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Oの悲劇

Oの悲劇

 ポータルのメーカー決定日だけど、Oは思考が拡散している。例によって、Sの一言に過剰反応している。思い付きだけでバタバタしている。

 だから、明日は会社を休んで、未唯宇宙の方針を考えます。この2週間ほど、SFDCに掛かりきりです。思考が停止しています。
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お客様の声を吸い上げる

お客様の声を吸い上げる

 「お客様の声を吸い上げる」システムを合わせて、先を考えていく。これは、BRと一緒にやればいい。

 SFDCのChatter Communityで想定します。対象はスタッフ1万人になります。このパッケージを追加するには50円いるでしょう。50人×1万人×60か月で3千万円です。

 これで、お客様とスタッフとのコミュニティを作り出す。その時は、お客様にお見せする情報は、スタティックではなく、外付けして、流動的なデータを付け加えたものにしていきます。この情報には、自分たちとのやり取りもある情報です。

 メールと合わせて、チャッターを使っていきます。チャッターの方がやり取りが立体的に見えてきます。プロファイルが分かり易い。これは、市民活動のコミュニティに近づく道具になります。

 SFDCは今年の秋にはリリースするでしょうから、このパッケージを使ったイメージを考えておきます。そうすれば、SFDCが狙っている循環ができます。お客様→スタッフ⇒コラボレーション⇒集約→メーカーというカタチです。

スタッフを壇上の上げるという願い

 まあ、3千万でできれば、お客様ポータルの年間維持費よりも安くなります。やることは簡単です。お客様の声をスタッフが吸い上げるということです。

 半年後に、パートナーがBRに移れば、「お客様の声を吸い上げる」システムを作って、展開すればいいです。そうすれば、12月には、壇上で世界に向けて、発表できます。私の最大の願いです

 一人当り50円ならば、メール代よりも安い。十分でしょう。SFDCにとっては、セールスという観点から、コミュニティに来るならば、50円は妥当です。

スタッフ個人のお客様情報

 ポイントはスタッフ個人の感性でお客様情報が持てるということです。そこに、お客様とのやり取りを入れ込み、チャッターの経過も入れ込みます。それを使っていきます。要するに、個人のライブラリです。パートナーがやってきたことをすべて集めてくれば、充分できます。

 これは、20年前に緩急開発部署で技術者相手に作り出しました。技術者は自分のテーマで使い出しました。個人の武装化という観点で作り出せばいいです。

 もう一つのポイントは、店舗内で、スタッフの意見で回るようにしてくればいい。そこにお客様の声を追加すれば、全体が回っていきます。一気に作るのではなく、店舗の活性化が中心になって作っていくことです。

 その情報をお客様に見せれば、「私たちはあなたをこう理解しています」。それが分かるようになります。完全にOne-toーOneです。それに基づいて、コミュニティ化していけばいいです。

地域の活動への展開

 それを知識と意識を入れ込んで、地域の活動という観点につなげていけばいいです。その上で、Chatter Communityそのものを変質させます。ゲームではなく、コミュニティ化です。

 そこからのお客様の要望に耐えられるような、メーカーにしていかないといけない。そのためには全てのものを順繰りに回していくということです。単にお客様の声を聞くことを追加すれば、販売店システム全体が回り始めます。

炭素税の目的は共用

 炭素税の目的は、使うことを減らすことと、それで新しい分配を起こすことです。それでコミュニティの知恵で儲かるようにすることです、それがコミュニティの原動力になります。これで、個人の思いに転嫁していくのです。

 それで、個人のスタンスが共用に向かうことになります。それでコミュニティとしての答えを出していくという、スタイルです。本来、それが民主主義を生み出す元だった。一つずつ、実験をしながら、今のカタチを作り出してきたはずです。

 日本の場合は、上っ面のコピーできたので、ベースの共用がありません。どうすればいいかを自分たちで考えずに、企業とか組織に任せています。

 省エネにしても、自分たちでエネルギーができないから、単に使うことしかできないから、ということで、努力をしてきていません。オランダのような貧乏な国ならば、自分たちの努力で色々な試みを行ってきた。

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小平の改革開放のマイナス面

『毛沢東と中国ポスト』より 毛沢東時代(二〇〇〇-二〇〇九)

この進歩のために大きな代価が支払われたことである。巨大な問題と矛盾がもたらされ、政治・経済・社会・思想の危機が到来した。

第一に、日ましに深刻化する両極分化と社会の不公平がある。これは「六四体制」の必然的帰結であった。世界銀行が一九九七年に公布したレポートによると、中国の八○年代初期のジニ係数は○・二八であったが、一九九五年には○・三八、九〇年代末には〇・四五八に上昇した。二〇〇八年には○・五の「極度の不平等」に達したという。国際的経験からいうと、ジニ係数は○・三以下であれば比較的平等で、○・三から〇・四の間だと中度の不平等、〇・四を超えると大きな不平等とされる。

財政部が二〇〇九年に公布したデータによると、全国一〇%の家庭が、都市住民のすべての財産の四五%を占有し、全国一〇%の低収入の家庭の財産は、わずか一・四%に過ぎないという。七つの独占企業の従業員数は、全国の八%に過ぎないが、給与および給与外の収入を合わせると、従業員収入総額の五五%に達するという。

中国改革基金会国民経済研究所の調査によると、現在、都市の収入上位一〇%と下位一〇%の家庭の収入格差は約三一倍だという。都市と農村を合わせると、その収入格差は約五五倍になるという。

さらに以下のようなデータもある。「一人あたりGDPに対する最低賃金の比率は、世界平均では五八%だが(国際労働機関『世界賃金レポート○八/○九』によると、中国は二五%である」。「経済協力開発機構の二四力国で、平均賃金に対する最低賃金の比率は五〇%であるが、国家統計局のデータによると、中国は一二%である」。「中国の最低年収は六一二〇元で、世界平均の五%にも達せず、世界一五八位である」。ここに見て取れるように、中国は経済発展の速度で世界トップであるが、不平等の程度でも世界トップである。この二つの[トップ]は、強烈なコントラストをなしている。経済が大発展し、社会の富が増加している足もとで、このような不平等が存在する。それは人間が精神的に受けとめられることでない。しかも格差は拡大しつつある。

ある研究者が言うように、「より重要なのは、独占と特権による(収入の)上昇に、納得できる説明を与えられないことである」。現実にはこれは権力を利用した略奪であり、いかなる合法性も道徳性もない。そのため「大衆の不公平感はジニ係数が同等の国家よりも高い」。私からも補足したい。このように巨大な社会の不公平が、「社会主義国家」を自称し、イデオロギー的には「社会の平等・公平・正義」を唱える中国で発生し、実際には極度の貧富の格差が広がっていること、そのコントラストの大きさは、忍耐の限界を超えている。

社会の不公平は、公共品の供給不足および公共品の公共性不足にも表れている。こうした問題は毛沢東時代から存在した。党の幹部がより充実した公共福利を享受し、低収入の普通の民衆、とくに農民は、社会的福利をほとんど受けられないか、まったく享受できなかった。これがいわゆる「特権」による社会の不平等である。しかし毛沢東時代には、特権はまだ一定の制限を受けていた(毛沢東の方法は、やむことなく大衆運動を発動し、特権を享受する幹部の安定性を揺り動かすことだった)。しかも毛沢東時代の単位所有制は、普通の幹部・労働者の基本的な福利を保障していた。きわめて低い水準ではあったものの、相対的に平均している印象を与えた。ところが小平の経済改革によって、失地農民、レイオフ労働者がおよそ七〇〇〇万人、そのうえ一億近い農民工階層が現れた。彼らは経済的収入がきわめて低いのみならず、基本的に社会福利から除外された。他方で、「公共サービス部門は責任を放棄し、公共の資源を用いて任意に「営利追求」を行い、同時に独占権力によって民間の競争相手を排除した」。かくして「「二次分配」が当初の分配の不公平を緩和することなく、逆に拡大させた≒そこで次のようなデータが出てくる。中国の公務員の給与は最低賃金の六倍、ちなみに世界平均は二倍。中国の国有企業の役員クラスの給与は最低賃金の九八倍、ちなみに世界平均は五倍。高度経済成長に貢献し、あるいは貢献しつづけるレイオフ労働者、失地農民、農民工たちは、社会福利を享受できず、改革の成果を享受できない。これは最大の不公平であるばかりでなく、改革の合理性に大きな傷を与えた。

それに関連して、政府の支出の大きさがある。国家情報センター経済予測部「政策動向課題グループ」が二〇〇六年に発表したデータによると、全国の各級の公的機関の公費接待費、公務交通費、公費海外考察費は、合計一万億元を超え、年度財政支出の三〇%を占めたという。この比率は、日本ではわずか一・四%、イギリスは四・一%、インドは六・一%、ロシアは八・二%、アメリカは九・九%である。この政府支出の多さと公共サービス支出の欠乏は、大きなコントラストをなしている。そのもとで政府の官僚化と腐敗が進み、社会の不公平が明らかになった。

もう一つ注目すべきは、都市と農村、東部と中西部の格差である。一九九〇年から二〇〇三年の間に、都市と農村の収入絶対額の格差は七倍以上拡大した。物価の要素を差し引いても、三倍以上の拡大であった。二〇〇二年の統計によると、全国の収入格差の五分の二以上は、都市と農村の間の収入格差に由来したという。東部地区と中西部地区の収入格差の貢献率は、一九九五年には七・五%だったが、二〇〇二年には八・七%に上昇した。このほかに、都市の業種独占による収入格差がある。二〇〇一年の職業別従業員平均給与のジニ係数は、一九九〇年よりも八六%増大した。統計によると、中国の職業別の給与格差は三〇〇〇%に達し、世界平均の四二二倍だという。こうした多方面の収入格差は、聞違いなく臨界点に達している。改革の合理性の危機を深めていることは疑いない。
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町民が作る図書館

『アーカイブのつくりかた』より

まちとしょテラソ

 高い天井、低めの書架。大きなガラス窓からの陽光が、開放感のある空間にあふれる。長野県小布施町の町立図書館「まちとしょテラソ」は、2009年にオープンした新しい図書館。美術館を思わせる建築だけでなく、その「中身」も従来の公立図書館の粋を超える。町に伝わる文化財や美術作品はもちろん、まちづくりのために働いてきた“町民”まで、まちとしょテラソではデジタルアーカイブ化しているのだ。「まちとしょテラソの主人公は町民、僕たちは黒子。いかに主人公が引き立つか、どれだけすごい演出ができるかなんです」と花井裕一郎館長は笑顔で語る。

 長野市から車で30分ほど走ると、小布施町に到着する。人口1万1400人ほどの小さな町だが、晩年の葛飾北斎が江戸から足しげく通い、逗留して絵を描いた地としても知られる。北斎を招いたのは、豪農豪商だった高井鴻山(文化3年~明治16年)だった。北斎の足跡が残る小布施町は、当時の知識人たちと交流のあった鴻山を中心に、文化を愛する独自の気風が根付いた。

 そんな小布施町で、新図書館構想が持ち上がったのは、もう20年以上も前だった。建物の3階でエレペーターもなかったため、利用しづらいという声が多かったが、予算面から計画は頓挫。しかし、2004年に現在の市村良三町長が「新図書館構想」の公約を掲げて当選すると、一気にプロジェクトは動き始める。市村町長は町民を巻き込んで勉強会を立ち上げ、まず本当に新しい図書館が必要か議論を重ねた。町民の間で賛成派が上回り、計画が本格的に決定。そこでも市村市長は行政主導は採らず、町民50人を集めた建設運営委員会を構成、館長も公募した。まちとしょテラソが、「町民が作った図書館」と言われるゆえんだ。

 そうして選ばれたのが、委員会のメンバーでもあった花井館長だった。花井館長は東京でテレピ番組のディレクターや映像作家として働いていたが、取材で訪れた小布施町に魅せられ、2001年に移住していた。「僕を採用したのは、小布施町にとっては、冒険だったんじゃないですか」と笑う花井館長。いわゆる司書など図書館の専門家ではなかったが、映像の専門家であったために、館長としての公約には、デジタルアーカイブのプロジェクトを盛り込んでいた。

 「文化財に指定されたら残るかもしれませんが、そうではない生活文化は消費されて消えてゆく。でも、実はその中にその土地のコミュニティにとってとても大事なものが含まれています。それを町民レペルで伝えてゆく必要がある。それができるのは、情報が一番集まる図書館なのではないかと思いました」。町民による小布施町調査隊を組織して取材し、コンテンツをデジタル化、アーカイブを作ってゆく。そんな構想だった。

文化の拠点として

 まちとしょテラソのテーマは、「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」とうたわれている。「無料貸本屋」と批判されがちな旧来の図書館のイメージを一新する、町民による町民のための新しい図書館は、町の新しい顔として愛されている。旧図書館の利用者数は、1日平均78人だったが、2011年度には391人となっている。「町長には利用者を3倍に増やせと言われてきましたが、それ以上です。今年はもっと増えます」。町民から高い評価は、行政からのバックアップにもつながる。現在、年間予算は4800万円。町の財政が42~43億円という中、かなりの予算がまちとしょテラソに割かれているという。

 よく話すことがあります。せっかくアーカイブを作っても、ぽつんと図書館の中に孤立して、ただ単に昔を懐かしむためのものでは面白くない。コミュニティメディアやマスメディア、ソーシャルメディアも使って、世界をマーケットにアーカイブを発信する。それが町民へと還ってゆきます。町民が喜ぶ仕掛けをブーメランに乗せて、どんどん遠くへ飛ばす。それがアーカイブの醍醐味ではないでしょうか」
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クラウド型デジタルアーカイブのデザイン

『アーカイブのつくりかた』より

ここからは、具体的な事例としてインターネット上のサービスを利用したデジタルアーカイプのデザインについて記述する。

flickr(フリッカー)というデジタルアーカイブシステム 写真共有サイトであるflickrを用いたデジタルアーカイブシステムをデザインするにあたっては、その機能と特徴を知っておくとよい。最近では90秒程度の動画のアップロードも可能にはなったものの、基本はビットマップデータであるデジカメ写真やスキャナで取り込んだ静止画を扱うサイトである。このサイトを用いたデジタルアーカイブの事例として、The Commons (http://www.flickr.com/commons/)がある。米国の議会図書館や国立公文書館などの公的な機関のデジタルアーカイブとしてもflickrが利用されていることは注目に値する。photos1ream(フォトストリーム):利用者登録をし、写真をアップロードすると、アップロードが完了した順にphotostFeamとして保存される。 flickrでは1枚1枚の画像が個別に扱われる。複数枚の画像を同時にアップロードしても、選択した順番ではなく、アップロードが完了した順番でphotostFeamに追加登録される。

1点1点の画像には、タイトル、コメントなどのメタデータをかき込むことができるとともに、その画像が含まれるsetやgroupなどの情報も表示される。set(セット):photostreamから必要な写真を選んで、いわゆる「組み写真」を作成できる機能がsetである(他の写真共有サイトではアルバムと称することもある)。並べる順番は自分で決めることができる。settはアップロードする時点でつくることもできるが、アップロード後に作る事も可能である。アップロード後に順番を変更し編集できるのはflickrの大きな特徴でもある。また、set用のフォルダとしての役割をするcollection機能を使う事で、アーカイブの整理に役立てることができる。

group (グループ):flickrは元来オンライングームサイトとして構築されたこともあり、他の利用者との交流の機会を提供する機能を持っている。 groupは誰でも開設することができ、許諾が必要/不要などの参加条件などを細かく設定することができる。図書館関係ではLibraries and Librarians (http://www.flickr.com/groups/librariesandlibrarians/)というgroupがあるが、ここには多くの図書館が参加しており、それぞれのphotostreamから選んだ図書館の風景がそのgroupに加えられている。筆者が勤務する山中湖情報創造館の日常の風景も時折このgroupにアップしているので、海外の図書館関係者も日本の小さな図書館の日々を知ることができる。それは逆に筆者自身が諸外国の図書館の日常を、このgroupを通して知ることができることでもある。こうした写真を通した予期せぬ偶然の出逢い(セレンディピティ)が生まれるのもflickrの大きな特徴でもある。

galleries (ギャラリー):2009年から始まった。これはflickr上にある公開中のすべての写真から18枚までを自由に選び組み写真にすることができる。setが枚数無制限でも自分のphotostreamからの組み写真であるのに対し、他人の写真さえも利用して自分の組み写真であるgalleriesをつくることができる。あるとき自分の公開写真が見知らぬ誰かのgalleriesに利用され、そこで新たな付加価値が生まれる。そんな機会をflickrは提供しているのである。

このように、flickrは画像データを主としたデジタルアーカイブシステムとしては、完成度は高いのだが欠点もある。一番大きな欠点は[日本語化]されていない点だ。これに関しては、flickrが米国Yahoo!により運営されており、中国語と韓国語はあるものの日本語はない。日本においてはYahoo!JAPANがビジネス展開を行っているため不可侵領域であるらしい。さらに機能は豊かなのだが最新の技術の導入がいまひとつである。例えば写真サイズはブラウザ上で可変なはずであるが、flickrは1枚の画像を複数の固定サイズで保存するだけである。これでもすごい機能であるのだが、ブラウザを用いたインタラクティブな操作性はまだ改善の余地があるように思う。

それでもflickrを越えるデジタルアーカイブサイトは、他にはみあたらない。利用される方は、ぜひ年間24.95ドルのpro版にし、大いにデジタルアーカイブを堪能していただきたい。
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新しい姿勢 どの世代も前の世代より数が多く

『紙の約束』より

高齢者人口は政府の負債に影響を及ぼすだけではない。こうした人口の変動を、労働する能力と、負債を引き受ける意思に照らして考えてみてほしい。大まかにいえば、引退者は三つの収入源に依存している。公的年金、自身の貯蓄、雇用による年金だ。雇用者が引退すれば、こうした資金源が重要な収入の成長を生み出すことはなくなる。高齢者が望めることといえば、せいぜいインフレについていく程度だろう。

それなのに高齢者はどうして、負債を引き受けたり、与えられたりできるのだろう? 債権者にしてみれば、引退した人間のキャッシュフローが、元本と利子を返済できるほど改善するという信頼は持てないはずだ。高齢者が今より大きな家を持とうとすることは考えにくい。むしろ通常は、子供たちが家を出ていったときに、小さな家に買い換えようとする(キャッシュフローを生み出すために、自宅を担保にして借金をしようとする高齢者もいるだろう)。

投資のライフサイクル理論とは、人間が貯蓄する額は、年齢によって異なるというものだ。若い頃にはあまり蓄えず、多く借りる。中年になると、ほとんどを蓄えにまわす。そして引退すると、蓄えを吐き出していく。この理論に従うなら、一九九〇~二〇〇〇年代の貯蓄率にはひとつの波がやってくるはずだった。ベビーブーマーたちが四五~五五歳の年齢幅に入ってくる時期だったからだ。

しかし奇妙なことに、アメリカのベビーブーマーたちはまったく逆のことをした。一九九〇~二〇一〇年まで、歴史的な基準から見て、貯蓄率はきわめて低かった。これは将来の災いのもとになると警告する識者もいたが、自由市場主義の経済学者たちは、この貯蓄率の数字は低く見積もられている、ベビーブーマーたちが住宅や株で得たキャピタルーゲインが反映されていない、と反論した。こうした経済学者たちの意見は、この現象の裏にある動機付けに関しては正しかった。ベビーブーマーたちは、自分の持つ資産の価値が上がるにつれ、もう収入の一部を貯蓄にまわす必要はないと思い込んだ。しかしキャピタルダインは永遠ではなく、実際にエクイティの利益は二〇〇〇~○二年から、不動産の利益は二〇〇七~○九年から下がりはじめた。

経済全体への影響でいえば、収入が貯蓄にまわされるのは、将来の成長を刺激する投資のための基金ができるという意味で重要だ。キャピタルダインとは将来の成長が早い段階で認められることである。住宅や株の価格が上がるのは、多くの人々が給料や利益が将来的に増えると期待しているからだ。しかしこのキャピタルゲイン自体は、そうした給料や利益の増加を生み出すようなことは何もしない。二〇〇七年には、五五歳以上のアメリカ人で、一〇万ドル以上の貯蓄がある人々は全体の半分にも満たなかった。昔ながらの「二〇倍の法則」(望ましい収入を得るにはその二〇倍の元手が必要になる)を用いれば、これは年金に直すと年間五〇〇〇ドルにも満たないことになる。

高齢煮が必要なものには、さらに別の意味合いもある。なんとか貯蓄に頼って暮らしていこうとすれば、自分の資産、とりわけ家を売ることになる。これはよくある成り行きだ。しかし過去には、売る側の世代は買う側の世代より少数だった。だから過去の高齢者は、買ったときよりも高い価格で資産を売ることができたのだ。これは現在の高齢者にとってはもちろん、大きな失望となるだろう。しかし住宅ローンを借りている就業年齢の人々にとっても、これは問題となる。資産価値がマイナスになってしまう人々が増えるだろう。そして投資としての住宅(セカンドホームとして、あるいは貸家として)への需要は、確実に低下するだろう。

長期的には、住宅の価値はGDPに一致して上昇すると考えられるだろう。好況の時期には速いペースで高騰する。したがって住宅価格は、上の世代の資産売却による二重の打撃に直面する。GDP成長がゆるやかになると、住宅価格の上昇率も自然と鈍りはじめる。そして住宅の平均価値は少なくとも、GDPとの昔ながらの関係にもどっていく。高齢者層が引退後のための資金手当てをするためだ。

現在のような低金利の時代が続けば、高齢者の生活はきびしくなっていく。すでに引退していて、資産のかなりの割合を預金の形で持っているとしたら、収入はもう低下しているだろう。だが引退を迎えようとする人たちにも、暮らしはやはり苦しいものになる。引退のために必要な収入を生み出せる元本を積み立てなくてはならない。金利が五パーセントなら、二〇万ドルの元本から一万ドルの収入を得られるが、金利が二パーセントなら収入は四〇〇〇ドルにしかならない。引退を迎えようとする人が一万ドルの収入を目論んでいるなら、貯蓄はそれよりはるかに多くの五〇万ドルが必要になる。これは大変な負担だ。

さらにまずいのは、それだけの元本をつくろうとする試みも、低金利のせいで困難になるということだ。引退を迎えようとする人は、収入の一部を貯蓄しなくてはならない。貯蓄による収益は仕事の報酬と比べて少ないからだ。したがって利子の低さは、逆に貯蓄を促す方向に働く--すばらしいパラドクスだ。ちなみに、引退者が自分の力で貯めるのでも企業の制度を通じて貯めるのでも、なんらちがいはない。同じ原則が当てはまる。

要するに、政府がこれまでに蓄積した負債の利子や、高齢者福祉の社会的費用を支払っていると、成長は鈍り、納税者の負担は大きくなっていくということだ。まさしく親の因果が子に報いているのだ。政府が負債を負えば、若い世代はそれからずっと、上の世代の負債を返済していかなくてはならない。しかし過去三〇〇年との重要なちがいは、これまではどの世代も前の世代より数が多くなっていたことだ。先進国の高齢化は、それがもはや当てはまらないことを示している。ポンジー・スキームのカモが尽きようとしているのだ。
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提言報道の正体

『Yの悲劇』より

魚住 読売は「提言の読売」を謳っています。読売のウェブサイトの「紙面紹介」では「提言の読売」について、「国の岐路に進むべき方向を指し示す提言報道。読売新聞が確立した新しい報道の形」と説明し、その具体例として二〇〇四年に掲載した読売新聞社による憲法改正試案を紹介しています。読売では一九九四年から改憲の提言や試案を発表していますが、改憲の世論喚起のために旗を振ることは、公正な報道を使命とするはずの新聞の倫理に反する暴挙であると、各方面から厳しく批判されました。試案は渡邊さんの〝私案〟だという批判もありますね。

また、渡邊さんが社説でよく主張するのは、税制問題についてです。例えば、相続税が高すぎるとか、所得税の累進税率が異様に高いとか主張してきました。その効果もあって、この二十上二十年で相続税や累進税率がどんどん低くなっていくし、それに比例して拡差はどんどん大きくなってきた。私は渡遵さんがそのオピニオンリーダーとして果たした役割は大きいし、それは厳しく批判されるべきだと思うんです。

清武 消費税の問題がその典型ですが、社論は大蔵省(現・財務省)に引きずられるところが非常に多かったように思います。読売ではよく、勉強会を開いていました。各部のデスククラスまで呼んで、大きな会議室で開くんです。講師として招かれるのは、官僚やその出身者が多かったですよ。

魚住 それは、渡邊さんが主宰する勉強会なんですか。

清武 主導ではあったんでしょうね。社論を統一するために、あるいは提言報道をするために、いろんな人を呼ぶわけです。

経済部の人間だって所詮、専門家にはかないませんから、こういう席ではひたすらご意見拝聴ですよ。そして官僚寄りの識者のオピニオンを掲載し、それに迎合する形で社論が統一されていくんです。

橋本行革の際、大蔵省を財務省にするかどうか、大蔵省を二つに割るかどうかで、ものすごくもめましたよね。あのとき、渡遭さんの説は完全に大蔵省寄りでしたよ。大蔵省の代弁者みたいな感じでした。

やはり、新聞社は批判者であるべきです。だって、不良債権問題にしてもそうですが、金融界挙げて大がかりな債権飛ばしが行われているという実態について、それは税務当局が調べ、新聞社もそれに気づくところまで行っていたんだけれど、その追及を封印してしまった。それによって、不良債権の処理と責任の究明が大きく遅れましたよね。

魚住 改憲問題でも、識者のオピニオンを載せ、社説を載せ、紙面を改憲一色にするということをやってきましたね。

清武 そうですね。その場合、勉強会といっても、改憲に批判的な人も含めて呼ぶということはないし、批判的なオピニオンが載ることもありません。そこが問題だと思うんですよ。

魚住 渡邁社論の特徴は、煎じ詰めれば大蔵省の言い分ですよね。消費税だってそうだし、累進税率を下げることもそうだし、大蔵省がやりたいことを渡邊さんのところにご注進して、渡邊社論として展開していくという構造ですね。

渡邊さんは、「オレが一番いろいろ情報を持っているし、オレが一番頭がいいんだ。オレの言っていることは間違いないんだ。その間違いないことに対して、反対は許さないんだ、出ていけ」という論理なんですね。

清武 そうそう。異論を口にして論説委員たちの前で怒鳴られた人もいます。すると沈黙か迎合者しか残らない。

魚住 普通だったら、自分はこう思う。自分はこれが絶対正しいと思う。だけど、ほかの違う意見がある。では、両論併記で、その違う意見も意見として取り上げようではないかということになるはずでしょう。いわゆる寛容さがまったくないんですね、あの人には。

それでいて、「現代の日本のどこに言論抑圧権力があるんだ」なんて言うで

清武 それは、あなた自身だろうって。

魚住 そうそう。それは要するに、さきほど私が言った「戦前と戦後では違うんだ」論なんですよ。戦前は言論を抑圧されていたけど、戦後は表現の自由ってもんか保障されているんだ。だから、そんな、さもどこかに言論の抑圧権力があるかのように発言する左翼たちはけしからん、出ていけということになるんです。

清武 紙面が渡邊社論一色に染まるとともに、読売グループの構成も変わっていきます。二〇〇二年には読売グループの持ち株会社をつくり、体制を整備して関連会社のすみずみにまで渡涜さんの意思が通るようになりました。

魚住 読売新聞グループを再編成し、持ち株会社「読売新聞グループ本社」(渡邊恒雄社長)の下、読売新聞東京本社、読売新聞大阪本社、読売新聞西部本社、中央公論新社、読売巨人軍の五つの本社を配する体制になった。みな、同じ釜の飯を食べるようになったのでしょう。

清武 そう、それで渡邊さんの支配体制が完成したわけです。
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予言者の運命

予言者の運命

 だから、チェムスキーも予言者です。私も同じですけど。そして、予言どおりになっていく、どんどん悪い方に向かっていく。予言者は沈黙に入る。言っても意味がない。内なる世界で十分なのです。

 だけど、あるポイントを超えたときに、予言者が言っていることの意味が皆に一気にわかる。そこでどう動くかで、一応、予言者は生存している。自分のミッションがそうです。予言してきたことが、一つ一つ、現実になっているのに、当事者には分からない。

 社会は変わるはずがないと思っている、会社は変わるはずがないと思っている。むしろ、変えたくないと思っている。あるところで、社会は動き出します。会社は上位者が動き出し、下位者が同調します。

 それでも、彼らは変わらない。矛盾がさらに増すだけです。そこで、予言者は圧迫される。余分なことを言うな! だけど、予言者が予言者である限りは、リリースされます。偶然に機会を狙って、それを皆に見せます。

 今回も、実現するのが目的ではなく、こうなっているから、こうしないといけないということを見せるだけです。それを上位者が理解して、進んできた方向を変えていければ、それで十分です。

 社会を変えるとか、会社を変えるというのは、多分、その程度なんでしょうね。クリティカルポイントまで持って行って、変えられるか、落ちるのか。

 この会社がそこまで来ているかどうかわからない。売れているかを判断基準にしています。その先がどうなるかの政策も立てられないのです。

 民主主義も同じだけど、皆が考えて、自分の幸せと皆の幸せを感がることそのものです。共和制と比べると、皆が考えてどうするのかを決めるのは難しい。

ルールだけでなく、コミュニティで革命を起こす

 エジプト革命にしても、革命はできたけど、そのあと、幸せにはなってはいない。ロシア革命も同じです。決して、幸せにはなることはできなかった。独裁制になってしまった。そのままでも、同じ結果かもしれないけど。

 エジプトの場合は、軍部の力が大きすぎる。決して、ムスリム同胞団が支配している訳ではない。一般民衆がコミュニティを核にして、国を作り上げるところまで来ていない。

 SNSから、グループはできない。グループからSNSはできるけど。だから、コミュニティをいかに強くできるか、そこで個人の分化と組織の分化をできるかの、正当なアプローチが必要です。

 ツールだけで、どうしようもないことは分かっています。民衆の意識があれば、ツールでまとめれば、革命は起こせます。デモが革命で起こるかどうか。当事者だけは革命が起こります。個人が分化します。中国で再革命は起こるのか。それは、組織の分化で決ってきます。

 分化したものをいかに安定的に多様化していくのか。そのためのプロセスが重要です。スタッフが意見を言うようになった時に、どのように収集していくのか。スタッフ中心とは言わないけど、ループの出発点をスタッフにするのが目的です。

 その状況から、企画が意見を聞いて、まとめていくのか。そのイメージを早く作らないといけない。

スタッフが分化する理由

 そこで重要なのは、スタッフが分化する理由です。お客様の方を向いていれば、売るということだけでは済まないでしょう。サービスとかマーケティングそのものの定義を変えていかないといけない。

 売ることではなく、使うことを考える時には、もっと多様な手段を使わないと。そのためには、想像力を働かせるかです。売るのは簡単だけど、使うためには、クルマだけではなく、道路も関係するし、政策も関係するし、お客様の人生観も関係します。

 当然、政治形態も、民主主義も関係する。それらをどのように積み上げて、同調者を作っていくかです。今までは、エネルギーを安価に生み出すことを考えていたけど、使うことを減らしていけばいいんです。
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内なる世界で十分だが

知識と意識のコミュニティ

 目的は作ることではない。知識と意識のコミュニティのイメージつくりです。

デジタル・アーカイブ

 デジタル・アーカイブというところも一つに込められています。

内なる世界で十分ではないか

 内なる世界は論理からできている。全てを支配しているから、回していくしかない。

 モーゼの十戒にしても、内なる世界で作ってきたものを表に出してきたのでしょう。チェムスキーにしても、すべて、言っていることが実現するわけではない。個人の制約ではなくて。

 個人の制約よりも、組織の制約の方がはるかにでかい。個人で自由であることが重要です。個人の制約がそのまま、制約できるものではない。それは確かです。

 組織で考えたよりもはるかにいい案ができます。自分の中で回すからです。会社で決めるからと言っても、では、関係者はどれだけいるのか、考えている人はどれだけいるのか。バラバラのものを循環で考えていける関係者がどれだけいるのか。自分が淡えた自分の枠で考えている振りをしているだけです。

どういう循環にしていくか

 SFDCから見たときに、どういう循環にするのか。そういう力を使わないと無理です。

 以前、この会社にインタープリターがいるかどうか聞いた時に、GMから「いない」と明確に答えた。名古屋は現場から離れすぎています。あまり、現場に近づいてもダメです。経営者もそうですが、自分たちのことしか考えない。

 そこから、どのように考えて、全体を考えて、循環を見ていくのか。社会でもそうだが、そこが一番難しいところです。

 民主主義も一旦、落としてしまうと、そこは民主主義です。皆が幸せになるために作ったにもかかわらず、それを機構にしてしまうと、老朽化します。固定化して、それを自分たちの自工程とする。そこだけをやることになる。それをつなげるだけ、人間は賢くない。

 本来、工程化した時には、相手に対して、発火する概念が必要だが、それは全体の構成認識があって、初めて成り立ちます。トポロジーで言うところの枠があって、それがチェーンでつながるためには、それぞれがある位相を持たないといけない。

 だけど、そこに居る人は自分の勝手な位相だけで動きます。だから、つながるはずはないし、全体として、一つの目的を持つことはありえない。うまくいっている会社というのは、その部分が少しマシになっている程度でしょう。それをつなげる人が必要だということです。

皆の思いを実現する

 今やっていることをすぐに変えることはできません。その人はそれを自分のお仕事として、やっているから。

 ずーと、やってきて、皆のために、自分の思いをどうやっていくのか、最初に考えたことがいかに正当性を持つのか。私にとっては、皆の思いを実現しようすることは自分では当たり前だったけど、周りを見るとなんと少ないことか。

 それでも、組織は回っている、回っているつもりでいる。ほとんどは生活のためという名のもとの偽善です。欺瞞です。

 今回の件も、正当な意見を言っていくしかないでしょう。いかにして、全体を回すのか、それぞれのところがいかにして、幸せになれるようにしていくのか。それを核にして、周りを変えていく。本部・店舗の循環を元にして、お客様とメーカーに対して、その循環を拡大していく。それぞれのところで回っているものをいかにして、位相を合わせるかです。

著者の思い

 本を見ていると、著者の思いがいかに正しいのか、そして、いかに伝わらないのか、という気がします。

 チェムスキーにしても、ずっと、正当なことを言っている。だけど、アメリカ社会は変わらない。相変わらず、核を持ち、戦争をしています。自分が引けば済むことなのに、余分な干渉をしています。その上で疲弊していくのでしょう。その通りになっているのに、それを信用しない。
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スニーカー世界のツイッターとハッシュタグ(#)

『スニーカー文化論』より ソーシャルメディアと「スニーカーゲーム」

現在、全米、全世界をにぎわしている無料ソーシャルメディアツールが、マイクロブロギングサービスを提供する「ツイッター」だ。アメリカのツイッター社が開発し、2006年にサービスを開始した。縮小版ブログのような機能を持ち合わせ、英語では最高140字まで書き込める。短いメッセージをリアルタイムで固定端末やスマートフォンで受送信できるといった仕組みだ。

有名スニーカーデザイナーから、個人のマニアやコレクター、業界誌の編集者やジャーナリストまで、スニーカーの世界に関係している多くの人たちがツイッターを利用している。フランスのアナリストグループ、セミオキャスト社の12年8月の調査報告によれば、現在のツイッター登録利用者数は5億人を超えている。そのうち、最も多いのがアメリカで全体利用者数の27」6%、次いでブラジルが8%、3位が日本で6・7%を占める。

登録しなくても誰のツイッターでものぞけるが(プライベート設定をしていない場合)、登録すると自分のツイッターアカウントに登録した相手の書き込みが入ってくる。入ってくると同時に音が鴫るように設定しておけば、瞬間的にわかる。受け手がそれに返事をしたければ、直後に返事を送信できる。

大手スニーカーメーカーが「来週金曜日に新しいスニーカーをリリース」と書いて、写真やそのリンクを貼ることもできる。このように短い情報を簡単に流すことが可能。同ツイッターの登録者は皆、このメッセージを受信できると同時に、すぐに返事やコメントを送信。ブログや通常のメールより早急にコミュニケーションをするわけだ。

たとえば、アカウント名「スニーカーホリックス」が、遊び心で「スニーカー狂になる兆候は?」とツイッターで質問すると、それを読んだ人たちが次々とそれに対して数秒・数分単位で返事をする。

「汚れたり、特別なイベントがあったりなど、何かあるかわからないから、車の中に数足置いてある」「ジョーダン、ダンクスにシワがよらない方法を探す」「ダンスクラブに行っても、スニーカーにシワがよるかもしれないから踊らない」「クローゼットに箱が全部入らないから、部屋に積み上げる」「一目見ただけでブランド名と品名を言える」「スニーカー用の歯ブラシを持っている」「レトロ版が発売されると2足買う。I足は履くために、もう1足はもしも何かあった時のために」などである。ツイッターを通じて、会話で遊ぶ感覚だ。スマートフォンさえあれば、1人でいても、一般人でも、何十人、何百人、何干人との会話が可能なのだ。

真横にいる人間と会話をするより、ネット上の顔が見えない人間とコミュニケーションするほうが楽しいようだ。

その時に「#○○」というように、「#」で始まる(ッシュタグというマークをツイッター文章に入れると、検索エンジンにひっかかるようになる。英数文字で構成される文字列の前にこの記号を付ける。これによって、同じテーマなどに興味がある他のツイッター利用者を簡単に探せるわけだ。

特に男性ファッションマニアの間で、この「(ッシュタグ現象」が起きている。彼らは、ffmenswear (#メンズウェア)と書き込む集団だ。この言葉を入れてツイッターする者同士が、1つのコミュ三アィになっている。ファッションに興味があるおしゃれな男性のスタイルを追っている人たちが、ツイッター上で広範囲に情報交換している。メトロセクシャルという言葉が出現し、個性的な自分のファッションにこだわる男性が増えてきた。

ツイッターのフォロワーの数も自慢材料の1つだ。レディー・方方のような有名芸能人のツイッターは3000万人近く、元ビートルズのポールーマッカートニーは約100万人のフォロワーがいる(12年10月現在)。フォロワーの数が人気の尺度ともなる。有名人のツイッターにコメントを書き込み、返事をもらって「×××が僕のコメントに返事くれたと、再度ツイードし、大喜びしているファンもいる。

これまで一定の距離感を保っていた有名人と一般大衆の距離が、ソーシャルメディアの出現で一気に近くなった。ソーシャルメディアを通じて間接的にしか接触できなかった有名人と直接会話をすることが可能になったのだ。
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