内田樹の「日本辺境論」(新潮新書)を読んだ。
とてもおもしろかった。
内田樹は師という無限遠点のあとをずっと追い続けることをいつも肯定しているように思っていたのだけれど、今回は、そのような「道」は、最終的な成熟を先送りにしている(とは表現しなかったな。ちょっと忘れましたけど、そのような意味のこと)と言っていて、「そういうことも思うのだな」と驚いた。
他者と出会うためには「私」という概念そのものを書き換えなければならないという話は、最近よく思うことなので納得できた。
僕自身のことで言えば、何年か前に「これからは用意したことをしゃべるのではなく、まったく何も用意せずにその場で咄嗟にしゃべれる人間になりたい」と思ったことがあり、たぶん小林秀雄の講演や茂木健一郎の講演を聴いていた時期だったのだが、そのようなことを思い、心がけている。
「私」というのは、昨日も今日も明日も同じものではなく(それは虚構であって)、相手によってその時によって姿勢によって変わり続けるものであるということをよく思う。
とてもおもしろかった。
内田樹は師という無限遠点のあとをずっと追い続けることをいつも肯定しているように思っていたのだけれど、今回は、そのような「道」は、最終的な成熟を先送りにしている(とは表現しなかったな。ちょっと忘れましたけど、そのような意味のこと)と言っていて、「そういうことも思うのだな」と驚いた。
他者と出会うためには「私」という概念そのものを書き換えなければならないという話は、最近よく思うことなので納得できた。
僕自身のことで言えば、何年か前に「これからは用意したことをしゃべるのではなく、まったく何も用意せずにその場で咄嗟にしゃべれる人間になりたい」と思ったことがあり、たぶん小林秀雄の講演や茂木健一郎の講演を聴いていた時期だったのだが、そのようなことを思い、心がけている。
「私」というのは、昨日も今日も明日も同じものではなく(それは虚構であって)、相手によってその時によって姿勢によって変わり続けるものであるということをよく思う。