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推理小説のアンバランスな人物

2012年04月12日 01時59分29秒 | 文学
東野圭吾の『赤い指』を読んでいるが、井上靖の『わが母の記』に続き、偶然にも老人の痴呆が扱われる。話の印象はぜんぜん違う。井上靖はあったかい家庭で、東野圭吾は壊れた家庭。
井上靖の『わが母の記』を読んでいたときにずっと思っていたのだが、井上靖のこの本を読んで、彼の奥さんとか、惚けた母親の世話をよくしている彼の妹たちはどんな気持ちなのかなあということを思っていた。語り手は井上靖なので彼の立場から語られるのだが、「兄さんはたいした世話もしないでいい気なもんだ」とか「格好良いことばかり言ってら」みたいな気持ちにはならなかったかなあと思った。
そのようなことは、つまり、おっさんの主張と周りの女たちの気持ちの齟齬、噛み合わなさは実際の生活では嫌というほど見るのだが、おっさんの一人称小説ではすっきりきれいに消えて、格好良いことになってしまう。
東野圭吾の『赤い指』は惚け老人と引きこもり少年をかかえた家庭が舞台で読んでいると気持ちが暗くなる。夫と妻のすれ違いもひどい。
昔、よしもとばなながどこかで、自分の書いているものは「ドラえもん」みたいなもので、実際の人生のつらさは実際の人生で経験しているのでそんなものは小説では読みたくない、というような趣旨の発言をしていたことがあり、読んだときは「そんなものかな」と思ったが、いまだとその気持ちがわかる。
推理小説で人生のつらさなど見たくない。
登場人物が、一方でそのように人生のつらさを背負った人物でありながら、もう一方では死体の処理やアリバイについて推理小説的に計算して行動しているところがアンバランスな印象で、奇妙な人物に思えてしまう。こんな状況でこんなことを考えるかなということが多い。
例えば、目の前の死体の靴が脱げているのを見て靴を履かせて紐を結んだり(いかにも推理小説的な、あとから足をすくわれる行動)、死体を自宅の庭から移動した後に自宅の庭の芝がついているのを見てそこから犯人が特定されることを心配したり(これなどは前作『私が彼を殺した』をふまえている)、いかにも推理小説的登場人物なのだが、妻や息子との悩みも抱えている。
どういう気持ちで読めば良いかよくわからないから奇妙な印象を受けるのだろう。
ジャンルの決まっているものはそのジャンルの気持ちで読もうとしてしまうのだと思う。
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