日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

焼きイモの味

2013年11月20日 | 生活・ニュース


 先日、訪ねた家の庭で剪定で切り落とした枝を炊きながら暖をとった。久しぶりのたき火に同年輩の輩の話は、幼いころのたき火から焼きイモの思い出になった。すると家の主がアルミ箔に包んだサツマ芋をたき火に投げ込む。思わぬご馳走に、この後に控えている秋尽くしの料理のあることを一時、忘れさせた。

 「アッツアッツ」と焼きイモを口にしながら久しぶりの童心に返る。食べながら戦後のイモ生活も話題になる。今、町中ではたき火はできないから、こうした焼きイモを食べることはかなわない。道の駅で石焼イモの車に並んで待つ人の光景を見るが、時代は変わっても焼きイモは誰にも好かれているようだ。ただ、腹の足しにしたころのイモと、スイーツ(この言葉には疑問も多いが)風に口にするイモとでは、有難さや味が大きく違うだろう。

 若い方のブログにサツマイモを使った「スイーツ」が載っているのを見かける。そこには独自の工夫した内容と仕上がりの美味そうな姿がある。サツマイモに対し持っている戦前戦中人間の食としてのイメージはどこにも感じない。おそらくサツマイモはスイーツの原料、くらいの感覚だろうと勝手に思う。

 ふかしイモを薄片に切りそれを天日干しで乾燥させる。乾くと飴色の硬いせんべいのようになり保存ができた。この干しイモは噛めばふかしイモとは違った甘みがあり、子どものころの間食だった。祖母は「これはお天道様の恵み」といいながら包丁を使っていたことを思い出す。干すときは子ども手の届かないところに置き、完成まで手を触れさせなかった。懐かしい干しイモを作ってみよう。


 
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あれから50年

2013年11月19日 | 回想


 1963(昭和38)年11月23日、この日の朝、日米間初の宇宙中継(当時は衛星中継とは呼ばなかった)が行われた。当時、3交替勤務をしていた。自家用車の時代にはなっておらず、列車やバスを通勤に使っていた。夜勤を終えての帰りのバス車中は中継の話で持ち切り、岩国駅でバスを降り待合室のテレビ下に急いだ。

 映し出されたアメリカからの映像は、大統領から日本国民へのメッセージでなく「ケネディ米大統領暗殺」という衝撃的なニュースであった。 当時の報道のあらましはこうだ。米国大統領ジョン・F・ケネディ(JFK)は、テキサス州ダラス空港からオープンカーで市内の演説会場に向かう途中、何者かに狙撃され病院に運ばれたが30分後に死亡した。事件がおきたのは、アメリカ東部標準時間(EST)午後1時30分、日本時間では23日(土)午前3時30分のことであった。

 当時、宇宙中継を受信する電波は、米国で灯った電球の熱を日本で感じ取るほどの超微弱電波を受信する技術力が必要だったという。それを完成させたのは、技術者の並々ならぬ知と努力があった。今は世界のどの地からでもリアルタイムで茶の間に映像が届く。それが当然のこととなっているが、これは技術者の支えがあったからだ。

 あれから50年。JFKの娘で知日派といわれるキャロライン・ケネディ氏が新しい「駐日アメリカ大使」として、今日、皇居で信任状捧呈式が行われた。明治生命館から皇居までは偽装馬車での送迎を選ばれた。両国関係はもとより、戦争や飢餓のない安心安全な世界構築を願って、大勢の人が沿道に並び手を振って歓迎した。

 オバマ大統領とともに、広島の平和公園に立たれることを願ってやまない。
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錦川を誇る

2013年11月18日 | 地域


 錦川は「西中国山地にある標高1,085メートルの弟見山(おととみやま)を水源とし、流域面積は広く、水量が豊富で水質もよく、流路延長110キロと山口県で一番の長さを誇る大河である。11の支流と洪水調整用の2つのダムがある。河口近くの錦川の水路は今津川が本流で、門前川は放水路の役目を果たす河川である。岩国市が誇る清流で二級河川(いわくに通になろう)」。

 錦川河口の南北には製紙や紡績、石油精製に石化などの近代産業が連なり、瀬戸内工業地帯の重要な一翼を担い、地域の振興に貢献している。これは水量豊かで水質の良さの恩恵で、人力では作り出せない環境となっている。

 その錦川には国の名勝・錦帯橋が架かっている。橋の上流方向は山が川面に映り川の色を緑に変え、清流という由来を実証しているようだ。橋上からは水の透明さで川底に遊ぶアユの姿がはっきりと見とおせる。錦帯橋をくぐった清流はその下流の瀬で一転姿を変え、激しい動きの川面に変わる。その川面に陽があたりキラキラと輝く。どちらを眺めてもいい光景に飽きない。 

 物知りという知人の話。岩国市の誇るこの錦川は清流で有名なことはよく知られている。だけど錦川という川の名前は日本でここ岩国だけ、これはあまり知られていない、と続く。由来は金糸銀糸で織りなしたような川沿いの美しい景色からそう呼ばれ始めた、という。う~ん、と思うところもあるが、郷土の貴重な自然として伝え残したい。
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落花生に学ぶ

2013年11月17日 | 生活・ニュース


 仲間内の月1度の農園作業。低く垂れこめた雨雲を気にしながら収穫と玉ねぎの植えつけをする。幸い、何とか雨にぬれずに作業は終わった。

 収穫はサツマイモ、ピーマン、なすび、ネギなどなど、夏の暑さに耐えてよく生ってくれた。そんな中で私は初めて体験したのが落花生の収穫。知識として、土中にあの皮付きのピーナツの形でできている、事は知っていたが現実に接することになった。

 一株抜く。かなりの力がいる。バリバリと音を立て土にまみれた落花生が飛び出すように顔を出す。根なのか、その伸びた先に生っている。これからが大変だった。一粒一粒をもぎ取る。種として巻いたのは1粒と聞いていたが、それからの収穫粒は何千かと思うほどあり、その個体数の増加ぶりに驚く。「地中で実を作ることからラッカセイの名前が付けられた」という。

 産地でも一粒ごと根からもぎ取るのだろうか、洗浄も乾燥は手作業、いや機械化されているだろう、などと思いながらもぐ。結構、根気のいる作業だった。それにしても繁殖のすごさに驚きながらも、作ることのいろはも知らずもぐもぐと口にしていた。たかが落花生と思わず、これからはよく噛んで味わって食べよう、それを教わった農作業でした。 
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木の腹巻

2013年11月16日 | この木


 立冬が過ぎ「西高東低の気圧配置となり、北寄りの風が吹き寒くなるでしょう」という気象情報が出始め、短かった秋は西風に追いやられた。北日本では11月としては記録的な積雪をみたという。

 立冬の日、錦帯橋から近くの吉香公園一帯にかけ松の木へコモ巻が行われる。コモ巻きは松の木の害虫駆除として江戸時代から続くという。根本から1メートルほどの位置にコモを巻きワラ縄で上下を縛る。そのとき、虫が入りやすいように上側はゆるく下側は逃げにくいように強く縛る。これで害虫はコモに閉じ込められる。啓蟄のころに取り外し害虫から松を守る。立冬の日も啓蟄の日も風物詩として報じられる。

 4昔あまり遡ったころ、ご近所のプロの方に教わり我が家の庭で1度だけコモ巻のまね事をした。径は20センチほどの小さな松だったが、それなりに趣を感じた。取り外したコモに害虫はこもっていなかったと思う。

 錦帯橋の横山側たもとに「槍倒し松(やりこかしまつ)」がある。諸国の大名が他藩の城下を通る時、行列の槍を倒すのが礼儀となっていた。大藩が小藩である岩国の城下を通る時は礼儀を守らず槍を立てたまま堂々と通った。岩国藩の武士はこれに憤慨し、大きな松の木を橋のたもとに植え、槍を倒さないと通れないようにした(いわくに通になろう参照)。

 その松のコモ姿を撮っていたら「木が腹巻をしている」という子どもの声が聞こえた。その新しい表現に思わず手を打った。そして頂こう、と決めた。
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押し迫ってくる

2013年11月15日 | 生活・ニュース


 今朝、袴をはいて母親に手を引かれて鳥居をくぐる姿を見た。七五三の日。これは数えで7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男である徳川徳松の健康を祈って始まったという。その日は1681(天和元)年の11月15日だと残っている。

 孫娘の3歳と7歳の時の記念写真、スタジオでプロの手によるそれは我が孫かと驚いた。ポーズ、衣装、ヘアーなど、一介のサラリーマンの子には見えない。しかし、それが今風のことで、驚くことはないという。写真のあどけない笑顔を見ながら素直に育つことを願った。いま、高校入試を目指して頑張っている。戦争前後子どもの多かった我が家では七五三の記憶は思い出せない。

 こうしてみるとこと今年も残りひと月半、行きつけのスーパーに広い歳暮用のコーナーが設けられていた。早期予約で大幅割引の特典もあるようだが、受付用の椅子は空席が多かった。まだ出足は鈍そうだ。ホームセンターにも迎春用の苗が並ぶ。日に日に年末に誘われていきそうだ。

 喪中につき年賀を辞する通知が届き始めた。年1度、年賀状でご挨拶するだけの人のご不幸は、はがきで知ることになる。先日、欠礼はしますが年賀状は待っております、とはがきを出した人の投稿で読んだ。私が受け取ったらどうするだろう、まだ答えは出していない。

 亡くなった島倉千代子さんに「歌姫はりんどう峠を越えて逝く」。これは同好会会員の作で新聞に掲載された。例会で紹介され、歌の好きな会員が「りんどう峠」の一節を披露、歌姫を偲んだ。
 

   
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ドライフルーツの縁

2013年11月14日 | 生活・ニュース


 散歩で見かける柿の木には実が鈴生り、噂通りの豊作のようだ。すでに熟して落ち、気の毒な姿に変わった実もあるが、大方は秋の陽を受けている。

 そんなことかどうかはわからないが、渋柿をいただいた。その届いたタイミングに不思議な縁を感じる。干し柿を題材にした「ドライフルーツ」というエッセイを新聞の「はがき随筆」欄に投稿したのは先月の後半だった。それが先日、掲載された。それを見計らったかのように渋柿が届いた。届けてくれた人はそんな事情はまったくご存じない。

 干し柿を作るのは何十年ぶりだろう。といっても自分では何もしなかった。外出から帰ったときに家内の手で干せる状態になっていたいた。秋日和の続くことを願いながらベランダの軒下に吊り下げた。

 食べごろが近づいたころスパーで干し柿の値段を見た。1個150円から80円までと幅広、最高値のそれは柔らかそうでちょっと気取ったケース入り。楽しみに待った20数個の干し柿が食べごろになった。表面が少し硬くなり始めた頃が好みの仕上がり。まずはお仏壇に。
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駐車場あれこれ

2013年11月13日 | 回想


 車椅子使用の知人を含む数人で九州を車で旅行した時に、いろんな駐車場を利用した。その時、身障者用駐車スペースは意外に少ないことに気づいた。何度も一般の駐車スペースに停め車椅子を上げ下ろしした。隣の車に気を使いながら、そして安全に済ませるには苦労した。

 トイレそばの身障者用駐車スペースを利用したときのこと。「このマークががトイレのそばにあると大変助かります」と車椅子に似た「障害者のための国際シンボルマーク」を指しながら年配の男性が話された。シンボルマークは身障者のためのスペースとは知っているが、それが広い駐車場のどこにあるかも大切な条件だと知った。また、普段気づかない、そうした方の苦悩の一つも知った。健常者は車椅子マークのスペースに決して停めてはいけない。

 何年か前、夜間の病院有料駐車場で、左側全面体をバンパーで前から後ろまで思いっきり押し付けてこすったような被害にあった。夜間であり運転席側でないことから、指摘されるまで気づかなかった。結局、車を買い替えた。こんな経験から、駐車場を利用するときは、便利で広めのスペースに停めたいといつも思っている。特に初めての場所では様子見を兼ねてぐるりすることもある。

 観光地には欠かせない駐車場。錦帯橋下流には天然の川原駐車場がある。サクラの季節には入場を待つ車で付近は渋滞する。もしも川原がなかったら、天然の施設を大切にしなければと、通りながら広い川原を見下ろす。そこに石灰の白も鮮やかな車椅子に似た身障者用のスペースが確保されいる。出入口には近いが、トイレには少し距離があるのが気がかり、少し余裕をもって利用して下さい。 
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干支の午試作

2013年11月12日 | 陶芸


 誘われて入会した陶芸の会。楽しんでいるうちにこの暮れで満6年が過ぎる。そこは同世代のメンバー30人ほど、月2回、楽しみながら思い思いの作品作りをしている。作品について制作の記録を几帳面に残されている方の作品は、そうでない私の何倍もの見栄えのする姿や色合となっている。その日に粘土をこねながら何を作るか思案するようでは作品にはならない。

 これまで記憶に残っている作品はと問われると、初期のころの何点か。そこで、ここ何回かは作品に挑戦せず、器の厚さを薄くしながら成形することを、指導を受けながら復習している。まだ、ある厚さより薄くなると形が崩れる。芯出しだが確かでないことが原因のひとつ、とわかっているが、難しい。頑張る、努力、練習しかない。

 毎年、最後の作品は干支でこれまで丑・寅・卯・辰・巳を作った。これも形など構想を持って挑戦したのでなく、粘土に触りながら思いついた形だった。6個目となる来年の午は、反省を生かし、準備した形の作品にしよう、と、30数年も前に買ったレタリング集を繰りながら図を描いた。今、平面図を3Dプリンターにかければ立体造形となる時代だが、それでは陶芸にならない。

 紙粘土を購入、それと図を眺めながらどう立体形の午にするか思案。思案だけでは形にならずと工夫すること30分、イメージした形に何とかなった。しかし、戌にも似ている感じだ。乾燥を待って、黒色で全体の縁取り、顔や飾りを描き午の字を中央にアレンジした。戌の感じは消え午らしく見えると自賛。本番での注意点も何点か掴んだ。次は粘土と相性よく取り組もう。
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シラサギは

2013年11月11日 | 自然 季節


 シラサギが10数羽、錦帯橋すぐ下流の瀬にいる。これだけ群れているのは初めて目にする光景。これは絵ならぬ写真になる、と思うがそばに近づくには時間がない。手持ちのカメラを目いっぱアップにして撮る。古い人間でしょうか、撮りながらあの歌が浮かんだ。

      「白鷺は 小首かしげて 水の中 
           わたしと おまえは エー それそれ そじゃないか
                         アア チイチク パアチク 深い仲」

 シラサギが多数集まっての営巣地を見たことがある。そこは市街地と接する小山、見上げれば営巣の様子がはっきりわかり、こんな近場でと驚いた。そんなシラサギだからか、婦人帽の飾り羽として高価に売買されるなどして、絶滅に近い状態になった時代があったという。採集が禁じられ、今は普通に見れるようになってよかった。

 ここ錦川にはあの漁協の人もいらつく川鵜がいる。錦帯橋から1キロほど下流にその営巣の竹林がある。アユ魚の最盛期に川鵜の集団が水中にいるのを見た。長い時間の潜りからして、鵜飼のように飲み込を邪魔されることなく食しているのがわかる。鵜飼の鵜は海鵜で違いはあるが。

 シラサギは水面下の魚を巧みに捕える。ゆっくろ水面を乱すことなく狙った餌魚に近づき、一瞬の早業で口ばしでくわえあげる。そんな漁獲技を我が家の池で披露され、鯉が全滅したことがある。勿論のこと追い払った。シラサギもどこに登場するかで喜ばれたり好かれたり、はたまた追われたりと、人の世となんとなく似ていると思い苦笑する。
 
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