代にコペンハーゲン大学の哲学課程で教鞭をとっていたが、その授業の中で学生に対し、ボーアはまったく間違っていると話していた。こうした意見やその他同じような意見は、後のボーアの意見を説明するのに大いに役立っている。「いろいろの人がいますが、哲学者と呼ばれる人で相補性とはどういうことなのか、本当に理解している人はいないと言ってよいのではないかと思います。……科学者と哲学者の関係はとても奇妙なものです。……問題は科学者と哲学者の間に直接何らかの理解が生まれる望みがないことです。]ボーアは哲学者の集会に出席したのち、私の友人イェンス・リンハートにその日のことを話した。「私は重大な発見をしました、とても重大です。哲学者たちがこれまで書いてきたことは全部まったくの戯言です(……er det rene vaas)。」

ボーアの気に入るような哲学者の定義は『オクスフォード英語辞典』ではとても見つからないが、次のようになるだろう。専門家と哲学者の違いは何か? 専門家とは、いくつかの事柄についてあることを知り分かろうと研究をはじめ、研究がすすむにつれて知識が増し、知るべき事柄は少なくなり、っいには知るべき事柄はなくなり、それについてあらゆる事柄を知って終わる人のことである。これに対し哲学者とは、いくっかの事柄についてあることを知り分かろうと研究をはじめ、研究がすすむにつれて分からないことが増し、ついにはすべての事柄にっいて何も分からないで終わる人のことである。この章のはじめに掲げた、「哲学を嘲笑することは真に哲学的である」というパスカルの言葉には、彼に訴えるものがあっただろうと私は思いたいのだが、1951年にデンマーク哲学心理学会の名誉会員に選ばれるとボーアはそれを喜んでいた.
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