みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

父に良いことを…

2019年08月14日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章36−46節

 近くの川のほとりに、秋の訪れを真っ先に知らせてくれる1本の木があります。この夏二度訪れた猛暑もどうやらおしまいのようで、このまま秋になって行くのかと思うとぜいたくですが、ちょっとさびしい気持ちになります。

 「みことばの光」では、マタイの福音書を比較的短く区切って読んでいきます。主イエスの十字架への道が描かれるこの辺りについてもそうです。それは、読者である私たちも主イエスの苦難の道を一緒に歩くようにとの促しのように思い、読み進めています。

 この箇所は「ゲッセマネの祈り」としてよく知られています。十字架を前にした主イエスの「悲しみのあまり死ぬほどです」ということばは、決して目の前に迫る苦しみとに怖じ気ついていることから出ているのではありません。それは「みことばの光」が書くように、罪のないお方が罪を犯した者とされる悲しみなのです。

 そして、主は父に、「できるならばこの杯を過ぎ去らせてほしい、しかし、わたしの望むようにではなく、あなたの望まれるままに…」と祈ります。ご自分の足に香油を注いだ女性について、「わたしに良いことをしてくれました」と言ったイエスのことばを思います。主イエスはここで、父なる神の前に良いことをしようと苦難の道を歩んで行かれるのです。

 一緒にいてほしい、いっしょに祈ってほしいとイエスに請われながらも、眠り込んでしまう弟子たちと自分の姿が重なります。恥じ入るばかりです。そして、感謝が込み上げます。


わたしにつまずく

2019年08月13日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章26−35節

 散歩の途中、アイス屋さん(かっこよく言うと「ジェラート・カフェ」でしょうか)に立ち寄りました。注文したものを待っていると、「日本人の方ですか」と注文を受けてくれた方が声をかけてくれました。こちらがびっくり! 聞くとベルリンの大学で学んでいて、お休みで実家に戻って来ていて、アイス屋さんでアルバイトをしているのだそうです。「お会計をお願いします」と日本語でお願いしました。ちょっと不思議な気持ち。

 ここには、イエスと弟子たちとの過越の食事、その後オリーブ山に向かう途中にイエスが「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と言われたことが記されています。

 このことばから、主イエスはご自分がこの晩ユダに手引きされた祭司長や長老たちによって捕らえられることを知っておられ、その時弟子たちがみな主を捨てて逃げてしまうことも知っておられたことがわかります。さらに、ご自分が復活して再び弟子たちに会うとまで語っておられます。

 けれども、ペテロは「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」とのことばに強く反応したようです。とくに、「みな」ということばが彼には気になったに違いありません。ですから、「たとえ皆があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と答えたのです。

 さらに、ペテロの「決意」を聞いた主イエスが、三度ご自分を知らないというとお答えになったことにたいしては、何が起こっても「知らない」などということは決してないと言い切ります。もちろん自分も含めて、人間の決意のなんともろいことかと思わせます。

 そのような者のすべてをご存じの上で、主イエスがペテロをはじめとするご自分についていこうとする一人ひとりを顧みてくださるのです。なんと慈愛に満ちたお方でしょう。


その時

2019年08月12日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章14−25節

 きのうは日本では「山の日」、月曜日は振替休日だそうですね。今ごろになると北八ヶ岳の麓(ふもと)で、毎年のようにキャンプをしていたことを思い起こします。ある時は道標を読み間違えて、いつの間に同じ道を戻っていたということもありました。

 きょうの箇所では、14節の「そのとき」ということばが心に留まりました。ベタニヤ村で、マリアが主イエスの足にナルド油を注いで髪の毛でぬぐい、部屋中にかぐわしい香りが満ちていた頃、という意味でしょうか。そんなとき、ユダは祭司長のところに行き、銀貨30枚で主イエスを裏切るのです。一方ではイエスへの愛に基づいた美しいことが行われ、もう一方ではイエスを裏切る者がいるのです。

 そしてユダが裏切ることは、この章の始めで祭司長、民の長老、そして大祭司という、当時の社会の権力者たちの企てとは違う方向に、すなわち、イエスご自身がおっしゃった「二日たつと過越の祭りになります。そして人の子は十字架につけられるために引き渡されます」ということばが実現するために、大きな一歩を踏み出したと言えます。

 過越の食事の準備をする際にも、すべてを知りすべてを治めているイエスならではのことが行われていきます。十字架への道は、当時の権力者の思惑どおりのものではなくて、神のご計画通りに開かれていくのです。


わたしの兄弟たち

2019年08月10日 | マタイの福音書

マタイの福音書 25章31−46節

 ポストに近所の教会の「新聞」とドイツ語クラスの「先生」のメモが入っていました。次の火曜日からクラスが始まるとの内容でした。私たちを忘れずに折を見て訪ねてくださるのを有り難いことだと改めて思います。この州では学校の休みは今週いっぱい。気がついてみたら、日没が少しずつ早くなっています。

 日本でも当地でも四季があり、春夏秋冬と巡りますので、このまま私たちのこの世界もぐるぐると巡り続けるように思えるときもあります。けれども、神の国の到来についてのイエスの教えの締めくくりは、最後のさばきがあるということです。

 御座に着く御子イエスの前に、すべての国々の人々が集められます。そして、御座に着いておられるお方は、羊飼いが羊とやぎをえり分けるように、人々を右と左とに分けます。これがさばきです。

 何がさばきの規準になるかというと、「わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人に」愛のわざをしたかしなかったかです。「わたしの兄弟たち」とは、主イエスの弟子のことです。弟子はイエスの代理であり、弟子にしたことはイエスにしたことなのです。弟子たちを遣わす時にイエスが話した、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」との10章40節のことばを思い出します。

 厳粛なさばきのことばを前にして、主の教会において小さな者たちが蔑まれることはないか、この世界の価値観が教会にいつの間に入り込んでいることがないだろうかと思います。さらに、この世にあって私たちを主イエスは「わたしの兄弟たち、最も小さい者たち」と見ていてくださるのだというのはまことに有り難いことだと感謝に堪えません。


預けてくださった方

2019年08月09日 | マタイの福音書

マタイの福音書 25章14−30節

 お気づきかと思いますが、このブログの写真を改めて振り返ってみますと、今の時期は青や紫の花に片寄っている感があります。これがこの時期の花の色なのだろうかと思うのですが、どうなのでしょうか。隣の庭には橙色のホオズキがたくさん。こちらではホオズキを食べるので、観賞用としてだけ育てているのではないようです。

 ここでイエスは、どのように終わりの日を待つのかについて、神から預かったものをその日が来るまで主のために用いよと教えておられます。主人からタラントを預かったしもべたちは、それぞれが5,2,1タラントずつを預かりました。預かったタラントの違いは、それぞれのしもべたちの優劣を判断するためではありません。花を写真におさめますと、二つと同じものはないのだと改めて気づきます。

 人は神からそれぞれが、豊かなものを預かっているのです。このたとえで1タラントは確かに5タラントの5分の1ですが、「みことばの光」が書くように、1タラントでも巨額なのです。神は誰にでも実は驚くほど豊かなものを預けてくださっているのだということに気づくのは、大切なことです。

 悲しいことに、神を恐れない社会は人の価値を「できるかできないか」「持っているか持っていないか」で見ています。ですから、いつも私たちは誰かと比べていいのか悪いのかと自分を評価することに慣らされてしまっているように思えます。「自分には何もない」と嘆く人が少なくありません。そんなことはない、と改めてここを読んで気づかされます。預けてくださったものを数えるのは大切ですが、それよりも、自分を見る時に預けてくださったお方から離れることがないようにと、主イエスがが語っておられるようにと、ここを読みました。


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