因果とは、因果とは仏教の道理の一つで物事の原因と結果の関係を表す言葉です。
道理とはどこにいても、どんな時間が経っても絶対に変わらないものという意味があります。
原因があるから結果があり、原因無くして結果は絶対に無いのです。
そして仏教では、この道理は”幸福と不幸”の原因と結果として教えられています。
幸福になりたければ、幸福の為を蒔くことで幸福になれるというもので、引き寄せの法則や波長の法則などと同じで、宇宙の真理と言葉は変われど、時が経っても変わらないのです。
因果応報とは!
因果応報とは仏教の根幹であると言われていて、この因果応報を理解せずに仏教を理解することは不可能だと言います。
それほどこの仏教の教え、つまり人生を幸福に生きるための土台は、この因果応報を深く理解することが必要不可欠なのです。
この因果応報には『善因善果』『悪因悪果』『自因自果』があります。
『善因善果』とは、良い種をまけば良い結果が起こり、『悪因悪果』とは悪い種をまけば悪い結果が起こり、そして『自因自果』は自分が蒔いた種が自分に結果として戻ってくるということです。
誰かの蒔いた種が自分に起こることはないのです。
例えば、誰かが自分を貶めた、誰かに足を引っ張られた、誰かが私を怒らせた、などということはあり得ないのです。
全てあなたが受け取るものは、あなたの蒔いた種だけなのです。
ですから、喧嘩をしている人たちは必ず相手が悪いと思って相手を責めますが、原因はどちらにもあるのです。
これが例えば大きな事故や事件に巻き込まれた人たちの場合は、前世などのカルマを消化しているか、生まれる前に自分で決めてこの世に生まれてきているのです。
必ずそこには自分が蒔いた原因が存在するのです。
因果応報は必ずある!
お釈迦様は、因果応報は必ずあると教えています。自分の行いが結果として必ず自分に返ってくるということです。
古代インド思想では、この行いが前世まで及ぶことを伝えています。前世で悪い行いをした場合、今世でそれを受けるのです。
ただ、今世の間での因果応報も必ずあるので、いつも良い行いをすることを心がけることで、前世の業を消化し、今世でも蒔いた良い行いを結果として受け取る事ができるのです。
罪悪感を覚える時点ですでに因果応報を受けている。
罪悪感とはつまり自分が相手に対して悪いことをしたと思う気持ちのことです。
これも何かの原因があっての結果なのです。ただ、罪悪感を感じるような原因を作っている場合は、これからあなたは誰かに騙されたり、嘘をつかれたりと言う結果が待っています。
また、あなたの罪悪感からのネガティブな思考が、近い未来のネガティブも起こします。
因果応報はいつどのような形で返ってくるのかは分かりません。
もし、悪い種を蒔いてしまったと思ったなら、出来るだけ良い種を蒔く事をしましょう。
スビリチュアルLaniより、抜粋引用。
私が因果応報の悪い報いを享けたのは、三年前に離婚し、役所に離婚届けを提出し、引っ越しの準備中に具合が悪く成り、近くの病院に駆け込み、点滴をして貰いましたが、精密検査が必要と言われ、離れた病院にタクシーで搬送され、検査を受けた結果、手術入院が必要と言われ、遠い病院なので地元の泌尿器科病院で手術入院をすることになりました。そうしたら、手術4日前に病院からの電話で担当医師がヘルニアの手術で私の手術が出来なくなったとドタキャンに、前から分かっていたはず、何故、もっと早くに知らせて呉れたかったと一喝しました。結局、タクシーで搬送された病院で手術入院、一週間でした。
これも離婚をしたストレスなどではなく、間違いなく因果応報の報いを享けたのだと思われます。
ただ、悪い報いだけではありませんでした。手術や入院費用が高額医療費控除と保険会社からの負担があり、数万円の支払いで済みました。また、仕事も有給休暇、二か月分を消化し、仕事を二か月休んでも、二か月分の基本給が振り込まれ、保険も解約したので二十数万が払いも出され、結局、何十万円が貯金が出来ました。
その後、幸運なことが何度かありました。こちらは、因果応報の良い報い、人助け貢献をして来たことへの良い報いだと思われます。
こうして、誰よりも、因果応報の報いは実際にあると信じていますし、実体験もしております。
但し、因果応報は、それを目的に期待して善い行いをすることは、自身のエゴです。
やはり、因果応報の報いは、私欲やエゴの強い人が結果として自分に跳ね返ってくるということです。
例え話に「天に吐いた唾は、自分に戻ってくる」という諺に似ています。
自身に与えられた「天命」を果たしている人には、因果応報の報いの意味も体験もしている人であるということです。
センスプロデュース研究所、葛西行彦