みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

すべてを新しく

2019年08月20日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章45−56節

 主イエスが十字架にかかり、死なれる箇所。

 イエスは十字架で七つのことばを発せられました。マタイはその中の一つ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」ということばを記しています。それが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であることも加えています。このことばは詩篇22篇のはじめにあります。これだけではなく、詩篇22篇には、イエスの十字架の出来事で成就したことばがほかにもあります。ここからも、イエスの十字架がその時の成り行きで起こってしまったのではなくて、予め備えられていた神のみこころの実現だったことを確かめることができます。

 「どうしてお見捨てになったのですか」というのは絶望の叫びのように響きます。しかしそこには、ご自分を父があえて見捨ててお助けにならないことによってのみ実現する、人の救いがかかっていました。ですから主のこの叫びは、絶望の断末魔ではなくて、みことばへの信頼に基づくものだったと受け取ることができます。詩篇22篇21節には「あなたは わたしに答えてくださいました」とあります。父は御子をここで助けないことによって、御子を助けてくださったのです。そして、私たちに救いの道を開いてくださいました。

 主イエスの死は、すべてを新しくするのだということが、エルサレムの神殿の幕が真っ二つに裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開きました。墓が開いて多くの聖なる人々のからだが生き返ったという記事をどのように説明するのかは難しいことですが、ここから言えるのは、イエスの死が人を死から贖い、生かすという確かな希望を与えるものだということです。

 「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」というコリント人への手紙第二、5章17節のことばが浮かびます。このために、神の御子が十字架の苦しみを徹底的に受け、死にご自分を明け渡されたのです。有り難い、ことです。


なすがままにされる王

2019年08月19日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章27−44節

 土曜日の午後、ドイツ語を用いて礼拝している教会、スペイン語を用いて礼拝している教会、そして日本語を用いて礼拝している教会の合同礼拝が持たれました。それぞれのことばでの祈りで始まり、一つの賛美を三つの言語で歌い、それぞれのことばで賛美をし、ドイツ語のメッセージはスペイン語と日本語に通訳され、祝祷もそれぞれの国語でささげられました。ことばの壁を越えて、キリストに会って一つなのだという思いに導かれ、印象的な礼拝でした。天の神さまの喜ぶお姿が目に浮かぶようでした。

 きょうの箇所は、イエスの十字架への最後の道をたどっています。この道は「ヴィア・ドロローサ」として覚えられています。ここを読んで、イエスがどのような仕打ちをお受けになったのかについて、動詞を拾い上げてみると、次のようになります。「脱がせ、着せた」、「頭に置き、持たせた」、「からかった」、「唾をかけ」、「頭をたたいた」、「脱がせ、…着せ、…連れ出した」、「無理やり背負わせた」、「飲ませようとした」、「十字架につけ」、「罪状書きを…頭に掲げた」、「ののしった」、「嘲った」、「ののしった」。

 主イエスは、なすがままにされているのです。この中の一つでもされたら、「何を!」とむきになるように思います。しかし主は、コレラのひどい仕打ちに何の抵抗もせず、一言の反論もせずに十字架への道をたどって行かれます。「なぜ何もなさらないのですか」と尋ねたら、イエスは何とお答えになるのでしょう。

 「…自らを低くして、死にまでも、それも十字架の死にまで従われました」というピリピ人への手紙2章8節のことばを思います。私のために…。


後悔して誰のところに…

2019年08月17日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章1−10節

 金曜日、友人を隣市まで送る際に自動車の警告音が鳴りました。サインを確認するとタイヤの空気圧が規定以下とのこと。以前にもこのサインが出て恐る恐るアウトバーンを走ったことがありました。今回も、帰り道にガソリンスタンドで空気を補充して事無きを得ました。今は、いろいろな機器に異常を知らせる装置があってありがたいです。けれども、肝心なのは警告がなされたら対応すること。放っておいたら、「後悔先に立たず」というような惨事を引き起こしかねません。

 そのようなことを思いながら、ユダについての記事を読みました。26章の終わりの部分には、イエスとの結びつきをきっぱりと否定したペテロが描かれ、本章のはじめの部分ではイエスを裏切ったユダが自分のいのちを絶ってしまうことが書かれています。ペテロはイエスを三度知らないと言った時に、イエスのことばを思い出して激しく泣きました。ユダは自分が売り渡した主イエスが死刑に定められたのを知って後悔しました。

 ある人はペテロのしたこととユダのしたことの違いが二人の行く末を別けたのだと考えますが、きょうの「みことばの光」は、後悔した時にどこに、誰のところに行ったのかの違いについて書いています。ペテロは主イエスのみもとに行き、ユダは祭司長や長老たちのところに行きました。

 罪を犯して後悔したのならば、罪を赦してくださる方、赦す力をお持ちの方のところに行くべきなのだということを、この箇所から教えられます。さて自分は、いつもそのお方のところに行っているか、それとも他のところでいい加減に始末してはいないだろうかと問われます。


嘘ではないと言う嘘

2019年08月16日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章57−75節

 この箇所の鍵語は、「嘘」ではないだろうかと、読み返しつつ思いました。大祭司カヤパをはじめユダヤ教の最高法院による取り調べは、最初からイエスを死刑にするためのものでした。人を有罪か無罪かと裁くためには、それぞれに証拠を用意するのですが、彼らは「不利な偽証を得よう」としていたのです。

 「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」との大祭司の問いに、イエスは「あなたが言ったとおりです」とお答えになります。そしてご自分からそうであることのしるしをはっきりと語られたのです。しかし主イエスは、ご自分が尋問者たちが考えていた地上の政治権力者ではないことをも明言しておられます。

 大祭司の全く理屈の通らないことばが、結局イエスは死に値するという結論へと導きました。けれども、それは主イエスが彼らの悪に屈したということではありません。「みことばの光」が書くように、これによって十字架への扉がまた一つ開かれたのであり、それを開いたのは主ご自身でした。

 ペテロも嘘を述べました。主イエスとのあれほどの結びつきをきっぱりと否定したのです。イエスを心から気づかい、イエスが捕らえられていた所までついて行ったのですから、彼がイエスを知らないはずがありません。それなのに、周りの圧力に屈して彼は心にもない嘘をつきました。

 ペテロのすべてを主イエスはご存じでした。このような「大嘘」をついた彼が立ち直ることまでご存じでした。いや、主が彼を立ち直らせてくださるのです。ペテロの涙は回復のためのはじめの一歩ではなかったでしょうか。


逮捕

2019年08月15日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章47−56節

 一昨日、日本から電話がありました。昨年夏に帰国された方からでした。とてもお元気な声でしたので、こちらもうれしくなりました。電話を切ってから、時刻を確かめてみると日本時間では夜中の3時少し前。眠れない夜を過ごされたのか、あるいは早くに目が覚めてしまわれたのか、どちらなのだろうとしばし考えました。お電話くださってありがとうございました。

 主イエスの逮捕の場面です。ユダに手引きされ、大勢の群衆が手に剣や棒を持ってイエスを捕らえに来ました。ユダはイエスに近づき口づけをしました。それは、イエスを特定するためのしるしでした。この場合、弟子のユダが先生であるイエスに口づけするというのは、師に対する故意の侮辱なのだそうです。ユダははっきりとイエスの権威を否定する行動をしたのです。欺瞞に満ちた口づけです。それを合図にイエスは逮捕されます。

 逮捕の場面でいくつかのことが起こります。一つは弟子の一人が大祭司のしもべの耳を切り落としました。ヨハネの福音書18章10節には、大祭司のしもべマルコスに切りかかって右の耳を切り落としたのはシモン・ペテロだと書いています。ルカの福音書22章51節には、イエスが耳を切り落とされた者の耳にさわって癒やされたことを記しています。そしてマタイの福音書には、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」という主のことばを記しています。

 そして、この時弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまいます。すでに主は弟子たちがこのような行動を取ることを「私は羊飼いを撃つ。すると羊の群れは散らされる」という旧約聖書ゼカリヤ書の預言を用いて、予告しておられました(31)。結局、イエスを守ろうとする者は一人もいませんでした。イエスはお一人でご自分を逮捕する人々に向き合われ、身を彼らに任せました。

 しかしそれは、敗北ではなかったのです。


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