魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

末期仲間

2010年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

No.983

スーパーで、60代の女性二人の話しに、耳がダンボになった
二件隣りの、62歳の独り暮らしの女性が、心臓麻痺で亡くなっていたそうだ。おそらく、暑さもあったのだろう。

新聞屋さんが、不審に思って隣近所に聞いたが、みんな「昨日話をした」とか、「一昨日見かけた」とか言う。それでも、どうにも変なので警察を呼んで、開けたら、既に4、5日前に亡くなっていたそうだが、まだ見られる状態で良かった。
それにしても、人間の記憶はいい加減なもんだと、二人で納得していた。

『いやいや、それは、年のせいです』と思いながら聞いていたが、孤独死が普通になったことは、エライことだと思った。

死ぬのは、何も不思議ではない。高齢化社会になれば、ますます死人は増える。独り暮らしの高齢者は、ある程度、覚悟はできているだろう。問題は、死んだ後のことだ。

こうも、孤独死が増えると、死後、何日も発見されず、悲惨な状態になっていた話しは、うんざりするほど聞かされる。
死んだら終わりとはいえ、本人も哀れだし、何より周りの人は大迷惑だ。
「おくりびと」にもその話は出てくるが、事件や事故でなくとも、一般人には絶えられない現場だ。

病院に担ぎ込まれずに死ぬのは仕方ないとして、せめて、すぐ発見してもらいたいものだ。何よりも、周囲の人のためでもある。
異臭がし始めたら手遅れだ。大きなハエが飛び出したら万事休す。

孤独死を放置しないためには、何よりもコミュニティーの再構築が不可欠だが、大家族の頃には、こんなことを考える必要もなかった。
コミュニティーとまでいかなくても、自分だけでも、死んで他人に迷惑を掛けたくなければ、いくつか心がけが必要だと思った。

先ず、発見された時、連絡先と処理方法(臓器提供や直葬、埋葬先など)を書いた、身上メモを常に携帯しておく、できれば、戦時中のように胸に縫い付けておくと良いかもしれない。

次に、生存点呼の習慣を付ける。できることなら、知り合い同士、毎日訪ねるか、電話をする。それがうっとうしければ、毎朝、玄関やドアに、「営業中」をぶら下げるか、合図の傘立てでも出し入れする。
それをチェックしてくれる人もいなければ、新聞屋さんに頼んでおく。新聞を取っていなければ、市役所に相談してみる。

とにかく、異変にすぐ気づいてもらう工夫が必要だが、人に気づいてもらうより、自分が毎日、「お元気ですか」と声を掛けてまわれば、現れなくなった時には、人が心配してくれる。そいうものだが、これが難しいから孤独死になる。

戦後の日本は、若者社会、核家族、個食・・・と、求めて孤独社会にしてきたが、そういう世代が死を前にして、勝手には死ねないことに気づき始めた。
独り安らかに死ぬために、コミュニティーが必要になるとは、何とも皮肉なことではあるまいか。


昔日の犬

2010年07月30日 | 動物

No.982

近所の忠犬、ゴンちゃんの本名が判明した。(実は2
先日、ゴンちゃんの柵の前を通りかかると、学校帰りの小学生の女の子が3人、ゴンちゃんの鼻を撫でている。ゴンちゃんは黙って柵から鼻を突き出して、シッポも振らずにじっとしている。

近づいて、女の子に
「名前知ってる?」と尋ねると、一瞬ぎょっとした顔になったが、
「うん、ジョン・・・」
「そうかあ、ジョン君か」と言うと、
「うん、男の子・・・」と、少しはにかむように答えながら、撫でている。

雰囲気を壊さないように、その場はそのまま立ち去ったが、後日、独りで通りかかった時、例のごとく、『怪しいヤツ!』と改まって起きてきたので、
「ジョン」と呼びかけると、オットットと立ち止まって、
『えーっと、何だっけ?』と、困ったような顔をして、こっちを見たり見なかったりしているから、もう一度「ジョン」と呼んだら座ってしまった。

今度はジャーキーでもお土産に持って行きたいところだが、よその犬なので、我慢している。

昔は
犬はたいてい放し飼いだったから、犬を必ず散歩させる必要もなく、当然、道ばたは犬の糞だらけだった。
飼い犬と野良犬の区別は「首輪」だけで、「首輪のない犬」と言えば、野良犬のことだった。(ハチ公の時代

ただ、その頃でも、闘犬は繋いでおくのが常識だったが、中には非常識な人もいたし、闘犬とまで行かなくても、かなりの大型犬も街をうろついていた。追っかけられたり噛まれたりした子も少なくなかったから、オバQの犬嫌いが自然に理解された。(今の子には理解できないかも知れない)

それでも、大抵は犬と人の「間」はとれていて、放し飼いにしている家では、よく、顔なじみの犬が、『遊びに行こう』と、玄関先に来て出かけていくこともあったし、数匹で誘いに来ることもあった。

犬が勝手に出かけていって、帰ってきて餌を食べないと、
「どっかで、何んか食べさせてもらったんだろう」と、気にもしなかった。

しかし、だんだん、世の中に秩序が生まれ、狂犬病が流行ったり、糞害が問題になったりするようになって、法律が定められ、無責任な飼い方ができなくなると、犬の飼い方は一変し、独立した犬はいなくなった。
20年ほど前に、近所の商店街を挨拶回りして歩く老犬がTVで紹介されていたが、あの時すでに、珍しい光景になっていた。あの商店街も、今ではシャッター街になったかも知れない。

近年は、日本でも、ペットと人間の区別ができない人が増えてきた。
犬を家族と思い、犬や猫に財産相続をさせたり、犬猫の葬式に大金を掛けたりする。
人とペットの優先順位が解らない人は、ペットを人間扱いしているのではなく、自分がペット並みになっていることに気づかない。

日本犬」、「犬の散歩


学芸の溝

2010年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

No.981

27日、途中から見た爆笑問題で、自動作曲システム「オルフェウス」君を紹介していた。

東大の計数工学の教授が生み出した、音楽の子だ。
音楽に関する、あらゆるデータを数値化し、どんな演奏にも伴奏し、どんな言葉も作曲する。
ただ、オルフェウス君はまだ生まれたばかりで、いかにも未熟だ。
多くは期待できないが、それでも、双葉の姿には、可能性と限界が見えたような気がした。

「数値化すれば可ならざるは無し」の教授から、熱い夢がジーンと伝わって、ウルウルではないが、心のどこかで「あ~」と慨嘆した。
昔、占いについてそんな風に思っていたからだ。

爆笑問題との対話は、教授が人格的に大人であるため、むしろかみ合わなかった。多くの学者は世慣れてないため信じるところを素直に語り、太田の餌食になるのだが、放送画面で教授は(自分の信念を曲げないために)一切、意見を主張しなかった。
結局、一致した結論としては、新芸術を切り開く新しいツールとしては可能性がある。と言うようなことだった。

学問と芸術の狭間
番組中で演奏されたオルフェウス君の作曲を聴いて、改めて思ったことがあった。
どの曲を聴いても、メリハリのない、感動のない曲で、大正、昭和初期の歌謡曲を連想させる。これは合成音の歌声で仕方ないとしても、曲調全体が、音楽の先生が作曲した「00っ子の歌」のような曲に聞こえた。

突っ込めない太田が、サザン桑田の文学作品作曲が心を揺さぶる例を出して、問題提起していたが、受け流された。(編集かも)

双方の思いはよく解る。太田はこのシステムのレベルではダメだ、将来もダメだろう。と思い、教授は、今の段階はまだまだだが、やがて人間を越えることも可能だ。そう考えているのだろう。

どちらかと言えば、教授に味方したい。コンピューターが天才や芸術家の発想原理を組み込めば、芸術作品も可能になるはずだ。
しかし、現在の段階は、「音楽とは何か」と言うことしか組み込まれていない。

芸術家が、感動を生み出すのは「常識を覆す」からだ。
ところが、学問は、集積、分析、組合せで、破壊とは対照的だ。
言葉の例で言えば、人間の営みで生まれ、生活の中で変化していく言葉を、解析したのが文法であり、文法通りに話そうとすれば、論文は書けても、お笑いも詩も小説も生まれない。

評論から、破壊をともなう創造=新しい生き方の提案は生まれない。
芸術の存在理由は、人類が前に進むための「新感覚の提案」だ。
新しい生き方、新しいチャレンジをするための動機付けであり、「正しいもの」の破壊だから、学問からの創造は矛盾する。

途中で、爆問の田中が、ネット上での名曲顕現化の可能性を話していたが、最もありそうな話しだと思った。


実像虚像

2010年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム

No.980

ワールドカップ。本戦前の日本代表に対する評価は散々だった。
90%以上の人が予選敗退と思い、岡田監督叩きは最高潮に達した。
しかし、結果は、あの通りで、「岡ちゃんゴメンね」の嵐になった。

結果が真反対だったから、国民は手のひらを返したように賞賛した。
こういう光景を見るたびに、多数意見は、裏読みした方が良いと思う。

競馬の穴狙いの一つの方法として、「倍率1近い◎は切れ」という常識がある。確かに、支持率1倍代の本命が1着に来る率は高いが、それが来なかった場合の方が、配当利益は有利になるからだ。

重要なことは、極端な偏りは実体を反映しないということだ。
多くの人がそう思えば、実態以上にムードが生まれる。深く考えない人は、周囲の意見を自分の考えだと思い込む。

株でも、株価が上昇し始めると、電車に乗り遅れるなとばかり、我も我もと買い手が増え、さらに上昇する。こうなると、まことしやかな値上がりの理屈がつき始めるが、プロはこの時、売り抜ける。
ムードで飛びついて損をした人は、「株屋にだまされた」と言い出す。

自分で考えない人ほど、自分の失敗を他人のせいにし、スケープゴートを探す。他人を攻撃すれば、自分の失敗を見ないで済むからだ。
そして、自分を被害者とすることで、反省しないから、また同じように、状況に流されて生きることになる。

「救い」には二つの道がある。苦難から脱出する思考方法を説く道と、気持ちを強くする癒しの道だ。
ところが、「救われない人」というのは、直接、結果を与えてもらうことだけを願う。カンニング精神だ。
「神は自ら助くる者を助く」自分で何とかしようとする人を「救う」ことはできても、努力無しで、結果だけ待つ人は救えない。

正攻法と派生法(邪道)は、実像と影のようなものだ。実体がなければ、影はないのだが、影があるから、実体の価値が上がる。しかし、時に、影の方が巨大になると、影が価値あるもののようにふるまう。

世の中の認識、世論というものは、ほとんど影だと思ってもいい。
巨大な影に「おまえはただの影だ」と言えば、影はそうは思っていないから、よってたかって否定される。「非国民!」と叫ばれる。

だから、真実に気づいても、うかつに口にしてはいけない。
しかし、気づいた者には、集団の一員として、何とか気づかせようとする義務がある。そして、一方では、気づいたと思っている自分も、間違っているのかも知れない。

全てを疑いながら、漠然とした真実を見据え、それを解ってもらうには、間接的な真実、たとえ話が一番良いのだろう。

お釈迦さんは、尋ねられても答えを口にしなかったという。全てたとえ話で諭して聞かせた。だから誰もが納得した。理解するのは、結局、一人一人、その人次第だからということだろう。

勝っても


予想外外

2010年07月27日 | 星の流れに

No.979

このところ、スイス氷河特急や補修車の列車事故、防災ヘリの墜落など、不可解な事故が続いている。
実はその前から、飛行機乗務員の窃盗や列車乗務員の不正などが相次いで露呈していた。

これら、一連の乗り物に関する事件事故は、世相としては魚座、乙女座の時期の「反動」現象と考えられる。(相撲も)
不正が露呈した乗務員は、うまくいっていると思って調子に乗っていたことが、うまくいかなくなって、バレタに過ぎない。

また、相次ぐ事故も、観光やレスキューに脚光が当たっていたことの反動とも言える。提供する側と受ける側が、過剰に動きすぎたことで、無理をしたり、おざなりになったりした。つまり、やり過ぎた。

現在の惑星によるストレスは蓄積中で、まだ爆発していない。
牡羊座に木星と天王星が移り、180゜の天秤座に土星、さらには火星、それに山羊座の冥王星が居座っていれば、どう考えてもただでは済まない配置だが、今現在は、太陽が獅子座で調停している。

このチョツト前の一ヶ月、太陽カニ座中は、中国が相当いらだって爆発寸前になり、アメリカも米韓演習を日本海側で始めたが、獅子座に移り、満月とは言えむしろ小康状態ではある。

しかし、太陽が獅子座から乙女座に移り、さらに天秤座に移る、二ヶ月後は、タガが外れる。ただし、惑星の配置が「いかにも」の時には、案外、何も起こらない。むしろ前後で始まる。
ところが、天王星も木星も、その前に魚座に帰るから、微妙にセーフになるだろう。本当に、今年はヤヤコシイ年だ。
原因と結果がつながらない。全て何事も、予想外、予想外に展開する。


同床異夢

2010年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

No.978

DIAMOND誌によると、ダブルベッドは、男性はよく寝たと思っているのに、実は睡眠不足で能力低下を招き、女性は大差ないものの、独りの方がよく寝られたと思っているのに、一緒に寝る方が熟睡している。という研究結果が出たそうだ。

結局、男性はスキンシップがストレスを和らげ、女性には安心感が必要だ。と、解釈できるように思う。

経験的に(相談の)、血液型、B型は別を好み、O型は一緒を好み、A型は、一緒でなければならないと思っている。
そのため、一方が別室で寝ると言い出すと、大ごとになることが少なくない。

実際、離婚率と夫婦別室は比例するという、まことしやかな説があるが、これは話しが逆だと思う。夫婦関係が破綻しているから別室にしていた人が、結果的に離婚しただけのことで、別室にしてからの方がうまくいっているカップルも少なくない。

面白いのは、DIAMONDの記事でも、ツインベッドの人達は、こうした影響を受けていない。と、言っていた。
イビキや頻尿で、同室では寝られないような状態なら、無理に同室である必要はないし、逆に、相手に迷惑を掛けないのであれば、同室で別々が望ましいと言うことだろう。

日本の庶民の場合、昔から、「親子川の字になって」(つまり、別々)が、幸せ円満な姿と言われているし、もっと理にかなっているのは、古代の妻問い婚だろう。

女性はどちらでも寝られるが、男性は一緒に寝ると、無自覚の内に確実に疲労する・・・・・・のであれば、
やはり、男がその気になったときだけ、疲れない程度に通ってくる。のは、初めから、自然の理にかなっていたと言うことだ。

ダブルベッド発祥のヨーロッパでは、昔は、ベッドで子供が押しつぶされて死ぬ例が、後を絶たなかったそうだ。それで、子供を別室に寝かせるようになったのかも知れない。


ガソリン(2)

2010年07月25日 | 自動車人間学

No.977

ガソリンは子供の星だから、結局、何をやっても大人(一般人)に愛される。
子供は大人の思いつかないようなことに着眼するが、一方では大人を超えるものではない。ヒラメキはあっても現実感がないからだ。

大阪の橋下知事は、機能不全に陥っていた大阪府を活性化させた。
発言は一々もっともで、賛同できる。
ところが、夢をさらに前進させようとすれば、抵抗勢力の根は絶ちがたく、府政に苦労している。

名古屋市の河村たかし市長ハンドルも、抵抗勢力に直面しているが、中央集権の下部組織として、お茶を濁してきた地方議員に、身を切る新しい形を提案すれば、全員を敵に回すことは何処も同じだ。

抵抗勢力に出会ったとき、他のタイプならどこかで現実的な落としどころを考えるが、ガソリンは妥協ということができない。白か黒だ。
ガソリンは一度思い込むと、客観性を持てなくなる。
大人の自制心がないから、比較検討、再考、妥協ができず、思い込みを修正できない。

状況的にやむを得ず、意思表明を隠すことはあるが、一念はますます膨張して、こだわりや恨みになる。

小泉郵政改革は、郵政への恨みからだとも言われているし、手塚治虫は「何で自分の漫画が、劇画なんかに負けるんだ」と泣いて悔しがった。ヒトラーがユダヤ人に執拗な敵意を抱いた理由は不明だが、案外ちょっとした個人的経験からではないかと思われる。また、林真須美も何で凶行に及んだかよく理由は分からないが、ほんのちょっとした経緯からだろう。

多くの子供は、何かを買って欲しいとなると、大人がどんなにもっといい物を勧めても、執拗にそれにこだわり続ける。これも客観性ができていないからだ。

小泉首相もヒトラーも橋下知事も、情熱的な演説が上手く、支持する人は熱狂的になりやすい。ヒラメキが多くの人をその気にさせるし、第一、可愛げがある。

今、橋下知事の行動を、生かすも殺すも、大阪府民次第だ。
子供のヒラメキを参考にして、大人が出直すなら、大いに役に立つ。
小泉改革に全面的追随するのではなく、あれをきっかけにして、各方面が目覚め、より改革を推し進めるなら意味があったが、全面お任せでは破綻する。それを良く知っていたのも小泉元首相であり、ヒトラーより立派なのは(あるいは凡人なのか)自分で辞めた。

橋下知事に全面的に付いていくのではなく、府民が意図を汲んで、現実路線に転換すればいいのだが、選挙政治というものは、根本的にお任せだから、結局は暴走か失墜にたどり着く。
ヒトラーも選挙で支持された。

ヒトラーのどこか子供っぽいマザコン的な髪型と風貌。それが、当時は「愛された」のだが、小泉元総理や橋下知事の風貌に、どこか共通性があることにお気づきだろうか。

ガソリン(1)


ボディー

2010年07月24日 | 自動車人間学

No.976

いい顔をしたい自動車人間「ボディー」の鳩山前総理は、選挙で、「県外、国外」と、いいことを言い過ぎて混乱を招いた。

民主党が惨敗しても、「首相交代の必要無し」の世論を見て取ると、党首選では菅総理を支持するとした上で、「惨敗のけじめは付けてもらわないと」と言い、さらに、ひび割れ状態の、菅・小沢の仲を取り持つと言い出した。相変わらずの八方美人の、「いい人」ぶりだ。

ボディーは、様々な機関を体裁良く包み込み、あたかも自分が本体かのような顔をするのが天性だ。何よりも、他人の評価を気にする。
見せ上手だ。
したがって、難しい連中の上にフワッと被さり、いいとこ取りをする反面、角のある集団を上手くまとめ上げ、良い印象に仕上げることにも気を遣う。
全て他人のお蔭で成り立っているが、他の人達にも必要な存在だ。

ボディーは失敗をしても「いい人」だけは保ち続ける。
アルゼンチンのマラドーナはボディーだ。あのサッカーに厳しい南米で、惨敗をしても、監督続行となった。
絶大な人気だが、スター軍団に乗っかって鼓舞して見せるだけで、監督としては何も采配していなかったように見えた。(素人目には)

それでも、いい人、人気者であることは失われなかった。
ボディーは守りだが、いいとこ取りの見せ上手でもある。そのせいか案外、Gキーパーよりも、フォワードで仕事をする。

本田圭佑もボディーで、トータルな流れの中で、「決める」ことに才能を発揮した。しかし、それもやはり、実力に裏打ちされたもので、本田ほどの実力が無くても、過大評価される場合も多い。
以前、日韓大会の時のFW、鈴木隆行もボディーだった。激しい「顔つき」の割に、ファールもらいで「らしくみせる」ボディーの才能を発揮していた。それでも、どろくさいと言われた一発は決めている。

「らしくみせる」と言えば、やはり、マラドーナの「神の手」ゴールだろう。彼がやればゴールになる。それが才能だ。

エンジンとボディー(似て非なる)
菅エンジンは簡単に謝る。これはいい人と思われるためではない。状況への対処だ。ここは謝らなければ、ことが収まらないと見れば、直ちに謝る。だから、けじめや体裁のためには謝らない。

ところが、プライドの鳩山ボディーは何が起ころうと謝れない。しかし、逆に、謝ることが「けじめをつける」格好よさになるなら、悲劇のヒーローのような顔をして、腹を切る。
「本当なら来れないと知りつつやって来ました」と、徳之島でも言っていた。何処までもいい人になりたい。

ボディーが見た目のために「けじめ」をと言っても、エンジンが「必要」と考えるか
うーん、どうなんでしょう ?


ふと思う

2010年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

No.975

金賢姫来日にマスコミは大騒ぎだ。
語弊があるからコメントはしないが、冷静に考えれば十重二十重におかしな話しだ。

貧すれば鈍する
情に棹させば流される
渇しても盗泉の水を飲まず
武士は食わねど高楊枝

日本はサムライの国だと聞いたが・・・

話は違うが、
猛暑の陽ざしに、青葉の山や街の木立が揺らめく中で、ふと思った。
葵の葉を身につける葵祭や、勝者に載せる月桂冠。古の人は、最も華やかな場にも、自然と供にいた。

確かに今でも、花屋さんは繁盛しているし、園芸も盛んだが、葵の葉や月桂樹は、自然の一部を素朴に手折ったものだ。
山川草木に神性をみて、それを価値あるものとして、身につけた。

今、愛の証に、ふと目に留まった野辺の花を捧げたとして、乙女はすなおに喜ぶだろうか


終焉始動

2010年07月22日 | 大転換

No.974

22日から、本格的に土星が天秤座に再入宮する。
30日からは、火星も天秤座に入るから  天秤座は要注意だ。
太陽→獅子座の期間は良いが、8月後半から大変だ。

21日のクローズアップ現代は、中国の資源需要による鉄鉱石高騰問題だった。(製鉄は火星の牡羊座)
一方で、この数日、中国の新聞(もちろん、政府の意志)が、国内向けに、妙に、日本を好意的に解説している。
米国の国務、国防の両長官が訪韓し、25日から、日本海で米韓合同演習も始まる。

いよいよ、やはり、大転換のカオスが渦巻き始めたようだ。
何事も、最後の時に、もっとも華々しく燃える。産業革命パラダイム250年の終わりが動き始めた。

大量生産大量消費は、それに関わってきた現場が、自から止めることなどできない。不都合になれば、後退しないためにさらに努力する。だから、火花はよけい激しくなる。
資源争奪戦が始まっても、生き方を根底的に変えようなどとは考えないし、いまさら別の天地など無い。そう思ってしまう。

そして、誰もいなくなった後、荒野に新しい芽が生えてくる。
日本人が、日本の指導者が、賢明ならば。その前に一刻も早く、大量生産大量消費の輪廻から解脱することを考えるべきだが、官僚自動操舵に足を取られて、地獄の淵に向かって、今日も航行している。

重工業、加工貿易による生き方は、もう世代交代した。
年寄りには年寄りの生き方があることに気づくべきだ。
内需云々と言うが、大量生産を内需でまかなうのは幻想だ。
産革パラダイムは、必要以上のものを作るシステムだ。
人類は、大量生産から離れて、いかに生きるかを問われている。

次の300年を見据えた、人類としての生き方を、日本は今から独り、黙々と実践しよう。新鎖国主義だ。

先ずは、国内での重厚長大を整理し、自給自足を確立しよう。
海外の工業国には素材を売ればいい。それが無ければ製品が作れないようなコアな技術の開発を手がけ、特許に頼らず、どうやって作っているかも解らないようにして、世界の工業の首根っこをつかんでおけばいい。それが日本の資源だ。

工業製品にブランド名を付けるより、
スイス、フランス、イタリアを合わせたような、文化大国を目指すべきだ。島国はそれに最もふさわしい愛ランドだ。

もちろん、今の企業はそれなりに活気づけなければいけないが、官僚の頭はその為だけにしか回らない。(それも怪しいが)
政治主導でできることは、文化を活性化させる仕組み作りだ。
生涯教育、国際会議の誘致その設備、研究投資、留学生優遇・・・
幾らでもあるが、勲章は要らない。文化に国が格付けすれば文化は死んでしまう。


未来古都

2010年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

No.973

長崎平戸で昨年、死者12人を出した第11大栄丸の、遺族の女子高生が、古典の「方丈記」授業で、教師が無常観を解説する際、「人はいつ死ぬかわからない」と言ったことを、「親が死んだのは風流だ」と言われて適応障害になったと訴え、県弁護士会人権擁護委員会に人権救済として受理された。
教師は「風流とは言ってない」と、否定している。

実際、どんな授業だったか解らないが、無常観を説明するのに人の死を語らないわけにはいかないだろう。
理解力のない高校生が、無情と風流を取り違えたのかも知れないし、教師の解説が下手だったのかも知れない。

宮崎の口蹄疫問題でも、九州の自己主張の話を上げたばかりだが、ここでも、九州文化を思い起こす。
事故家族の悲惨は全国どこでも同じはずだが、自分の不幸を他者への攻撃権と同格に考える文化があるようだ。

災害事故の互いの気遣いが、気遣う人への感謝から一歩踏みだし、誰でも自分に気遣うのが当然だろう。と、いうことになるらしい。
長崎市長が暗殺された弔い選挙で、娘婿が落選すると、娘は「伊藤一長への思いはこんなものだったのか!」と怒りをぶちまけた。

人情と現実政治の区別がつかない感情論を、公の場でぶちまけられる、文化環境に感心した。一方で、長崎市民の賢明さにも感心した。
賢明な認識と判断力があっても、強い情緒があれば、自制や諦めより自己主張に向かう。

雪に閉ざされた東北の文化が、我慢や諦めに向かうのに対し、暖かく雨風が強い地域では社会全体が、前向きな自己主張を前提にしている。
しかし、これが世界標準で、世界に接している九州の地勢的なものだろう。日本全体の自制文化の方が、むしろ変わり種だ。

自己主張を前提とする文化は、感情をストレートに発散する。
被害に遭えばみんなで励まし、被害者は「犯人を死刑にしてください!」と素直に叫ぶ。
そうした環境の中で、父親が事故死した女子高生が、整理できない悲しみを、自制と諦めではなく、犯人捜しや八つ当たりで、怒りの発散に向かうのは、むしろ自然なのかも知れない。
だから、県の弁護士会も賛同した。

世界に向き合っている、沖縄、九州、朝鮮が、世界原理の自己主張では同じでも、それぞれの趣は違う。
沖縄はDNA的にも近い東北・北海道に似た、諦めがあるが、
九州は諦めない。何とか打開しようとする。
朝鮮はどこまでも自分を曲げず諦めないから「恨」になる。

日本が世界に互していくパワーは、西にある。
黙々と「ものづくり」をする職人マインドは日本の奥深くにある。
それをミックスしたのが東京だが、東京に集中しすぎたのが、現在の停滞原因だ。
地方分権のために、やはり、象徴的「都」として、近畿に首都移転した方が良さそうだ。


塩分過多

2010年07月20日 | 京都&ケンミン文化

No.972

いきなり夏になった。うっとうしい春、大雨の梅雨、今度は猛暑だ。
日本人が、間を持たせるのに、天気の話をするのは理解できないと中国人が言っていたそうだ。

日本の中の日本である京都人は、天気の話を延々と続けられる「技」を持っている。「京都に40年住んでいるが、あんなことはさすがによそ者には出来ない」と、京都の学者が言っていた。

天気の話なら、後でまずくなるような言質は絶対に取られない。
京都人の知恵だ。
しかし、京都人に限らず、日本人が天気の話をするのは、農業で生きてきたことと、良きにつけ悪しきにつけ、飽くことのない変幻多彩な自然の中で暮らしているからだ。

湿潤な温帯に急峻な山河が、四季の変化をきめ細やかに演出する。
亜熱帯をも含む全長2000キロにもおよぶ長さが、さらに地域ごとの趣を変え、情報の発達で、より季節変化に耳目が奪われる。

そんな日本人だから、温暖化や異常気象は、おそらく世界のどこよりも敏感に感じていることだろう。
日本人のこの感性は、もっと世界にアピールしても良いと思う。
そして、温暖化について、日本人がいかに心配しているか、解ってもらうことが、世界への警鐘になるのではなかろうか。

世界が日本に持つイメージは、気候の良さと災害の多さが、ない交ぜになっている。浮世絵で知られた日本は、陽気と夕立、夕日と雪のように、バラエティに富んだ、やはり東洋の極楽島だ。

極楽島の住人が温暖化を心配している・・・説得力がありそうだ。
しかし、だから逆説的に、日本の悪いイメージは、より悪い「裏切り」として伝わる。評判が良いとスキャンダルを探したくなるのは、洋の東西を問わない。

熱中症警報
猛暑が続くと、水の事故と熱中症が話題になる。水と塩分を欠かさないようにと、テレビが警告している。
最近、特に言われるのは、汗で塩分が足らなくなると言うことだが、
日本の民間料理は塩分が多すぎる、日本人は塩分の取りすぎだと言われてきた。しかし、もしかしたら、日本人にはこれぐらい塩分が必要なのではなかろうか。

欧米基準で、考えれば、塩分過多なのかも知れないが、温帯や亜熱帯に属する日本で、野良仕事で汗をかく生活をしていれば、自然に塩分が必要になる。その上、四方を海で囲まれた日本は容易に塩が手に入り、日本人は欧米人より、摂取と排出がしやすい体質になっているのかも知れない。

塩分過多による病気の多さは、それはそうかも知れないが、何千年も暮らしてきたこの島には、この島の食事があっても良いのではなかろうか。
たくあん、塩から、味噌、醤油・・・これを嫌えば、そりゃあ、米の消費が減るはずだ。


ビジョン(2)

2010年07月19日 | 星の流れに

No.971

還暦60年前のイメージと現在。
昭和25年、朝鮮戦争は南北朝鮮に引きずり込まれた中ソと西側の、事実上の直接対決だった。

いま、青息吐息の日米と、鼻息の荒い中国の、国連の場での直接対決に加えて、朝鮮半島周辺で軍事上のつばぜり合いも起こっている。
ロシアは虎視眈々と漁夫の利を狙っている。

東西冷戦は、昭和22年のトゥルーマンドクトリンで顕在化し、昭和24年の中華人民共和国建国、翌年の朝鮮戦争へと続く。
半年ぐらいは前後しているが、イメージは大体再現されている。

核が現れるまでの世界は、軍事力がベクトルを支配していた。
皮肉にも、その後は、核抑止のもと、あからさまな軍事衝突で、物事は解決しなくなった。経済力こそがパワーゲームの主体になり、戦争はビジネス問題になった。

今、起こっていることは、建国当時そうであったように、中国は勢い余って、損得を顧みない拡張をしようとしている。
だが、「極まれば転ずる

昭和25年以降、アメリカはヒステリックに赤狩りを始め、双方大損失の狭間で、日本は復活していった。
時代の変わり目を理解しない毛沢東の硬直が、やがて、中国の衰退をもたらす。

現在の中国は胡錦涛の賢政で、どうにか上手く進んでいるが、軍事独裁国家は、進むのも速いがコケるのも速い。
7~8年後が毛沢東の失政の始まりとなるが、胡錦涛政権はまもなく代替わりする。

戦後10年=昭和20年代。食糧難で、みな家庭栽培をしていた。引き揚げ者の開拓入植も広がった。
今、エコブームとして、家庭菜園が流行り、失業対策や産業転換として、農業ビジネスが広がっている。
事情も趣も違うが、イメージ現象は同じだ。(自動操舵

5年後は昭和30年。日本は復興するのだろうか。

再来再見


ビジョン(1)

2010年07月19日 | 新鎖国論

No.970

天王星。84年前のイメージはどう再現されるのだろうか。
昭和初期は政党が政争に明け暮れているうちに、世界的な利権確保のブロック経済が進み、力ずくの利権争いの中で、軍部の力が強まり、最終的に昭和13年の国家総動員法、15年の大政翼賛会と、政治が自滅した。

第一次大戦後の金融恐慌、関東大震災から大恐慌への10年。そして、その後の10年。大きな波の中で、政治は混乱するばかりだった。
結局は、軍部や財閥の生命活動に引きずられ、「祭り」ごとの茶番を繰り返した。

今の政治状況。うっとうしい歳月の中で、国民は誰でも良いから何とかしてくれと思っている。昭和初期も、軍部の暴走や国際連盟脱退などに国民は賛同し、冷静な論調が影を潜めた。

中国や北朝鮮の強引な「外交」に、日本人は非常に過敏になっている。
冷静に考えれば、軍事より、経済バランスの方が重要であるにもかかわらず、経済対策の無策への苛立ちが、軍事問題への単純化に、目が引き寄せられていく。

ビジョン
この重大な岐路で、政治は泥仕合より、国民に目標を提示すべきだ。
「所得倍増」私は嘘は申しません!
あの時、池田勇人は偉かった。

昨日のNHK「ほ乳類の戦い」でも、ほ乳類が生き残ったのは、恐竜のような大量消費体質ではなかったからだと言っていた。
産業革命パラダイムとは、まさに、恐竜時代だった。そして、所得倍増の日本は、経済大国の恐竜になった。

今、日本が目指すものは、一刻も早く恐竜を止め、鳥か、ほ乳類になるために、自己完結型のコンパクトな島国精神を思い出すことだ。
コアな日本「新鎖国主義」こそが、壮大なビジョンではなかろうか。

バカでかいアメ車は滅んだ。日本の軽自動車は誰にもマネできない。エコカーへの飛躍。
これからの時代は、「小さいことは良いことだ」が目標になる。
「小日本」とバカにしながら、遅れて来た恐竜は、やがて滅ぶ。

言霊立国


本州九州

2010年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

No.969

九州の自己主張は、いわゆる日本人のイメージとは距離がある。
自己主張のない日本人と言われるが、関西と九州は例外だ。明るく積極的で、アピール上手だ。

おそらく、交易による外国との交流が多く、異民族との付き合いの必然が生んだ文化なのだろう。
しかし、だとすれば、九州と浪速は、外国と違う付き合い方をしていたということだ。
九州が自己主張と地域の結束を主とするのに対し、浪速は駆け引きと和合に重きを置く。

九州は人の話を聴くより、自分の言いたいことを先ず言い切ろうとする。これは、沖縄、九州、朝鮮半島に、共通する文化だ。会話をする時、相手の言動が見えた瞬間、ヤッキになってストレートに自分の言い分を言い出す。(言葉も早く語気も強い)
これに対し、浪速は、相手をよく確かめた上で、揚げ足を取りながら、相手の勢いをそぎ、自分の言い分を通そうとする突っ込み型だ。
流儀は違うが、自己主張は共通している。

九州の交易は倭寇など、異民族集団の直接の関わりであり、力の結束が必要だったが、浪速の交易は、内海の奥深くで、商人が智恵と社交で平和的な取引をしていたからではないかと思う。

九州の自己主張は、付加価値を付ける売り込み上手で、初めから価値あるものとして振る舞う。
「東男に京女」は評判から生まれたものだろうが、「九州男児」の始まりは、「男児」という自賛の響きからして、自称で始まったと思われる。これは「韓流」に通ずる「ふれ込み効果」だ。

本州人、ことに関東以北の人が面食らうのは、九州人の朗々とした言動だ。何を言うにも自分のことを「すばらしいもの」のように言う。
しかし、明治以降、九州文化がすっかり馴染んだ東京は、クールにではあるが、自分を照れずに主張する。関西人からすると、逆にこれに呆れる。
「ちったあ、謙遜せえ!」と思うからだが、最近また、関西文化が行き渡った東京では、「させていただきます」とか、「じゃないですか」とか、自分を殺す言い回しが流行っている。

九州流の自己主張が効果を発揮している例が、九州出身の芸能人の多さや焼酎のCMの上手さだ。(電通創業者も熊本)
九州の中では、東側の大分や宮崎は比較的、中国四国に近く、穏やかな印象があったが、やはり、九州は九州だ。

今回、口蹄疫問題で、あたかも大変な被害者のように振る舞っているが、いつから話しは逆転したのだろう。

確かに、大打撃を被った被害者であることは事実であり、気の毒なことこの上ないが、国のせいにして怒る立場ではないはずだ。

初期対応のまずさは、国にもあったが、他の全県から抗議文を送られるほど、明らかに現地の県の責任が大きい。
にもかかわらず、自己中心的な感情論を前面に出して、損害を出した事実だけで、いつの間にか、国のせいにして被害者になっている。
怒っている知事は、種牛を残したいなら、隔離保存、精子保存、DNA保存等の様々な提案をしたのだろうか。

鳥インフルエンザの時も養鶏産業は泣く泣く処分したが、宮崎のような態度は取らなかった。

東西の日本