ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

イハレアカラ・ヒューレン『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』感想

2011年07月13日 00時05分43秒 | 文学
イハレアカラ・ヒューレン『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』(徳間書店)を読んだ。
カマイリ・ラファエロヴィッチの『ホ・オポノポノ ライフ』では、何かと言えばクリーニングしなさいと書かれていたのだけれど、肝心の”クリーニング”についてどのようにすればよいのか、詳しく書かれていなかったので、この本を読んでみた。
しかしこの本を読んで、クリーニングの仕方が具体的に分かったのかと言えば、よくはわからなかった。たぶん、それこそがホ・オポノポノの考え方の基本なのでそんなに簡単には分からないことなのだろう。浄土真宗で、南無阿弥陀仏を唱えればよいと言われても、実はよくわからない、というのと同じようなことなのだろう。
カマイリ・ラファエロヴィッチの本では、クリーニングすることで過去の記憶が消去され生きやすくなるという、まあそれはそうだろうな、と納得はしていたのだが、このイハレアカラ・ヒューレンの本では、自分がクリーニングすることで、自分の周りのひとも幸せになるという、より宗教的に踏み込んだ本だった。ホ・オポノポノの導師たちは、ひとに会う前にクリーニングを行っているので、実際に会うときには特に何も話す必要はないらしい。
宗教的に踏み込んでいると思えると、「そこまで私は行けない」と思ってしまうのだが、もしかするとそこに踏み込めないことが、私の限界を作っているのではないかという気が最近よくする。苦しいときに南無阿弥陀仏と呟いたり、勾玉を握ったり、「(死んだ)おっかさん助けて」と言ったり、そんな小林秀雄がやっていたようなことをすることが生きていく上で重要なのだろう。そんな気がする。ずっと超越的な存在があることを認めないで生きてきたので、そこまで行くにはもう少し時間がかかる。

自分のなかに潜在意識があり、それをウニヒピリと名付け、自分のなかにいる子供として認識するというやりかたは違和感なく読めた。自分をひとりの人間ではなく、母親と子供のふたつにわけることで、問題の見え方が変わるということがあるのではないかと思う。書いていて思い出したが、この話は、夏目漱石について柄谷行人が書いた文章のなかに似たようなことがあった。
《興味深いことに、漱石が写生文に関して述べたことは、フロイトがユーモアにかんして指摘した「精神態度」と完全に合致している。《誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供に対するような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重要なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである》(『ユーモア』高橋義孝訳、「フロイト著作集」第三巻、人文書院)。》(柄谷行人『定本日本近代文学の起源』、岩波現代文庫、89頁)
コメント