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「琉大一年で辞めて東京へ!」

2024年08月13日 | 「美ら島沖縄大使」便り
         
        〈中野・新山通りで粟国安彦と4畳半同居)
 何故、琉球大学・法政科を一番で合格しながら一年で辞めたか。
それは当時の沖縄は日本復帰が不明で、奄美出身の私には米国留学等の資格が無く、それなら本土留学と上京し、当時中野新山通りの4畳半の下宿アパートにいた安謝中同期の粟国安彦君と同居します。琉大法政科一番合格を自負し、早稲田の法文科を受験しますが2科とも敢え無く不合格で絶望します。この時ほど沖縄と本土の学力差を感じました。
 早稲田構内の合格者表示に自分の名前が見つからず絶望ショック、この日、高田馬場から帰路途中の新宿歌舞伎町のガード下にうづくまったを覚えています。この時通り掛けのネネから“坊や、どうしたの!”と声を掛けられた“のも忘れられません。
 同居の粟国安彦から「あの時、辰弥どうなるんだろう」と心配したと言われたのを覚えています。当時受験に失敗しそのまま素浪人、放浪する何人かの友人がいました。




「早稲田予備校へ」

 琉大を止め、早稲田を受験し、全て失敗、同居の粟国安彦君が「辰弥、どうなるんだろう」と心配したことを伝えましたが、絶望の2,3日後、私は“再受験しよう!」と予備校に行く決心をしました。それは高田馬場西口の「早稲田予備校」でした。実はその近隣に粟国安彦が通う「昭和音楽専門学校」(後の昭和音大)がありました。この予備校通学の学費稼ぎのため、様々なアルバイト経験が忘れられません。今思うと当時沖縄にいた両親は私の未来に言い知れぬ不安があったのでは!
 私は両親にこれ以上負担を掛ける訳にはいかないと様々なアルバイトをしつつ、早稲田予備校に通いました。
忘れられないアルバイト経験は当時粟国安彦が通う昭和音大に
 
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