盆栽の幹造りは「アルミの針金を幹に巻きゆっくりと創りたい形に曲げる」という意味の説明に合わせ実技が映された。慣れた手つきは上手く良い形に曲げられていく。司会者は「簡単ですね」と側から口出す。そうだろうかと思いながら見ていた。
桜、銀杏、紅葉など四季を楽しませてくれる樹木などは落葉し枝は木枯らしにゆれる。昨夜は十五夜、その月を背にして映す影は一つの美術のようで、朝ウオークはこんな美術の道を進んでいく。贅沢極まりない。
公園とその周辺の樹木には剪定や下草の刈取りなど人の働きがいくつか加わって育つ。樹木医の診断で切り取られた跡もいくつかある。こうした守る人のお蔭で樹木は訪れる人を楽しませ喜ばせる。
落葉したどの樹木も今は芽吹きの支度に勤しんでいる。幹からは伺えないものの、大小の枝は日を浴びようと意志があるように伸びている。そこには少し窮屈そうだが自然に伸びる枝に繕う姿はない。
「枝ぶりのいい松」という。枝のでぐあいやその格好がいいという松の褒め言葉がある。丹精こめた盆栽は分身と言われるから格別だろう。針金や添木の跡が残る盆栽は年代を思わせ、苦心を偲ばせる。
自然の樹木は要領よく上手く伸びて格好良い枝ぶりになることは問えない。とにかく強く生きることだけがその使命と伸びていく。所詮は盆栽と同じ生かされいる身だが、枝ぶりに拘らない生き方をしたい。
(写真:芽吹きに備え日を浴びる枝々)