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豊田市に足りないのは、大学

豊田市に足りないのは、大学

 街の真ん中に大学、学生、そして場所。それによって、市民を育てる。学生の行動を使って、街全体を変えていく。新しい秩序を実現するのに、図書館だけでは不十分です。新しい教育体系を作り、仕事の場をつなぐ。ターゲットは家庭の変革。

 デジタルクルーズも単なる作業だけでなく、考える場所にしていく。市の交通研にしても、道路に線を引くぐらいしかできていない。アレでは自転車は守れない。もっと、学生が溢れる街にしていかないと。矢作川研にしても矢作川全体を変えてしまう風景を目指す時です。新しい田舎を作り出す。

 アテネのようにパルテノン神殿の周りにアゴラとタベルナがあるようにするには、ランドマークが必要になる。それを大学にする。

フライブルグ市

 フライブルグ市が環境首都になったのは、フライブルグ大学があったからでしょう。過去にハイデガーが居て、アーレントも居た。町の中心に小さな市役所と横断する川があった。場所もドイツと言うよりもスイスに近い田舎町。

スタジアム型の劇場

 豊田スタジアムはサッカーのためではなく、劇場にしていく。22人のためではなく、皆が集まれる場所にしていく。それを拠点にして、周りを作り上げていく。SSA以上の大きな仕掛けをして、ベビメタも満足する表現が可能な空間にしていく。

 豊田スタジアムの特徴は周りに何もないことです。矢作川を含めて、立体化して、5万人以上が集まれる規模にしていく。それに併せて、交通体系を未来型に変えていく。周辺にサテライトを配置して、一体化していく。

次世代の活躍

 次世代に蘭世が間に合ってよかった。AKBはこじまこと岡田奈々が居れば十分。欅はテチとその仲間たちです。
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OCR化した9冊

『格差と再分配』

 すべてはこの本から始まった

  『21世紀の資本』の原点

  ピケティの経歴

  本書の位置づけ

  不平等研究の現在

『ロサンゼルス便利帳』

 図書館

  サービス

  日系図書館

  大学図書館

  専門図書館

  郡立・市立図書館

『言葉はこうして生き残った』

 ハンナ・アーレント|

『「今、ここ」から考える社会学』

 社会を考える6つの視点

  私の「社会学史」講義から

  「行為」:社会を見る基本的な視点

  「関係性」:人と人の間にあるものとは

  「構造」:社会の秩序や道徳を考えるために

  「自己」:社会に生き、自分を生きるために

  「日常生活世界」:「あたりまえ」を読み解く

  「人々の方法」:私たちはみんな「社会学者」だ

『イベントの仕事で働く』

 イベントにも問われる人権、環境、そして未来

 今の社会は粉末?

 みんなに優しいイベントを

 イベントも取り組む環境問題

 イベントにも持続可能な考え方を

『ホーキング、自らを語る』

 ブラックホール

 虚数時間

『地方自治講義』

 地域社会と市民参加

 コミュニティ

  コミュニティの制度化としての自治体

  「第二の村」とその限界

  コミュニティの概念

  地域コミュニティヘのスタンス

  戦時体制と地縁団体

  地域コミュニティの方向性

 市民合意

  市民の声とは何か

  住民説明会が紛糾する理由

  妥協と納得

  市民の直接参加

  住民投票

 市民参加

  市民参加の理論と現実

  市民参加は議会軽視?

  市民参加の類型的整理

  市民参加と議会との位置関係

  市民同士が合意できない?

  政治参加と行政参加における市民

  地緑団体の参加

  市民参加の成果と行政の整理

『ラジオと地域と図書館』

 図書館とラジオ、そしてメディアの可能性

  河西聖子(京都府立大学京都政策研究センター/精華町)

 ラジオとの出会い、その魅力

 コミュニティFMで全国へ発信

 Dr.ルイスとの出会い

 ラジオからの繋がり

 精華町立図書館のメディア発信

 インターネットによる情報収集と発信

 日本各地、世界の図書館巡り

 現在、そして未来のこと

『読まずに死ねない哲学名著50冊』

 方法序説 近代哲学のマニフェスト

  ルネ・デカルト(1596~1650年)

  共通了解の原理を探求

  人間は理性を等しく備える

  「方法的懐疑」で哲学の出発点を築く

  なぜ近代哲学の出発点となったのか?

 情念論 情念の意昧を説く

  ルネ・デカルト(1596~1650年)

  精神と身体は「松果腺」を通じてつながっている

  情念の〝到来性〟

  欲望は未来の「替」への原動力

  デカルトの倫理学

 純粋理性批判 「色つきメガネ」の認識論

  イマヌエル・カント(1724~1804年)

  感性--色つきメガネ

  悟性--データ統合能力

  理性--〝完全なもの〟を認識する能力

  アンチノミー

  認識の問題から道徳の問題ヘ

 実践理性批判 道徳の根拠を「理性」に置く

  イマヌエル・カント(1724~1804年)

  格律と普遍的立法

  道徳法則は基準を示す

  自分で自分に課すから意味がある

  人間の理性への信頼に基づく道徳論

 現象学の理念 認識問題を解明する原理を示す

  エトムント・フッサール(1859~1938年)

  主観と客観が一致すると判定できる根拠はあるか

  世界像を「括弧入れ」して、意識に「還元」する

  普遍的な認識論に基づき、意味や価値について問う

 イデーン 認識本質論としての現象学を確立

  エトムント・フッサール(1859~1938年)

  日常の世界像 自然的態度の一般定立

  エポケーと現象学的還元

  世界は確信として像を結ぶ

  生のリアリティの根拠

  思考の「自律」

 論理哲学論考 私たちは何を語りうるか?

  ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889~1951年)

  言語と世界の対応関係

  「論理形式」と「像」

  論理操作によって「語りうる」すべての命題を構成できる

  論理学の命題はつねに「真」

  独我論的世界

  倫理は言葉にできない

  本当に言語と世界は対応している?

 哲学探究 言葉の意味は「用法」である

  ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889~1951年)

  「ダイイシ!」の一言で理解する

  「範型」は言語ゲームの道具

  言語ゲームの類似性

  他人の「痛み」

  生の一部としての言語ゲーム

 存在と時間 実存哲学の最高峰

  マルティン・ハイデガー(1889~1976年)

  私たちにとっての世界 気遣い相関性

  死の本質観取

  死への「先駆」

  人間についての深い洞察

 形而上学入門 後期ハイデガーの入門書

  マルティン・ハイデガー(1889~1976年)

  ギリシア語、ギリシア哲学から考える

  存在を限定する四つの条件

  現存在は存在者が立ち現れる「開け」

  どこまで確かなのか?

 人間の条件 近代社会=労働社会批判

  ハンナ・アーレント(1906~1975年)

  人間の条件は「労働」「仕事」「活動」の三つ

  労働--「必要性」による奴隷化

  仕事--製作活動

  活動--人間関係の〝網の目〟

  人間は〝動物化〟しつつある

  アップデートで生かせる原理論

 革命について 自由は公的空間を必要とする

  ハンナ・アーレント(1906~1975年)

  革命は「自由」の意識に導かれる

  フランス革命とアメリカ革命の違い

  フランス革命が失敗した理由

  アメリカ革命が一応成功した理由

  公的空間の創設に失敗した

  自由をともに構成する
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革命について 自由は公的空間を必要とする

『読まずに死ねない哲学名著50冊』より ハンナ・アーレント 革命について 自由は公的空間を必要とする ⇒ アーレントの本です。彼女の言うことは大体、合っている。

革命について 自由は公的空間を必要とする ⇒ アーレントの本です。彼女の言うことは大体、合っている。

自由とは何か。近代以降、哲学者が何度も問い、それぞれのアプローチで答えを与えてきた問題だ。ルソーとヘーゲルはコ般意志」と「人格の相互承認」の概念によって答えた。アーレントは本書で、フランス革命とアメリカ独立革命に関する考察を通じて、この問いに対し、別の角度から答えを与えようとする。

本書の解を先取りすると次のとおりだ。

自由は公的領域への参加を意味する。自由と似ている概念に「解放」がある。だが、解放と自由は本質的に異なる。なぜなら自由は解放と異なり、創設されなければ存在しないからだ。「自由の創設」を成し遂げられるかどうか。ここに革命の成功がかかっている。

マルクス主義に対抗して現われてきたポストモダン思想は、反権力の観点か’ら、自由と解放を同一視して論じる傾向にある。本書でアーレントが論じる権力論は、ポストモダン思想における表象的な批判とは異なり、堅実なものだ。

革命は「自由」の意識に導かれる

 そもそも、革命という概念は何をきっかけにして現れてきたのだろうか。

 アーレントは、そのきっかけを近代における「自由」の意識の芽生えにあるとする。そしてこれが、中世から近代への移行をもたらした根本的な条件でもあるという。

 キリスト教の権威が圧倒的な力をもっていた中世においては、歴史の過程は神によって決定されており、人びとにとっての問題は、その世界観を正しく受け入れられるかどうかにあった。階層は固定されており、それに反抗することは許されない。封建領主の子は封建領主、農奴の子は農奴として生きるしかなかった。

 だが、近代に入ると、社会的な格差が一つの矛盾、解決されるべき問題として映るようになった。

 貧困は決して、神によって定められた運命ではない。人間は社会を再編して、貧富の格差を解決することができる。こうした確信が革命の条件である、とアーレントは説くのだ。

 さて、冒頭にも記したように、アーレントは、解放と自由は本質的に異なるという主張を置く。人びとを抑圧から解放すれば、そこから自由が自然に生まれてくるわけではない。自由は実質的な社会制度を必要とする。国家の統治形態を組織し、自由を創設する革命のみが、革命の名に値するというのだ。

 自由の創設は、権力構造の創設と不可分だ。解放が公的空間を維持する権力を生み出さず、情熱と結びつき、大衆救済へ向かうとき、革命は暴力による失敗に終わらざるをえない。アーレントによると、まさしくフランス革命は、そのようなストーリーで恐怖政治に至ったのだ。

フランス革命とアメリカ革命の違い

 アーレントは、フランス革命とアメリカ革命を次のように区別する。

  ・フランス革命が失敗した理由:解放にとどまり、自由の創設につながらなかったため。

  ・アメリカ革命が一応成功した理由:解放を踏まえて、権力の構成に基づく自由の創設へ向かったため。

 アメリカ革命について「一応」とただし書きを置いたのは、アーレントはアメリカ革命を全面的に評価しているわけではないからだ。アメリカ革命は初め成功したように見えたが、人びとが参加できるような公的な空間をつくることができなかったため、自由の創設に失敗してしまったと考えたのだ。

 アメリカ革命については後で確認することにして、まずはフランス革命が失敗した理由に関するアーレントの見解を確認することにしよう。

フランス革命が失敗した理由

 アーレントは、フランス革命が失敗した根本的な理由を、ロベスピエールを代表とする指導者たちが、革命の目的を人民の幸福、豊かさに置いてしまったことに求める。

 革命の目的を、自由の創設から人民の幸福へ向けるとき、革命は失敗に終わる。これは一見逆説的に思えるかもしれない。だがアーレントによれば、貧困にあえぐ人民を「必要性」から救い出そうとすると、革命はその本質的な目的、すなわち自由の創設という課題を見失ってしまうのだ。

 アーレントは、フランス革命によって自由を実感することができたのは、実のところかなりの少数であり、貧困にあえぐ大多数の人民は、自由どころか解放を実感することさえできなかったと分析する。そうした人民に対する「同情」が、フランス革命を失敗させたのだ、と。

 なぜ同情が革命を失敗させたのか。それは、同情それ自体は結局のところ情熱であり、決して制度をつくることがないからだ。

 フランス革命の指導者たちは、貧民に対する同情に突き動かされた。その結果、革命のうちに「必要性」という要素が入り込んできてしまった。これにより、公的領域において自由を創設することは不可能となり、革命は恐怖政治に行き着いてしまったというのだ。

アメリカ革命が一応成功した理由

 次にアーレントは、アメリカ独立革命に着目し、アメリカ革命とフランス革命の本質的な違いを、権力システムの構成に置く。

 フランス革命は解放を目指した結果、恐怖政治へ行き着いた。一方、アメリカ革命では、独立戦争は解放を超えて国家の構成へと向かった。そこでは権力を構成することが積極的に目指され、その結果、革命の目的である自由の構成が行われた。そのようにアーレントはアメリカ革命を評価する。

 アメリカ革命で樹立された権力の基礎は「互恵主義」と「相互性」にあった。こう言われると難しく聞こえるかもしれないが、要するにアメリカ革命では、相互の約束に基づき、同盟を結ぶことで権力が設立されたと考えるのだ。

 権力と自由は、決して相反するものではない。むしろ、自由は確固とした権力の基盤がなければ成立しえない。それゆえ問題は、権力I般に反対することではなく、相互の合意に基づいて権力構造を打ち立てることにある。これはアーレントが批判するルソーにも共通する洞察だ。

 だが、アーレントの強調点は、合意それ自体よりも、合意が統治への相互参加を生み出すかどうかということにある。

 合意といっても、それが政府に統治を丸投げするなら意味がない。合意が相互に物事を決めていく統治につながらないなら、合意は自由の創設の原理とみなすことはできないと考えるのだ。

公的空間の創設に失敗した

 アメリカ革命は、合衆国憲法の制定によって一応は成功したように見える。だが、アーレントは、出発点で致命的なミスを犯していたと語る。それは、自由の創設が自覚的になされた行為であることを人びとが意識できるような公的空間、相互に統治に参加するようなシステムづくりに失敗してしまったことだ。

 自由は構成された。しかし公的空間が創設されなかった。その結果、市民的自由、個人の福祉、そして世論が残された。ここに決定的な問題がある。

 アーレントは世論に対し否定的だ。なぜなら、世論は圧倒的な力で全員一致を求め、各人の意見を圧殺することで、共和制の本質である「自由な統治」の根幹を揺るがしてしまうからだ。ハミルトンやジェファーソンといった、アメリカ合衆国の建国者たちにとって、世論が主導する政治は、新たな専制支配のあり方として脅威に映ったのだというのだ。

 もっとも、ジェファーソンらも世論の支配を前に、ただ手をこまねいていたわけではない。ジェファーソンは人びとが統治に参加し、公的な事柄に関心をもつための制度として、「郡区」とタウン・ホールーミーティングに強い期待をかけていた。それらの制度によって、自由の持続的な構成を実現しようとしたのだ。

 だが、アーレントは、実際にはそうならなかったと分析する。というのも、自由の構成のためにつくられたアメリカ憲法自身が、公的空間を人びとの代表者だけに与えていたので、人びとが公的な事柄に無関心になるのは構造上必然的だったからだ。

自由をともに構成する

 アーレントの自由論は、解放と自由の本質的な違いに対する洞察によって貫かれている。

 確かに、安定した権力構造と統治の存在しないところで、人びとが持続的に自由であることはできない。このことは、何十年にもわたって内戦が続いている地域を見れば、すぐに理解できる。「権力は自由の敵である」とする見方は、そうした現実の重みを考えれば、あまりにも素朴だ。

 自由を実質化するためには、それに応じた制度が必要である。この洞察は確かに納得できる。だが、それと並んでアーレントが強調しているのは、そうした制度は、人びとが公的空間に参加しなくなると、形骸化してしまわざるをえないということだ。

  二十世紀における革命の惨状の内に葬り去られたのは、まさにこのような国家の変容に対する希望、すなわち、近代的な平等主義的社会の全成員が公的問題の「参加者」になることができるような新しい統治形態にたいする希望にほかならなかった。

 本書の最後でアーレントは、エリート層による統治に対して批判を行っている。エリート層による政治それ自体に問題があるわけではない。問題は、政治が一つの専門的な職業になってしまっていることだ。

 自由は公的空間への参加のうちにある。それゆえ各人が一個の市民として、統治に参加できるシステムを設立できなければ、自由の創設が成功したとはいえない。政治の専門職業化という流れは、人びとから統治に携わる機会とともに、市民感覚をも奪ってしまうとアーレントは指摘するのだ。
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論理哲学論考 私たちは何を語りうるか?

『読まずに死ねない哲学名著50冊』より 論理哲学論考 私たちは何を語りうるか? ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン ⇒  私の感覚に「独我論」という言葉を与えてくれた本。2年前に入院していた時に、「独我論」で生きていくことを決めた。

言葉が私の世界である、という言い方がある。人間の世界は概念の世界なので、経験を積み重ねて概念が変われば、世界の見え方が変わってくるというものだ。たとえば、青年にとって「嘘」という言葉は、避けるべき悪を意味する。だが、成長し、大人になると、相手に対する配慮という意味を帯びてくるようになる。言葉の秩序と世界の秩序が問われるようになった実存的な動機には、嘘をつく自由の自覚があるのかもしれない。

その観点からすれば、本書は言語から嘘を徹底的に排除する試みだということができる。

本書におけるヴィトゲンシュタインの基本的な洞察は、言語と世界は厳密に対応しているということだ。それまで哲学は、魂や神といった、ありもしない事柄について〝おしゃべり〟を行ってきたが、それらはすべて哲学から取り去らなければならない。語りえないものについては、沈黙しなければならない……。こうした主張のうちに、読み手は「よく」生きんとするヴィトゲンシュタインの意志を感じ取る。言語を誠実に使用することが、世界に対する誠実な態度であると考えていたように思えてくるのだ。

さて、批評は終わりにして、哲学へと戻ろう。

オーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインは、分析哲学(言語哲学)の第一人者だ。分析哲学の中心テーマは、言語と世界はどのような関係にあるか、という点にある。分析哲学の初期では、言語を正しく(論理的に)用いれば、世界は正しく記述できるという考え方が優勢だった。しかし次第に、そもそも言語は世界を写し取るようなものではなく、使い方で意味を変えるものだという考え方が現れてきた。

本節と次節で扱うヴィトゲンシュタインは、実は、その両方の考え方を一人で示した哲学者だ。イメージとしては、カントとニーチエの業績を一人で成し遂げた、と考えるとわかりやすい。

言語と世界の対応関係

 本書におけるヴィトゲンシュタインの基本の構えは、言語と世界は対応関係にあるはずだ、というものだ。言語は基本要素の「命題」にまで分解でき、それと同様に世界もまたぶ啓叩に分解できる。そのうえで、部品を正しく組み立てていけば、世界のモデルをつくることができる、と考えるのだ。

 まず、ヴィトゲンシュタインによると、世界は「事実」の総体であり、事実はいくつかの「事態」からなる。事態がどのように成立するかに応じて、事実が定まり、世界が定まる。

 ここでのポイントは、事態は相互に独立しているということ、また事態は「対象」が結びついて成立するということだ。対象とは、たとえば「机≒パソコン」のことだが、ここには事物だけでなく、「白い」「冷たい」といった性質も含まれるという見方もある。性質が対象であるというのは初めはしっくり来ないかもしれないが、確かにそう考えるのが整合的ではある。

論理操作によって「語りうる」すべての命題を構成できる

 では、要素命題から複合命題はどのようにしてつくられるのかというと、それは論理操作によって行われる。

 論理操作とは、「否定」や「かつ」、「ならば」によって、要素命題同士を結びつけることだ。たとえば、「花は美しい」という要素命題と「リンゴは赤い」という要素命題は、「かつ」で結びつけることができる。「花は美しい、かつ、リンゴは赤い」というように。

 こうして、要素命題が成立しているかどうかを一個ずつチェックし、要素命題同士を結びつける操作を続ければ、世界を正しく記述することができると考えるのだ。

論理学の命題はつねに「真」

 ヴィトゲンシュタインは、命題同士を結びつける論理操作には、論理学の命題が用いられると語る。というのも、論理学の命題は、経験にかかわらずつねに真であるような命題、すなわちトートロジーであるからだ。

  論理学の命題はトートロジーである。

 トートロジーとは、たとえば「夜霧は夜の霧である」というものだ。経験的な真偽について語っておらず、ただ論理の必然性だけを示す命題、これがトートロジーだ。

 論理学の命題はトートロジーであり、経験に基づいて真偽が確かめられる命題とは区別しなければならない。

 それはなぜか。これは次のように考えるとわかりやすい。

 世界を正しく記述するためには、世界を事態に分解し、それに対応する要素命題を定める必要がある。そのうえで論理操作をガチャガチャと繰り返し、要素命題同士を結びつけていくことができれば、「語りうるもの」をすべて語りつくすことが可能となる。

 言語と世界を正しく対応させるためには、要素命題が事態を正しく写し取るだけでなく、命題同士を正しく結びつける必要がある。そのためには、論理学の命題が操作の反復によって変化せず、いつでもつねに同義(トートロジー)でなければならない。そのことが言語と世界の正確な対応を「保証」していると考えるのだ。

独我論的世界

 命題同士を結びつける論理操作は無限に可能である。

 しかし、ヴィトゲンシュタインは、経験の主体である「私」は、自分の経験の範囲内においてしか、対象を取り出し、名辞を組み合わせ、要素命題をつくりあげることができないという。経験していないものは世界の「対象」とならず、それゆえ名辞へ落とし込むことはできないからだ。

 確かに、名辞の組み合わせがとりうるパターンは決まっている。先に見たように、「花」は「白い」とは結びつくが、「円周率」とは結びつかない。だが、そもそも「花」が何であるのか知らなければ、これが何と結びつきうるのかまるで見当がつかないだろう。

 したがって「私」の生の内実は、対象とその配置の仕方によって定まってくる。それゆえ、私と異なる経験をもつ他者は、私の世界には存在しない。「私」は自分だけの世界を生きており、そこに他者は存在しない。

 ヴィトゲンシュタインのいう世界は、他者の存在しない、ただ私だけが生きている独我論的な世界なのだ。

倫理は言葉にできない

 最後に、ヴィトゲンシュタインは「倫理」について論じる。

 世界は事実から構成されている。事実は成立している事態からなり、事態は要素命題によって言い表される。

 要素命題は名辞からなり、名辞は対象に対応している。対象は「私」によって経験されるのでなければならない。それゆえ、対象の経験が私の世界を限界づけているのだ。

 では、倫理は言語においてどのように位置づければよいのだろうか。倫理は「このようにある」ではなく「このようにあるべき」という法則に基づくので、検証することはできず、語ることはできない。したがって「生の問題」については、何も答えることができない。

  語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

 言語は世界を写すモデルである。モデルは事実に基づいてつくられなければならならず、「こうあったらいいな」とか「こうあるべき」に基づいてつくると、世界と厳密に対応しない、ゆがんだモデルになってしまう。正確なモデルをつくろうとするなら「こうあるべき」を混ぜこむことは慎まなければならない。それがこの文の意味だ。

 ただ、ヴィトゲンシュタインは、この結論によって、何を言おうとしているのか。それは、これまでの哲学に対する批判だ。

 ヴィトゲンシュタインは、世界と言語が一対一で対応していると主張している。先に図示したように、言語は命題へと分解でき、世界は事実へと分解できる。そのうえで、命題の正しさを検証して、命題同士を結びつけていけば、世界は記述できる。これを逆にいうと、検証できない事柄については、言語から取り除かなければならないことになる。

 だが、それまで哲学は、直接検証できない形而上学的な事柄について〝おしゃべり〟を続けてきた。世界の根本原理は何か、真理は何か、というように。ヴィトゲンシュタインは、そうした。おしゃべり〃は止めよ、と説くことで、哲学それ自体に終止符を打とうとしたのだ。

本当に言語と世界は対応している?

 ヴィトゲンシュタインは本書によって、自分か哲学の諸問題を解決したと本気で信じ、哲学から離れて、小中学校の先生や庭師、建築家として活動していた。

 しかし、本書を著してから約10年後、ヴィトゲンシュタインは哲学活動を再開する。それはヴィトゲンシュタインが、言語と世界の対応関係という考えに対し、疑問を抱くようになったからだ。

 原理的にいうと、言語が世界を写し取るという構図は成立しない。なぜなら世界は多義的に解釈されるからだ。たとえば、「この花は白い」は「この花は青くない」を含むし、「机の上に本がある」は「本の下に机がある」を含む。言語と世界が一対一で対応しているとは言えないのだ。

 後年、ヴィトゲンシュタインはそうした洞察に至り、本書の議論を根本的に吟味しなおして、言語について改めて考えていく。それが次節で読む『哲学探究』だ。
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情念論 情念の意昧を説く

『読まずに死ねない哲学名著50冊』より 情念論 情念の意昧を説く ルネ・デカルト ⇒ 22年前に研究開発部門から販売部門に異動してきた時に落ち込んだ。その時に救ってくれた本です。

哲学には伝統的に論じられてきた問題がある。心と身体の関係について問う「心身問題」は代表的なものだ。心身問題は、現代では「心の哲学」における重要なテーマであり、いまなお学説上の対立が続いている。本書はその心身問題の端緒をなす古典だ。

心身問題における根本の問題は、「精神(意識、心)と身体はどのように関係しているのか」というものだ。

人間は意識だけでなく「延長」ももつ。延長とは、空間のうちで一定の場所を占めることをいう哲学上の概念だ。

身体は延長をもち、空間中に位置を占めている。これに対し、精神は延長をもたない。意識が「ある」といっても、モノのように空間中に位置を占めているわけではない。

私たちは意識としても、また身体としても存在している。あり方の異なる二つが一体どのように関係しているのか。そもそも、心はどこに、どのようにあるのか。それが心身問題だ。

精神と身体は「松果腺」を通じてつながっている

 では、この問題に対して、デカルトはどのような答えを示したのだろうか。次に要約してみよう。

  身体の機能に着目すると、身体運動の物体的な原理は心臓の熱だ。心臓に流れ込む血液は精気をつくり、精気は脳へと流れこむ。

  精気の流れは、脳の奥にある松果腺という器官によりコントロールされている。松果腺は精気を脳の孔から放出し、神経を通して筋肉に到達させ、これによって筋肉を運動させている。

  また、精神は松果腺のうちで生じる運動から知覚を受け取っている。このように、松果腺は精神と身体をつなぐ役割を果たしているのだ。

 松果腺というのは脳のなかにある小さな内分泌器で、ここ最近になってようやくその機能が解明されたばかりだ。

 もちろん、デカルトが生きた時代にそんなことが知られているわけがない。では、なぜデカルトが松果腺に注目したかというと、脳の奥深くにあり、かつ脳のなかで唯一左右に分かれていない器官であると信じ(顕微鏡レペルで観察すると実際には分かれている)、ここに心と身体をつなぐ重要な何かが隠されていると考えたからだ。

 もっとも、デカルトのこの説が医学的に見て間違っていると批判するのは、哲学のルールに反することだ。重要なのは、精神と身体は別のものとして存在しており、脳の一部位--デカルトによれば松果腺--を通じて相互に関係しているという洞察である。心身を別のものとして区別し、その関係に着目するという態度自体、デカルト以前には存在しなかったのだ。

情念の〝到来性〟

 続けてデカルトは、情念について論じる。情念とは、いまでいう感情とほぼ同一のものだ。

 デカルトによると、情念は、脳の精気が心臓の動きを変化させる神経を流れることで生じるものだ。たとえば夜道を一人で歩いているときに、急に目の前に暴漢が現れたら、誰でもドキッとするだろう。そうしたたぐいの感情を、デカルトは情念と呼んでいる。

 デカルトは私たちの基本的情念として、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみの六つを挙げている。だがここで問題なのは数ではない。重要なのは情念が、意識の向こう側から到来してきて、意識に対し、何らかの行動を引き起こすようにはたらきかけてくるということだ。

 私たちはうれしいときは自然とうれしくなるし、悲しいときは自然と悲しくなる。「さあ悲しくなろう」と思って悲しくなることはできない。それらは意識の向こうからこみあげてきて、抑えられたり抑えられなかったりする。こうしたよ到来性〃が、情念のもつ共通の特徴だとデカルトは考えるのだ。

欲望は未来の「替」への原動力

 さて、デカルトによると、六つの基本的情念のうち、なかでも欲望は特別の位置を占めている。なぜなら、驚きを除く四つ(愛、憎しみ、喜び、悲しみ)は、ただ欲望を通じてのみ、ある行為を引き起こすことができるからだ。

 欲望がはたらくことで、私たちは未来の対象を目かけて行為できるし、ひいては「善」(よさ)を目がけることができる。

 たとえば愛の情念が生まれたとしよう。気になる人ができると、相手に想いをはせるだけでなく食事やデートに誘おうとする。もっと近づきたい、相手の美に触れたいといった「よき」ことへの欲望が生じるからこそ、相手に対して何らかのはたらきかけをしようとする。

 欲望がはたらかなければ、情念は行為をもたらさない。私たち自身の経験を振り返っても確かだといえる。

 もちろんデカルトは、私たちは欲望のおもむくままに行為すべきだ、と言っているわけではない。私たちは訓練によって、何か善であるかを判断し、本当に目指すべき善をとらえられるようになると考えるのだ。

 本書の結論にて、デカルトは次のように論じている。

 「情念が到来したら、まずは落ち着くこと。そのうえで、情念を否定するのではなく、知恵によってこれをよく使うこと。なぜなら、情念が人生における楽しさの源泉であるからだ」

デカルトの倫理学

 現代の自然科学の見地からすれば、本書に特筆すべきポイントは存在しない。だが、そのこと自体はさほど重要ではない。むしろ本書で着目すべきは、私たちの身体は、それ独自の構造によって運動するという洞察だ。現代的な観点からすれば真新しさなどない自明のことだが、当時は画期的な観点として受け止められた。

 ルネサンス期、ベルギー生まれの医師ヴェサリウスにより創始された近代解剖学により、人体の構造が少しずつ明らかになりはじめ、人間が神の被造物であるというキリスト教の観念は、ほぽ不可逆的に妥当性を失っていった。

 デカルトは本書で、解剖学の知見を参考にしつつ、どうすれば私たちは「よく」生きることができるかという問いに対し、情念のあり方を明らかにすることで解を与えようとしている。

 欲望を避ける〝求めない生き方〟が理想とされがちな現代において、自分の心の動きを見つめることの意味を説くデカルトは、私たちに生の意味を深く教えてくれる。
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図書館とラジオ、そしてメディアの可能性

『ラジオと地域と図書館』より 図書館とラジオ、そしてメディアの可能性 河西聖子

ラジオからの繋がり

 「かじゃ」は、Dr.ルイスのラジオがきっかけで繋がった仲間です。ラジオに出演しただけでなく、実際に鹿嶋市に行こうという思いから「かしまジャック実行委員会」という名前になりました。このラジオがなければ鹿嶋市に行くことはなかっただろうと思います。ラジオが無ければ出会えなかったかもしれない方だちと一緒に鹿嶋市に遊びに行けたこと、地元密着型のコミュニティFMの現場を見ることができ、ラジオに出演できたことはとてもいい経験になりました。

 ラジオに出た前後には、Dr.ルイスのプロデュースで市内を案内していただいたり、関東周辺の図書館員の方と交流したりすることができました。私は当日会った関東チームのおひとりである埼玉県飯能市立図書館の方のお話を聞き、翌日にその図書館へお邪魔したりもしました。ちょうど埼玉県に行く予定だったこともあるのですが、このフットワークの軽さが自分らしさだと思います。飯能市立図書館は、地元の木材を使った素敵な図書館で、展示の仕方やカーリルタッチの活用方法など学ぶことの多い図書館でした。さらにそこで偶然来館されていて紹介していただいた方から、後日「図書館雑誌」の「れふぁれんす三題噺」への寄稿を依頼され、2016年3月号に精華町の記事を掲載していただくことになったのですから、何か繋がるかわかりません。今現在は図書館から離れていますので、あのタイミングでしかできなかったことだと思います。

精華町立図書館のメディア発信

 さて、みなさんは精華町をご存じでしょうか。精華町は京都府の南西端に位置し、古くから農業の町であり、1980年代以降は関西学術文化研究都市の中心地として、また京都・大阪のベッドタウンとして発展してきました。図書館関係の方には、国立国会図書館関西館がある町と言うと、インパクトがあるのではないでしょうか。私は引っ越しを何回かしながらも、小さい頃から概ねこの地域で育ってきました。新興住宅地育ちとはいえ、気付けばまさに「ふるさと」と言える思い入れのある地域です。

 精華町立図書館は、1973年に精華町文庫から始まり、移動図書館、体育館の一室、独立した建物へと発展し、2001年に新館開館したのが現在の図書館です。生涯学習・文化活動を支える拠点として、町民の教育と文化の発展に努め、暮らしに役立つ図書館をめざして活動しています。

 精華町立図書館のメディアによる発信を考えてみると、まずは紙の広報が挙げられます。昔ながらではありますが、行事への申込みのきっかけを見てもいまだ重要で、裏面が図書館のページになって以来、机に置かれても目に入るベストポジションとして約10年間キープして本の紹介などを行っています。

 そして、次はやはりインターネットの活用です。配属当初は単独ホームペとンが無かったのですが、町内のITボランティアさんの力を借りて作成し、ホームページビルダーで職員も更新できるようにしていただきました。スタイリッシュとは言えなかったかもしれませんが、随時の情報発信を心がけ、検索やインターネット予約などができる単独ページを持つ町立図書館は周囲にそれほど多くなかったころに、少しは利便性に貢献できたのではないかと思います。その後、町ホームページの更新と合わせて、町ホームページとの連動と更新の統一化、アクセシビリティの向上などのために、町ホームページ内のページとなりました。本の展示やリストの発信を増やすなど、少しずつ内容を充実させてきています。来館される方はもちろん、インターネットでの情報発信もサービスのひとつとして大切だと考えています。

インターネットによる情報収集と発信

 ここ20年ほどで急速に広まったインターネット。私自身よく使い、情報収集を行ってきました。今や多くの方がスマホでインターネット検索をしています。インターネットの良い点、悪い点は様々なことが言われていますが、今まで出会えなかった人や情報と出会えること、誰もが情報発信できる機会を持てることは大きな魅力だと思います。

 特に現在はFacebookなどのSNsが情報収集やつながりの大きな役目を果たしています。図書館としてはできていませんが、個人的にはとてもお世話になっており、図書館界の動きはまずインターネットで知ることが多いです。またSNSのつながりがあったからこそ、図書館のことで相談にのってもらったり、精華町に訪ねてきてくださったりすることがありました。

日本各地、世界の図書館巡り

 過去の自分から考えれば、こんなに旅行好きになるとは思っていなかったのですが、現在の私は全国の図書館を巡るのが大好きです。やはり話に聞くのと、行って自分の目で見るのとは大違い。本当を言えば住んで利用するのが一番わかるのですが、それはなかなか難しいので、訪れてじっくりと見学することを自分の旅行の一部にしています。これまでに訪ねた図書館は国内外で約150館を数えます。

 誰もが無料で利用でき、雨風や暑さ寒さも回避でき、トイレも、そしてもちろん情報もある。考えてみれば、図書館は旅行で立ち寄るにはぴったりの施設だと思います。しかも全国の図書館に知り合いが増えた現在では、地元の図書館の方に事前に連絡すると、見どころを案内してもらえたり、おいしいお店を教えてくれたりします。さすが地元のプロであり情報のプロである図書館員、はずれがありません。「何もない」町はない。地元ならではの愛するものがあるものです。遊びに行くだけで喜んでもらえる、そんな図書館員のネットワークをとても嬉しく思います。私も訪ねてきてくれればとても嬉しいです。

 近隣はもちろん、こうした図書館巡りを兼ねた旅行で、訪れていない都道府県は残りあと4県まで迫ってきました。I県ずつ調べながら楽しみに回っています。どの図書館も参考になることがあり、新たな発見があって飽きません。また日本だけでなく、外国旅行をしたときにも時間があれば図書館へ立ち寄っています。時に入れてもらえなかったり(研究目的のみの利用施設であるため)、思いがけず利用者登録をするか聞かれたりしながら、日本の本を探したり、本の種類や並べ方、家具やカフエなどの共通点や違いを見て回るのがおもしろいです。

 先日、インド旅行をした際には、現地に仕事で派遣されているデリー在住の図書館員の方を紹介してもらって訪ねていきました。その方の案内のおかげで、市立図書館では、図書館のゲストブックにサインをしたり、私たちの図書館のホームページを開いて写真を見てもらったり、利用についていろいろとお話を聞いたりとコミュニケーションが取れ、最後には職員みなさんで写真を撮るという充実した見学ができました。その方を紹介していただいたのもSNSの繋がりからで、行くまでの連絡も、インドと日本という距離を越えてSNSでした。

現在、そして未来のこと

 私は今、16年間働いた図書館を離れ、京都府立大学京都政策研究センターヘ2年間出向しています。ちょうどDr.ルイスが図書館に配属になった歳と同じ40歳。転機の年です。町を代表して、しかも大学の包括協定先からの初の派遣職員として行っていますので、私の責任はとても重いと感じています。この2年間、大学や地域に貢献し、自分自身の力をつけ、人脈を作って、町へ帰ってそれを活かせるようにと学ぶ毎日です。

 図書館を離れ、町を離れて、全く違う場所に身を置くことで見えてくる世界。組織の違いと共通の部分、全国でがんばる仲間かいること、市民との協働の重要性、政策提言までの積み上げなど、この数か月だけでも気付いたことがたくさんあります。そして、図書館の専門的な知識、精華町での現場で働いていたことが、ひとつの強みでもあるのではとも気付きました。これからも毎日を大切に、仕事に、そして仕事以外にも取り組んでいきたいと思っています。
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市民合意 妥協と納得

『地方自治講義』より 地域社会と市民参加 ⇒ 未唯空間で地域の「中間の存在」としてコミュニティを想定した。イメージしたのは、従来型の地域コミュニティではなく、「乃木坂」のようなカタチです。

市民の声とは何か

 自治体の政治・行政に関わる人で、市民参加という考え方を否定する人はいない。いろいろな表現の仕方はあるかもしれませんが、基本的に自治体の政治」行政がその市民の意思に基づくべきものであるということは誰もが認めるところです。もちろん、ここに至るまでは戦後だけでも地方自治法施行七〇年の苦闘の数々があり、その一つひとつに思いを馳せる気持ちもありますが、ここでほとりあえず市民参加という考え方を前提として出発します。

 しばしば「市民の意見を聞いて」とか「市民と相談をして」「市民に説明をして」という言葉が為政者の口からも市民側からも出ます。それは全くその通りなのですが、実務に携わった人間から言わせると、どこに行ったら「市民の声」というものがあるのかわからない。正論と空論が紙一重の状態です。

 では自治体の政治T行政における「市民の声」とは何なのか。つまり自治体の政策が市民の意思に基づくべきものであるとしても、具体的にどういう状態で市民の意思は形成されるのか。そもそも市民が合意するということがありうるのか。一口に市民と言っても、小さい市町村では千数百人、多いところでは三百数十万人もいるし、都道府県では一三〇〇万人余りの東京都があります。いったいこれだけの市民が二つの意思として合意することが可能なのか。

 市民合意を調達するしくみは自治体の統治構造の大きな柱の一つです。自治体の統治構造が二元的代表制でできているということはすでに話しました。市町村長・知事と自治体議会という存在は市民の合意を形成するための大きな道具です。少なくとも制度的にはそうなっている。だが市民がそう思っているかというと必ずしもそうではない。それは第1講で紹介したアンケートなとからも明らかです。

 そこで市町村長・知事はさまざまな市民参加手法を開発している。何か新しいことをするときに住民説明会を開催するのは当然のことになった。少し前までは想像できなかったことです。説明をするだけではなく、たとえば新しい公共施設を建設する場合には市民を交えた協議会を作って、意見をもらいながら進めるのも当たり前です。場合によっては市民団体が施設の運営に携わることもある。情報公開制度もパブリックコメントも普通になった。

 ただそれでもあちらこちらでトラブルが起きている。窓口でのやりとりなど個々の行政サービスの実務については今後もトラブルがなくなることはないでしきっが、ここで問題にするのは政策に関する市民合意の調達です。ここで失敗すると、自治体の政治・行政全般に影響が出る。信頼感をなくすからです。

 今、全国の自治体議会で議会改革が取り組まれている。現在の自治体議会改革の方向性は公開と参加です。すでに全国の自治体の四割以上が制定している議会基本条例に基づき、議会が各地域に出前して報告会を開催するなど、議会活動を広く周知して議会活動への理解を得る。それと同時に議会への市民参加を模索する。こういう試みが広がっています。

 しかし一部では早くも限界が意識され始めている。議会報告会を開催してもほとんど市民が集まらない。どんなに議会改革を進めても議会議員選挙の投票率が低下する。そもそも議員のなり手がなく、かろうじて定数を埋めて無投票になる選挙が多い。さらに定数が埋まらずに欠員で無投票という事例まで目立ってきた。

 議会基本条例を制定し、公開と参加の議会改革を進めることは重要ですが、もう一段深いところで何かが変わらなければならない。要は議会で市民生活や地域社会にとって重要なことが議論され決定されていない限り、市民は議会に関心を持だないし、持つ必要もないのです。それほど市民は暇ではない。暇ではないので税金というお金を拠出して、役場の職員を雇用したり、市町村長・知事や議会議員を選出したりしている。そのかわりいつでも辞めさせることができる。これが近代社会における政治・行政と市民との基本的な関係です。

住民説明会が紛糾する理由

 そもそも市民が合意をするというのはどういうことでしょうか。私たちは一人ひとりが意思を持っている。それが尊重される。これが近代社会の前提です。一〇〇人いればI〇〇通り、一万人いれば一万通りの意思がある。これらの意思が合意することはあるのか。最初に思いつく市民合意の手法は多数決ですが、多数決には選択肢が必要です。

 多数決の前に選択肢を絞る作業が必要になる。それが議論です。議論をやらずに多数決をしても、本当の意味での市民合意には至らない。自分の意思がどの選択肢に盛り込まれているのかがわからないからです。たとえば一万通りの意思を突き合わせてみると五つくらいの選択肢ができたというプロセスがないと、自分の意思がどこに反映されているのかがわからない。

 議論というのは議論を通じて意思が変わることを前提としています。議論をしても意思が変わらないのであれば議論をする意味はない。他の人の意見を聞いて自分の意思がぶれることが大切なのです。こうして一万通りの意思が少しずつ折り合いをつけて五つくらいの選択肢に整理されてくる。少しずつ角が取れてくるということですね。

 こういう合意調達のプロセスを公開で深めていくのが本来の議会の役割です。たまに、議会なんていらない、市町村長・知事と役場だけがあればいいという意見を聞くことがあります。しかしそれはよくない。なぜなら、現在でもほとんどがそうですが、市町村長・知事や役場からの提案は内部で一つにまとめられたものしか出てこない。選択肢がない。だから彼らは「住民説明会」をする。自分たちで考えた一つの案を住民に「説明」するのです。協議をするわけではない。

 役場が二つにまとめた案は確かによくできていると思う。役場の中で会議を重ねて調整したものだからです。だがその過程は市民には見えない。後から情報公開で調べられるものもありますが、提案の段階では市民にとって唐突に出てくる。したがって「住民説明会」はたいてい紛糾する。役場側はすでに提案を一本に絞ってしまったので、修正する余地がほとんどなく、「ご理解ください」としか言えない。そうなるとますます市民は怒る。

 ところが議会には必ず複数の議員がいる。つまり複数の意思が存在する。そこで公開の議論をすることで政策の正統性も、あるいは問題点も明らかになる。今、議会に政策提案機能が求められていますが、それは目新しい政策を条例化することが主な仕事ではない。市町村長・知事からの提案であっても、それに対して選択肢を提示し、争点化することが議会としての政策提案機能なのです。これは議会にしかできない。残念ながら多くの議会はそこまでの仕事をしていない。でも議会をなくしたらその仕事をするところがなくなる。やはり議会にはもうひとふんばりしてもらわなくてはならない。

妥協と納得

 仮に十分な議論をして一万通りの意思から一つの選択肢が選ばれたとします。だからと言って一つの選択肢に込められた、たとえば二〇〇〇の意思が完全に合致しているわけではない。仮にその選択肢が多数決で選ばれたとすると、そこから除外された八○○○の意思は不満に思うでしきっ。それだけではなく、二〇〇〇の意思の中にも自分は少しずつ妥協した(してやった)という思いがあれば不満が残るに違いない。つまり合意とは不満の積み重ねにおいて成立する。合意形成とは誰もが不満を抱える状態なのです。逆に言うと、一部の人たちだけが完全に勝利するという合意形成は民主主義としてはかなり怪しい。

 では不満を持った人はどうするか。もう一度最初から議論をやり直せという人がいてもおかしくない。結果的に選択された政策を実施してみたらうまくいかないということになれば、それ見たことか、ということになります。問題は選択された結果に対して、自分の意思とは違うけれど「しかたない」と納得するかどうかです。合意形成は必ず不満を呼ぶ。ただその不満を持った人も納得できるかどうかが合意形成の分かれ道になる。

 納得するためには何が必要か。それがプロセスです。あらかじめ定められたプロセスをきちんと踏んでいるか。公開の場で十分な時間をかけて議論が進められたか。その上で自分の意思を含んだ選択肢が少数派であれば、納得せざるを得ない。もちろんそれでも納得しないという人はいます。だから一〇〇%の納得はありえないかもしれないが、可能な限り多数の納得が得られるためにはプロセスが重視される。

 前に触れたように「正しい」政策はない。そもそも政策は将来を予測するものなので、最初から不確定要素が入り込んでいる。ではその政策の正統性、つまり現状ではもっともベターな選択であるとみんなから承認されるためには、プロセスが大事になるのです。どのようにしてその政策を選択したのかという過程こそが政策の正統性を証明する。政策決定までのプロセスが見えなかったり、あるいは過程を飛ばしているような政策、たとえばトップダウンで進められているような政策には市民の支持は得られない。このことを自治体の政治・行政に携わる人たちは肝に銘じておく必要がある。
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地域コミュニティの概念

『地方自治講義』より 地域社会と市民参加 ⇒ 未唯空間で地域の「中間の存在」としてコミュニティを想定した。イメージしたのは、従来型の地域コミュニティではなく、「乃木坂」のようなカタチです。

コミュニティの概念

 しかし近代化の果実を享受しながら地域コミュニティを再建するということは口で言うほど簡単なものではない。近代化によって一人ひとりの個人が社会の構成単位であることが確立した以上、近世以前の束縛された地域社会に復古することは理念的にも現実的にも不可能です。この陰路を考察するために社会学者の見田宗介さんは図のような概念図を提起しています。

 第三象限にある共同体が近世以前のコミュニティと考えればよいでしょう。それに対して近代化は地域社会のあり方を第四象限の集列体へ、さらに第一象限の連合体へと移行させる。生産力の拡大によって個人が自立していく過程と言えるかもしれません。そこにはメリットもデメリットも存在する。現代において地域コミュニティを再建するということは、単に第三象限の共同体に戻ることではなく、第二象限の交響体を目指すことになる。地域コミュニティの再建とは単なる復古ではないということを示しています。

 そうは言っても交響体というのはどのような世界なのでしょうか。集列体というのは、個人がばらばらに管理されている状態で、たとえばブラック企業などを思い浮かべればわかる。連合体というのも、たとえば非常にうまくいっている市民活動団体(NPO)などをイメージすればわからないでもありません。しかし交響体というのはなかなか具体的に感じにくい。たとえて言うとサッカーのサポーター集団が声をそろえて応援する瞬間のような感じでした。それが組織として、あるいは集団として継続することが可能なのか、なかなか難しいように思います。

地域コミュニティヘのスタンス

 もう少し具体的に考えてみましょう。政府が成立する必然性についてはすでに述べた通りです。政府が犯すリスクを最小限化するために、政府は市民によってコントロールされなければならないということも話した通りです。政府に権力を信託しているのは「私」という市民個人です。これが主権者という概念です。この構図は近代化によって成立しました。国という政府に対しても自治体という政府に対しても同じです。

 新しい地域コミュニティ論が本質的に抱える難しさは、このような市民個人の意思と地域コミュニティとしての意思との能駱にある。近世の「村」や集落でも、代表者(長)を選挙で選出していたという例はあります。選挙といっても男性の世帯主が中心なので女性や子こ抹世代はまず参加していない。また現在でもさまざまな団体で、「ご異議はありませんか。ないですね」といった形で、無言の合意が調達されることが少なくないように、おそらく当時もそのようなものだったと想像できますが、構成員の合意によって正統性を保つエ夫は一応講じられていたのです。

 目指すべき新しい地域コミュニティはこうした古い共同体とどこが違うのでしきっか。主権者である市民個人にとっては、政府と自分との間に新しい地域コミュニティが挟み込まれるということです。政府に対する主権者という地位を手放さないとするならば、市民個人は新しい地域コミュニティと政府の両者における構成員になる。

 問題は新しい地域コミュニティと市民個人の意思とが鹸飴を生じた場合です。当然のことながら市民個人は新しい地域コミュニティの決定と違っていても、市民個人としての意思表明を地域コミュニティの外部に対して行うことができます。ただしそのことによって地域コミュニティの決定そのものの正統性が揺らいでしまう。地域コミュニティで決定することの意味が薄れることになる。

 この困難さを制度論的に解決するためには、結局、新しい地域コミュニティもまた政府であると位置づけて構成員の合意を調達し、そこに何らかの権力を付加しなければならなくなる。それが地域コミュニティの制度化としての自治体という意味です。そんなことをしたら国と自治体以外に政府が何層もできてしまうのではないかと思われるかもしれませんが、その通りです。そうしない限り、現代においては地域コミュニティと個人との関係の相克は解決しないのです。

 ところが再三繰り返しているように、日本では度重なる市町村合併によって小規模の政府をつぶしてきた。為政者もこんなことをすれば何が起こるかに気づいているので、合併の都度、地域自治組織の話がセットで出てきます。昭和の大合併のときには財産区制度の活用や旧町村ごとに選挙区を設けるなどの対応があり、平成の大合併でも合併特例区や地域自治区の制度化が行われています。だがどれも時間の経過によって廃止されるか形骸化しているのが現状です。根本的には、地域コミュニティを自治体として再建しない限り、この陰路は抜け出せない。

地域コミュニティの方向性

 それでは近代化された現代ではどのような地域コミュニティが求められるのか。人間は一人では生きていけず、なおかつ物理的存在である限り、私たちは何らかの地縁性を持たざるを得ません。大規模な災害が起こると地域防災組織の強化が常に話題になるのはそのためです。同時に、地域防災組織の強化は困難になっている。一応、形式的には全国各地で組織化が進んでいるようになっていますが、いざというときにどれほど実効性があるかは心許ない。

 なぜならこれらの地域防災組織は地縁団体を基に組織化されているからです。地縁団体の活動そのものが困難になふているところで、地域防災組織だけがうまくいくはずがない。もちろん地域性もあって地縁団体の中には活発な活動をしているところもありますし、地域防災組織がいざというときに機能すれば、ある程度の割合の住民が救援されることは確かですから、地域防災組織が必要ということは間違いない。ただし、それだけでは足りないし、すべてを任せてはいけないということです。ここでも複線型の制度設計が必要になる。

 つまり地域コミュニティを地縁団体にて冗化して、そこに災害救助や生活支援などの機能をすべて負わせるということは無理です。地域コミュニティのイメージをもっと膨らませなければならない。たとえば地域内で地縁団体の次に地縁性が高い組織は小学校や中学校のPTAです。単年度ごとに人は入れ替わりますが、組織としてのポテンシャルは強い。ただし私立に通う子どもが多いところでは十分ではないかもしれない。しかしその他もたくさんあります。JA(農協)とかJC(青年会議所)とか生協とか、テニス仲間とかカフエ仲間とか。ママ友、パパ友、もう少し広く取れば会社仲間とか、組合仲間とかもある。考えてみると私たちは生きていく上で何らかの仲間に属している。その大部分に広義の地縁性がある。

 地縁団体に一元化するのではなく、こうした大小さまざまな広義の地縁性を持った網の目を形成することで、いざというときの自分の生活を支え合う。それが現代における地域コミュニティのイメージです。二九化されていないので網の目からこぼれる人たちがいるかもしれない。しかし現状の地縁団体でもこぼれる人は出てくるので、少なくともそれだけよりはこぼれる人が少なくなるはずです。網の目からこぼれる人たちは行政が直接支援するしかない。それは生命と安全を使命とする自治体行政の役割です。
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未唯空間見直し 2.数学 2/2

2.5 サファイア

 ステージ

  部分・思考
   ①点を定義
   ②孤立と孤独
   ③個人の分化
   ④支援を受入れ

  部分・行動
   ①点を拡大
   ②思いの範囲
   ③同じモノの集まり
   ④行動で活性化

  全体・思考
   ①部分を観察
   ②部分を支援
   ③全体の配置
   ④全体の企画

  全体・行動
   ①部分を統合
   ②全体のエネルギー
   ③部分を支援
   ④企画を実行

 機能 

  エンパワーメント
   ①行動を促す
   ②活性化
   ③フィードバック
   ④内部エネルギー

  インタープリテーション
   ①企画に提案
   ②自律性を訴求
   ③循環を継続
   ④マッピング

  リアライゼーション
   ①全体を把握
   ②方針を具体化
   ③外部エネルギー
   ④循環を拡大

  ファシリテーション
   ①部分を支援
   ②情報を集約
   ③辞令展開
   ④方向付け

 点から面

  近傍
   ①領域を定義
   ②基本空間と同位相
   ③性格を規定
   ④逆関数を反映

  連鎖
   ①距離を定義
   ②近傍系をつなぐ
   ③インターネット接続
   ④LANに対するWAN

  連続性
   ①基本空間と対応
   ②行動を保証
   ③多様な次元に対応
   ④時空間で拡大

  特異点
   ①連鎖で特異点回避
   ②異なる価値観排除
   ③組織は特異点だらけ
   ④多重空間を多層化

 全体

  統合
   ①基本空間の連続形
   ②空間の構造を規定
   ③全体の構造化
   ④1対1で連続

  カバーリング
   ①点と全体の中間
   ②近傍系の集まり
   ③連鎖で伝播
   ④中間で柔軟性確保

  マッピング
   ①部分空間と対比
   ②要素の状況把握
   ③部分空間の正規化
   ④情報共有の単位

  位相空間
   ①配置の構成
   ②コンパクト構造
   ③点を取り込む
   ④全体を位相化

2.6 位相

 未唯空間

  自分の時間
   ①自分のために使う
   ②<今>とは何か
   ③私のために用意
   ④他者の世界に関心

  考え抜く
   ①数学を与えられた
   ②内なる世界をつくる
   ③用意された偶然
   ④ツールを活用

  抜き出す
   ①DNAを組立
   ②多読処理
   ③行動しない
   ④未唯宇宙に残す

  内なる世界
   ①存在は無
   ②無為を自覚
   ③自分しかない
   ④自由に表現

 統合

  集合が点
   ①皆の思いを私の思い
   ②私の思いを皆の思い
   ③思いをカタチに
   ④集合が点、点が集合

  シェア
   ①使うことはシェア
   ②図書館はシェア先行
   ③電子書籍で加速
   ④社会を共有

  グローバル
   ①統合範囲を拡大
   ②自立する地域
   ③全体を見た指令
   ④地域活性化

  自由と平等
   ①自由を獲得
   ②平等を求める
   ③配置から全体把握
   ④知識と意識で覚醒

 空間

  逆関数
   ①既知の空間に投影
   ②挙動を把握
   ③逆関数で距離設定
   ④事例を展開

  疑似空間
   ①全体の構成把握
   ②空間を創出
   ③シミュレート
   ④空間を理解

  正規空間
   ①部分空間を正規化
   ②要素は不変で割る
   ③空間の制約を破る
   ④実際の空間に投影

  多層空間
   ①次元の制約を超越
   ②近傍を多層化
   ③無数の部分空間
   ④無限次元に埋め込み

 未唯宇宙

  内なる思考
   ①生活規範に従う
   ②愛を表現
   ③数学として展開
   ④考えに徹する

  伝播する力
   ①ムスリムの浸透力
   ②情報共有の環境
   ③内から押し出す
   ④思考に集中

  社会に展開
   ①考える意味を知る
   ②数学のすごさ
   ③生きる意味
   ④真理なら実現可能

  位相を表現
   ①全てを知りたい
   ②宇宙空間の位相
   ③意識と知識を展開
   ④存在と無の帰結

2.7 新しい数学

 空間の創造

  特異点除去
   ①局所の次元
   ②非連続を回避
   ③特異点を除去
   ④社会を正規化

  意味ある空間
   ①近傍は存在を意味
   ②分化を促す
   ③近傍系でつなぐ
   ④意味ある社会

  多層化
   ①特異点の空間
   ②空間をすり合わせ
   ③多層に組合せ
   ④縦につなぐ層

  空間の変革
   ①社会を数学で解析
   ②異次元の一様空間
   ③変革をシミュレート
   ④市民主体層

 次元を超える

  無限次元
   ①インバリアント設定
   ②様々な空間対象
   ③空間を解放
   ④価値観を表現

  次元の圧縮・拡張
   ①価値観を包含
   ②集合は点
   ③完結性を保証
   ④コミュニティ設定

  コンパクト
   ①基本空間と双対
   ②オープン
   ③自己組織化
   ④スパイラル回避

  世界を投影
   ①既存組織を取り込む
   ②コミュニティが核
   ③組織の分化
   ④近傍から革命

 哲学を包含

  独我論
   ①存在と無
   ②現象学
   ③空間論
   ④哲学の終焉

  言葉の限界
   ①価値観を表現
   ②言葉の配置転換
   ③言葉の正規化
   ④制約を規定

  <今>を表現
   ①<今>を味わう
   ②<今>の定義
   ③非連続な空間
   ④表現可能性

  存在の力
   ①自由と平等の方程式
   ②個人の覚醒シナリオ
   ③伝播力
   ④配置と循環の空間

 全体をつくる

  全体を定義
   ①内の世界を表現
   ②拡張で全体を規定
   ③全体の境界はない
   ④内の積が全体

  配置で再構成
   ①周縁から核を構成
   ②不変で位相を組替え
   ③三段階のつながり
   ④ステップ理論

  仕組みを表現
   ①外の世界を表現
   ②疑似空間で挙動
   ③要素と関数を接続
   ④挙動で組織分析

  時空間の一致
   ①領域の拡大
   ②境界はオープン
   ③内と外の時空間
   ④形態の変化

2.8 未来のカタチ

 存在の無

  存在で見る
   ①他者の世界
   ②存在を賭ける
   ③不変を縮小
   ④空間の拡大

  限りなく無
   ①孤立に耐える
   ②存在と対立
   ③宇宙を意識
   ④無の役割

  存在の拡大
   ①枠を超える
   ②国家の枠
   ③超国家をイメージ
   ④市民と超国家

  社会に反映
   ①相反するもの
   ②縮小は拡大
   ③新しい数学の論理
   ④組織と個人が一体化

 存在の力

  覚醒の動機
   ①孤立する心
   ②<今>生きている
   ③内なる空間
   ④分化の欲求

  行動する力
   ①トポロジー効果
   ②どうでもいいこと
   ③行動範囲の縮小
   ④意思決定

  個人主体社会
   ①依存から脱却
   ②多様性を活かす
   ③地域に活路
   ④超国家に直結

  変革イメージ
   ①全体を構成
   ②統合ロジック
   ③個人の優先順位
   ④価値観で変革

 他者の世界

  未唯宇宙
   ①内なる世界の確立
   ②ムハンマドの伝播
   ③真理を探求
   ④宇宙の旅

  新しい数学
   ①哲学と歴史が合流
   ②自分のための時間
   ③教育環境の変革
   ④環境社会の理論

  情報共有
   ①先人の思いを実現
   ②位相社会を体現
   ③ライブラリ共有
   ④サファイア社会

  中間の存在
   ①ステップ理論
   ②組織の分化
   ③コミュニティ連携
   ④環境社会を実現

 数学的世界

  端と核が同一
   ①全体の全体は端
   ②部分の部分は核
   ③端=核の世界
   ④トーラスで安定

  超国家の安定
   ①トルコは地中海連合
   ②都市間で価値観
   ③国の存在理由
   ④超国家に機能委託

  自由と平等
   ①内なる世界は自由
   ②数学で不平等摘出
   ③特異点除去
   ④存在の力で覚醒

  安定した社会
   ①トポロジーで超越
   ②端と核がつながる
   ③点が集合、集合が点
   ④数学で安定化
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未唯空間見直し 2.数学 1/2

2.1 思考

 数学

  定義する
   ①数学とは何か
   ②全体が見える
   ③シンプルにする
   ④数学を進化させる

  全てが対象
   ①相手を選ばない
   ②考える手段
   ③無限が身近になる
   ④空間を扱える

  真理をつくる
   ①有意味なもの
   ②考えるプロ
   ③真理に近づく
   ④多元数理の世界

  数学者
   ①証明に感嘆符!
   ②実り豊かな世界
   ③こんな世界がある
   ④数学者になろう

 不変

  全体を規定
   ①不変に価値がある
   ②不変が範囲を設定
   ③存在を超越
   ④最後にわかる

  全体を考える
   ①空間を構築
   ②循環で圧縮
   ③全体が点になる
   ④点が全体になる

  先を考える
   ①シンプルな仮説
   ②思考実験
   ③未来は非連続
   ④先の先の視点

  存在そのもの
   ①存在と無が同居
   ②数学で存在確認
   ③哲学における無
   ④宇宙に拡大

 空間

  リーマン面
   ①エルランゲン
   ②相対性理論に先行
   ③無限小から展開
   ④局所に全体がある

  近傍系
   ①ある点から始まる
   ②点の周辺
   ③同じものに伝播
   ④カバーリング

  空間を創造
   ①近傍系を規定
   ②位相空間と見做す
   ③多様な空間
   ④シミュレート

  挙動解析
   ①挙動予測
   ②特異点を回避
   ③疑似空間
   ④性格を決定

 無限次元

  インバリアント
   ①不変を定義
   ②不変を組合せ
   ③空間を創造
   ④社会は常識が不変

  カバーリング
   ①社会という空間
   ②地域が近傍
   ③近傍で社会を覆う
   ④柔軟な構造定義

  無限次元空間
   ①リーマン予想
   ②整数で構成
   ③自分の空間
   ④マルチバース

  無限次元の旅
   ①三次元は窮屈
   ②無限次元の旅
   ③数学者の特権
   ④無の居場所

2.2 空間

 近傍系

  座標系
   ①ハイアラキー
   ②枠ありき
   ③強固な仕組み
   ④組織の構成

  近傍系
   ①マッピング
   ②アナロジー
   ③全体から配置
   ④柔軟な仕組み

  考え方
   ①連続性を保証
   ②不変の存在が前提
   ③DNA抽出
   ④特異点除去

  数学活用
   ①思考実験
   ②ゼロからつくる
   ③論理を構築
   ④シンプルな解

 社会モデル

  位相幾何学
   ①社会は集合
   ②トポロジー適用
   ③アナロジー分析
   ④未来が分かる

  図書館
   2①グローバルな存在
   2②読書環境を保証
   2③知の入口
   2④シェア先行

  マーケティング
   ①売るための循環
   ②消費者から生活者
   ③使うこと主体
   ④多様な市場創出

  歴史
   ①時空間に存在
   ②多層な配置
   ③地域と国家の関係
   ④未来を把握

 部分と全体

  ヘッドロジック
   ①仕様と構成
   ②中間から全体
   ③部分の中に全体
   ④技術者思考

  複雑性
   ①『複雑性とは何か』
   ②社会は複雑性
   ③複雑なまま解析
   ④配置の多重化

  周縁と中核
   ①漂白される社会
   ②周縁を色づけ
   ③中核を攻撃
   ④全体に伝播

  原因と結果
   ①9は結果
   ②結果と原因を逆転
   ③スパイラル発生
   ④複雑性で解消

 思考と行動

  内向きと外向き
   ①思考は内向き
   ②行動は外向き
   ③内から外へ提案
   ④外から内に支援

  ステージ
   ①思考と行動
   ②部分と全体
   ③組合せで空間
   ④持続可能性

  思考から行動
   ①思考ありき
   ②役割と機能
   ③知識と意識
   ④数学で理論化

  内なる世界
   ①未唯空間
   ②ファシリテーター
   ③エンパワーメント
   ④ファシリテーター

2.3 数学史

 モノの関係

  数を数える
   ①具体的なモノ
   ②数を表現
   ③数字を発明
   ④それだけで十分

  地面に描いた
   ①アルキメデス
   ②地面は地球の一部
   ③頭の中を投影
   ④イメージの限界

  抽象化
   ①モノから数字
   ②足し算と掛け算
   ③アレキサンドリア
   ④相似で地球の大きさ

  支配者の武器
   ①所有物
   ②市民に余裕はない
   ③認識のレベル
   ④商売の道具

 幾何学

  幾何学原論
   ①点、線、面積の概念
   ②アルゴリズム
   ③ユークリッド
   ④社会で有効性発揮

  方法序説
   ①ゼロから思考
   ②我思う故に我あり
   ③一人で全体を構築
   ④生活規範

  デカルト平面
   ①平面座標系
   ②ハイアラキー
   ③一律な世界
   ④局所では有効

  次元の呪い
   ①空間は一様ではない
   ②局所での次元
   ③次元に穴が開く
   ④非連続性

 トポロジー

  呪いの解消
   ①次元を割る
   ②微分可能
   ③軸から配置
   ④局所で次元設定

  空間を再構成
   ①幾何学を再定義
   ②空間をつくる
   ③不変で規定
   ④数学者が先行

  非ユークリッド
   ①地球は平面でない
   ②平行線は交わる
   ③現象から理論
   ④空間の自由度向上

  数学の独立
   ①位相で表現
   ②リーマン面の出現
   ③数学の覚醒
   ④数学者は空間を作る

 進化

  多様体
   ①近傍は同一の集まり
   ②次元に縛られない
   ③局所から全体創造
   ④端と核の融合

  言語を対象
   ①哲学から歩み寄り
   ②自由な空間
   ③DNAで全体カバー
   ④対象を超える

  基礎の変革
   ①点から面
   ②近傍から全体
   ③複数性から分化
   ④インフラでシェア

  分化と統合
   ①それそれが分化
   ②下から変わる理論
   ③統合のシナリオ
   ④新しい世界

2.4 社会に見る

 仕事のヒント

  ヘッドロジック
   ①部品はピラミッド
   ②目的は逆ピラミッド
   ③中間の場で決定
   ④配置ロジック

  技術者の思考
   ①実験~DB~設計
   ②アイデアをカタチに
   ③μ空間でデータ保有
   ④真摯に向き合う

  ネットワーク
   ①販売店ネット構築
   ②等距離に集約
   ③状況把握と事務局
   ④情報共有でつなぐ

  配置の仕組み
   ①個別ニーズに対応
   ②集合論を活用
   ③トポロジー展開
   ④わかる仕組み

 社会を解析

  生活規範
   ①デカルトの真似
   ②自分のための時間
   ③常識を観察
   ④宇宙人の視点

  環境社会
   ①現象を抽出
   ②現象を数学で表現
   ③未唯空間に反映
   ④目指す社会に適合

  持続可能社会
   ①持続する条件
   ②部分と全体が循環
   ③歴史の耐久性
   ④未来の姿を想定

  サファイア社会
   ①事務局のあり方
   ②サファイア循環
   ③持続可能性を実証
   ④新しい数学に反映

 先を見る

  希望を生み出す
   ①偶然を感じる
   ②現象から仮説
   ③仮説から部分最適
   ④先から見た今

  組織の変革
   ①ハイアラキー
   ②内部攻撃に弱い
   ③配置での再構成
   ④組織の分化

  数学者の役割
   ①全体を知るもの
   ②数学で全体を説明
   ③行動はしない
   ④孤独に徹する

  本質を究明
   ①本質はシンプル
   ②複雑性の縮減
   ③数学は自由
   ④未来のシナリオ

 配置で見る

  常識を変える
   ①常識が社会を定義
   ②配置を常識にする
   ③フラットな社会
   ④中間の存在が必要

  活性化
   ①数学者の提案
   ②配置の社会モデル
   ③活性化の条件
   ④役割分担で活性化

  配置と役割
   ①ハイアラキー否定
   ②自由と平等を追求
   ③配置での活動
   ④歴史の動きを変える

  思考と行動
   ①配置を決定
   ②全体の中の役割
   ③行動から弱点把握
   ④循環で補完
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