日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

Yナンバー車

2020年02月19日 | 地域

 車関係の仕事をしている人の「お気づきかと思いますが、駅前や市内を歩く外国人の人が多くなりました。そして市内を走る『Y』ナンバー登録車が急増しています」という文を目にした。米軍岩国基地への艦載機移駐完了後の市内の一面を短く表されている。Yナンバー車とは米軍人、軍属が個人的に所有する普通車で「A]は軽自動車。

 Yナンバー車を運転する人は日本の公安委員会発行の運転免許証は所持していない、 ということを聞いている。したがって道交法に定める安全運転については疎い部分があると思い、Yナンバーに出会うと、ヒヤリとしたこともあり道路状況によっては緊張する時がある。そんな一例。

 写真の道路は片側1車線、写真の奥から手前に伸びる車道(上り車線)は直進という標識も道路標示もある(薄くなっている)。どちらの車線も車が途絶えるなんてめったにないことだろうと思いながら、歩道を歩いていた。その時、1台の車が坂を下ってきて右折して走り去った。「なんだ」と思いながら見るとYナンバーだった。同じ場所で左折したYナンバーに出くわしヒヤリとしたことがある。

 T字路で向かいの信号は赤、ということは右左折禁止なので私は左折レーンで止まった。追走してきた来た車は右折レーンから止まらずに右へ曲がり走り去った。これもYナンバーだった。彼らは日本の道交法をどう学び理解しているか分からないから気になる。私の数少ない危険例ではあるが事故に遭ってからでは遅い、Yナンバー車への道交法の教育を望むとともに我が運転も安全を心掛ける。
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雪便りに思う

2020年02月18日 | 自然 季節

 市内北部に住む知人のフェイスブックに「しっかり積もりました」と庭の雪景色がアップされた。手入れされた立派な庭に雪、この季節ならでは見れる光景、今冬初めてという。なんだか植木を含む庭全体が喜んでいるように見えるのは思い過ごしか。出先で出会った知人が「きのう萩から帰るのに峠は雪だった」と言いながら初雪を見たと喜んでいた。

 そういえば昨日は市街地でも風花が見られた。風雪や強風、雷の注意報などが絡み合って荒れ模様だったが期待した雪は見られなかった。山陰地方では一晩で数十㌢近くの積雪になった地域もある。「暖冬と雪遅れで冬の準備が出来ていなかった」と話す人の顔は笑顔。雪が訪れたことにほっとしている様子が見れた。

 明日は二十四節気の雨水。雪が雨に変わり雪どけが始まるころで、草木も芽を出し始め、農家は農作業の準備を始めるころという。そんなことで雨水を過ぎると徐々に陽ざしを感じるというが、ここに来ての寒さ冷たさ、やっと冬を実感させてくれた。小学校の昼休み、寒さなど跳ねのける児童らの声に熱気を感じる。

 子どものころには裏山の斜面で箱そりに乗って遊んだ。今なら樹脂製で滑りもいいだろうが、当時は木箱の下に竹を割って作ったそりを付けた物で、子どもの共同製作だった。そのくらい積雪もあったが、気候は大きく変化した。暖冬は過ごしやすい、そう感じながらいつか日本の四季は消えるのではないか、そんな心配をしながら雪の写真を見ている。
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旧制岩国中学校の正門

2020年02月17日 | 町かど

 この絵は旧制岩国中学校の正門である。明治12年錦見小学校に設置された変則中学校が本校の前身といわれる。明治13年に県立となっているがその頃は尋常科3年、高等科2年の構成であった。明治19年以後も制度上多くの変遷があり、同33年より独立して岩国中学校となる。卒業生は明治、大正、昭和の三代にわたり多くのすぐれた人物を輩出している。

 地元の防長新報(現在は廃刊)に連載の「岩国今昔」は市内の建築構造物などを絵と記事で115回掲載された。前の文章と写真は「旧制岩国中学校の正門」(昭和62年3月15日掲載)をお借りした。足跡から冬の正門付近とわかる。昭和23年4月学制改革で岩国高等学校になる。昭和43年に川西の新校舎へ移転するまでこの姿だった。跡地は公園に変わったが大きな石の門柱は残っている。

 唐突に母校でもない学校のことを書いたのは、それはいい光景に出会ったことによる。暖冬でもその日は寒い日だった。散歩で通りかかったとき「ここにあった高校を卒業した」、石の元門柱を指さして話す旅行者がいた。私と歳の差はないように感じたが、孫息子くらいの連れは頷きながら聞いていた。見たのはそれだけだが、その姿に母校への懐かしい思いが感じられた。

 現役のとき千葉へ転勤の話しはあったが、プロジェクトの中止により取りやめになった。そのため幸か不幸かは分からないが生れた地を離れたことがない。そんなことから学校の門柱を指し懐かしむような感覚は育っておらず、見かけた光景に「いいなあ」と感じたのだと思う。故郷は遠きにありて思うもの、そんな一節が浮かんだ。
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投稿を力に

2020年02月16日 | エッセイサロン
2020年02月16日 毎日新聞「はがき随筆」掲載

 「岩国エッセイサロン」の最終月例会が開かれ、14年間の活動に幕が下りた。また、同人誌「花水木」も終刊になった。私はエッセイを書き、投稿し、自己研鑽を図るとした会の目的を胸に刻み、歩んできた。

 忘れられないのは初投稿初掲載の「彼岸花のころ」。胸に思っていたことを252字にした。それが載ったことでつかえが消えた。そのことで投稿の力を知り、勇気づき書き続けた。載らない焦りも書こうという意欲に変えられるようになった。

 同人皆さんに感謝し、学んだことをこれからもしっかり生かし、書いて投稿を続ける。
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キャッシュレス

2020年02月15日 | 社会 政治

 消費税の8%から10%の増税にともなって始まったキャッスレス決済での5%還元、昨年の10月からオリンピック開催直前の6月まで続く。面白いデーターを目にした。還元金額は当初の3倍にもなるというから、いい加減なものだ。利用年齢は60歳を超えると急な右下がり。年収による利用は高額所得者が高く所得が下がるほど利用者が減少する。制度の恩恵は高額所得者にある。

 年金だけの高齢者には恩恵が薄いことになる。多少の貯えに、たまには文化的な集いに、季節の味わいに、ときには新しい衣服を、等など手元の残高を確認しながら生活する。これは人に迷惑をかけないという年齢から生まれる知恵といえる。こうした控えめな生活になるもうひとつの要因がある。

 それは日本の政治。通常国会は開会中だが、そのTV中継を見よう、記事を読もうというためには相当な努力をしないと行動に移れない。これは今国会で始まったことではない。文書の改竄、隠蔽、破棄、それらに対する高級官僚の忖度が耳目を覆うようになってからひどくなったと感じる。それは国の先行きに信頼がおけないことにある。

 キャシュレスポイント還元加盟店は現在全国で101万店という。近くのシャッター通りでは恩恵を被る店舗はない。使い慣れたクレジットカードを便利に使っている。やがてキャシュレスの世界になるという。「ちかぢか折りたたみの携帯電話は使えなくなる。スマホを持たんと生きていけんのかね」、高齢者の深刻な悩みの一つに違いない。手品ではなく、ほんとに現金の消えるという世がやってくる、そう遠くないだろう。
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ついのすみか

2020年02月14日 | エッセイサロン
2020年02月14日 中国新聞セレクト「ひといき」掲載


 ついのすみかはこの春で25年がたつが、忘れられないことが幾つもある。
 棟上げの後、程なくして阪神大震災があった。この地も大きく揺れた。急いで現場へ走り、異常がないのを確認した。引っ越しの日には地下鉄サリン事件が発生した。相次ぐ重大事にわが家の先行きを本気で案じていた。

 土地を探したのは家を建てると決めてからだった。私は卒業した小学校区内にこだわり、足踏み状態が続いた。ある日、仕事から帰ると妻が「見て」と1枚の紙を差し出した。折り込みチラシの裏に、フリーハンドで間取りを描いていた。
 「土地が決まらないのに」と思いつつも、準備することに異存はない。妻の案は増え続け、真剣さに押された。それでI冊の方眼紙を渡して柱や戸、壁の表し方などを教えた。

 妻が方眼紙に描く間取り図は、次第にチラシの裏のものより進化していった。やがてちょっとした図面になった。ただ、いずれの案も仏壇の位置が家の中心だった。妻の望む家の姿からわが家に必要な部屋、その配置が何となく決まっていくようだった。

 土地が決まって、設計士は打ち合わせに入ると、妻の間取り図を見て「参考にします」と受け取った。
 私は勤めの帰り、遅くなっても建築現場に立ち寄って進捗状況を確認した。妻は毎日、方眼紙の図がどう変わっていくか、報告を楽しみに待っていた。

 母校の小学校から徒歩5分。満足している。
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意味深長なチョコ

2020年02月13日 | 生活・ニュース

 よく買い物に行くスーパー、そこで季節的な風習や遊び事に気づくことがある。中元や歳暮などは出費もあり気にかけているが、例えば今はバレンタインデー、明日がその日になる。日ごろ菓子棚で見かけるチョコとは大違いのパッケージが、特設売り場に並ぶ。

 特設売り場には東京〇〇屋、神戸△△店など常設の菓子棚では見かけない商品も多数並び購買意欲をそそっている。何れもこの日のために考案された商品だろうが、こうした物に疎い者は迷うし、その説明はカタカナかアルファベット、CMを見ていないことがばれる。味を試すコーナーが欲しい。

 退職するとこうしたチョコには縁遠くなったが、20年前までは特設コーナーのお世話になった。品定めは家内まかせだったが、楽しんで選んでいたように思う。職場で手渡すときは私から、ということになる。典型的な義理チョコだろうが、それを口にすることなく楽しんだことは遠い思い出になった。

 一足早く、手紙と一緒に届いたチョコ、ケースの裏側に「送った相手ときっかけが出来る」と何やら意味深長な文が金色で印刷されているが手紙の文面にはそんな気配なし。隠された特別の意味があるようなチョコ、若い人なら喜ぶだろう。これは深い味わいのあるチョコに違いない、ウイスキーのお供にしよう。
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自分史作成の講座

2020年02月12日 | 岩国時遊塾

 知の巨人と言われる立花 隆氏は自分史についてこんなことを言っている。「単なるプライベートな身辺雑記的自分史でなく、同時代史の流れの中に、自分を置いてみる。平均寿命は世界一、定年を人生の中間点くらいに考え、セカンドステージへの出発点地点とする。自分という人間と、自分が生きた時代、というものが不即不離の関係にあることをなにかにつけて認識する」。

 現在、定年を無事迎えた高齢者の多くは、産学官連携で高度成長に関わる時代に日本産業の発展に尽くして来たことを口には出さないが、自負心を持っている。その時代背景、そこでの自身の働き方や自分の生き方、人生などを書き残す、これが不即不離の姿ではなかろうか。

 そんな自分史を書き、それを1冊の本にしよう、という講座案内が中央公民館に掲示されている。案内には「誰でも一生に一冊の本を作ることができるといいます。それが自分史です。『自分の過去を検証し、これからの生き方を探る手段』ともいえます。そんな自分史を、あなたも作ってみませんか」と呼びかけている。

 絵画、短歌、川柳、書道、生け花、陶芸等など公民館掲示板では何十もの会が参加を呼びかけている。そんななかで、本を作ろうというのは初めてと思う。自分だけの1冊、それも自分史となれば貴重な史料となる。書く途中で思わぬ発見があるかもしれない、自分の力を再認識するかもしれない、そんな夢と期待が持てる。
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マスクは今 2

2020年02月11日 | 社会 政治

 報道では横浜港に留められているクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で、新型コロナウイルスの検査をした439人のうち135人の感染が判明し、拡大が止まらない事態になっている。船内に残る3千人余の乗客・乗員らの不安は船内との通話で感じる。感染拡大防止へ向けた関係者の知恵を期待する。

 思い出せばクルーズ船が入港してまもなく、感染の広がりが報道される前だった。ある店で「マスクは一人2箱まで」と販売制限を周知する様子を見かけた。それはマスク不足が大々的に報道される前だった。今思えば「機に臨み変に応ず」というが、マスク不足になることを直感した人は行動していたことになる。

 私はマスクを常時セカンドバックに入れて持ち歩いてもう何年になるだろうか。ある日外出先へ「急いで病院へ来て欲しい」という連絡を受けた。受付でマスク着用を指示されたが持ち合わせはない。売店で購入し着用、それから用件を済ませた。いつどこで、自分を含めて必要になるかしれない、そう思いバックに入れておくようになった。

 報道では国内で販売されているマスクの多くが輸入品という。今回の不足を受け各国で増産されているが、中国やインドでは、自国対応で輸出禁止処置も図られていると報道がある。インバウンド歓迎で経済活性化を図ろうとするが、万にひとつのことも考慮しておかないと人命に関わる。日本は物づくり第一で景気を取り戻して欲しい。
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ストアが建つ

2020年02月10日 | 町かど

 この更地の一角には岩国警察署があった。場所は錦帯橋から数百㍍下流に架かる臥龍橋の岩国側たもと。記憶に有るのは昭和11(1936)年12月に完成した鉄筋コンクリート3階建て二代目の建物。思えば無線用なのか鉄塔が建っていた。署内に入ったことがある。小学校での社会科の見学、登校中に臥龍橋下に浮いていた遺体発見、取得物の届は記憶にあるが、面倒をかけたことはない。市の中心が麻里布地区に移り昭和36年にその任を終え移転した。

 隣接して義済堂の大きな倉庫が建っていた。義済堂は、廃藩置県など政治体制の変化で、藩士の中には職がなく、路頭に迷う者が多くなった。これを救済するため。岩国藩主吉川公からの救援金をえて発足した事業所。「義によって済度する事業所」という意味から義済堂と名付けられたという。後に織物でその名を知られた。

 警察署、義済堂が立ち退きその跡に直近では遊技場が開店した。白壁に囲まれた敷地に遊技場とは思えない外観の建物が完成した。そのことを裏付けるかのように、観光バスは「ここは遊技場です」と案内したという噂を聞いたが、例えとしてはうなずける。当初は繁盛していたが、ある日から「本日休業」の立看が何カ月もたち続けたが解体撤去され写真のような更地になった。

 この地区はスーパーが消え買物難民となっている。更地となった地に、ある薬品会社系のドラッグストアー建設の工事が始まった。市内にも何店かあり拡大している。情報不足だが、他地域の折り込みを見ると、難民として最も望む食品系がどうなのだろうか、と気にしている。地域が生き返れる店になって欲しい、近所の人と話している。
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