魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

火星昨今

2013年08月31日 | 星の流れに

火星が獅子座に入って、オバマ大統領は可愛そうなことになっている。
元々、英仏にせっつかれても、アメリカは参戦したくなかったが、シリアの化学兵器使用で、拒否しきれなくなり、火星が入った獅子座のオバマ大統領は思わず一歩踏み出した。

すると、最も積極的だったはずのイギリスが参戦しないことになり、オバマ大統領は、文字通り、梯子を外された。

このあたりの星座関係は、オヒツジ座のイギリスは、90゜のカニ座火星でイライラしていたものが、120゜の獅子座に移り、好都合になり、落ち着きを取り戻した。フランスもオヒツジ座なので似たようなもの。日本にも多少の恩恵がありそう。

双子座のアメリカは、木星通過後の脱力が、60゜獅子座の火星で多少活気づいたが、乙女座の太陽でやっぱりチグハグになってしまった。
獅子座のオバマ大統領は焦るが、アメリカ全体としては内政に目が向く時。(双子座にとって、乙女座は第4室の家庭)

木星滞在中の中国には大きな変化は無いが、火星が抜けたことで、多少は穏やかになるだろう。朝鮮半島は逆にイライラが募る。


母は盲目

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

もめ事の解決策を考えるには、是と非を比べ、第三の道を考える。
是と非はそれぞれに正しいが、必ず理にかなう第三の道がある。
第三の道が真実というわけではないが、是非のジレンマからは、離れられる。

双方が自分の取り分が百だと言えば、普通は中を取って、50・50に落ち着かせようとする。だが、これでは双方に不満が残る。
こういう場合は、先ず、双方をゼロにするところから始めれば、話を始めやすい。双方がそれに納得しなければ、逆に、双方を百にする。

そして、双方を百とすることが無理であることを解らせる。
これが、大岡裁きの、子供の奪い合いだ。
双方が、自分の物だと確信すれば、次は、その物に対する思惑が働き始める。もし自分の物なら、次にどう扱うかと考える。

偽の母親は自分の物にするのがゴールだから、それ以外の思惑が働かない。本当の母親は自分の物と約束されたなら大切にしたいと考える。
ゼロから考え、どちらの物かを決めようとすれば、大小の際限ない論争が続くが、逆に、百%にして、
「じゃあ、もしあなたの物ならどうしますか?」という問に、本気で答えさせる方法が、「引っ張り取った方の物」という、引っ掛け回答だ。

子供を本当に愛する母親は、子供を痛めてはいけないと手を離す。
大岡裁きは母親の愛情を見抜いて、白黒を付ける。
しかし、これは養育の権利の妥当性を判断しただけで、もちろん、DNA検査をしたわけではない。

これが、昔流の「道理」の考え方だ。物理的事実より、本当に必要な人は誰かを考える。
今日では、何ごとにおいても科学的であり、物理的事実やルールに基づいて、論理的に判断されるべきだと考えられやすい。

現代なら、DNA検査をすれば、手を離した母親の方が他人だったかも知れない。そうなれば、合理的に無慈悲な実の母親に渡される。
現代の悲劇は、クッキリと木が見られるようになったことだ。
そして、大きな森が見られなくなった。

木か竹かではなく、森という第三の視点こそが解決策であり、この場合の森である「愛情」といった、曖昧な「道理」を理解できなくなってしまった。その一方で、「愛」と言う杓子定規な言葉だけは虚しく氾濫する。

日中の母
アンケート調査の信頼性がどれほどのものかは別として、
日中共に、相手国に対する不信感が90%を越えているそうだ。
原発にしてもそうだが、へそ曲がりのせいか、常に少数派の立場に立ちたくなる。      →「支持率

日中の国民感情を激突させているのは、尖閣という小さな島だ。
この島が木か竹かの論争は、双方とも自説を確信している。
→「一衣帯水

しかし、一体、何のために、自分の物でなければならないのか。確かに自分のものなら、今日からどう扱うのか、何故これまで何もしなかったのか。もし、どちらの物でもないとすれば、第三者がこの島を爆破すると言えば、どうするのか。
そんな、基本的な視点が飛んでしまって、面子とか威信とかの言葉が飛び交い、その根拠として、「領土は国家の礎」のような論理が飛び交っている。

確かに領土は大切かも知れないが、国家の礎は国民だったはずだ。
領土のために国民の命を奪う様なことが、いつの間にか当たり前に思えてくるのが戦争の時代だ。

日中がもめて、アメリカは困り、日本にも圧力を掛けている。
この際、日本の論拠であるアメリカに、施政権とやらを返してしまって、米中で解決してもらえばいい。お手並み拝見だ。
それが第三の策だろう。    「妄言語録

現在のもめ事の発端は、アメリカと田中角栄の失策だ。


銀河の星

2013年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

7月。ようやく、本を裁断せずにスキャンできる、日本製のブックスキャナが出た。注文殺到で当分手に入らない。それどころか、プレミアが付いて取引されている。
PFUのScanSnap SV600は、オーバーヘッド読み取りを進化させたもので、いかにも、「日本製品ならこうなる」の期待を裏切らぬものだ。
しかし、長かった・・・

これまで、個人用のスキャナをあれこれ10台ほど使った。
本を断裁せずに自炊するため、海外製のブックスキャナも使ったが、あっけなく故障した。
日本企業にあちこち電話してお願いした。「日本製のブックスキャナを出して下さい」と。しかし当然、どこも出さなかった。

明らかに、目に見えるユーザーのニーズがあるにもかかわらず、日本企業は冒険をしなかった。
今回出た、SV600にしても、海外のベンチャーがデジカメを利用したオーバーヘッド方式を出してから、10年近く経っている。

ブックスキャナは、その気になれば様々な方式がある。それほど難しくない方式も考えられるが、日本企業は亀のように引っ込んでいた。オーバーヘッド方式に動きが見えてくると、ようやく開発を始め、凝りに凝った物を出してきた。まだまだ発展の余地はあるものの、ユーザーは殺到した。
日本企業が、いかにユーザーを無視してきたかを物語っている。

が、それでも、「さすが、富士通さん」と、感謝したい。ScanSnapが売れたのは、ニーズに的確に応えていたからだ。画素数にばかり拘って、客が求めることを無視し、ScanSnapが売れると、イヤイヤ形だけまねをしたような製品を出した、どこかのE社とは心がけが違う。E社ユーザーだっただけに、よけい煮えくりかえる。

数年前、やむなくScanSnapや海外製のブックスキャナを使いだしてから、敵意さえ感じる。今からでも遅くない、目覚めて欲しい

統一の不合理
日本企業は、ユーザに応えねばならないことは解ったようだが、革新を受け入れ、遊ばせる土壌は無い。(無くなった?)

しかし、大企業の保守性は、日本だけではないのだろう。大集団は大きくなるほど動けない。大集団を覚醒し、活性化させるのは、常に、取るに足りない片隅の落ちこぼれ集団だ。

中国が、統一と崩壊の歴史を繰り返してきたのも、階級型統一への強迫観念と、その硬直化を打ち破る周辺勢力や下層勢力との興亡の繰り返しだ。大帝国が、あっと言う間に崩壊する。

アメリカのような複合体は、一気に崩れることが無い。日本も東西の基本的な異文化の上に、武家時代の複合統治が、中身の濃い社会をつくった。ところが、明治の中央集権化の後、100年も経たないうちに硬直化して、自己再生できない体質となり、敗戦まで突き進んだ。
一元的なタテ組織は、必ず崩壊が待っていることを示している。

組織は小さいほど有効だ。そして、意思伝達はタテ一元化ではなく、銀河の星のように、無限の細胞のネットワークで動くことが、もっとも活性化する。
人類は今、ようやく、その時代の入口に立っているようだ。


些細な事

2013年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

NECが、スマホから撤退するそうだ。MEDIASを使っているので残念だが、反面、さもありなんと納得する面もある。

N-08Dを選んだワケは、携帯としてはバカでかい7インチだが、とりあえずタブレットとして使えるからだ。この直後、折りたためるN-05Eが出たのは残念だったが、何よりも、悔しがる講釈を聞いていた友人が新型を買って、得意げに見せてきたことが面白くなかった。

N-08Dの不満は色々あるが、小さな例を挙げると、充電用の卓上ホルダには、本体を置いた時、邪魔にならないように、わざわざストラップ用の凹みが付けてある。
卓上ホルダは、後で別会社が作ったものかも知れないが、本体を設計する時点で、接触充電部とストラップを同じ側に付ければ、当然、問題が起きることは解りそうなものだ。

こうした、基本的な配慮をしない一方で、オプションのホルダは、常識的なデザインの枠を出ず、細かな工夫で凹みを付けるという、「きめ細かいムダ」をしている。

家の設計の基本的な良否を見る時、トイレのドアの開きがどうなっているかを見ると、設計者の基本レベルが解る。外開きにドアを付けているような設計は基本ができていないのだが、希に存在する。*

ストラップと充電接触面を同じ面にするのは、これと同じことで、物を造る時、使用者の立場や日常を全く配慮していない。
しかも、この設計は、何人かの目を通しているわけで、誰もそれに気づかなかったことを表している。全員がヌケているのか、それともボーイング787的な、ジョブズのいない烏合の衆なのか。

本当に小さなことなのだが、全体の良否は、末端に表れる。
7インチ携帯や折りたたみ携帯のアイデアは良いのだが、人間を考えない物造りは「ものづくり」ではない。道楽だ。
しかも、アイデアが良いと言っても、既存常識の範囲で、ガラケーキーボードを持つスマホとか、携帯分離タブレットとか、15ゲーム状折りたたみ液晶とかの、思い切ったアイデアでは無い。

そんなことを思いながら使っているものだから、撤退すると聞いても驚かなかった。
近頃、日本の他の会社にも似たような問題が増えているが、製品だけではない。
その会社の健康状態は、受付や電話の応対、サービス担当など、末端の社員の態度に如実に表れてくる。これは、上層部が幾ら指導してもムダだ。むしろ、末端を見て、上層部こそが反省すべき問題だろう。



*
狭い空間を活かすホテルなどに多いが、
基本は、使用中開けられないため内開き


必ずある

2013年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

また、桜島が噴火した。ニュースでは、火山灰に悩まされる鹿児島の様子が映っていた。鹿児島の人は大変だと思うが、代々そこに暮らし、それなりに慣れている。
しかし、もし、富士山が噴火し、東京に火山灰が降ったら、こうはいかない。すべてが停止し、甚大な被害が出る。

テレビや雑誌では、常に富士噴火を騒ぎ立てているが、地震や津波の心配をよそに平気で原発を造ったように、実際に起こるまで、あり得ない事とし、実際に起こったら、「想定外」の大被害に為す術がない。

雪国の人は、大雪でも大きな問題なく暮らしているが、東京で5㎝も雪が降れば、一瞬にして大被害が出る。実際に何度も体験しているにもかかわらず、毎度、似たようなことを繰り返す。

東京の人間は、と言うより、災害列島の日本人は、災害と言う言葉に麻痺しているのかも知れない。実際に、目の前に無い限り、前もって有効な備えができない。大災害はただの「お話」で、心のどこかで、実際に来た時に考えようと、諦めているのかも知れない。

防災対策や訓練をいくらやっても、実際に起きた時に役に立たない対策は、ただの災害「祭」だ。
それどころか、訓練手順にこだわったあまりの、悲劇まで生まれた。

日頃から大雪が実際に降ってくる雪国の人は、大雪訓練などしないが、多少の大雪が降っても、生活が滞るようなことはない。
富士山が突然噴火しても、それを当たり前と思える日常の心構えこそ大切だ。そのためには、日頃から鹿児島の人のノウハウと心構えを、学校レベルで教えておくべきだろう。

もしも、ではなく、考え得る最大の災害を、必ず有ることととして、日頃から見せて聞かせることが大切だ。
東日本大震災でハッキリしたことは、非常事態には、事前の訓練より、釜石の「てんでんこ」の「心構え」教育の方が断然有効だった。

何が起ころうが、日頃から、それを当たり前のこととイメージし、一人一人が、自分はどうするかを考える習慣を身につけることの方が、型通りの訓練や、避難路より、よほど重要だ。災害はどういう状況で起こるか分からない。

桜島噴火と同じニュースで、海水浴中の海岸で津波が起こったらどう避難するかの実験を伝えていたが、心がけのある人なら、初めての場所に行った時、先ず、避難方法をチェックするだろう。

まともなホテルでは先ず避難路を教えてくれるが、何よりも自分で確認することだ。そして、どうにも逃げ場の無いところなら、始めから諦め、ここが死に場と観念するしかない。つまり、日頃から、それぐらいの心がけをすべきだろう。

助かるか助からないかは、「てんでんこ、てんでんこ」の自己責任だ。

災害だけではない。経済、医療、福祉も、「てんでんこ」を基本として施策すべきで、きめ細かさより、基本方針のシンプルさと柔軟性が重要だ。
高度成長期に大盤振る舞いをした日本の福祉バブル。一度ご破算にして、ゼロから組み直すことはできないものだろうか。


競技星座

2013年08月22日 | 占いばなし

今日は、イチローが4000本安打を達成した。
先日、たまたま映ったTVが、ヤンキース、レッドソックス戦、9回表7対3で、打席は4番。7番のイチローまで回るかも知れないので観ていると、2アウト2・3塁でイチローが打席に。

この時、イチローは、4000本安打を前に少し停滞していたが、日韓戦の土壇場でタイムリーを打って以来、完全に本物になった。
ここでも、何とかするだろう・・・
打った が、打ち損なって目の前でバウンド。ボールを見ながらイチローは、『しまった』という顔と同時に、全力ダッシュを始めた。

高く跳ね上がったボールをピッチャーが捕球して、一塁に素早く送球したが、その時、イチローはとっくに駆け抜けていた。 打点1。
観客席の「イチメーター」がまた一つ増えて、「3995」になった。

故意にボールに当たる様な野球をしながら、イチローにイチャモンを付ける人々は、「あんなのはヒットじゃない」と言うだろう。
しかし、これこそがイチローの「ヒット」だ。
能力と技と運。全てを出し尽くして「ヒット」を、もぎ取る。

おそらく、バウンドで跳ね上がった球を見たとき、
イチローは「よしッ」と、スイッチが入ったに違いない。いつもギリギリの勝負が面白いと言っている。

メジャーに、野球の複雑な面白さを思い出させたイチローには、記録以上の功績があるだろう。
故意に当たって塁に出るのも、一つの面白さかも知れないが、決してフェアプレイではない。乱闘と同じ、ショーの面白さかも知れない。

野球は乙女座、フットボールは・・・
日本で人気のスポーツ、野球とサッカーだが、おもむきが全然違う。
野球には「間」があり、選手も観る方も、一つ一つのプレイに計算が働き、考えることが一つの面白さだ。
サッカーには間がなく、全体的な流れの中で、感性と感性がぶつかり合う、直観的な、空気を読むスポーツだ。

ということは、野球は長子向きだが、サッカーは弟妹向きだ。
星座で言えば、野球は、緻密な計算と管理の、乙女座のスポーツだが、サッカーは何座なのかよく解らない。

発祥地やエネルギーの持続の面から、オヒツジ座かサソリ座かなとも思ったが、やはり、大腿部を表す射手座のスポーツだろう。
射手座はスペインや遙かな地を表すので、ラテン系や南米が強く、英独仏も射手座と相性の良いオヒツジ座だ。

双子座のアメリカにとって、乙女座は生い立ちと家庭であり、射手座は結婚相手だ。
野球は乙女座。器具を用いる頭脳プレイで、アメリカの創生期に学生が始めた。アメリカ人にとって、生い立ちに染みこんだアットホームなスポーツだ。
一方、フットボールは他人のスポーツで、それを受け入れるために、結果として、器具を用いるアメリカンフットボールとして受け入れた。

他人と結婚して、新しい人生を築いたのがアメフトだ。その結果、自分の生い立ちの野球より、相手の生い立ちのフットボール・サッカーより、アメリカで最大人気のスポーツになった。
・・・と、まあ、そういうことだろうか。

つまり、考える「間」のあるアメリカンフットボールもやはり、射手座のスポーツということになる。


一白世界(2)

2013年08月21日 | 占いばなし

九星一白は穴に例えられる。九星配置図の位置では最下位中央、最も陰にある隠れ穴だ。この位置に個人の本命星が回ってくると、独り悩み込んだり、小人閑居して不善を為す様なことが起こる。
今年は、五黄の年なので、各本命星が元の位置におり、それぞれが元の性質を発揮する。
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     九星基本配置関係図  この図を人体とも見る
          四と二は両手、九は頭、 三五七は胴体
           八と六は両脚、 一は推して知るべし
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政界の一白には、角さんこと田中角栄と、我らがアベちゃん安倍総理がいる。緒方貞子、アウンサン・スーチーと、錚々たる面々だ。
共通していることは、器用で、人気があり、信頼に足るバックがいる。人気があるのは、何よりも人の気持ちに気を配っているからであり、言うまでも無いが、この人達のバックとは、アメリカや国連だ。

The Ladyと称えられる アウンサン・スーチーだが、一白小説なら、国際社会が絶対権力で、ミャンマーが海坂藩、穴(自宅)に軟禁され、外部の助けを借りて打ち勝つ。一白そのままの図式だ。

一白の穴に墜ちないために
この一白の世界を念頭に置くなら、安倍政権にも気をつけなければならないことがある。
国民は、小さな穴の世界に、感情的に絡み取られてはいけない。
机上論の一白は、舞台設定はいじれない。だが、一白が当てにする天上の絶対権力者には都合がある。「運命」も、いたずらだ。
また、あまりにも緻密な作戦は、上手の手から水が漏れて堤防が決壊する。

一白の素早さで、最も手っ取り早い景気対策アベノミクスを成功させたが、これは一白の脳内世界の投影であり、小手先でいじれる金融だけだ。
何も現実は生まれていないのに、日本シアターの音と光りで、為替効果だけの結果が出ている。「天上権力者」の都合によっては、シアターは電源ごと止められてしまう。

面白いことに、安倍内閣を支えるシンクタンクも、馬が合うのか、やはり一白の清家篤だ。社会保障制度など、おそらく緻密な方策が出るだろうが、歴史の大局に立った、日本の大変身などは望めないだろう。それどころか、緻密過ぎる仕組みで固め、かえって、大破綻が来るまで、崩せなくなる。美しく改装工事をしても、構造の腐ったマンションはやがて崩れる。

また、すき間狙いで細部に緻密な一白は、妄想信念では不屈だが、理屈を越えた土石流には勝てない。舞台ごと押し流されてしまう。
つまり、怒濤の世界情勢や、中国のような大人口のエネルギーには、小手先の策ではどうにもならない。(勝負するなら、海外へも人気で)

角さんの日中国交から間もなく42年84年周期の中間決算だが、素早さにこだわって残した尖閣が、日本に突き刺さった漏水穴になっている。動かした途端、水が漏れ始めた。

一白世界(3)


一白世界(1)

2013年08月20日 | 占いばなし

NHKドラマ「七つの会議」は、面白かった。原作は読んでいないが、観ているうちに、『こりゃ、一白だな』と思った。
元の本との距離がどれくらいかは知らないが、どんなシナリオや監督の手を通しても、映画やドラマには、原作者像がどこかに残っている。

九星一白のストーリーは感傷的な扇情をベースに、逃れようのない世界で人間が葛藤する話が多い。しかも、言葉巧みにその世界に引き込み、多くは、運命とか絶対権力者とかの存在で苦しめられる。その上で、得体の知れない実力者に、弱小な一個人が立ち向かい、打ち勝つ。

一白水星は水であり、智の星だ。智恵は湧き出る水に例えられる。
何も無い時でも、智恵は無尽蔵であり、智恵こそは人間の武器だ。
智恵の星一白は、この、無から有を生む水の世界に生きている。
そして、想像力は一方で、妄想の世界でもある。

一白の犯罪に色情犯罪が多いのも、人間の素朴な欲望が、湧き出る妄想と現実を区別できなくするからだ。
また、周到な保険金詐欺なども多いが、トリックを練り上げる妄想力が、あまりに暴走すると、不自然さによって発覚する。

現実がヒントだとしても、後は一白の妄想の世界だ。一白の小説に引き込まれるのは、感情が想像力と融合し、信念に変わった世界を、作者自身が、現実と信じて語るからだろう。読者を感情で素早く絡め取る。

この点、同じように話のうまい三碧とは、いささかカラーが違う。
三碧の場合は感情にのめり込むことはなく、むしろ、行き当たりばったり、思いつきのサプライズを追求する。猫だましの世界だ。
したがって、一白の方が深く長い心酔で涙を誘い、三碧は驚き怒りなど瞬発的な感情を積み重ねて、最後には何も残らない。

「七つの会議」が、面白かったのは、ドラマではなく、筋立てとレトリックだ。次々と、いかにもの展開をする。裏にはさらに裏がある。
話が進むほど、一白の世界としか思えない複雑さ。しかも、突き放して見れば、何のことはない、将棋盤上の争い、コップの嵐だ。
何も、その設定や枠組みに義理を立てることもないのに、作者の設定とルールに従って、小さな世界の中で気を揉んでいる。

一白の掟
一白の世界は、全ての設定を自分の脳内で固める。徹底して自前の世界だから、一端、引き込まれると目を覚ませない。

調べてみると、原作者の池井戸潤は、やっぱり昭和38年の一白だった。
近年のベストセラー作家で、同じ一白には、藤沢周平がいる。
「七つの会議」だけで言えば、東京建電は、藤沢周平の海坂藩だ。親会社は幕府であり、その「上位権力者」にバレてはまずい失態を隠そうとする。

天上権力者には抗えないから、抵抗しても迎合か昇天しかない。
しかし、絶対権力者の下にはまた、力の支配構造、派閥がある。
この現世の権力構造を打ち破るのは、小さな漏水穴が堤防を決壊させるように、敵の構造の盲点を突く情報戦が主戦場となる。最後には、絶対権力者の力で、腐敗権力を裁いて貰う・・・

これが、一白の世界だ。先ず、運命や絶対権力者の力を信じている。目の前の敵を打ち破るのは、情報と裏工作、心情に訴える味方作りによる、切り崩しだ。


開運作法

2013年08月18日 | 占いばなし

運を良くするために、手術をして手相を変える人がいるそうだ。
これは手相というものが解っていない喜劇だ。いや、悲劇かな。
手相はそれまでの生き方の結果であって、そこから未来は予測できるが、手相が運命を作るのではない。

能力も無いのに、骨董屋で金メダルを手に入れても、オリンピックで優勝したことにはならない。もっとも、これを家宝にして10代ぐらい後の子孫に、メダリストの子孫だと、ウソの栄光を残すことはできるかも知れないが。

人相も、過去が表れるものだが、整形で顔を変えれば、確かに有利な面が有りそうだが、邪道であり、必ず弊害がある。自分の顔は生き方で創るものだ。「四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」の通りだ。
同様に、改名にも多少のメリットはあるが、これも、悪銭身につかずではないが、実際にその運が無ければ、結局は使われることは無い。

また、家相にしても、確かに良い環境で暮らせば運は良くなるが、箸の持ち方矯正ギブスみたいなもので、何よりも本人に「その気」が無ければ、結局は、ギブスそのものを壊してしまうか、骨折や肩こり頭痛まで起こしてしまう。普通は、その前に使わなくなる。

どんなに良い家相の家に住んでも、住人の暮らし方や、心構えが悪いと、あっと言う間に悪相にしてしまう。
通路や階段に物を置いてはいけないのだが、どうしても安易に置いてしまうのが人情だ。(鬼門、裏鬼門に物を置いてはいけない)
建築基準法に則った建築でも、避難路に物を置き、火災で大量の被害者が出るケースは後を絶たない。これなどもその例だ。

こんな解りやすい例でなくとも、その人の生活の仕方、動線、物の持ち込み、訪問者のタイプ・・・等により時間が経てば、住まいはすっかりその人そのものになってしまう。大きいとか豪奢とかは関係ない。
立派な家でも、何となく小汚かったり、あばら屋でも楚々とした佇まいであったりする。

運命指標に細工をして運を良くしようと考えるのは、本末転倒だ。
開運を願うなら、占いが示す自分の運を、謙虚に受け入れ、その素材(資質と運命波)を如何に活かすかを考えるべきだろう。

開運に免罪符やあんちょこは無い。それを吹聴する占い師や祈祷師、霊感師や宗教は、全てインチキと考えた方が良い。例え、悪意は無かったとしても蒙昧だ。
占いの可能性を信じるからこそ、先ずこうした害毒を取り除きたい。

物事を掘り下げない人は、占いであれ宗教であれ、人生をガチャンコで買えると思ってしまう。その反対に、たかがガチャンコだとバカにする。

占いでも宗教でも、人間問題だ。それを知りそれを活かすのは、個人の目覚め、発願心であり、聞こうとする耳が無ければ何も始まらない。

手相の手術をしても運命は変わらない
生き方と運命に合わせて、また、それを相殺する線ができるだけだ


うなッ ! (後)

2013年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ウナギの出てきた日
吉野家の牛丼は、急拡張策失敗での倒産や、価格破壊競争に加えて、BSE問題まで重なり、トップの座を失ったが、それでもやっぱり、味は煮込み牛丼とは一線を画している。
ここまで言いながら、改めて、言えば叱られるかも知れないが、牛丼が特に好きなわけではない。ただ、時々、思い出したように吉牛が食べたくなるのだ。

近頃は肥満も気になるので、外食時には、カレーも牛丼も、ご飯の量を減らしてもらっている。ところが、店の若い人にはこの意味が理解出来ないらしく、ライス少なめと言っても、「軽いの一丁」と、言いながら、ほとんど元の姿のままが出て来る。

ある吉野家で、「ホントに、少なすぎると思うぐらい少なくして下さい」と頼んだら、牛肉まで少なくなって出てきた。
これに懲りて、それからは、ご飯をグラムで指定することにした。
それも、100グラムと言っても、結局は多めに出て来るので、初めから、50グラムと言うことにした。

先日、吉野家の前を通りがかったので、『そう言えば、また、280円になったんだ。ご飯50グラムで、肉だけ食べよう』と思い、店に入った。
3時頃だというのに、結構、客が多く、カウンター内を一人で仕切っていた女の子は、いかにもヘトヘトだ。

変な注文なので、成るべく小さな声で、顔を近づけ
「並、ご飯は50グラムにして下さい」と言うと、聞こえなかったらしく、
「はあ?」と顔をしかめる。
「ご飯を極端に少なめで、50グラムにして下さい」と、思い切って大きな声で言うと、アッサリ
「はい」

厨房に注文を通して帰ってくると、隣の客に
「お待たせしました」と、盆を置いて行った。
見ると、ウナ丼だ。

『そう言えば、吉野家がウナ丼、宣伝してたなあ』と、思いだした。
ウナギが絶滅危惧種になるような時に、不可解なメニューだ。
どうせ中国産に決まっている。どんな養殖をしているのか解らないのに、やっぱり注文する客がいるんだと、あきれていると、
「お待たせしました」と、牛丼が来た・・・と思ったら、ウナ丼だ

『エ、エ、エッ』と思ったが、見ると、ご飯はちゃんと極小だ。
聞き違えたらしいが、突き返したら、それこそまた、食料資源が無駄になる。ヘトヘトのバイトも可愛そうだ。
不本意かつ、複雑な心境だが、黙って食べることにした。
『まっ、良いか。こんな事でも無ければ、土用のウナギを食べることも無い。明日は丑の日だ。』

昔から、土用の丑の日にウナギは食べない。「丑と未」の理屈は解っているが、ウナギは業者のこじつけだ。(ウナギ病
牛を食べなかった時代に始まったスタミナ食だから、土用の丑の日ならウナギは止めて、今後は牛を食べればいい。殺生なら同じことだ。

しかし、図らずも、ウナギを食べることになったとは言え、中国の養殖事情を聞いているだけに、頭を切り換えるのに少し時間がかかった。
しばらく眺めていたが、もう、こうなったら、毒を食らわば丼までだ。

極小ご飯で、ほとんどウナギ塊となった丼に、箸を入れた。
やはり、吉野家。関東系なのか蒸し焼き風で、ふっくら柔らかい。少々やり過ぎぐらいだ・・・口に入れると、
情けないことに、『美味い』  こんな物は食べてはいけない・・・のだが。


うなッ ! (前)

2013年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

牛丼を初めて食べた時、なぜか腹が立った。おそらく、家畜扱いされているような気がしたからだろう。
70年代、新橋駅近くの吉野家だった。
それまでも、カレー専門店や、とんかつ専門店は普通に、カウンターの店があったが、牛丼屋は、何か良く解らない合理性に腹が立った。

それまでは、カウンターや立ち食いの店でも、店構えに気を遣い、提供する人間と客との間に、何かしらの接点があるような雰囲気があった。駅裏の焼き鳥屋にも人間味があり、人間が食べるところだった。

ところが、吉野家の雰囲気は、体験をしたわけではないが、闇市のメシ屋のようで、食い物があるだけで威張った商売をし、客も喜んでガツついている・・・そんな雰囲気だった。
あれこれ選べる余地などない。何もない時代の雑炊のように、牛丼しか無かった。見た目など毛頭考えていない。

首だけ出して、毎日同じものを食べる、養鶏場のブロイラーや、牛小屋の牛のような客扱いだ。これも体験したわけではないが、軍隊の食事の方がもっと人間的だろう、たぶん。

しかし、これは外食産業の本質を良くとらえたやり方だったらしい。その後、吉野家は大発展し、二番三番煎じが次々と現れて、牛丼が新しい日本食に定着した。
実際、牛丼を時々、妙に食べたくなる。アメリカのハンバーガーチェーンのような存在になった。

そうなると、牛丼のバリエーションも多彩になる。すき家、松屋は吉野家より、商法として食事にウエイトを置いている。うどんを提供し始めたのは、確か、なか卯が最初だったように思うが、関西発ならではの発想だろう。牛丼も甘口だ。

近頃では、牛丼のレトルトも定番になったが、ここまで来ると、吉野家の存在意義が改めて解ったような気がする。
吉野家は「吉野家の牛丼」の店なのだ。

後発の牛丼は実に様々なものが出てきたが、吉野家のシンプルな味は鯛の塩焼きのようなもので、余計なことが一切無い、肉とタマネギと米だけの美味さに徹底している。しかも、醤油味を活かした関東味の真骨頂だ。

好みだけで言えば、吉野家以外の牛丼は、牛丼ではない。
他社の牛丼は肉煮込みであり、肉ジャガならぬ肉タマだ。タマネギは初めから甘みが出るものだから、甘口に仕上げる必要はない。また、過剰に煮込んでもいけない。タマネギが死んでしまう。

肉とタマネギ
子供の頃、好き嫌いは無かったが、ネギやタマネギは苦手だった。ヌルリとする感覚が嫌いだった。
ところが、シシカバブしかない中東の食堂で、シシカバブを頼むと、皮付きのまま小ぶりのタマネギが、コロリとテーブルに添えられる。
『なんじゃ、こりゃ?!』と周囲を見ると、みな、当たり前のように皮をむいて、かじっている。それまで、何週間もケバブ料理ばかり食べて、むかついていたが、国境を越えると、この辛味のある生タマネギが初めて出された。猿のようにムくタマネギは、涙が出るほど美味かった。涙はタマネギの汁かも知れないが、とにかく感動した。
タマネギが好きになったのは、この時からだ。

タマネギと肉料理は切っても切れない。日本でタマネギが食用に栽培され始めたのは明治以降のことだそうだ。タマネギそのものは持ち込まれていたが、食べなかったらしい。という事は、結局、タマネギは肉食を始めてから食べ始めたという事で、それほどのベストマッチだ。

肉を活かすには、タマネギを成るべく生に近い状態にするのが、正道だ。吉野家はここを良く押さえている。
吉野家の調理法は色々と推察できるが、他社の、いわゆる牛丼は、基本的に煮込み料理と考えているようだ。

中国人が、料理とは火を通す物と考えるように、民族文化によって、料理には固定概念がある。
日本の場合、素材を活かす料理と言われ、基本的に生食か、生食風に仕上げるものだとされている。煮込みも欧米のペースト仕上げやソースと違い、形を残すのが基本だ。

生食へのコダワリは、活け造りや躍り食いに残り、火を入れるとなると、具材を同時に煮込んでいき、互いの味を染みこませ、型崩れしないように仕上げるのが良しとされている。
吉牛と、いわゆる牛丼が違うのは、この、食材の調和、同時煮込みの概念だろう。


情報秘書

2013年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ワシントンポストの買収が話題になっている。紙の媒体は20年うちに無くなるとも言われている。
そんなことは当たり前のことだ。   →「新聞

それよりももっと根本的に、ジャーナリズムそのものが消滅の危機にあることを、ジャーナリストは認めたがらない。
ジャーナリズムは、ネットの普及で受け手の変質が起こっていることに目を閉ざしている。

ジャーナリズムが生まれたのは、情報収集手段が少なかった時代だ。
拡大する世界に情報が追いつかず、情報収集を代行する商売が生まれた。そして、その情報に価値を付け、あるいは、その情報を利用し加工するのが、ジャーナリズムだった。

情報収集という特権を背景に、世論を誘導することに成功すると、やがて、読者を愚民大衆と見くびり、上から目線で指導するようになり、戦争まで扇動した。
その戦争が失敗すると、今度は戦争責任を政治家や軍人に押しつけ、自らは正義の神の子のような顔を続けた。

しかし、ネットと収録機器の発達で情報収集手段が拡張し、存在価値を失い始めると、カネ稼ぎに追われ、何でもありの煽りだけに埋没し、結局、自ら生命を断つことになった。
情報収集力が無意味化すると情報評価力までも失い、ジャーナリズムそのものも無意味になったのだ。

今や、あらゆる情報が無秩序に発信される。戦場から映像が、秘密のベールの内側から極秘情報が、いとも簡単に拡散する。
もはや、「見識あるプロ」の選別など、無意味になってしまった。
誰でも同等の情報に接し、ジャーナリストのご高説を賜らなくてもよくなった。ジャーナリストという、情報の神官が不要になったのだ。

新聞に替わるもの
では、新聞的な情報は不要になったのかと言えば、そうではない。
従来のジャーナリストにも捌けないほどの溢れる情報の中、むしろ、大量の情報を整理判別するツールは、さらに必要になったと言える。

これから必要になるものは、「ジャーナルソフト」だ。
これは、誰かが書いたネット記事の読み比べのことではない。
世界の現場からの生情報や、日々生まれるビッグデータを直接収集解析し、様々な価値指標で判別して見せる、情報アイテム、情報ロボットだ。

知識や情報を収集解析する学者や、情報の現場から情報を選別するジャーナリストの大半の仕事は、情報ソフトで間に合う。
情報知識を求める個人は、そうした専門家でなくとも、世界に遍在する情報を、情報ソフトによって瞬時に利用し、認識を高め、自分で判断することができる。創造性の無い学者先生は要らなくなるのだ。

これからは、「専門家」が書いた記事を通して世の中を知るのではなく、個人のための秘書、コメンテーターロボットがそれに替わる。
様々なアルゴリズムによって抽出された、純粋な情報とその意味を、各個人で知ることができるようになるだろう。
それにより、個の知的レベルは向上し、世界全体の認識も向上する。


何じゃあ

2013年08月13日 | 写真

バイクに掛けたブルーシートを外そうとしたら・・・

「ぎょえーッ !!!

見たことも無いものが、ある。
一瞬、生きものとは思えなかったから、「いる」と感じなかった。
掌ぐらいもあり、とにかく気持ち悪い

Photo

何だろうと、よく見ると、どうも蛾らしいが、こんなのは見たことが無い。
老眼で、最初は良く認識できなかった。
どうも、二匹が交尾しているらしいが、何しろ蛾が苦手だ
じっと直視しているだけでも鳥肌が立つ。
それでも、自分をなだめながら、携帯をとりだして写した。

それ以上は、『勝手にしてくれ』と、放って置いた。
終わればどこかに行くだろう








実はこれ(横から見ると)

Photo_2




熱中症か

2013年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

年々暑くなる。その一方で、年々老いていく。
だから、毎年、熱中症の危険が倍々に増えていく。

今年も暑い。
地下鉄を降りると、外の暑さを避けるために地下道を歩いて本屋に行った。目的の本が無かったので、そこからさらに1kmほど歩いて別の本屋に行ったが、ここにも無かった。

あきらめて、帰ることにしたが、来た道を引き返すより、ここからバスに乗る方が楽だろうと、バス停の時刻表を見た。
タイミング悪く、行ったばかりだ。

この陽ざしの下で待つより、地下道を歩いた方が無難だろうと、もう一度、地下に降りて、来た道を歩き始めた。
冷房も入っているので、地上よりはよほど涼しいが、歩いているうちに、意識が少し遠のいていくような感覚になって、景色がしっかり把握できなくなってきた。

『あ、まずい 熱中症にやられたかも知れない』
汗が身体全体から吹き出し始め、顔はビショビショで、視界がおぼつかない。
『いかん、こんなところで倒れてはまずいぞ。 気合いだ気合いだ気合いだ
そう、言い聞かせながら、歩いて行く。
地下道には、どこにも休むところが無い。ベンチ一つ置いてない。

行き交う人の、位置関係がよく解らなくなってくる。
景色が、にじんだ魚眼レンズのように収斂していく。地下道に響く人の話し声も遠く、何を話しているのかさえ理解できない。

とにかく、何処か座れるところにたどり着かなければ・・・
さらに足を速める。もう、一杯、一杯だ。
大きな声で話しながら、のんびり前を行く若者達に接近し、追い越そうとするが、もう、その話し声さえ理解できなくなっている。
『かなり、ヤバイぞ。 気合いだ気合いだ気合いだ

若者達の間を通り抜ける瞬間、耳元で大きな声が聞こえた。
中国語だった。

理解できないのは、体調のせいだけでもなかったのか。
そう、解ると、少し元気が出た。
ようやく、デパ地下の入口にたどり着いたので、そこから入って、喫茶に座った。 セーフ


食肉工場

2013年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

ついに、人工肉が出現した。
オランダの研究者が、牛肉の幹細胞を培養し、ロンドンで人工肉ハンバーグの試食会を行った。

iPS細胞は、医療ばかりに焦点が当たっているが、命のもう一つの重要問題、食料問題の解決にも突破口となる。

バイオ技術を駆使した農業は、植物栽培の大きな可能性が現実になっているが、iPS細胞の出現で、畜産の意味を全く違うものにする。
iPS細胞が出た時から言ってきたことが、海外では現実になった。
日本は一体どうしているのだ。
※だから言ったじゃないクジラ

農業は稲作だけではない。農産品輸出などと、呑気なことを言っているが、現実には日本の農業輸出など、海外勢に比べれば、全く太刀打ちできないレベルだ。
本気で産業転換、農業立国を目指すなら、人工肉の開発、肉の工場生産を、植物栽培以上に力を入れるべきだ。
この分野は全くの未開の世界であり、無限の可能性が待っている。

もちろん、積極的に発想を変えれば、植物細胞の培養による、新食料もあるわけだ。

技術者はよく解っていると思うが、政治家と一般常識が邪魔をして、この分野で発展するということが、話題にもなっていない。
掛け声ばかりのアベノミクスに魂を入れるなら、
「人工肉産業」に、大型研究費の投入をすれば、少なくとも、投資インパクトにはなる。いや、実際に急いで研究を進めれば、特許だけでも可能性が見込める。

国を待つまでもない、TPPに反対ばかりしているより、農業、畜産の組合自ら新分野の開拓に乗り出すべきだろうし、食品会社も手がけるべきだろう。こう言っている間も、海外の大手食料会社は進んでいる。

急げ 急げ 急げや急げ