日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

出張講座

2007年06月19日 | パソコン講座


M町のご婦人仲間から「パソコン講座」開催の依頼を受けたのは、4月の終りころだった。講座の希望内容に沿ったテキストの作成を終え、昨日と今日の2日間開催した。
会場は、錦帯橋から錦川上流へ40分、静かな落ち着いた環境の中にあるコミュニティーセンターの講座室。

2日間で8時間の講師を務めた。ほかに5人のスッタフが、15人の受講者へ目を配り、講座へ遅れないようサポートする。当会独自の方式で受講者を支援する。受講者は70歳代の方が複数、大半が60歳代だったが、その受講姿勢は年齢を超えた高い意欲が伝わった。

休憩時間は、よく知る地域の方たちのためなごやかだった。講師も話の中へ入ったり、パソコンについての質問なりで休憩時間もオーバーになった。

インターンネットの基盤整備が遅れていることをあらためて教えられた。中山間地ほど急がねばならない施策なのだが、進んでいない。

沢山の要望と講座の改善点などとともに、引き続いて講座開催の希望をいいただけるなどのお土産を貰った。いい2日間だった。
(写真は休憩時間のリラックスした様子)
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おじいちゃん新聞

2007年06月18日 | 生活・ニュース


錦川沿いを車で40分ほど上流、市内M町でのパソコン講座。ご婦人ばかりのグループ15人、講座前の賑やかさは、開講と共に消えていった。午前午後休憩を挟んで4時間、皆さん熱心に受講してもらえた。

帰宅したら、京都に居る孫から「おじいちゃんへ」という封書が届いていた。最近はメール連絡が多かったので急いで開いた。
中味は丁寧に折りたたんだ『おじいちゃん新聞』の第1号が入っていた。それはひさぶりに見る孫の自筆だった。

「おじいちゃんが作っている新聞をまねしたんだ~。次回はおじいちゃんの誕生日へんだね☆お楽しみに」、新聞作りの動機と次号の予告を初めに書いていた。

毎月孫の名前を付けた新聞を作り、70号が超えたことはこのブログでも紹介した。それを真似て作った、という。グッときた。素直に嬉しかった。下段に、自画像なのか、女の子の絵が構図よく入られ、家族の状況は囲みの中へ書いている。
夏休みに会えるのが楽しみです、最後の1行をこのように書いて終わっていた。

細字で書いた題字を、白地紋抜きで囲んでいる。なかなかのセンスはジジ譲りか、などと思いながら何度も繰返し読んだ。
1度も望んだことは無い。驚く形で突然手にした新聞。大切に残しておく。孫の机に向かう姿勢が目に浮かぶ。

嫁から家内へ届いたメール。夏休みの帰省は8月の中旬初めですと知らせてきた。新聞の終りの1行「夏休みに会えるのが楽しみです」、それは孫の顔が見たい年寄り夫婦もおなじ。
パソコン講座、4時間の講師疲れは霧散した。
(写真はおじいちゃん新聞の題字部分)
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内緒の事前連絡

2007年06月17日 | 生活・ニュース


父の日。どのお店も父やファザーの文字が目に付く、忙しそうだ。

アメリカでは1908年に母の日ができた。ある婦人が、教会で母の日の話を聞きながら、父の日もあるべきでは、と牧師教会に嘆願した。南北戦争さなか、彼女の母は、軍人だった父に代わり、彼女と5人の兄弟の生活を支えてきた。戦争が終り父親は帰ってきた。が、母親はすっかり体を壊し亡くなった。父はあらゆる犠牲を払い、働き、必死で6人の子供を育てた。父の苦難を知っている末っ子だった彼女は、父の日を訴えたという。

1916年父の日が認知されるようになり、1972年アメリカでは国民の祝日となった。『父親を尊敬し、称え祝う日』それが父の日なのです。
その前、1926年、ナショナル ファザーズ デイ委員会が組織され活動はされていた。父の日にも長い歴史はあった。日本では、1950年ころから認識され始めたそうだが、全く記憶にない。

お昼前「宅配です」と荷物が届いた。もしや、少し期待しながら玄関へ。思ったとおり京都に住む息子夫婦からだった。今年も銘酒のセットが届いた。ラベルに我が名前が記されていた。嬉しそうに眺めていたら家内がこれも嬉しそうに話し始めた。

「おばあちゃん、おじいちゃんには内緒にしておいてね。父の日のプレゼントに、おじいちゃんのビックリするする物を送ったから」と数日前に、ささやくよな声で孫から電話があったという。その約束どおりじじは知らぬままだった。

孫へは、ビックリしたと、写真つきの携帯メールを送った。
自分では父の日に贈り物をした覚えが無い。結婚してから母の日には家内が見繕って送っていたが、20年前それも途絶えた。

「父の日の存在感を高めるということは、良き家庭をつくることであり、時代を担う素晴らしい子供たちを育てるでしょう」として、日本ファーザーズ・ディ委員会という団体がある。昨今のTV、父親は皆ダメという内容が多い。この考え方を変えてとエールを送る。

いつ開栓しようか、家内に聞いてみた。夕食後運転がある、晩酌は明日まで待とう。
(写真は賞味が明日に延びた銘酒セット)
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新聞創りから

2007年06月16日 | 生活・ニュース


3ヵ月前、新聞へ載った私の投書が縁で、同じ市内の3児の母であるNさんが訪ねてきた。

投書は、毎月作る孫の名前を付けた新聞が70号になった、その経緯や希望を綴った500字ほどの内容だった。それを読まれたNさんは、インターネットを駆使、我家へたどり着いた。熱心さに驚いた。理由は、家族新聞を作っている人、その1点だった。

その日「新聞作りは初めて、第1号です」と持参した2種類の新聞を開いた。学校新聞の発行などで少しは「新聞作り」に関心は持っていたが、素人作成の第1号とは思えない出来栄えに、ただ驚いただけだった。

よく見、話を聞くうちに思い出した。
私は、ある新聞社のブログを、その開設時から訪問している。そのブログの中で、面坦といわれるプロの新聞屋さんから、賞賛されたことのある新聞だった。そのときは、うまく作ってあると思うだけで、誰が作った、そこまでは関心を持たなかった。その作成者が訪ねてきたNさんだった。
最後に先達の話しを紹介した。「2号が出来たら続いていくそうです」と。

その2号が出来たました、と来宅。
苦労話を聞きながら目を通した。B4版6段で片面の新聞は、取材した内容と写真がバランスよく配置されていた。市内のある施設の子供たちが、力強く生活する姿を、愛情もって書かれた内容だった。多くの人に、子供たちへ目を向けて欲しい、そんな願いも伝わる力作だった。

お土産に「祝.結婚40年」と銘打ったケーキを貰った。結婚記念のケーキ、何年振りかも記憶に無い、そんな嬉しい品だった。早速口へ。和菓子好きの口だが、うまい、と一気にいただいた。Nさんは、新聞に載った私の随筆で結婚40年を知り、お祝いをしてくれたのだった。家内とも子育ての話などではずむ。

Nさんは、近々始まる、新聞社のある企画へデビューすることが告知された。重責と心配が交差していた。力まず素直な気持ちでと励ました。
(写真は思いがけない結婚記念日のお祝い)
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例会10回目

2007年06月15日 | 生活・ニュース


エッセイサロンの月例会。第7回の例会から参加し今回は第16回、丁度10回目の参加。
母親手作りの柏餅持参の方があり、イントロは1段となごやか。先日のエッセイ教室へ参加された会員外の方の作品が、昨日の毎日新聞「はがき随筆」へ掲載された、エッセイの輪が拡がった、O代表から知らされ、皆さんで喜んだ。

『毎月の毎日新聞「はがき随筆」優秀作品紹介』と『会員創作エッセイの合評会』これがメイン。作品を読みあい、感想を述べあう。特定の講師や指導者は不在。O代表のリードで進む。

作品は、ひごろ見慣れたり聞かされたり、触れたりする身近な事柄を、飾るでなく普通の言葉で書かれている。その見方や視線の位置で新しい思いが伝わってくる。

優秀作品には選者の寸評が載る。そこには新しい表現方法の発見について示唆がある。総まとめにいえば、胸打つ情感、余韻が残る、感動する、そんな表現や言葉を、短い文章のなかへ織り込む、ことだと思っている。

今日は、作品に使われた古い歌を歌う、そんな笑いの場面があり、7月は「ビアパーティ」を申し合わせて散会となった。
(写真は例会資料の一部)
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慈雨

2007年06月14日 | 生活・ニュース


「降りゃーうるさいが降らんにゃーいけんし」「それいね、畑が生き返えちょったいね」、静かに小雨が降る駐車場の空きスペースでご婦人の立ち話。買物を終えた方とこれからの2人、降るからといって食べることは止められない。

沖縄から北上してきた梅雨前線がようやく到着した。そんな気持だ。平年より8日、昨年より5日遅い梅雨入り。稲の生育と夏をすごすことには欠かせない水、この季節の雨はその恵みになる。これからのひと月あまり、じめじめした日を嫌ってはいけない。

子供のころ、梅雨の手伝いといえば薩摩芋の苗植え。
ラジオが「明日は雨でしょう」の予報流すと、祖父は薩摩芋の苗床から植付け用のつるを切り取った。翌日、そのつるを畝の上に配るのが子供の役目だった。足を開いて畝をまたぎ、その畝を手刀で堀り、なえ植えつける。子供には無理だった。収穫した芋は、すべて自家用の主食補助、勿論、おやつとしてすき腹にも入った。

この季節の川では鮎の太公望が見られる。梅雨には欠かせない情景のひとつ。水量が少なく、苔の育ちが思わしくなくて、錦川の鮎の生育状況が心配とされていたが、梅雨入りで回復してくれれば良いが。今年の鵜飼は事情がありひと月遅れで7月から始まる。鮎による賑わいが見られるよう梅雨に祈念だ。
(写真は久々の雨滴、気持ちよさそうに頬を付け合って喜ぶミニバラ)
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人工雲

2007年06月13日 | 生活・ニュース


通り抜けれるように澄んで見える空、これが青空だ。
ここに、絵でも文字でもいい、思いのたけを書けといわれたら、何をどんなにして表現するだろうか。

そんなことを思いながらのんびり歩いていた。
白い細い線がはるか上空に見えた。見慣れた飛行機雲だ。マウスで線を引くように、音のないままゆっくりと伸びてくる。

超高度を飛行する飛行機は温度の低い所を飛ぶ。すると、その後に尾を引くようにできる白い雲。人工雲だ。エンジンからからの排気ガス中の水蒸気が凝縮して出来る、と言われている。音などまったく届いてこない。

上空、風がないのか、飛行機雲は直線のまま延びてくる。その速度は超スロー。相当な高度なんだろう。いつだったか、夕暮れに見た光景を思い出した。すでに太陽は山影に隠れ、足元は暮れかかっていた。そのときの機体は陽に照らされて黄金色だった。音のないまま夕空の中へ見えなくなった。映画のシーンのようだった。

飛行機雲は、樹木や屋根など視界の障害物を越えてくる。パイロットは地上を見れるののだろうか。人は、地上で見る蟻ほどにも見えないだろう。飛行機の利用経験10数回、勝手なことを思いながら角を曲がった。視界から飛行機雲は消えた。

少雨、梅雨入りの遅れなど渇水が心配されている。人工雲で人工降雨とならないだろうか。せめてダム周辺だけでも。そうだ、今なら青空に書くのは1字だけ「雨」。
(写真は青空と飛行機雲と電線の幾何学模様)
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錦川

2007年06月12日 | 自然 季節


夜明けまえ、眠りから覚める四囲を、滑らかですべすべした川面が逆さに写す。それは、天空へ向けた鏡を覗くようだ。時おりはねる川魚の波紋は、ゆっくりと均されていき、やがて何事もなかったように、再び逆さ風景を写し始める。

砂丘の風紋に似た小さな波、これが川面をつたわると、夜明け前の光を川幅いっぱいに散乱させる。

豪雨に怒り、少雨に水幅を狭め、夏に涼を与え、いつも流域の人を見守りながら、その日の自然のままに流れている。
(写真は夜明け前の錦川、)
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自然さ

2007年06月11日 | 生活・ニュース



仲間で撮った「子供や動物」の写真を、高齢者施設へ持参し展示するグループがある。写真は勿論素人写真。モデルは子供に孫、家のペットとさまざまだ。
施設の利用者からは喜ばれている、ひ孫をあやすように子供の写真をさすり、ゆっくり話しかける方もある、と人づてに聞いた。その方は「なんだか治癒効果が感じられる」そんな感想も話されたという。

初夏でなく真夏の日照を思わせる日、噴水のしぶきが気持ちよい、と立ち止まり涼んでいた。そこへ小学低学年の子、2列に並びが賑やかに話しながらやって来た。一目で遠足と分かる。初めてやって来たのか、「ウヮー、すごい」と目の前の噴水に驚いたようす。続いて「出初式みたい」と表現した。

城郭風に積み上げられた石組み、その基から角度を違えた噴水が数条、周囲の新緑へ向けて白い放物線を描く。その先端は霧状となり、風にのったしぶきは周りへ涼を与える。子供が直感で表現した「出初式」、思わず「うまい」と同感した。これまで噴水以外の言い回しなど気づいたことはなく、子供の新鮮な感覚を改めてしらされた。

どんな名優も「子供と動物には勝てない」、よく使われる比喩のひとつだ。
「才能を発揮した」「才能に恵まれる」といったものではなく、ごく自然な振る舞いがそう言わせるのだと思う。この自然さをどこまで保ち続けられるのか、親と社会にその責任がある。

下校途中の小学生、先に「今日は」と元気な挨拶をくれた。飾り気など少しもない。子育てという務めを果たした、そう思う気楽さはあるが、声をかけてくれる小さな子達、見守ってやろう。
(写真は出初式みたい、と言い表された噴水)
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道しるべ

2007年06月10日 | 生活・ニュース


これまでとは、まるで異なる新職場。仕事も、同僚にも不満はない。導入教育も素直に受け入れられた。3ヶ月位たったころ、少しは戦力になれるかと思い始めた。一方で、なにか重しを背負っているような気持ちに気づいた。といって、重しに感じる不満を思いつかない。
こんな日々を続けてはいけない、それは強く意識していた。

答えを見つけ出せたのは偶然だった。

1人になった終業後の職場。指導を受けた復習をかね、処理できなかった仕事をしていた。ある方が「ちょっと教えて」と尋ねてきた。規則集を見ながら何とか説明できた。笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。初めての実践、ホッとしたとき、気持ちが軽くなっている、重しを感じない、そんな自分に気づいた。

その日の帰り道、夕暮れの橙色の空は今も目に残っている。

どうして気持ちが軽くなったのか、数日そのことを考えてみた。あの日、質問へ説明出来た、納得してもらった、仕事が出来た、この3つのことで気が楽になた。こんな繰返し繰返しをするうち、上辺の知識だけではない、問題に実践できる知識が要るんだ、「実践できる仕事の実力をつける」、これが自分の結論になった。

40歳直前の経験だった。そのことがあってから、仕事への積極さや発言が増えるなど、自分の変化を実感した。
悩みながら自分で見つけた分岐点、時に思いだし、迷惑をかけない高齢者生活を送りたい。
(写真は進路を決めさせる表示版)
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