みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「アブラムを富ませたのは私だ」と言わないため

2013年01月15日 | 創世記
創世記14章


 昨日の雪が解け切らずに、路面に凍りついた朝を迎えました。前日に家の前の雪かきはしておいたのですが…。
 朝早くの祈祷会に恐る恐る車を運転して出かけましたら、すでに「常連」が! びっくり、感激です。ともあれ、滑って転んでけがをするなどということがありませんように。

 ケドルラオメルを中心とする四人の王と、ソドムの王たち五人の王の戦いは、ソドム連合軍の敗北。アブラムの甥(おい)であるロトの財産も奪われてしまいました。「ソドムの近くまで天幕を張った」(13章12節)ロトは、この時は「ソドムに住んでい」ました(14章12節)。富の魔力に人が引きつけられていくのが、これらのことばからも想像できます。

 知らせを聞いたアブラムは、ロトの財産、捕らわれた人を取り戻すためにケドルラオメル軍を追撃。目的を果たします。凱旋する彼をソドム王は歓迎し、シャレムの王メルキゼデクは祝福しました。
 「義の王」という意味の名を持つメルキゼデクについて、新約聖書へブル人への手紙では、イエス・キリストが神であり大祭司であり、王であると証言する中で度々登場します。一箇所だけを記します。
 「(キリストは)神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(ヘブル5章10節)

 心に留めたのは、アブラムがソドムの王から財産を受け取ってほしいと言われたときに、きっぱりと断ったことば。 「…『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」

 いのちを賭して強敵と戦い、財産を取り戻したアブラムがこの申し出を受けるのは、だれが見ても当たり前。しかし、彼は人と人との駆け引きの中で自分の立場を見たのではなくて、天の神が自分をこの地に遣わし、富ませられたのだとの信仰に立っていました。ですから、あの人によくしてやったから受けて当然…という思いは、神が富ませ、神がお取りになるという真理のはるか下にあることだと、考えていたのではないでしょうか。

 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、苦難の中で語ったヨブの姿勢に通じるものを、アブラムのことばから見つけたように思いました。

 


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